介護徒然草

身寄りが無い人と身元引受人の関係、介護と申請について、よくある問題点とその対応について書いてます。

2017年11月

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生活保護者はPCを人に借りればいいという裁判例

朝日新聞の記事で上げられておりましたが、
生活保護者はPCを人から借りられる、だから不要という裁判があったようです。

パソコンは人から借りるものではないですし、
それを【PCは要らない】という結論のための理由としたところに注目されていますね。

ただ、PCなんですが、本当に要らないんでしょうか?

生活保護者にとってPCは必要なのか不要なのか。
この点を多角的に議論したほうが生産的かと思います。

もちろん、裁判においても、その点は争われたでしょう。
記事では最もセンセーショナルな部分が注目されるので、【PCは借りればいい】というところが、クローズアップされてしまってますが、本当に議論すべきなのはPCが必要なのかです。



生活保護受給者にPCは必要か?

必要でしょう。

そもそも生活保護受給者は国から【最低限度の生活】を保障されております。

この最低限度の文化的生活に該当するか否かが、所持制限にかかるわけです。

つまりカンタンに言えば、【ぜいたく品】は所持したらダメ。
国が保障しているのはあくまで【最低限度の健康的で文化的な生活】を送るためで、国からもらったお金で遊ぶためではないからです。

これは、そもそも自然権的な前国家的権利として、生活保護という制度があるためで、つまりその基礎になっているのは【生存権】なので、生存してればいいんです。
ただ、生存というのは、生きていれさえばいいという、いわば生命権というのとは異なり、もう少し広い概念で、【健康的】であったり【文化的】であったり、つまり人が人らしく生きるということを規定した権利なんですね。

このような権利を基礎においているものですから、生活保護の制度も、社会通念というものが非常に大きく関わってくるところです。

具体的にいえばーー

①生存に寄与するか?(水を買うなとは誰も言えない)
②生存に寄与するものだとしても、他に代替する安価なものがないか
(たとえば水は必要だが、500ml1万円の水はダメ)
③一般通念上ぜいたく品だとみなされているか。
④普及率


このあたりで判断します。

そして、くだんのPCですが、まず①の点について、
生存には直接的には寄与するものではないですが、生活保護における保護は、生活保護を脱するための支援も含むものですから、PCを就職活動等に使う面があり、生活必需品としての側面もかなり大きい

このあたりをもっとよく見て行かなくてはいけないのですが、例えば、わたしが勤めていた介護事業会社での採用ルート(どの媒体を見てきたか)で、一番多かったのはウェブハローワークでした。
じゃあ現実にハローワーク行けばいいじゃないかという話になりがちですが、そうではなく、ウェブのハローワークだからこそ、足腰が弱っているとか、あるいは対人恐怖症があるとか、そういう外出自体が困難なケースでも、検索できるということも多いわけです。
それに現実のハローワークだと、例えばウェブ検索に制限がかかっているので、その企業を検索エンジンとかで検索したいときに困るかもしれません。

まあこのあたりはデータをとったわけではないので全部印象批評ですけど。

しかし、どこかのだれかにとっては蜘蛛の糸になっている以上、
安易にPCを切り捨てるのはまずいです。

②の点について、他の代替手段がちょっと思いつかない。

PCは先に書いたように、人に貸すものではなく借りられるものではないです。まず、生活保護になる場合、収入がなく、社会と断絶している方も多いでしょう。そのとき、【友人に借りればいい】のその【友人】がそもそもいない場合もあるわけです。
図書館などの無料でPCを貸してくれるところにいけばいい?
そこまでいけない人もいるので、代替手段足りえないこともあるでしょう。
ここは個別に見ていくべき点です。

③のぜいたく品だと思われているか否かですが、ぜいたくではないですね。
もはやPCやスマホは一般的に普及しきった情報媒体でしょう。パソコンを持ってるから【すげえな、あいつパソコンもってるってよ】とならないでしょう。

テレビが普及したての頃は、人の家にテレビがあるというだけでステータスになったらしいですが、今は別に驚かれない。

それと同じくパソコンももはや驚くべきものではない以上、ぜいたく品とは考えにくい。

④最後に普及率ですが、こちらの記事がくわしい。


↑ パソコンの保有状況(世帯主状況別、世帯単位、2016年)



PCの普及率は全体で七割を超えています。
これは十分に普及している物として認識されるものですので、④の要件は満たすといえるでしょう。


こうして考えていくと、PCはぜいたく品には当たらないと考えるのが妥当です。もちろん、個別具体的に判断する中で、ぜいたく品にあたる場合もありますし、一概にこれだったらこうというふうに判断できないのが生活保護です。

とはいえ、生活保護は最後のセーフティネットとして機能するもの。
パソコンは不要というふうに結論づけるにしろ、その論理構成はもっと精緻極まるものにしなければならないと思います。








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bt82



アジアで一番働きたくない国

こちらのヤフーニュースで載ってました。
スイスのIMDというビジネススクールの統計によると、
日本はアジアで最も働きたくない国だそうです。

まず、この記事のバイアスについて少し触れておくと、

でも傭兵の国スイスの統計だしなということをまずは思うことでしょう。
日本人が思うスイスのイメージは牧歌的な--アルプスの少女ハイジみたいなイメージかもしれませんけれども、スイス銀行とか、そういうイメージもあったりして、裏側は結構ドロドロしているんじゃないかというような、ふわっふわのイメージしかありませんよね。

つまりよくわかっていない。

逆にスイスから見た日本も同じなのだろうと思います。
例えば、『原発がメルトダウンした国』というだけで、なんとなく働きたくないなということになるでしょうし、そもそも英語圏内じゃないので、どれも同じ程度だけれども、もともとヨーロッパ諸国の植民地だったところは英語が達者な国もあったりして、そういった面で有利なのかもしれません。


高度人材というバイアス

次に高度人材という言い方がされてますが、要はホワイトカラーから見れば、あまり日本は魅力的でないということのようです。

だから、ホワイトカラーじゃない外国人労働者についていえば、このランキングはあまり関係がなさそう。


外国人労働者という観点から日本が反省すべき点はないか?

ただ、いろいろなバイアスがかかっているものの、
日本が外国人労働者を受け入れるにあたって忘れてはならない点があります。
それは、外国人労働者を搾取していないかという点です。

まず、外国人であっても最低賃金は守らなければなりません。
しかし、逆に言えば、最低賃金であれば、法律上は違反にはならないということになります。

国際的な組織である(日本も加盟済み)国際移住機関では、「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも12カ月間その国に居住する人」と定義しておりますが、
この定義をそのまま援用すれば、外国人労働者はほとんど『移民』といってもいいわけです。


しかし、『移民』となると不都合が生じます。移民は自国民として保護しなければならなくなり、憲法が言うところの後国家的なさまざまな権利を保障しなければならなくなるからです。

それに、日本人の民意といいますか、そういった点からしても、まだ『移民』を受け入れるだけの心構えができていないという状況も大きいでしょう。たとえば、生活保護にしたって、外国人に永久にお金を支払い続けるのかという点に対して、うなずきたくない人だって多いわけです。

つまり、現在の状況を考えるに、事実上移民政策をとっているにも関わらず、移民であることを認めないことによって、国は国としての責任を免れている。

これが、働きたくない国だと思われる一番の理由なのかもしれません。








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bt81

こちらの朝日新聞の記事に『脱オムツ支援加算』なるものが書かれてありました。

厚生労働省のページを検索してみましたが、まだ掲載されていないようです。
なので、まだカタチとしては不確定な部分が多くて何とも言えないのですが……。

記事によれば、要するに

①現在オムツをつけている人が
②介護サービスによる脱オムツ計画を立てて
③その計画が達成されたと
医者によって判断された場合に
⑤加算される。

というような感じです。


この加算について、いったい誰が得をするのでしょうか?



サービスを受ける高齢者が得をする面

この面を否定する意味はないですね。加算を取得するために、事業者は努力する。
結果として、強力なサービスを受けられるようになる。
具体的には親身になってリハビリに注力するとかそういうことになるでしょうか。

高齢者にとってみれば、オムツというのは実をいうと『両義的』な存在です。
嫌だと思う反面、安心でもあって、オムツに一度慣れてしまったら、オムツをはずすのがコワイと思ってしまう人もいます。
つまり、両義的。
つまり、個性。
どっちがいいかというのを事業者側が勝手に判断することそのものが、あまりよくないんじゃないかなという面もあります。
もちろん、原則的には『自立支援』というのが大きなベクトルですから、オムツははずしたほうがいいという考え方もわかるのですが、本当にその方にとってそれがよいのか。それを望んでいるのかは、一度立ち止まって検討すべき事項です。それが理想。
でも、加算とかとれるってなったら、ますます考えない介護になるだろうな。
加算の良しあしは、高齢者サイドから見ても、微妙かも・・・。


施設併設系が得する面

排泄という行為を考えたとき、それは一日のうちに、不連続でかつ時間帯もマチマチに訪れるものですから、そもそも訪問系で、脱オムツを達成するのは非常に難しいですよね。

つまり、施設併設型。箱物を主体においた施設がどうしても有利です。

例えば、イメージしてみると――。

朝と夕方に二回訪問介護を受けているAさんは、昼の数時間はまったくのひとりきり。
トイレに行くのもおっくうで、オムツをして過ごしている。
オムツをはずすと、昼の時間はまったくのひとりで、トイレに向かわなければならない。

他方で、有料老人ホームに住んでいるBさんは、訪問介護がない時間も施設のスタッフを呼んで、トイレに行くことが可能。これは訪問介護サービスとしてではなくて、あくまで有料老人ホームのサービスになりますが、スタッフに連れて行ってもらえる。支えてもらえるということになるので、脱オムツの可能性は高まることになります。

ケアプランについて言えば、あくまで介護保険サービスが主体にはなりますが、ケアプランの中に有料老人ホームのサービスを組み入れてはならないということはありません。

だから、普通に脱オムツ計画の中に有料老人ホームとしての脱オムツ計画も入れていいんです。
ただ、ケアプランに入れる以上は、有料老人ホームとして、その行為は必須になってきますけれども。
厳密に言えば、ケアマネがケアプランを作るときに、有料老人ホーム側の責任者がOKを出さないといけないということになりますね。普通は有料老人ホームと訪問介護事業所の経営法人がいっしょなので、あまり問題にならないところですけれども。

ともかく、そういうふうにして、有料老人ホームは有料老人ホームのスタッフとしてのサポートがあるために、脱オムツを達成しやすい状況ということになります。

これは、昨今の情勢から考えれば、併設型にアメを与えていることになり、かなり珍しいことに思えました。(゚д゚)そこまで深く考えていないのかもしれない。



医者が得する面

医者は直接的に加算を受け取るわけではないので、得をするわけではないのですが、医者は医者でも例えば運営側がお医者様であるというところも、結構多いのではないでしょうか?
つまり、医療系を伸ばし、純介護系は厳しいというような、そんな状況をつくろうとしているのかもしれません。
病院が併設している有料老人ホームでは、この脱オムツ加算は取り放題ということになるでしょう。
結果として、医療併設型の施設は数を増やし、そうでない施設は数を減らすことになります。

つまり、この加算の意図するところは、
重度対応が必要な人間は次々と医療系の施設に入れていって、そうでない医療依存度の低い方は施設ではなくて、在宅へ(完全な民間のお家・アパート)という流れを作り出そうとしているのかもしれません。(゚д゚)そこまで深く考えていないのかもしれない。

すこし考えなければならないのは、今後ますますドクターの重要性が増すということです。介護についていえば、どれだけ医者が医療的知見に優れていたとしても、その人の日々の生活を24時間見守っている介護の強さというものがあると思います。

けれども、脱オムツ加算は、ドクターの重要性を押し上げるがゆえに、ますます、ドクターの言うがごとく、介護しなければならなくなる。場合によっては、ドクターと施設との談合も生むかもしれない。
そういう危険性を考えると、あまりいい加算じゃないと思います。






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bt80



  瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
   われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ


崇徳院の有名な詩ですね。
超絶カンタンな解説を挟むと、川の流れが岩に割かれてしまってもまた再び出会いたいというのを、人の出逢いとかけた詩です。
昔の人は情緒深いな。
今の人間はあんまりポエムをたしなまないというか。リルケの詩集とか読んでるひとって何パーセントなんでしょうね。


それはよいとして、今回思ったのは、総合支援事業と地域密着型通所介護、これらの提出先と要介護者向けの広域の訪問介護や、大きな通所介護の提出先が異なることの不合理です。



なにが違うの?

