「伊勢音頭恋寝刃」

歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の浮世絵(三代豊国作)


油屋騒動とは、寛政8年5月4日(1796年6月9日)夜、伊勢古市の・妓楼(遊女を置いて、客を遊ばせることを業とする店。遊女屋。女郎屋)「油屋」で、医師・孫福 斎(まごふく いつき)が酒に酔って起した刃傷事件である。
斎の相方で馴染みの遊女お紺が、斎の座敷がおもしろくなかったのか、途中で呼ばれて他の客の部屋に移り、その後なかなか現れないことに、侮辱されたと感じて憤るが、下男下女になんとかなだめられていったんは帰ろうとするも、玄関口で脇差を返されると、酒に酔っていた斎は、腹の虫が収まらなかったのか、下女の一人に切りつけ、ついで下男にも切りかかり、そのうち、狂乱状態に陥った斎は、お紺を探して部屋に駆け戻り、
脇差を振り回し、目の前に現れた人物に次々と切りつけ、3人を斬り殺し、6人を負傷させたという。
この事件は
伊勢参りに来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したそうだ。又、この騒動はたちまち大阪に伝わり、道頓堀の立作者(座付狂言作者中の第一人者) 近松徳三の知るところとなり、数日にして切狂言(きりきょうげん=歌舞伎芝居の大切り。江戸時代の歌舞伎で、二番目狂言【世話物】の最終幕。幕末以後の歌舞伎では、二番目狂言のあとにつける一幕物。)にしくまれ、伊勢音頭恋寝刃(いせおんど  こいのねたば)と題し、福岡貢(芝居での孫福斎の名前)を三代目坂東彦三郎によって、同年7月には大坂の角座で上演され、各地で好評を博したという。私は歌舞伎に詳しくはないが現在でも上演回数の多い演目だそうである。因みに、油屋騒動を起こした斉は逃げ切れず事件の10日後に自殺(27歳)。又、お紺はなんとか無事に逃げ伸びたが、49才で病死したそうだ。
文政13年(1830年)
四代目阪東彦三郎によって、孫福斎とお紺の墓「比翼塚」(ひよくづか)が古市町の浄土宗寺院「大林寺」寺庭に建碑されており、今でも、油屋騒動を題材に、舞台などが行われると、出演する芸人などが必ずこの菩提にお参りしているようだ(参考の※1:「大林寺ホHP参照)。 
冒頭掲載の浮世絵は三代豊国(
歌川豊国)による「伊勢音頭恋寝刃」。参考※2 :「三重県歴史の情報誌紙上博物館」より借用のもの(拡大図は第19話 歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃参照)。向かって左:福岡貢が刀を抜こうとするのを料理人喜助が押さえようとし、右端には油屋おこんが座り込んでいる。
この
歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』(4幕物、※3 「歌舞伎演目案内」の伊勢音頭恋寝刃参照)は通称「伊勢音頭」(ここ参照)とも言うらしいが、殺し場の惨劇は賑やかな伊勢音頭を背景としている。浮世絵にも背景に伊勢音頭が描かれている。のち夏芝居の人気狂言となり、とくに眼目の三幕目「油屋」は縁切りから殺しへの段取りと技巧が洗練され、独立して上演されることが多いようだ(簡単なあらすじは以下参考も※3を参照)。
江戸時代の伊勢に起った「伊勢音頭」と呼ばれるものは2種類あるそうだ。時代によって内容も違っており、
神宮に近い川崎とか古市には遊郭があり、そこで遊女に唄わせた音曲(「川崎音頭」や「古市音頭」など)と、もうひとつは現在、いろいろの伊勢音頭が集合して二上がりの三味線に合わせ「伊勢はでもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」という歌詞で広く全国的に歌民謡「正調伊勢音頭」である。


 私は、現役時代、伊勢には仕事でよく行ったが、その仕事先に古市と名のつく人がいた。本人の出生地である伊勢・古市の繁栄がおかげ参りと共にあったという話を聞いたことを覚えている。又、余談だが、「古市」の地名は古市場から来た地名ではないかと言う話も聞いた気がする。日本のの起源は、主としてその語源を探ると、身を清めて神に奉仕する「斎(いつき)」と言う語に結び付けられており「市場」は、古くから、日常のモノから離れた無縁の場として設定され、人の集まるところで催されてきたものであり、六斎日にちなんで行われる定期市「六斎市」などもこれと関係がある画これについてはまた別の機会触れることにしよう。
 
