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上掲の画象は、日活の人気女優達が夏の日の照りつける海岸で水着姿を披露。向かって左から夏川静江、佐久間妙子、山田五十鈴滝花久子。1932年。(『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-1932年号より)。後年の大女優山田五十鈴もまだこのころはピチピチのギャルだった。粋で、奔放、妖艶・・・映画や舞台でさまざまな女を演じ、女優として初めて文化勲章を受けた(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)山田五十鈴が多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなられたの(95歳)は2012年の今日7月9日であった。
私は子供のころチャンバラが大好きで、そんなことから時代劇映画が大好きでよく映画を見にいった。そんな時代劇になくてはならない俳優の一人であった山田五十鈴も大好きで、最近のものしかないがチラシなども結構集めている。今日山田の忌日にあわせて、故人を偲びながら、そのチラシなど紹介も最後に少ししよう。

山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)は、大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町(大阪市旧四区町名一覧参照)出身。戦前戦後を通して活躍した日本を代表する女優である。
1917(大正6)年2月5日、大阪市南区で新派劇俳優の山田九州男(くすお)の娘として誕生。幼少時から常磐津清元舞踊などを習っていた。
品のある瓜実(うりざね)顔(ここ参照)の美貌を見込まれ、1930年(昭和5年)、13歳の時に日活に入社し、山田五十鈴の芸名で「剣を越えて」(※1)で大河内傳次郎の相手役としてデビューし、アイドル的人気を得た
以降伊藤大輔監督の「素浪人忠弥」「興亡新撰組」(Movie Walker参照)、伊丹万作監督の諧謔(かいぎゃく)と風刺の精神をもつ明朗な「ナンセンス時代劇」で、その先駆的映画表現が評価され1932(昭和7)年度キネマ旬報ベストテン6位を獲得した「國士無双」(1932年1月公開)など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。


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上掲の画象は映画「国士無双」の片岡千恵蔵、と山田五十鈴。Wikipediaより。 1934(昭和9)年、永田雅一が日活から独立して作った第一映画社へ移籍。1935年頃、二枚目俳優の月田一郎と親しくなり結婚。1936年3月に後に女優となる娘・瑳峨三智子を出産している。
1936(昭和11)年に溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936年0月公開)、「祇園の姉妹」(1936年10月公開)への出演(主演)により、演技を開眼、第一線女優としての地位を確立する。 

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上掲の画象は(1936年第一映画「祇園の姉妹」から。山田五十鈴(向かって右)と梅村 蓉子。 『朝日クロニクル週刊20世紀』 1936年号より。 >この1936年1公開された溝口健二監督の「祇園の姉妹」は京都の色町に生きる人情肌の姉(梅吉=梅村蓉子)と打算的な妹(芸妓おもちゃ=山田五十鈴)の姉妹芸者を主人公に徹底したリアリズム描写によって現代風俗を痛烈に風刺して好評を得、キネマ旬報ベストワンに輝いた。
それまで浪漫の色濃い明治物を発表してきた溝口監督は、この年の5月に公開された『浪華悲歌(エレジー)』で現代女性の転落を突き放した批判的リアリズムで描いて新しい境地を切り開いた。
その作品もベストテン3位に入り、溝口監督は自他ともに認める巨匠としての地位を築いた。この2つの作品ともに脚本は依田義賢、主演は山田五十鈴、製作は永田雅一だった。
私はこの作品を見ていないが、溝口監督はもともと山田五十鈴の起用を前提として原作を書いたとされ、山田も監督の厳しい演出に耐え「自立する女性」村井アヤ子を見事に演じきり、これまでの邦画に無かった女性像を演じた山田五十鈴には、高貴なまでの美しさがあったという(この2作品の内容とについては※2を参照。
永田が2年前に興した第一映画社は、この年(1936年)に解散。短命だった第一映画社が唯一残したのが日本映画史上に輝くこの2つの傑作だった。
この後新興キネマへ入社し、1938(昭和13)年に東宝へ移籍してからは、川口松太郎の出世作『鶴八鶴次郎』(『オール読物』1934年10月号に発表した短編。翌年発表の小説『風流深川唄』などとあわせて第1回直木賞を受賞している)を、成瀬巳喜男が映画化した同名映画の「鶴八鶴次郎」(1938年公開)で長谷川一夫とコンビを組み好演。この映画は新内芸人の悲恋物語である。
鶴八(山田)の亡き母親が新内の師匠だった関係から、鶴次郎(長谷川)は鶴八とは幼馴染だったが、芸の上では衝突を繰り返してきた。
結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、鶴八は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は鶴次郎との舞台に復帰し大ヒットする。しかし鶴次郎がコンビの継続を断る。それは鶴次郎の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、藤原鎌足(鶴次郎の番頭、佐平)など。それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた(※3のここ参照)。以下その1シーン、鶴次郎(長谷川)と鶴八(山田)。