総合支援事業は、要支援の方に向けたサービスです。
おそらく発想としては、要支援=まだ自分でがんばれる面も多い=地域でケアすればいい。=申請先は市町村でいい。
というような感じでしょう。
なので、総合支援事業の提出先は市町村ということになります。
事業所のある場所の市役所とかに提出することになるわけですね。

地域密着型の通所介護も同じです。こちらは要介護の方に対するサービスも含みますが、定員が18名以下であれば、自動的にこちらのサービスになります。
おそらくは、定員が少ない=小規模=お客さんはその地域にいる少数でいいはず=地域でケアすればいい=申請先は市町村でいい。
というような論理構成でしょうか。

論理構成はともかくとして、申請先が市町村に移ったということが重要な点です。

これの何が面倒くさいかというと、例えば、訪問介護事業を行う際に、『要介護』と『要支援』の人が混在する場合は、自動的に訪問介護事業所と総合支援事業というふうに分かれてしまいます。
それで、訪問介護事業所の申請先は、基本的には市町村に移管されているところもあるんですが、そうでないところもありまして、例えば、長崎や茨城や愛知など、わりと多くの県では、県庁が所管となっているところも多いわけです。

とすると――

施設として、つまり有料老人ホームとして、要介護の方も要支援の方も対象にしようという場合には、外部サービスとして同法人が要支援の方に向けたサービスも完備していなければならず(必ずしもそうでない形態もあるかもしれませんが、お客さんを確保しておくためには、必須と考えられるでしょう)

結果として、二重の申請が必要になることになります。

しかも――

例えば、申請書類ひとつとっても、なぜか県と市では微妙に形式を変えているところが多いのです。

理由はわかりません。市が権限をもって、その事業所の是非を判断する立場にあるから、申請資料も違うものを用意するというのはわかりますが、はっきりいって、ただの自己満足にすぎないのではないかと思います。

昔、厚生労働省かどこかのアンケートで、どうやったら現在の『申請手続き』を30%減らせるかみたいな連絡がまわってきたことがありますが、あの時からすれば、むしろ増えているという状況です。

できれば、元のように申請先は統一してほしいものです。






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bt80


イラストのダンピング問題

介護とはあまり関係のない話ですが、あさイチで「プロに3万で描いてもらったイラストが2500円で描いてもらえてコストダウン」ということを特集していて、それに対してプロのイラストレーターや、普通の人からもこれは不当廉売なのではないかという批判がネット上で拡散しているようです。

例えば、同じ質のものが売っていたら、同じ対応で売っていたら、同じ手間で買えるなら、合理的な人間は安いほうを選びます。

もちろん、人はそれ以外の気まぐれ的な要素で買ったりもするわけですが、多くの人間はそうではないので、ダンピングはダンピングとして機能してしまう。



このダンピングの問題とは、

市場破壊につながるから

ということに集約されるでしょう。


ある業界において、安いものが席巻していくと、ものすごく高機能なものか、ブランド品くらいしか対抗手段がなく、その他の裾野に位置する商品はすべて駆逐されてしまう。結果として、裾野にあたる商品が手に入らない。言ってみれば、地域のコミュニティ的な商品が全滅してしまう。もっと話を進めれば、日本の経済自体にもダメージになるということもいえるかもしれません。


低価格介護施設は不当廉売なのか?

違うと思います。

まず低価格介護施設は、スタッフを安くでこきつかっているというイメージがあるかもしれませんが、実をいうと、そんなことはありません。
今の売り手市場で、不当に安い給料だと、施設に人が集まらず、そもそも運営がなりたちませんので。
周りに合わせて、給料を決めるところがほとんどでしょう。
よって低価格だろうが、そうでなかろうが、スタッフの給料という意味ではほとんど変わりません。もっとも、低価格でない施設のほうが、売上的に余剰がある可能性が高い以上、スタッフに還元される確率も高まります。

次に、低価格介護施設といえども、イラストのように大量生産というわけにはいかないということです。確かにホテルのような巨大な施設に比べれば、低価格=小規模な傾向があるので、それなりに早く建築できたりするのですが、スタッフを補充するスピードが枷となって、どんなに早く建築しようとしても、スピード感についてこれないことになります。

世の中に介護を必要としている高齢者の数を考えれば、市場を破壊するに足るほどの供給になりえないんですね。

さらに、現在の日本のシステムだと生活保護の方が入れる施設というのは本当に稀です。おそらく10施設中1施設ぐらいしかそんな値段のところはありません。

生活保護の方は、住宅扶助費と生活扶助費というふうに、受給額がきまっていて、それがだいたい合計で10万円前後しかないんです。

つまり、10万円を超える施設には基本的に入居ができないことになります。

もっとも生活保護の方が10万円しか払えないとしても、訪問介護などのサービスの介護報酬は行政が出してくれるわけですから、おそらく15万円程度までならギリギリ入居してもOKなのかなというイメージです。

しかし、あまりにも一般の方との利用料に差がつきすぎると、これが噂として広まり、イメージダウンの危険も出てきます。

難しいところですね。

このように、生活保護の方などのプラスの金額がギリギリの方に対してのサービスというのを考えた場合、低価格の施設というのは必要不可欠ということになってきます。

つまり、介護施設は、経済合理性という観点だけでなく、人が生存するために必要なので、一概にダンピングの問題として悪いと言っちゃいけない面があるということなんです。

では、低価格施設とそうでない施設の棲み分けは可能か?

可能と思います。

そもそも低価格施設とそうでない施設は、生存戦略が異なるのです。
低価格施設は、低価格を維持するために、住宅費用を抑える必要があります。そのためには、建築費用を抑える必要があります。
カンタンにいうと、

建築費用の融資額1ヶ月分=利用者数×利用者の払う住宅費

にならないといけない。

そうすると建築費用を抑えなければならないということになりますので建築費用を抑えるためには、いろいろなものをそぎ落とすと同時に、小規模の施設にせざるをえない。

小規模を高稼働率でまわすというのが低価格施設の生存戦略なのですね。
それに対して低価格ではない施設は、そこまで高稼働率でなくてもよいので、じんわりと入居させていくことになるでしょう。また、介護度も低くても、箱物に対する利益が高いわけですからそこで生存が図れる。

よっておおざっぱな考え方としては

低価格=要介護度高
高価格=要介護度低


というふうに、ターゲット層が自然と分離されていきます。

ただ、低価格でも高価格でもない中間的な価格。ちょうど15万円から20万円程度の施設になってくると低価格帯の10万円とかぶる部分も多く、ここについては、最終的には高価格への道は施設の機能的に無理なので、低価格帯へと落ちこんでいく可能性が高いように思います。

このいわば中間層からすれば、低価格介護施設はダンピングだと思うところでしょうが、しかし、国民の圧倒的多数は高齢者になると月10万円の収入もない状況なので、そもそもターゲットの数が少ないということなのでしょう。







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bt79

昨日と同じく貧困について書きたいと思います。



子どもの貧困を認識したのはわりと最近

子どもの貧困について、わたしが初めてしっかりと認識したのは、加納朋子という推理小説作家の『ぐるぐる猿と歌う鳥』を読んででした。

この小説は、探偵役が幽霊なのです。
いや、違った。
正確には、社会から認識されていない『子ども』がひとりいて、その子どもが探偵役をやっていたと思います。厳密に言えば、主人公は探偵役ではなく、物語を進めるストーリーテラーであり、いわばワトソン的な意味合いになるのでしょうか。

探偵役が幽霊であるということは、つまり学校にも行っていないし、出生届も出されていないということになります。その理由としては、貧困がやっぱり見えないところで書かれていたように思います。

これを子どもの視点(主人公は小学生くらいの少年だったかな)で書くというのは、なかなか勇気がいる行為だと思います。普通だったら、子どもたちの力でその幽霊上になっている子どもをなんとかするとか、そういう流れになると思うのですが、この作者さんのすごいところは、徹底的に子どもたちは無力なんですよね。その点については。
もちろんいろいろな知恵を巡らしたり、必死に生きているんですが、当たり前のように社会を変えたりはしないし、変わらないし、何もできない。なぜなら子どもだから。
というか、貧困問題は大人でもなにもできていない状況なので、安易に解決してしまってはいけなかったのでしょう。リアルな問題にリアルに向き合うと、そうなってしまうのだと思います。

貧困は虐待?

貧困は虐待そのものではないのですが、もたらされる結果は虐待とほとんど変わりません。
例えば、貧困ゆえに夕食が食べられない。
ごめんねという一言があれば、主観的には虐待ではないでしょうが、しかしご飯を食べられなかったという結果においては虐待といえるかもしれません。

先の小説では、探偵役の子どもが学校に行かなかったり、存在自体が社会に認知されないように、大人が振舞ったというところがあるので、虐待にあたるといえるでしょうか。

主観は軽視できないのですが、客観も軽視できないというのがわたしの考えです。
その人がどんなに愛されていても、ある日の夕食に困るのであれば、それは是正されるべき状態です。

貧困は国家による虐待か?

そういう考え方もあるでしょうし、だから、声だかに自己の権利を主張することもあるでしょう。

「日本死ね」に通底するのは、貧困するのは国家の責任だという考えがあるからでしょうし。

ただ、そこまでは言い過ぎなのかなと思います。

国家はそこまで万能な存在ではないですし、少なくとも『主観』においては、放置しておこうとしているわけではない。生活保護が制度としてある以上は『放置』は言い過ぎで、しかし足りない場合もあるというのが、現状でしょうか。



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bt78


うちの理事長が書いていた貧困と子どもの学力の問題ですが、

貧困というのはやはり横串として世の中を貫いているのですね。

これは、高齢者の認知症治療とシンメトリーを描いています。


子どもの学力は貧困により低下する

なにを当たり前のことをと思います。
人間は生まれたときから人間なわけではなく、周りのいろいろな情報を取り入れて人間になるわけですから、子どもの学力は教育環境の影響をもろに受けるのは当然です。

しかし、この記事で問題になっているのは、貧困とそうでない世帯の『差』が、有意的な集団の差異として捉えられるほど顕著になってきたという話でしょう。

大きな物語が消失した現代においては、イデオロギーはなく、その代わりに多様性が重視されます。

多様性というのは、いろんな価値観を相対化するということですから、唯一互いの価値観を侵さないという点においては相対化できないということになります。

わかりやすく言えば、互いのことを尊重することが建前となっている社会においては、他人を攻撃することだけは許されないということです。特定の集団が有利に扱われることなく、すべての価値観が平等に扱われることを是とします。

したがって、現代社会においては『平等』であることが一等価値を帯びてくることになるのです。

貧困による学力低下を問題とする心理は、この『平等』を侵しているという考えがあるからでしょう。
もちろん、平等とひとくちにいっても、AさんとBさんは互いに異なるわけですから、
ここでいう平等はいわゆる

機会の平等

ということになります。

しかし、機会の平等といえども、その平等を完全に等価にするのは不可能です。

片やマリみてのようなお嬢様学校、片や少年マガジンとかで載ってそうな不良校だとすれば、学ぶ機会という意味ではイコールで結ばれるとしても、ある一定水準以上の学ぶ機会と言う意味ではイコールではないわけです。

その教育の水準差というのは、お金をかければかけるほど広がるでしょう。

お嬢様は死ぬほどおけいこごとしてそうなイメージありますし……。

そんなわけで、機会の平等が果たされることは永遠に来ないでしょう。
資本主義がなくならない限りは。

貧困で学力差が生まれることをNOとする心理には、その論調自体が、お金持ちか否かで学力の差が生まれるべきではないという理念を含んでいます。

本当は、貧困世帯の子どもは一定水準以下の学力の子らが多いというような言い方でもいいはずなんです。なぜ非困窮世帯の子どもと比べるのか。

『差』を見たほうがわかりやすいから?

本当にそうなんでしょうか?

(゚д゚)たぶん貧困世帯と金持ちの対立を煽ってるんだとオモウヨ


認知症治療を受けられない高齢者

認知症の治療は日進月歩で、もしかすると20年後くらいには治療できる病気となっているかもしれません。そんな時代に貧困世帯の高齢者は認知症治療を受けられないとすると、それはやはりお金持ちの高齢者と比べると平等ではないということになります。

平等ではないのは仕方ないとしても、一定の水準は確保しようとするのが福祉の理念です。

今でも、お金持ちはホテルのような有料老人ホームに住み、片やギリギリ生活保護を貰えないくらいの年金で暮らしている世帯は、有料老人ホームにも入れずに訪問介護員が来るまでオムツに垂れ流しの生活をしている。

この最低レベルをなんとか引き上げるべきだという考え方には賛成です。






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bt78


正確にはカンタンに儲かる仕組みというのは存在しないよという話です。
当たり前の話をしたいわけですね。


今は亡き王女の話

こう書くと、少しポエム度があがっていいかもしれません。

今は無き会社の話です。

その会社のモデルは、住宅費と食費があわせて8万から10万前後、16名程度の小規模の施設で、平均介護度が2.5以上、平均適用率が80%前後、稼働率が90%いけば、黒字になるモデルでした。

それで、一応、最終的には、100くらいの全施設黒字化を達成したようです。

理事長がわたしの隣りに座っていて、今聞いたから間違いありません。(゚д゚)おとなりちゃんなの

しかし、長くは続かなかった。

まあそれはここでは書けない××な問題とかがあったのでしょうが、

それ以上に、ホーム長やエリアリーダー、ブロックリーダークラスに

かなりの経営センスが求められたためだといえるでしょう。

特に厳しかったのは、おそらく稼働率90%という超高稼働率でしょうね。

これを達成するためには、2人か3人が入院したらもうダメ。
要介護度は徐々にあがっていくでしょうし、適用率もまあ、介護度があがっていけば自然とあがっていくものだとは思いますが、入院とかですべての利益がふっとんでしまうのが厳しい。


新しい王女様は次々とお生まれなさっているが・・・

基本的に生まれないよりは生まれたほうがよいわけです。

介護の今の状況からいって、高齢者にとっていくつも選択肢があるほうが望ましいですし、特に貧困の問題が横の串として社会全体を貫いている今の状況では、なんとかそれに抗うようなシステムを構築しなければならない。

在宅で見るのも限界がありますし、特養が筍のようにぼこぼこ生えてくればいいのですが、ぜんぜんまにあっていない今の状況だと、なんとか民間の企業ががんばらなければならないということになります。

低価格のモデルは切望されているといっても過言ではありません。

なので、否定的に見たくはないというのがわたしの原則的な考え方なのですが……。

介護の王国という住宅型有料老人ホームのフランチャイズをおこなっている会社様があります。

その会社様には大変申し訳ないのですが、どう考えても事業モデルに厳しい面があるのではないかと思ってしまいます。というのも、先の亡き王女よりもさらに厳しめのモデルなのです。

まず、こちらに書いてある事業のモデルですが、明らかに現実的ではない点が一か所あります。

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それは売上です。
19名で売上が570万円ということは、

ひとりあたり30万円の売り上げをあげるということになります。

介護報酬というのは限度額以上の額というのは払われませんので、ひとり30万円を訪問介護のみであげるとすれば、そこの施設の平均介護度が4以上なのは確定です。

あの・・・・・・。平均介護度4以上の施設って、全員寝たきりの施設なんでしょうか?