街道や宿場の整備が進んだ江戸時代、経済的なゆとりの出来た庶民は社寺参詣や名所旧跡へ出かけるようになったが、とりわけ、全国に広まった伊勢講(伊勢信仰に基づいて組織されている。神明講ともいう。)による伊勢参宮が盛んになり、毎年40万人前後もの人々(“お蔭参り”では数百万人)が、各地からお伊勢まいりに訪れたという。
外宮内宮の間であることから間ノ山(あいのやま)と呼ばれる道が昔の参宮道であり、古市はこの位置にある。この地に遊廓ができたのは江戸時代の初めで、それまでは丘陵にあるため水利が悪く民家もほとんどない杉木立の続くさびしい所であったが、当時の道路事情から、神宮以外にも鳥羽志摩方面 へ行くにも古市を通らなければならなかった。そのような立地(ここ⇒伊勢まるごと博物館』マップ』。伊勢市ホームページ)参照)から、古市は、伊勢参りの参拝客の増加とともに遊郭が増え歓楽街として発達した。初めの頃の娼家は貧相なものであったが年々盛んとなり、寛文9年(1669年)には時の山田奉行花房志摩守が風紀粛正のため遊女追放令を出すまでになったようだが、その後も勢いは止まず、ついに寛文・延宝の頃(1661~1681) 娼家は茶屋と称し、遊女は茶屋女あるいは茶汲女、茶立女と称して2人まで置くことが認められ、元禄(1688~1703)頃には高級遊女も抱える大店もできはじめたようだが、寛政6年(1794年) 古市大火により町の大半が焼失したようだ。しかし、その後、かえって妓楼の数は増え最盛期の天明(1781~1789)頃には、遊郭70軒、遊女1000人、大芝居小屋2を数える賑やかさで、古市の遊郭は、江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭、又、これに大坂の新町、長崎の丸山を入れて五大遊郭の一つにも数えられていたようだ。
寛政9年(1797年)に刊行された『伊勢参宮名所図会』(※4)巻之四の伊勢に向かう街道風景を描いた挿絵に見られる間の山や古市の賑わいの風景は、「伊勢に行きたい伊勢路が見たい  せめて一生に一度でも 紅い灯のつく 新古市で  心引かれた伊勢音頭」・・と伊勢音頭にもうたわれるように、参宮が信仰面に加えて娯楽的な色彩をもっていたことを表している。 「古市」の図(以下参照)

『伊勢参宮名所図会』巻之四「古市」の図

同「古市」の図には、「川崎音頭流行して是を伊勢音頭と称し、都鄙ともに華巷のうたひ物とは成りたれども、此の地の調は普通に越えたり…」との説明文があり、酒を飲む客たちを前に遊女たちが三味線に合わせ輪になって踊る様子が描かれている。

この古市伊勢音頭の発生は野村可通「伊勢古市考」によるものだそうだ。

古市では遊女の顔見世としての要素が多分で、たとえば代表的な備前屋だと、舞台は正面と左右におおきくせり出したもので、踊り手は左右より十名ずつ「よいよいようやな」と掛け声をかけて踊りながら、中央で行き違いになり、反対側の通路に消えていくものだったそうだ。参考に記載の※5:「野村可通著 伊勢古市考 - 花街ぞめき」※6:「亀の子踊り - 花街ぞめき」が詳しい。
※7「:三重県総合博物館 伊勢古市備前屋踊りの図」も参考にされるとよい。
亀の子踊り」 というのは、伊勢古市の遊郭で行われていた遊女による伊勢音頭の総踊りのことだそうだが、この名称は、京舞井上流に関わる文献にしか出てこないようだ。
この伊勢音頭も、明治時代になると三方がせり上がりの板廊下、拍子木の音と共に朱塗りの欄干が下からせり上がり、上から提灯や造花などが下がってきたという。以下は私のコレクションの絵葉書「伊勢音頭」であるが、明治時代のもののようだ。
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伊勢音頭
伊勢音頭1

