中井 芳滝画「原田甲斐」

①歌舞伎絵:中井 芳滝画「原田甲斐」

寛文11年(1671年)年3月27(新暦5月6日)日仙台藩の内紛・伊達騒動(寛文事件とも)幕府が裁断。この席上で重臣・原田甲斐(宗輔)伊達安藝(宗重)らを斬殺し、甲斐も斬殺される。
 ①の画像は江戸時代末期から明治時代の大坂の浮世絵師
中井 芳滝画「原田甲斐」、演じる俳優は阪東寿太郎。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)その他詳細作品番号:016-2080 を参照。

伊達騒動は、17世紀後半、まだ割拠性の強い家臣団をおさえて、仙台藩が藩政を確立してゆく過程で起きたお家騒動であり、加賀騒動黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれている。
騒動は
綱宗隠居事件に始まり、寛文事件へと続き、そして綱村隠居事件にてようやく終止符が打たれる。一般に伊達騒動と呼ばれる場合には、寛文事件を指す。

巷説において伊達騒動は、おおむね以下のような物語が形成されている。
仙台伊達家の3代藩主・
伊達綱宗吉原高尾太夫(二代目万治高尾)に魂を奪われ、での遊蕩(女遊びにふけること。放蕩)にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐(宗輔)と黒幕である伊達兵部(宗勝)ら一味の仕掛けによるものだった。
甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(4代藩主・
伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸(宗重)は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭(忠清)邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正(重矩)の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る。
本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している。
しかし、当事件後、
歌舞伎人形浄瑠璃などの好題目となったが、当時は、こうした事件をそのまま上演することは禁じられていたから、北条織田今川などの時代に置き換え脚色した。
お家騒動を素材にしたものを「
御家もの」というが、奈河亀輔作「伽羅先代萩」(通称「先代萩」)などは、その代表的なものである。
浮世の流行おそのまゝに 

②外題:「伽羅先浮世の流行おそのまゝに 」
伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座代萩

②の画像は、外題:「伽羅先浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座代萩」、画題等は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座」となっており、絵師は、二代目広重、落款印章は、「応需広重筆」としている。「応需」とは、“もとめに応じること”であるため、自分の意志で書いたというよりも版元などに求められて書いたものという意味だろうか。
上演は明治1年 (1868年)4月。上演場所は江戸・ 加賀ツ原(※3参照)の
薩摩座での演目であったらしい。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)配役その他は詳細は、ここで、作品番号:100-7001と作品番号:100-7002 を参照するとよい。
この歌舞伎「伽羅先代萩」は、奥州の
足利家の執権仁木弾正(原田甲斐 に相当)や妹八汐(やしお)らが、足利家の乗っ取りを企む物語として書かれている。
題目の「伽羅先代萩」(めいぼく せんだいはぎ。通称:先代萩)の「伽羅」とは、特に良質の
香木の銘であり、武士は出陣する際に兜の中に香を焚き込めたということから,伽羅=忠義(※4参照)の武士となり 先代萩=古代の仙台地方における歌枕の地、宮城野に生える萩「ミヤギノハギ(宮城野の萩)」を表しており、「伽羅先代萩」が仙台藩伊達家のお家騒動を取材した作品であることを暗示している。
そして、そこには、忠義の乳母・政岡(千松の生母・
三沢初子に相当。初子は、綱宗の側室。しかし、綱宗は正室を設けなかったので、初子が実質正室のようなもの)と、その子・千松を登場させ、鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)と同年代の我が子・千松とともに鶴千代の身辺を守っている。
舞台では、逆臣方に加担する管領・
山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。
本作中最大の山場「御殿」の場面では、我が子を犠牲にしてまで主君を守るという筋書きは、
朱子学が幅を利かせた江戸時代に発達した歌舞伎や人形浄瑠璃の世界では常套の展開である(※5参照)。
「床下の場」では御殿全体がせり上がり、床下の場面となる。
讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく。
そして、女性中心からなる
義太夫狂言様式の前場「御殿」から一変して、せり上がりやすっぽん(花道の舞台寄りの七三と呼ばれる場所にある小型のセリ。※2参照)などの仕掛けを用い、荒事(※2参照)の英傑と妖気漂う男性の悪役が対峙する名場面である。
上掲の画題は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩」となっており、この画は、そんな「御殿」の場面から一変して、せり上がり「床下の場」となった場面を描いているのだろう。
政岡は「御殿」の主役であり、「片はずし(かたはずし)」(※2参照)とよばれる御殿女中役の中でも大役とされている。また仁木弾正は、悪の色気を見せる「国崩し(くにくずし)」(※2のかたきやくを参照)とよばれる敵役(かたきやく)の大役として有名。この舞台では、
岩井粂八が仁木弾正と、日替わりで正岡も演じている。
「伽羅先代萩」の現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の3部に分けることができるが、物語の概要は
ここ、を見てください。また、その史実については、Wikipedia-伊達騒動その他以下で述べる事項等を参照してください。