そもそも、介護度が4とか5とかの方になれば、おそらく特養に行く方がよいと思います。それでもなお住宅型有料老人ホームに行きたいという方は、なかなか希少度が高い

ソシャゲでいったら、要介護度5で住宅型有料に入る方はSSRですよ。

亡き王女のモデルでも要介護度4とか5の方は3、4名くらいが限界でした。

16名中、3、4名が限界でした。
それを組織的な限界とみるかどうかの問題もあります。その会社が営業のプロ集団で、フランチャイジーに対して、なにかしらの営業技術を伝授できると言うのであれば、可能性はあります。

しかし、個人的な感覚で言わせてもらえば、かなりの高い能力が求められるのは間違いない。

つまり、要介護度が4や5の方ばかり入れるというのは、ウルトラスーパー営業マンじゃないと無理ですし、普通の営業をやっていたら、おそらく1年とか2年とかかかってしまいます。

ということは、この事業モデルにおける売上マックスの状態になるまで、延々と赤字が垂れ流されることになるわけです。

大家さんについて言えば、この事業モデルは住宅型有料老人ホームの運営会社になるわけですが、実際の営業はどちらが担うかによっても変わっていくでしょう。アパートの大家さんとしての立場で、本体は訪問介護事業所のほうにあるとすれば、そちらが営業をおこなっていくわけですが、実際には入居者が入らない状況でヤキモキすることも多そうです。

例えば、1億5千万円くらいの小規模の有料老人ホームを建てた場合、その融資を銀行に返済するには20年くらいかけておこないます。1億5千万を20年で割れば、一ヶ月62.5万円の返済ということになりますので、資金繰りの問題として捉えれば、かなり厳しめかな。


つらつらと書きたいこと書いちゃいましたが、

何度も言います通り、誰かがチャレンジしなければならないという意味では、わたしは肯定的です。

誰だって最初は人間が空を飛べるとは考えなかったわけです。

それに誰だって最初は失敗した。

いくつもの試行錯誤があって初めてライト兄弟が空を飛んだわけです。

介護にもいつかは飛翔のときが訪れます。あきらめなければ。





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bt76


はじめに見たとき、本当にそんなサービスが可能かとおもいました。

当協会理事長も書いていたのですが
福岡市社会福祉協議会が電話による見守りをするというのです。
元ネタとなっているのは、こちらの記事のようですね。



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入居後のサポートについては【毎日】の安否確認電話と書いています。

ただしHP上では、【定期的】と書いてあり、若干の齟齬があります。

毎日の連絡を定期的におこなうという意味かもしれませんが、

通常であれば、毎日ならば毎日と書くでしょうし。

そもそも、見守りというのは、できる限り人の目が無い時間を隙間として埋めていくものですから、例えば、ヘルパーなど誰かがいるときには電話することは不要です。

そこはサービスに細やかさが必要になるでしょう。



そもそも少しばかり毎日の連絡については現実的ではない部分があります、

福岡市ではないですが、

ある社協では、

ひとりの担当が受け持っている人数が20名程度

だと聞いた覚えがあります。


そうすると、ひとりに電話をかけるのが平均して10分だとしても、200分。
およそ3時間は電話だけで終わってしまうことになります。

このようなサービスが続くかというと、キャパシティの問題として無理です。

そもそもの話、電話サービスだけ受けたいという人は、それこそ20人では済まないということになるでしょうし、そのとき外部の業者に委託するにしろ、耐えきれるかが疑問です。



先見性は目を見張るものがある

しかし、この先見性は目を見張るものがあります。
たとえば、大家とのつながりを持とうとしたところ、
つまり【孤独死】を根絶しようとしたところが新しいところです。

言うまでもないことですが、【孤独死】は本人にとっても損なことですが、

大家にとっても大損です。

なんといってもクリーニング代がかかりますし、

賃貸しているアパートが事故物件となってしまう。

=============================================

遺品整理ドットコム様のページによれば、孤独死が事故物件に当たるか否かは

部屋の状態がひどいか否か】によって決まるそうです。

つまり、腐敗していたかどうかというのがひとつ大きい要素になるでしょう。

およそ人の身体は冬の状態でも一週間程度で腐敗がはじまります。

したがって、死後一週間くらいが事故物件になるか否かの分水嶺

ということになります。

=============================================

このような意識のもと、今回の見守りの電話を考えてみると、本人は突発的な身体不調などの状況から生還できる可能性が高まりますし、大家にとっても、自分の所有している物件が事故物件であるというレッテルを張られずに済むというわけです。

これは、ちょっと嫌な話かもしれません。

高齢者が、借りることができる賃貸物件が少ないという話はよく聞きますが、

それはこういった孤独死などの可能性を鑑みるに、

高齢者=リスク

であると捉えられているからです。


では、もしもそういったリスクが軽減できるのであれば?

高齢者は自由に賃貸できる物件が増えるということになります。

見守るというサービスが、ひとつのシステムとなって、これからの高齢社会を支えていくことになります。

単にその方を見守るだけにとどまらないところが先見性を有しているというわけです。






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bt77


私的な話


私的な話になります。
私の亡くなった祖父母は当然のことながら、戦争世代です。
第二次世界大戦が起こったのがだいたい1945年前後なので、72年前。
+20歳と考えれば、
戦争に参加した世代というのは、だいたい90歳から100歳くらいの高齢者ということになります。

祖父も祖母もあまり戦争のことは話すほうではありませんでした。
唯一覚えているエピソードとしては、
戦争が終わったあとに、旧ソ連兵に毛布をとられそうになり、極寒の地であったから、それをとられたら死んでしまう。

なので、必死になってひっぱって取り返したという話。

もちろん、既に勝負はついていますし、場合によっては、銃で撃たれていたかもしれません。

このようなエピソードは無数にあったのかもしれません。
我々の想像にしがたい「戦争」。


レイテ沖海戦で沈んだ船の話

結局、伝聞に過ぎないという意味では、ゲームでのモチーフも、祖父母の話もそんなに変わる者ではないと思います。

例えば、現在、「艦隊これくしょん」というゲームでは、レイテ沖海戦をモチーフにしたイベントをやっています。レイテ沖と言えば、西村艦隊他、日本の海軍がボロ負けした戦いで有名ですが、たぶんミッドウェーほど有名ではないといったところでしょうか。

イメージしましょうといったところで、人から聞いた話、そのまた人から聞いた話、要するに歴史化してしまった話というのは、どんどん抽象度が高くなってしまう。

わたしたちの世代はまだ、直接の伝聞で、その人たちから話を聞けます。

けれど、あと十数年もすれば、戦争を経験した世代はいなくなってしまうわけです。

それこそ、まさに【戦争が終わる世代】だといえます。



歴史の知恵

われわれは戦争が終わる時代に生きているといえます。
それとともに、戦争がはじまりそうな時代にも生きているといえます。
そんな時代において、われわれは、歴史と化してしまう先人たちの知恵を残さなければなりません。ひとつは、先に書いたようなちいさなエピソードをできるだけ書き記すことでしょうか。そういったデータが無数に集まることで、先人たちの知恵を残せるのではないでしょうか?






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bt74

たぶん、わたしより上の世代は実感がないので、書けないことだと思う。
わたしより下の世代も、無意識に落としこまれていて言語化できない。

超ソロ社会において、いったいどのようにして人がつながっていくかを書いていきたいと思います。



超ソロ社会って?

ここの記事にも書いてますが、

文筆家の古谷経衡がパーソナリティをつとめるTOKYO FMの番組「TIME LINE」。
8月22日(火)の放送では、「ストーリー」のコーナーに「超ソロ社会『独身大国・日本』の衝撃」の筆者である荒川和久さんが出演。“2035年、日本人の半分が独身に。「超ソロ社会」の到来”をテーマにトークしました。その内容を2回にわたってお届けします。前編の今回は、独身者が増える現状と、その理由について。
増え続ける独身者、その実態は?

国立社会保障・人口問題研究所によると、2035年には生涯未婚率が男性30%、女性20%になると推計されています。
この推計をもとに荒川さんは、20年後人口の半分が独身生活者になると指摘しています。これは独身・未婚者だけではなく、離別や死別者を含む、15歳以上の全人口に占める独身者数です。

つまり、超ソロ社会=人口の半分は独身の社会ということです。

日本終了のお知らせか?

しかし、そういう悲観ばかりしていても、しかたない。
ここ数十年の人間はどうやれば『つながれるか』を課題にがんばってきたといえます。

そのひとつの鍵となるのがテレビゲームです。


ゲーム世代の深層心理

テレビゲームをする年齢はかなり高まってきています。
要はおじさんもするようになってきています。
子どものころからテレビゲームに慣れしたんだ世代というのは、今の30代から40代くらいの世代ということになります。

テレビゲームの最初期には、これはスタンドアローンなゲームでした。
要するに、ゲーム機というハードに依存したゲームだったわけです。これはこれで楽しいものでしたが、しかし、時代が進むにつれて、ゲームはハードからアプリへと変遷してきました。

スマホやアイフォンでゲームをする時代になってきたわけですね。

したがって、現状のテレビゲームというのは『ソーシャルネットワークゲーム』、いわゆるソシャゲと呼ばれるゲームが流行っています。

ゲームというものは、いろいろなジャンルがあるものですが、大きく大別すれば、自分ひとりで遊ぶソリティアと誰かといっしょになって遊ぶソシャゲのふたつに分けることができます。

ここで、ソシャゲのほうがソリティアよりも社会性が高いと考えるのはおそらく間違いでしょう。

ソシャゲと呼ばれるゲームにはいろいろとあるのですが、ゲームというフィルターがコミュニケーションを極限までそぎ落としています。

例えば、『艦隊これくしょん』においては、ゆるやかなソシャゲと呼ばれていて、ゲーム内での『プレイヤーどうし』のやりとりはまったくありません。単にウィキや掲示板を用いて、情報のやりとりをする。あるいはものすごい数の同人誌が生み出されていますが、そういう形で連帯しています。

この心理は、『他人とつながりたい』が『他人とつながるのはコワイ』という両義的なものです。

この心理を延長させていくとするならば、ゲーム世代のコミュニケーションは、フィルターを通じたものでしかありません。


リアルとゲームの壁なんてそもそもないという意識

まあ、そういうことなんですよね。

ゲームばっかりしていると現実と妄想の区別がつかなくなるとかいう言説が流行った覚えがありますが、そもそも、現実とは感覚受容器における情報を脳が再生しているに過ぎないわけですから、妄想と現実の区別は最初からついていない。

たとえば、錯視という『本当はまっすぐな線なのだけれども、ななめに見える画像』とかありますが、あれは、現実と妄想の区別がついていないよい証拠なわけです。

だから、ゲーム世代は言うなれば、他人がキャラクター化しているといえます。

これは、あまりよくない兆候かもしれません。

これからの時代で、ソシャゲが流行るのは、本当の意味での『他人』が不在だから、つまり、キャラクター類型に当てはめたようにしか人間を見れないということですから。


これからのつながり方

良いかどうかは別にして、コンビニ的なコミュニケーションになっていくと思います。

コンビニでは、確かにお金の受け渡しやら、買うという行為のときに人がそこにいるわけですけれども、コミュニケーションとしての人は不在です。そこでは一切の人格を認めていない。店員と会話なんてなくても、お金を出せばモノは買えるわけです。

それと同じように、どんどんコミュニケーションは類型化されていって、コミュニケーションのガワだけが残るということが考えられるでしょう。

こういった兆候を否定するためには、ゲームだけではなくてたまには外にでましょうねということになるのでしょうか。







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bt75



どんな業種でも窓口は大事

今回はいつものようにふわっとした話ではなく、具体的な話をしようと思います。

当協会で実際にあった事例です。

当協会は、生活保護の方の身元引受をしています。

生活保護の方の葬式・埋葬については、

通常であれば、葬式代は福祉事務所が受け持ち、埋葬代については本人負担になることが多いです。

場所によっては、福祉事務所と半分民間の社会福祉法人と提携していることもあります。
福祉事務所が葬式代を受け持ち、この社会福祉法人が、埋葬料を受け持つということがあるようです。

どういう仕組みで、社会福祉法人が受け持っているかは謎ですが、もしかすると、福祉事務所はすべての案件を社会福祉法人に流すようになっているのかもしれません。つまり、お客さんを買い取ってるのかな? こういう書き方をすると不正をしているように見えてしまうかもしれませんが、利用者にとっては最低限の金額でやってもらえるので、非常に有意義です。

さて、そういう話だったのですが、この社会福祉法人についての件です。


担当のレベル差で対応がまったく変わってしまうという話

あるお方が亡くなりました。
それで、先の話のように、どこで埋葬していただくかという話になりました。
当然、社会福祉法人でやってくださるなら、それに越したことはありません。
特に生活保護の方の場合、余剰のお金はないので、埋葬料が無料であるということは、非常に重要な要素です。


このとき、最初にかかった担当者は『3級地に住んでいるけれども1級地で葬儀するので、1級地の級地設定の葬式代になるので、差額分はでません』とのことでした。

まあ、半分公に属しているとはいえ、厳密には民間ですし、そういう場合もあるでしょう。そこをどうこう言うつもりはありません。

ただ、その次の電話では、違う人がでて『いや普通にできますけど。1級地にはならないですけど。全部出せますけど』とのことでした。

つまり、担当者によって、言ってることがまったく違うのです。

こういったことがあるのが巨大な企業にありがちなこと。

しかし、窓口の人間の対応が異なるのであれば、

その組織として矛盾が生じているということになります。

というか、こちら側からしてみれば、困るの一言に尽きます。


だからといって・・・

こちらから特にできることはありません。

研修制度をきちっとおこなよう抗議することくらいでしょうか。

ただ、そこにもそこの事情があるので、抗議まではしませんでした。






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bt74



脳内若者の話

具体的な誰それという話ではないが、こんな話をよく聞きます。

Q:老後って考えていますか?
A:考えたくないです。
Q:老後をどうやって過ごすとかは?
A:早く死にたいです。
Q:え。そう。でも、君まだ若いからそう思うだけじゃないかな。
A:だって、老後には自由がないから。


それはあまりにもニヒリズム的な発想ですが、しかし、一部首肯できる部分もあります。

老後に何かをしたいという考える前に、これからの時代を考えると、

おそらく70代とか80代までは働かなくてはいけない時代が到来するでしょう。

その場合、働くことが心底好きで、働かないと生きていけないという人は働けばいいと思いますが、

社会的な圧力として、働くべきであるという思想が強くなりすぎると、

努力して働いている人や、そもそも働けない人が、ツライ。

精神的な障害で働けないというのは、目に見えるものではないので、

『根性が足りないから働けない』という理論に陥りやすく、

そうでなくても

『わたしは働いているのに、なぜあいつは働かないんだ』

というふうになりやすい。

これが片腕でも失っていたのなら、みんな働かないということに納得するんでしょうけれども、働くということに、『努力がちょっと足りない』のか『努力がすごく足りないのか』それとも『努力しても絶対無理』なのかは他人にはわかりようがありません。
右肩が痛いというのを他人に伝達してもわかりようがないのと同じで、そういう痛みを訴えることはできても、その痛みそのものを伝達することはできませんので。


老後には自由がなくなるのか?