絵葉書「伊勢音頭」①

絵葉書「伊勢音頭」②


当時、「参宮客の精進落としなどと称し 」、お楽しみの場として活気に溢れていた古市の遊郭は、十返舎一九の滑稽本の名作『東海道中膝栗毛』(※8)にも登場した。この滑稽本の初編『浮世道中 膝栗毛』』(品川 - 箱根)は、享和2年(1802年)に出版。これが当たったので、翌年、続編(箱根 - 蒲原)(蒲原 - 岡部)を出版した。『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、次の第3編(1804=文化元年。岡部 - 日坂。日坂 - 新居 )からで、1805(文化2年)出版の四編(荒井 - 赤坂、赤坂 - 桑名)、そして、1806(文化3年)になって『東海道中膝栗毛 五編 上 下 追加』(桑名 - 追分、追分 - 山田に伊勢めぐり)が出版され、ここで初めて伊勢めぐりが登場している。
一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、「名所図会」などによったのではと言われているようだ。いずれにしても、伏見-京都めぐり、大阪見物などが登場するのは、翌年の第六編以降のこと。だから、第五編では京を目指すものではなく、
宮宿から七里の渡し桑名に上陸し、;四日市宿を過ぎ、日永の追分で東海道から分かれ伊勢神宮に向かう(伊勢参宮道)旅だった。
弥次さん(弥次郎兵衛)と北さん(北八)の訪れる先々には実在する様々な業種の店や宿が登場する。伊勢詣にことを寄せて、当時の男の旅の目的は色気と食い気。旧参宮街道に入って小田の橋(古くからの外宮と内宮を結ぶ橋)を渡ったところの妙見町(今の伊勢市尾上町)の旅籠・藤屋に宿をとると、宿の主人の案内で早速古市の遊郭に遊びに行く。
お伊勢さんへの参拝が終わった後での精進落としが隠れた 「 お陰参り 」 の目的でもあったが、 弥次さん喜多さんの場合は、「まだ宮めぐりもせぬうちに・・・」と、多少の後ろめたさはあったようだが、もともと遊び好きのご両人「 今宵これから古市へ行こかいな 」 となる。
妙見町のではずれ辺りからの道は長い上り坂になり、この坂を尾部坂(おべざか)というが、「妙見町のつうげん(
通言)では古市へゆくを山へのぼる」と言うらしい。『東海道中膝栗毛五編追加』には、古市が大きく扱われている。
その中に、牛車樓の他に「千束亭(ちづかてい)の鼓の間、柏屋の松の間」など古市の妓楼の名が出てくるが、それぞれ著名な、伊勢音頭の大踊をする大広間を持っており、弥次さん喜多さん等は、「そのちづかやがよござりましよ」と言うことになり、宿の主人の案内でそこに行くが、弥次さんが女郎と一悶着をおこす。その時の様子など詳しくは、以下参考の※9 :「萬晩報」の『
東海道膝栗毛五編追加 十返舎一九』として、詳しく書かれている。
先にも書いたが、参考※1 :「大林寺ホームページ」にも “遊郭の中でも備前屋・杉本屋・油屋の遊郭が特に有名で、備前屋は古市屈指の大楼閣で、桜の間の伊勢音頭の総踊りが有名”とあるように、そもそも伊勢音頭を古市の妓楼で遊女の総踊(大踊)としてはじめたのは備前屋牛車樓(室内の調度が源氏車尽くしのためそう呼ばれた。)らしいが、一九の「東海道膝栗毛五編追加」には、何故かその名が出て来ず「千束屋」が選ばれた理由はよく判らないが、自分自身が利用したのがここだったのだろうか。兎に角、ここも伊勢音頭の大踊をする大広間を持っていたのだから大きな妓楼だったのであろう。
現在古市の街道沿いには油屋跡の標識意外当時の妓楼は何も残っていないが、その少し先に「東海道膝栗毛五編追加」の文中にも名前が出てくる「麻吉」が現在でも旅館・「麻吉」として営業を続けており、当時の調度品を展示し、伊勢音頭が踊られた大広間も残されているらしい(※10参照)。
東海道膝栗毛五編追加には、弥次さんと北さんが千束亭で遊んだ後で、以下の一説がある。
“かくて、妙見町に立かへりたるに、其日のそらのけしき、いと長閑なれば、いそぎ内外のみやめぐりせばやと、支度あらましにして立出るに、行ほどなく今戻りし古市のあがりくちに、はや見せいだして、めいめい小屋に、引たつる、
いにしへ(古)のお杉おたま(玉)が、おもかげ(面影)をうつせし女の、二上(にあが)りてうし(調子)    
「ベンベラベンベラチヤンテンチヤンテンチヤンテン」
トむせう(無性)に引たつるうた(歌)のしやうが(唱歌、声歌)は何ともわからず、往来の旅人此女のかほ(顔)にぜにをなげつくるを、それぞれに顔をふりよける“

狂歌にある「二上(にあが)り調子」とは三味線の基本的調弦法の一つ。伊勢音頭の元歌は、奈良時代に行基より唄を教えられ伊勢の比久尼(びくに。女性の出家修行者)らが歌った「間(あひ)の山節」だともいう。いつの頃 か尼僧姿が伊勢の地に不似合いと言うことになり、有髪の婦女子がこれに取っ て変わり、お杉、お玉という女性の名が伝説化していたようだ。
当時に唄われていた歌詞は、音数律的には七五調で内容は、念仏調の哀調を帯 びたものであったようだ。間の山とは、先にも述べた外宮と内宮の間の低い丘陵にある尾部坂で、この坂の途中で女芸人が唄を唄い、三味線の撥(ばち)で旅人の投げる銭を受けたという。

油屋騒動(Ⅱ)

油屋騒動:参考 へ