2011年07月14日

昼餉どきのメッセージ

breakfastヘミングウェイの小説『老人と海』の主人公のように、ミミはまるで木の葉同然のカヌーを自在に操りながら、一日じゅうすばしこく、大海原を縦横無尽に漕ぎまわっているのだろうか...。フィリピン海のリアンガ湾のとある場所、俯瞰してはるか高みから見おろせば、そこは日本のオレが住んでいた場所とは「海の道」でしっかりとつながりあった場所であることがわかる。

とはいえ、オレはミミの日常をただ想像しているだけにすぎない。どんな風景につつまれて、どんな暮らしをしているのか....。手がかりは、海の現場からときどき送り届けられる彼女の短いテックスの文面しかない。少し長めのときもあるが、ほとんどが数ワードのテックス特有の簡略文。大きくうねる波のまにまに、上下左右に激しく体が奪われる波頭でカヌーを操りながら、どんな風にして携帯電話の文字盤を叩いているのか。それ自体、実に謎に満ちている。

わずかな情報だが、はやる気持ちで想像だけは大きく膨らむ。おかげでオレの空想する力は、この歳になっても退化するどころか、日々残酷に思えるほど、いやが上にも鍛えられているはずである。テックスの短文を手がかりにして、それはジグソーパズルの小さなかけらを埋める仕事にも似ている。隙間だらけのミミの姿全体に迫る、まるで気が遠くなりそうな空想ゲームをオレは繰り返しているのだ。

「Did you eat?(食事した?)」

一日のテックスは、たいていミミからのこのセリフで始まる。きのうもそうだったし、おとといもそうだった。おそらく明日も、明後日も、ジグソーパズルの最初の一片となる、同じ形状の小さなワン・ピースが送信されてくるのに違いない。隙間だらけのミミの実像の全体は、いつまでたっても埋まる見通しが立たない。

カロリーを計算しているオレは朝飯をしっかり食べ、原則として昼飯は食わない。ミミもずっと一緒にオレのそばにいて、そのことは知っているはずだったが、自分のひもじさをオレに投影して、腹をすかせているかどうか気になってしかたがないのだろう。

日本人ならば、「じゃあ体に気をつけてね」とか、「ご自愛ください」などと気取った言葉で締めくくる場面で、フィリピンの貧しい僻村地帯では「たくさん食べて、いっぱい寝てちょうだい」ということになる。これが最大の優しさの表現にほかならない。

そんなことをしたら、すぐに「マタバ(でぶ)」になると、愚痴などこぼしてはいけない。それが溢れんばかりの優しさに満ちた言葉なのだから....。

「バナナ1本だけ、食べてる」

ある日彼女の意表をつくようにオレが答えると、彼女はバナナを一日も切らしたことがなかったダバオでのオレとの日々を思い出したのか、すぐさまテックスで反応してきた。

「Sogoina! Seno~rita ka?(すごいな、セニョリータ・バナナ?)」
「いや、ふつうのバナナだ」

日本ではモンキーバナナと称するミニバナナが彼女は特に好きだった。香りは強いが傷みやすいので、オレは敬遠した。「すごいな!」も、彼女が気に入った日本語で、「Nani sore」とともに多用する。「Sugoina」が、使いこなしていくうちにいつのまにか「Sogoina」になった。ビサヤの女だとこれでわかる。

日本語は母音が5声だが、ビサヤ語は3声。「i」と「e」、「u」と「o」の区別が彼らにはつかないようだ。だから、ビサヤの母音は「a」、「i」か「e」、「u」か「o」の三つしかないということになる。いろんな地図を見比べてみると、町名や村名の表記にもその混乱が著しい。要するに、ビサヤに足を踏み入れたら、細かいスペルなどは気にしないことが肝心だ。

「Nani sori. I miss banana. I always eat kuyog.(何それ。バナナ食べたいな。私いつもコヨグ食べてるの)」

ここでも「i」と「e」の混乱がみられる。フィッシャーマンの家族の元に帰ったので、ミミにとっていまやバナナは貴重品になってしまった。ダバオを引き上げてから、恐らく一度もバナナを食べる機会にめぐりあってはいないのだろう。いつもコヨグを食べている、というのはふた通りの解釈が可能だ。コヨグとは、メダカほどの小さな魚で、これを塩辛のようにして食べる習慣が彼らにはある。だから、日常的にそんなものしか食べていないという意味に受け取れる。しかし、ここでは恐らくカヌーのそばを泳いでいるコヨグをすくってそのままランチに食べているという意味だろうと思える。生きたシラスを網ですくって胃袋に落としこむ、そんな具合なのだろうと想像している。

「Ako din very hungry. I wanna eat beside u.(私もすごくお腹空いてる。あなたのそばで、ご飯が食べたい)」

オレたちのこの5年の歳月は、ともに貧しさを共有しあうなかで、ただひとつ「食べること」に関しては妥協することなく、その土地の旨い物を探し求め分かち合ってきた。旨い物といっても、贅沢品ではない。その土地の人々に人気のある庶民の味だから、費用の面では驚くほど安い。一緒に食べている限り、彼女はつかのま「貧しさ」を忘れ、「贅沢」を感じる瞬間があったことに間違いがない。話すたびに、今のオレたちに、「食べ物」の思い出は尽きない。その思いが、はらわたに染みるほど伝わってくるのが、最後の「beside u」のくだりである。ミミはいま、オレがそばにいないことを胃袋で実感し、身も心も「飢餓」に近い恐れを抱いているはずだった。

「Lunch time db?(お昼の時間になったね)」

そして今日も、ミミは昼餉どき短いテックスを打ってよこした。オレたちはいま、会う喜びより、会えない時間をいつくしんでいる。5年という疾風怒濤の歳月を、香りの葉でくゆらせいぶしながら、オレたちにとってほんとうに大切な何かエキスに似たものを燻蒸するかのように、静かに「忍耐の日々」が過ぎ去るのを待っている。

何の因果か、スリガオの灼熱の海のカヌーから、不自由な姿勢で打つ渾身のミミのテックスを、オレはマカティのオフィス街の目抜き通りの片隅にいて、遠い宇宙からの電波を息をひそめて捉える思いで受信している。オレは昼飯を食わない主義だが、それでも毎日、心だけは満ちたりている。

画像:ある日の朝食
好きな魚、「GINDARA(ギンダラ)」や「TANIGUE(タニギ)」を焼いたりするちゃんとした食事は週末の夜ぐらい。普段は簡単に(といっても、オレにはしっかりとしたものだが)済ませ出勤となる。

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2011年07月09日

カワワな境遇

IMG_0209読者諸兄に真実を打ち明けたい。実はミミとオレとの、一見行き詰まったかに思えるこのところの関係を知る友人・知人のなかには、「そろそろ別れるいい潮時ではないのか」と、自らの経験を踏まえて、良かれと助言してくれる人が何人かいる。フィリピン女性との付き合いの厳しさや、険しさを熟知すればするほど、別れの厄介さも出逢い以上に悩ましいものに映るもののようだ。この国の国際恋愛の事情をよく知る者であればあるほど、オレたちの現在のありようが「千載一遇の別れのチャンス」に思えて仕方がないようである。

諸兄にここで潔く白状するしかないが、この5年間のミミとの平和な付き合いの途上にも、(このまま目をつぶって無言で姿を消してしまえば、すべてが終わる)と思える魔が差した瞬間はたしかに何度かあった。のっぴきならない局面に追い込まれた日本人が、ある日万止むを得ず突然行方をくらます卑劣な行為に打って出て、糟糠の妻ならずとも、それまでぴたりと寄り添ってきたフィリピーナを、あっさりと見捨ててしまうというむごい話は、枚挙にいとまがないほど耳にする。

繰り返しになるが、姿を消す絶好の機会といえなくもない場面や局面はこのオレにさえ何度か訪れたことは事実だ。しかし、オレはその「卑怯な道」に踏み出すことはなかった。心を割って言えば、「ミミを見捨てる」などという邪まな発想が、初めから微塵もオレになかったことは神に誓って断言できる。彼女がどんな姿に変わり果てても、いかなる境遇に堕ちても、オレの方から彼女を見捨てなければならない理由も根拠も全く見つからない。今も昔も、その気持に変わりはない。

人はそれぞれで、男女の間柄も千差万別だろう。器用にフィリピーナと付きあい、適当に遊び合った果てに、頃合いを見て手際よく別れようという日本人の男たちがいたとしてもおかしくはない。しかし、そうしたドライで、蛋白で、暗黙に交わす契約的な男女の関係を、ミミとオレとの関係に当てはめようとしても、無意味だといわざるをえない。

オレがどうして、ミミを見捨てようとはしなかったのか...。

話は2004年にまで遡る。その年オレは癌を宣告された。絶望のどん底に追い落とされ、のたうつうように這い回ってかろうじて生きさらばえていた状態だった。頭では(立ち直らなければいけない)と分かっていたが、体の心棒が溶解してしまったかのようで、生きる希望もなにもかも失ってしまっていた。

医者から癌だと言われた瞬間は、頭が真っ白になった。帰宅する足元がおぼつかなくて、靴底が地につかなかった。宙空に浮遊して歩いているようで、力がまったくはいらなかった。その日の惨めなできごとを、いまでも鮮明に覚えている。それ以来、気力がすっかり萎えて、命の抜け殻同然になってしまった。検査も入院も通院も、すべて独りでこなしたのが、今では奇跡のように思えてならない。絶望とか孤独とか、生きる上での害毒いっさいが、一度に覆いかぶさってきて、心の重しになって苦悶した。やがて病気そのものだけでなく、生活の不安も加わり、心は疲弊しぼろぼろになっていく....。何度か立ち直りかけたが、睡眠薬に頼らなければ一夜も眠れない体になっていた。

そんな境遇のなかで、ミミとの邂逅があった。初めから病気のことを正直に打ち明けた。聞いていた彼女は、そのとき特に動揺もしなかった。オレたちの関係は、出逢うべくして出逢ったかのように、平和で穏やかに始動した。絶望のどん底を這いずり回るオレの暮らしに、ようやく終止符が打たれた。そこから先のオレは、病身であることも忘れ、心に張りを取り戻し、ミミがいる限りそう簡単に死ぬわけにはいかないという決意を秘めた、豪胆な男に変身した。

今以上に無力だったその当時のミミが、オレに何かしてくれたという話ではない。強いていえば、オレのそばにいて、ただ天真爛漫に笑顔を振り向けてくれたというにすぎない。そのことが、どれだけオレを勇気づけてくれたかしれない。しかし、オレがそばにいなくなると、雲に隠れた太陽のように、生気あふれる笑顔を失った。赤ん坊をもった父親の心境に近いといえようか。力ない生命の誕生のために、自分が生きなければならないのだと思うようになったのだ。こんなオレでさえも、支えとして生きている生命体があることを知って慄然としたのだ。生きる意味を、オレはミミによって気づかされ再発見したのである。間一髪で、神が救いの手を差し伸べてくれたとも思えるその出逢いがなければ、オレはとうの昔に絶命していたであろうことは疑いがない。ミミはガールフレンドと呼ぶ以上に、命の恩人そのものだったのだ。

疑う余地すらない「命の恩人」。オレを三途の川から呼び戻してくれた存在にほかならないその人間を、どうして見捨てることなど出来ようか...。命の恩人と、いまそらぞらしくミミを「外在化」して言い放ったが、正確に言えばそんなものでは言い足りず、オレの命の分身そのものでもあると信じている。自分の一部を、身を切って「捨てる」愚か者が、どこにいようか。これまでにただの一度も卑怯な逃走の道を、選ばなかった第一の理由がそこにある。

もうひとつの理由は、やや迷宮にはまり込んでいると言えなくもない。現在のミミの心が、気味が悪いほどにオレにはよく透視できる。彼女は大学の失敗という現実に直面して、オレに十分な相談も説明もなく郷里に引き上げてしまった。そして、すぐに脇目もふらずに、海藻のプランテーションという過酷な海の労働に自らを追い立てていった。彼女の言葉を借りれば、それは「自立した自分の姿を見てもらうため」だったという。やがて、自分自身が「自立できた」と思える日まで、耐えてオレに会うことを自らに禁じ、重い十字架を背負って生きていこうとしたのに違いない。

なぜ、ミミがそのようにかたくなな行動に出たのか。答えは単純で、失ったオレの「信用」を回復するためである。(まあいいじゃないの、ミミ。固いこと言わなくったって)というケセラセラの気持ちは、オレの方には強いのだが、ミミの方には今のところそうした曖昧な気分は全くなさそうである。徹底した自己批判が背後にあるのだ。自分に矛先を向けるという、ミミのその特有の厳しさは、彼女のある「誤解」から生じている。だからそう簡単には氷解しそうにない。

その誤解とは何か。考えるだに、恐ろしくもある。マニラでオレが働くことになったのは、無駄な出費を強いる結果となった自分の愚かしさのせいだと思っているのである。つまり、貧乏になったから、オレは働かなければならない境遇に堕ちたのだと思い込んでいるのである。その裏返しの論理に、今までは働かなくてもちゃんと食べて行けていたじゃないかと言いたいのである。

そこには、フィリピンの貧困家庭に育った人間の、貧富に対する屈折した奇怪な観念があると見ている。より単純化して言えば、働く人間は貧乏で、働かない人間は金持ちだと、勝手に分類してしまっているのだ。だから、彼女の目には、マカティで日本語を教えて働き出したオレが、よほど食い詰めた境遇に追い込まれたのに違いないと映っているのであろう。この倒錯した誤解が、さらにまた彼女の罪の意識をいっそう重くしているのである。

もうひとつ興味深い誤解がある。オレたちはいま、かつてなかったほどテックスの交換を頻繁に繰り返している。その意味では、会う算段こそついてはいないものの、ふたりの関係は依然として親密なままなのである。その情報交換の中で、ミミの生活行動の概要がうすうす読み解けるようになった。彼女は、朝7時頃から夕方5時頃まで、海藻のプランテーションの作業に没頭している。昼食は食べ物でなくペットボトル数本に詰めて持ち込む水を飲んでいるようだ。飲み水で腹を満たし、それでも空腹に耐えられなくなると、ロープに吊るしてある海藻の芽をつまんで食べるのだという。味は塩辛いらしい。以前も報告したように、この海藻は食用ではなく、プラスティック原料と混ぜあわせて最終的にはロープを作る材料となる。

テックスの交換で、彼女が最も敏感に反応するこちらの側の言葉があることがわかった。ひとつは「ワラン・ペラ(お金ない)」、もうひとつは「グトム(お腹すいた)」である。昼休みになると、海上のカヌーからミミが「ランチもう食べた?」などとテックスをしてくるのが習慣になった。オレはカロリーをコントロールしているので、基本的には昼飯を食わない。だからテックスをもらう時分には、「グトム・ナ・コ(オレ、腹減った)」状態なのである。先月末初めて給料をもらったので少し余裕はできたが、それ以前は4か月分の家賃を前払いしたので、手持ちの現金が底をつきかけていた。カードを使えばキャッシングで現金を引き出せたのだが、ホテル住まいが予定よりも長くなって、これ以上カードを使いたくないという気持ちがあった。だから、正直なところ「ワラン・ペラ」が長い期間続いていてハラハラした。ミミの頭の中では、「グトム×ワラン・ペラ=極貧」という計算式が出来上がっている。海で海藻をつまんでいるミミが、働く羽目になったオレの境遇を心底から心配して、「カワワ・ナマン・イカウ(あなた可哀想だね)」をテックスで連発してくる....。

いつか近いうちに、ミミの頭の中で複雑に絡み合ったその「誤解」を解いてやる必要があると思ってはいるが、いまは何を言っても無駄な時期に思える。もう小遣いも無くなっているはずなのに、金の無心ひとつしてこない。

「あなたはもうすべてのことを私にしてくれました。もう援助してくれなくても、自分でやっていけるから大丈夫です」

プロビンスに引き上げてから、何度か送られてきたミミの電子メールは、フィリピンの女の言葉とも思えない文言で必ず末尾が閉じられていた。いま、記憶をたどって、そのことをただ諸兄に知らしめんとしているだけだというのに、この瞬間もオレの目頭は熱くなり指先が嗚咽するように震えてならない。自分のせいで、オレを「カワワな境遇」に追い込んでしまったと、呵責の念にとらわれながら、雨の日でも休まず海に出ていくミミの姿を想像するのはあまりにも痛々しすぎる。

画像:部屋の窓から眺める夜景
思いのほか寂しい。

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2011年07月07日

行方不明のメール

IMG_0253あれは数日前の出来事だった。部屋でひとり、オレは夕食を摂り終えたばかりのころだった。ミミから、実に3〜4日ぶりのテックスが送られてきたのだ。海草のプランテーションに必要な何か重要なものを買いに、久しぶりにバロボの町に出かけているとのこと。テックスの短い文面には、わざわざその買い物をさして、「important things」と書いてあった。わが身さえ忘れ、このオレさえも眼中になくし、一心不乱に海の農作業に打ち込んでいる証しを、これみよがしに言葉の端に示さんとして、わざとよそよそしい息遣いを取り繕う、その一部始終の心の破綻を、哀しくも文言の奥底に漂わせたメールだった。

バロボに出たついでに、思い着いたようにカフェに立ち寄った。ミミはそう言った。短文でいつも申し訳ないが、電子メールを出しておいたので後でぜひ読んでほしい。思わせぶりだが卒のない言葉で、携帯電文の最後をしめくくっていた。家の周辺とは違い、バロボならば縦横に電波が通じているはずではないのか。そう思ったオレは、短いテックスの文字を読み終えるや否や、すぐ折り返し何度かコールしたのだった。ミミもそれを予期したかのように、待ちかまえていた様子で、呼び出し音に即応するたびに、回線はむごい仕打ちでもするようにあっけなく途切れてしまった。繋がっているように見えるときでも、先方の声はまったく聞こえず、こちらの声が相手に届いている様子さえもなかった。

5〜6回そんなことを繰り返しているうちに、(そういやあバロボもスリガオだったな)。ため息を漏らしながら、オレはイソップ物語の「すっぱい葡萄」の物語を連想して、結局諦めるしか手がなかったのだ。その落胆ぶりを察したかのように、すぐさまミミからのテックスが再び追いかけてきて、このところ広いエリアで携帯電話の通信システムに深刻な障害が起こっているらしいと、まるで自分がしでかした不始末を詫びるかのごとく、申し訳なさそうに言った。

それは日曜日の夕刻のことで、家族ぐるみで参加する教会のミサもその直後の軽食の集まりもとっくに終わっているはずだった。せっかくバロボに出てきてカフェにまで立ち寄る時間があったのなら、なぜ久しぶりにチャットでもしようと彼女のほうから呼びかけてくれなかったのだろうかと、オレはそのつれない態度を恨めしく思った。テックスは、その不快さえ先読みでもしていたかのように、もう日が落ちて、帰りのバイクを待っているところだからと言い訳した。

自分が悪者を引き受け、火だるまになっているように見えるが、きっとそのとき家族の誰かが一緒だったのに違いないのだ。オレとまだ付き合っていることを、白状するも同然のチャットは家族の目の前でできるはずがなかった。恐らく、それがチャットを敬遠した最大の理由だったのに違いない。

それ以外の理由もあったのかもしれない。近頃、しきりに口癖のように彼女は言い続ける。「全身日に焼けて真っ黒焦げで、白いのは歯だけだよ。今度会ったって気づかないか、きっと驚いて逃げて行くだろうさ...」。ミミらしくもないいじけた口調で、本音とも冗談ともつかないそんな自虐的なテックスを送ってきては、ひとときオレを脅かしたりからかったりして喜んでいた。

もしかしたら、ありのままの自分の姿を見せたくなかったのかもしれない。あまりにも日焼けして、潮風に吹かれて荒れきった髪の毛を逆立てて、どうしようもなく変わり果てた自分の「百姓顔」を、WEBカメラを通してこれ見よがしに晒したくはなかったということは、恐ろしいことだが、考えられなくはなかった...。

その一方で、オレの現在はミミの目に断片しか見えていない。ただ想像を巡らすしかできない、どこか自分の手の届かないはるか遠くの世界に行ってしまったかもしれないオレの姿を、画面を通して、くっきりと見据えるほどの勇気も心の準備も、彼女にはまだできていなかったのかもしれない....。心を探る思いは、ただ空回りするだけだった。

不思議なことに、ミミが送ったという当のメールは、オレのメールボックスに届いていなかった。

オレは胸騒ぎがした。普通にしていれば、ありえないことだったので、無性に気になってしかたがなかった。ふと善意の魔が差した。普段なら決してやらない裏ワザを使って、ミミのメールボックスを開き、送信記録のリストを見てみようと思い立った。受信も送信も、見事にオレのものばかり。5年分の交換記録が、きちんと整理されてそこにあった。

「事故」の原因はすぐに判明した。今はもう使っていない古いメールアドレスに送っていたのだ。(これじゃあ届くわけがない)オレは一瞬納得したが、しかしすぐさまそれ自体が新たな謎を生み出した。いつもどおりのアドレスに送っておけばいいものを、何でわざわざそんなことをしたのか不可解に思った。送信済みボックスの、オレに宛てたばかりの彼女の送信メールを、そっと開けてみた。短文ながらオレの体を気遣ういつもの文言が並んだ行間に、彼女の思いやりあふれる情感が織り込まれていた。

そのときだった。オレは奇妙なことを発見した。ミミは、2007年3月にオレが彼女に宛てた一通のメールに、「返信モード」で手紙を送って寄こしていたのである。そのメールアドレスは、もはや存在しないので、宇宙の彼方に消えてしまった。ミミは、そんなことまで配慮していなかったのに違いない。オレの心に引っかかったのは、ミミがメールボックスをわざわざ掘り返して、ずっと奥のほうにしまいこまれていたはずの、実に4年以上も歳月が過ぎ去ったオレのメールを取り出して、返信してきたという謎めいた事実だった。

当時オレは日本にいた。成田を発つ前日に、そのころマニラの実姉の家に居候していたミミに宛てて送ったメールだった。オレが強く反対したにもかかわらず、明日どうしても空港に迎えに来るとミミは言い張った。ピックアップのドライバーを待たせてあるので、ちゃんと自分で自分の身を守る算段を十分にした上で、くれぐれも遅れずに来てほしいという確認のメールだったのである。