現状では、老後には自由がなくなる面が確かに多いでしょう。

特に仕事をしなければならない期間が長くなればなるほど、人生の余暇ともいえる老後の期間はどんどん短くなっていくことが予想されます。

ワークライフバランスをいくら声高に叫んだところで、人生全体で見れば、ワークの部分がどんどん圧迫していっているのは間違いありません。

だって、定年自体がどんどん後退していますし。

このあたりは、人間の平均寿命が長くなっていることから、その分がコストと化しているため、しかたないのかもしれません。

それで、問題となるのは、老後のうち、実際にもう働けないというところまで働いたとして、
人生最後の期間である『老後』にいったいなにほどのことができるのかというイメージです。


わたしの場合は、できれば、ネットでも実体のある本でもいいので、いろいろな文章を読んでみたいですね。

文章フェチなので。

詩とかも好きですが、今の時代はポエムという言葉自体が揶揄されているような気もします。

まあ、それは置いておいて、そういうふうな老後の楽しみを模索していたりするんですが、しかし、老人ホームに触れている期間が長いと、実際にそういう未来が到来するかは、非常に疑義的になります。

まず、身体的な事情が、本を読むという行為を許さない可能性。右腕が上がらずに読めないとか。視力が落ちるとか。気力がわかないとか、そういう事情で、ダメになる可能性があります。
次に、施設の都合で、例えば、最終的に人間は生活保護でしか暮らせない世の中が到来し、一人当たりに割り当てられたスペースが、ブロイラーみたいにひとり5㎡ですみたいな感じになって、本なんかとてもじゃないけれどもおけないという可能性。
次に、世の中の都合で、そもそも限界ギリギリまで働かなくてはならず、老後の楽しみというものを感じる間もなく死ぬ可能性。


こんなふうに、考えていくと・・・

冒頭にあったように、早く死にたいというのは、心情的には非常に親近します。

しかし、そういうふうに無意識レベルで考えたとしても、そこから『何か』を掴み取る必要があるのが人間です。まあ、これは信仰心に近いんでしょうが、理屈でいくら考えたところで、コタエがでない部分があるのかなと思います。

自由に生きる老人になりたい。







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bt73



要介護度が改善されたら、地方自治体に交付金を出す。

なので、企業レベルでは関係ないと思われるかもしれませんが、地方自治体は企業に努力を促すことになるでしょう。指導のトリクルダウンといったところでしょうか。

したがって、今後の流れとしては、
【要介護度】を【改善】するよう求められるということになります。



交付金の意義

なぜ、このような交付金が設定されることになったのでしょうか。
ひとつに地方公共団体に財政が圧迫されているところがあったりして、その是正を図ろうとしたということが考えられます。

例えばA市は要介護度が高い方が多い。B市は要介護度が低い方が多い。どちらも人口が同じくらいだとすれば、A市のほうが要介護度が高い分、介護の負担は大きいことになります。

しかし、この時に交付金を設定しておけば、A市は要介護度が高い方が多いから比較的下げることがたやすく、その分交付金をたくさんもらえることになります。B市はもともと要介護度が低いから、たくさんは交付金をもらえない。
こうして、A市とB市の財政的な格差をなくそうという試みなのです。

企業へのインセンティブはどのようなカタチになるか?

地方公共団体が企業にインセンティブを与えることになるのは間違いありません。
交付金を国からもらうためには、そういった企業への適切な指導をおこなったという実績も必要だからです。
おそらく企業側は具体的な数値を出すことを望まれることになります。
ただ、この数値を出すと言うことについては否定的な意見も多いです。

なぜなら、例えば、要介護5の人を要介護度4に100人改善しようという話をしたところで、その数値目標を無理やり達成しようとしないかという恐れがあるからです。

大切なのは、プロセス。
国の評価案を見る限り、
要介護度5から要介護度4になったという結果だけを単純に評価するのではなく、

【こういう仕組みを作り】
【こういう研修をして】
【PDCAサイクルなどの試みを行い】
【結果として要介護度が改善されました】


という評価の仕方をしようとしています。

ただ、どうしても結果をだしたいという流れにはいくでしょうね。
評価を定量的に行うためには、数値という結果があったほうが公平だからです。

なので、インセンティブによる誘因の程度はともかく、今後は地方公共団体は企業に対して、要介護度を改善するように求めるでしょうし、指導実績を稼ぐために、指導が強化される。

たとえば、実地指導の回数が増えたりするということが考えられるでしょう。


交付金によるインセンティブは企業にとって良いことか?

ここからが問題なのですが、地方公共団体は交付金を得たい。
なので、企業に対して指導を強化する。

だったら、いいことじゃないか。
企業は襟を正すだろうし、要介護度を下げようと努力するだろう。
利用者にとっても悪いことじゃないはずだ。

そういう声が聞こえてきそうです。

実際にいままでの場合、企業として介護報酬がたくさんいただける要介護度が高い方の方が、ドル箱であったのですから、この方の要介護度は下がらないほうがよかったわけです。

だったら、交付金によるインセンティブはやっぱりいいじゃないかという話になりそうなんですが、
これもバランスの問題です。

企業側としては、その人の要介護度を改善したほうがよいということになれば、そのように努力するでしょうが、【要介護度が改善しない利用者】は上客ではないということになってしまいます。

例えば、これからの時代は低価格型の老人ホームは客を選べる時代になってきます。なぜなら、介護が必要な高齢者の数は増えているからです。
だとすれば、契約時に、【改善の見込みが薄い客】は最初から入居させないという選択肢が考えられます。

したがって、要介護度改善にインセンティブを与えすぎるのも、介護業界全体からすると、よくない影響がでてしまいます。

導入にはバランスを考えておこなっていく必要があります。





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bt72



介護の見守りとはなにか?

介護において、非常に大きなウェートを占めているのが、見守りです。

見守りという言葉は、介護に携わっている人からみれば、いわば常識です。
それゆえに、実際はぼんやりとした概念でつたわってることが多く、誰かの発した見守りという言葉が、誰かには違って伝わってるかもしれません。

なので、まず見守りを定義しましょう。

この点、詳しいのは、東京都が出している【高齢者見守りガイドブック】が詳しいです。

その中で、見守りは三つに分かれています。

①緩やかな見守り、②担当による見守り、③専門的な見守りの3つです。





❶緩やかな見守り
●緩やかな見守りは、地域の様々な主体が、日々の生活や業務の中で、「いつもと違う」「何
かおかしい」と感じた場合に、見守り専門機関に相談・連絡するさりげない見守り活動です。

❷担当による見守り
●定期的な安否確認や声掛けが必要な人に対しては、民生・児童委員、老人クラブ、住民ボランティア等が担当と役割を決めて見守りを行います。

❸専門的な見守り
●地域包括支援センターやシルバー交番等の専門機関による定期的な見守りは、主に、対応拒否、家族による虐待、認知症など、困難な課題を抱えている高齢者等に対して、専門的知識をもって行う見守りです。定期的な訪問によって行い、必要に応じて、行政、介護サー ビス、医療などの関係機関につなぎます。
●緊急通報システムや生活リズムセンサーなどの機器による見守りも、専門的な見守りと組み合わせることで、24時間365 日の安心・安全の確保に大きな効果を発揮します。


我々が普段、『見守り』と捉えているのは、③によるところが大きいです。
有料老人ホームの職員は、専門的な知見に基づく定期的な見守りだからです。


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有料老人ホームやサ高住などはこの図でいくと真ん中に位置すると考えるとよいでしょう。
あるいは、右と真ん中のちょうど境の位置に属するのが、それらの施設であると考えられます。



見守りは異常事態を検知する装置みたいなもの

いずれの見守りも、転倒したとか、そういうような異常事態を検知する装置みたいなものです。
例えば、新聞配達員が新聞の受け箱に新聞がたまっているのをおかしいなと思い、通報する。
このとき、新聞配達員は見守りをしているといえるわけです。

ただ、どうしても『人』を介した見守りには限界があります。

新聞配達員はどの時間も見守っているわけではなく、新聞を配達したときに限り見守りをしているといえるのです。

有料老人ホームは比較的優秀な見守り装置です。なにしろ、スタッフは24時間いるわけですし、専門的知見を備えているため、もしも緊急対応になったときに反応が速い。
しかし、これからの時代、いつでも有料老人ホームに入れるとは限らない。
国は本当の意味での在宅を目指しており、財源圧縮を図ろうとしています。
このような時代に、有料老人ホームの24時間の見守りに匹敵するような見守りサービスはどのようにしてできるのでしょうか?

そういった、見守りの隙間の時間をできる限りなくそうとすると、

そこではSNSの技術が物を言います。


介護業界におけるSNSとは?

SNSというと、コミュニケーションがメインであり、例えば、ブログやツイッターやフェイスブックなど、個人が個性を主張して、同じ趣味・仕事などの仲間でつながるというイメージがあります。

しかし、ここで、高齢者は別にコミュニケーションをとろうとしていない。見守ってもらいたいだけという考えもありえるかもしれません。

だったら、IOT技術と述べたほうが正しいのでは?

違うのです。

見守りの本質は『異常を検知』することにあります。
異常を検知するとは、その人の『通常』を知らなければなりません。
そして、その人の『通常』とは、コミュニケーションが無ければ推し図ることはできないのです。

例えば、これからの時代、ポットの水の減り具合や、扉の開閉回数、ベッドのセンサーマットの動きなどを総合的にデータ化して、『見守り』をおこなっていくことになる時代が到来するかと思います。

これはこれで正しいあり方です。
見守りの初動として、その人のプライバシーを侵す部分を最小限にしなければならないというのが、介護の在り方として適正だからです。
わたしだって、極限までは誰かに見られている生活になりたくはない。そうであるなら、コミュニケーションも最小限に抑えた生活というのを望みたい。
プライバシーの本質というのは、放っておいてもらうというところにあるのだと思います。

ただし、それではたちゆかないのが介護の現場です。
要するに、ずっと放っておいてほしいと思っても、だんだん身体は弱ってきますし、いつかはひとりで生活できなくなります。

そうなると、先に述べたようなポットの水や、扉の開閉や、ベッドのセンサーマットだけでは次の段階にスムーズに移行できなくなるのです。

次の段階とは、要するにコミュニケーションをとらなければならない場面です。

ポットの水の減りが遅い、扉の開閉があまり行われていない、ベッドのセンサーマットもあまり感知されておらず、ほとんど一日を寝たまま過ごしている。

このような状態になったときに、いよいよ施設に入るべきか否かの瀬戸際に立たされます。

このときに、コミュニケーション能力がやはり必要になるのです。
例えば、そういったIOT技術を導入している会社が、利用者に対して『おかわりはありませんか?』と聞く。
コミュニケーションをとっていく。
そうでなければ、データはただのデータにすぎません。

それに倒れたとき―。
そのときは、IOTの会社の社員が現場にかけつけてもよいですが、そうでなくて、誰か近くにいる人に連絡してもよいのです。例えば、隣家の人や民政委員さんに前もってそういうときは連絡するようなコミュニティを作っておく。そうしておけば、いちはやく発見ということにつながっていくでしょう。


要するに一人で見るのではないということ

見守りが地域の中でおこなわれていくということです。
そういったSNSのステーションの役割をするのが民間の見守り会社というふうになるでしょう。

そういった見守り会社は、単にIOT技術を用いて利用者を見守っているというだけでなく、いざとなったら、隣家の人や民政委員さんに連絡ができるような環境を作っておく。
その環境を構築することが『見守りサービス』そのものだということになります。

次代のサービスはSNSをつかったコミュニティをつくることです。





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bt71



TPPって何?

環太平洋パートナーシップ協定(かんたいへいようパートナーシップきょうてい)(英語: Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement または単に Trans-Pacific Partnership、略称TPP、環太平洋連携協定、環太平洋経済連携協定、環太平洋戦略的経済連携協定、環太平洋経済協定[1])は、環太平洋地域の国々による経済の自由化を目的とした多角的な経済連携協定 (EPA) である[2]。 引用 wikipedia

まあ要するに経済協力のことですね。
アメリカが参加していれば、ある種の牽制のような役割をはたしたかもしれませんが、アメリカが離脱することによって、そういった効果はなくなりました。

じゃあ、日本が盟主として、いろいろとできるのか、
つまり、アメリカ的な立ち位置に収まるかというと、これも微妙。

基本的には、TPP間の国家は平等な立ち位置です。
いくら、GDPで日本がまだまだ強いからといって、おいそれと主張を通せるような「空気」ではない。
日本は協調主義なので、あまりそういうことはやらない国家ですしね。

となると、TPPは日本に有利な状況だけでなく不利な状況も当然もたらすものだと考えなければなりまえせん。

よく言われているのが、外国から安いモノが入ってきたら、農業が潰れるとか、そういう話です。

そして、これは介護業界にも同じことが言えます。


『外国から安いヒト(労働力)がどんどん入ってきたらどうなるのだろう』



安いヒトというと語弊があるからもしれませんが、要は外国人労働者のことです。
特に日本は少子高齢化でどんどん労働人口が減っていきますから、そうなると今と同じ水準のサービスを続けるためには、どこかから労働力を引っ張ってこなければならない。
特に、外国から安い労働力を引っ張ってくるというのが、手っ取り早いという話になります。


関税の撤廃で労働力も安くなる?

