①八瀬の竃風呂『都名所図絵』 |
今日(4月26日)は「よい風呂の日」
「よい(4)ふ(2)ろ(6)」の語呂合せ。他に「風呂の日 毎月26日」 「露天風呂の日 6月26日」がある。
世界のお風呂の歴史も古く、紀元前1800年~1400年ごろに存在したクレタ島のクノッソス宮殿には、個人用のバスタブがあったそうで、当時の王様、ミノス王とその皇后后のための浴室だったそうだが、排水設備も完備された現在のお風呂と変わらないものだったそうだ。又、ローマ時代(4世紀頃)のお風呂は、大きな公共浴場、現在でいう温泉センターのようなものだったようで、「カラカラ浴場」(ローマ浴場)や「ディオクレティアヌス浴場」などが有名で、2000人~3000人収容可能だったと言うからすごい。当時は、このような浴場が社交の場だったといわれている。
一方、日本列島は、火山島のため、全国いたるところに温泉があり、太古の昔から、日本人は近くにに湧き出ている温泉に入浴していたようだ。
この自然に湧き出している温泉浴ではなく、室内でのお湯を使っての風呂は古来、温室・湯屋などと呼ばれ主に寺院を中心に発達してきたが、それは、6世紀に渡来した仏教の沐浴に端を発したもので、仏教では汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事とされ、「体を清める」という、宗教的儀式によるものから始まったものであった。
寺院では浴堂を備えて施浴が盛んに行なわれ、浴室のない庶民にも入浴を施していたのだ。東大寺や興福寺の「大湯屋」は有名で、現存しており、どちらも重要文化財に指定されている(※1、※2参照)。その維持費を賄うための特別の田地(湯田)も設定されていたそうだ。
このような宗教的なものではない風呂は、江戸時代初期までは、蒸し風呂が中心であった。しかし、つい最近まで、瀬戸内海地方には、石を熱くして、それに水をあて、蒸気をたてて入る石風呂というものがあった。同様の者として、京都・八瀬には、竃(かま)風呂というかまくら型、竃状の室の中に熱した石を敷き、水をうって、その中に入って汗を流すというサウナ式の風呂が、明治の末ごろまであったという。冒頭①は『都名所図絵』に描かれている八瀬の竃風呂の部分である。原画の課題図は以下参考の※3:「平安京都都名所図会データべース」の以下画像参照。
『都名所図絵』八瀬竃風呂( 八瀬)
同絵図巻之三75頁解説には、「矢背(やせ)の里は高野の廿町北にあり。天武帝、大友王子と位を諍ひて山城の北へ馳給ひし時、王子の軍兵追かけ奉りて射かけゝれば、御背に矢中けり、此ゆゑに名とす。〔又八瀬(やせ)とも書〕当所に竃風呂あり、天武帝の矢の跡平癒のためしつらひしを始とせり。〔今も竃風呂七八軒ありて、何れも国名を名乗る、竃風呂には青松葉を焼功能勝るゝとなり〕」…とあるようだ。
銭湯が急速に広まりを見せるのは江戸時代である。江戸時代になって風呂は蒸し風呂から湯風呂に変るが、その折衷型として、「戸棚風呂」があった。
![]() | ← ②「戸棚風呂」 |
「戸棚風呂」は浴槽が浅く、足を湯にひたし、体の方は湯気で暖めるが、暖気が漏れないよう入り口に、引き違い戸を設けた(②図参照)。これを改良したのが石榴口(ざくろぐち)と呼ばれるもので入り口を低くして蒸気の出るのをふせぐもので、銭湯にはこの方式がとられた。
そして慶長年間の末頃、今風なたっぷりの湯に首までつかる「据え風呂」ができ、一般庶民の家庭にも広まりを見せることとなる。当初は湯を桶に入れるくみ込み式であったが、後に風呂桶に焚口を設ける型の据え風呂(桶の中に鉄の筒を入れて下で火をたく)、「鉄砲風呂」(③図参照)が考案され江戸で広まった。又、桶の底に平釜をつけて湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かった。