さて、史実としての伊達騒動に触れていこう。
陸奥国の仙台藩3代藩主伊達綱宗は第2代藩主(伊達氏第19代当主)・伊達忠宗伊達政宗の二男で嫡子)の6男であり、幼名は巳之介といった。
母が
後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。
6男であるが、寛永21年(1645年)、兄・
光宗夭折により綱宗が嫡子となった。存命の兄、宗良宗倫、は他家に養子に出ている。
そして、万治元年(1658年)、父忠宗の死去により、若年19歳で家督を継いだ綱宗自身は、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。
さらには叔父に当たる
一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の10男で、第2代藩主忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられた。これが綱宗隠居事件である。
家督は綱宗の世子(せいし。世嗣、跡継ぎのこと。
嫡男を参照)で、2歳の亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。
伊達綱宗・犬山焼

③左:伊達綱宗の肖像画。④:右:犬山焼(「犬山乾山」)ぐい飲み

上掲左③の画像、が伊達綱宗の肖像画である(wikipediaより借用)。また、右④は、私の酒器のコレクションより、犬山焼(作者:犬山乾山)のぐい飲みである。
犬山焼は、尾張
犬山の陶器で、宝暦年間(1751年~1764年)に犬山に近い今井村(愛知県丹羽郡に存在した村)で始まり、文化7年(1810年)に犬山城東の丸山に釜を移した。それで、犬山焼、別称丸山焼の名があるが、作風は”乾山”を模した呉須赤絵風なので”犬山乾山”とも呼ばれている。
突然こんな焼物の話を持ち出してどうしたのかと思うかもしれないが、このぐい呑は、私が現役時代、仕事で東北へ出張したおり、
花巻温泉の骨董屋で入手したものであるが、何故、東北のこんなところに犬山焼があるのかを主人に聞くと、主人の説明では、仙台の伊達藩主、「伊達綱宗公が別注で作らせたもので、非常に珍しいものである」と言って、以下の説明をしてくれた。
仙台・伊達藩の「伊達騒動」を扱った
山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は良く知られているが、この伊達騒動に登場する伊達綱宗は、先にも書いたような理由で「若くして、3代藩主となったが、叔父で一関館主・伊達兵部宗勝の干渉や家臣間の対立などで嫌気が差し酒肉(酒と肉。さけさかな。酒肴)に溺れていた為、徳川幕府によって、21歳の若さで隠居を命じられ、僅か2歳の亀千代(後の綱村)に家督を相続させた。そして、この綱宗は隠居後も酒に溺れていたようであり、このぐい呑は、この綱宗の別注により特別に焼かれた中国風赤絵写しの犬山焼で、綱宗専用の「御止め柄」である。酒の好きな綱宗は酒席にいた気に入った人達などに、このお気に入りの焼物をやったそうだ。」・・・と。これが本当だとするとすごい珍品である。と同時に、綱宗が相当な酒好き、お遊び好きであったようであることは推測できる。

伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、
吉原三浦屋の高尾太夫身請話やつるし斬り事件などの俗説がある(※3参照)。
見立三十六句選
⑤「見立三十六句選」より「右:三浦の高尾 左金吾頼兼」
上掲⑤の浮世絵、画題は「見立三十六句選」より「三浦の高尾 左金吾頼兼」。画像は、※1:「演劇博物館浮世絵閲覧システム 」より借用(拡大画像や、詳細はここ で、作品番号:500-2216「見立三十六句選」「三浦の高尾 左金吾頼兼」を参照)。
「見立三十六句選」は、
役者絵を得意とした人気絵師の三代歌川豊国(国貞)による人気演目と人気役者を取り合わせて描いたシリーズだという。
 「三十六句選」というように、単なる歌舞伎の名場面だけでなく上段には句の
外題、人物名、豊国の落款(落款印章は「一陽斎豊国」)、その隣には駒絵(挿絵参照)が描かれており、同様の人気絵が36枚あるようで、これはその一枚。
駒絵には、「君は今駒形あたり」の文字とその横に
ホトトギス(時鳥、不如帰)が描かれており、これで、「君は今 駒形あたり ほととぎす」という句になる。
隅田川にかかる駒形橋。この駒形(にごらずに”こまかた”と読む)の名は、駒形橋の西詰め(浅草寺の一部)にある「駒形堂」に由来する。
ここは古来、交通の要地で、
駒形の渡しのあったところ。
私の大好きな
池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』。その第1巻第4話「浅草・御厩河岸(おうまやがし)」(※6:「江戸観光案内:まち歩き」の御厩河岸参照)で、盗み金を小船に積み込んで逃げようとしたのが仙台掘.である。なんでも、江戸には二つの“仙台堀”が在り、一つは、深川の仙台堀川で、人工的に造られた川で、位置的には清澄庭園の南側を東西に流れており、名前は、かつて北岸に仙台藩蔵屋敷が在ったことに由来するそうだ。もう一つは、JR御茶ノ水駅周辺の神田川であり、ここに登場する仙台掘は、後者のJR御茶ノ水駅周辺を流れる神田川のこと。
神田川は、三代将軍
徳川家光の時に、江戸城東北の防備の必要から、仙台藩主伊達政宗に命じて掘らせた空堀が前身で、四代将軍家綱の時に拡幅し、平川の流路をこちらへ付け替えてから、神田川と呼ぶようになったそうだ。この神田川(小石川堀普請)(※7参照)の大工事を命じられたのも仙台藩主伊達綱宗であった。そのため、神田川の別名も「仙台掘」なのだそうだ(※6:「江戸観光案内:まち歩き」の仙台堀、また※8参照)。
このとき、若くして仙台藩主となった綱宗は普請場の視察の帰りに、遊郭へ足繁く通っていたといわれる。そのうち、高尾太夫もいつか綱宗公を深く愛するようになって、あるとき高尾太夫が綱宗公に書いたという手紙が残っているそうで。それが以下の名文だという。

「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。
御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。
御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。」
「忘れねばこそ、思い出さず候。」は、「私はあなたのことを思い出すことがない。それはいつもあなたのことを思っているために忘れることがないからです」・・といった意味で、なかなかの殺し文句である。教養の高かったといわれる太夫ならではの愛の表現だとされている。
また、明治中期に作られた「又の御見(ごげん)」という
小唄は、かつて高尾太夫が、館へ帰られる仙台候を乗せた船が、今頃は駒形河岸あたりへ挿しかかっているであろうと、綱宗公との後朝の別れを惜しんで口ずさんだといわれている句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」を取り込んで作ったもので「又の御見」は、“この次にお目にかかる日を楽しみに”の意だそうだ(※9参照)。
歌川広重の「駒形堂吾嬬橋」の画にも、五月雨の空に一羽のホトトギスが飛んでいるが(駒形参照)、この句の舞台もこのあたり。この句は、文芸・美術などの上で駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えている。
しかし、日本橋箱崎町にある高尾稲荷神社の説明では、どうしてもなびかない高尾太夫を綱宗が切り殺したという(※10)が、綱宗が高尾太夫を殺したという史実はなく、綱宗と高尾太夫との話は「大名を振った遊女」といった筋書きが面白かろうと、虚実織り交ぜての芝居話となっていったのだろう。
綱宗
逼塞(ひっそく)の理由として、綱宗公が普請の視察帰りに遊郭へ足繁く通っていたらしいこと、更には酒癖が悪く、藩主に就任以降これがひどくなり重臣達の諫言にも耳を貸さなくなった等が挙げられているが、遊郭通いは当時の大名には珍しいことではなかったとする説もある。
ただ幕命による普請の視察ついでに遊郭通いというのは、イメージとしては決して良いものではないが、そんな遊郭通いだけで藩主の座から下ろされるというのは、理由としては、少々弱い気がする。
ただ、綱宗に酒狂の悪癖はあったらしく、以下参考に記載の※3:「女たちの伊達騒動」には、"父である忠宗公に殉死した重臣
古内主膳重広は、死の間際、綱宗公の酒好きが将来心配であると語ったとされている。更に、逼塞を命じられた直後の奥山大学常辰の書状に、公が屋敷を堅く閉じ、酒を留めたことが記載されている。”・・・と、いう。
また、参考※11:「伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道」には、”
水戸黄門が「女中の召使方が荒いなど、綱宗の素行の悪さが噂されているが、幕府に知れてはもってのほかである」と、綱宗に自制を促すように伝えていた。”(綱宗を叱った書状が残っている)らしく、多くの学者も綱宗逼塞の最大の理由に酒癖の悪さもその一つとしてあったことは認めているようだ。
とはいえ、綱宗公が幕府から逼塞を命じられた本当の理由などその真実は明らかになっていないが、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士であったために、仙台藩と
朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗の酒癖の悪さをいいことに綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説も見逃せないようだ(※3参照)。
元々血筋的にも藩内で孤立していた綱宗だったが、二代忠宗が亡くなった後に、綱宗を擁護しようとする勢力が藩内に居なかった。
唯一、忠宗の死後頼りになるのは、母
振姫(徳川秀忠の姪)の存在だけであった。綱宗が家督を継ぎ仙台藩主に就任出来たのも振姫の御声がかりによってのもの。その、後ろ盾になっていた振姫は、忠宗が死去した翌・万冶2年2月5日江戸において53歳で浙去してしまったのが不運であった。
綱宗は母・振姫がなくなったその翌・万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで幕府により強制的に隠居させられ、正徳元年(1711年)6月7日、71歳で亡くなるまでの50年間を品川
大井の伊達家下屋敷で、作刀などの芸術に傾倒していったといわれている。