なるでしょう。
関税だけでなく、ビザの問題など、多角的に対処することで、今よりずっと外国人労働者を引きこめる環境を作ることは可能だと思います。

この場合、経営者から見れば、安い労働力が大量に手に入るのは歓迎すべきことです。

日本人スタッフに比べて、外国人スタッフのほうが安いのであれば、そちらを雇用するのが経済合理性に照らして、正解に決まっています。

ただ、問題となるのはスタッフの質でしょう。

よくある言説に『外国人スタッフはコミュニケ―ション能力が足りないから使えない』というものがあります。

この言説は果たして正しいのでしょうか?


外国人スタッフは介護に適する適さない?

結論から先に述べると、適すると思います。

まず、介護に必要な能力は、【1】介護技術、【2】コミュニケーション能力です。
このうち、【1】介護技術については、確かにトップクラスになると差がでるかとは思いますが、初任者研修レベルではほとんど大差ありません。
初任者研修は最短で1ヶ月程度でとれる資格ですし、外国人スタッフも同じ期間なので、介護の技術として物理的・肉体的な差はないのです。

では、【2】コミュニケーション能力はどうか?
コミュニケーション能力には、

①話す能力
②聞く能力
③書く能力


の三つを総合的にとらえたものですが、

このうち①話す能力というのは、実をいうとあまり介護の場面では必要になりません。

もちろん、スタッフ間どうしの意見の交換など、まったく不要というわけでもないのですが、多くの場合必要となるのは、②聞く能力になります。

介護で必要なのは、利用者さんが何を言いたいかを聞きとる能力なのです。

この、聞き取る能力について言えば、外国人もある程度のヒアリング能力があれば、日本人と大差がないというのが現状でしょう。
聞き取る能力の根源にあるのは、対人感受性ですが、この対人感受性は、外国にいって、まったく知らない人が何を考えているか、というのが生存に直結する外国人のほうが強いといえます。

ですので、聞き取る能力的にはOKです。

ただ、弱点がないわけではないです。
それは三番めに必要な能力、書く能力です。

介護の現場で必要不可欠なのは『書類を書く』ということで、コミュニケーションを図る能力です。例えば、訪問介護記録報告書の備考欄には、その方に対して訪問サービスを提供していて、気づいたことを書くことになりますが、何を書くかという能力が低いと、後を継いだ訪問介護員やサービス提供責任者が困ることになります。
この、書く能力について言えば、現状、外国人スタッフとして勤めている方が、日本人と同等レベルになるには、かなり熟達しなければ難しいということになります。

おそらくTPP→労働力大量導入というふうに推移した場合に、
そのほとんどは、日本語を書く能力でいえば、『現状、日本人スタッフに期待される水準』に達しておりません。

ここをどうクリアするかですが、書く場面を極力減らすことでしょう。
例えば、IOT技術の導入により、□にチェックをいれるような方式にする。
いくつかのサンプル的な言葉の組み合わせで報告できるようにする。
マニュアルがいつでも参照できるような形にする。

こういった技術の発展で、少しでも水準に近づけていくほかありません。


外国人スタッフの導入で日本人は追い出されるか?

これもそんなことはありませんので、ご安心ください。
今の現状ですでに介護スタッフがまったく足りない状況になりつつあるのです。
2025年には38万人足りないという報告もあります。
そうすると、外国人スタッフだけでは当然足りませんし、日本人スタッフも必要になってきます。

TPPで外国人スタッフが仮に増えたとしても、それが日本人を追い出す理由にはならないはずです。







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bt70


介護業界は不倫の温床?

セクハラについては、実際に見てはいないのですが、不倫の噂はよく聞きました。
私が前に勤めていた会社でも、少なくとも3件は、具体的にどうのこうのというのがありました。

不倫と言えば、既婚者がどうのこうのというわけですが、基本的には男性側が権力を持っていることが多いのではないかと思われます。

実際に聞こえてきた噂でも、男性が施設長で女性側がヘルパーという例でした。
なぜバレたかというと、これは笑える話なんですが、女性側が施設長のメールアドレスに送ろうとしたところ、そのメールがまちがって施設長よりも上の人に送信されてしまって、それでバレてしまった。

送ったすぐ後に、「あれはまちがいです!」みたいなメールが来たらしいですけど、

さすがに後の祭り。

さて、この場合――、

こういう状況であると知ってしまった上司の心境やいかにという感じです。

不倫については、配偶者にとってみれば、不義理そのもので、結婚をいわば契約とみれば、契約不履行そのものなのですが、しかし……、セクハラに比べれば、他害性は薄い。

事を荒立てたところで、本人だけでなく、家族も不幸になる可能性があります。

しかし、モラルという意味では、放置するわけにもいきません。

結局、そのときは別の理由で退職していただくことになりました。

たとえば、施設の管理ができていないとか、そういう理由です。

これって、かなり温情なんだと思います。フツーだったら、不倫してましたよねで通せば良い話。今回の場合、仕事時間中に不倫の打ち合わせをしていたので、職務規程に反するのは明らかでした。

ただ、さすがに忍びなかったという感じなのでしょう。


さて、こういった事例を見て、思ったのは、介護施設というのは実に不倫がしやすい環境にあるということです。特に小規模の施設であれば、夜勤時にひとりで夜勤をするということも多く、このときに不倫の相手方が残れば、不倫の状況が完成です。
入居者の方がいるじゃないかという考えもあるかもしれませんが、基本的には、夜は一時間か二時間に一度の巡回でしょうし、ナースコールが頻回の方がいなければ、だいたい「この時間」は静かだということもわかってくるでしょう。

わりと二人きりの時間が作りやすいんですよね。

施設側の対策は?

監視カメラを設置するほかないでしょうね。
その監視カメラもサーバー上に即座にアップロードされて、記録するタイプなら、証拠が残りますし、事務室と廊下に置いておけばバッチリです。

問題はコストがかかることでしょうか。
監視カメラ一台設置するだけでもかなりのお金になりますし、メンテナンス代もかかります。
おいそれとは導入できないです。
また、設置していなかったところにいきなり設置すると、スタッフの心境的には、『わたしたちのことを信じていないのか』となって、反発を招きます。
できるなら、新規のときに、いっしょに導入するべきです。

介護施設はセクハラの温床?


セクハラについてですが、実際にあるようですね。
利用者からされたという場合もあれば、施設長などの上司にされたという場合もあるようです。
利用者からの場合は厳密に言えば、セクハラの定義からは外れると思うのですが、しかし、『わたしはお客様』という意識があれば、セクハラと同じような権力構造があるでしょう。
一説によれば、女性のうち40%がセクハラを受けたという話もありまして、その内容としては、直接的に触られたというのもあれば、卑猥な言葉を投げかけられたというのもあるようです。

こちらの対策としては、個人レベルでは、断固とした態度をとるべきでしょう。
お客様だからという理由で、躊躇していてはいけません。
むしろお客様だからこそ、犯罪者にしてはいけないと思います。

法人としての対策としては、できることなら、セクハラの対象になった被害者と利用者を切り離すということを試みたほうがよいでしょう。Aさんばかりが被害を受けるというのであれば、Aさんを近づけず、Bさんが代わりにいくというような話です。
そういったマンパワーがなければ、やはり最終的にはサービスをご提供できないと申し伝えるべきでしょう。






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重要事項説明書を完全攻略しよう 1ページ目



前回からだいぶん開いてしまいましたが、
有料老人ホームの重要事項説明書について
2ページ目を攻略していきます。

重要事項説明書 2ページ目 攻略

まず、2ページ目ですが

重要事項説明書2ページ目

このようになっています。

では、上から説明していきましょう。



類型(表示事項)とは?


その建物が、どのような類型に位置するかを表しています。
1と2は介護付有料老人ホームのことで、これは特定施設のことを指しています。
特定施設とは、いわゆる丸めの施設で、その中で介護も行われます。
民間の企業が特定施設になるには、総量規制などの問題で難しいので、普段はあまり意識しないところです。

3の住宅型有料老人ホームは、民間企業の場合、一般的です。
介護については、この住宅型有料老人ホームそのものではおこないません。
おこなうのは、あくまで訪問介護や通所介護などの外部サービスを使ってということになります。
この外部サービスが同一法人で行われると囲い込みとか言われて、問題になるわけですね。

4番目の健康型は、これはその名のとおり健康な人=自立の人が入る有料老人ホームです。
なので、要介護や要支援の人は入れないということになります。
そうなりますと、必然的に介護保険事業と組み合わせることができないので、高額なサービスになることが多いと思われます。
一般的なイメージとしては、ホテルでの暮らしのような感覚です。
ただ、この類型は要介護になったときにどうするのかということがネックになってくるため、あまり流行ってはいません。

こうしてみていくと、おおよそ民間の企業が選択しやすいのは『住宅型』ということになります。
ただ、もちろん住宅型にも外部サービスをどのように組み合わせるか、囲い込みと言われないためにはどうすればよいか等を考える必要があります。


ここでは、『住宅型』であるとして、話を進めます。
この場合、類型の下にある※1又は2に該当する場合にあてはまらないので、
そこは空白のままでよいです。

277240_52769180_misc_02

土地部分について


次に、土地部分ですが


277240_52769180_misc_032


こんな感じになります。
敷地面積はその名のとおり、敷地の面積です。
土地の面積のことですね。
一番カンタンな方法は、建築会社が建物の配置図等を作成する際に、測量していますから、
そこから情報を抜粋するということになります。
あとは、字図から計算するという方法もあります。
ただ、この建築会社の敷地面積と字図の数値は計算方法が異なるせいか、
微妙に数値が異なります

じゃあどうすればいいの?


どちらでもよいが答えです。要するに、その数値の根拠となっているデータが何かをきちんと答えられるなら、べつに配置図が根拠でも字図が根拠でもよいのです。
厳密に言えば、字図のほうが法務局という行政機関が作成しているため、根拠としては強いですが、字図は取り寄せるのにお金がかかるため、配置図で足りるなら配置図で良いでしょう。



土地の所有関係について

土地の所有関係とは、申請した事業者から見て、土地の所有関係はどうなっているかを書きます。
例えば、事業者が土地を所有していたら、1になりますし、オーナーが別にいて、その方に借りていると言う場合は3になります。どちらも混ざっていたら2ということになりますね。

抵当権の有無については『土地登記簿』を見てみましょう。

土地登記簿sample

土地登記簿には権利部(乙区)というものがあり、ここで抵当権の設定がうかがえます。
ちょうど赤丸をつけたところですね。
ここで、抵当権の有無がなぜ問われるかというと、抵当権を実行されて、土地をとられてしまったら、有料老人ホームの運営が続けられなくなってしまって、それはそこに実際に住んでいる入居者にとって大変困る事態だからです。

なので、抵当権はあまりついてないほうがよいわけですね。
では、『有』に丸をつけたのはなぜかという話なのですが、有料老人ホームを建築していくためには、少なくとも億単位のお金がかかります。
これを自己資金のみで建てるのはなかなか難しい。

通常は『銀行』に借りますよね。

ということは、抵当権もつけることになります。

要は、『その有料老人ホームを建てるために抵当権をつけるのはしかたない』という考え方があるのです。

ですから、仮に抵当権の有無が問題になるとすれば、抵当権の設定時期が有料老人ホーム建築時期よりもかなり前にある場合です。

この場合は、有料老人ホームを建てるために抵当権をつけたといえないので、先に述べた抵当権実行のリスクがあるということになります。

では、この場合は絶対に運営できないかというと、そういうわけではありません。この場合は、行政によっていろいろと判断が異なるでしょうが、例えば『抵当権実行の恐れはありません。有料老人ホーム運営会社と協力体制を敷き、運営を続けます』といったような誓約書をオーナーに書いていただく等、いろいろと補強することになるでしょう。


次に、賃貸の場合は、その期間が重要になってきます。
おそらく、賃貸の期間は25年から30年といった期間が一般的です。
この場合の表記は和暦か西暦かですが、どちらでもよいです。
ただ、こちらも賃貸借契約書に書かれているように書くというのが一般的です。
契約の自動更新については、賃貸借契約書のとおり書けばよいです。ただ一般的にはついていることが多いでしょう。


建物部分について

277240_52769180_misc_033

まず、規模は何階建てなのか、有料老人ホームとして何棟あるのかを書きます。
同一土地上に二つの建物があって、そのどちらも有料老人ホームである場合、その二つを違う事業所として捉えて、二つの設置届を出す場合もあれば、機能的連結性を考えて、ひとつの事業所として捉えることもあるという話です。
この場合は、最低でも渡り廊下でつながっている必要がある等、行政の判断もかかわってくるところです。設置届がダブルになる場合はその分、申請量が増えることになるので、当然面倒です。

