歌川国貞向嶋堤ノ花并ニさくら餅
①歌川豊国画『江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅』

日本記念日協会(※1)の今日7月22日の記念日に「下駄の日」があった。由緒は、以下のように書かれていた。
” 下駄の生産業者などで結成された全国木製はきもの業組合連合会が、伝統的なはきものの下駄のよさを見直してもらおうと設けたもの。下駄の寸法に「七寸七分」など7の数字がよく使われること、雪道を下駄で歩くと漢字の二の字に似た跡が残ることから7月22日とした。 ”・・・と。

私は
下駄のことなどあまりよく判らないので、先ずは記念日を登録したとされる「全国木製はきもの業組合連合会」を探して、そこでいろいろ下駄のことを調べてみようと思い、ネットで検索してみたのだが、同連合会のHPが見当たらない。
仕方なく、まず、国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?・・と言ったことから始めようと、調べていると、 “主として木材や木材の利用に関する情報の備忘録、木のメモ帳」的な役割を目的として作られたサイト、その名も「木のメモ帳」:木の雑記帳(※2参照)の
46 平成下駄事情 のところで、私の知りたいことが書かれていた。
国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?といった統計データの所在を調べても、全国をカバーする生産団体がなく、都道府県別の生産量のデータも確認できないのが現状の様である。
かつては「全国木製はきもの業組合連合会」の名の団体が存在したというが、既に解散して現在は存在しないらしいく、そのため、名の知れた下駄の産地がある一方で、職人仕事として少量生産されるものが各地に存在するが、残念ながら全貌の把握されていないのが実情のようである。
しかし、広島県
福山市松永町(かつて広島県に存在した市:松永市)は下駄の生産量が日本一、あるいは全国生産量の6割を占めているとする情報が公的機関・団体、さらにはウィキペディア等を通じて広く流布していているのを確認したという。
この地はかつては価格の安い輸入材を利用して、機械化した大量生産方式によって、大衆向けの製品で高いシェアを誇った歴史があり、また、日本で唯一の「
日本はきもの博物館」を有することでも知られていたようだ。
しかし、この「日本はきもの博物館」は、下駄屋の主人
丸山茂助(後のマルヤマ商店)が、1878(明治11)年に下駄づくりを始めて100周年を記念して、1978(昭和53)年に開館したものだが、入館者減などに伴う収益悪化などを理由に2013(平成25)年11月24日に一時閉館しており、閉館後は、福山市が運営管理を引継ぎ、2015年度に再開したそうである(※3参照)。
この、松永町も、かつてのような大量生産方式の下駄生産はなくなり、その隣町の
本郷町でごく小規模な生産をしているらしい。
「広島県はきもの協同組合」(※3参照)に聞いてみると松永・
尾道府中などでの生産はあるらしいが、全国の生産量がわからないことから、正確なシェアは不明ということだそうである。かつてのような大量生産方式の下駄生産は既に滅びたが、元々、伝統工芸的な存在ではなく、消耗的商品であることから、存続してゆくこと自体が厳しいことのようだ。
既に廉価なものは輸入品しか目にしないことから、国内生産のシェアを云々することは、そもそも無意味になっているといった現実の様である。
 明治時代初期,松永では製塩業が盛んで、
を煮詰めるを使って下駄を作ったのが松永下駄の始まりといわれているようで、当時の主流は高価な材の下駄であったが,松永下駄は「安価な大衆の下駄」として全国に広がり,機械化による大量生産で1955(昭和30)年頃のピーク時には年間5,600万足の全国一の生産量を誇っていた。現在も日本下駄の約5割を占めていいるという(ここ参照)。