伊達騒動のもう一つの重要な事件、原田甲斐の大老酒井雅楽頭屋敷での刀傷事件の真実はどうだろうか。
伊達騒動は、言うまでもなく綱宗逼塞に端を発する政治的な権力争いである。
綱宗逼塞後、4代藩主には、わずか2歳の世子亀千代(後の綱村)が就いた。
初めは亀千代が幼少のため後見の座に着いた大叔父にあたる
伊達兵部宗勝(陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男。仙台藩支藩・一関藩の藩主)や最高の相談役である立花忠茂(筑後柳河藩第2代藩主。継室は徳川秀忠の養女で、伊達忠宗の娘・鍋子)が信任する奉行(仙台藩の役職に家老は存在しないため、他藩の家老相当職を奉行と呼称している)奥山常辰が、藩政の実権を握り、人事も政治も、伊達宗勝を無視して専横をきわめたが、同時に、伊達宗勝の藩主を無視した行為をも糾弾した。怒った伊達宗勝は寛文3年(1663年)7月、彼を奉行職から罷免した。
その後は、宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。
宗勝は監察(監督・査察すること。取り締まり、調べること。また、その役。)権を持つ目付(藩士や奉行の仕事や動きを観察する役人)の権力を強化し、奉行や家臣への影響力を強めてゆく。監視された奉行らは、本来は格下である目付の顔色を窺うようになり、目付の勢いは奉行を超えるほどになる。また、兵部を恐れる奉行の原田宗輔は、兵部とのつながりを深めて側近に加わる。
その中で諫言した
里見重勝跡式(あとしき)を認可せずに故意に無嗣断絶(跡継ぎがないため大名家を取り潰すこと)に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。こうして兵部は自身の集権化を行い伊達六十二万石の藩政の主導権を独占した。
尚、綱宗逼塞後、伊達宗勝と共に二代目忠宗の三男、当時の一関城主
田村 右京亮(宗良)が綱村の後見となっていた。しかし、田村は、人柄は温和であり人望を集めていたようだが、同時に気弱な一面もあり、才気活発な宗勝による専横を許すことになったようだ。
一方、それを憎んだ
伊達安芸守宗重(涌谷伊達氏第2代当主)が、幕府に上訴するのだが、そこへ行くには以下のような背景があったようだ。
藩主後見人とはいえあくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重をはじめとする藩内の有力者たちには容認し難く、藩内は両者の対立により混乱に陥った。こうした中で宗重は、家格・年齢的にも反宗勝派の筆頭格と目されるようになる。
突然の綱宗隠居から5年後の寛文5年(1665年)、かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の
登米領主・伊達宗倫(伊達一門第五席。伊達忠宗の五男。宗勝の甥)と宗重(涌谷伊達氏)との間に知行地境(領地)争いがおこる。
この争いは長引き、寛文9年(1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域の3分の2を登米領として裁断を下し、事態の収拾を図ったが、宗重はこの裁定を不服として、翌年藩に再吟味を訴えるが宗勝たちはこれを拒否した。
一方寛文6年(1666年)には、藩主・亀千代の毒殺未遂事件が発生(毒見役が死亡)、更に寛文8年(1668年)、今度は伊東重門(岩沼古内氏初代
古内重広の息子。養子となり、伊東家を継いでいた。)
と共に、宗勝暗殺の計画が発覚した首謀者・
伊東重孝(七十郎)が寛文8年4月28日一族共々誓願寺(※12参照)河原にて処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中の反感はますます高まっていった。
領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから宗勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。
宗重の考えを知った茂庭姓元(※13参照)や
片倉景長(通称小十郎)らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止(かんし。いさめて思いとどまらせること)したが、伊達宗勝派の専横を正したいという宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670年)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。
そして、寛文11年(1671月27日、両者は、
老中酒井雅楽頭(忠清)久世大和守(重之)等の面前で対決する。事件の性質上、決着の山場は公の評議・評定の席にある。
原田甲斐は幕府の評定を受けるため、他5人の仙台藩家臣と騒動解決を目的として大老・酒井忠清邸に召喚されたが、審問後、同じく召喚されて来ていた伊達宗重をその場で斬殺し、さらに宗重派の
柴田朝意と斬りあって双方ともに傷を負っていた。そこへ、聞役の蜂屋も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡したという。
関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の
一関藩は改易となった。
歌舞伎の世界を大観してみるに、ここで造形された原田甲斐の役柄は、ほぼ一貫して極悪非道の冷血漢だったと言ってよい。
御家騒動は藩にとっても名誉なことでは無いので、その関係資料は処分されることも多く、例え残っていても他見不許可の措置がとられるのが普通だろうから、実際の原田甲斐が極悪非道の冷血漢だったという証拠があるわけではない。
ただ、勧善懲悪を元とする当時の作劇術は、善玉を追いつめる「敵役」を必要としていたし、さらに、御政道批判を憚って他所事に仮託する事でかろうじて事実を語っていた当時の作劇術では、その劇の元になる事実の枠組を大きく変える事は許されなかった。
これが芝居になると脚色され、複雑かつ面白く筋書きが変わっていき、架空の人物も加えられ、あたかも実在の人物であるかのように印象づけられていく。
結果として、原田甲斐は、極悪非道の悪役に仕立て上げられることになる。