次に構造については、その建物がどのような材質でできているかです。
これは、建築確認済証を見てみればわかります。


確認済証サンプル

赤丸のところに木造と書いているのがわかります。
ついでに言えば、敷地面積や延べ面積もここでわかりますね。


耐火構造については、確認申請書類の第四面に書かれています。
確認申請書第四面サンプル


ただ、わざわざ見るまでもなく、建築会社に聞いたほうが話は早いかもしれません。

所有関係については、土地と同様に考えればよいです。

以上で2ページ目の攻略完了です。






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箱物サービスにつきものな囲い込みついて

たびたび同じような話題がニュースになります。

箱物サービス=有料老人ホームやサ高住などで、囲い込みがおこなわれたという記事です。

囲い込みとは、外部サービス委託型であるにもかかわらず、その外部サービスをおこなうのが、同法人であることを指します。
利用者がその法人以外のサービスを受けるのを事実上拒否する。

まさに、利用者を囲い込んでいるわけです。
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有料老人ホームやサ高住は箱物サービスで、本来なら訪問介護や通所介護は外部のサービスを自由に選択できます。しかし、これを介護報酬の売り上げのメインに置いているため、法人の意思として『同法人のサービス』をお勧めする。

お勧めするというスタイルになるのは、当然です。
契約自由の原則に照らしても、利用者は自分に合ったサービスを自由に選択すべきですから、誰かにそのサービスを強要されるいわれはありません。

しかし、問題なのは、お勧めすると言いながら、実質的には強要となっている場合です。


囲い込みの分水嶺

囲い込みと社会的に判断されるか否かは、この『お勧め』の範囲か、それとも『強要』になってしまっているかによります。

お勧めか強要かを判断する際には、①利用者に対するアプローチの仕方、②サービスの割合(適用率)、③外部サービスの利用者数などを元に判断されます。

ひとつひとつ見ていきましょう。



① 利用者に対するアプローチの仕方

まず、利用者に対するアプローチの仕方ですが、いうまでもなく、強制してはいけません。

例えば、『うちに入居していただいている方は、必ずうちの訪問介護サービスを使っていただきます』
とか言ってしまうと一発でアウトです。仮にケアマネが外部のケアマネであったら、まちがいなく行政にチクられます。
次の月くらいには監査にやってくるかもしれません。

あくまで、うちのサービスを使っていただくのが有利であるというふうに留めるべきです。
例えば、有料老人ホームのスタッフと法㎡ん介護のスタッフがかぶっているから、利用者のことをよく知っている。したがって、その方に対して、よりよいサービスを提供できるはずだ。

だから、選んでいただければ幸いです。
というふうに。

ともかく、利用者に対する言動は細心の注意を払わなければなりません。


② サービスの割合(適用率)

次に考えるべきなのは、その利用者個人のサービスの割合です。

介護保険というものは、要介護ごとにその限度額が決まっているものですが、これを100%まで使っていたら、行政も「おや?」と思うはずです。

ただ、これはケアマネが外部ケアマネであれば、そのケアマネがいいといっている以上は、問題がないことが多いといえます。

問題になりえるのは、内部ケアマネ。
つまり、同一法人内のケアマネにてケアプランを作成している場合です。
この場合は、行政の目も厳しいので、サービスの使っている割合がどの程度なのかといったところをよく見られます。

このとき、どの行政も言わないのですが、
あえて平均的にはどの程度の割合ならOKというのが要介護ごとに決まっているのではないでしょうか。

例えば、

要介護1=~70%ライン
要介護2=~70%ライン
要介護3=~80%ライン
要介護4=~90%ライン
要介護5=~100%ライン

こんなイメージです。要介護が上がるのつれて、理想とされる適用率(限度額に対して、どれだけ使うか)が上がっていくのです。

ただ、この適用率も、外部サービスを使うのであれば、緩和されます。
外部サービスをひとつでも使っているのであれば、基本的に100%を越えない限りは許されます。


③ 外部サービスの利用者数

外部サービスを使っている方の利用者数も重要な要素です。
もちろん、外部サービスを使っている方が多ければ多いほど、その方に対するサービスが適正である可能性が高まります。
なぜなら、実際に、その方の自由な選択によって外部サービスが使われているのですから、囲い込みがおこなわれていないことの証拠になるからです。




囲い込みは本当に悪なのか?


我々が問わなくてはいけないのは、何故囲い込みが行われるかです。

これは、結局、企業の収益構造において、訪問介護などの介護報酬に依存している度合が高いからです。

特に、住宅費用などを抑えた結果、そのしわ寄せが介護保険事業に来るという場合、非常に高い適用率が求められることになります。

つまり、自社のサービスをたくさん使ってくださいねということになります。

利用者視点でいえば、介護保険の使う割合が増えても、その負担額は一割や二割だったりするわけですから、有料老人ホームの利用料を抑えてもらったほうが、全体としては安いというメリットがあります。

なので、そういった収益構造にもある種の『必要悪』的な要素があるので、一概にすべて否定しまうわけにはいかないのです。

上であげた記事においては、

9月に行われた社会保障審議会分科会で、サ高住などの団体で作る「高齢者住まい事業者団体連合会」は、「不適正なビジネスモデルの存在は極めて遺憾」との考えを示した。
とのことですが、見なければいけないのは、そういった介護保険を宛てにした収益構造を、消費者である利用者も望んでいる面があるのです。



ビジネスモデルの適正さについて

ただし、こういった考えは要はバランスだと思います。
仮に、介護報酬に依存したビジネスモデルを是とした場合、有料老人ホームの箱物を単体で考えたときに、その収支は赤字ということになります。それを介護報酬の黒で補っている。
しかし、このようなビジネスモデルは、先に述べたように、非常に高い適用率や、損益分岐点において非常に高度なマネジメントを要求されるようになります。

つまり、モデル的に非常に不安定なんですね。

結果として、その企業が潰れてしまっては元も子もないですから、あまり行き過ぎた介護報酬偏重の構造は、慎むべきでしょう。

他方で、利用者が安価に利用できる住居として、安い施設というのは生き残っていくべきだと思いますので、少しは無理をする部分は無理をしていいのではないかと思います。

具体的には箱物サービスはとんとん程度までは、無理をしていい。

具体的には十数名規模の施設であれば、10万円程度。このラインになるでしょう。



集合住宅減算は悪か?

集合住宅減算は、さらに上記のようなビジネスモデルを不適切なものと切り捨てるものです。

そうなると企業としては、箱物サービスの利用料を上げざるを得ない。

いままでは、なんとか10万円程度になっていたものが、適用率をあげていくのもダメ。外部サービスを利用させろということも含めて考えれば、もはや15万円のラインが普通になっていくでしょう。
これは外部サービスとは別なので、すべて含めて、月に20万円が普通という、再び昔のように高額の介護施設が当たり前になっていくと思われます。

そうでなかったら、本当の在宅でなんとかやっていくほかありません。
現実的に独居で金がない高齢者は、現在住んでいるアパートを追い出されることは法律上あまりないので、訪問介護を使いながら細々と暮らしていくことになるでしょう。
言うまでもないですが、訪問介護は24時間のサービスではないので、見守りの時間外は常に危険にさらされることになります。

国の考えは、これを地域コミュニティでカバーするという考えですが、果たしてうまくいくのでしょうか?



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bt68



『老人』は差別用語か?

よく、介護施設で勤めていたら、こんな言葉を聞くかもしれません。

『老人』は差別用語なので『高齢者』という言葉を使いましょう。

しかし、どうなのでしょうね。

ここで問題となるのは、言葉の意味というのは、時代とともに移り変わっていくということです。

例えば、「貴様」はあなたさまという意味だったが、時代が下るにつれて、蔑称に変わりました。

老人という言葉の意味もきっと20年前とは異なっているということなのでしょう。

他にも『痴呆症』という言葉が、『痴』というのが、愚かとか頭が悪いという意味を含んでおりましたので、厚生労働省が会議を開き、2004年12月24日に呼称変更の採択がなされました。わずか13年前なんですね。(2017年現在)

こういうふうに、言葉というのはどんどん進化していくものですが、その主軸になっているのは、その言葉がどのような文脈の中で発せられてきたか。その言葉がある集団をあらわすものであれば、その集団に属する者に対して、誹謗中傷になっていないかといったところが、非常に大きくクローズアップされます。

このようになっているのは、ひとつに世の中にはイデオロギー、すなわち一義的な価値というものがなくなった結果、多様性が最も重要視されてしまい、『平等』という言葉が逆説的にイデオロギーになってしまったからでしょう。

つまり、差別されていた者たちが、逆に差別されていなかった者たちを糾弾する時代になってしまっています。

まあ、それはそれとして、実際に『痴呆症』という言葉の場合は、その言葉の語義もさることながら、介護に忙殺される文脈の中で語られることが多かったと思います。

イメージ的には『恍惚の人』という小説。

したがって、そういった言葉にまとわりつくイメージを殺すために、『認知症』という言葉を付与したのだろうと思います。

こうして考えると、痴呆症を認知症に変えたのは、かなり正当性があるかなと思います。


では『老人』という言葉はどうか?

まず、語義からすると、『老』という言葉は、タオシ―、つまり先生という意味が含まれているようです。したがって、蔑称というよりは尊称であるといえます。

問題となるのは、語源よりも文脈。つまり日本において『老人』がどのような文脈の中で語られてきたかですが、これはその言葉のイメージをすくいあげなければ難しい。

ここで、ひとつ申し上げておきたいのですが、

『老人』である人がひとりでもNOといったら、ダメなんだという論法はおかしいと思います。

そもそも、言葉というのは象徴性を持つものです。一義的に捉えられるのでなく、シンボリックな側面がある。サインではない。A=Aの関係でとらえられるものではないのです。老人という言葉にももちろん、その論理は成立します。わたしが発するときの「老人」と、誰かが聞いたときの「老人」はその象徴性が異なるのです。

例えば、ご老人は大切にしなければならないとわたしが発したときに、高齢者の方がその言葉を聞いたときに「老人」とはなんだ、けしからんという言葉を発したとします。

これは、わたしが発した「老人」と、高齢の方が聞いた「老人」が異なるイメージの連鎖の中に置かれているからです。

ですから、『老人』という言葉を嫌だという人がひとりでもいるのなら、その言葉を使うのはやめるべきだというのは、まさに使うべき言葉がなくなってしまう。言葉狩りになってしまいます。

ではどういうふうに考えるべきかですが、その言葉の与えるイメージがマイナスだと感じたら、自主的にとりやめるべきといったところです。ここでは、「わたし」の視点で、社会を考えています。社会、すなわちその「集団」に属する人が、どう感じているかを妄想しているわけです。

誰かがやめるべきといったからといって、すぐにやめるというのではなく、少したちどまって考えれば、それでいいんじゃないかなと思います。


わたしの視点で、「老人」はOK?

ギリOKかなという印象です。

社会的には、「老害」とか、老という文字に悪い印象も散見されるんですけれども、『老人の知恵』とかそういうプラス面も多く残存していますし、社会全体で俯瞰してみれば、中性的な言葉かなという感じがします。






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サザエさんが危ない?


日曜の六時半といえば、サザエさんの時間です。

1969年10月5日より開始、2017年11月7日現在まで48年も続いている化け物番組ですが、このところ不穏な兆候が見られます。

サザエさんのスポンサーであった東芝が降りるという記事が掲載されたのです。
しかし、これをすぐあとに東芝が否定。継続の意向を示したとのことです。

なにかこう……踊らされた感がありますが、しかし、盤石と思われたサザエさんが危機にさらされたのは、なんとも言い難いインパクトがありました。

だって、48年も続いた作品が、ある日突然崩壊を始めるなんて、なんともさみしい気がしませんか?


同じくご長寿番組で、こちらは実際に終わるらしいのが「めちゃイケ」と「みなさんのおかげでした」

どちらも二十年以上続いていて、そんな番組が急に終了するのは、ひとつの時代の終わりを感じる出来事です。



多様性のあらわれ?

このような長寿番組が打ち切られる原因としては、スポンサー自体がテレビの宣伝広告効果を疑問に思い始めたからなのかもしれません。

そのひとつの指標が視聴率です。「サザエさん」は打ち切られず、「めちゃイケ」や「みなさんのおかがでした」が打ち切られるのは、この視聴率の差であるといえます。

例えば、めちゃイケは最近では5パーセントを切ることもあるとか。

しかし、この点については、サザエさんも笑っていられません。
最近のサザエさんの視聴率は5パーセントとは言わないまでも、昭和の時代では20パーセントを誇っていた視聴率が、いまや10パーセントを切ることも珍しくないとか。

これは、もはや時代の流れ。変化というほかないのかもしれません。


どんな変化か?

ひとつにテレビという媒体自体がさほど魅力的なものではなくなってきたというのが上げられるでしょう。つまり、スマートフォンの台頭です。
言うまでもないことですが、スマートフォンにおいては、多様なアプリをインストールすることで、自分の趣味にマッチした時間の消費の仕方を選択できます。
テレビのように決まった時間に決まったコンテンツが流れるのと違い、自分で時間と対象を選択することができるわけです。

また、そこでは多様性が確保されています。
テレビのチャンネルはいいところ10程度しかないわけですが、スマートフォンのアプリは、数えきれないほどのコンテンツが転がっています。

若者の〇〇離れという言葉が、よく聞かれるようになりましたが、その一つとして、若者のテレビ離れが著しいということなのでしょう。



高齢者とテレビ

ここで、ついに高齢者が登場します。当ブログは一応は介護ブログなのです。

高齢者の方は、テレビとどのような接し方をしているでしょうか。

みんなの介護ニュース様の記事によれば、高齢になるにつれてテレビを見る時間が増える

なんと、70代になると、平均して6時間もテレビを見ているとのことです。

これは、テレビを心底おもしろいと思ってみているわけではなく、なんとなくもの寂しくて、BGM代わりにつけているというパターンでしょうか?