その当時利用していた飛行機は、深夜11時を回る頃マニラに着陸する夜行便だった。万が一「遅延」や「欠航」にでもなれば、ミミはマニラの空港でひとりになり、物騒ななかで夜を明かす事態もじゅうぶんに考えられた。若い女にはリスクを伴う「出迎え」だった。だから、翌日明るい時刻にゆっくり姉の家を出てくればいいじゃないかと強く勧めるオレの親心をかたくなに拒んで、なんとしても空港まで迎えに出るといってきかなかった。その彼女への、「ならば」という覚悟を迫る、強い口調の念押しメールでもあったのだ。何を思ってか、はるか4年前のそのメールを掘り起こして、恐らく読み返してからそれに「返信」してきたのである。

2006年10月に、オレたちはパサイの食い物屋で偶然に知り合った。翌2007年3月といえばオレたちは、もう互いの存在なくしては生きていけないほどに燃焼し、いわば惚れあっていた時期だった。同年の秋に、オレたちはミミの実家に近いアグサン・デル・スール州のサンフランスの町にアパートを借り、夫婦の真似事のようなことを始め、一緒に暮らしだすのである...。

もしかしたらミミは、オレが想像した以上に長い時間バロボのカフェにとどまっていたのではなかったか。そう思い始めたとき、突然オレの体の底から熱水の粒が液状化して湧き出し、激流となって脳天を叩き上げたのだった。もしかしたらミミはたったひとりで、そうしてたびたびカフェに行き、メールボックスに折り重なったオレの過去のメールを、光の届かない海底の深い部分にまで手を挿し込んで掘り起こし、読み返しながら、甘く平和だった時代の思い出に、ひたりきっていたのではないだろうか...。きっとそうに違いない。ミミは、そういう性質の女で、心の奥底に誰にも知られぬ、もうひとりの自分をしまい込んでいる不思議なフィリピーナだった。全身に震えが襲ってきて、オレは居ても立ってもいられなくなった。なんといじらしくも哀しい女だろうか。オレは天を仰いで、声を立てずに号泣した。

画像:部屋の点景
オレのマニラでの独り暮らしが始まった。

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2011年06月12日

ミミが海藻を売った日

804e0941-s.jpgツイッターの口調を借りて言えば、「いったいオレは何をしているのだ」と、つい愚痴のひとつも呟きたくなる心境でいる。連日慣れない職場で神経をすり減らして、おまけにマカティに巣食う悪どいコンドミニアムの仲介ブローカーたちに翻弄され、なかば心神喪失状態になってホテルの部屋に帰る毎日である。

あれは確か6月3日のことだった。仕事に就いてまだ三日目の金曜日のことだ。夕方5時にオフィスを出て、15分後にはクリークサイドの安ホテルのベッドに早々と体を投げ出して、泥のように眠り込もうとしていた。そのとき、やにわにピリピリと秋の鈴虫のようにオレの携帯が騒いだ。ミミからのミスコールだった。

折り返してみると、ミミの方も仕事を終えてクタクタになって帰宅したばかりのときで、お互いに電話の向こうとこちらで、声を合わせて「カポイ、カポイ(疲れた)」とビサヤ語を連発していた。話しているうちに、オレは妙に可笑しさがこみ上げてきて、しだいに疲れが癒された思いがした。

オレがマカティの高層ビルジャングルの合間を走りまわって、部屋探しで「漂流」しているまさにそのころ、ミミは着衣の上からとはいえ、強烈な日差しを全身に浴びながら、身を隠す場所もない大海原の上にいて、小さなカヌーに腰を沈めては不自由な態勢で海の野良仕事をしていたのだった。刺すように降り注ぐ紫外線を浴びての仕事は危険が伴う。しかも何時間も浴びたままだ。そしてようやく日が水平線のかなたに沈む頃、疲労困憊して家路につくのである。放射能を浴びて帰還する宇宙船の乗組員たちも、きっとそんな疲労のカプセルの中にとじ込められているのではないか。

そのミスコール以来、オレたちはまた昔のように、朝や夕方や夜更けに、頼りない電波に載せて、心のちぎれ雲を送り届けるようにテックスのやりとりを始めたのだ。それが今の今まで続いている。物理的に遠く離れた距離にいるミミとオレは、そのテックスを媒介にして、再びカヌーの船腹を寄せ合うように心を近づけ、互いに声をかけ励まし合うようになった。

プロビンスの夜は長い。家に帰って、着衣に染みた塩水をシャワーで洗い流し食事を摂れば、家族団欒の心の余裕もなく倒れるように床に就く。午後8時頃には、ミミから早々と「おやすみ in advance」のテックスが入る。乾季がまだ明けていないというのに、今年に限ってスリガオの海はなぜか連日雨が降り続いているという。

バンブーを割いて編んだ壁とニッパで葺いた屋根、隙間だらけの床という、ミンダナオ海浜部の貧困地域に典型的なミミの家は、窓にガラスなどはない。開口部の内側に、簡単な布を当てて風雨を防いでいるだけである。雨の降る夜は凍えそうなほど冷え込む。だから、寝るしかないのである。寝るときには、長袖のジャージーのようなものを着て寝る。オレも一度だけその家で夜を明かしたことがあったが、家の中に居ながら、屋外で野宿している錯覚に襲われたことがある。あれからだいぶ年月が過ぎているので、家屋の傷みはずっと激しいものと想像される。

コンクリートブロック1片、町の業者まで取りに行けば8ペソ、運んでもらえば9ペソだという。それを500ピースほど買って立派な豚小屋を作る話があったが、その後まもなく、ミミとオレで手塩にかけて育てた豚数頭を、母親が密かに売って借金の返済に当てていた。以来オレ自身はミミの家族との距離をもつようになった。台風や嵐に耐え、温かいブロック塀とトタン屋根で頑丈に仕上げた家の話は、もう誰からも口に出さなくなった。

ミミの銀行口座には、数万ペソの金があるはずだ。この5年間に、家族に見つかって何度もむしり取られ、泣きながら貯めたお金だから、家がどんなに朽ち果ててもその金を家族のために出そうという意識はなさそうだ。5月上旬にダバオで別れる前夜、「ミミが20万ペソ貯めたら会おうな」と、半ば冗談で言ったオレの言葉を、今も目標にし、それを励みにしながら海藻の野良仕事に精を出しているようだ。今は、自分で11本のロープを張っているらしい。家族に頼らず、苗付けから収穫、乾燥まで、すべて自分でやっているのだという。20本のロープを張っているプランテーション農家は「大地主」と呼べるというから、母親が持っている10本と合わせれば、ミミの家はたいした羽振りになる。

「きのう5本分の海藻をバイヤーに売って、3,000ペソ貯金してきた」

ミミの得意げな報告に、オレは携帯電話機を握りしめながら思わず胸をつまらせた。とっさに褒めてやる最高の言葉を探したが、ありきたりな文句しか口にしてやれなかった。

ついこの間までミンダナオ大学に通ってもがき苦しんでいたミミは、自分の「天職」をさがしていまはミンダナオの海原に浮かんでいる。そういう自立した姿を、オレはずっと見たかったのだ。日に焼けてどんなにブスになったと彼女に言われても、この女を捨てることなど到底できないとオレは思った。

オレたちはいま新たに、いい関係を築こうとしている。いつになるか、今は誰にもわからないけれど、いつかきっと会えるという希望に、ミミの声は輝いていた。

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2011年05月28日

オレが言いそびれたこと

shanghai_memeひと月半に一度の間隔で、二十日間会い続けてきた。そうしてもう5年になる。どこに行くにも一緒でなければ気が済まなかったふたり。そして現にオレたちは、フィリピンのあちらこちらを、人も羨むほどくまなく一緒に連れ立って旅をして歩いたものだった。それが、ミミの大学進学の失敗というちっぽけな事件がきっかけで、彼女はいたたまれずにダバオを撤退しプロビンスに引きこもってしまった。そんな混乱のさなかに、ひょんなことからオレがマニラのマカティで働くという椿事まで沸き起こった。話が進む途上でミミにも薄々そのことは小耳にいれてあったのだが、なくした信用を挽回することに頭が一杯で、訊こうにも正面きってオレに問いただす勇気がない。

日本から見ればミンダナオは親しみのわく、じつに近しさを感じる土地かも知れないが、マカティから見ればそこは「地球の裏側」「地の果て」にも匹敵する寂れた土地に映るといえなくもない。どこに行くにもいつも一緒だったオレたちが、気がつくと遠い別世界に住むふたりになってしまっていた。それでもミミは、せっせと毎日「ミスコール」を繰り返してくる....。彼女の持ち前の優しさが、そうさせている?おいおい、読者諸兄よ、正気かい。そうして毎日「国際電話のワン切り」してくる彼女の真意は、オレがちゃんと日本にいるのかどうかってこと、もうちゃっかり内緒でマカティにいるのかもしれないという不安がそうさせているってことだって、考えられなくはない。日本にいれば「よし」、万が一黙ってマカティに行っちまったとなれば、彼女としても穏やかじゃないはず。でも怖くて訊けない。いつ行くのか?マカティのどこに行くのか?それさえも訊けない....オレタチは、いつしかそんな水くさい関係になってしまったようだ。

「なんでカフェに行かないの、チャットしたくないのか」

二日ほど前、ミミからやけにしつこいミスコールがあった日、オレは折り返し電話した。フィリピン人も呆れるほどの「電波障害エリア」。何度も「無電波」のアナウンスを聞かされた後、ひょいと運良くつながった電話で、オレは思わずそう言って彼女に向かってあからさまな小言を吐いた。するとミミは、思いがけない言葉を口にした。

「毎日、忙しいからね」

な〜にが、な〜にが忙しいだ。海藻のプランテーションで忙しくって、オレとチャットするヒマさえないということなのかい。なんて冷たいスリガオのネェちゃんに成り下がってしまったんだろうね。どこの社会でも組織でも、忙しぶる奴ほどヒマを持て余しているもんなんだ。見栄っ張りのチスモーサばかりがひしめきあっているプロビンスで、そんな強がりかまして、彼氏にさえも虚勢を張らなければならなくなるなんて、大学でいったいどんな倫理を学んできたんだ。そんなことだから未修なんかくらっちまうんだ、と言いたかったけれど、オレはぐっとこらえたネ。そういう生意気な口をきいて、オレの方から「ミスユー」なんて言って欲しいという魂胆が、言葉尻の微妙な震えから見え見えで、悲しくなって言葉に詰まってしまったのさ。オレの方だって、もうじきマカティに半永住ということになりそうだから、国際電話カードのロードも買い増ししないでいたから、「どうしてる?」という電話もかけてやらなかった。とうとう二日前のその電話に先立って、カード会社の係の女性のアナウンスで、「2分間お話できます」ってケチなことをぬかしやがった。だから、ミスユーも糞もなく、あっというまに電話が切れてしまった。もうそれっきり。

ロープに海藻の芽をくくりつけながら、いつも泣いてるって言ってたよね。本当かい、ミミ?もう人に甘えて生きるのもおしまいにしなよ。プロビンスに逃げ帰ったら、敵国に亡命したも同然だぞ。国交がない国からどうやってお前を救い出すことができるんだ?それに顔を合わすのも、怖くって。口癖のように、「パンゲットになった、パンゲットになった」って言ってたろ。あれだけサロンに通わせて、ひん曲がった髪の毛をまっすぐにしてやったオレだろ。デストロイヤーのマスクみたいな日よけの覆面をして、それでもなお真っ黒に焼けた顔と、逆だった髪の毛で、「忙しい、忙しい」っていいながら海の野良仕事をやっているお前の姿なんて想像できないよ。

かわいそうだけど、マカティはミミの来るところじゃないんだ。マカティじゃみんなトンガって、アンビシャスに暮らしている。ミミの嫌いな言葉だろ、その「ambitious」。自分の身を持て余して、外国人の玉の輿にのって究極の専業主婦を目指している怠けもんのフィリピーナたちは、ゼッタイ暮らしていけない場所なんだぞ。だから、しばらくプロビンスでおとなしく、海藻でも豚でも育てていなよ、わかったかい。いつかきっと迎えに行くからな。

マカティと聞けばすぐ「パロパロ」を連想するっていうミミも、自分の国の中心についてもっとしっかり勉強してくれよな。オレは先日マカティのアヤラ・アベニューを通ったとき、とっさにニューヨークの五番街を連想した。そうでなくっちゃ。それがなんで「マカティ」イコール「パロパロ」なのさ。まあしょうがない。むかしオレにも、あの辺で随分悪さしまくってた仲間がいたことを、お前は知っているからな。

ということで、今度会うのはクリスマスか、ミミが「20万ペソ」貯めたとき。確か約束はそうだったよな。冗談だって分かっているはずなのに、「忙しい」といいはるその心根の律儀さに胸がつまるよ。まあそうだと思って、せいぜい毎日精進してくれ。きっといいことは、まだまだこの先も続くと思うからさ。オレはマカティに逃げこむような卑怯な男じゃない。ほんとうはいつか、オレだってミミのプロビンスに行ってみたい気がしているのさ。

2分で突然切れてしまったけど、あのときの電話で話したかったことは、そういうことだったんだ。オレは明日マカティに行くよ。

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2011年05月18日

ひとたび所有されるとき

IMG_0188オレが帰国してから、毎朝一度ミミからのミスコールが繰り返されている。オレはそれに対し特段返事の「本コール」をすることもなくやりすごしている。読者諸兄よ、なんと冷たい男なのだと思わないで欲しい。なぜなら、そのミスコールは、以前のように「声が聞きたいからいますぐ折り返してくれ」という、差し迫った要請の電話ではないことを、ふたりとも十分に知っているからである。

この時節がら、譬えとしては実に不謹慎かもしれないが、南スリガオの海べりの僻村で厚く堆積した瓦礫か土砂に生き埋めとなった娘が、偶然手に触れた金属を金具で叩きながら、(自分はまだここにこうして生きている)というシグナルを、必死に送り続けているさまにそれは似ている。

ミミはプロビンスに帰って、フィッシャーマンの娘として「海の仕事」に就いた。この5年間に及ぶミミの家族とオレとの確執を振り返れば、オレが郷里に乗り込んで、彼女に救援の手を差し伸べることなど毛頭考えられない。そのことを重々知っているはずだというのに、ミミがオレとの間で十分な話し合いももたずに、水くさいことにあっという間にプロビンスに撤退してしまったことは、オレにとってはやや衝撃的なできごとだった。その先を考えずに取った彼女の軽率な行動といってもよく、瓦礫や土砂に自ら生き埋めになったも同然の浅慮きわまりない行為に思えてならない。

ダバオの空港で、今回二度目に別れたとき、館内に入る乗客の長い列に並んでいたオレは、芝生を敷き詰めた土手の斜面をひたひたと昇ってハイウェイの方角に歩いて行く小柄なミミの姿を最後の最後まで見つめていたが、彼女はとうとうただの一度もこちらを振り返ることはしなかった。

いよいよ別れが来たという最後の夜、リサール通りとボルトン通りの交差点に近いホテルの一室で、オレたちは互いに感謝の言葉を交換しあい、元気でまた再会しようと約束した。しかし、「いつ」ということへの具体的な言及はなかった。いつもなら、ダバオで分かれるときには、次の旅程が決まっていた。その日時を確認しあって、「それまでの辛抱だ」という暗黙の励ましがあったものだが、今度ばかりはその重要な儀式が闇に葬られた。

決まっていなかったのではなかった。次のオレの渡比の日程はすでに決まっていて、航空券も購入済みだったのだ。しかし、それはマニラまでで、ミミとの再会を保証するチケットではなかった。ミミもそのことをうすうす知っていて、確認する不粋をあえて避けたのだった。ただ、「パロパロしたら殺すからね」とポツリとひとこと言った。そこには、諦めや、無念さや、悲しさがにじんでいた。

ここで初めてオレたちは「別々な道」を歩くことになった現実をかみしめている。それは「別々な道」ではあっても、即座に「別れ」を意味するものではない。この間の経緯を多少なりとも知るある友人は、そこに愛情の破綻を見てとったのか、危惧した。オレはその心配の口上を聞いて笑った。オレたち二人の間に破綻などあるはずがなかったからだ。オレはその友人に、少しいらだちを交えながら「何だ、フィリピンは長いというけれど、フィリイーナのことはまだなんにも知らないんだね」と、口にしているさなかにも暴言だと思える破壊的な言葉を吐いてしまったのを覚えている。

ミミは、過去に一度もオレにお金をせがんだことがなく、あれが欲しいこれが欲しいといってモールの人ごみの中でダダをこねるということもなかった。そのことにオレは深い敬意と感謝の気持ちをいまもいだいている。彼女との交際が、ここまで続いた最大の原動力のひとつがその誠実さだったと確信している。オレが過去に付き合ってきた、物乞い体質のフィリピーナたちとはまるで違って、実に禁欲的な素朴な女に思えたのだ。しかし、物事の要求が少ないということは、必ずしも無欲であるという意味でもない。

ミミは金を含めて物を欲しがらないが、こちらが一度与えたものをあとで返してもらうことはまったく不可能な人物で、その意味では強靭な意志を持つ保有欲の持ち主でもあったのである。こうして、彼女にはATMに厳重保管されたそこそこのお金や、もともとオレに帰属していた数々の家電製品、ミニスピーカー、携帯電話、デジタルカメラなどが彼女のものとなり、郷里の彼女の部屋の厳重な鍵の付いた旅行バッグの中に固くしまいこまれているのである。そのひとつひとつを、彼女は「財物」として見ている風ではなく、興味深いことに「リメンブランス(思い出の品)」として永久保管しようとしているのである。

そうしたミミの物品に対する態度をオレは長年そばで見てきた。彼女の血の中に濃く刷り込まれているであろう海の民としての「漁労・採取」の精神、もっと包み隠さず言えば、「略奪の民」としての強靭な意思を時としてそこに垣間見ることさえあるのだ。

乞食のように物乞いはしない。しかし、一度手にしたものは二度と手放すことはない。それはいまや「ミミの所有物」と化してしまったオレに対しても、同じことが言える。ミミはオレを所有しているのである。もしオレたちが何かの理由で「別れる」道を選択することにでもなれば、彼女は略奪の民の誇りにかけて、まず間違いなく武器を手に「戦う」手順を踏み、オレが彼女の所有物である正当性を強烈に主張するに違いない。その結果、ミミが無力で敗退することになるかも知れないが、他人に奪われたりオレ自身が勝手に行方をくらますのを、ただ座して見過ごすことなど、まずありえない。

もちろんオレにはそんな悪意も悪巧みもあろうはずがない。ついこのあいだまで大学生だった頃のミミも、海の百姓として真っ黒に日焼けした顔で海藻を育てている今のミミも、その存在の重みという点で秤にかければ少しの違いもない。大学でNG(未修)をもらって、ホテルのオレのもとに帰ってきたときのミミを今でも思い出す。すでにどこかでひと泣きしたあとのようで、腫れぼったい顔を紅潮させていた。オレの目の前でひとしきり詫びの言葉を述べ、それから小さなげんこつを作って何度も額を殴りつけながら、自分はなぜ「dull(能なし)に生まれたのか」「まるで動物以下だ」と自らを責めつつまたもや滂沱と涙を流し続けたのである。

だから、無駄にさせてしまった学費は取り返せないけれど、それ以上に大切な物、すなわちオレの信用を回復するために、海藻のプランテーションに没頭しようとしていることぐらいはお見通しだ。オレはただ、ミミがしたいということを、手を出さずに、遠くからやさしく見守ってやることしかできない。「今度会うとしたらクリスマスの頃だろうな」と、冗談半分でオレが切り出したとき、ミミは驚くほど素直に無言でうなづいて、成果を出すにはそれぐらいの寂しさに耐える時間は必要だろうと自分で自分に言い聞かせていたふうだった。

画像:サマル島カプティアン・ビーチ


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2011年05月14日

老いて異郷に働く

IMG_0217あれは3月下旬のことだったと記憶している。東北の大地震とそれに続く福島原発の事故で、日本全体が騒然と浮き足立っていた時分のことだった。オレは日本に滞在して、いつものように大学病院の外来を鬱々と巡り歩いていたのだった。足かけほぼ7年間、この上なく愛情を注いで使ってきた東芝のノートパソコン「ダイナブック」のハードディスクが、不吉なことに「ガリガリ」と悲鳴に似た異様な音をたてて絶命したのもその頃で、オレはかけがえのない肉親を失ったも同然の悲しみをこらえながら、途方に暮れていたのを今も忘れられない。

そんなある日のことだった。マニラのアラバンに住む友人のAさんから、不意に国際電話をもらった。IT関連の会社を経営してお金持ちのAさんは、そんなふうにして自分の携帯から気軽に国際電話をかけてくれる。それは言ってみれば久闊を叙する、用件としては何も無い、とりとめがない分だけなおさらに心のこもった、友人どおしの会話といえる電話だった。

もとをたどればAさんは、オレのブログの熱心なファンのひとりだった。いつもオレとミミとの頼りない関係の行く末を案じ、自分自身のフィリピンとの深い経験を踏まえて心を砕いてくれていたものと思う。加えて、病気の蟻塚のごときオレの体調を、異国の地にありながら常に心配もしてくれていた。オレたちの共通点は、互いに癌を経験しているということだった。Aさんは数年前胃癌の手術をした。癌そのものは完治したようだが、その後難しい肺炎を患い、あい前後し糖尿病にも罹ってしまった。

癌といい、呼吸器の障害といい、糖尿病といい、オレたち二人の病歴を突き合せれは実に「似たもの同士」で、病気ひとつひとつを引き合いにだして競い合えば、ある病気ではAさんが「先輩格」だったり、別な病気ではオレに遅れをとる「後輩格」だったりするのがおかしかった。いつしか互いに病気を気遣う中で、刎頚の友といえる友情を育んでいったといえる。

そのAさんからかかってきたその日の国際電話も雑談に始まった。今思えば、燃える夕日がマニラ湾かコレヒドールのあたりに傾く時分のことで、Aさんはふと郷愁に襲われて人恋しくなり思わず電話をかけてきたのではなかったか。そう思わせるような、哀愁を声音ににじませていたように思う。オレは家の台所で、サンマか鯖を焼いていて、いつもと変わらぬ孤独な夕餉の準備をしていた記憶がある。

そのとき何を話したかほとんど覚えてはいないのだが、ただひとつ鮮明に記憶しているのは、話が煮詰まってそろそろダレ始めた頃あいに、やや唐突な口調でAさんが言いだした次の言葉だった。

「マニラで働けばいいんじゃないの?」

脈絡は覚えていないが、頻繁に帰国してひとり侘びしく暮らしているオレの境涯を気の毒に思ったのか、それともオレの体がフィリピンに常駐すれば、もっと頻繁にミミに会えると思いやってくれたのか、いずれにしてもAさん特有の優しさの発露で、良かれという心情から不意にそう言ったのであろう温かみが心地よく耳元に余韻を残していた。

