初代神戸市役所

市制及町村制」とは、地方公共団体として市・町・村の組織、権限、運営を定めた制度のことである。特に、1888(明治21)年の今日・4月17日に公布され、翌・1889年(明治22年)4月1日施行されて以降、1947年(昭和22年)までの本土の市町村を定めていた、市制明治21年法律第1号の前半)と町村制(明治21年法律第1号の後半)を合わせてこう呼ぶ。ともに1947年(昭和22年)の地方自治法の施行により廃止されるまでの大日本帝国憲法下における日本の地方自治に関する基本法であった。
 日本の国家機能(
行政)を執行するための行政区画としては、市・町・村の集合体より上級の行政区画の都道府県があるが、先ず、その成立過程を簡単に振り返って見ることにしよう。

行政区画としての府県は1868年(慶応4年・明治元年)の
府藩県の三治制に始まり1871年(明治4年)の廃藩置県により3府302県が置かれ、この3府72県を経て1889年(明治22年)までに3府43県に統合された。この間、1878年(明治11年)7月22日、「郡区町村編制法」とともに地方三新法を構成する府県会規則および地方税規則により自治体としての性格を得、従来の国の地方出先機関としての性格との二面性を持つようになった。
1889年(明治22年)2月11日に発布された
大日本帝国憲法(1890年(明治23年)11月9日施行)による立憲体制下において、自治体としての府県は1890年(明治23年)にプロイセン王国制度に範をとって制定された法律「府県制」によって規定された。一方、地方長官である知事以下、地方官庁としての府県の機構は勅令である「地方官官制」によって規定された。府県知事は官選(日本の政令指定都市区長に見られるように、国家などの行政機関の指名によって選出する方式。)とされ政党内閣または政党の影響の強い内閣の時期も含めて多くは内務省官僚が任命され、また内務大臣の監督に服するものとされていた。それに対して府県会は財政議決権を持つだけで与えられた権限の及ぶ範囲は狭く、自治体としてよりも国の行政区画としての意味合いが強かった。
第二次世界大戦中は更に政府の統制が強化されたが終戦後の1946年(昭和21年)の第1次地方制度改革(※1)で知事の
公選制が導入されるなどの民主化が行われ、最終的には1947年(昭和22年)の地方自治法の成立により現行の都道府県制に移行した。現在では、「1都1道2府43県」つまり、都が東京都の1、道が北海道の1、府が京都府および大阪府の2、県が43で、総数は「47都道府県」がある(詳しくは、府県制また、現在の都道府県誕生までの歴史的なことは※2。参照)。
さて、本題の、府・県の下に置かれた行政区画のことに移ろう。
1871年(明治4年)、政府は、府・県の下に区を置く
大区小区制を導入したが、これは、全国一律の戸籍を作るための準備として、戸籍法を制定し、その編製の単位として急遽、設置されたものであったことから、旧来の地域の様々な問題を自治的に解決してきた町村を否定したものであったため、不評を買い、その反省から従来の大区小区制を廃して、1878年(明治11年)の「郡区町村編制法」で、旧来の(郡町村の名称と区域は江戸時代のものを継承)を行政単位として認め、広すぎる郡を分割した上で、1人の郡長を置き、郡長は官選とされた。3府・5港(箱館〔函館〕、長崎、神奈川〔横浜〕、新潟、兵庫〔神戸〕)および、人口密集地などの都市域には郡から分離された法人格を持たない、新しい単位。)を置き、区会(議会)も設置された。
また東京、大阪、京都の
三都は勅令指定都市(政令指定都市の走りとも言えるか)に指定され、それぞれ複数の区が、そのほかの都市にはそれぞれ1つの区が置かれ、区長も郡長と同様、官選とされた。
区の中に置かれた町と村には戸長を置いた。戸長は
民選(国民が選挙すること。⇔官選)の後、府県知事の任命により就任したが、区長が戸長の事務を兼ねることもできた。
この郡区町村編制法にかわるものとして、1888年(明治21年)4月17日に、市制が、町村制とともに法律第1号として公布され、翌年4月1日以降に施行された。ただし全国同時ではなく、一部府県では1ヶ月〜10ヵ月半の遅れがあった。
市町村は、郡区町村制下の区町村と異なり、法人格を持つ地方公共団体となり、権限が拡大された。
この当時、市を代表するのは市会であり、現在のように市民から選ばれた市長ではなかった。
市には
市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制(※3のここ参照)によって市会議員を選出した。市は条例制定などの権限を持つ。
それまでの区の多くはそのまま市に移行した。市制施行後の三大都市(東京・大阪・京都)には、市が新設され、区が存置された。
「県」下の一般市では3人の市長候補を推薦し、内務大臣が
天皇上奏して1人の市長が裁可(「市会推薦市長」任期6年)されたのに対し、「府」下の三市(東京市・京都市・大阪市)には市長は存在せず府知事がその職務を兼務した(市制特例参照)。これら3市では、1898年(明治31年)10月になって、三市特例が廃止されて一般市と同じ市制を適用し、市会推薦市長が生まれた。市制中追加法律により、三市では区制が残された。
その後、1908年(明治41年)には、三市と同様に名古屋市にも区制が敷かれ、計4市に
大都市制度が導入されることとなった。又、1911年(明治44年)、市制改正法施行により、三市の区は法人格を持つこととなった。
大正時代になると、名古屋市のほかに開港5港の神戸市や横浜市も京都市と人口で遜色なくなり、「三市」という枠の意味がなくなった。そのため、1922年(大正11年)3月30日には「
六大都市行政監督ニ関スル法律」が施行され、東京市・京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市が六大都市とされた(記載順は人口順ではない)。国勢調査が開始した1920年(大正9年)10月1日には、神戸市の人口が京都市の人口を上回り、人口順は、東京市・大阪市・神戸市・京都市・名古屋市・横浜市となった。
神戸市誕生の頃の神戸

