瀬島龍三は、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家に生まれる。旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀をたまわる。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、大本営参謀としてガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当。1945年7月、関東軍参謀に転出。最終階級・陸軍中佐。降伏後停戦交渉におもむくも、シベリアへ11年間抑留される。この間、連合国側から東京裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳、松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷させられた。
後年、瀬島はシベリア抑留について「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)に違反していることを指摘し、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、「スターリンの犯罪」として指弾した」こと、「日独伊三国同盟締結(昭和15年9月)も「断じて実施すべきではなかった」と分析している。」(9月5日8時3分配信 産経新聞)ことも知られている。
シベリア抑留から帰還後、1958年に伊藤忠商事に入社。入社3年目にして業務部長に抜擢(1961年)。翌1962年取締役業務本部長、半年後に常務、1968年に専務、1972年に副社長、1977年に副会長、1978年に会長、1981年に相談役、1987年に特別顧問に就任。
1984年、勲一等瑞宝章受章。
帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて総合商社化などに辣腕をふるい、2000年に退任した。
中曾根康弘政権(1982年11月27日〜1987年11月6日)のブレーンとして土光臨調委員などを務め政治の世界でも活躍した。千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長として靖国神社の国家護持を求めていた。
2007年9月4日午前0時55分、老衰のため東京都調布市の自邸で死去。享年97(95歳没)。
Wikipediaより引用
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