それに対してオレはなんと素っ気無い反応だったろうか。「ははは」とただ笑って応えた記憶がある。鼻先で聞き流したということだ。「そうだねぇ、それも面白いかもね」などと、ひとごとのようにして、取り合う配慮に欠け、そっけなく返答するだけだった。言葉の内容はそのように流れ過ぎたのだが、マニラの炎熱の日盛りのように、言葉が帯びていた温かみだけはいつまでも消えずにオレの脳幹に残っていた。そのAさんの優しさに応えねばならない、オレはそう思った。

そのときのAさんも妙に心が弾んでいたようだった。口を衝いて出たのに違いないその思いつきのアイデアに、ひとり受けでもしたかのようで、(これは妙案!)と心のなかで快哉を叫んでいたのかも知れず、それから先は推して知るべし、どんどん話が具体化していったのである。

「日本語を教えればいいと思う?」

そういうAさんは、従業員400名近いフィリピンIT技術者を抱える中堅企業の社長だから、もう具体的な計画が脳裏をよぎっていたのではなかったか。もう受け皿は決まったとでも言いたげな陽気な雰囲気だった。

話はそれだけなら、きっと電話での戯れ言として立ち消えになっていただろう。ところが、Aさんは翌日また国際電話をしてきて、オレがマニラで日本語を教えるという話を再び切り出し、今度は輪郭のくっきりした、ずい分建てつけのいいプランに仕立て上げていた。

正直言えば、オレはその時「いいも悪いも」まったく考えていなかった。いまさらこの年で、病気持ちで、しかも異国で働く気など毛頭なかった。貧乏はしているが、金のために働く不自由だけは御免だという気持ちがあった。何よりも、面倒な役所の手続きをすべて終えて、いよいよ年金支給開始を待つだけののん気な身の上にあったのである。

ところが、Aさんは相変わらず自分が言い出したこの話にウキウキして気分を高揚させている。そのそばで、調子を合わせてあいの手を挟むことが、今のオレには必要なのではないかと直感した。この辺になると、太宰治の「人間失格」の主人公のように、おどけて人に合わせて一見屈折したように生きる、厳しい風土の東北人ならではの気質を理解できる人でなければ、とうてい分かり合えない心境だろうと思う。それはともかく、Aさんの「はしゃぎ」にただ協力しているだけで、なぜかそのときのオレはひたすら嬉しかったのである。そののん気さの裏には、どうせこの話は放っておくといずれシャボン玉の泡のごとく消えるだろうという楽観があったことは否めない。そうしているうちに、いつのまにか話は「断れない」程度にまで進んでいったのである。

まどろっこしい話になったので、結論をいえば、オレはこの6月からAさんの会社の7名の日本語教師に交じってフィリピン人従業員に日本語を教えることに決まったのである。オレの身の上に大きな変化を来たす重大事だというのに、Aさんの善意を無にしたくないばかりに、今日まで状況に流されることをあえて引き受けた結果だった。これをはたから見れば、オレは優柔不断のただのお人よしに見えるのかも知れない。現に、ミミとは、同じ国にいるというだけのことで、必ずしも会いやすくなったとは限らないからで、毎月小遣いを当てにしてオレを待っている80歳の母親の楽しみさえ奪ってしまったのかもしれないのである。

にもかかわらず、オレが状況に流されてここまで漂流し、オレの放浪の旅の主義主張と全く相容れない大都会、マニラのマカティに住んで、しかも仕事につくとさえ決めたのにはそれだけの理由があったからである。これは、「後づけ」の理由などではない。この度のAさんとの二度目の国際電話のさなかに、何か啓示のようなものが頭をかすめ、この出来事はいわば「宿縁」とでも呼べるものに違いないと悟ったからにほかならない。天が決めたことだとすれば、不完全な人間の浅知恵でそれに検討を加え、恐れ多くも判断まで下すなどは万死に値する罪業だと思ったのである。人生には、こういう不可知な神の声で未来を選択することが少なからずあるのだと、オレはずっと信じてきた。過去に三度病気で死線をさまよいながら息を吹き返し、その先をオマケで生きていると思い込んでいる人間固有の強みだと言えなくもない。

かくしてオレは5月3日から5日まで、友人であり会社社長のAさんのアラバンのご自宅に厄介になりながら、彼の会社の現場担当者の方々と面接し、今後の段取りを相談してきたのだった。ミミはこの間の事情について、オレの傍らにいる今もなお、一切のことを知らされていない。

画像:サマル島カプティアン・ビーチの海辺
近ごろすっかり出不精になった二人だが、先日ミミがどうしても一緒に行きたいとせがんだ、土地の人々が好むサマル島のビーチ。欧米人が開発した高級リゾートばかり話題になるが、そことは全く別世界のこのサマルのほうがオレは好きだ。マグサイサイ通り突端の公園近くにあるフェリー乗り場から約1時間。運賃P50。着いた港はかつてミミと訪れたミンドロ島プエルトガレラの船着場に似ていた。それを言ったら、ミミにひどく叱られた。サバンビーチのディスコにたむろするプロの女どもの攻勢に、激怒し、大騒動になった悪夢のような思い出があるからだ。

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2011年05月13日

ゆらぐ心の別れと再会

IMG_0290休筆の間、オレの身に起こったできごとのひとつひとつを思い出しながら、それらを諸兄に報告しようと思っていた。4月21日聖週間の最初の日にダバオに入り、その二日後ミミはプロビンスからバスに乗ってオレのもとにやってきた。ところが、5月3日から5日まで、オレにダバオを離れざるを得ない事情ができた。ミミを連れていくわけには行かなかったので、彼女には見え透いた嘘だったが「日本にトンボ帰りしてくる」という口実を作って、いったんミミを田舎に帰した。

ミミにすれば、変な話だと思ったに違いないのだが、まったく詮索する風もなかった。オレの言葉を信じたというより、なにかオレがやろうとすることがある限りじゃまになることは避けたいと考えたようだ。訊こうが訊くまいが結果に変わりがなければ、なすがままにまかせるのがいいだろうと覚悟を決めている風に見えた。

三日朝、懐かしい黄色の車体のバチェラーバスに乗り込む彼女を見送ったとき、もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないとほんとうに思ったものだ。ミミの方も尋常ではないオレの「優しすぎる別れ」に、どうやら不吉なものを予感したようで、その後バスの中から何度もテックスを送ってよこし、今どこにいるかと尋ねてきては不安を掻き消そうとしていた。

オレにはもちろん、日本に帰る計画などはなかった。空港からそのままマニラに向かったのだ。急に降って湧いた話だが、友人のA氏の計らいで、急遽彼の会社の日本語研修の補助員として働く話が浮上し、面接を兼ねた打ち合わせのために二泊三日の旅程でダバオを離れたのである。往復の飛行機代はA氏が負担してくれた。此処に至る経緯については、近いうちに報告しようと思っている。

とまれこの世で一番親しい、かけがえのない存在であるはずのミミになぜ本当のことを言わなかったのか。答えは簡単なようで難しい。郷里に帰って、海藻のプランテーションを始め、自分のエネルギーをそこに集中しようと決めている彼女に、余計な迷いを与えたくはなかった。しかし、それだけかといえば違う。大学進学という一大チャンスを彼女に与え、いくつかの単位が未修でも再チャレンジはできたのである。たが、熟考した挙句ミミは進級を断念し、日本にいたオレに十分説明する努力を怠って、いとも簡単に荷物をまとめあげダバオを撤退、家族のいるプロビンスになかば引きこもってしまったのである。いつかそうなるのではという思いはあり、想定内でのことだったが、その撤退の手際の良さに呆れ、オレは大いに失望したのだ。

つまり、勉強するにせよ働くにせよ、男女を問わず成人の多くがそうしているように、独りで都会に住み孤独に耐えながら、人生の遙かなる目標に向かって切磋琢磨し、自分の道を切り開いていくという、どこにでもある「精神的な強さ」が、彼女の場合には欠けていることを、そこではっきりと証明してしまったも同然である。大学を断念しなければならないとはいえ、それで彼女の人生が終わったわけではない。彼女の将来を常に考え支援してきたのはオレで、彼女の家族ではなかったはずなのだ。大学進学に際しても、そうしたケースは十分に想定して始めたことだったから、オレと相談の上で、ダバオで「次の進むべき道」を探し出せば良かったように思う。しかし、彼女は、当然そうすべき分別と判断に思い至らなかった。単位未修の宣告で、相当精神的な動揺をきたしたのか、情けないことに、母親に泣きつく赤ん坊のようにして、家族のいるプロビンスに帰って行ってしまったのである。これがフィリピン人なのだ。その未熟で未開で幼稚な国民性を、オレはすでに承知していたが、目の前に見せつけられて大いに失望したのである。

ミミがさっそく海藻のプランテーションに手を染めて、大海原に自分の縄張りを始めたのは、彼女のオリジナルな発想かどうか疑わしい。三つ子の魂百までで、そばで見て育ったこと以外の発想が思い浮かばなかったのに違いない。結局父や母や、兄や姉が、そして貧しい村の近隣の住人が全てやっているのと同じ生業を、彼女は残された唯一の可能性として、見よう見まねで始めたのであろう。もちろんそんなことで、誰かが財産を築いたという話は聞いたこともがない。ミミが気負い立って始めたそのプランテーションは、貧しい村の因習の投網にかけられた幻想で、哀しいかな「貧困への助走」にしかオレには見えなかったのだ。しかし、今のミミにはそれしか自分を試す「残された最後の道」がないことも確かなように思えた。彼女の自立だけをひたすら願ってきたオレには、いまこの時点で無力に点を仰ぐだけで、彼女のためにできることは何もなくなった気がする。

しかも、オレがこれから行こうとしている場所は、マニラのマカティ。ミミがやり始めた海上世界を起点に見れば、そこは何億光年も離れた遠い宇宙の果てのような場所である。もしオレが彼女を連れて行き、マカティに一緒に住むとなれば、彼女は一日中高層マンションの一室にいて、退屈することはわかっている。オレも勤務中だから、彼女をかまってやることはできない。都会を楽しむことができないミミは、結局足手まといな「お荷物」になることがわかっている。かつてマニラにいた時期があるとは言え、姉の家に居候して家事手伝いをしたり、働いたことがあるにはあるにしても、中国人が経営するパサイの劣悪な労働環境のカンテーンに隣接する寮に住みこんで、一日17時間も奴隷のように働いた経験しかないのである。

「本当に日本に帰るの、イカウ?」

さっきリサール通りの「Merco」という店で食事をした時、ミミはもうじきダバオを離れようというオレの行き先に、まだ疑心暗鬼でいるようだった。しかし、問い詰める覇気がもう見えない。自信を失い、自暴自棄になったミミは、かつて一度も見たことがないほどおどおどした「小さな人間」に身も心も縮んでしまっていた。

話は前後するが、5月3日ダバオのハイウェイでミミを見送ったとき、5日にオレはここにまた戻るけど、ミミお前はどうするつもりだとオレが尋ねたとき、彼女はあいまいな返事をしてきた。来るとも来ないとも言わなかったのだ。ただ「プランテーションでいろいろやることがあるし、まだはっきりしないので、あとでプロビンスから必ず電話するから....」、そう言って彼女は、バスと共に砂塵の中に消えていった。

そのミミが、いままたダバオのオレのそばにいる。5日ではなかったが、前回別れた3日から数えて一週間後の10日、ミミはまたオレのそばに戻ってきた。オレはほっとしたが、来なければ来ないで早朝のピープルズパークでのエクササイズに始まって、日中の腹筋や大胸筋の筋トレに集中し、ダバオ自主トレーニングに集中するつもりでいた。現にダバオにオレが戻った5日から、ミミが再びやってきた10日までは、まさにそうしたやや激しいトレーニングで汗を流し、充実した濃密な時間を過ごしていた。

ミミがどのような心境でオレに会いに来たのか、今は詮索する興味を失っている。家を早朝に出て、悪路を6〜7時間も長距離バスに揺られて会いに来るのだから、冗談半分の行為とは言えないだろう。

しかも、このとき持参した洋服や靴は、みなよそ行きのワンピースのようなものばかりだった。残った僅かなふたりの時間を、特別に過ごそうとした彼女の心配りが、その心のひだまで読み取れたようで、どんな心境で駆けつけたのか想像するだけで胸が詰まった。海藻の手入れをしているとふとオレを思い出すらしい。「泣いてばかりいるのだ」とポツリと述懐するその言語に、嘘はないのだろう。遠くを見やれば「タートルアイランド」が目に入るとのこと、初めて一緒にプロビンスに帰った当時の楽しい日々を、その風景に重ねて思い浮かべてはまた涙を流しているとミミは言葉をつまらせた。嘘を方便にして計算高く男をたぶらかす質(たち)の女ではないので、彼女が言う言葉はみなほんとうなのだろうと思いながら聞いていた。

大学のことでオレに散々迷惑をかけた罰として、誰が頼んだわけでもないのに、幸せの風景が見えないどこか遠くの場所に自分を追い込んでしまった。会えない苦しみの刑をわざと課して、右往左往する自虐がそこに読み取れる。そんなことだから、会いに来るバスに乗っているいあいだ、精神的におかしくなって珍しく途中で吐いたようだ。今回出会いがしらのミミの顔は、たしかに憔悴しすっかりやつれ果てて見えた。

画像2011年5月3日朝、ダバオ空港前のハイウェイでプロビンスに帰るミミを初めてオレが見送った。これから一週間後、ミミは再びダバオのオレのもとにやってくる。

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2011年05月08日

もう一度書こう(from DAVAO)

IMG_0387読者諸兄に、再びおかした長い休筆をあらためて詫びなければならない。気力と体力が再び回復してから、げんきんなもので、一時は諦めたブログをもう一度始めてみたいと思うようになった。その前に、この半年の間、オレたちの間にいったい何が起こったのか、その空白を埋める作業から書き初めたいと思っている。

2011年5月8日、マザーズデイ(母の日)の今日、オレはダバオにいる。ひとりである。ミミは5月3日の朝、郷里の南スリガオ州に帰って、いまもそこにいる。今回オレが渡比したのは4月21日のこと、聖週間のまっただなかにダバオを訪れたのだった。その日ミミは、いつものように空港の出口でオレを出迎えてくれる手はずになっていたが、ミミの姿はなかった。ダバオに来る長距離バスが運休になっていることを、ミミはターミナルに行くまで知らなかった。郷里にずっといた彼女は、南アグサン州サンフランンスで足止めを食い、やむなく家に引き返すしかなかったのである。ふたりが会ったのは、その二日後。それから10日あまりいつものように一緒に過ごした。郷里に帰るミミを、オレが急に言い出して、空港前のハイウェイの路上に立ちバスに乗るのを見送った。オレは空港に降り、ダバオを離れた。いつにない謎めいた行動に、ミミは何か尋常でない気配を嗅ぎとったかもしれない。そのオレが、ひとりまだダバオにいるのである。

ミミは空港の前の路上に立っている間も、(あなたはこれからどこに行くの?)とあえて尋ねようとはしなかった。「5月5日にまたダバオに帰る」というオレの不自然な説明を、息遣い荒く訊き返すこともなく、静かにバスに乗った。急遽日本に帰らなければならない、二泊三日でまたダバオに戻るという話を、本気で彼女が信じたかどうかは疑わしい。でも、今度は無理にでもそう信じ込もうとしているようすだった。なぜオレがダバオにいるのか。そしてどうして彼女が郷里の南スリガオ州にいるのか、その顛末をまず諸兄に語らなければならない。

ミミは、ミンダナオ大学の教育学部「セカンダリー過程」に挑んだが、1年生2学期の最終試験で、数学と生化学の2科目でNG(未修)をもらい、オレとの約束通り進級を断念、ミンダナオ大学を中退した。それでも、最終結果が出る直前の3月23日、前回の渡比の日程を終え、いよいよダバオを離れて日本に帰るという日の前夜、最後の可能性の芽を摘みたくないと願ったオレは、サマースクールの授業料と、次回の渡比までの食費および生活費をわたし、自分で前向きによく考えて結論出すようにと言い含めて日本に帰った。

ところがその数日後、ミミから長い電子メールが届いた。その翌日、彼女はボーディングハウスを引き上げ、無数の荷物を抱えてバスで郷里に撤退していったのである。オレはそのメールを読んで、誰もいない部屋でひとり号泣した。無駄な金をオレにつかわせてしまったと自分で自分を責めていた。自分の無知・無能と非力を嘆き、申し訳ないと繰り返し書き綴っていて、手におえないほど錯乱しているこころの様子が読み取れたのだ。彼女の自責の念と自己嫌悪から下した重苦しい決断を、どんな言葉でも撤回させることは不可能に思えた。

その時のことを思い起こすと、心臓が痛む。思いは複雑すぎて、まだ生傷の状態にありかさぶたになっていない。この間の経緯を冷静に語るにはもう少し時間が必要だと思う。オレたちは、それぞれに心の激震に襲われていて、波長がかみ合っていない。オレはダバオにいる。本来ならば、何があってもミミはバスに乗って会いに来ていなければおかしい。そうはなっていない。なぜか?その心情も痛いほどオレにはよくわかる。いまは離れているしかない、空白の時間がお互いに必要なのだと思う。

ミミはオレに会いに行くのに、自分で稼いだ金で来たいと思っている。ダバオを撤退したその日から、彼女は海藻のプランテーションを始めたとのこと。海上に開拓民のようにロープを張り、そこに海藻の芽をつるす。3ヶ月ほど育て、成長した藻を収穫し乾燥させて台湾人バイヤーに売る。海藻は食用ではなく、ロープの原料となる。4月上旬、5本のロープを張って始めたという。聖週間の後半、やっとダバオにこれた時も、ミミは留守中のプランテーションの世話をしてくれている兄弟に、何度も藻田の状況を確認する電話をかけていた。5月3日、彼女を見送ったときも、いつものように少し小遣いを上げたのだが、それを元手にさらに3本のロープを買って藻田を拡張したのだと、きのうの晩の電話で熱っぽく話していた。手入れはぜんぶ自分でやっているので、ますます日に焼けてネグラになって、もう会わす顔がないと口ごもった。

何だか痛々しい話だ。大学を忘れようと、反対方向のものに夢中になっているそぶりを見せているようにも思える。自分でビジネスをして、自立できる姿をオレに見せびらかしているようでもあり、むりやりオレに褒めてもらえるネタを探しているようにも見えてしかたがない。所詮はフィッシャーマン(漁師)の娘、愚かな自分にはもうこれしか生き延びる道はないと、歪んだ決意で身を固くしているようすが、電話の声から想像できた。

「パロパロしたら殺すからね」

(なんだ会えないと強がって見せながら、まだオレに未練があるようだ)。闘うスリガオの女が、天に向かって咆哮したのか。オレにはなぜか、可笑しさが込みあげてきた。ミミよ、タラガ、マティガス・オロ(意固地)。ミミよ、もっとリラックスしてくれよ。節操のない、どこにでもいる、そんじょそこらのプラクティカルなフィリピーナのように、これぞ仕事だと割りきって、またダバオまでオレに会いに来ればいいのじゃないか。そうすれば小遣いをそれなりに持ち帰ることができるというのに。それができない、ミミという人間の性格を、今回の事態はあからさまに語っている。

「今度会うのは12月になるかな、クリスマスのパサロボンもって、どこで会えるのかな。もうダバオに来るのもこれが最後かもしれない」
「えっ!....12月?」ミミはちょっと驚いた気色で言い、プランテーションの成果を出すには、それくらいの空白が必要だろうと、少しあきらめた調子になった。
「アニバーサリーの10月にしてくれない?」
しぶといミミの注文だった。

アニバーサリーとは、オレたちが出会った10月のことを意味している。しかし、ミミが大学を断念し、プロビンスに引きこもって海藻のプランテーションをやる以上、オレがダバオに来なければならない当面の理由はなくなったといえる。オレの方から彼女のいる場所へ行けばいいようなものだが、そうは行かない事情が立ち現れた。

今度はオレのことを話す番だ。昨年暮れの12月11日のことだ。大学病院の血液検査の結果、医師から重大な告知を受けた。このままでは、糖尿病になってしまうという警告である。その場ですぐさま別の診療科に半強制的に行かされた。その診療科では、さらにスポーツ医学や食事療法などの医師にも回された。もし本格的な糖尿病になれば、それらの外来を常時点々とし大学病院の外来漬けになり、蟻地獄ならぬ医者地獄に陥ってしまうと危惧した。そうなると、医療費がバカにならないだろうし、もう金輪際フィリピンにのん気に通うなどといったことが不可能となるだろう。オレはそのことを心配した。

よほどの危機感を抱いたのだろう。その日以来、尻に火がついた心境で、血糖値を下げる運動に没頭し今日にいたっている。オレがなぜいまダバオにいるのかといえば、毎朝「ピープルズパーク」で強化自主トレーニングの真似事のような、激しい運動を自ら課し汗を流し続けているからである。この半年間、とにかく歩きつづけては、腹筋や胸筋を鍛え抜いてきた。そのかいあって、3月末の再健診で、体重は約5kg落ち、血糖値は医師も驚くほど劇的に改善し「治療の必要はなし」と診断されたのである。

そこから弾みがついた。その後もトレーニングは続けた。5月8日現在、メタボの胴元然と30年間腹の周りにこびりついていた脂肪はすっかり消えた。かわって腹直筋と腹側筋がみごとに浮き上がり、半年前には信じがたいほどの体形になっている。はた目には誰もオレが癌もちだということは想像もできなだろうカラダに変身したのである。もちろん体重も今日までに7kgほど減った。半年前にはただの一度も肩を浮かすことができなかった腹筋だが、これも今は朝夕で、それぞれ300回ほどできるようになった。嘘のような本当の話なのだ。

しかし現実には、癌の治療を継続している。だから、毎日のエクササイズには、切迫した「防御」的の意味も含まれている。抗癌剤であるホルモン剤の強い副作用で、放置しているとカラダが女のようにマシュマロ状態になり、乳房も膨らんでくる。そうはさせじと筋肉を鍛えることで、引き締まったふつうの男らしいカラダが維持できるのである。

そうして自分のカラダをいじめぬき追い込んでいるさなかに、思いもかけない出来事が身辺に重なった。それについては、次回報告したいと思う。

画像:ボルトンとリサールの交差点あたり(今朝の5時半頃)

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lolipop893 at 10:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2010年12月10日