上記の記事では、『世の中の動きを把握する』ためというのが、テレビを見る理由の一位で、29パーセントを占めておりましたが、実際にはニュース番組が四六時中あるわけではないので、外に出て社会的活動がおっくうになった結果、その代替的な行為としてテレビをみているのではないかと思います。


精神分析的に言えば、高齢者の方が大文字の他者が機能していて、若者になるにつれて大文字の他者が不在となるとか、そんな感じ。

これを通俗的な言い方になおせば、高齢者はテレビという単一サーバーにアクセスしようとするが、若者はSNSを使ってP2P的な通信を行うといったイメージでしょうか。

だから、テレビは古臭いんですよね。

発想がパノプティコン(全展望監視システム)的というか。実際にはテレビを見ているのではなく、テレビに見られているのではないかと思うくらいです。


そうは言ってもサザエさんは偉大である

しかし、ここで思うのは、ひとつやふたつぐらいはサザエさん的な作品。日本中から認知されているようなテレビ番組があってもいいのではないかということです。

何事も終わるのはカンタンで続けるのは難しいのですから。

特に、多様性という言葉が、猫も杓子も多様性で、絶対的に正しいと思われていますが、そういうわけでもないと思います。多様性はその社会をひとつの精神としてみたときに、グニャグニャとした軟体動物のような感じになっています。
つまり、コミュニティ同士が断絶していて、会話が成り立たない。

こういったときに「サザエさん」のような共通言語があれば、かろうじて会話が成り立つ。
そういう意味で、サザエさんは精神的支柱になりえる。

高齢者でない世代が高齢者世代にアクセスする方法として、やはり完全にテレビを捨て去ることはできないでしょう。

サザエさんを安易に殺してはいけないと思います。



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bt65



介護スタッフの資格要件が緩められるそうです。

ここの記事に書いていました。

要するに、訪問介護の生活支援については、現存の初任者研修よりもさらにとりやすい資格でもOKとする案です。

生活支援というのは、利用者の身体には直接触れることなく、例えば掃除や洗濯などの生活を支援する介護のことを言います。

まず、直接身体に触れないというのは介護としては難易度がかなり下がります。

実際、身体介護は介護の仕方によっては、利用者に痛みを与えてしまう場合もありますし、事故につながる可能性もあります。それに比べると、直接身体に触ることがない生活支援は、言ってしまえば、多少のミスがあっても、直接身体の危険に及ぶことは、ほとんど考えられません。

この考え方は、生活支援と身体介護を二分化して、身体介護に重点を置くということです。
つまり、逆に言えば、生活支援の介護報酬額は引き下げるということも意味しているのです。


売上をあげるために、多量のサービスを導入することに

ひとつの懸念としては、売上をあげるために、多量のサービスを導入せざるをえず、そのため人件費がかさむということになるのです。

この点に対する答えは

メリハリをつけるというものでした。

つまり、生活支援に新設される資格者はおそらく非常に低廉な賃金になるということを示唆されております。

問題は、その結果としてサービスの質が低下しないかということです。

グレシャムの有名な理論に『悪貨は良貨を駆逐する』というものがありました。質の良いものと悪いものを混ぜて使うと、いずれは質の悪いものが席巻し、質の良いものは姿を消してしまうという理論です。

この現象が介護業界でも起こらないとは言い切れないところがコワイ。

起こるべくして起こる事象

昨今で多くなってきているベトナムの方の流入は、上記の資格を緩める件と密接に結び付いているように思います。

資格要件を緩め、低廉な価格で人材不足を補う。

これが国の考え方なのかもしれません。

そもそも、こういうような資格要件を緩めて、介護の無駄をなくそうという論調には、財源を圧迫しないで済むようにしたいという国の意向が反映されています。

しかし、このような状況のなかでますますスタッフの質が低下してしまうと、既存のスタッフの意欲が低下してしまうことも考えられますし、仕事のしわ寄せが既存スタッフに偏ってしまい、ますます忙しくなるということも考えられます。

そもそも、介護報酬の額が下がるということは、企業としては給料を据え置きにせざるを得ないので、スタッフ側から見れば、給料はあがらない、仕事はきついという状況になります。

結果として、介護業界がますます衰退していくのではないかということが懸念されます。

以上のことから考えて、資格要件を緩めるというのは、やめておいたほうが無難だと思います。

それよりも考えるべきなのは、介護報酬を引き上げることです

結論はわかりきっているんですけど、実際にはその結論に至るのが難しいという状況なのでしょう。




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bt64



生活保護受給のための条件

生活保護受給のための条件とはなんでしょうか。

生活保護法によれば


(基準及び程度の原則)
第八条 保護は、厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。
《改正》平11法160
2 前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。
となっております。

つまり、最低限度の生活を保障するための制度であり、最低限度の生活に届いていないということが、様々な角度から検証されることになります。

実際に検証を行うのは生活保護受給費を支給する各市町村の福祉事務所(名前に多少のブレがあります)ということになります。

すなわち、各市町村の担当者が実際に、その方に生活保護受給の資格があるか否かを調査していくことになります。

具体的には、収入や貯蓄額、身体の健康状態から働けるか否か、家族親族等の養ってくれる人は不在なのか、あるいは年金等の他制度の活用によって、上記のような健康で文化的な最低限度の生活が保障されているかを見ていくわけです。



一年間の居住を条件とされた話

当協会のスタッフからの伝聞になりますが、

とある市町村が『一年間の居住』を条件としてきました。
場所によっては三カ月とか半年とかいうところもあるようです。

おそらくこの居住の期間については、法律上の根拠がないのではないかと思います。

あえて言うのであれば、行政の裁量権の範囲であるという言い方でしょうが、しかし、法律が示しているのは、最低限の生活を保障することであり、最低限の生活が保障された状態か否かを判断するのであって、今そこに住んでいるか否かは関係がありません。

つまり、端的にいえば、裁量権を逸脱しているのではないかと思います。

そもそもの話、そこで住むには生活保護の助けがいるという状況なのに、そこに住まなくてはいけないというのは、事実上、潜在的な生活保護受給者をシャットアウトしているに等しいことです。
つまり、その市町村から出ていけと言っているに等しい。

また、その市町村は仮にホームレスの方は受け入れないのかという問題もでてきます。
生活保護法は当然、ホームレスであっても、その射程に含まれます。たとえ居住地がなくても現在地(たとえば、橋のたもととか)を基点として、そこの管轄する福祉事務所が担当となるわけですね。
では、そういった居住に期間が必要という場合、ホームレスの方は居住地がないので、生活保護を受けられないということになりそうです。それともホームレスは別枠ということで受け入れたりするんでしょうか。


窓口で申請書類を渡さない問題

具体的に、市町村が生活保護の受給を拒否する方法としては、窓口で申請書類を意地でも渡さないという方法が考えられます。
これはこれで問題です。
一年間の居住期間がないので、明らかに受給資格がなく、だから申請書をお渡しできませんという論理なのでしょうが、行政には生活保護の申請自体を拒否する権限はございません。

つまり、窓口でシャットアウトということはできません。

行政手続法7条によれば、『受理』という概念は存在せず、そもそも申請したいですと言われたらそれを拒否することはできません。

第七条 
行政庁は、申請がその事務所に到達したときは遅滞なく当該申請の審査を開始しなければならず、かつ、申請書の記載事項に不備がないこと、申請書に必要な書類が添付されていること、申請をすることができる期間内にされたものであることその他の法令に定められた申請の形式上の要件に適合しない申請については、速やかに、申請をした者(以下「申請者」という。)に対し相当の期間を定めて当該申請の補正を求め、又は当該申請により求められた許認可等を拒否しなければならない。

この場合は、申請書類自体を渡さないということなので、若干異なるかもしれませんが、本人が直接福祉事務所に来て、それで申請したいと言ってるにも関わらず、その書類を渡さないというのは、非常に違法性の高い行為のように思えます。

ではいったいどうすればよいか。

ひとつに、なんでもいいから他市の申請用紙に記載して提出してみるというのがよいかもしれません。そうすれば、とにもかくにも申請書類自体は到着してしまっているので、行政は受け取らざるを得ません。そして内容がまちがっているというのであれば、補正を命じるべきであって、問答無用のシャットアウトはできません。

そもそも、行政が窓口でシャットアウトする理由は、申請が到着してから審理し、その結果生活保護の受給ができないとなると、その理由が法的な根拠を有するものでなければならないからです。
例えば、収入があるから生活保護を受けなくても最低限の生活は可能。だから、受給不可というふうに。

しかし、居住の期間は、そういった最低限の生活とは無関係な属性なので、理由にならないのです。したがって、行政は受給不可とするときに、なにか他の理由をでっち上げなければならない。そうすると、さらに行政不服を申し立てたりしたときに、事実状態との齟齬が生じる可能性がでてきます。

つまり、行政が妥当な判断をしなかったということが明るみにでてしまう可能性がある。

だから、窓口でシャットアウトしたいのでしょう。


最終判断として

行政のしていることは、きわめて違法性の疑いが強い行為だと思われましたが、しかし、行政との協調関係を崩したくないということもあります。
実際問題、生活保護受給者の生活を支えるのは、当協会のような身元引受人の存在だけでは足りません。施設や、その他の業者、それだけでなくやはり行政と歩調を併せなければ難しいところです。
そこで、待てる状況かどうかを判断して、ギリギリ可能であるということで待ちました。
施設も我々もご本人様も少しずつ我慢したということです。

判断自体はまちがっていなかったと思うのですが、行政の在り方にひとことモノ申してもよかったかもしれません。






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bt62


最近、ハリネズミさんの画像多いですが、かわいいのでしかたない。

さて、なんの話をしようかというと、最近あった介護スタッフの方の横領の話です。

この方の場合は、障害者だったので、おそらく精神的疾患はもってなかったのかもしれません。

だから気づくことができたのですが、訪問介護で高齢者のいるお宅に訪問する場合、はるかに危険度が高いと思いませんか?


訪問介護の危険性

べつに横領だけに限られません。訪問介護は潜在的に危険性を秘めているんです。
その原因は

①基本的に1対1であること(独居で単独訪問なら完全に1対1になることも)
②密室であること(お宅に訪問する場合は密室ですし、お部屋であってもそこは密室です)
③高齢者の場合、判断能力が低下していること(仮に認知症なら、ほとんどバレない)

こうした状況だけみると、犯罪の土壌は既にできあがっており、それを抑制するのは、スタッフひとりひとりの高い使命感にほかなりません。

これだけ訪問介護が一般的になっても、明らかになるのはごくわずかということは、潜在的な明らかになっていない犯罪がまだまだあるにしろ、使命感をもって仕事をなさっている方が大半だからだと思います。


けれど、それとこれとは話が別・・・



訪問介護における犯罪抑制の方法とは?

使命感に求めるのではなく、構造に求めるのが基本でしょう。

つまり、監督、チェック機能のようなものを作るべきです。

いまも確かにチェック機能はあります。

例えば、訪問介護記録報告書は、その訪問介護で何をしたかを書くことになっていますし、備考欄ではなにかしら特別な事情が生じた場合に、そういったことを記載することになっています。

したがって、そういった報告書等をつぶさにみれば、なにかしらの異常は感知できるはずだ。

そういう論法も成り立ちます。

しかし、実際に訪問介護に携わっている方からすれば、おわかりでしょうが、それはまるっきり嘘っぱちです。はっきりいって、財布をとろうが、カードを盗もうが、わかるわけがない。


どのような方策をとっていくべきか?

監督システムというのはなかなか難しい。

利用者の住まいにカメラを設置するというのも現実的ではない。

となると、考えられるのは、抜き打ちのテストのような監督システムでしょうか。

例えば、サービス提供責任者が月に一度は見に来る。その日はランダムで、いつになるのかわからない。

さらに、財布を持っている人。つまり、ご家族や成年後見人に対して、ヒアリングを行っていくということも必要でしょう。

このような方策を行うには、法整備が必要になるでしょうから、まずはそこからという話になります。





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bt61



芸術は爆発だ

岡本太郎の『芸術は爆発だ』という言葉はあまりにも有名です。

わたしなりにこの言葉を理解するに、芸術というのはおそらくは人間のことなのでしょう。

人間は生きる上で、様々な制約に縛られています。

この制約のうち最も大きなものは、そもそも「私」という存在です。
この「私」は事実無根の、フィクションに過ぎない。
仏教哲学でいうところの『空』です。

しかし、この『空』を良く知るがゆえに、ある一定の志向性をもって編纂する。
この志向性、光のような一直線の論理をもって「爆発」であるとしたのでしょう。

したがって、「芸術は爆発だ」という言葉になるわけです。

わかりやすく言えば、人間はもっといきいきとやりたいことをやり、音楽や詩や身体を動かすことを心の芯から楽しむべきであるということなのでしょう。



介護スタッフは爆弾処理班になっていないか?

問題となるのはここからです。

では、介護スタッフは『芸術は爆発である』つまり『人間とはいきいきと生きるべきである』という命題からすれば、アナロジカル的にみて「爆弾処理班」になってはいないでしょうか。

つまり、介護スタッフは人間が芸術的に生きる際の阻害要因になっていないかという問いです。

もちろん、生きるうえで介護スタッフの存在は必要不可欠です。

じゃあ、自分ひとりで生きてみろと言ったところで、そんなのは不可能に違いない。

ただ、高齢者の芸術性を損なっていないのかという命題は常に問い続けるべきです。

なぜなら、彼らがひとりで生きられないのと同様に、我々もいずれはひとりでは生きられないのだから。

まあこのあたりはそうなったら考えればいいじゃないかという見解もあるんでしょうけれども。

ただ、わたしは自由に本を買いにいける老人ホームがよいなと思います。

本を買いに出かけたら、徘徊と呼ばれて止められるのは嫌だなぁと思います。

この素朴な感情をどうにか死守するには、その時になって周りに訴えても遅い。

いまのうちに、介護というものの考え方を、煮詰めていかなければならないと思うのです。






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bt62

生活保護受給者の方が引越しをするというのは案外面倒な手続が待っています。

それは移管の手続きです。


移管の手続きは必須?

