57歳、北鶴橋振興会館の管理人。住まいも北鶴橋地区。
いくのの日と楊さんの関わりを語るなら、彼女の人生そのものに
なるのかもしれない。
生まれも育ちも、生野区の楊さん。小・中学校も生野区だ。
結婚を機に、名古屋に移られるのだが
ご主人が他界され、子どもさんもいなかったため
故郷である生野区の実家に戻って来られた。
ご実家の仕事を手伝うということもあった。
さかのぼること40年?いやいや45~6年前、
楊さんがまだ小学生だったころ、いくのの日の代表の田中会長と
楊さんの父上が麻雀仲間だったという、
(そもそも、ご実家と田中会長のご自宅はご近所さんなのです)
そしてもうひとつ、これも楊さんが小学生のころ
近所の家の火事の延焼で、自宅が半焼の被害にあった。
そのときに、119番通報したのが田中会長であるという
(田中会長、大活躍!)
両親は商売をしていて忙しい毎日、家は火事になり親戚の家に身を寄せている。
そんな子供がいたとしたら、まわりの大人はどう思い、何をするだろう?
その子供が、40数年前の楊さん自身だ。
今の時代なら、イロイロ難しいこともあるのだろうが、
そのころの生野区には、おせっかいなおっちゃん、おばちゃんがわさわさといた。
言うまでもないが、「おせっかい」というのは最大級の賛辞だ。
「いろんな人によくしてもらって、たくさんの人に世話になりました」
現在、57歳になった楊さんは目を細めて言う。
淋しい子ども時代ではなかったけれど、困ったことはあった。
火事で教科書が燃え、ずっと隣の友達に見せてもらいながら授業を受けたこと
家が燃える煙を学校から見て、不安で不安で仕方なかったこと。
だけど、困った出来事の数と同じだけ、助けてくれる人は現れた。
いくのの日と関わるようになって、自分の幼いころのことをよく思いだすようになった、と楊さんは言う。
「いくのの日」に入ろうと思ったわけではなく、気が付いたらここにいたという感覚だとも。
この町で、生野区というところで、自分がもらってきたものを次の誰かに
渡していきたい。
そして、楊さんが名古屋から帰ってきたように
子どもたちが、「故郷は生野区や!」と堂々と胸を張って帰ってきてくれるような町に
なってほしいと。
以前には、歴史的背景もあり葛藤があった時期もあるが
今はあちらこちらで芽が出て花が咲き、盛り上がりも感じているそうだ。
しかし、そんな楊さんにも悩みがある。
北鶴橋振興会館の仕事は、基本10時~17時だが、町会の行事、地域の会議やイベント等が
夜にあると(大体、そういうものは夜にある)
19時から21時くらいまで仕事になり、いくのの日の活動が何もできない。
旗の管理や名簿の作成など、みーーーんな人任せで心苦しい。
「やりたいのに、できないーーーー!!」というのが
楊さんの抱えるジレンマだ。
最後に、楊さんには壮大な夢がある。
それは「いくのの日の絵本」を作ることだ。
登場人物→いくみん、いくのの日の旗、いくのの日に関わる大勢の人々。
いくのな人々と、いくのの旗を繋いでいくような、優しいストーリのある
ほのぼのとした絵本を作りたい。
現実の、リアルな活動とファンタジーな絵本が
両輪のようになって進んでいければいいな、と少女のような笑顔で
楊さんは言った。
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左団扇!!わっはっは←結局そこかい??(笑)

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