平和賞授賞日に思う

summerhouseすがすがしい朝を迎えた。今朝は5時に目覚め、台所に立って昨夜残した鯖の調理などをした。昨夜から今朝にかけて、ダバオの電波事情のせいかあるいはミミの携帯電話機の不調か原因は定かでないが、また通話のトラブルがあった。繋がっても彼女の声は聞こえるが、こちらの声が聞こえないようなのだ。こんなときは感情を抑えて、「しょうがない」と言いつつあきらめるのがフィリピンとうまくつきあうコツである。ミミと知り合ってから、何度も似たことがあり、オレはもう慣れっこになっているので胃を焦がすこともなくなった。

今月下旬、大学の授業を終えた直後のミミは、スリガオの実家に帰ることにしている。家の周辺は地形と気象の影響で電波障害が多発する地域で、携帯が素直に繋がることがない。彼女が帰省している間は、お互いに電話しあわないことを約束してある。

このブログで何度も繰り返して述べてきたように、ミミとオレは「別れた」ことになっている。実家に帰れば彼女は、その辻褄合わせの演技をしなければならない。幼い頃ミミがその土地に住むようになってから、いつしか近隣には親戚も移住してくるようになったという。彼女が郷里を語ってくれるとき、ネイバー(neighbors)「お隣さん」という言葉がしばしば出てくる。実はその人々のほとんどが、父方か母方の姻戚に当たる。一族が身を寄せ合うようにして暮らしているのである。そのなかに一人か二人、かなり口うるさい人間がいるらしい。ミミの姿を見かけるとここぞとばかり近寄ってきて、「あのハポン(日本人)とはなんでウェディング(挙式)しないのか」としつこく迫ってミミの神経を逆なでするという。彼女が郷里に帰りたくない最大の理由にあげるのが、その「余計なお世話」の忠言だという。特に日曜日、教会のミサのあと親戚中が集まって会食する場などでつるし上げにあうらしいのだ。それが度重なると最後には喧嘩になり、いつも愛想を尽かしドアを蹴り上げるようにしてミミはダバオに帰ってくるのである。

話を聞いていて、オレはいやな気持ちになる。彼らが挙式、挙式というけれど、それは必ずしも日本的な発想でいう「けじめ」をつけろという意味ではないのだ。その言葉の裏には、彼らの欲得がある。日本人を旦那にして、苦しんでいる家族の面倒を見させろという一方的で暴力的な発想が潜んでいることは間違いがない。ミミに確かめてわかったことだが、そこでいう「家族」とは、老いた両親というにとどまらない。住む家がなく職もなく貧乏な両親の家に転がり込んできている不甲斐ない兄夫婦や、家を飛び出して行方知れずのままの姉に置き去りにされた子供たちまでも含まれているのだ。その貧困・困窮のパッケージを丸抱えにして、外国人の彼氏ひとりに面倒をみてもらえという身勝手な論理がそこにある。いやそれだけではない。さらにいえば、その苦言を呈している親戚自身の家族もまたちゃっかりと「家族」周縁に片足を突っ込んでいて、特権として何かの恩恵にあずかろうとしていることが見え透いているのである。

「ミミに向かって口やかましくいう親戚」。そのあまりにもしつこい愚痴話を耳にタコができるほど聞かされてきて、さすがのオレも(ちょっと待てよ?)とひねくれた考えに襲われた。もしかしたら、その親戚がいう言葉とは、ミミの両親の言葉を代弁してやっているのではないだろうかという疑心だった。おそらくそうなのではあるまいか...。いやはや。すがすがしい朝に、つまらない話はこれくらいにしておこう。

さて今日は12月10日。たしかノーベル賞の授賞式が行われる日だったと思う。平和賞の授賞式はノルウェーのオスロで開催されるとのこと。残念なことに、わが愛するフィリピンは中国政府の圧力に屈したのか授賞式の式典に不参加を決めたようだ。人権を軽視するならず者国家の群れに伍して、世界じゅうに国の恥をさらすことは、かえすがえすも残念に思う。

親米国家のはずのフィリピンだが、両国の関係は冷え切っているのだろうか。いまのアキノ大統領(ノイノイ)の母親、故コラソン・アキノ大統領の時代に、米軍は撤退(1992年)した。米軍の抑止力が低下したと見て取った中国は、それからわずか3年後の1995年に、フィリピンが領土であると主張してきた南沙諸島(スプラトリー)<中国、マレーシア、ベトナム、台湾も領有権を主張>を武力で占拠した。ちょうどパラワン島の北西部にある諸島である。フィリピン軍はなす術もなかったようだ。わが領土尖閣諸島が同じ経過をたどって中国に領有される危険性はきわめて高い。

報道によれば、ノイノイが中国に屈服したのは武器の部品調達の問題があったようだ。これまでアメリカから輸入してきた武器の部品は「中古品」ばかりで、フィリピンはずっと不満を抱いてきたらしく、中国からの部品調達を検討し始めたことが背景にあるようだ。武器の部品調達のために、人権を軽視する三流国家の仲間入りをするというノイノイは、国益を損ねているのではないだろうか。中国の属国化していくフィリピンを座視しているアメリカという国も地に落ちたもので情けない。

午後になって、駅のほうまで歩いてみた。特に用事もないのにそんな風に思うのは、気持ちが前に出ている証拠で、滅多にあることではない。強い日差しが、病気を忘れさせてくれるダバオの暮らしと錯覚させたのか、ふだん重たい気分のオレを外気に引き出してくれたものだと思う。気持ちが少し大胆になって、いつもとは違う道をたどってみた。遠回りして線路をまたぎ、向こう側の駅前にたどりついた。帰り道の途中に安売りスーパーがあり、5本で100円に満たないバナナを買って帰った。こういう安売りバナナはみな「フィリピン産」と決まっている。ふとミミとの買い物風景を思い浮かべた。彼女は「セニョリータ」と呼ばれる小さなバナナが好きで、よく買って食べたものだ。日本では「モンキーバナナ」とも呼ばれる。

2010年12月09日

橋を作る男

DSCI0124けさも早起きをして、きのうに続いて枕カバーなどの洗濯を試みた。水も空気も、身を切るように冷たい。少しでも労働をして体が動かせるのは、気力がしっかりしていて体調も悪くないことの証しだからうれしい。図書館から予約済みの書籍が届いたと知らせてきたので、受け取ってきた。途中スーパーに立ち寄り二三日分の食糧も買った。いっぱいに詰め込んだリュックを背負って、例の坂のある道を通ったが、途中の険しい階段道は息が乱れることもなく昇り降りできた。帰宅したときは汗が吹き出ていた。この調子ならば、すぐに寝たきりになることなどないだろう。気にかけていた「老齢基礎年金」は、65歳からの受給でもいいかなと思い始めている。

二日前の夜、久しぶりに姉と電話で長話をし互いの近況を報らせあった。ことし61歳になる。その姉も最近友人と会えば、話題は年金のことや、この先どうやって生計を維持していくかという話にばかりなると、ため息をもらしながら言った。子供や孫に後ろ指さされぬような婆さんになって往生したい、そんなふうなことを繰り返していた。いい母親、いい婆さんになろうと必死なのが少しばかり気にかかる。この歳になったら過度に他人との関係を考えすぎないことがいい。もっと肩の力を抜いて、たとえ孤独死という運命になっても、自分を輝かせて死んでいければそれでいいのではないかと思った。姉は若いときからずっと今も現役で働いてきて、その重労働がたたったのか、近頃は高血圧の心配が出てきたといってオレを心配させた。オレが癌の闘病生活をしていることも、フィリピンに通っていることも姉は知っている。しかし、ミミのことはまだ具体的に話していない。

昨夜はレンドルミンを飲んで早めに床に就いた。今朝枕元に置いた携帯電話機の着信記録を見たら、遅い時刻にミミから5度も電話が入っていることを知った。睡眠薬を飲んで眠ると耳元に置いた電話の音にさえまったく気づかないのだ。さきほど図書館とスーパーマーケットから帰ってきたら、大学から部屋に戻ったばかりと思われるミミから、何度もミスコールがあった。ところが、ダバオの電波の状態が悪いのか、あるいは携帯電話機の不調なのか、オレがいくら折り返しても繋がらなかったりすぐ切れたり話中になったりする。電話の行き違いすれ違いを30分ほども繰り返した。ようやく繋がったとき、ミミの泣きそうな声が飛び込んできた。

「オッパー、生きてたのか。ゆうべ何度もミスコールしたけど出ないから、死んだのかと思って眠られなかったよ」

嘘でもうれしいミミの殺し文句だが、裏返してオヤジらしい意地悪さで深読みすれば(あんたが倒れたら、アコもパタイや、だから死ぬんじゃないよ!)ということでもあるのだろう。つまり、オレが死ねば、海を越えてオレたちは「心中」も同然になる。ミミの未来は何もかもぶち壊しになる。オレが日本にいるということが、彼女にとってどれほどリスキーなことか推してしるべしである。オレが病院のドクターに何か良からぬことを言われて、「強制入院」ということにでもなれば一大事、ということが彼女のシミュレーションの中にはあるのだろう。心配の種は尽きないのだ。

されどミミよ、心配するなかれ。オレはいつも電話でその安心を言葉ではなくテレパシーで伝えてきたつもりである。「男と女のあいだには、深くて暗い川がある....」というのは確か『黒の舟歌』といったか。あれは、カラオケでよく耳にする定番曲のようだが、どうみてもフィリピン人に惚れる男の歌ではないなとつくづく思う。なぜなら、さびの部分で「ロウ・エンド・ロウ、ロウ・エンド・ロウ」と唄っている。つまり無謀にも舟を漕いで川を渡ろうとしているのである。そうしろと叱咤激励している詩である。もしフィリピーナと付き合うなら、危険を冒して川を渡る激情男よりも、ファイナンシャル・セキュリティとして、インフラのしっかりした橋を架けるくらいの土木男でなければ愛想をつかされるからである。

宵の口から電話をかけ続けたがまったく応答がないことで、とっさに死んだのかもしれないと心配して夜を泣き明かしたというミミを、オレはいとおしい女だと心底思っている。そこには、よこしまな気持ちがあったはずだなどと毛頭考えていない。オレが死ねば、自分は生きていく術をもたない、だから後を追うのだと、今でも彼女は真顔で独白する。しかし若いミミには無限の未来がある。どんなことがあっても死なせるわけにはいかない。彼女にはまだ内緒だが、ファイナンシャル・セキュリティという面から、ひとり残されても生きていけるよう準備をし始めている。いまはまだ小さな土木工事だが、食うに困らない程度のものは残していくつもりである。

昨夜彼女は、宿題のリサーチで遅くまでカフェで調べ物をしていたらしい。さきほどの短い電話で、今日もこれからカフェにこもる予定だと言っていた。とにかく長々と英語でまくしたてるおしゃべり女になった印象だ。さて、オレはこれから夕食の準備だ。ジャガイモや人参、大根の皮むきをし、豚汁の豚肉の替わって鯖の干物を使った「鯖汁」を久しぶりに作ろうと思う。

lolipop893 at 16:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2010年12月08日

猫とネズミの物語

aldevincoかつては日に10回近くミスコールを繰り返していたミミだったが、近頃はおおむね二度、ただ短く声を聞きあうだけの電話となった。そのささやかな音信には、かつてない落ち着きを感じ、それだけに妙に平和で、遠くにいてもオレたちは近くに寄り添って生きているという思いがつのる。

一昨日第二次の試験が修了し彼女はほっとしているようだ。電話の声が鈴を鳴らすようにいちだんと弾んでいた。今日は教師の会議とかで、大学は休講で学校に行く必要がないらしい。細かく見ると、こういう突然の「休講」がけっこう多いのが気にかかる。

今朝は晴れ間がのぞいたので、風呂場にこもって洗濯をした。洗濯のノウハウはミミの手洗いを見よう見まねで習得したものだ。アリエールを入れた水につけ洗いして、洗濯石鹸で洗うのである。たまに運動をしなければという意識で体育の授業を受ける感覚で洗濯に取り組んでいる。粉石けんはスーパーで買う国産ものだが、バー・ソープは帰国のときフィリピンから二、三個買ってきている。オレの日本でのサバイバル生活は、日本とフィリピンふたつの文化の寄せ集めで支えられているのだ。たとえば、料理に使っているダシ調味料も、いつのまにか現地で人気の「GINISA」をふりかけるようになってしまった。もっともこのフィリピンの大衆的調味料は、日本の「AJINOMOTO」の製品だから、本当は日本で買えるものかもしれない。値段の安さで、つい現地で買ってきてしまう。

そろそろ、ミミはふたりで囲む食卓に欠かせない食材「鮮魚」と「フルーツ」が恋しくなったのであろうか。電話の声が、腹を空かした猫の切ない鳴き声に聞こえるようなときもある。「キトン」、「バレリソン」、「ラプラプ」、「ボドボロン」、「マラスギ」など、オレたちはスーパーで新鮮な魚を見つけるたびに、ためらわず買いこんで夕飯のおかずにした。どれもこれも、日本円で150円ほども出せば一匹買えてしまうシロモノである。漁師の娘のミミは鮮度を見分けるコツをよく知っている。自分の目玉が魚の目玉にくっつくくらい顔を近づけてみたり、えらを開いて奥のほうまでのぞいて色味を探ったりしながらベストバイなものを買い求める。デザートはかならず果物で、これも20ペソ前後のものをふたりで分けて食べる。おそらくそんな贅沢な夕食をふたりで食べても300円にはならないはずである。それがボーディング・ハウスに戻れば、ミミは贅沢を一切しなくなる。近くのカンテーンからおかずだけ15ペソ〜20ペソで買い、部屋で米を炊いて食事しているはずである。「カンバック・スーン(come back soon)」が、口癖になったミミだが、おれに会いたい気持ちと、ご馳走をねだって鳴きやまない子猫の心情とが、いつも複雑に交じり合っているようである。

猫なら猫らしく強くあってほしいものだが、この一週間部屋のものがネズミの攻撃にあったらしく、「サンダルやスリッパがかじられた」「通学かばんの端っこが食いちぎられた」などと大騒ぎしている。ダバオのポブラシオンの真ん中に位置して、ロケーションだけは申し分ないのだが、ネズミやゴキブリが居心地よさを感じている老朽の激しいボーディンウハウスで、腹を空かした生き物たちが仲良く共存しあっている建物のようだ。「ゴキブリ用の殺虫剤のスプレーでも死なない!」といって、わざわざミスコールをかけてくるのには閉口する。「お前、スリガオの女だろ、ネズミ一匹ぐらい足で踏み潰して殺してしまえよ!昔はゴキブリもそうしてたろ!」と言いかけて出かかった言葉を飲み込んだ。帰国直前、部屋の外でうごめいているネズミを偶然目にする機会があったけれど、ミミの足のサイズよりもはるかにデカかったのを思い出したのだ。

渤海建国を題材にした韓流ドラマ『テ・ジョヨン』の全134話をついに観おわった。ちょうど今朝、予約していた本が一冊届いたと最寄の図書館から電話が入った。あとで買い物がてら受け取りに行ってこようと思う。

2010年12月07日

渡比と年金

ummatina3昨日は大学病院で半日が暮れた。くたくたに疲れて帰宅し、何かする気力も湧いてこず、そのまま深夜まで横になり目を覚ましたとき買い置きしてあったあんぱんを夕食用に1個食べ、肝心の薬を飲んでそのままふたたび眠りとおして朝を迎えた。結局一日のほとんどが、病院のことで潰れてしまった。家から大学病院までは、電車を一度乗り換えて、片道約2時間ほどかかる。通常ならば予約診療、処置(注射)、血液検査(事後)、薬(抗癌剤)の受け取り、会計という段取りで、つごう約3時間ほど院内にいれば全て終えて帰りの電車に乗ることができる。ところがきのうは特別だった。それに加え、上腹部の超音波(エコー)検査と胸部X線、上記とは異なる血液検査が行われた。昨日の癌の診療医師とは別で、数日後に予約診療を約束している例の検査好きの医師が9月の診療時に指示してあった検査である。くたびれ果てた原因は、そのメニューの多さにあったのだが、注射の処置のあとの副作用によるめまいや嘔吐なども影響している。

オレはまったく気づかなかっのだが、帰りの電車の中で携帯電話にミミから三度ミスコールが入っていた。オレが病院に行く日は、気にして検査の結果や医師の言葉を確認してくる。オレの診察の結果は、今後の渡比の動向に影響してくることを彼女は知っている。そうなれば、自分の経済的基盤が危うくなっていく。4年も付き合っていれば、もはや純粋にオレのからだを思いやる優しい気遣いだけではすむまい。自分のファイナンシャル・セキュリティ(経済的安心)のほうに関心の軸足は移っていくはずだ。オレはそういう計算高さが、彼女の身につくことをけしからんとは思わない。それが正しい成長だと、思っている。だからどうして欲しいこうして欲しいともミミはいわない。ただ「ダバオでイカウを待ってるから」としか言わない。「来れないのは仕方ないから、お金だけ送金して欲しい」などという発想は、いまのミミにまったくないだろうと確信できる。来れるだけそばにいて、一緒にサバイバルしたいと願っているようだ。

それにきのうは大学の試験が終わった日で、感触を知らせておこうという意図が電話にはあったに違いない。帰宅後しばらくしてオレはコールバックしてみた。生物学は教師に確認して問題ないという話だったらしい。いっぽう、タイプライターによるタイピングが今回もうまくいかなかったと落胆していた。将来仕事をする上でタイピングのスキルを磨いておけば就職に便利だから、しっかり勉強(=練習)しておくように、とオレは助言して日本に帰ってきた。本人もそのつもりで頑張ろうとしていたらしかった。

ところが、大学においてあるタイプライターの半数近くが不調または壊れていて、キータッチが指を骨折しそうなほど重たいらしいのだ。試験は時間内にできるだけ数多くの文字を打ち込むようにできているものらしい。うまくいかないのは自分だけではない、とミミは弁解めいた口調でオレに言った。昨今は誰もタイプライターなど使わないはずだ。みなパソコンの電子キーボードを叩くのだろうから、この試験自体時代錯誤といえなくもない。ミミはこの問題点について、すでに教師と何度か話し合ったという。設備を最新のものに買い換えて欲しいとまで言ってあるらしい。出席や課題提出は完璧なはずなので、ここでやる気を見せておけば落とされることはないだろうという読みなのだろう。そういう点にかけて、ミミは抜け目のない女だとは言える。余談になるが、こういうときの押しの強さに、「授業料一括前納学生」であることが、プラス面に働いているようである。

数日前、年金の申請の話題に触れ、老齢基礎年金を通常の65歳受給にすべきか60歳繰り上げ支給にすべきかで迷っていることを記事に書いた。何人かの読者諸兄から早速反応があり、「自分はこうした」「自分ならばこうする」という貴重なアドバイスをいただいた。深謝にたえない。あくまでも老齢基礎年金だけの話だが、もう少し自分なりに考えてみたいと思っている。今の政権の年金政策にも不信がある。65歳時点で、まだ日比を往復できるくらいの体力があるだろうか。繰上げは60歳を過ぎてから月単位で申請できるものだというから、食えなくなって必要に迫られた時点で申請してもいいだろう。60歳時点で申請すれば通常より5年(=60ヶ月)早く請求することになり、0.5%×60=30%の減額になる。月割りにすると、一ヶ月遅れれば0.5%ずつ満額に近づくということになる。辛抱すればするほど、あとで生活が少し楽になるということか。だとすれば、ミミと鍛えぬいたサバイバルの秘伝のノウハウがある。さらなる貧乏に耐えて、65歳になるまで長生きして頑張ろうという励みにもなるのではないかと思っている。ちなみにオレは保険料納付期間が40年に満たない。だからこの年金も満額の792,100円(月額66,008円)に満たない。

2010年12月05日

惹かれる人物

ummatina3ときとして、抗癌剤の副作用で集中力がなくなり気が滅入ることがある。ミミを支えその手をしっかり握ってきたはずのオレもつい弱気になり、激流に飲み込まれて彼女の手を、天を仰ぎながら力尽きて危うく放す白日夢を見る...。精神まで病んでいる自分が、情けなく思うときがある。敗北としての死ではなく、死のあり方を自ら選択できるほどに生き生きとし鮮やかな、「生」として踏み込んだ死を迎えなければという思いがある。

社会からは、とくに何かすることを強く求められているわけでもない。金はないが、そのかわり時間だけはあり余っている。そういうオレの一日は、たとえば図書館から本を借りて読むことなどに使われている。読書が趣味かと訊かれれば、必ずしも胸を張って「そうだ」と言えるほどの読書家ではない。ただ、読み出せばつい夢中になる性格で、ほぼ一日あれば、どんなものでも読みきってしまう。比較的早読みなほうではないかと思う。

借りる書籍は100%文庫本だ。どんな状況でも、いかなる体勢でも、手軽に読めるのが文庫本のありがたさだ。年齢のせいだと思うのだが、近頃は歴史小説や時代小説ばかり好んで手にする。ここ数ヶ月は、浅田次郎や藤沢周平の作品にのめり込んできた。ごく最近では永井路子の小説もよく読んでいる。好きな時代は、奈良・平安、そして明治維新前後、加えて信長や秀吉の時代にも興味がある。これらの時代はまた、大陸と積極的に交流した時代で、唐や明、清の時代のものもたまに読んだりする。浅田次郎の『蒼穹の昴』や『中原の虹』などはとても気に入っている。

思想的に偏向はないと自己分析しているのだが、そもそもTV受像機がなく、ここ6〜7年TV番組をまともに見たことがない。もっぱらネットからばかり情報を得ているので、当然の結果として少し右傾化しているかもしれない。新聞やTVなどのマスメディアが左傾化し、ネットが右傾化している今日の状況をオレも体現しているといえるだろう。そもそもマスメディアの報道をオレは信用していない。そこでの多くの情報は、制限され操作され偏向されていると思っている。特にここ数年、国民が知る必要がある情報が、マスメディアでは取り上げられていない事実に驚嘆している。ネットには玉石混淆で何でもあるが、より広く深い情報にあふれており真実を知ることができると信じている。

小説の話題に戻るが、特に好きな分野は「サムライもの(武士道ものといってもいい)」である。とりわけ「新撰組」という三文字には敏感で、目に触れれば必ずと言っていいほど読んでいる。近藤勇、芹沢鴨、沖田総司などに、自分なりの濃いキャラクターイメージを持っている。そんななかで、強く惹かれる人物は、副長だった土方歳三で、彼には憧れさえ感じることがある。TVの大河ドラマの影響で、近頃は幕末期に活躍した坂本竜馬がブームらしいが、そうした日の当たった人物よりも、日陰者の群れと見られた新撰組の壮絶な生きざまのほうに、どことなく共感を覚える。