広辞苑には【下駄】は、2枚の歯のある台木に三つの穴(
)をあけ、鼻緒をすげたはきもの(はきもの履き物も参照)。歯には差歯と一木作りの連歯があり、また一本歯や三枚歯のものもある。〈日葡辞書〉。ただ、ぽっくり下駄のように歯がないものもある・・・とあった。
冒頭①は、『江戸自慢三十六興』の”
向嶋堤ノ花并ニさくら餅”(歌川豊国画。制作年・元治元年〔1864年〕)であり、花見の帰りに桜餅を持つ女性を描いているようだ(画像は参考※4:国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸自慢三十六興より借用。拡大図はここ参照)。
向島長命寺の門前で売られていた長命寺桜もちは、有名。
図①向かって左の傘を持っている女性は下駄、その隣の女性が履いているのがぽっくり下駄。ぽっくり、木履(ぼっくり)、こっぽり下駄、おこぼ等々、呼称は地方によって異なるようだ。①画像の女性が履いているぽっこりは下駄のように前後2つに分かれている二つ歯ぽっこり、三つ歯ポッコリもあるようだ。
下駄はいつ頃から履かれていたのか?
日本には
を用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や樹皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、緒が踵(かかと)まで覆い足から離れないように踵の後ろで結ぶ草鞋(わらじ)の3種がある。
下駄は中国及び朝鮮半島にもあるが、日本語の下駄にあたる言葉はなく、
木靴まで含めて木履という。
一説では木靴のなかでも
ゲキ(屐)と呼ばれる形状のものが、日本の下駄の原型になったという。
下駄は温暖な農耕地帯、特に稲作
農耕民族に用いられており、日本での出現も稲作の伝播と関わっていた可能性は考えられる。
イネおよび稲作技術の日本への伝播経路については、諸説あるが、いずれの経路にせよ、イネが大陸部から東シナ海を渡り日本にもたらされたことは、間違いない。
そして、日本で一番古い水稲耕作の
遺跡である福岡県板付遺跡や佐賀県唐津市菜畑遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕(押しつけられたり,圧力が加わったりしてついた形)、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路田下駄等が発見されていることから、その時期は、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかとなっている。
縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、その後、
弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始める。現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっており、最も有名なのが静 岡県の登呂遺跡 (弥生後期)であり、ここでも農具の田下駄が見つかっている(※5参照)。
田下駄は、今ではほとんど使われることがなくなったが、泥湿地(でいたくち)の歩行や水田の農作業などに着用された履き物の総称である。この田下駄は、稲作を基礎とする日本の生活文化史に おいて、農具としてだけでなく、履き物の起源を考える上でも重要な民俗資料でもあるという。
最も原始的なものは、一般に
ナンバと呼ばれる板型のもので、鼻緒がとりつけられておらず、平たい板に開けた穴に縄紐を通して足に結束した。
田下駄は、その用途から二つの系統があることが知られている。その一つは、深田の田植えや稲刈り、泥湿地の芦刈などの作業用であり、泥中に足が沈み込むのを防ぎ、作業を容易にするために使われてきた。
これらは、板型、
輪かんじき型、下駄型、足駄型など小ぶり のものが主で、地方によってナンバのほか、カンジキ、タゲタ、ブクリなど、さまざまな名称で呼ばれていたようだ。
もう一つは、
代かき、肥料の踏み込み、その後の代直しなど、田植え前の水田の代拵(こしら)えのために使ったものである。こちらは簀(さく)の子型、枠型、箱型など、概して大型で、オーアシと呼んでいた地域が多いようだ。
また、
猪苗代湖周辺の湿田地域のように、「なんば踏み」といって、代こしらえに板型の田下駄を使っていた地域もある。この地域のナンバは幅が1メートルほどもある横長のものだが、登呂遺跡出土のものは幅50センチほどでこれとよく似ているという(※6 参照)。
ところで,登呂遺跡から出土した田下駄の足板を例に見ると,緒孔の数が3つのものと,4つのものの両方が出土しているようだ。前者は板を縦長に,後者は板を横長に使い,足を中央にのせ,紐などで縛って固定したものと考えられているようだ(※7参照)。
田下駄「ナンバ」については以下参考の※8:「田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に」の論文で詳しく考察されている。いろいろと画像入りで考察しているので、興味のある人は読まれるとよい。
しかし、千葉県の
利根川流域で使われていたといわれる田下駄など見ていると、やはりこれが、日本の下駄のルーツではないか・・・と思われたりもするのだが・・・。参考※9田下駄を参照。以下がそれ。
6. たげた【田下駄】
そして、以下参考の※10:「万葉集7番歌『秋の野の歌』について 其の三」では、万葉集を題材に、田下駄の事についても触れているのでこれを参考にしながら見てゆこう。
履物の用途は、何よりも足の保護にあり、
万葉集に以下の歌がある