上掲の画像は、神戸市誕生の頃の神戸(画像クリックで拡大できる)。
諏訪山から望んだ市街地。やや右よりの建設中の建物は小寺邸〔現:相楽園。※4のここ参照〕。左ほぼ中央の八角形の建物は1882( 明治15)年に完成した県会議事堂(※5 参照)。つぎつぎと近代的な建築物がたてられつつある。明治20年代後半の写真である。因みに、1868(慶応3)年に神戸港が開港。貿易の拠点としてにぎわった港町は、1889(明治22)年4月1日に「神戸市」として新たな歴史を刻み始めるが、神戸市が誕生したときの人口は13万5千人(現在の約10分の1)、市域は現在の中央区兵庫区の1部〔神戸区、葺合村と新田町〕の約21k㎡の狭いものであった(画像及び説明文は、神戸市発行の「こうべ市制100周年記念」冊子より。わが町神戸の歴史は以下参考の※5:「神戸市文書間 :神戸歴史年表」を参照)。
六大都市では、市が執行する国務事務の一部について府県知事の許認可なしで市の実務実行ができるようになった(三市以外の区制施行については
政令指定都市#沿革参照)。
大東亜戦争中の1943年(昭和18年)、首都の行政機能を強化する目的から東京府と東京市を廃止して東京都を存置する東京都制が施行された。これにより六大都市から東京市が抜けたため、公的な「六大都市」は廃止されたものの、五大都市と旧東京市の範囲である東京都区部とを合わせて「六大都市」とする慣例はその後も続いた。
戦後の1947年(昭和22年)5月3日、
日本国憲法(新憲法)と地方自治法の施行によって市制、町村制、東京都制とともに道府県制も廃止された。
地方自治法は、地方自治の基本を定めた法律であり、
地方公共団体の種類、組織、運営に関する大綱を定めると共に、国との基本的関係を規定しており、地方行政にかかわる法体系の中核をなし、日本国憲法第8章で保障された「地方自治」(第8章 地方自治 第92条〜第95条)を法制化したものである(条文はWikisource、参照)。具体的には、知事公選化、選挙による公職の民主化の徹底、地方議会が地方の重要政策の最終決定者となった点、直接民主主義の導入など、旧憲法下の地方制度の根幹を一新したものであった。
近代国家に於ける民主制の原理は、自分のことは自分の意思で行うということを基礎にしており、憲法条文にわざわざ地方自治を加えたのも、民主制の原理のもとでは、地方自治においても、当然、地方のことは地方に住む住民の意思で行ってゆくということを基本にすべきだからであったろう。
明治憲法には、地方自治に関する規定は存在せず、地方制度は、中央が地方に対して優位する集権的なシステムがとられていた。
それが、新憲法において新たに設けられた地方自治の規定の趣旨に基づき、地方自治法等が制定され、地方自治の様々な制度が整えられた。しかし、国が地方行政に深く関与する戦前の仕組みが残存したことから、国と地方のあり方が、これまで繰り返し論議されてきた。
新しい世紀を迎え、地方分権の流れが加速する中、「地方自治の本旨」、地方公共団体の設置形態、条例の性質、住民参加の方式等が改めて議論の対象となった(憲法誕生と地方自治については※7参照)。
近年は、
広域連合中核市制度を創設した1994(平成6)年の改正、県や政令指定都市、中核市に1999年4月から外部監査を義務づけた97年改正など、重要な改正が続いた。
そして、1999(平成11)年7月には
地方分権改革を目指した大がかかりな改正(2000年4月1日施行)が行われ、この改正地方自治法は「新・地方自治法」とも呼ばれている。
この改正によって
機関委任事務は廃止され、国と地方の関係は「上下・主従」の関係から「対等・協力」の関係へと変わったようだが、それは、契約に近い関係であるが、この時の改革でも抜本的な税財源の委譲は実現されなかったことから、自治体には、それに十分応えるだけの財源が不足している。また、地域によってはそれを実行する上での人材が不足しているといったことの問題が残されているようだ(※9参照)。
近代国家成立過程において日本も、主権が単一・不可分であるとの理論のもとに権力を中央に集中する傾向があった。しかし、思い起こせば、江戸時代の日本は、中央では
徳川将軍家、地方では諸大名がそれぞれ統治を行っていたのだが、このやり方は、結構、多くの人が今やろうと考えている連邦制的な統治機構に近いやり方であったのかもしれない。
そもそも、中央政府が隅々まで管理を行うことは非効率であるし、また、国家の規模も大きくなっていること等から、出来るだけ地方自治に委ねた方が合理的だが、いずれのやり方にしても、「
中央集権」と「地方分権」には、それぞれ長所と短所が存在することから、国家の要求とを調和させた合理的な地方自治制度を、どのように確立すべきか、これからの日本の重要な課題である事には違いない。今、政府でも、遅まきながら総務省において、地域主権改革を推進するため地方自治法の抜本的な見直しおしているようだが・・・(※11参照)。
元・大阪府知事後、大阪市長を務めた 
橋下徹氏が地方分権を唱えて、大阪都構想実現を目指していたが、自民党など市議会での反発が強く大阪市民の理解も得られず市長を辞任、その意思は現・大阪府知事松井一郎氏や、大阪市市長吉村洋文氏に受け継がれているが、大阪都構想に一定の理解を示していた安倍晋三首相(理解というか橋本氏が擁立した維新の会が安倍氏念願の憲法改正に理解を示しているため味方につけたいためが本心か?)は、今、森友学園問題加計学園問題 などで揺れており、自分の身を守るのが精いっぱいの状況・・・。

