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今回は特に引用記事はありません。

どこの国でもそうですが、神様の在り方というか捉えられ方というのは、その国の精神的基調をなしているのではないかと思うところがあり、それがこの国の場合は薄暗がりの中にあると思ったわけです。

光を放射するような強烈な自我のカタマリではなく、

基本的には神社の奥底に潜む存在として神様はあるわけですから、

それが日本人の精神の基調になっている面は大きいように感じます。

要するに自我以外の部分が結構大きい。

この部分の大きさが、自己決定という西欧風の精神基調とは相いれない部分が結構あるのではないかと思います。

どちらが良いとか悪いとかではなくて、例えば、イタリアでは認知症患者でも明るく外に出て、健常者と同様に暮らそうという動きがあるみたいですが、それは自我こそが我であると信じているがゆえです。

イタリアにしたってそうですが、認知能力が限りなくゼロに近づいたらどうするのかなと思ったりはするんですけど、どうなんでしょうね。

認知症の方が認知能力がゼロになれば、西欧風に言えば、自我の消失に限りなくイコールになってしまい、デカルトでいうところのコギトの消失。
つまり、自我の死=死みたいな直結するところがあります。

これに対して、日本式の考え方でいえば、我と自我の間に薄暗がりの空間が広がっていて、どうも直結するようでしない曖昧さがあります。

例えば植物状態の人がいても、その人は死んでおらず「生きている」と考える人も一定数いる。

今のトレンドであれば、脳死=死と認定してもよいみたいですが、日本ではいまだに三兆候説が幅を利かせています。つまり、心臓停止、呼吸停止、瞳孔散大によって死んだとする説です。

日本人の無意識はつきつめると、西欧に比べて個が曖昧なのかなと思います。

その結果、今の過剰に個であることを求められる時代とマッチングしていない面があります。

資本主義は個が無限に資産と成功を積み上げることができると信じる思想ですから、これもまた日本の空間には合わない面がある。

と、このようにつらつら書いていますが、要するに何が言いたいかというと、

グローバルを導入しつつも、日本式の考え方がまず根底にあって、それは曖昧だということなんです。

だから、介護や医療の考え方にもいったんグローバルな考えを表層レベルで取り入れるのは可能なんですが、根底の部分ではマッチングしてなかったりすることもあるんじゃないかと思います。

今回はフワフワしたエッセイ風味の記事でした。フワフワ。