原文:信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之《奈牟》 久都波氣和我世(巻一四-3399)
直訳:信濃道(しなぬぢ)は今の墾道(はりみち刈株)(かりばね)に足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背(兄)
」には、原野を切り開いて農地にするの意味があり、「墾道」とは、新たに切り開かれた道のこと。「刈株」は、稲や麦を刈り取ったあとに残る根株。かりくいのこと。
この歌の意味は「信濃路(
信濃へ至る道)は今切り開かれたばかりの道。切り株に足を踏みつけないでくださいね。くつをお履きなさいよ、私のいい人。」・・と言ったことになる(訳については※11※12も参照されるとよい)。
当時の道の作り方はふた通り。踏み固めて側溝を作る、比較的整備された道。そしてもうひとつは、木を伐り、石をどけ、文字通り切り開いて作る道。
この歌に歌われている道は、後者の方であり、
伐採された木の切り株がむき出しになっている道を行かれるのですから、どうぞ沓(くつ)を履いていってくださいよ。あなたのことを心配していますよ。と、特に比喩などなく、ストレートな意図の表現であり、そういう意味では万葉集にあっては珍しく、愛情のやりとりを、そのままに言葉にした歌である。
特徴的な巻十四のなかで、これまた異色ともいえる愛の歌と言える・・と、万葉学者・奈良大学文学部国文学科教授の
上野 誠はMBSラジオ番組での「上野誠の万葉歌ごよみ」(※11の2011年4月17日)の中でこう解説していた。
又。下駄類の履物の呼称については、当初からゲタないし、ケタと呼ばれていた可能性があり、その状況証拠としては、第一に、万葉集に以下の歌が存在するとしている(歌は※12の
巻第十一 - 2644参照)。

 原文:小墾田之  板田乃橋之  壊者  従桁将去  莫戀吾妹(巻第十一 - 2644)
直訳:「小墾田の 板田の橋の 壊(こほ)れなば 桁より行かむ な恋ひそ吾妹(わぎも)」
この詩には、題詞:「
寄物陳思」とある。『万葉集』中の相聞の歌の表現様式は、3分類あるそうで、正述心緒歌(ただにおもいをのぶるうた)(心に思うことを直接表現する),寄物陳思歌(ものによせておもいをのぶるうた)(物に託して思いを表現する)の2分類と並び、物だけを表面的に歌って思いを表現する、いわゆる隠喩の歌を「寄物陳思」と云うそうだ。
以下参考※13:「訓読万葉集」では原文の「坂田の橋」は
略解に板は坂の誤りにて、サカタなり、サカタとせることは小墾田金剛寺坂田尼寺(中略)と云えり」とあるので、この歌は、「小治田の坂田の橋が壊れても 橋桁を伝ってでも逢いにゆくよ  だからそんなに恋しがるな 妻よ」といった意味になるのだろう。・・・としている。
※10:「万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三」では、家や
などで、柱や橋脚などの上に架け渡して他の材を受けるものを桁(けた,ケタ、ケの甲乙不明)という。
下駄は、人間を受けるために歯の上に板を架け渡された履物である。また、ケダ(角・方、ケは乙類)とは、方形を表す語で、副詞の
ケダシ(蓋、ケは乙類)はその派生語で、推量の語とともに使われて、きっと、おそらく、たぶん、もしかして、の意になったとされる(※14の けた,ケタも参照)。
和名抄』に、「兼名苑(※ケンメイエン=唐の釋遠年撰とされる字書体の語彙集)に云はく、屐〈音竒逆反、阿師太(あした)〉は一に足下を名づくといふ」とある。これが下駄の古称であり、板製履物の総称とされ、一般に、アシダと濁音で呼ばれている。
遺物ばかりでなく、平安時代に入ると、
清少納言の『枕草子』で、「帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐(アシダ)といふものをはきて」(一二四段、※15参照)などとアシダの語が一般的に用いられるようになっている。
以上から見て、下駄そのものの由来が大陸の木靴「ゲキ」にあると思われるが、呼び名としての下駄/
足駄は、935年前後に成立した『倭名抄』の「阿師太」が初出であり、木靴をはじめとする中国の衣装風俗の到来は古墳時代と推測されていることから、その間約500年ほどの空白期間があることになる。
ここで注目したいのは、
古墳時代中期(5世紀)の遺跡から出土した履物形の滑石製模造品である。以下を見られるとその画像を見ることが出来る。

