20180607-1

楊智世(よう ちよ)さん

57歳、北鶴橋振興会館の管理人。住まいも北鶴橋地区。

いくのの日と楊さんの関わりを語るなら、彼女の人生そのものに

なるのかもしれない。

生まれも育ちも、生野区の楊さん。小・中学校も生野区だ。

結婚を機に、名古屋に移られるのだが

ご主人が他界され、子どもさんもいなかったため

故郷である生野区の実家に戻って来られた。

ご実家の仕事を手伝うということもあった。

さかのぼること40年?いやいや45~6年前、

楊さんがまだ小学生だったころ、いくのの日の代表の田中会長

楊さんの父上が麻雀仲間だったという、

(そもそも、ご実家と田中会長のご自宅はご近所さんなのです)

そしてもうひとつ、これも楊さんが小学生のころ

近所の家の火事の延焼で、自宅が半焼の被害にあった。

そのときに、119番通報したのが田中会長であるという

田中会長、大活躍!)

両親は商売をしていて忙しい毎日、家は火事になり親戚の家に身を寄せている。

そんな子供がいたとしたら、まわりの大人はどう思い、何をするだろう?

その子供が、40数年前の楊さん自身だ。

今の時代なら、イロイロ難しいこともあるのだろうが、

そのころの生野区には、おせっかいなおっちゃん、おばちゃんがわさわさといた。

言うまでもないが、「おせっかい」というのは最大級の賛辞だ。

「いろんな人によくしてもらって、たくさんの人に世話になりました」

現在、57歳になった楊さんは目を細めて言う。

淋しい子ども時代ではなかったけれど、困ったことはあった。

火事で教科書が燃え、ずっと隣の友達に見せてもらいながら授業を受けたこと

家が燃える煙を学校から見て、不安で不安で仕方なかったこと。

だけど、困った出来事の数と同じだけ、助けてくれる人は現れた。

いくのの日と関わるようになって、自分の幼いころのことをよく思いだすようになった、と楊さんは言う。

「いくのの日」に入ろうと思ったわけではなく、気が付いたらここにいたという感覚だとも。

この町で、生野区というところで、自分がもらってきたものを次の誰かに

渡していきたい。

そして、楊さんが名古屋から帰ってきたように

子どもたちが、「故郷は生野区や!」と堂々と胸を張って帰ってきてくれるような町に

なってほしいと。

以前には、歴史的背景もあり葛藤があった時期もあるが

今はあちらこちらで芽が出て花が咲き、盛り上がりも感じているそうだ。

しかし、そんな楊さんにも悩みがある。

北鶴橋振興会館の仕事は、基本10時~17時だが、町会の行事、地域の会議やイベント等が

夜にあると(大体、そういうものは夜にある)

19時から21時くらいまで仕事になり、いくのの日の活動が何もできない。

旗の管理や名簿の作成など、みーーーんな人任せで心苦しい。

「やりたいのに、できないーーーー!!」というのが

楊さんの抱えるジレンマだ。

最後に、楊さんには壮大な夢がある。

それは「いくのの日の絵本」を作ることだ。

登場人物→いくみん、いくのの日の旗、いくのの日に関わる大勢の人々。

いくのな人々と、いくのの旗を繋いでいくような、優しいストーリのある

ほのぼのとした絵本を作りたい。

現実の、リアルな活動とファンタジーな絵本が

両輪のようになって進んでいければいいな、と少女のような笑顔で

楊さんは言った。

ここから先は、杉本佐希子談

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いくのの日の絵本で、ガッポガッポと儲けて印税生活!

左団扇!!わっはっは←結局そこかい??(笑)


(杉本佐希子)

20180606-2