2012年01月

2012年01月24日

年金関連法により、お金の少ない若い世代から、個人金融資産が1000兆円以上あると言われるリタイア世代にせっせとお金が移され、「世代間格差」が拡大しています。しかも、現在の年金受給者と同じレベルの給付は、極端な増税をしない限り将来は無理であり、サステイナブルな制度ではないことがほぼ明確になっています。この法律、本当に合憲と言って良いのでしょうか。そこで、現時点で明らかになっている客観的事実をまず確認してみましょう。

1。 日本の年金は基本的に賦課方式の国民皆年金制を採用しており、原則として国民に選択肢が提供されているわけではない。
2。 経済成長、人口増加といった賦課方式を支える社会的事実は消滅している。
3。 人口減少が顕著な状況では、若い世代全員が万が一投票しても、年金受給世代が反対票を投じれば人数的に勝てない状況にあり、不当な立法の改廃を行うことを通常期待できる政治過程が機能しない。
4。 高度経済成長期に蓄積されてきた判例の傾向からすると、福祉国家的な観点からなされる積極的パターナリズムに基づく「財産権」の規制と配分の方法は、立法府に広い裁量があたえられ、事後的な司法的解決は望めない。

若い世代の財産権が搾取されて老人世代に強制的に配分され、現在の老人の生存権が確保され、将来の若者の生存権が侵害されている悲しい状況のように見えます。立憲主義憲法秩序を回復する手だてとして、抵抗権は行き過ぎなので現実的な「市民的不服従」の一環として年金不払い運動の展開、なんて面白いかもしれません。

表現の自由はあるものの、人数的に若者は老人に勝てず、政治過程が機能しない現実なので、司法的な救済はなんとかなりませんでしょうか。年金の場合、以前は高度経済成長期での年金の併給付禁止規定が「平等」との絡みで議論となった判例でありますが、世代間格差の場合、現在の給付水準と、まだ実現していない将来の給付水準との「平等」問題となります。現実を無視して観念的に考えれば極端な増税をすれば給付水準の維持は可能とも言えます。その他、物価スライドにせずにハイパーインフレに持ってゆくなど、いろいろ考えられます。司法の能力の問題、司法的消極主義、付随的違憲審査性、二重の基準論、原理に基づく裁判、社会権と経済史の流れ、パターナリズム、自己決定権、プログラム規定説、平等、隷従への道、法の支配、縮小するパイの中でのゼロサムゲーム、20世紀から21世紀への変遷、立法裁量と人口構成、立法の不作為と国家賠償、一票の格差と世代別代表制、そもそも人権とは。



(13:31)

2012年01月13日

2012年1月10日に日銀総裁がロンドンで行った講演で、失われた20年かどうか等いろいろ説明したそうですが、その中のある部分で、「金融緩和効果を創出する努力をしている間に、必要な構造改革を進めることが不可欠」と言っています。

構造改革は、日本では高度成長期に適応した社会保障や税等の社会システム、企業組織、雇用慣行を見直し、人口減少期にふさわしいシステムに変えることと経済学者などの方々が指摘していますが、現時点では「今まで通り」を維持する為の無理な規制強化しか政府から提案されていないようです。現在の年金制度は人口増加を前提とするねずみ講のような構造になっており、それにより、お金の少ない若い世代から、個人金融資産が1000兆円以上あると言われるリタイア世代にせっせとお金が移され、「世代間格差」が拡大しています。アメリカでは貧富の差の拡大が問題とされますが、日本で問題なのはこの「世代間格差」と言われています。昨今の消費税増税分もそのまんま、個人金融資産が1000兆円以上あるといわれる世代への年金支払いに事実上つぎ込まれるので、そのような世代だけにとってはすばらしい改革となっているようです。しかし、現在の年金制度は民間企業に例えてみれば破綻会社のようなもので、破産して清算すべき状況です。そうは言っても、蓄えのない高齢者にとっては、年金カットは死ね、と言われるようなものだと感じるかもしれません。縮小するパイの中でのゼロサムゲームのような状況で、誰が何を諦めればよいのか、ということなのかもしれません。現時点では、若い世代が、将来の希望を諦めればよい、という状況のようです。

ところで、そもそも、規制強化とは、何でもやって良いのでしょうか。憲法ではよく、19世紀的な近代から20世紀的な現代への変化の中で、立憲主義が変容してきたと説明されます。近代立憲主義では国家は警察的機能以外には国民生活の領域に介入すべきでないという消極的な権力の観念を前提としている。しかし、社会・経済の発展と変革の中で新しく権利・自由の保障を確保しようとするのであれば、政治の民主化を通じて、その権力を通じて国民の自由と生存を確保してゆくという積極的性格を持つようになるのは、当然だと言われています。人間の自由は生存の保障によって物質的に裏づけられない以上、絵に描いたもちに過ぎないとの考えから、いわば20世紀的自然権として社会権が憲法上保障されるようになり、(芦部、憲法学I)、この傾向を憲法レヴェルで初めて体系的に表現したのが1919年のワイマール憲法ですが、日本では社会国家化への変容の憲法的具体化の基本条文として憲法25条が現行憲法に盛り込まれて、近代立憲主義から「現代」立憲主義へと変遷してきたと説明されます。

そういえば、今は21世紀になってしまいました。今まで、社会経済情勢により、19世紀的な近代から20世紀的な現代へと変遷して来た以上、今後も経済情勢に従って「変遷」してゆくのが自然な流れと言えます。社会国家の追求は、国家の巨大化・硬直化を内包する“管理化国家”ともいうべき事態を惹起する危険を随伴していることは否定できない、との指摘も随分まえからなされていました(佐藤孝治、憲法)。今後の「変遷」はどのような方向なのでしょうか。


(16:07)