古墳時代の神マツリ」のミカタ4 - 東京国立博物館

東京都野毛大塚古墳と、京都府鏡山古墳(与謝郡与謝野町金屋鏡山の丘陵端にある。※16参照)出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものである。
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりであり、いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘も相次いでいるという。
個々では、これらの出土遺跡は水を
濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴であり、まだ解釈には諸説(泥湿地で足を汚さない、又、清水を汚さない為?など)があるが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようだとしている。
参考※3「広島県はきもの協同組合」でも、歩行に用いられたものではなく農具の一つである田下駄から歩行用の下駄が生まれたとは考えにくく、歩行用の下駄の原型は先に挙げた古墳時代の古墳から出土した滑石製模造品や木製下駄にあるのだろうとしている。
先に見られた古墳時代の古墳から出土の下駄の画像をよく見ると、前の緒穴が左右に片寄ってあけられている(※3の
ここ参照)。
この前緒穴の片寄り、つまり左右の違いのある下駄は、現在でも日本以外の使用地にはみられることであり、いいかえれば、前緒穴が台中央にあけられるのは非常に日本的な特徴なのだそうである。この日本特有の形が出現するのは9世紀前半、平安時代初期のことだという。
奈良時代の都だった
平城京跡からはこの時期の下駄が80 点以上出土しており、台はほぼ長円形にととのってきており、長さも18~24センチのものが多くなる。そして前緒穴が中央に位置するものが約80パーセントを占めており、年齢や性別を問わず使用されるようになっていくことがうかがえるという。以下のブログを見てください。

(3)すり減るまで大切に - 奈文研ブログ - 奈良文化財研究所

木履(きぐつ)と並べられている下駄には前緒穴の片寄りのあるものと、中央にあるものがある。この中央に穴のある下駄へと変化していったのだろう。しかし、これらの出土例は少なく、田下駄のような農耕具としての下駄は別とし、履物として、の下駄は、宮廷、公家、僧、武士、庶民とその階層の用途によって発達していったが、下駄は、身分の高い人が使用しただけで当時まだ多くの人々は、草履や裸足で生活していたようだ。
武家社会となる鎌倉・室町時代には、宮廷、公家だけの履物と、新興の武士たちは鼻緒のついたはきもの-
草鞋(わらじ)・草履-を履くようになり、下駄の使用も増えていった。しかし、当時の履物としては、この草鞋や草履が中心であり、下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であったようだ。
「下駄」の呼び名の成立は
戦国時代と推測され、「下」は地面を意味し、「駄」は履物を意味する(履物については※17 :「履物概説」参照)。それ以前は「アシダ」と呼称されていた。
七十一番職人歌合』二十二番の返し歌に「下駄(あしだ)作り」の記述がみられる。
七十一番職人歌合二十二番

②七十一番職人歌合』二十二番。
左〔向かって右): 傘張 (かさはり ):右 足駄作 (あしだづくり)