近藤も土方も国の将来についてさしたる主義主張などもっていなかった。彼らは、ただ食うために、隊士募集の呼びかけに応じた多摩の百姓あがりの剣士だった。江戸で策士清河八郎の隊士募集に応じ、いわれるがままに京都に向かっただけだった。清河についていくうちにやがて一団は分裂し、いつしか新撰組は落ちぶれた幕府の公安警察「京都所司代(会津)」に拾われていたのである。そこで初めて「暗殺集団」と化す。「官軍」であり続けたいと志向していたが、気がつくと「賊軍」になっていたのである。

最後まで生き延びて、自分の与えられた仕事を忠実に果たし続けるのが土方歳三ひとりだったといえる。鳥羽伏見の戦いの最後に、結局榎本武揚に裏切られ(投降)、土方は函館五稜郭で決死隊を率いて死ぬ道を選ぶ。死を決意する直前に、それまでついてきた新撰組の残党に命令を下し、故郷に帰してやる...。

今の時代を幕末維新の時代にたとえる人々が多いが、オレは違うような気がしている。中国共産党の覇権は恐怖だが、あれは腐敗堕落のなれの果ての姿だろうと思う。深刻な社会不安を隠している。いつか自爆すると思う。「天」が許すはずがないというのがオレの考えだ。民主党も自民党も、中国共産党同様に腐敗堕落してしまっている。死ぬことを恐れた怯惰な人間の集合が、今日の政治状況ではないのか。誰もが、あるべき国家の理念を描く仕事をないがしろにしている。幕末維新の頃とはまるで違っている。管総理大臣、岡崎国家公安委員長、細川厚労相、レンホウ行革刷新相などの国会答弁は、見ていてまさに漫画そのもの。どうしてあの人々が、いまだに大臣を続けていられるのかが分からない...。将来の日本を支えることになる子供たちには見せられない「大人の醜態」そのものではないのか。そうにまでなっているというのに、それを糾す正義も力も失われていることが問題である。

政治家が選挙を恐れるようになり、国会議員が職業となり、落選による失業不安を抱くようになってから、議会制民主主義は腐敗堕落してしまったと思う。政治家が政治信条や政策ではなく政局ばかり追求するようになったのは、選挙を気にかけると同時に利権追求に腐心しているからにほかならない。怯惰がそれに拍車をかけている。その結果政治家の常識が、国民の常識とかけ離れて、ともすれば彼らが「ゲテモノ」に近い存在に見えることさえある...。とまあ、言いたいだけ言ってみた。しかし、こんな体になって社会に不平不満を言ってもどうすることもできない。それが悔しい。

前回ダバオを訪れたとき、今度の滞在が二ヶ月近くになると初めから分かっていた。図書館から借りる本は、二週間が限度。一度だけネットを通じて延長はできるものの、最大でも一ヶ月間しか手元においておくことができない。そんな事情から、ふだんは滅多にやらないことだが、ネット通販で、中古の文庫本を8冊ほど買いこんで渡比した。一週間ほどで読みきってしまい、あとは何もすることがなくなってずいぶん退屈した。ふだんは二度読みするのだが、その気力がさえ薄れてしまっていた。

ミミも教科書にかぎるが、時間があればよく活字を読み込んでいる。部屋の中にいて、オレたちは可笑しいぐらいにもの静かで、別々に読書をしあっている。かつては暇さえあれば、ジャングルの小動物のようにただ眠ってばかりいたミミだったが、いまはまるで違う風景の中にいる。それでも、無言で活字を追っている彼女の目もとだけは気の毒なほど紅潮していて、すごいエネルギーで読み込んでいることがわかる。いつか空中分解しなければいいがとオレは心配している。

日に二三度ミスコールがある。やたらに声が明るく元気だ。その声を聞いて、オレの精神にかかった濃い霧が晴れていく。この子のためにも死んでなどいられないという気になるのだ。明日からはまた病院通いが続く。

2010年12月03日

細かな計算

hilltop久しぶりに長い距離を歩いてみた。家の周りは昨夜から今朝にかけて暴風雨が吹き荒れた。朝には雨が上がって晴れ間がのぞいたものの、風の勢いは少しも衰えない。体力が落ちているオレは、歩いていて何度か立ち往生し吹き飛ばされそうになった。気温が上がり晴れているのになぜだか風は恐ろしく烈しい。空を見上げると、黒味を帯びた雲の塊りが、早足で頭上を流れていく。実に奇妙な天気だ。

冒険心からふと思い立って歩いてきたというわけではない。いまは体力にそのような余裕がない。そうせざるをえない用事があったのだ。それにかこつけて、遊歩を楽しんでみたということ、情けないがそれが今のオレの実情だ。歩くたびに、これまで長いあいだ淀んでいた血流が、オレのからだの末梢にまでめぐって行くのがわかった。雇い主の甲斐性がなくて、すっかり飢えて渇ききってもいて、これまで死んだように鳴りを潜めていた手足の指先の神経細胞が、久しぶりに血液を迎えてがぶ呑みしてでもいるのだろうか。指の先が、喉を鳴らすようにずきずきと脈打った。

きのう郵便受けに、この9月大学病院の窓口で支払った医療費の還付の申請書が届いていた。必要事項の多くはすでに印字されていて、確認し氏名を書き捺印するだけでいい。同封の返信用封筒で送り返してもいいのだが、土日をまたげば受理されるのがそれだけ遅れることになる。役所仕事は非情で、一日遅れで「翌月扱い」に廻されることもある。だから、その記入、捺印した高額療養費の支給申請用紙を、区役所の窓口に直接持参し届けてきたのである。近頃何かといえばそんなきわどさに心を砕きながら、慢性自転車操業状態が続いている。

区役所は、役の反対側にある。駅までは歩いて5、6分。さすがに駅構内に通じる急な階段を昇るのは息が乱れるので自信をなくし、エレベーターを使って上がり、改札や券売機の前を通って線路をまたぎ、向う口に降りるときには階段を使った。台風一過さながら空は晴れ上がっているのだが、さっきまでの風雨で、駅の構内も階段も濡れて滑りやすくなっている。油断をせずに、丁寧に足を運び踏みしめるようにして階段を降りた。もう身も心もすっかり老体である。

区役所は駅からまっすぐ東に通じる大通りを、どこまでも歩いていけばたどりつける。ダバオ市中ならさながらアテネオ大学とガイサノショッピングモールほどの距離で、久しぶりに風を体いっぱいに受けながら、一歩一歩味わうようにして歩行を繰り返した。この申請で、6万円あまりが返ってくる。

先月末、帰国したときだった。小雨の降る薄暗がりのなかで、オレは荷物を背負ったまま、階下にあるオレの郵便受けを探った。50日間の留守のあいだに、予想通り口から吐しゃ物を吐き出すかのようにあふれて溜まっていた郵便物や広告チラシのなかに、「年金請求書」を発見したときオレの心臓は高鳴った。その重要書類の配達を、オレはなかば予想しながら帰国したのだった。手続きの流れに添えば、そろそろ届いていてもおかしくない時期だった。目にしたときには、いよいよという厳粛な気持ちになった。

書き込むデータはほとんど揃えてある。しかし、申請は60歳になる来年の誕生日(2月)以降でなければできない。その申請について、オレは迷っていることがひとつある。65歳から支給される老齢基礎年金を、前倒しで60歳からもらうことにすべきかどうかである。本来の支給開始の5年早く、60歳から支給を受ける場合、65歳からの年金の「7掛け」の額に減額になる。どちらが得かという問題は、オレがどれだけ「長生き」できるかという寿命の問題でもある。自分の寿命を秤にかける結果になった。

一般的に、損益分岐点は75歳時点で交差すると言われる。つまり、75歳以上生きれば、60歳減額支給開始よりも、本来の65歳満額支給開始のほうが得をするという話らしい。ただ、ここでもうひとつ重要な検討事項がある。前倒し申請(正確には繰り上げ申請という)をすると、障害年金の権利を喪失するのである。つまり、将来何らかの原因で「障害者」になったとき、その分の年金がもらえなくなるのである。

ここでいう「障害者」とは、四肢に問題あるという単純なものではない。たとえば、人工透析や、酸素ボンベを使った自宅療法、心臓ペースメーカー移殖、さらには「うつ病」まで対象になっていてその認定範囲は案外広い。オレの場合には、長いあいだ気管支喘息の治療をしてきている。将来は、呼吸器のみならず、腎肝機能などに障害をきたす可能性は少なくない。障害リスクは高いほうだといっていい。とすれば、60歳からは厚生年金(報酬比例分)だけにしてもう5年頑張って、老齢基礎年金の部分は65歳からの支給を待つというほうがオレの場合にはいいのかもしれない。つまり、おのれの寿命の計算と同時に、障害者になる可能性についても慎重に先を読まねばならないのだ....。

そんなことをつらつら考えていたら、ミミからミスコールが入った。折り返して、ずいぶん早い帰宅だなと言った。今日は二度目の試験があったはずで、いつものように「どうだった?」とさりげなくオレは探ってみた。「I could answer many questions.」いつもの口調だが、これが苦労の末ミミが編み出した苦肉の答えなのだ。質問にたくさん答えられた。でも結果はわからない。ということなのである。あまり追いつめてもかわいそうだ。もし本当に結果が悪ければ、「もう援助の意味がない」といって引き揚げるだけでなく、そうと分かった瞬間にフィリピンに来なくなるかもしれないと思っているのである。その辺りの小ざかしさ気のめぐらし方は、ジャングルの動物並みである。

進級可能かどうか、卒業可能かどうか、以前は真剣に考えた(悩んだ)時期があったのは事実だ。しかし、今は「笑い話」のようなものだと、軽くさばいている。「勉強したい」と彼女が言うかぎり、どこまでも付き合ってやろうかという気になっている。

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2010年12月02日

4年目の矛盾

apo_mountain帰国して一週間ほど経った。寂しくなったのか、二、三日前ダバオのミミから長いメールをもらった。その少し前に「ぜひチャットがしたい」との要請があり、小一時間ほどウェブカメラごしに顔を眺め言葉を交わしあった。チャットのあと、彼女の指示でオレがまず先にサインアウトした。それからいつものとおり、名残りを惜しむようにミミからメールが送られてきていた。

今度のメールは少し長いものだった。彼女が大学に入学してから、送られてくるメールを読むのが楽しみになった。英語が少しは進歩したかどうか確かめたいという思いがオレにあるからだ。しかし、会話で驚くほど長々とまくし立てる「おしゃべり」になった印象が強い一方で、メールには際立った向上の痕跡がまだ見えない。ダバオの最近の天候や、オレの健康を気遣ういつもの文言が連なる中で、「a good teacher」や「a gift of God」などがオレの記憶に残っている。将来立派な教師になるのだという彼女の固い信念をつづりながら、そのかたわらで実に面映いことだが、オレのことを「あなたのようなボーイフレンドをもったことが自分の誇り」だといい「あなたは神様の贈り物だ」とおだてていた。

50日間を過ごした今度のダバオ訪問で、オレたちは喧嘩をしたわけではないのだが、もっと互いが互いのことに集中できるようにしなければならないと語り合った。将来は訪比の頻度を減らす可能性がある....。そのためにオレは「送金」という方法を考えていることを、初めて彼女に打ち明けたのだった。その言葉が、一瞬彼女を緊張させ、心を萎縮させ、身構えさせる結果になったかもしれない。

送金は長いあいだオレにとって「タブー」だった。このブログを初めのころから読み進めてくれている諸兄にはある程度理解してもらえるだろう。オレのたび重なる「訪比」は、言ってみれば「送金という手段のの回避」ということでもあったのである。オレたちは一緒にいることが何よりも好きで、その目的のために、全てを犠牲にしてきたといっても言い過ぎではない。送金は、渡比の中断を意味するものと思ってきた。航空券やホテルの費用を一回分節約すれば、それだけミミには少し余裕のある生活費を送れるはずだという計算を、いうまでもなくオレたちは理解していた。しかし、ミミはそれを望んでいなかった。できるだけ長い時間オレと一緒にいられれば、爪に火を点すような質素な生活も、何の苦にもならないと考える女だった。ミミは金や物品よりも、心の贅沢を望んでいるようだった。

しかし、大学に通いだしてから、彼女の一日の時間は課題や試験に追われ逼迫しだした。どんな状況でも、ミミは炊事や洗濯など家事全般をこなす働き者の女だが、それらを大学生活と両立させるという点で、決して器用なほうではないことが次第にわかってきた。日本の大学とは違って、フィリピンの大学では課題のグループ作業やイベントなどが目白押しだ。何のためか不明だが、曜日によって異なるデザインのTシャツ(制服)を着ていく。生物学の授業では白衣を買わされ、それを着て作業教室に入るらしい。この生物学が謎めいていて、日によって小さな「ボンバイ」という玉ねぎを持っていったり、生卵をもって行ったり、あるいは小さなフライパンを用意しなければならないなどの騒動がある。ミミがなぜかグループ作業のリーダーに指名されたばかりに、授業の準備の手配の責任をまかされてしまった。そういうことは、放課後のわずかな時間を利用して級友と話し合ってくればいいのだが、なぜか学校が終わるとすぐにオレの部屋に帰ってきて、それから電話を利用して長々と打ち合わせをしているありさまだ。とにかく大学が学生を拘束したり縛ったりすることが多い。学生はいわば大学の人質のようなもので、何かあるたびにこ金を巻き上げられ、フィリピンの大学全体に巣食っている「コマーシャリズム」は、日本の大学を出たものにはなかなか理解しにくい性格である。

ダバオにいてのんびり過ごしたいと思ってきたオレは、ミミの大学につきまとう日々の騒動にどうしても巻き込まれてしまう。彼女も、オレと過ごしたいはずの時間が、どんどん予想外のことに食われいく現実に直面して、落ち着かない毎日に苛立っている。そんななかで、食事だけはどんなことがあっても一緒に囲みたいという思いがお互いにある。ところが、第一時限7時の授業を取っているミミが起床するのは4時半で、5時には朝食を摂る。それからシャワーを浴び身だしなみを整えて彼女が部屋を出るのは6時である。オレの生活時間帯もこれにあわせてずいぶん変わってしまった。彼女の世話で服用する食後の抗癌剤も、ずいぶん早めになった。オレがほっとできるのは、ミミが部屋を出て、大学にいる時間帯だけという事態が生じ始めた...。この矛盾はやがてふくれあがって、ひょっとしてミミとオレは相互に邪魔しあう(disturbing)存在のようにも映り、そのことがまたお互いに心苦しさを生む原因になっている。

大学にもっと集中する生活を、オレはいまミミに勧め始めている。そのひとつの方策として、「送金」が浮上しているのである。ところがミミは、送金が、もしかしたらオレたちのすれ違いの始まりで、行き着く果ての別離に通じるのではないかと恐れている。そのことを解決せずに、オレは来週の大学病院の診療予約といくつかの検査のために帰国した。そして付き合って4年目のクリスマスに、オレは彼女をプロビンスの家族と過ごす機会を与えることにした。オレにしては、実に10数年ぶりのことだが、日本でクリスマスの季節を過ごすことにしたのである。オレに底意はないが、その一連の行動からミミが不安を感じているのはうすうすわかっている。

人との出会いは「機縁」で、そこにも生命の論理が貫かれている。オレはそう思ってきた。人間の子供と同じように、出会いもまた生むかぎりは、育て上げる責任がオレにはあると思う。ミミの人生の夢にかけた梯子を、オレのエゴではずすなどというよこしまな考えは毛頭ない。育てる営みの中に、人と人との出会いの真実が見えてくると思いたい。人間は何ごとにも飽きっぽく、惰弱な心にとらわれ、新奇なものを追いかけたがる性癖がある。ただ脱ぎ捨てていく関係ではなく、育てていく関係の中に、人間の真実が姿を現してくるものだと思いたい。ミミのメールを読むたびに、日本人もフィリピン人も少しも変わらないのだと知らされる。

lolipop893 at 15:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2010年11月23日

見つめあう葛藤

cityhall_davaoこのところのダバオは、連日雨模様である。とくに夜間から未明にかけて地鳴りをともなったスコールがある。その激しい雨が夜が明ける頃にはなぜかかんしゃくを鎮めたようにおとなしくなるのだが、それでもまだ余震が続くかのごとくやわらかい雨粒をふり落とすことがある。今朝もそんな朝で、夕べの残り物の焼き魚で簡単な朝食を囲んで、大学にいくミミを見送った。

宿題やミニテストでストレスを溜めてばかりいる彼女は、近頃精彩に欠けた顔をしてばかりいる。見かねたオレは、数日前ガイサノで買い物をしたときついでに安い口紅をひとつ買ってやった。女の化粧で口紅は生命感を表現する大切なポイントだから、おしろいなどは塗らなくてもせめて口紅だけは差していくように言いきかせてきた。二三日前から、口紅を差して学校に通いだした。教室での評判はなかなかいいと、うれしそうにオレに報告する。あまりうれしそうな顔をするものだから、褒美のつもりで教えてやった。日本では、手の指のひとつ「薬指」を「紅差し指」ともいう。昔の女は紅筆などを使わずに指先で紅を塗った。そのとき意図して使った指が「紅差し指」だと話してやった。ミミが理解したかどうかはわからない。

近頃オレたちは、ふとした時間にお互いをじっと見つめあうことが多くなった。いや、見詰め合うというのは性格ではない。オレがじっと見つめているとき、ミミはわざと視線をそらし絡めてこない。彼女が見ているときも分かる。教科書を覗き込んで、勉強しているそぶりでいながら、じつはその教科書の垣根越しにオレを盗み見ているのだ。ミミもオレも、相手がこちらに視線を凝らしているのを知っている。それでいながら、わざとそ知らぬふりでなすがままに任せているのだ。

その奇妙な行動はつい先日から始まった。オレの帰国のカウントダウンが始まったからである。このたび特に情をこめて濃く見つめ合っている風に思えるのは、お互いの面影を記憶に焼きつけておきたいという本能的なを行動とでもいえるものだったが、付き合って初めてクリスマスも正月も離れてすごすことになったからだろうと思う。このことは、数ヶ月前からふたりで決めてあったことだった。

一日のどこかで、家族どおし言葉を交し合っていなければ精神的におかしくなる。遅まきながら、ミミの言動からそのことに気づいてから、今度のクリスマスは彼女を家族の元に返してやろうとオレは決心していた。今度のクリスマスのオレの渡比はなくなった。現役で会社勤めをしていた時代からもう20年近く、この時期はかならず海外の暖かい土地で過ごしてきたオレだったが、初めて日本にとどまることになった。大げさに言えば、オレにとっては人生の節目になるほどの重要な決断をしたのだった。

言葉で言ってしまえば、それはただそれだけのことに過ぎないのだが、ミミもオレも今度のつかの間の別れが「しばらくの別れ」に繋がるのではないかと思い始めている。それを証明する何ものもないのだが、なぜかオレたちは正々堂々とではなく、臆病なしぐさで、お互いの面影を記憶に刷り込もうとしてじっと視線を走らせているのである。

オレにはオレの考えがある。向学心旺盛なミミに、もっと勉強に集中させてやりたいという強い意識がある。そして、離れていても相手を信るという精神的な強さを身につけて欲しいという願いもあった。自立に誘導していくには、その訓練をどこかで彼女に強いる必要があったのである。彼女のほうも、大学の経費やボーディングハウス代や食費などで多額の援助を受けていることを知っているので、度重なる渡比でこれ以上の出費をオレに強いるわけには行かないという思いもあった。

たびたびかかってくるスリガオの実家の家族からの電話で、郷里は相変わらず苦しい生活に追われていることがうすうすうかがえたが、ミミはその手の話題をいっさいオレの耳に入れなくなった。付き合いだしてから今日まで、ただの一度もオレに小遣いを無心したこともない女だったが、大学に通うようになってから、授業のある日にかぎり、毎朝ジープニー代と昼食のおかず代にと50ペソをあげているだけの生活が続いている。いつも帰国の前日に、再渡比までの日数を大まかに計算しまとまったお金を預けていく。贅沢ができる金額ではないが、彼女はそれを上手にやりくりする。彼女のその心根にオレは惚れているのである。

ミミもフィリピーナのひとりで、だれだれの家は金もち(マヤマン)だとか貧乏だという基準で人を評価したがる。級友の噂話にも、必ずそのような「枕詞」がつく。「彼女のお父さんはセキュリティ・ガードだから金持ちだ」「お母さんが中古の洋服の商売をしているからゆとりがある」などである。そういう話を聞かされるたびに、オレはミミに注意をする。金持ちか貧乏かといえば、フィリピン人は95%が貧乏だ。金持ちのそぶりをしていても実際には苦しいので、自分から金持ちのように言うやつは特に信用してはならない。街中のその辺をあるいているやつに金持ちはいない、貧乏人ばかりだということをしっかり記憶しておけと、語気を強めてオレは言い諭すのである。そのことばを聞きながら、ミミはいつも無言でうなづいている。ミミが金持ちだと言った家の級友が、しばらくしてひとりふたりとクラスから脱落していくのを目の当たりにして、オレの言葉が嘘ではなさそうだとおもっているようだ。それに、貧乏人であるはずのミミとオレが、クラスで授業料を一括前納している数少ない人間だということも、金持ちと貧乏の基準をゆるがせている。

今度の別れ(帰国)が、もしかしたら長い別れになるかもしれない、ミミはそう予感しているのかもしれない。このたびばかりは食事どきや就寝前の彼女の祈りが長く尾を引くようになった。オレはオレで年を重ねたせいで、涙腺はゆるみがちで、彼女の横顔をじっと盗み見ているうちに、視神経がその凝視にたえられなくなるのか、悲しくもないというのに不覚にも涙があふれ出たりする。視線を避けていながらその不慮の光景には目ざとく、そのこともまた彼女を動揺させているのではないか。

金の臭いをかぎつけてウタン(借金)でミミを悲しませ追い詰めてきた郷里だった。やがて帰る予定でいる彼女に、これまでしっかりオレがあずかってきた銀行のATMを手渡すことにしたというのも、ふたりの間ではよほどの決心事で、この先オレに不意のできごとが起こってかりに渡比ができなっても、日本から送金するだけで乗り切れるという意味が含まれている。そのことも、ミミからすれば気がかりでならないのである。昨夜になって、ミミはどうして今年のクリスマスだけは会えないことになってしまったのかと、オレに恨み言めいた言葉をもらしたりしていた。