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この当時映画では、時代劇が非常に人気があったのだが、東宝の俳優人には、時代劇こそ、その本領を発揮できるという長谷川一夫や大河内傳次郎が控えているにもかかわらず、時代劇としては熊谷久虎監督の「阿部一族」(1938年)が唯一高い評価を得たくらいで、本格的な時代劇がうまく作れておらず、「鶴八鶴次郎」や渡辺はま子の歌「支那の夜 (曲) 」(作詞:西條八十)のヒットを受けて作られた、日本・満州国合作の国策映画で長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(白蘭の歌」(1939年)、支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)などであった。

そんな時、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきた。その第1回作品として企画されたのが、川口松太郎が1939(昭和14)年10月から毎日新聞に連載し、私の大好きな岩田専太郎の流麗な挿絵(※4参照)と共に大好評を博した波瀾と怪奇に富んだ時代絵巻『蛇姫様』の同名映画化(※Movie Walker参照)であった。
この作品には長谷川一夫、山田五十鈴、入江たか子、大河内伝次郎など、かつての日活、松竹の時代劇大スターが総出演している。
悪家老の息子を斬って旅一座に逃げ込んだ千太郎(長谷川一夫)が、三味線弾きのお島(山田五十鈴)と恋に落ちる。前・後編ものの超大作で、興行面でも記録的なヒットをしたそうだ。
この映画も私自身は見ていないが、今の人が見た場合映画の内容としては余り評判は良くないようだが、ただ、花の盛りの山田五十鈴の美しさを称賛する声は多い。その美しさからは、山田が第一映画に移籍したばかりの18歳の時に月田との間に生んだ娘の女優瑳峨三智子 (1992年に死亡)を思い出す。彼女自身の出演した映画(1960年酒井辰雄監督)の題名から「こつまなんきん」(※Movie Walker参照)とも愛称された彼女も、母親に負けない妖艶なそして、絶世の美女であった。
「蛇姫様」の映画はその後、大映や東映で、市川雷蔵(1959年大映「蛇姫様」)、東千代之助(1954年東映「蛇姫様」第1部~第3部)、美空ひばり(1965年東映「新蛇姫様 お島千太郎」などの主演で再映画化されているので、内容そのものはご記憶の方も多いだろう。
市川雷蔵主演(千太郎)による映画化(1959年「蛇姫様」)では、入江たか子(第1部では原節子が演じていたらしいが・・琴姫を瑳峨三智子が演じていたのを思い出す。

その後山田五十鈴は、松崎啓次と台湾人映画監督・劉吶鴎(りゅう・とつおう.、→※6参照)らを中心として設立した日中合作の中華電影公司と、東宝が共同で制作した映画「上海の月」(1940年製作翌年公開)に、出演している。
この映画は、松崎の刊行した『上海人文記』を原作に成瀬巳喜男が監督し、1937年12月に上海に出来た日本のラジオ局、大上海放送局(※7参照)を舞台にした映画らしい。以下参考の※7 :「映画「上海の月」 映画旬報より」には、この映画について、以下のように書いている。
“反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。”・・と。
また、“山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)を読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜(スパイのこと)となり、後に新東亜建設(※8参照)の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。
ここに出てくる袁露糸(エン・ロシ)はテンピンルー(鄭蘋如)というラジオ局のアナウンサーとして活動した人がモデルらしい(※9参照)。
東アジアにおける電波戦争の中、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、日本政府の宣撫工作の目的も持っていたようだ。
いずれにしても、この時代には山田五十鈴など映画俳優もお国のために、このような国策映画への出演協力をしなければいけない状況にあったというわけだ。
ただ、この映画「上海の月」には西条八十作詞、服部良一作曲、という「蘇州夜曲」コンビで作った主題歌があり、その一つ「牡丹の曲」を主演女優である山田五十鈴が歌っている。

