雪の日の井戸端会議
①歌川国亭筆『雪のあした』(部分)「雪の日の井戸端会議」の様子。

日本記念日協会に登録の6月2日の記念日に、「路地の日」がある。
 由緒を見ると「歴史と文化の町、長野県下諏訪町には、昔からの裏道や路地が多い。このかけがえのない路地を愛し、その風情を楽しみ、いつまでも残していこうと活動を続けている「下諏訪の路地を歩く会」が制定。日付は6と2で「路地」と読む語呂合わせから。」・・・とある。

かつては
中山道甲州街道が分岐する宿場として賑わった下諏訪町は、もともと信濃国諏訪郡の一部であった。平安時代には土武郷と呼ばれていたそうだ。
諏訪湖八島ヶ原湿原下諏訪温泉諏訪大社などがある観光地で、諏訪大社の門前町として栄えた。
諏訪大社の
下社(春宮、秋宮)の周りや諏訪湖湖畔に約20件の旅館が存在する。かつて宿場町(下諏訪宿)だった事から、かつての本陣などの建物や古い概観の旅館などが町並みを形成している。
木曾街道六拾九次 下諏訪宿(
歌川広重画)→ここ参照
明治維新後は製糸産業がこの地で勃興し、中山道を通じて上田佐久方面、関東方面へ生糸が出荷され要衝地として繁栄した。明治以降、芥川龍之介与謝野鉄幹晶子島崎藤村等が訪れかっての本陣に宿泊している。私も数度仕事のついでに寄ったことがあるが、いいところである。

国語辞書には、「
路地」というのは、家と家との間の狭い通路で、町の主要な道路「表通り」に面していない所で、路地の奥のことを、「路地裏」という。
の世界に「露地」がある。「露地」とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称((茶室の中から眺めるための庭ではなく、茶室へ通る道)である(一般的には露地とは屋根などの覆いのない地面のこと)。本来は「路地」であるが、江戸前期ぐらいから茶人の間では、「露地」の語をあてるようになった。このことは今日の本旨ではないので興味のある人は、ここ露地を見られるとよい。
表通りから横に入った細い道は「横町/横丁」(
ここ参照) とも言う。
江戸時代、都市の通りに面して建てられた
民家を表店(おもてだな)というのに対し、そのうしろの場所に建てられた家屋を裏店(うらだな)といった(表店と裏店の違い参照)。
裏店に住む人々は店借り町人であり、建物も殆どが平屋の
長屋づくりであった。裏店が発生するのは、17世紀後半、江戸の人口の稠密(ちゅうみつ)化に伴う現象であったが、文芸がそれを題材とするのはさらに1世紀以上後の文化文政の頃である。
1832(天保3 )年~1836(天保7)年に、刊行された
寺門静軒(てらかど せいけん。通称:寺門弥五左衛門)は、江戸末期の街の様子を綴った書『江戸繁昌記』(※1参照)に、当時の名所、生活風俗、娯楽などが、軽妙な漢文で書いている。
近世の中期
江戸の人口は100万を超えた(江戸も参照)。そのうち、町方人口は約50万人で、その連中が江戸の16%程度の町地にひしめいていたという(※2も参照)。
江戸時代、地方の人が、都市に流れ込み、細民(下層の人々。貧しい人々)化してゆくが、静軒は、彼らが形成する裏店の闊達な気分を見のがしてはいない。江戸市中では、裏店がどんどんふえ、道が曲折して裏店が建てられる。五軒長屋、十軒長屋が連なり、路地が通る。共同の井戸や便所。そこには、
儒者、坊主、職人、あきんど(商人)、雑多な人々が混ざり合う。
 托鉢から戻った坊主が、お上(かみ)のお救い米をほめたたえ、ひそかに上方を運んで罰せられる悪徳商人をののしって痛快がっていると、壁をへだてて、隣から声がかかる。「やめろやめろ、いくら米が高くたって一升が百両するわけではあるめえ。おれなんぞは、酒さえあれば満足。今朝もすでに五合はやった」と太平楽,に言ってのける。
女達は
井戸端会議のまっ最中。通りかかった魚屋を見つけ、しゅん〔旬)が過ぎた鰹(カツオ)を値切りはじめた。その場で鰹が切り身にされ、女達は車座になって、昼日中から酒盛りをはじめた。
大椀で酒をあおりながらの、大家(家主であるおおやさん)の娘の噂。「大家が朝早く出かけたがどこに行ったか知っているかえ」とお末。「なんでも芝居に行くといっていたが、じつは娘をお大名
へ奉公につれて行ったんだとさ」とお梅。「うそうそ、娘をあきんどのにするためにつれだしたのさ。あの娘、色は白いが不器量だねえ」「しっ、聞こえるよ」「聞こえたってかまうもんか。銭を出して家を借りるからにゃ、大家はあたし達の召し使いさ」。人もなげな高声とあげくの馬鹿笑い。
猥雑な活気にあふれた裏店を静軒は写している。冒頭①の画像は、歌川国貞筆『雪のあした』(部分)である。「雪の日の井戸端会議」の様子が描かれている。井戸は、長屋の女房達の社交の場である。雪の日の朝も井戸端に女達が集まっている。(①画画像、上掲文、週間朝日百科「日本の歴史」より引用)。
しかし、この作品は、江戸市中の繁栄ぶりを記すとともに、退廃した江戸文化をとらえて 為政者(政治を行う者)の無能を風刺したものであるため 、
天保の改革に際し、風俗をやぶる書とされ、静軒は武家奉公御構いの処分(奉公構参照)をうけ、江戸追放となり、以後、自らを「無用之人」と称して越後国北関東を放浪後、1860(万延1)年に武蔵国 妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に居を移し、両宜塾を開き多くの門人を輩出したという。『江戸繁昌記』は、漢文で書いてあるので読むのは難しい。同書の事や静軒のことについては参考※4が参考になる。
実験:明治三十五年ごろ病気になった妻を国へ帰してひとりで本郷(ほんごう)五丁目の下宿の二階に暮らしていたころ、ほとんど毎夜のように窓の下の路地を通る「花のたより、恋のつじーうら」という妙に澄み切った美しく物さびしい呼び声を聞いた。その声が寒い星空に突き抜けるような気がした。声の主は年の行かない女の子らしかった。それの通る時刻と前後して隣の下宿の門の開く鈴音がして、やがて窓の下から自分を呼びかける同郷の悪友TとMの声がしたものである。悪友と言っても藪蕎麦(やぶそば)へ誘うだけの悪友であった。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われる寺田寅彦の随筆「物売りの声」(※5:「青空文庫」 ここ)より抜粋。
この隣人は気違いだった。相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒乃至(ないし)無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。なぜなら、路地のどん底に辿(たど)りつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。
無用の侵入者は匙(さじ)を投げて引下る仕組であり、乃至は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は
浮世の俗物どもを好んでいないのだ。この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛に就いては物知りの仕立屋も多く知らなかった。
坂口安吾白痴」(※1」「青空文庫」ここ)より抜粋。
かって路地裏には、納豆や豆腐・牛乳、金魚など色々な物売りがやってきた。そして、女性たちは、井戸端会議で花を咲かせ、男達は
床机で将棋をしたりしていた。そして、そんな賑やかな路地に住む者は皆顔見知りであり、よそ者が来ればすぐにわかる。お金もなく貧乏な家が多いせいもあるが、鍵などかける必要はなかった。上の短編『白痴』の気違いは白痴と路地裏に住みつくが、お金は持っている人である。お金が十分あるのに無用の侵入者が入ってこれないような路地裏に住みつくというのだから・・・、本当は賢いのかも・・。