これからは、渡比の頻度のみならず一回の滞在日数も少なくしていこうと考えている。ミミにはそのことを言い伝えてある。ミミへの思いや支援の志は不変だ。心配することはない、離れていても一緒だという意味だとオレは丹念に説明した。そのあいだ、卒業を目標にミミは勉強に集中してくれと言い含めた。オレの残り少ない人生、もっといろんな人にも目を振り向けなければいけないと思い始めた。きのう初めておふくろに国際電話をしてみた。声の調子では元気だった。小遣いもまだ少しあると言った。もう1ヶ月以上行方が知れなくなって心配しているだろうと思ったのだ。姉や弟のことも気になった。

ダバオはいい町だ。しかし、経済はますます沈滞している。このホテルも、給料が未払いになっているとルームボーイから聞いた。部屋代はいつも10日分まとめて前払いしてきたが、円が急に安くなったので、原則どおり毎日支払う方法に変えた。受付の女性があからさまに不満そうな顔をした。まとめて払う現金を期待していたらしい。そこから遅延している給料を払ってもらおうとしていたらしい。なんだか、どこもかしこも火の車だなと思った。今度宿泊するときには、なくなっているかも知れないなとミミと噂しあった。

2010年11月22日

出会い記念日

456bbed2.jpgオレたちがドリアン・ケーキを囲んで祝宴のまね事をしたのは、ミミの大学生活での努力精進を褒めてやるというただそれだけのためではなかった。もうひとつの隠れた事情があったのである。それを窺わせるヒントが、先日投稿した画像の片隅に顔をのぞかせている。ふだんはふたりとも決して呑むことがないビールがそこにある。その日の夕方、買い物の途中で急に思いついて2缶を買い、ケーキカットの前に、ミミとオレは乾杯し合ったのだ。オレたちが知り合ってもう4年の歳月が過ぎたことになる。邂逅のその日の情景を、いまも鮮明に記憶しているというミミの言葉を借りれば「アニバーサリー」、すなわち「出会い記念日」とも呼べる特別の日を、オレたちは部屋の小さなテーブルのうえで、火鉢に手をかざしあうほどのま近さで、いつものように「ふたりぼっちで」祝ったのだった。

4年の歳月といえば、大学生ならばもうとっくに卒業して「手仕舞い」というべき局面だろうが、その4年の節目に、オレたちはさらにひと山越えようという冒険に出た。4年後のミミの大学卒業をゴールにすえて、地平線さえ見えないはるかなる時間を見晴るかして、まるで濃霧の中を足元を照らしながら並走して進むマラソンランナーも同然に、おぼつかない足取りで序走を踏み出したのだった。

オレのフィリピンとの関わりは長い。過去のフィリピーナとの付き合いも、ひとりやふたりではなかった。しかし、4年も続き、ショッピングモールでさえ手をつなぎあって買い物ができた女となると希少で、いまのミミが初めてといえる。たいてい長くても1年半、しかも今思えばずいぶん淡白な関係に終わったといえる。あくまでもオレの経験に照らしての判断に過ぎないのだが、フィリピーナとの交わる4年間といえば、つき合いの緊張感もすっかり間延びして、場合によっては「すえた」臭いさえそこここに放ち出すというのが普通ではないかと思っている。

オレたちの過ぎ去った4年間も、皿に載せて光にかざしてみると、クリスタルのように燦然と輝く過去が見えるときもあれば、細かなことでいがみ合い、ののしりあった挙句に仲直りをするという、ただただ危うさの繰り返しばかりで、言ってみれば色気の乏しい土饅頭のような歳月でもあったような気がしないわけでもない。

そうこうしているうちにふたりの思い出の塊りには、いつのまにかジャングルの木に寄生する気根のような、びっしりと放射状に絡みつく神経のようなものが繁茂し、過去を思い出すたびにその神経がうずいて、痛さや悲さがこみ上げて胸が熱くなったり、ときには悔やんだり懐かしんでもみたりして、どちらからともなく含み笑いを押しこらえたりするオレたちなのである。

月日が、お互いに「つくろっていたもの」を洗い流して、ミミもオレもいつのまにかそれぞれの「地」があらわになっていったのはいうまでもない。ミミは辛抱強い女ではあるが、フィリピーナ特有の「逆切れ」症の性質をやはりうちに秘めていることがしばらくしてわかった。年を経るにつれて、オレのほうも細かなことが気になりだして口うるさい男になってきた。時には相手の態度に腹を立て、感情をおさえきれなくなり、卑怯なやり口だとは思っているが、「もうこんな所にまで足を伸ばせないかもしれないナ」などと、向こうが嫌がることをそれとなく臭わせてみたりした。それがオレの心にもないことだとは自分にもよくわかっていた。日に日に自分が嫌味な「ローロ(老人)」になっていくのがわかり、気分が滅入ることもしばしばである。

ところが、オレたちは不思議な才能を共有しあっていることがわかった。仲直り上手なのである。どんな喧嘩のあとでも、ミミの、頑固な一方で天然で単純すぎる性格は、すねた背中に白旗をちらつかせているのがすぐわかったし、オレはオレでどんなに怒った表情を噴出させても、ギヤが長続きせずすぐにストンと落ちる「笑い上戸」に生まれている....。おまけにオレたちの仲直りが比較的早いのは、ご飯をおいしく食べたいという「食い意地」と無縁ではないかも知れないのだ。喧嘩ごときで食べそこねたら損だと思っているのではないかと思うことさえある。どんなに修復困難かと思われる大喧嘩のあとでも、「お三度」の時刻になると、ミミは急にとび職のごとく軽快になって食事の支度を始めるのだ。その後姿を見ていると、つい可笑しくなり、オレの固まった気分も氷解してしまう。

どんなに貧しくても、底抜けに明るく大らかでいられる...。その秘訣を、この4年間オレはミミから盗み取るようにして数え切れないほど学んできた。そのサバイバルのノウハウがあったからこそ、オレは日本にいても、心を軽くして貧困に耐えて生きていくことができている。あと数ヶ月で年金暮らしが始まれば、今よりは少し贅沢に暮らせるかもしれない。しかし、これ以上何か欲しいものもなく食べたいということもない。人は何かがなければ生きられないものではない。もののために生かされ、引き回されることほど不本意なことはないと思っている。

ただ、日本という国自体が壊れていくようすを見るにつけ、これからの若い人々に気の毒でしかたがない。戦後65年、平和ボケしてしまった大人たちがこの国の将来を見通す上で、あまりにも怠惰すぎた。いまの若い人々の就職難も結婚機会の喪失も、大人たちの犯した罪だというほかはない。若い人々が、この国を支え立て直すつけを負わされていることを思うと申し訳なさで涙が出てくる。

ミミから学んだことを、国家のレベルにまで敷衍すれば、この十数年で生活難に堪えてきた日本国民は、これから先相当な貧しさにも耐えていけるのではないかと思っている。戦前の日本人がそうであったように、国家の尊厳や誇りのためには、ある程度の貧しさに耐えていける強さと大らかさが備わってきたように思う。隣接するどこかの国のように、拝金主義、成金主義にとりつかれ、天下を取ったように傍若無人に横暴を極めている国が滑稽に見えてしかたがない。適度な貧しさの意識がなければ、オレたちは「幸福」を感知する能力を失う。そのことを、4年間のミミとの付き合いの中でオレは学んだ。そのことをスルメのように何度も噛みしめながら、「出会い記念日」の日オレはふだん呑みつけないビールをひと缶あけた。

2010年11月20日

ドリアン・ケーキ

dorian_cakeホルモン治療を始めてすでに1年半になろうとしている。治療は、毎朝食後の錠剤の服用と、3ヶ月に一度の皮下注射で構成されている。始めた当初は、急速に進む体質の変化と他の臓器に及ぼしていると疑われる副作用にずいぶん苦しめられたものだ。ところが、人間の体とは実に不思議なものだ。そのうち体のほうが徐々に不快な副作用に順応していったのか、その不調な状態が生活の中心に居座って気にならなくなっていった。血液検査をしてみれば、明らかに、数項目で「異常値」が出ている。素人の目には心配になるのだが、体自信は副作用に慣れて、落ち着いてきた感覚があり、めまいや立ちくらみなども少なくなった。

そんな状態で、10月初旬からダバオに再び足を伸ばしてきている。その後10月の末あたりから日本が急に冷え込んだというニュースを知って、そのまま当地で久しぶりにビザを延長し、いつものアテネオ大学のそばの安ホテルにずっと滞在している。体調が思わしくないときには、一挙手一投足に、自由にならない身をもてあます感触がいつもあった。部屋のベッドの上に身を投じ、じっとしてただ文庫本を読み漁っていられるだけでもありがたく思ったものだった。体調が少しずつ回復してみると、ただじっとしていることにどうしようもない物足りなさと焦りを感じ始める。マニラにいる友人に電話をし、「暇でしかたがない」と自分らしくもない愚痴を聞いてもらったこともあった...。

ダバオにじっとしていることに「退屈さ」を感じ始めたのは、体調の快復ということのほかにも理由がある。ミミが大学に通い始めてから、彼女の意識や目線を奪うこれまでとは違う世界がたち現れてきたことはいうまでもない。そうなるであろう事情は、折り込み済み。あらかじめ承知していたはずのオレだった。彼女のこころに「自立心」が芽生えるだせばそれ自体喜びとなるはずだったが、いざその現実に直面してみると、えもいえぬ複雑な心境についたじろいでしまった。

ミミは問題なく、大学の2学期に進んだ。ひとつも単位を落とさなかったのは褒めてやっていい。日本の大学とは違って、フィリピンの大学はアメリカの教育制度を導入しているせいか、日々の学生の負担がかなり大きい。授業の程度や質はさほどでもないように見えるが、学生はとにかく毎日の宿題や課題に追われっぱなしで、自宅でも作業に忙しくている。宿題には、自分で調べることが不可避なものが多い。オレがそばにいれば部屋からUSBモデムを使ってネットにアクセスできるが、ふだんはインターネットカフェに足しげく通い「ウィキペディア」などで調べ物をしてはプリントアウトなどをしている。

宿題の提出には、細かいフォーマットまで指定してくる教師がいたりする。カラー印刷や別途クリアファイルを購入しなければならなかったりもする。とにかく大学生は忙しく、それらはまた授業料以外に日々細々としたお金がかかるのが常である。

ダバオのポブラシオンにあるオレの定宿のホテルは、ミミのために借りてやっている古いボーディングハウスの近くにある。歩いて行き来ができる距離にある。オレがダバオにいるあいだ、彼女は生活道具一式を持ち込んできて、部屋から大学に通う。ホテルの部屋にはキッチンスペースがあり、ごていねいに冷蔵庫も据えつけてある。質素な食事ということに変わりはないが、三日に一度ほどの頻度でミミとオレは一緒に買い物に出かけ、好きな食材を物色し買い込んできては調理し、どんなことがあっても互いに向き合って食べることが、ダバオのオレたちの「同居生活」においては原理原則になっている。

2学期が始まってから、ミミは朝まだ暗い4時半に起きるようになった。朝食をオレと一緒に囲み、オレの薬の世話をし、自分の昼食用にご飯だけを弁当に詰め、それからシャワーを浴び、濡れたままの髪に簡単にブラシをあて、大学のIDを首にかけて6時ごろには部屋を出ていく。1時限目が7時から始まる。午前中3科目の授業を受け、30分の昼食を級友と済ませ、午後には英文タイプの実習を一科目こなし、判で押したように午後2時前後には部屋に帰ってくる。

ミミは万年「ロード欠乏症」に罹っている。オレがそばにいるときには電話をかける必要がないと思い込んでいるのか、他人にかけるための携帯電話のロードを買おうという意欲がまったくない。電話にしろテックスにしろ、すべて相手のほうからかかってくる。クラスにはそれなりに友人もできたようだ。大半は女だが、英語の教職課程には男の学生も数人いるようだ。男といってもほぼ全員が「バクラ(おかま)」らしい。夕飯が終わったあと、必ずと言っていいほど誰かからテックスが入ってくる。ミミの宿題の忙しさをはたで見ているオレは、わざとらしく眉間に皺を寄せたりして不快な顔を作ってみせる。夜な夜な暇をもてあまして電話をかけまわっているような学生に、ろくなやつはおらんはずだから、適当に相手をしたらあとは無視しておけ、宿題の時間がもったいないだろうと小言をいうのだが、彼女の性格もあって、かかかってくるものはどうしても断れないようで、こちらがいらいらするほど律儀に応対している。

友人との長話は、学生にはつき物であろう。かりにそれが他人についての下種なチスミス(噂話)のたぐいであっても、大学生活を彩る思い出の断片になるであろうから、「もういい加減にしろ」と目でいちおう合図を放ったりはするが、よほどのことがない限りオレも大目に見ている。誰からかかっているのかは気にはなるが、電話自体はあまり気にかけないようにしている。ただ厄介なことがあるのだ。じつをいえば喘息の持病もちで気管支が弱いオレは、よく咳をするのだ。咳のたびに、トイレの奥のシャワールームに駆け込んで電話の相手に聞こえないように気遣っているので、長話になると厄介なのである。

特にミミの家族からかかる電話は、いやになるほどしつこくて長い。特に「大学生」になったミミは、家族にとっては高嶺に昇ったシンデレラ・ガールに見えるようで、好奇心の対象。訊きたいことがいっぱいあるらしい。一定金額を預けて登録すると掛け放題になる「アンリミット・コール」というものに登録し、それこそ気を入れて掛けてくるのでおいそれとは止みそうもない。しかも大家族でいろんな人間が次々に電話機を奪い合うようで、1時間や2時間では終わらないことがたびたびである。

オレとミミは、彼女の家族が繰り返した過去の借金(ウタン)騒動のことがあってから、ミミの余剰金に対する依存心を遮断するために、サンフランスでの同居生活を撤退してからは互いに別れたことにし口裏を合わせてきた。別れたとはいうものの、たまに電話しあういい友人関係になったということにしているのだ。ウタンはオレに直接頼んでくるのではない。彼女の銀行口座にある「余剰金」をターゲットにしてくるのである。

ミミの口から「別れた」とは言うけれど、ひとりで大学に進学できるはずもあるまいと家族は疑心暗鬼に思っている。電話のたびに、オレはどうしているのかまだ付き合っているのかと探りを入れてくるらしい。そのときに、ミミの電話の背後に「別れた」はずのオレのしわぶきの音が聞こえてしまったら、元も子もないのである。それにしても、ミミの大学進学は家族にとって「驚天動地」だったようで、背後でオレが支援しているに違いないと思いこんでいたようである。

二三日前にはこんなことがあった。ミミが家族とやはり長話をしている最中に、思わぬハプニングが起こった。オレの携帯電話に国際電話が入ってきたのだ。オレも状況を忘れてとっさに反応し、その電話に大きな声を張り上げ、日本語で応対してしまったのである。家族と話をしているミミの顔が、突然真っ赤に紅潮してトイレのほうを指差したのがわかった。ダバオでミミがひとり暮らしをしているということ自体、家族にとっては謎めいた行動に映っているはずだった。異性関係で間違いでも犯してはならないと、家族の電話の主目的はミミの生活ぶりを探ることに主眼が置かれている。もちろん周囲の物音、特に人の声に聞き耳を立てながら話しているはずだ。どうも、男がそばにいることに感づいたらしい。オレもパニック状態になって、線香花火のように部屋を駆け回ったあげく、やむに止まれず部屋の外に出て話を続けた。ミミは家族から「男の声で中国語みたいな声が聞こえたけど...」と言われたそうだ。ミミの金さえ横取りしなければ、ほんとうに質朴ないい家族なんだが....と、運命のめぐりあわせを恨んでみたりした。

旧友との長話にも、考えさせられることがある。たいてい夜に暇をもてあまし、宿題に集中できない、勉強への熱心さに欠ける級友からかかる長電話が多いのは推して知るべしだが、それらの電話が、ミミの意表を衝いたものであるかのように「えっ!」と絶叫させ、やがて絶句させ、あるときには彼女を目を潤ませることさえある...。大学生活を充実させるには、「友人をよく選べ」と、オレは日ごろから口やかましく言いきかせてきたのだが、オレがいうまでもなく、ミミは初めからそのように心がけてきたようだった。特に放課後、マティナのキャンパスに近いショッピングモールにしきりに誘いたがる生徒には要注意、夜な夜な長電話をしてくる級友もまた好ましくないと思っている気配だった。中には連絡が途絶えたので、いきなりボーディングハウスを尋ねて行く友人もいたりする。行った先の人間から「ボーイフレンドがきていて、一緒にいるはずなんだけど...知らなかったの?」などと、余計な情報を耳にしてショックを受けて帰るものもいたらしい。

長電話の話題は「ひとの話(チスミス)」ばかりでなく、掛けてきた本人の「身の上話」であることも多いようだ。自分の境涯について語りだすときの長話は、ほぼ十中八九が「もう大学を続けられなくなった」という悲観話である。一昨日も、しつこいほどミミを慕ってくれたある級友が、遅れていた2学期のエンロールメント(入学手続き)を結局しなかった。来年もう一度チャレンジするという話をしてきたとのことだった。奇しくも同じ夜、もうひとりの友人からも電話があった。朝の大雨で授業を休んでしまったので、宿題の内容を確認するための電話だった。その生徒もおそらく近々脱落者になる予感がするとミミにオレは言った。学費は半期分払ったという。しかし、UM(ミンダナオ大学)のように入学試験がない大学でさえ、授業を続けていくのには相当な忍耐と根性を必要とする。3回続けて欠席すると、その学科は事務上自動的に「NG(No Grade)」、つまり未修了の処理になるらしいが、一度休んでしまうと、もう追いついていくのが大変だというのは傍で見ていてよくわかる。マラソンの落伍者に似ている。休む生徒は、緊張が途切れ、次の授業に出て来れなくなるのである。そして脱落する生徒は、学費を工面する上でも困難に直面していることが多い。

貧乏人のオレが、こんなことをいうのは面映ゆい。今回の渡比は、1学期のミミの学業成績を確認して、問題がなければ2学期の学費を払う目的でダバオに来ている。だから、問題がないと判明したあと、オレはエンロールメントの日に頭金(Downpayment)を、その翌日には残りの学費を一括してミミに渡し前納させた。初めから腹を据えて工面した金だから、授業料が一割引になる一括前納で支払いをすませた。ところが、そういう学費前納の生徒は、必ずしも多くないということがあとでわかった。UMの特徴というよりは、フィリピン人の消費感覚が関係してるのではないかとオレは思っている。シャンプーでも調味料でも、なんでもかんでも「小分け」「分包」を歓迎するフィリピンの消費社会では、かりに総額が割高になっても、少しづつ払い、決してまとまった金を先に他人に預けることは避けるのではないかと思っている。フィリピン人が借金を恐れず、それを「権利」か「機会(オポチュニティ)」と考え、用途が不明でもとりあえず借りられる金は手元においておきたがるのと似た真理ではないかと考える。日本人とは、この点がずいぶん違う。

当然のことだが、分納すればするほど、学業継続の意志もまた分断され、脱落する確率が高くなる。1学期中に数人教室を去った。2学期が始まったばかりだというこの時期にも、すでに何人かミミの友人が大学を去った。もちろん、本人の意思ではなく、家族と話し合った上でそのような決断をしたのだろう。そうした情報を聞かされるたびに、ミミは言葉を失ってしまう。自分がいかに恵まれた境遇で勉強できているかという感謝の気持ちを噛み締めるようである。やめると決まっても、お互い心残りはあるのだろう。辞めた生徒と、辞める気配のある生徒からの長電話は、いまも続いている。

大学も、教師も、生徒の足元を見ているのではないか、そんな空気を感じながら、オレとミミは詐欺でえも働いているかのような奇妙な気分を共有している。スリガオの極貧の家庭に育ったミミの身柄を引き受けて、これまた日本を代表する貧乏人のオレが、見栄でもなんでもない、学費を払うために渡比したのだ。全納はと当然の結果だった。どうせ払うなら、割引があったほうが良いという考えからである。その結果ミミは、一学期に自分も驚くほど注目される学生だったようだ。一括前納した二人の生徒のうちの一人だったからだ。二学期にも、学費の全納が効いたのか、授業が始まった最初の日ある学科のグループ分けで教師の指名を受け、リーダーになったらしい。たまたま教師の顔見知りだっただけかもしれないが、「選良(エリート)」を瞬間に肌で感じるそのような経験は、ミミにとって生まれて初めてだったのではないだろうか。そのことが、ミミのプライドと自信を刺激し、向学心をさらに煽り立てたように思う。気がつくと、暇さえあれば部屋のどこかで勉強している彼女の姿が目につくようになった。かつては危うげだったその風景だが、いまはそこにどっしりとした重みが加わって本物の凄みが迫ってくる。

いつも近くにはいるのだが、彼女の眼差しは別な世界をしり興味を注ぎ始めた....。日本人の感性ならば、このまま「巣立って」社会人としてどこかの土壌に芽を出して、ひとつの自立した存在として屹立することを想像し願いそれが当たり前の姿だと思うだろう。それはうれしくもありまたどこか寂しくもあることだ...。ある日冗談半分でミミに持ちかけてみた。

「大学を卒業するまで、金はちゃんと送るから、これからは、ボーディングハウスでひとりで暮らしたらどうだ。そのほうが、勉強も思う存分できると思うんだが...どうだろうか」

オレの思いとは裏腹な意識を、むりやり引き剥がすようにしてミミにそう問いかけてみたら、彼女は即座に「アヨコ(いやだ)」と言った。オレの中に、少々いじけた気持ちがあったのかもしれない。ここまでしてあげているのに、家族や友人から電話があるたびに、年とともに頻繁に湧き上がる老害ともいえる「しわぶき」をこらえ、そばにはいないそぶりで日陰者を演じている自分の姿が惨めで情けなく思えた。オレはこんな風ではない、もっと好奇心や冒険心が旺盛で、活動的な人間だったはずだ。そのオレが、まるで座敷牢に閉じ込められたも同然にして異国のホテルに蟄居している。あと10年の人生だ。これを何とか生かさなければならないという焦りがあったように思う。