あかい牡丹の  はなびら染めた  踊り衣裳が  なみだに濡れるないちゃいけない  しな人形  春は優しく  またかえる 牡丹の曲 山田五十鈴-YouTube 晩年の嗄れ声の山田しか記憶にない人は驚くくらいきれいな声で歌っている。もう一曲も「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、同コンビによるもので、歌は霧島登渡辺はま子のデュエットである(※10参照)。

1942年、長谷川一夫と共演した泉鏡花の同名小説を映画化した「婦系図」(監督:マキノ正博)が大ヒット、男と女のドラマを情感こめて描かせたらの右の出るものはないと言われるマキノの作品。
この「婦系図」は、スリ上がりのドイツ語学者、早瀬主税(長谷川一夫)と芸者、お蔦(山田五十鈴)との悲恋の物語で新派の代表的な当り狂言である、流行歌にもなり、戦後にも3度映画化されている。
ただ、戦争中のことなので主税がドイツ語学者でなく、火薬研究の学者に、恋仇の坂田(進藤英太郎)がその秘密を外国に売ろうとするスパイになってアクション映画としての要素もある変な「婦系図」だが、それでも二人の愛のドラマの魅力をそこなっていないのが名匠の冴えである。山田が実に美しい。

太平洋戦争へと突入後、社会は戦時一色に変貌。映画も国策映画に限られるようになり、コケティッシュな魅力が身上の山田の出番は少なくなり。山田は、1942(昭和17)年から長谷川と実演の演劇を行うために新演伎座を結成。同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、旗揚げ(第一回)公演を打った。
演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった(※11参照)。しかし、戦局が深まった1944(昭和19)年、最終公演を行い、戦後解散する。