丘のホテルの 赤い灯(ひ)も
  胸のあかりも 消えるころ
  みなと小雨が 降るように
  ふしも悲しい 口笛が
  恋の街角 路地の細道
  ながれ行く

これは、戦後間もない1949(昭和24)年のヒット曲、
美空ひばりの「悲しき口笛」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)である。12歳の時に歌った、この曲が美空ひばりの実質的なデビュー曲ということになっている。
灯りが消え、路地の細道からかすかに見える丘のホテルの赤い灯は、明日に向かっての希望であり、戦後、復興のシンボルのようなものだ。
「あめ屋」横浜・山下町の風景
②土門拳の写真「あめ屋」横浜・山下町の風景。昭和37年。
上掲②はリアリズムに立脚する報道写真などで有名な写真家土門拳の写真「あめ屋」横浜・山下町の風景は、朝日クロニクル「週刊20世紀」”ふるさとの100年”より借用。
都会でも空き地や原っぱがいっぱいあって、子どもたちの格好の遊ぶ場となっていたが、路地裏や道路でも子供たちは日がな一日遊んでいた。特に、路地は家の中の延長線上のようなものであった。気を使ったり、遠慮したりすることもなかった。
その頃の遊びは、かくれんぼや鬼ごっこや縄跳びなど特別な道具を必要としなかった。大抵は、グループのなかに
ガキ大将がいて、威張っていたが、それでも、チビたちの面倒をよく見た。自転車で紙芝居屋なども路地奥に来て、飴などを買ってしゃぶりながら見ていた。
高度経済成長以降、原っぱや町にはビルや家が建ち、道路には車が溢れるようになった。空き地や原っぱが急になくなり、道路からも追い出された子供たちは、路地裏でしか遊べなくなったが、今では、そんな路地も減り、また、遊びの場は家の中となり、路地から子供の姿が消えて久しい。
今では、家の外で大勢の仲間と遊ぶ子供もなくなり、家では、夫婦共稼ぎで、親子揃っての食事も出来なくなった、孤独な子供たち、・・・実際に子供たちが、今どのような人間に育ってきているのだろう。毎日のマスコミ報道を見るのが辛い。以下参考に記載の※6:
「ムエン通信WebSite」や※7:「路地裏探検隊(写真館)」で、裏町の写真が見れる。今は少なくなったが、表からちょっと入った裏町には、まだまだその地の文化の臭いが残っている。
現役時代、出張が多いというより、出張が仕事のような私なども、最初の頃は、宿泊も表通りの大きな観光ホテルや観光旅館などを取っていたが、その地の良さが路地裏にあるのを知ってから、宿泊先なども裏通りにあるその地の人たちが利用している旅館などを取るようになった。そして、そんな旅館が見つからないときは、素泊まりのビジネスホテルなどを取って、その地の人たちが利用している料理屋や居酒屋を食事をし、仕事をした後や朝仕事先へ行く前にはその地を歩いて見聞するようにした。観光地などでも、裏通りを歩くと本当にその土地のことがよく分かるよ。
 
 
参考:

※1:
[江戸繁昌記]-早稲田大学古典籍データーベース

※2:100万都市・江戸の人口は世界一だった!?

※3:歌川国貞 @太田記念美術館

※4:八百八町の表裏『江戸繁昌記』

※5:青空文庫

※6:ムエン通信WebSite

※7:路地裏探検隊(写真館)

※その他:歌川 国貞初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館