代表作の1つでもある『樅の木は残った』を書いた山本周五郎は、
「私は、自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は(殆ど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類いには、まったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかに、より強く私はかんじることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身近にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびがさぐりだされている筈である」と書いているそうだ(アサヒクロニクル「週間20世紀)。
だから、『樅の木は残った』では、極悪人として描かれることの多い原田甲斐も、そのようなヒロイックな存在ではなく、人間としての苦しみや悩みをもち、社会的な枠の中にあって、それに抗しながらギリギリの生き方を貫いた人物、悪名を負って藩を救った人物として描かれている。
Wikipediaによれば、伊達宗勝と原田甲斐(宗輔)との密接な関係は有名だが、「仙台市史・近世2・通史4」によると、原田を奉行に推挙したのは宗勝ではなく、藩主・伊達綱村のもう一人の後見人である田村宗良であり、この推挙に対して宗勝は「もし家柄だけで原田を奉行にするなら、心もとないから原田の詰番のときにはしっかりとした評定役をつける必要がある」と述べており、宗勝からは奉行としての能力を全く評価されていなかったとしている。ちなみに原田の正確な奉行就任の月日は定かではないが、少なくとも里見重勝の一件での書状で寛文3年(1663年)7月23日までには奉行に就任している。
他方で寛文9年(1669年)の仙台藩奉行の
古内 義如から田村宗良の家臣への手紙の中で宗輔は宗勝を大変恐れて、宗勝とその寵愛を受けた目附衆がおかしいことをいってもすぐ同意し、えこひいきや立身、威勢を望むところは奥山常辰と変わらないと指摘している。・・・そうだ。
時の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷においての裁きによって、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家だけでなく、、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、そのうえで、伊達家の御家は無事安泰となっている。
こう見てゆくと、悪の中心人物と云われた原田甲斐は酒井邸においてその悪政が暴かれた悔しさに伊達安芸に手向かっただけの、弱い人間だったような気がする。
今の時代でも、権力者に抵抗できず、その手先として使われ、びくびくしながら悪いことをしている人間は多いものな~。

参考:
※1:
早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム

※2:
歌舞伎辞典

 ※3:女たちの伊達騒動

 ※4:忠義 - 武士道 -- Key:雑学事典

 ※5:歌舞伎素人講釈>作品研究>引き裂かれた状況

  ※6:江戸観光案内

※7:
鬼平犯科帳 第4話「浅草・御厩河岸」 仙台掘・御茶の水

※8:江戸城のお濠めぐり

 ※9:又の御見 小唄清元教室

※10:高尾稲荷神社|中央区日本橋箱崎町の神社

※11:伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道

※12:「伊東七十郎重孝」の碑

※13:みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館鬼庭家の人々

その他:
歌舞伎の部屋:歌舞伎外題一覧