大阪都構想は、橋下氏の大阪府知事就任により他地域に比較することのできないほど、大変な財政難に直面していたことが問題視され、この状況を打破するために現行法下の都道府県と政令指定都市間の
二重行政問題に着目、府市協調のもとこれを解消し効率化に向けた取組を 行うべきだ・・と言うことから始まったものであった(※10参照)。
かつての東京府、東京市を東京都としたように大阪府、大阪市を廃止し、新たに大阪都を設置するという都構想の是非については、色々意見のあるところではあろうが、大阪府の場合、政令指定都市として非常に力を持っている大阪市が府と協力してやっていかない限り、なかなか効率的な行政が出来にくいであろうことは理解できる。
地域の自主性と自立性を持った地域主権改革のためにはどうしても中央の政治家の協力が必要であるが・・、さて、どうなることやら・・・。
(冒頭の画像初代神戸市役所。
東川崎町にあった神戸区役所の建物が市制の実施によって、初代の市役所になった。のちの図書館として利用された。(画像は、神戸市発行の「こうべ市制100周年記念」冊子より)

参考:
※1:
終戦直後の第一次地方制度改革: 改正法律の立法過程をめぐって

 ※2:版籍奉還から廃藩置県まで(イッシーのホームページ)

※3:Web版尼崎地域史事典『apedia』

 ※4:神戸観光壁紙写真集:兵庫県と神戸市の地域別インデックス

※5 :兵庫県議会/議会探訪/議会のあゆみ

※6 :神戸市文書間 :神戸歴史年表

 ※7:日本国憲法の誕生:論点[6 地方自治] | 日本国憲法の誕生

 ※8::地方自治法大改正(2000年)4月に施行新・地方自治法)

 ※9:総務省|地方自治制度

※10:二重行政 - 大阪市(Adobe PDF)

※その他:法令沿革一覧 | 日本法令索引 - 国立国会図書館