戦後、1946(昭和21)年に活動を再開、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』(※12)を公演する。
しかし、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝に東宝従業員組合(従組)が結成されたのは1946(昭和21)年2月のことである(東宝争議参照)。
同年3月から4月に第1次争議、同年12月に第2争議。組合は、この2つの争議で組合結成の承認、経済要求、映画の企画と経営に参加する権利を得た。
そんな中、大河内伝次郎(当時48歳)、長谷川和夫(38歳)、山田五十鈴(29歳)、原節子(24歳)らが、11月、スト反対声明を出し、組合を脱退、約450人が新東宝をつくる(東宝の経営は悪化し、1948年、4月8日1200人を解雇。第3次争議へと発展した。)
この間、新東宝の設立第1作で市川崑監督(当作品で中村福の名で構成、監督デビュー作となる)の映画「東宝千一夜」(1947年2月公開)に長谷川、山田は主演の藤田進らと共にそろって出演。長谷川とのコンビではこの後も多くの映画に出演している。
また、松崎啓次製作、衣笠貞之助にとって3作目の映画作品、現代劇で、しかも新劇の誕生のころに存在した生々しい恋の物語「女優」(東宝)で松井須磨子役を演じ、映画女優として飛躍を遂げる。この映画では、新劇の演出家土方与志が映画俳優(島村抱月役)として はじめてカメラの前に立ち山田と共演している。
当時、山田は、妻子ある衣笠と同棲中であったが別れ、その後、1950(昭和25)年民芸の俳優、加藤嘉と結婚(3年後に離婚)。この頃から、映画出演の合間に舞台に立つようになる。
1952(昭和27)年、加藤と現代俳優協会を設立、独立プロ作品にも多数出演している。東宝争議以降の山田はこのころ、左翼的な思想に染まっていたようだ。
同年に中央官僚組織を舞台に戦後日本社会の暗部を描いた渋谷実監督の「現代人」、タカクラ・テルの歴史小説『ハコネ用水』(箱根用水=深良(ふから)用水ともいう)を原作に、戦前から映画製作会社と提携して時代劇映画を製作してきた劇団前進座の戦後第1作目の時代劇作品「箱根風雲録」(独立プロの松本酉三と宮川雅青(Movie Walker参照)が製作、監督には山本薩夫、楠田清(Movie Walker参照)、小坂哲人(Movie Walker参照)共同であたり、弱小資本の独立プロ作品を専門に扱う配給会社「北星映画配給」が配給)の演技が評価され、ブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。
1955(昭和30)年には樋口一葉の同名の短編小説を五所平之助監督が映画化した「たけくらべ」でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。
翌1956(昭和31)年には第二回世界短篇コンクールで一等を獲得した久生十蘭の同名小説を映画化した文芸品で、戦争という運命に流されながらも滅びぬ母と子の美しい愛を描くヒューマンな物語「母子像」(※13参照。佐伯清監督)などで2度目となるブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞受賞。自身の体験を踏まえ、華やかな花柳界と零落する置屋の内実を描ききった幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化された「流れる」、谷崎潤一郎の兵庫芦屋附近の商家を舞台に猫好きの男庄造と愛猫リリーをめぐる二人の女(品子=山田と福子=香川京子)たちの葛藤を描いた同名長編小説をもとにした豊田四郎監督「猫と庄造と二人のをんな」、等でキネマ旬報女優賞を受賞している。

1957(昭和32)年には、自ら熱望して黒澤明監督がシェイクスピアの戯曲『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品「蜘蛛巣城」に出演、マクベス夫人にあたる浅茅役を鬼気迫る姿で演じた。
同じく黒澤明監督がマクシム・ゴーリキーの同名戯曲を日本の江戸時代に置き換えた時代劇映画「どん底」では、長屋の大家(中村鴈次郎)の女房役で、物凄い悪女ぶりでまるで人間というよりも獣の如く、鬼のような表情で常に狂ってる女を演じている。
そして、林芙美子の同名小説(※15参照)を、笠原良三と吉田精弥が共同で脚色し、千葉泰樹が監督して、戦後の混乱した世相を背景に下層階級の男女(山田五十鈴と三船敏郎)のささやかな愛情を描いた作品「下町(ダウンタウン)」(allcinema参照)で2度目のキネマ旬報女優賞を受賞。これらの活躍から、名実ともに映画界を代表する大女優となった。
このほか、同年には、小津安二郎監督による「東京暮色」(松竹配給)に出演し、娘を捨て、愛人に走った母親を好演している。この作品は、小津にとっては最後の白黒作品であり、戦後期の名女優、山田五十鈴が出演した唯一の小津作品でもある。
1959(昭和34)年には新劇合同公演「関漢卿」へ出演、滝沢修と共演したのをはじめ、同年6月歌舞伎座での中村歌右衛門(六代目)主宰の莟会による「落葉の宮」で、雲居の雁役で、中村歌右衛門(落葉の宮)と共演。
また、1960年10月、同じく歌舞伎座での菊五郎劇団による「シラノ・ド・ベルジュラック」で尾上松緑(二代目)と共演するなど話題作に出演したことを機に、サイレント時代から日本映画の黄金期まで最前線を走り続けた彼女は、1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結び、これ以降、活動の中心を映画から舞台に移し、以降は東宝演劇部の中心女優として精力的に活躍。
同年、1月芸術座「香華」(原作:有吉佐和子)他「丼池」(原作:菊田一夫)、「明智光秀」における年間の舞台成果、でテアトロン賞(別名:東京演劇記者会)を受賞(ここ参照)し、水谷八重子(初代)、杉村春子と並んで“三大女優”と呼ばれるようになる。
1974(昭和49)年の藝術座での初演「たぬき」(榎本滋民作)では、明治から昭和初期にかけて活躍した女芸人で浮世節の名手・立花家橘之助を三味線や落語などを織り交ぜて演じ、芸術祭大賞や毎日芸術賞を受けた。
また、有吉佐和子の同名小説をもとに有吉自らが、脚色・演出した「花岡青洲の妻」が1967(昭和42)年に芸術座で舞台化され、舞台でも大評判を呼んだ。