上掲②の画像は七十一番職人歌合』二十二番。画は参考18:「東京国立博物館情報アーカイブ」より借用。同サイト(ここ)では拡大図を見ることが出来る。傘張(かさはり)には、「荏の油が足らぬげな」 足駄作(あしだづくり)には、「目のゆがみたるから、心地あしや」の歌が。そして、足駄つくりの姿が描かれ、焼火箸で、鼻緒の穴をあけている。
ただ、日本独自の履物「足駄」が初めて世に現れてから、徳川時代以前まで木製履物は形の上で、殆ど変化しなかったのは、打ち続いた
戦国乱世が、その余裕を与えなかったからだろう。
江戸時代に入って、
泰平が続くにつれてようやく形状に変化を示し、台にを塗ったり、竹皮やの表を付けたり、鼻緒に天鵞絨(てんがじゅう。ビロード)を用いたりと、着物とともにお洒落を意識したものになる。
一木作りの下駄には、江戸初期に今の下駄の直接の祖先にあたる杉製で差歯、角型。台の下をひし形に刳(く)りぬいてあるために歩くと馬の蹄のような音がしたという「
馬下駄」が現れるが、この「馬下駄」をさらに進化させ雨天だけではなく晴天にも履ける日和下駄である「駒下駄」の現れた元禄以降においては、広く男女の平装として用いられれるようになり、下駄の発達は最も著しいものがあったようだ。
そして、世俗が
遊惰となるにしたがって様々なものが現れた。安永天明の頃には、世の女性だけでなく、男性まで着物で踵をおおい、女性のように塗下駄を履いて、流し歩くようになったことから、一段と下駄の需要が増加したという。
こうした下駄の大衆化にともなって、流行の先端を行く通人の間では、同じ下駄の好みながらも一般の者とはいささか好みを異にしたようだ。
だが、一般の人たちが普段に下駄を履くということは未だ数は限られていたようで、文政元に刊行された『
江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋(竹の皮の草履の裏に獣の皮をつけた履物)は記載されているが、下駄屋という専門店は一軒もないという(※19参照)。
履物はこのころ草履.雪踏が一番多く履かれていたということができる。一般に都会では幕末までは草履が主であったし、地方ではほとんど自給していたようだ(※19参照)。
下駄も足駄も江戸では男子は角形を専用し、京都、大阪は高低ともに下駄、あるいは差下駄(差し歯の下駄)といい、また男女ともに丸形を専用していたが、江戸では、女性用は丸形であったようだ。
江戸時代後期の天保年間に
斎藤月岑が刊行した鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)『江戸名所図会』(7巻20冊、斎藤長秋 編輯)は、長谷川雪旦の挿図も有名である。
『江戸名所図会』の下駄屋の図

③『江戸名所図会』下駄新道の下駄屋の図


上掲の画は『江戸名所図会』の下駄新道の下駄屋の図である。原寸大拡大図はNo49参照)。
この『江戸名所図会』の書かれた江戸後期には、下駄屋も出来ていたようだ。
下駄新道、神田
鍛冶町の西の裏通りなり。『七十番職人歌合』のなかに月をよめる 足駄作 「山風の落ちくる露のふる足駄かたはれ月は木の間 なりけり」親長卿とある。
親長卿とは『
親長卿記』(甘露寺 親長作)であり、「画中詞」はこの中で詠まれている歌なのか?
鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあった(※21参照)が、その下駄を作っている店の様子を描いている。 店の一番右の部分では、丸太をのこぎりで切って下駄の台を作っている。それを左の部屋に運び、
で鼻緒をすげる穴を作っている。座敷では、商談の真っ最中なのか、算盤を出して交渉している様子。手前の路上では、板の上で下駄に漆を塗っている。
この当時になると下駄屋は原材料を加工するだけでなく鼻緒も販売し下駄の修理や歯入れも営んだようだ。
右手から、太刀を持った男性2人が走ってくる。この刀は、相模の
大山参りに行き、刀を奉納するようだ(※22参照)。この鍛冶町二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物(打ち合って戦うための武器)を扱う業者が多かったのが特徴だったようだ。
男性は、裸足であるが、当時では、まだ、村・漁村・山村などでは、裸足が普通だったようで、特別な時以外は履物は使わなかったようである。絵の中で塗られている下駄は冒頭の①でも見られる「こっぽり」、後には、「ぽっくり」と呼ばれたもののようである。