江戸の銭湯は1591(天正19)年伊勢与市という者が銭湯風呂を建てたとあるのが記録にあらわれた最初とされている。そして、慶長年間の終わり(17世紀初頭)には、江戸の「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まり、銭湯は江戸っ子達の社交場ともなった。
当時、江戸などの大都会では、水や燃料の確保もさることながら、火災を起こすことを案じ、下級武士も含め一般の庶民は各自の家に風呂を持っていなかった。
この頃から、殆どの湯屋に湯女(ゆな)が置かれ、昼間の入浴客の垢流しなどをしていた。そして、夜になると、一般の入浴客を断り、脱衣場を座敷に代えて、湯女達は、三味線片手に遊客を待ったと言われている。
慶長年間の花形産業と化した湯屋は、繁盛し、やがて増築して、殆どの湯屋が2階建てとなった。この2階は、囲碁などを置いて、お茶などが飲める社交場として使われた。
天保年間に、幕府は、湯女が風俗を乱すとの見解から、湯女風呂を強制撤去した。又、江戸の銭湯は当初より男女混浴であったが、天保の改革(1841~1843)の際厳しく取り締まりが行われ、浴槽の中央に仕切板を設けたり、男女の入浴日時を分けたりもしたが、長年の風習は簡単には改まらず、実際に混浴がなくなるのは大政奉還で明治になり、在日外国人などからの批判もあり、明治23年(1890)の混浴禁禁止令が出されてからだという。だがなかなか守られなかったようだ(※4参照)。その後、大正時代になって銭湯の近代化がすすみ今日のような浴場に発展して行った。しかし、近年は、自分の家に風呂を持つ家庭が多くなり、銭湯利用客も減り、銭湯自体の数も減る。
今日では、銭湯もさまざまな趣向をこらし、サウナや気泡風呂も一般的となり、単なる健康面の入浴と言うより、楽しむためのものに変ってきている。
日本では、明治の中ごろ近くまで、男女混浴であったと言うが、私が、現役の頃、東北地方へ出張した時など、温泉旅館へ宿泊すると、脱衣室は男女別々であるが、浴場は一つとなっているところへ何箇所か泊まったことがある。今でも混浴のところがあるんだね~。
ところで、なぜこの入浴するところを、「風呂」などと呼ぶようになったのかご存知ですか?これには諸説があるようだが、民俗学者、柳田国男は、
「室(むろ)」が訛った言葉であるという説をとっている。先にも述べたように日本の風呂(浴場)は蒸し風呂であった。その室・・つまり部屋へ入るいうことから呼ばれるようになったらしい(※5)。
それと「風呂敷」はこの「風呂」から生まれた。風呂へ入る為に脱いだ着衣を包んでおいておくために使っていたものが、便利だと言うので、そのままの名前で、今日でも使われている。そして、今は浴衣(ゆかた)として、きているものも、混浴だった当時、蒸し風呂の中で女性が身に着けていた白衣だった。その名残りが今も浴衣という名前で残っているのだ。
兎に角、日本人は風呂好きで、昔は、熱い湯にどっぷりつかっていた。
川柳に「名が売れて 我慢し通す 熱湯好き」なんて読まれているように、今は、健康上、ぬるま湯に浸かる方がよいとされているが、昔は、真っ赤な顔して頭から湯気を出しながら、我慢して、長い時間湯船に浸かっていた人が多かった。
今日のこんな話、「ご馳走さま」なんて、言ってくれる人いると、うれしいが、この言葉も平安時代に行われていた接待「風呂馳走」(風呂を炊き、客人をもてなす)というものからきたものでもあるそうだ(※6)。これから「入浴後に」は、「ご馳走さま」・・とでも言おうかな・・・。
参考:
※1;奈良 東大寺・大湯屋(鉄湯船)【重要文化財】
※2:大湯屋興福寺
※4:【男女混浴】江戸時代のお風呂事情を画像つきでまとめてみた
※5:延寿通信第 98号 2011年 10月
※その他1: 「湯屋取締規則」及び「湯屋營業取締規則」に関する考察 - 立命館大学(Adobe PDF)
※その他2:11号 洗うを洗う ミツカン 水の文化センター