しかし、ミミは言う。勉強に夢中になっているからといって、オレを片時も忘れたことはないのだと。授業の最中にも、今頃オレが部屋で何をしているだろうかと、そのことばかり考え続けているというのだ。感謝の気持ちとともに、オレを放っておく後ろめたさが心の大部分を支配しているのだろう。ミミはそういうたちの女なのだ。その話を聞いて、オレは悪い気がしなかった。見知らぬ世界で、新しい人間関係ができても、ミミはオレを捨ててどこかに行こうという考えを起こすような女ではない。面従腹背。表面を取り繕ってうまく合わせ、見えないところで悪事を働くような女でもない。悪意といえば、オレのほうが悪意に満ちているかもしれない。わざと喧嘩をふっかけたり、意図的に悪態をついたり、心をもてあそぶように遠ざけようとした罪作りなことがあったかもしれない。

しかし、どんなに遠ざけようと小ざかしく計算高く振舞っても、腹がすくころになるとまるで見透かしたようにきっちりとオレの居場所に帰ってくる。愛だとか恋だとか、そんな浮いた話ではないのだ。この国で3度3度の米の飯を食わせてきた実績が、ミミの人生にとってどれほどの重みを持っているのかということを、彼女の定規を当てたような帰巣行動が示しているような気がしてならない。「食わせる」という言葉は、日本人の耳には抽象的な響きに聞こえるかもしれない。だが、フィリピン人にとって「食わせる」とは、文字通り「腹を満たしてやる」という、存在の根源において交わしたあった信義の絆だといえるのではあるまいか。

もちろん、大学に行かせてもらっていることも感謝の極みだろうが、こうして3度3度、好きな食材を物色し、おかわり自在に米の飯が思う存分食べられる瞬間が、彼女にとって幸せに生きていることの証しなのではないかと思うことがある。ボーディングハウスでひとり暮らしを続ければ、食べたいものが口にできなくなる、シャンプーやスキンケア用品も、与えられた小遣いの中でやりくりを迫られる。ジープニー代と昼食のおかず一品代に毎日50ペソをもらってぺこりと頭を下げて学校に出かけるミミが、オレのそばにいるだけで、どれだけ平和で安心かというような顔をして暮らしている。

大学に入れば、オレたちの関係は異質なものに変化すると思いこんできた。しかし、この機会にあらぬことを考えたのはオレのほうで、ミミの心のありようも眼差しも変化していないことがわかった。オレたちは、かつてもいまも、この先もそうであろうが、質素な暮らしを楽しんでいる。1学期のミミの成績は、及第点のゾーンの真ん中ほどだった。心配していた最低ラインではなかったことが、それだけで二人の顔をほころばせた。その褒美の意味もこめて、過日買い物をした。ガイサノ・ショッピングモールの「HerBench」ブランドのシャツを3枚、ボルトンの安売り店でジーパンを2本買ってやった。祝いの日には、ガイサノの地階に入っている「ゴールディラックス(Goldilocks)」で、直径15センチほどの「ドリアン・ケーキ」を買ってきて一緒に食べた。オレが推奨する「ダバオの逸品」のひとつである。その日の夕食には、ミミの大好物の魚「キトン」の大振りなやつを買って帰り、ムニエル風に焼き物に調理した。焼き魚の日、ミミは決まって魚の身をほぐすのに便利なため、手で食事をする。骨を解体しチューチューと汁をすすり、指先でこねるようにしてご飯の塊りを勢いよく口に運ぶ。だから食べ盛りの少年のようにあっという間にご飯が進んで、さっとおかわりに立つ。「オッパー、ライス、グスト・モ?」ひとの食欲を忖度するのは、自分こそが食べたいときで、おかわり自由だとは言え後ろめたさが消えないのであろう。

画像:ドリアン・ケーキ

2010年09月07日

帰国のこころ

hilltop帰国が迫っている。近頃のミミは、ホテルの部屋でオレが帰り支度を始めるとむしょうに寂しがる。大人になって適度にスレて、つかの間の別離にも鈍感になってくれるだろうと期待していたのだが、現実はまったく逆でますます子供のように悲しげな顔をするようになった。彼女にとっては、大勢の同世代の大学生たちが、親元を離れてひとつ屋根の下に生活する賑やかなボーディングハウスに引き揚げるだけの話だが、オレにとっては「天涯孤独」を意識せざるを得ない「みなし児」同然の境涯にひとまず戻ることになる。

50歳を過ぎたあたりからそのことを覚悟して生きてきたので、いまさら泣き言を言うつもりなど毛頭ないが、親の葬式も挙げずに遺体を箪笥に放置して、年金を食い物にする近頃の餓鬼息子、鬼畜娘の事件を知るにつけ、親族の間で老醜をさらして飼い殺し同然に生き永らえるよりは、天涯孤独であることのほうがよほど人間様らしく天寿を全うできるのではないかと思ったりする。

年を取れば取るほど新しい友人というものができにくくなる。人間関係でのエネルギーや、そこでのカロリーの使い方が初めからわかってしまい、「無駄なことはすまい」「得にならないことはすまい」などという経済合理性が先に立ち、早々と自分の行動を律してしまうもののようである。無駄な動作こそ、それ自体冒険であり、若気の至りの証しであろうが、カロリーをケチって無駄な行為を恐れている限り、少年のような老人には決してなれないだろうと思う。

「友情」とはふつう「フレンドシップ」と訳されるようだ。フレンドシップという概念は、明治維新以後に外から輸入されたものだと何かの本で読んだ記憶がある。もともと日本にはなかったものらしい。どうりでオレたちには分かったようで分かりにくい。不可解な友情の存在を信じきって、存在の不確かな友人を捜し求めて迷子になってきたのかもしれない。「友情」「友人」に代わるものとして日本には、むかしから「義兄弟」という概念が生活に根を張るようにして存在していたという。

義兄弟といえばヤクザの世界の専売特許と言えそうだが、そうした矮小化された意味で捕らえては大切な意味を見失ってしまう。実は中国でも朝鮮半島でも、この血盟によって固く結びつけられた人間関係が、社会を動かし歴史を動かしてきたといえなくもない。三国志は劉備が関羽と張飛と義兄弟の契りを結ぶところから始まっている。水滸伝の梁山泊は、宋江を首領とした義兄弟の契りで結集した憂国の士たちの集団である。義兄弟とは、いうならば食うに食われぬ状況の中で、「食うために力を合わせることを誓った、親兄弟の血縁にも勝る運命共同体」という意味であろう。北島三郎も唄っている。「親の血ィを〜引くきょうだァい〜ィよりィ〜も〜、かたァ〜ィ契りィ〜の〜、義兄弟」と。肝腎なことは、侠の精神に裏打ちされた利益結合で、決してイデオロギーによる結合ではないということである。

この「義兄弟」でとっさに連想するのは、演歌の北島三郎でもなくヤクザ映画の『仁義なき戦い』の菅原文太でもない。オレにすればもっとカッコいい男に映る「張作霖」を思い浮かべる。彼は軍閥で、もとはといえば馬賊の頭目である。つまり、馬に乗って武装し満州東北部を走り回っていたヤクザの親分のような人だった。そうオレは想像している。ほぼ間違いはないイメージだろうと思う。組のものを食わせるために、匪賊を追い回し、国のスパイをし、敵味方を何度も入れ替え、容赦なく相手を撃ち殺した。国家やイデオロギーのためとか小難しい議論を抜きにして、義兄弟たちのために縄張りを守り、食わせるために仁義なき戦いをした人だったのである。経済的合理性のために、清国ともロシアとも日本とも時に闘い、時に手を組み、大きな取り引きをやった豪胆な人間だった。彼が最も嫌ったものは敵を前にしての「怯惰(きょうだ)」ということだったようである。

一昨日あたりから、アフガニスタンで拉致され無事解放された常岡浩介さんという方のニュースがしきりに流れている。無事であったことは何よりだと心から思っている。しかし、報道で違和感を感じたことがある。犯人像について語る場面のことである。次のようなことを言っている。

「タリバンではなく、腐敗した軍閥」であり、「...日本大使館に脅迫電話をかけ、タリバンになりすまして日本政府をゆすっているとわかった」というようなことをおっしゃっていた。もし犯人が「軍閥」だということが真実であれば、あとの証言文は、当たり前のことにすぎないのであり、なにか当たり前のことを特別のことのように言っているのがひっかかったのである。茶化しているのではない。ショバを仕切り、そこでの治安を確保する代わりに、時の権力者と渡り合って軍資金や砲弾その他の武器の補償を迫ることは、軍閥の基本的な行動であり態度だということである。

今日も脱線してしまったが、ミミは大学から帰るなり疲れて倒れるようにしてまだ午睡の最中である。なにか英語のグループ作業で発表までしてきたらしく、もともと「上がり性」なのでストレスを溜めてしまったのに違いない。しきりに大学で親しい友人を作れとオレは勧めているのだが、「I'm now choosing it.」と言いながら、性格のいい善人を慎重に見極めようとしている気配である。ミミのストレスの原因には、オレの帰国ということもあるようで、ダバオを離れる一週間ほど前あたりから、いつもかように捉えどころのない、概して言えば情けない心棒の折れたようなへたり女になってしまう。

2010年09月06日

ふたりが傷つくとき

NCCC_ateneo現状ばかりでなく潜在的な見通しまでも勘定に入れれば、日本一の赤貧男ではないかと思われるオレと、紛れもなくスリガオのプロビンスの予選を勝ち抜き、本戦でミンダナオじゅうがこぞってエールを送りそうな気配の貧乏学生総代のミミが、何の因果かつき合い始めてもうだいぶたった。貧乏人ならではの、その日暮らしにまつわるせちがらいいじましい些細なことで騒動を繰り返しながら今日まできた。夜にひと波乱あっても、朝になれば、結局目の前の人間しか互いに頼る相手がいない「みなし児」同然の寒々とした境涯にいることに気がつく。そうして前夜は何ごともなかったかのように、一緒に朝食を囲んでは「今夜のおかずは何がいい?」「アップ・トゥー・ユー」などと言っては、どちらからともなく機嫌をとり合っている。ミミはいつもの朝のように、午前7時にけたたましく鳴り響くサイレンの音を背中に浴びながら、ジープニー代の12ペソをオレから受け取って、今朝もさっそうと大学に出かけていった。

オレたちの4度目の雨季が、ダバオの空をにび色に染め始めている。ミミを見送ったあと、ベランダに出てそのダバオらしくもない陰気な空を見上げているうちに、針で突かれたように心の傷がうずき始めた。夕べは食事のあと、小机をはさんで向き合い冷えたパパイヤを食べながら、しばしなごやかな時間をすごしていたのだった。その平和な空気をぶち壊しにしたのが、ミミの口から出た不意の言葉だった。

「今日NCCCでパジャマ見かけたよ。前のものがもう傷んでしまって、買わなければと思ってる」

と言い出してからというもの、オレたちの部屋の天井ににわかに雷雲が湧き出して、ついにオレの堪忍袋の緒が切れて落雷してしまったのだ。

「またバイ・フォーミーか?今朝マットレス買ってボーディングハウスに運んだばかりじゃないか」「ついでに、横にあった文房具コーナーで、宿題作業に必要だからといわれてペンテルペンも買っただろ?」「こんどはまたパジャマだっていうのか?」「あのパジャマはな、頼まれもしなかったけど『こんなのがあれば便利だろうな』と思って日本からお土産に買ってきてやったものだぞ」「少しは大切なパサルボンだという気持ちを持ちなよな」「一年もたたずに傷みましたっていうのはいつものように、ものを粗末に扱っているからだろ」「傘だってサンダルだって、いったいいくつ潰してしまったんだ?」「傷んだから買いますって言える立場か?」「ほころびたらまず修理して使うってのが先だろ」

などと、オレもふだんから溜めてきた鬱憤を言いたい放題ぶちまけてしまったのだ。

しばらく聞き役におさまっていて、そのあとミミも当然反撃に出たが、そのときはもう理屈も論理もあったものではなく、ただプッツンときた逆上女に成り下がってしまっていた。隣室の人々に聞こえよがしに怒声でまくし立ててくる。道理など合っていようがいまいが、そんなことはどうでもいいのだ。いつものやり口で、(相手に非があるので私はいまこんなに怒っているのです)という立場が、誰彼となく周囲の人間に伝われば溜飲を下げる。もう問題解決の手段や方便としての喧嘩ではとっくになくなっている。収める方法はただひとつ、オレが押し黙る以外にない。沈黙は長いほど効果がある。それでもミミは燻ぶった火事のあとのように、ぶつぶつ言いながら、闘うスリガオ女の野生をむき出しにしそしてシャワーを浴びに行く。

その後の空気は漫画のように急転する。温水シャワーを浴びているうちに、十中八九ミミの頭は冷えて(言い過ぎた)と反省するのだろう。出てくるときには決まって「プスッ、プスッ」とフィリピン人特有の舌先で空気を漏らす音で、ドア越しにオレの機嫌を取るように笑顔まじりで呼びかけてくる...。それでも、笑い上戸のオレの横隔膜のギヤがなかなか入らないときがある。意固地に黙ったまま、深夜ブラインドの隙間から洩れこむ薄明かりの中に浮かんだミミの寝顔を見ているうちに、鬼の心も氷解して急にかわいそうになる。

オレの貧乏は自業自得だけれど、ミミのそれはただ不運な星のもとに生まれたというだけの不遇に違いなかった。そもそもオレは付き合いだしてから、彼女の貧乏一直線な生き様に、ほのかな美意識のようなものさえ感じ取って、彼女への興味を深めていったはずではなかったか。シャンプーの小袋でも、しぼり終えた袋の片側を破ってシャワーのお湯をみたし、自分の髪の毛先を浸しては隅に残ったシャンプーの残滓をかき出して使うほどの女だった。そこまでされれば、シャンプーだって生まれてきた甲斐があったといえるであろう。

おまけにミミの貧乏にはなぜか「明るさ」がよりそっていた。何もかも失い、もうこれ以上失うものがないとわかったとき、人間の腹の中には陽気な気分が満ち満ちて、おもわず笑いがこみ上げてくるものらしい。司馬遼太郎氏が言った。太平洋戦争で負けた日本人がそうだったらしい。日本が焦土と化し、何もかも失くしてしまったあの頃ほど日本人に笑顔が絶えなかった時代はなかったと氏は何かの本で語っていた。司馬遼太郎の言葉を、ミミが実生活で証明している。おれはそう確信したほどだった。そのときから、ミミはオレの人生の教師になった...。

昨夜はオレも言い過ぎたと思った。ずいぶん彼女は傷ついたのではないだろうか。大学に行かせてもらっているという負い目と、もし心変わりでもしてオレがダバオに来なくなったり行方をくらましたりしたらどうしようという不安との二重の苦労を背負って暮らしているにちがいないのだ。無神経な言動で、ミミを追い込んではいけないなとつくづく思った。あれは絶滅種に近い、フィリピンの良心なのだから....。

もうじきオレは帰国する。家族と意識的に距離を保っているミミはつかの間一人ぼっちだ。オレも天涯孤独も同然。またお互い「みなし児」の自分を励まして、次の再会の日まで、ひとりで清く正しい貧しさで頑張らなければならない。今朝ミミを大学に送って、キッチンの洗い物を済ませたあと、急に思い立ってオレはアテネオ大学の地上階にあるNCCCスーパーマーケットに行った。オレが帰国したあと、彼女が使うはずの日用品を買い溜めてきて、部屋の収納スペースのオレのバッグにしまっておいたのである。日常どうしても入り用な彼女の必需品がわかっている。オレの留守中、その品々のために金を使わないように、あらかじめ準備しておいてやりたい。貧乏どおしのいたわりである。米1キロパック4袋、ボディ石鹸6個、洗濯用洗剤アリエール7パック、洗濯用固形洗剤4個、ポンズの洗顔クリーム10袋など、全部で500ペソほどの買い物になった。帰国の直前に、留守中の生活費と一緒に彼女に渡そうと思っている。シャンプー(サンシルク)とコンディショナー(クリームシルク)など最も使用頻度が高いものは買い残してある。アテネオ店にはストック切れだったのだ。彼女の髪は長い。だから、けっこう消費する。あとは保存食用に、安い缶詰でも買ってやれば万全だろうと思っている。

2010年09月04日

ともゆきとダグラス3

ummatina2フィリピンのダバオにいながら、60年以上も前のマッカーサーについて、ああでもないこうでもないと知ったかぶりをしている自分が奇妙に見えるが、言いたいことは見え透いている。いまの日本の閉塞した狂騒のありさまは、まさに天命が与えたひとつの時代の終りを暗示している。それがオレには、「マッカーサー・ジャパン」の終焉ということではないかと思えるのだ。

いったんそう考え始めると、敗戦による焦土と化した日本に、サングラスをかけて無頼に乗り込んできたマッカーサーは、どんな心境でいたのか気になる。太平洋戦争直後、自分を惨めに敗走させた敵国日本へ、憎悪を心に満たして、憤りと破壊の精神に駆られてやってきたはずではなかったのか。少なくとも厚木の飛行場に降り立つ飛行機の中で、日本国の将来を遠く思いやり、国民の誇りを尊重し、未来永劫に発展させようという展望などないに等しかったのではないかとオレは思っている。

その証拠と言えるかどうかわからないが、マッカーサーがケソン大統領にあれほど手厚く招かれて、1935年から6年間も軍事顧問をして育てていたというフィリピン軍は、日本軍の侵攻に対してアメリカ軍の盾にはなってくれただろうがはなはだ無力で、さしたる武勲を立てたという話もあまり聞かない。どちらかといえば、軍隊の体裁をつくろった頼りない戦闘員で、おおかたは捕虜になってバターンの死の行進の犠牲になったようだ。捕虜の多くは初めから飢餓に苦しみマラリアに罹っていたことがわかっている。かろうじて逃亡した兵士もかなりいたようだが、彼らはルソンの密林にひそんでその後ゲリラ活動をした。

そういうことを言い出せば、かつても今も欧米列強が植民地になしたことは、みな「搾取」以上のことではなかったというのはほんとうだろう。日本も植民地化の経験があるが、台湾と韓国に移殖したインフラの整備や殖産開発、教育の振興など、宗主国並みの生活水準を植民地国民にも享受してもらおうという思いやりのある眼差しは、欧米列強には伝統として皆無だった。歴史に「もしも」は許されないというが、マッカーサーのいうなりに国の再建を進めていたら、そしてもし偶発的に朝鮮戦争が起こらなかったとしたら、今の日本はフィリピン以上に豊かな国であったかどうかも疑わしい。

いずれにせよ、太平洋戦争のどさくさに共和党の大統領候補の噂までもちあがり、実際にはなり損ねたマッカーサーが、焼け跡ににわかに築いた日本という国は、もはや時代の変化についていけなくなるほど思考停止状態になり、迷走している。生まれ変わる時期が来たということではないのか。外国人が権力をかざして作った敗戦国としての憲法では、若い人々が誇りを持って国を愛し繁栄させることはできないだろう。憲法は当然、日本人の手で作り変えるべきだとオレは思う。

不思議なことがある。ひとつの社会を貫いてきた動力となる価値観が錆つき疲弊して、国民の誰もが希望を失って無気力に襲われている。たとえば「武士」という存在が社会で意味をなさなくなり、幕藩体制が立ち行かなって、家督を継がない次男坊や三男坊以下は藩の掟を破って脱藩する以外には食っていく方法がなくなるほど落ちぶれた幕末の頃の社会を考えてみる....。そんな乱世には、必ずといっていいほど尊王だ攘夷だ勤皇だ佐幕だと叫びながら、市中を不逞浪士どもが徘徊し世情が著しく不穏になるものだ。ところがここまで落ちても、今の日本にはその兆候すらない。真の世直しの前ぶれともいえる混沌やカオスのエネルギーを、どこにも感じないのである。それが奇妙に思える。

新撰組のような物騒な連中が、どうして出てこないのだろうか。ニュースで騒ぐのは、政党内の小さな政局の争いや、家庭内の近親に向けられた暴力事件ばかりで、そのすえ切った「怯惰」の世情がとても気がかりでならない。会津藩に召抱えられたいわば不逞浪士の殺人集団であった新撰組が、立派なことをしたとは決して思わない。しかし、いずれの藩でも食い詰め、社会の矛盾に押し出されて行き場のなくなった武士たちの憤りがそこにはあった気がする。それを統率した隊長の近藤勇にしても副長の土方歳三にしても、出自は多摩の日野の百姓だった。百姓が武士の指揮官となっていたほどに社会は混迷し溶解していた。彼らは道場で腕を磨いた剣の達人ばかりだったが、京都所司代の手先として人切りを始める前は、真剣で人を傷つけた経験がなかった浪人ばかりだった。しかし、壊れていく幕末の社会で、多くの脱藩浪士たちと同じように、世直しをしようと夢見た義士のこころに貫かれていたように思う。現代には、新撰組どころか、義を語る不逞浪士さえ現れてこないのが不思議でならない。

時間を100年あまり遡れば、清国も李氏朝鮮も国の滅亡が危ぶまれるほど混乱していた。清国は高齢の西太后の時代で政治は麻痺し、国は列強の食い物にされていた。李鴻章が、天津にいてなんとか経済や外交を支えていた。いっぽう朝鮮は高宗(こじょん)の時代だが実権は閔妃(みんび)が掌握し一族の勢道政治に明け暮れていた。どちらの国にも、日本の明治維新を模範として国難を打開しようとする政治結社や大陸浪人たちがひしめき合い、世直しを叫んでいた。

今日、改革がほんとうに必要な国は、北朝鮮でも中国でもなく日本だとオレは思う。国に誇りが持てれば、国民は経済大国に生まれ育つ必要をとくに感じていないはずである。すでに死に体となった民主主義の迷路にはまり込んだ「マッカーサー・ジャパン」を葬って、世直しをする真の義士が、国会議員二世たちの中からでなく、食い詰め疎外された人々の中から一日も早く現れて欲しいと願っている。旧来の腐敗し堕落した政党政治では、何度政界再編の組み換えゲームをやったところで、何かが変わるとは思えない。眠っている壮士は、目覚めて立ち上がるときだと思う。

与党民主党の代表選挙で、管直人が西郷隆盛を例に出し、真の明治維新は西南の役ののちに起こったと言い出したのは、確かにそのとおり言いえて妙だと思った。小沢一郎を西郷にたとえて、暗に小沢が倒れて初めて民主党による世直しが実現できるのだと言いたかったのである。しかし、そんなことよりも、オレが見る最近の小沢の面相、とくに目の周りの印象が、末期の金丸信にすごく似てきたことが気にかかる。目の周りがはれぼったく、うっ血しているのは体調不良を暗示しているのではないか。病気のプロのオレが言うのだから間違いはない。そして、怨恨や業が腹に溜まりきっているからだと思うが、表情にすがすがしさがまったくない。言葉は悪いが「悪党づら」になってしまっている。国家の宰相として大国と渡り合う顔ではないという気がする。