1999年にドイツ、ベルリン東洋美術館(
ケルン)で発見され、化政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目されている『熈代勝覧』(作者不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻)の原画のレプリカが解説とともに、東京メトロ三越前駅地下コンコース壁面に2009年11月末から設置されている。 
画題の『熈代勝覧』は「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」の意であり、同絵巻物は、同様の『江戸風俗図巻』、例えば③『江戸名所図会』のように店内部を透視するように描くことはせず、文化2年(1805年)頃の
日本橋から今川橋(かって中央区千代田区にまたいで存在した竜閑川に架かっていた橋)までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、問屋や店に加え、行き交う人々を克明に描いた絵巻物であり、あくまで写実に徹している。行き交う人々の絵の中には、絵が小さくてわかりにくいが、よく見ると、振売りや、駕籠かき、武士の従者などに多くの「裸足」の人がいるように見える。Wikipediaにある以下の画像をまずはご覧になるとよい。

熈代勝覧全図

文明開化・洋風化が掲げられていたとはいえ、明治はまだまだ江戸の風俗を色濃く残していた。
 1901(明治34)年に
警視庁から「跣足(裸足)禁止令」が出され、東京市内においてペスト防止の為に自分が住んでいるところを除いては裸足で歩いてはならないと定められた。
それまでは、まだまだ裸足の生活が多く、特に子供ははだしで遊んだ。大人でも車夫・馬丁・車力その他の職工などの労働者の社会では、裸足で市中を往来する者も多く、特に雨のときなどは、
丁稚小僧が裸足になって歩いたり、一般の大人でも雨が降れば尻はしょりの裸足姿になって往来を歩く者が多かった。警視庁は、これを野蛮の風習としてペスト防止を理由に取締りの対象とし、禁止するようになったようだ(※23参照)。
ちなみに、以下参考の※24;「国立民族学博物館>近代日本の身装電子年表>」の”1901(明治34)年/7月/事件”には、
”1901(明治34)年5月29日、裸足禁止による一ヶ月余りの間の東京市内各警察署での処分者数は、 浅草署104人、下谷署31人、本郷署25人、芝署12人、牛込署10人、日本橋署4人、深川署2人の合計132名。〔報知7/7〕!・・・とある。
このように、一般市民の間で誰もが履物を履くことが一般的になってゆくのは、この禁止令があって以降のことであった。
下駄の歴史や下駄の種類などは、参考の※19を覗かれるとよい。
「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好(よ)く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上の御政事(おせいじ)とばかり極(きま)ったものではない。春の花見頃午前(ひるまえ)の晴天は午後(ひるすぎ)の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨の中(うち)は申すに及ばず。土用に入(い)ればいついかなる時驟雨(しゅうう)沛然(はいぜん)として来(きた)らぬとも計(はか)りがたい。尤(もっと)もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割(わり)なき契(ちぎり)を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ(ほろ)の中(うち)、しっぽり何処(どこ)ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題(それはさておき)日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返(こねかえ)す霜解(しもどけ)も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝(どぶ)の水を撒(ま)きちらす泥濘(ぬかるみ)とて一向驚くには及ぶまい。
 私はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。」
(永井荷風『日和下駄』より抜粋)
永井荷風は1915(大正4)年に、江戸の名残を求めた散策を主題として書いた随筆『日和下駄』を発表。その本文冒頭部分からの抜粋である(※25の青空文庫参照)。
永井は序文で、「東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。」とあり、その部分を抜粋したもの。
荷風 日和下駄