移管とは、例えば東京から熊本市へ移りましたというときに必要になる手続です。

つまり、移管とは生活保護の保険者(受給費を出す行政)をどこかから、どこかへ変更する手続のことを言います。上の例では東京から熊本市へ移るので、移管の手続きが必要なのですね。


ただ、生活保護の場合でも、必ず必要かというと、そういうわけではありません。

例えば、市外であっても隣りの市であれば、移管は不要ですよという場合もあります。

これは、生活保護受給者と行政の便宜を両面からみているようです。

生活保護受給者の便宜とは、移管の手続きをしないで済むことです。
行政の便宜とは、行政は生活保護受給者に原則一ヶ月に一度程度面会をしなければならないので、その面会に差支えない近さでなければならないということです。
これは行政の裁量によりますので、通える距離だということになれば、移管の手続きは不要だといってくれるところもありますし、通えないと判断すれば、たとえすぐ近くの距離であっても移管するよう求められるでしょう。

いずれにしろ、行政の裁量によるところが大きいようです。

ただ、さすがに東京から熊本みたいな県をまたぐほどの距離の場合は、まちがいなく移管の手続きを求められます。

生活保護受給者が引越しする場合に、まず考えなければならないのは、この移管の手続きのことです。

引っ越す距離が小さければ、行政によっては移管が不要となりますが、これは行政の生活保護課にかけあってみるほかありません。

また、距離があまりなかったとしても、県をまたいでいる場合、級地(受給額の基準となるエリアのこと)が異なることがあります。
受給額は、住民票の所在や移管の手続きの有無と異なり、あくまでも『居住地』によって定まってきますので、例えば、東京から茨城の真壁に移りますとなったら、受給額が月額で2万円も異なってきます。

この額の差によっては、場合によっては、生活がなりたたなくなるので、気を付けなければなりません。

また、級地が低いところは、高いところに比べて、生活保護のハードルが高いことが多いです。
例えば、10万円の年金をもらえる人がいるとして、熊本だったら物価が安いのでその年金で暮らしていける=生活保護はうけられない、となり、逆に東京だと物価が高いので、10万円の年金では不可能というふうになる。このように、引越した結果、場合によっては生活保護が受けられなくなることもあるので、十分に注意しなければなりません。


移管=新規の手続きといっしょ

つまり、移管は初めに生活保護の申請をするのとなんら変わらないのです。
その引っ越した先の行政が、その人が生活保護を受けるほど困窮しているかどうかを個別具体的に判断します。
引越しをする理由はいろいろとあるでしょうが、現在の生活スタイルをガラリと変えることになり、結果的にQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が下がるということも考えられます。


生活保護受給者はおいそれと引越しできないのが現状

このように生活保護受給者は憲法上の権利として、引越しする自由はありますが、具体的な生活スタイルを保持するなど、さまざまな要素を勘案すると、なかなか引越しができないのが現状です。

仮に、身元引受人という立場になったとしたら、このあたりまで考えて引越しをするべきなのか否かをいっしょになって考える必要がございます。

このあたりは有料老人ホームなどの施設に住む場合でも変わりません。
要は居住地で決まるので、有料老人ホームの所在地で勘案すべき事情ということになります。


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bt61


この記事にあるように、大手物流のクロネコヤマトが荷物量を四千万個減らすとのこと。

これはシニア世代にとっても、大きな転換期を迎えているということなのかもしれません。



現状におけるシニア世代の通販事情

まず、現状分析をしてみます。

シニア世代は、通販をまるきり使っていないかというと、そうでもありません。

総務省のデータによると、他の年代とさほど差があるわけではありません。
60台以上は72.5%が通販を利用。他の年代に比べて低いわけではなく、むしろ世代別では3位につけている。


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なぜ利用するのかですが、「実店舗に出向かなくても買い物ができるから」がシニア世代の理由としてもっとも大きいとされていました。

これは理解できるところです。

シニア世代にとっては足腰が弱ってきて、近所のお店に向かうのさえ徐々に困難になってくる。そういったときに通販は非常に便利です。





単純な通販量の推移


下記図は統計局ホームページに掲載されている宅配量の推移です。
宅配量=通販とは限らないですが、(個人での宅配もあるので)、およそ比例関係にあるのは推測できます。
したがって、年々通販量は増えているのではないかといえます。


宅配量



物流が限界を越えたらどうなるか?

物流の限界は近々訪れる可能性が高いでしょう。
大手のクロネコヤマトでさえ物流を制限しなければならない時代、シニア世代も満足なサービスを受け取ることができなくなる可能性があります。


今後に向けて

将来に向けておこなうべきなのは、物流に対するキャパシティをあげること。
つまり、クロネコヤマトに限らず、物流を司る会社をもっと拡充しなければならないでしょう。
また、そのためには、物流自体をできるだけコンパクトにまとめなければならないことになります。

具体的方策としては?

①ドローンやロボットなどを使った配送システムを完成させる。
②できるだけまとまって暮らすコンパクトシティを実現させる。

このあたりができることでしょうか。
対応は早めに行った方がよいと思われます。


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bt58



人が公平に負担を分担するというのはレアケース


三年B組金八先生を見ていた方ならわかると思うのですが、
漢字のお勉強として『人』という字。あれを支え合いだと捉えるのは、なかなか勇気がいるところです。あれって、左側にいる人は、右側にいる人をどう見ても支えているわけで右側のほうが楽しているように見えるんですよね。

ええ、もちろん道徳的な視点からは、そうじゃないという話になるのはわかります。
しかし、現実的に見ても、どちらもが両方、同じくらいの負担を分担するというのは、かなり希少なのではないでしょうか。

つまり、現実世界は不公平なことのほうが原則であり、数が多いと思います。

だからといって、そういった現実に甘んじるのではなく、なんとか公平に揺り戻そうとすることが大事です。方法としてはやはり政治によって、つまりは国会で制定された法にのっとってやるのが良いと思います。



生活保護の方のケース

実をいうと、生活保護の場合も同様なことが現実に起こっております。

生活保護は受給するのに、枷となる属性があります。

それは、収入。

つまり、高齢者に限るのであれば、年金です。

この年金の額が一定以上になると、どうあがいても生活保護をもらえないという事態がでてくる。

結果としてどうなるのか。

国に対して、税金をきっちり納めて、その見返りとして年金をもらっているほうが、生活保護を受けている者よりも苦しい生活を強いられるケースがでてきます。


生活保護になるための底を割る計画

仮にあなたが生活保護であることになんの痛痒も感じない方でしたら、そして、年金以外の貯蓄は見込まれないという方でしたら、年金は一円も払わず、財産は一切もらわずにいたほうが良いということになります。

生活保護を受給するには、一種のこの底を割るような突破の行動が必要になる。

それがよいことなのか悪いことなのかというと、日本の財政的には悪いことなのでしょうが、ひとりの個人の生存戦略としては、そちらのほうがどう見ても効率がよい。

そういうあり方になってしまっている。

そのあり方自体が、生活保護のエラーなのかもしれません。

ただ、年金にしろ生活保護にしろ、はたまた税金にしろ、この国に所属している以上は払わなくてはならず、それはもう社会契約論まで遡ってしまってもよいくらい自明のことです。

問題はその使われ方-つまり、政治であって、政治が前時代に比べて分裂気味になっているということなのかもしれませんね。ひとつのイデオロギーがなくなっているというのは、いいことでもあり、悪いことでもあり、何とも言えないところです。




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bt58


孤独死が増加している




孤独死が増えています。

孤独死が増えている要因としては、コミュニティからの断絶があるからでしょう。

まず、内閣府が出しているデータによれば、

およそ高齢者の70%近くの人は、コミュニティの活動をおこなっていないとでています。

ここより引用


無題

みてもらえばわかるとおり「特に活動していない」が、とびぬけて高い。

活動していない理由については、体力的に厳しいという理由が最も多く38%、
次いで、活動する意思がないというのが27パーセントを占めています。

つまり、地域コミュニティからの断絶が孤独死を生んでいるのだという考え方も成り立つかと思います。


老人性引きこもり

体力や意思がなく、引きこもってしまうということは誰にでも可能性として訪れることです。べつに高齢者に限られるわけではなく、若者であってもひきこもりという現象は生じています。

若者の場合は、モラトリアムの延長とか、決断するのが苦痛だとか、あるいはなんらかの現実と自分の理想とのズレが生じてとか、いろいろと言われていますが、このあたりは高齢者でも同じですね。

つまり、元気だったときの自分とのズレがあって、引きこもりになってしまうのでしょう。

それに、誰だって、コミュニケーションを行うのはそれなりのコストを有しているはずなんです。

精神力を削ってなんとか社会生活を営んできて、ようやく落ち着いたのに、どうしていまさら社会とつながらないといけないのか。

誰かとコミュニケーションしなければならないのか。

誰かとコミュニケーションをとったり、誰かと会話したりすることを、この世のなかは無条件に賞賛しすぎていると思います。

引きこもりにだって三分の理があると申しますか……。

とはいえ、完全に引きこもりになってしまったとしても、それを支えている誰かがいるわけで、その支えている誰かとしては社会生活を営んでほしいわけですよね。

おそらく、20年後、30年後の日本では、高齢者もギリギリまで働くことが強要される世界になるでしょう。それで最後にはお金が無い人は引きこもることも許されないかもしれない。

引きこもって孤高の死をつらぬくのと、どちらがよいのでしょうか。

孤独死というのがまだよくわかっていない気がします。


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bt57

理事長がまた変な記事を拾ってきてましたので、
自分なりの解釈を加えてみたいと思います。

今回のお写真のハシビロコウさんが変なんじゃないです。
目つきが鋭くてとてもキュートだと思います。




どんな記事?


さっそく記事の内容を要約しますと、
『施設で働いていたら、腰痛になったので損害賠償請求します』
とのこと。

ただそれだけの単純な話なのですが、

おそらく、経営者視点で見れば、これはかなり大きな出来事と言えるかもしれません。

そもそも、介護事業を経営者側から見ると、かなりカツカツなのは事実なんです。おそらく箱物の値段設定で、10万円から15万円くらいの設定をしているところは特にカツカツで、黒字をあげるためには大変な苦労があるのは間違いない。
これはもう収支を見れば一発ですが、なぜかあまり見せたがらないんですよね。

例えば、事務室の目立つところに貼りつけていれば、スタッフの意識も変わったり・・・・・・は、しないかもしれませんけれども、おそらくほとんどの施設では、不当に吊り上げたりとかはしていないと思います。それだけ厳しい業界、厳しい事業なのです。


そんななかで、この記事に書いてあるような

1700万円の損害賠償請求

が、認められてしまうと、その事業はおそらく一発でふっとびます。

もちろん、だからスタッフは損害賠償請求をしてはいけないとか、そういう話が言いたいのではありません。労災であると認定されている以上は、会社に非があると裁判所が認めているわけですし、社会的に見て、会社はその責任をとるべきです。

ただ、会社はそういった事態を避けるために、どのような手段をとるべきなのか。とらざるをえなくなるのか。そういった面を述べたいと思います。


腰痛の損賠が認められたときの未来予想図


日本の場合、損害賠償請求というのは懲罰的なものは認められておりません。したがって、企業側に損害賠償請求を行う場合、それは逸失利益=もしもその損害がなければ得られたであろう利益ということになります。

記事で請求を起こされた方は、これから先介護での仕事ができなくなったとみてよいかと思いますので、定年までの年齢を差し引いて、給料額をかければ、1700万円くらいは行くかもしれません。

では、腰痛と企業側の行為との因果関係は?

はっきりいうと、介護の仕事は腰痛になって当然というようなところがあります。人間の体は重く、しかも無理な体勢を行うことも多く、腰痛になりやすい。

これはいくら企業側がなんらかの対策を講じても、一定の確率でなりうるんじゃないだろうかというのが、本当のところじゃないかと思います。

もちろん、企業側がそういった損賠のリスクを回避するために、なんらかの対策をするというのは、今後考えられることでしょうが、しかし何らかの対策をしたところで、結局、訴訟対策にすぎず、実際の腰痛のリスクが減るわけではありません。

経営者の視点としては、腰痛をひとつのリスクとして捉えなければなりません。

リスクとして捉える限り、最も簡便なリスクヘッジは『保険』です。

仮に、このような損賠請求が一般的になれば……(つまり、もっと数が多くなれば)、経営者はそのリスクを分散させるために、スタッフの労災に対して保険に入るという選択が考えられます。

現在、有料老人ホームを適合物件として行政にお墨付きをもらうためには、『なんらかの保険』に入っていなければなりません。しかし、『なんらかの保険』というのは、本当になんでもよく、つまり実際に中身についてはスカスカのものでもよかったのです。

しかし、実際にリスク回避ということを真剣に考えるのならば、『労災』の方に重きを置かざるを得なくなるかもしれません。そしてそのしわ寄せはどこに来るのかというと、当然管理費等の有料老人ホームの値段に上乗せされます。


結局のところ、スタッフの腰痛リスクはどうやっても回避されないということになります。


労働契約の修正

他に労働契約の修正が今後おこなわれていくことも予想されます。
例えば、腰痛リスクについては理解したうえで、これに対しては主張しないとか、あまり大々的にやりすぎると、今度はそれ自体が違法になってしまいますが、企業側もリスクを回避しようと、契約の取り決めのレベルで、修正しようとするはずです。



腰痛訴訟の社会的意義は?

企業のリスク回避という面では、それは最終的には利用者の利用料の中に九州されてしまい、あまり意味をなさないものだと思います。

もちろん、企業側が建前としてでも、なんらかの対策を講じるようになれば、それはまったくの無駄とまではいえませんが。

しかし、もしもスタッフの腰痛リスクを減らしたいと国が思うのであれば、法律の中で最適化されるべきです。

具体的には、例えば『腰痛対策を講じた企業には補助金を拠出する』とか、そういったインセンティブを与えることによって、スタッフの腰痛は減っていくはずです。

腰痛訴訟のような個別的な事案の積み重ねも、問題提起としての意義はありますが、抜本的な解決を図るには、抜本的な対策こそが必要になると考えます。





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