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上掲の画像は、舞台稽古の合間に出演者たちに囲まれた有吉佐和子と右、たばこを悠然とくゆらせているのが花岡青洲の母・於継役の山田五十鈴(画像は朝日クロニクル週刊20世紀1972年号より借用)。
この作品により、医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知されることとなった。そして、その後何度もテレビドラマ化、舞台化画された。この時、華岡青洲役は田村高廣が、妻・加恵役は司葉子が演じている。
1977(昭和52)年に「愛染め高尾」で、芸術祭大賞を受賞。1983年には「太夫(こったい)さん」(北條 秀司作)で、三度目の芸術祭大賞を受賞。1984年、芸術選奨にも選ばれている。
1987(昭和62)年には、ファンのアンケートで「タヌキ」に、「香華」、「淀殿日記」、「女坂」「しぐれ茶屋おりく」などを加えた代表作が五十鈴十種とされている。

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上掲の画像はマイコレクションのチラシより。日本美女絵巻「愛染め高尾」。年代は違うが、1991年11月京都・南座公演のもの。
吉原随一の高尾太夫を演じ、権力や金力に反抗する堂々たる貫禄、いちずな紺屋職人にこころ打たれる恋の若々しい純情ぶりを、見事に造型化した。病気などの不幸を乗り越え、長い芸歴に裏打ちされた、円熟の芸境を示している。
病気などの不幸とは、大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」で4月25日舞台で倒れ病院に運ばれその後休演していた。その時の舞台のチラシが、マイコレクションにある。それが以下だ。

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大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」。
1956(昭和31)年に幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化し評判をとったものを平岩弓枝が脚本を書き成井一郎が演出したもの。映画のキャストが凄かったが、この舞台も下町の芸者屋「蔦の屋」を舞台に蔦の屋の女主人つた吉(山田)、彼女と共に蔦の屋を盛り立ててきた染香姐さん(杉村春子)、家政婦の(音羽信子)の豪華キャストで火花を散らした。しかし、主演の山田が4月25日、舞台で倒れ病院に運ばれた。5月4日に始まって29日が千秋楽だったのだが午後4時からの2回目の公演が終わりかけたときに舞台上で突然気分が悪くなりセリフが言えなくなるというアクシデントが起こったのだ。翌日は休演となったがその後はどうなったかしTらない。この時山田74歳。無理をしていたのだろう。
また、以下は、同じく大阪・近鉄劇場での1989(平成元)年10月公演の「女坂」(円地文子原作、菊田一夫脚本)によるものである。五十鈴十種の一、夫のために妾を探す哀しいまでに気丈な愛を描いた円地文子の傑作である。

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そして、この下が、新版「香華」1996(平成8)年5月大阪・劇場飛天(現:梅田芸術劇場)での公演のもの。

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この下にあるのが、「しぐれ茶屋おりく」1993(平成5)年3月大阪・新歌舞伎座公演のものである。