④『日和下駄』挿絵

左④の画像は、『日和下駄』への永井自身による挿絵である。
永井荷風、が蝙蝠傘を持って、下駄をカラコロ鳴らしながら散歩している。絵で見る限り、永井が履いている下駄は随分と歯の高いものである。「日和下駄」は、 足駄(雨天用)に対する意味でこの名がある。時期によって定義はいろいろとあるが、男物の場合は角形で台は桐(糸柾目が高級品)、長さ七
二〜三(女物は五分ほど短い)。歯は二寸二分程度がふつうで(大阪差し)、これを三寸三〜四分にすると(京差し)、足駄(高足駄)というようになる。
永井は上記本文冒頭にもあるように、突然の雨に遭遇することや泥濘を期にせず歩くことを前提に蝙蝠傘を片手に下駄を履いており、それは足場の悪いところを歩くのに都合の良い高足駄・・・現在の高下駄に相当するものだろう。
バンカラ旧制高等学校生徒が履いていたのもこの種の下駄である(朴歯の高下駄)。マント、弊衣破帽、高下駄が 高校生のシンボルとされていた。

下駄を鳴らして奴が来る
  腰に手ぬぐいぶらさげて
  学生服にしみ込んだ
  男の臭いがやってくる

我が良き友よ」 (唄: かまやつひろし、作詞・作曲:吉田拓郎)の歌詞(※26)の一部。
1975((昭和50)年に発表したかまやつひろしの代表曲「我が良き友よ」の歌詞に出てくるバンカラな大学生は作詞・作曲をした吉田拓郎の大学時代の同級生がモデルだそうである。
戦後の子供の半数ぐらいは学校へ行くとき以外下駄を履いていたと記憶している。私も下駄の愛好者で、今も下駄は2足、雪駄を2足持っている。
私の家は商売をしていたので駅に近い商店街の一角にあったので同じ町内に大きな下駄屋があって繁盛していた。
小学校高学年頃からは高下駄(当時書生下駄と呼ばれていた)が大好きだったので、どこへ行くのも書生下駄。家の裏山や時には神戸の
布引の滝なども書生下駄で登っていたので仲間がびっくりしていた。
「一本歯下駄(高下駄)」は、
天狗や修験者が履くイメージが強いが、二本歯でも丈夫な歯の高下駄の場合一本歯下駄と同じように1本の歯を使って登れば割と楽に登れたのが自分でも新発見であり驚いたのを思い出す。
私は若いころから和服が好きで、それで下駄や雪駄も揃えたのであるが、もう、着物は着なくなって久しく、浴衣のようなものでさえ着なくなっので、下駄は、箱に詰め込んだままの状態である。今は、
作務衣を愛用しているので雪駄は重宝している。
しかし、素足で履く下駄は雪駄より気持ちが良いのだが、大きすぎて嵩(かさ)が高く邪魔なのである。若い時のように、書生下駄が履きたいのだが、歳をとった今、ちょっと恥ずかしいし、少し小高いところに住んでいるので転ぶ危険性もあるのでもう無理だ。
足を締め付ける靴などと違って裸足で履ける下駄は開放的でとても気持ちが良いものだ。これからの蒸し暑い夏など最高なのだが・・・・。

参考:
※1:
日本記念日協会

※2:木のメモ帳:木の雑記帳

※3: げたのSITE

※4:国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸自慢三十六興

※5:米穀機構米ネット1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ

 ※6:両総用水のあゆみ - 農林水産省

※7; 田下駄 はどのように使っていたの- 教育出版

※8:田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に

 ※9:デジタルミミュージアム『分野』で選ぶ:むかしの道具:どうぐいちらん:(千葉県立中央博物館 大利根分館)
 
※10:
万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三

※11:MBSラジオ1179ポッドキャスト |上野誠の万葉歌ごよみ

※12 :ニキタマの万葉集●●万葉集全索引

※13:訓読万葉集

※14:ほつまつたゑ 解読ガイド

※15:原文『枕草子』全巻

 ※16:鏡山古墳

 ※17 :履物概説

 ※18:東京国立博物館情報アーカイブ-職人尽歌合(七十一番職人歌合)(模本)

 ※19:下駄の歴史 | 下駄・草履の通販なら趣味の下駄「みゆき本舗」