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一方では1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結んで以降、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)や、朝日放送「必殺からくり人」(1976年)といったテレビ時代劇にも出演した。
特に必殺シリーズには以後1985(昭和60)年の必殺仕事人Vまで約10年間断続的に出演、代表作となった。
因みに、2013(平成25)年・今年の7月から、J:COMケーブルテレビの502時代劇専門チャンネルで必殺アワーとして、「必殺からくり人」も放映されている。時代劇ファンの私などは毎日欠かさずに見ていた。
1980(昭和55)年ころ京都の自宅を引き払い、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由で、東京・帝国ホテルの一室で生活を送っていたようだ。そして、80歳を越えても舞台を中心に盛んに活躍していた。1993(平成5)年に文化功労者表彰、さらに2000(平成12)年に女優としては初めての文化勲章を受章した。
2001(平成13)年夏に84歳で主演した芸術座「夏しぐれ」(原案・演出:石井ふく子)まで、年齢を感じさせない姿で観客を魅了した。
最後の舞台は、朗読劇「桜の園」の上演で、ラネーフスカヤ夫人の扮装をしている山田五十鈴。役の気質を考え、髪が少し崩れたかつらを希望したという。
翌2002(平成14)年4月に体調不良で入院し、同年秋に出演を予定していた舞台を降板して療養に専念していたが、以降は表舞台に復帰することはなく、2012年7月9日、多臓器不全により95歳で死去した、死後従三位に任じられている(官報第5864号。平成24年8月15日)。
同年7月11日東京・青山葬儀所で通夜が行われた。祭壇には文化勲章が飾られ、天皇陛下からは、皇室からの供物料にあたる祭粢(さいし)料が贈られたという。
1990(平成2)年4月、初めて舞台に立った「女ぶり」(平岩弓枝原作・脚本・演出)で、いきなり大女優の山田共演した沢口靖子は、当時を振り返り、
「大勢でお食事をするのが好きな方でした。その場では、私のような全くの新人にも声をかけてくださり、器の大きな方でしたね」としみじみ語ったという。また、弔辞で俳優の西郷輝彦は帝国劇場で共演した舞台「徳川の夫人たち」(1997年)を振り返り、涙を誘ったという。
“山田さん演じる春日局の臨終場面で、徳川家光役だった西郷。「私は山田先生を抱き上げ「そなたは乳母ではない、そなたは母じゃ、わしの母じゃ」と号泣してどんちょうは下りました。その後、先生はおっしゃいました。「私の(亡くなった)ときも、そんなふうに優しくしてくださいね」と。いま、先生の美しい立ち姿を思い浮かべています”・・・と。

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丁度私のコレクションのチラシの中に、この舞台のものがある。上掲の画象が、中日劇場にて1992(平成4)年4月公演の「女ぶり」(原作・脚本・演出:平岩弓枝)のチラシである。
女ぶりとは「女としての容姿。女の器量」を言うが、若い時の沢口靖子はめちゃかわいかったよね。それに、山田の女ぶりどうですか。この時、もう73歳ですよ。まだまだ美しさと妖艶さが失われていない。最上段の女性は淡島千景

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上掲の画像が、1997(平成9)年9月帝国劇場で公演の「徳川の夫人たち」である。春日局役の山田の左隣は藤尾役の池内順子である。「女ぶり」の淡島は山田と同じ年・2012(平成24)年の2月に、池内はその2年前2010(平成22)年9月に亡くなってしまっている。もう、本当の芝居ができる役者はいなくなってしまったね~。
私の記憶に残っている山田五十鈴の出演作品のチラシをもう少しここへおいてゆこう。

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上掲ものは、東京宝塚劇場での1996(平成 8)年10月公演の「花岡青洲の妻」(有吉佐和子作)である。
外科医花岡青洲(五代目坂東八十助)の偉業を陰で支えた女二人(青洲の母於継:山田と青洲の嫁加恵:小手川裕子)の対立を描いた有吉佐和子の最高傑作である。また、池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』でも中村吉衛門主役によるシリーズもので鬼平(長谷川 宣以)の相手役として良い味で出演しているものがある。「むかしの女」では、平蔵の昔の女、おろくを好演している。おろくは、平蔵が「本所の銕」の異名で放蕩放埓の限りを尽くしていた頃の相手で、七つ年上の玄人女である。平蔵が今は落ちぶれた昔の女おろくと再会する代表作。以下は、京都南座での1994(平成6)年6月公演「むかしの女」のチラシである。

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「血統」では、女盗賊鯉肝のお里を演じている。お里は艶っぽい大年増の女賊。鯉の肝は苦味が強く煮ても焼いても食えない代物。昼間から若い男を茶屋に連れ込み、夜は丁半に血道をあげる、飲む打つ買うが大好きな性悪女。なのに、腹をすかして行き倒れていた若い男に飯をおごってやる。下心からではなく、死んだ弟を思い出して、つい情けをかけたのだ。これがアダになり、火盗改めに目を付けられてしまう。そんな女を演じている。以下は、京都南座の1995(平成7)年6月公演の「血統」のチラシである。

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「炎の色」、この作品には盗賊の首領荒神のお夏として出演。先代の身内もすでに外道におちており先代と同じく三か条をまもり昔気質を通そうと考えるお夏は身内を再び集結させるために担がれているだけなのだと鬼平の密偵おまさは知る。貫録十分の山田。以下は、新橋演舞場での 1994(平成 6 )年 2月公演「炎の色」のチラシ。

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山田五十鈴は特に時代劇には欠かせない人であった。今流の現代女性の美人とは系統は異なるが、昭和以前のどの時代にとっても似合う「日本的な」美しさを持つている代表的な人だったと思う。
恋多き女性としても知られ、月田一郎、加藤嘉、下元勉ら、四度の結婚・離婚歴があり、花柳章太郎、衣笠貞之助とも不倫関係にあったという。
山田五十鈴に魅了された数知れぬ男たちは、私らが、「鶴八鶴次郎」の山田五十鈴に惚れ込むように、「流れる」の山田五十鈴の立ち居振る舞いに魅了されるように、実生活の山田五十鈴に魅了されていったのだろう。
役者にとって、恋は「芸の肥やし」ともいうそうだが、「通り過ぎる男たちを芸の肥やしに」の常套句を当然のものとして、それも真剣に、恋も出会いもすべて吸収して芸の肥やしにしてきた女優だったと言えるかもしれない。
2012(平成24)年9月8日付朝日新聞には以下のように書かれていた。
“三味線7丁、小鼓と(こと)二つずつ、胡弓が1丁、清本の見台(けんだい)、姿見、楽屋で使う鏡台、着物をしまった和箪笥3棹・・・、東京都内の貸倉庫に残されたのは、芸に結びつく物ばかりだったと。
家や家財を処分して、帝国ホテルに住み、病院に移った後も、「いつでも使えるように」と手放さなかった品々だ。
大名の奥方、裏長屋のおかみさん、芸人、吉原の太夫、労働者どんな役にも取り組んだ。台本の命ずるままに、が信条で、役に会うと思えば大道具係の汚れたズック靴をもらい受けて履いたという。
「自分を飾ることに興味がなく、芝居に何が大事かだけを、まっすぐに考えていた」と演出家の北村文典氏が言うっていた
気さくで、大女優ぶらない人だったらしい。文化功労章といい、文化勲章といい、「過去の自分には興味がない」と辞退しようとして周囲を困らせたという。
すべての関心は、今の舞台とお客様。自分のあたり役「五十鈴十種」を選んだ時も観客の投票を参考にして選んだという。
コレクションのチラシの整理をしていると、舞台で共演した俳優の多くがもういなくなっている。これでは、もうまともな時代劇は作れないな~。そう思うと、時代劇ファンの私は実に寂しい。

 参考
※1:今日の一枚、その39、大河内傳次郎、剣を越えて - 酒と映画と歌と、酒と
※2:壺齋散人の 映画探検: 溝口健二の世界

※3:幻想館:映画評
※4:川口松太郎と岩田専太郎がはじめてコラボレーションする「蛇姫様」
※5:ニュース和歌山-わがスクリーン遍歴69「蛇姫様」
※6:新刊紹介:『李香蘭の恋人 キネマと戦争』
※7: 映画「上海の月」 映画旬報より
※8:新東亜建設の意義と目標
※9:テンピンルーの勤務した日本のラジオ局
※10:映画「上海の月」の主題歌: 1930年代上海-李香蘭をきっかけとして
※11:1942年(昭和17年)1-6月: 江古田のヨッシー
※12:菊池寛 藤十郎の恋 - 青空文庫
※13:久生十蘭 母子像 - 青空文庫