かといって管直人がいいということでもない。彼の見せる笑顔には初めから嘘がにじみ出ていて痛々しい。鏡を見て伸子さんに叱られながら練習をし、努力の果てに作っている嘘笑いだろうが、うら悲しさがある。市民運動の中から誕生した総理大臣のうらみで、大衆に過度に迎合的に耳を傾けすぎるきらいがあり、国家の大計を描く想像力に欠けた小物の印象がどこまでもつきまとっている。彼は、いわばマッカーサー・ジャパンの負の遺産、すなわち左翼運動の土壌に生まれた政治家である。この国を危うくしたのは、似非民主主義と左翼とオカルトだと思う。日本という国の内憂外患のほとんどが、底流でこの三つのファクターに絡まれ、国家の魂を吸い取られている。

ウヨクでもサヨクでもないオレが、ダバオでミミの歴史の宿題を手伝っているうちに、いつのまにかガラにもないことを考えてしまった。フィリピンの大学の歴史の教科書は、太平洋戦争における日本軍の蛮行をかなり詳しく具体的に描写している。付き合いで仕方なく読んでいるうちに、可笑しくなってくる。わざわざそこだけジャングルに虫眼鏡でもあてたように微細に悪事をあげつらっている。これが国家意識や愛国心を育てる歴史教育というものなのだろうと思った。しかし、あれもこれも「戦争」だったのである。

新撰組に斉藤一という隊長がいた。左利きで居合いの達人だった。彼の言葉だと記憶している。なぜあれほど人を切れるのかと問われたときに、「殺らなければ殺られるので、先に切るのだ」と言ったそうだ。戦争の殺人とはそういうことだろうと思う。その殺人に、憎しみの意図を塗りこめるのは後世の人々だ。憎しみもないのに人を殺さねばならない状況ほど残酷なことはない。

戦後65歳。長い平和にボケて、ダバオの山あいに雨ざらしでまだ眠っているはずの多くの軍人の遺骨があることをつい忘れがちになる。1944年10月20日マッカーサーは、巡洋艦「ナシュビル」に乗り込んで、南方ホランジアからレイテのタクロバンの南ドゥラグ近郊の海岸に帰還、フィリピン奪回が始まる。日本軍はことのとき、連合軍はミンダナオに上陸すると予想し兵力を集中していた。マッカーサーはそのミンダナオを素通りしてレイテを攻撃する。ミンダナオで戦死した日本の兵士の多くは、増援と物資の補給路を断たれ、多くは飢餓と病気によってなくなった方々である。

2010年09月03日

ともゆきとダグラス2

apo_mountain戦時中の財宝については、ヤマシタトレジャーとは逆の話も存在する。1941年(昭和16年)12月8日未明、日本軍の真珠湾奇襲攻撃で太平洋戦争が勃発した。時をへず日本軍のフィリピンへの侵攻も始まった。同日の午前11時45分、台湾を発った日本の陸海軍機およそ750余機が、パンパンガ州のクラーク飛行場を猛攻撃した。不意を衝かれたアメリカ軍は、爆撃機を離陸させ迎撃・応戦する暇もなく、地上でほぼ全滅に近いほど壊滅させられた。アメリカ空軍頼みのB-17爆撃機をこのとき17機失ったという。

同10日、日本軍の地上攻撃が始まる。ルソン島の北部アパリと西のビガン、12日にはレガスピから先鋒隊が上陸を試み、連合軍側の激しい抵抗に遭っている。日本軍の総力をかけた本格的な地上作戦は同22日の夜明け前に始まった。ルソン北西部のリンガエン湾に、複数の護衛艦に守られた総勢76隻の輸送船団が現れ、陸上部隊は揚陸艇から次々に怒涛のような猛々しさで波打ち際に飛び出し、やがて海岸を黒々と埋め尽くした。この巨大な船団は、台湾の高雄(原顕三郎海軍少将指揮軍)、馬公(西村祥治海軍少将指揮軍)、基隆(広瀬末人海軍少将指揮軍)から送られた輸送船団で、全部隊を指揮していたのは第14軍の本間雅晴中将だった。

これ以後、アメリカ・フィリピン軍は防戦一方になった。12月24日のクリスマスイブ、アメリカ軍司令部はついにマニラを放棄する。バターン半島に撤退、要塞を築くがさらに追い込まれ、孤島のコレヒドール島に立てこもって徹底抗戦を続けることになる。

このマニラ撤退の騒動のさなかだと思われる。アメリカは当初からフィリピンの独立を計画し予定していた(1946年)。その独立国家形成の準備資金やら、太平洋戦争の作戦資金やらを、のちに戦局が回復したら取り戻しに来ようと、密かにマラカニアン宮殿の地下倉庫に隠蔽したうえでバターンに敗走したという話である。隠したものは金塊だという。やがてそれはマニラを制圧した日本軍によって発見され、極秘裏に東京に移送される。長崎と広島に原爆が落とされ、日本軍の敗戦がいよいよ濃厚になったと知った1945年8月中旬、この都心に隠されていた金塊の一部が、日本軍の上層部しか知らない極秘作戦として、多摩丘陵のとある場所に移され隠匿されようとした。

その移送作戦のために徴用されたのが、実践女学校のあるひとクラスの生徒と若い担任教師だった....。仕事は弾薬庫に爆弾を隠す作業だと教えられ、生徒たちはそのように信じ込んで国のために働いた。数日後、貨車から丘陵の洞窟まで砲弾(金塊)を運ぶ秘密作戦がほぼ完了しようとしたとき、生徒たちは偶然にも作業の秘密を知ってしまう。知ったからには、生きていては国のためにならないと思ったのだろう。作戦が完全に終了した直後、生徒たちは行方をくらます。金塊が埋められた同じ洞窟の中で、彼らは自らの意思で青酸カリを分け合って自決する...。

正直なところ、この話が史実かどうか保証の限りではない。なぜなら、オレは浅田次郎氏の小説『日輪の遺産』を読みかじってそう言っているからである。小説だからすべてが事実だとは思えない反面、あながちフィクションばかりではないかもしれないと思えるのは、実名小説だからである。そして、そもそもマラカニアン宮殿に金塊を隠した人物こそが、ダグラス・マッカーサーその人だったからである。

オレたちがふつうマッカーサーを思い浮かべるとき、厚木海軍飛行場でコーンパイプを口にくわえながら飛行機のタラップを降りてくる、威風堂々とした勝者としての将軍の姿を刷り込まれてしまっている。そして、GHQの占領政策を、陣頭に立って指揮し蛮勇を奮ったこわもてのイメージを固定化して記憶している....。

しかし、戦争の勝利者としての顔ではなく、それ以前の日本に完膚なきまでに打ちのめされた最悪の時代や、、もっと昔の太平洋戦争以前のマッカーサーの足跡からたどってみると、あの意気揚々とした凱旋的印象はへなへなと溶解してしまう。意外に単純なところがあり、勝気で、我が強く、すぐむきになり、上にはおべっか使いで、野心家で、金に欲張りで、周辺には意見の対立や敵が多く、オレたち凡人とさほど違わないフィリピン中毒の俗物おじさんだったような気がしないでもないから不思議である....。

開戦当時のマッカーサーは、日本軍に大敗しオーストラリアに逃走した将軍である。攻勢にあった日本軍が、わずか半年後のミッドウェー海戦とそれに続くソロモン諸島のガダルカナル島の戦争で、空母や艦載機や地上兵力を失って、戦局を大きく展開させ、太平洋戦争の主導権を連合国に譲り渡してしまう。このミッドウェーとガダルカナルの戦争に、マッカーサーは直接かかわっていない。

日本の暗号が連合軍側に事前に解読されていたり、官僚的な日本軍の作戦本部の相次ぐ失策、現場での指揮官の意見の対立などが続いて、戦況は日に日に日本に不利になっていった。この日本軍の数々の失策のおかげで、その後のマッカーサーはニューギニア、ビアク、ハルマヘラ、そしてフィリピンと、彼の任された戦域で反攻に打って出ては数々の武勲、戦功を打ち立てていった。概して言えば幸運な司令官だった。

マッカーサーは、当初からフィリピン奪回を考えていたようだ。その線上で、日本軍の拠点を叩くことしか考えていなかった印象がある。そもそも、ソロモンに彼がかかわっていなかったのは作戦上の意見の対立があったようで、「彼にはニューギニアをまかせておけばいい」と、初めから上層部がもめ事を回避するために、役割を分担した気配がある。その後も、彼の持論は、周囲との摩擦を生み続ける。「フィリピン奪回」もそのひとつだった。

1944年7月下旬、真珠湾で重要な戦略会議があり、マッカーサーが呼ばれた。そこで初めて、台湾攻撃の作戦を知らされる。戦況ががらりと好転し決戦を期して一気に北方に攻めあがろうというときだった。米陸軍参謀総長マーシャル将軍もキング米海軍作戦部長も、太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督もみな、フィリピンを素通りして台湾を攻め、そのまま一気に中国本土に進軍しようという構想をもっていた。大勢はほぼ固まっているようだった。

マッカーサーはそのことを知り、カッとなったようだ。彼にしてみれば、何がなんでもフィリピンに帰るのでなければならない。そこで、ルーズベルト大統領も同席していたその御前会議上で、マッカーサーは彼の持論を執拗に展開し、フィリピン奪回の重要性を延々と説き、最後には周囲に自論を認めさせるかたちになった。キング作戦部長は、マッカーサーに会うことを避け、会議の前に早々と本国に帰国していた。「なにもそこまでフィリピンに入れ込むこともないだろう...」と、オレが親や兄弟にさんざん言われ続けてきた悪態に近い皮肉を、マッカーサーがそのとき言われたかどうかについて歴史は何も語っていない。しかし、たしなめる人がいて、「もしや個人的な利権がらみでそこまでいうのじゃないだろうね」と、言い過ぎた感があったマッカーサーに、やんわりと忠告する友人がいたことは事実らしい。結局フィリピン奪回に向けマッカーサーは兵力の増援を承認されるのだが、その一方で台湾攻撃案も生き続けていた。ここでも結局腫れ物に触るかのように、「あいつにはやらせておくしかない」という陰口が聞こえてきそうな状況であったのだろう。

しかし、マッカーサーは、数年にわたるこの戦争を通して、日本軍部の神がかり的な勇猛さにショックを受けたことをその回想記で何度も語っている。袋のネズミ同然に包囲された日本軍が、将軍の命令で、事実上の自殺行為にひとしい盲目的な総攻撃に駆り立てられ、異口同音に「バンザイ、バンザイ」と叫びながら十字砲火の中に突撃して向かってくるさまを見て、戦慄を覚えたというようなことを言っている。日本の軍を戦闘の組織というよりは、なにか宗教教団のようなイメージで捉え、そこに恐れや憎しみを感じながら、日本占領時まで引きずってきたような気がする。装備も不十分な日本軍の無謀のみなもとが、軍人精神を貫いている「武士道」であることをあとで学び、背筋を凍らせたのに違いない。戦後マッカーサーが乗り込んできて、真っ先に破壊したかったものは、そうした攻撃性を帯びた「日本的なるもの」、そのあたりにあったのではないかと思う。

そうした仮説に立って、マッカーサーの人となりを精一杯想像してみながら、彼がにわか作りにデザインした日本国憲法の上に築かれた民主主義国家=日本を考え直してみるのもいいのではないかと思う。すなわち65年を経た今日、国民がその民主主義の日当たりのいい部分を食い潰し、もう間尺に合わなくなって静かに崩壊しつつある彼の作品を、改めて評価し直してみるのは意味深いことだろうと思う。


2010年09月01日

ともゆきとダグラス

ummatina4オレが生まれる数年前に、太平洋戦争が終わった。それからもう65年も過ぎた今日だが、フィリピンの片田舎にいると、まるで時代錯誤のような話が日常的に降って湧いてくることがある。その時間の迷子になったような奇譚に、オレ自身が巻き込まれたことのある経験者のひとりである。あれは確か2007年の11月のことだったと思う。アグサン・デル・スール州のサンフランスという町にアパートを借りて、ミミと一緒に住んでいたときのことだった。この年の雨季の雨は異常だった。朝から晩まで連日止むことなく、滝のような雨が地響きをともなって降りあれた。

ちょうどオレが帰国中で、ミミひとりが留守宅を守っているその白昼のできごとだった。見知らぬ男が不意に家にやってきて、「あなたのボーイフレンドは、ヤマシタ・トレジャーを発掘しにきたんですか?」と、唐突に訊ねていったという。男は、あとで調べたら水道局の事務員で、月々の水道料金を払いに行っていたミミを窓口の奥で一方的に見知って懸想をしたらしく、オレがいないことを承知の上で訪ねてきたものと思われる。用意周到なことに面識のあった大家の奥さんをまず訪ね、彼女に丁寧に用件を言って安心させた上で、アパートの部屋の戸口までわざわざ案内してもらっている。大家はそのまま自宅に引き返した。男は部屋に上がりこんできて、山下財宝の話を切り出し、よかったら人足に雇ってもらいたいと頼んだらしい。しかし用件が済んでもしばらく居座って、最後にはミミに好意を持っている風な言葉を残して帰ったそうだ。

オレは帰国のためにマニラに待機していて、すぐミミから報告を受けたとき度肝を抜かれる思いだった。なんという脇の甘さだと激怒した。おもえばミミは、二十歳近くになるまでドアも窓も内側から布で覆ったような苫屋に大勢で雑居して住んでいた。財産と生命を守るために、セキュリティを問題にするような頑丈なドアのある家などに住んだ経験がなかった。その結果、あれよあれよという間に見知らぬ男に上がりこまれてしまったに違いない。オレは噛んで含めるように言いきかせた。突然の訪問者があったら、まずスライドガラスを薄めに開けて窓際で相手をよく確認し、用件は窓越しに聞くようにし部屋の中には決して人を入れないようにと厳重に注意したのである。ミミもミミだが、大家の奥さんにも問題がある。ミミがひとりで留守居をしていることを承知の上で、オレたちにとって見ず知らずの男を引き合わせ、ふたりきりに放置して帰った大家の奥さんにも、店子としての立場からメールで厳重な抗議をしたのを記憶している。その事件で初めて気づいたのだが、ミンダナオに限らずフィリピンは、他人の女房であろうが恋人であろうが、隙あらば平然と奪い取ってしまう「略奪愛」の土地柄であることを知ってオレは愕然とした。

そのことはさておき、本題に戻りたい。男が口にしたヤマシタ・トレジャーの「ヤマシタ」とは、太平洋戦争の勇将で連合軍からは「マレーの虎」と恐れられた山下泰文(ともゆき)将軍その人である。彼は陸軍士官学校、陸軍大学校を出て、のちにスイス、ドイツに留学したエリート中のエリート軍人だった。開戦当時は25軍の司令官としてマレー作戦に従軍し、のち満州に転進、敗戦の気配が濃厚になったころはフィリピン防衛のレイテ戦、ルソン戦を指揮し、玉音放送ののちも山岳地帯に潜伏し9月3日バギオで降伏した。

山下大将は武将派のイメージが強いが、転戦する先々で「バナナノート」と呼ばれる軍票を考案したり、宝くじのようなものを作って軍政にも異能を発揮した。金集めや金儲けが得意であったのかは知らないが、少なくとも好きだったことは否定できない。このあたりが、同じく第14軍(フィリピン作戦)に従軍した本間雅晴中将などのような、魂そのものが「武士道」で貫かれた軍人とは性質を異にしていたようである。

その山下大将が、敗走を繰り返すフィリピンのジャングルのなかで、よほどお荷物になったのか各地に手もちの財宝を埋めて隠して転戦したという伝説があるのだ。不思議なことには、後世その財宝の所在を明かす地図の写しが、裏社会でなかば公然と取り引きされてきたということがある。一攫千金を狙うフィリピンの欲望家の中に、ヤマシタトレジャーは今もビッグドリームとして語り伝えられている。あれから65年たったというのに、財宝探しのためにいまもフィリピンのどこかの山や丘が掘り返されているというから驚いてしまう。
<つづく>

2010年08月29日

オレたちの食風景

studying_memeミミとオレの日々の楽しみは、あいもかわらず三度三度の質素な食事、それと一日も欠かさず食べるフルーツにある。朝食には前夜の残り物か、たまにわざわざ作るアンパラヤ(にがうり)のスクランブルエッグ和えなどを食卓にのせることが多い。昼食はミミが大学から腹を空かせて帰るので、朝ごはんの残りものか、パン食にしている。それでも、夕食にだけは大いにこだわっている。たいてい魚と野菜を材料にした、少しボリューム感のあるメニューを楽しんでいる。ふたりだけでは食べきれないことがしばしばである。そうなれば、同じものが翌朝の食卓にも乗る。大学に行く前のあわただしい時間の支度になるので、ミミは前夜の夕飯の惣菜をわざと少し残して、温めなおして朝食のおかずにして出すようにしている。しかし、どんな場合でも、ご飯だけは新しく炊いたものにしようとこだわっている。

夕食の材料の買出しは二人の楽しみのひとつで、デート感覚がないわけではない。ガイサノショッピングモール地階の魚売り場に真っ先に足を運ぶ。店頭でひそひそ話の相談を始め、水揚げされたばかりの魚類の目玉の色の澄み具合や肌のつやを通じて鮮度を確かめ、ようやく決めた魚を秤にかけてもらい、その場で捌いてもらう。焼き魚であれ、焼いたのち身をほぐして野菜と和えるものであれ、オレたちが食卓にのせるメニューは常に一品だ。それをミミと分け合うのだが、身の大小などに歴然と差が出ると、ミミはいつの間にか覚えた「じゃんけん」をけしかけてきて、先に選ぶ権利を争う構えをする。果物なども、最後に残ったひとつ、というよりも意図的にひとつを残して、その所有権をじゃんけんで小さなテーブル越しに競いながら、歓声やきょう声、失望・落胆の声をあげ、ひと騒動を楽しんで食べ終わるのである。

オレたちの食事に欠かせないものは、トヨとビネガーをまぜ、そこにミニ唐辛子とでも呼べる「シリ」を一二粒落とした地元の調味料「サウサワン」である。肉のときでも魚でも野菜のときでも、スプーンの先でサウサワンにちょっと浸しながら、フィリピン流儀でご飯をたらふく食べている。じゃんけんをして買っても負けても、最後には育ち盛りのミミに多くいきわたるようになっている。それを土壇場でミミは「マイラブ」と言って半分オレに差し出してよこす。

日本から持ち込んだ小袋12袋入りのインスタント味噌汁(わかめ汁)も、オレたちにの食卓には欠かせないものになった。コーヒーカップに一袋といて、これも分け合って呑む。夕食時の好物の魚としは、キトンやバリリソン、ボドボロンなどで、新鮮なものであればあるほど焼き魚にしてそのまま食べる。焼き魚の時には、頭周辺の部分を解体しながら骨までしゃぶるのがミミの楽しみなのか、このときばかりは腕まくりをして指先で威勢よくご飯を食べる。焼き魚のときのご飯のおかわりが、食い盛りの少年を見ているように驚くほど早い。

体長30センチほどの、二人の胃袋を満たすにもやや大きめに思える鮮魚を一尾買っても、秤にかけてみると70ペソほど(130円程度)にしかならない。日本のスーパーで同様の魚を丸ごと買えば、おそらく1500円の値は下らないのではないかと思える代物である。もっとも、冷凍物を戻したものはあるだろうが、そのような水揚げされたばかりの鮮魚自体がスーパーの店頭に売られていることは稀有である。日本はとにかくフィリピンに比べれば魚肉類(野菜も)の値段が法外に高い。この一点だけみても、乏しい生活費をやりくりしながら、毎晩オレたちは錬金術のように贅沢な気分をひねり出してはとことん味わっているのである。ダバオならずとも、フィリピンの地方部に住むならは、あえて日本食にこだわらず、土地の食材をうまく調理して食事を楽しめるようになれば、生活防衛を主眼としたサバイバル海外生活は案外容易なものである。

加えて、オレたちの楽しみはまだほかにもある。食後に欠かせないトロピカルフルーツだ。大げさに言えば、オレはこの果物が楽しみで渡比していると言っても過言ではない。日本からミミに電話をするときも、「いまはどんな果物が出回っている?」と聞くのが挨拶に近くなっている。残念なことに、日本では果物さえもいまや高価な贅沢食品になってしまった。貧乏暮らしのオレはワゴンセールの熟しきったフィリピンバナナ(5本95円)程度のフルーツしか買って帰れない。それが、ダバオに足を踏み入れたとたんに、ランソニスやマンゴスチン、マンゴーなどの南洋果物を思う存分口にすることができる。それぞれ1キロずつ買ってミミとふたりで腹いっぱい食べても50ペソ(95円程度)以下にしかならないのである。近頃のオレたちは、なじみの露店商でランソニスとマンゴスチンを、スーパーではバナナやパパイヤ、スイカなどを買って、食事のあとのデザートにしている。

以前も記事に書いた記憶があるが、この南方のフルーツや木の実は、ジャングルに生息する動物たちの生命を守る「薬」の役割をしている。動物に効くものは人間にも効く。バナナは緩んだ便を硬くする。パパイヤは反対に硬便を柔らかくし便通をよくする。マンゴスティンは恐るべきかな腫瘍を消す効果がある。そうした果物の薬効を、これまでは迷信だと一笑し決して信じてこなかったオレだったが、フィリピンを訪れて、実際にその効果効能を自分で体験してからというもの、森の精霊に畏怖を感じつつ感謝の気持ちをこめて果物を口にするようになった。マンゴスティンを原料にした製品で、フィリピン人に人気のある「MX3」という薬(ティーパックとカプセル)がある。数ヶ月前ミミにそれを買い与えて帰国したことがあった。2週間それを服用し、彼女の右胸の鎖骨下にあった子供の手のひらほどの大きさのしこりが、きれいに消えてしまうという「奇跡」を実際に経験している。マンゴスチンは、オレとミミの特に好きな果物で、ダバオに来てからは一日も欠かさずに、賞味している。

新鮮な魚も果物も、オレがダバオにいる間だけの密かな楽しみに違いないが、ミミとってもまた同様の期間の贅沢行為で、ボーディングハウスにいるあいだには決して口にできない高額品にあたる。オレにもまして、夢中になって賞味するのはそのためである。ボーディングハウスでの彼女の食生活は、心配になるほど粗末で記事で報告することもためらわれる内容である。

さて、昨日の朝から今朝にかけて、ミミは「サイエンス」の宿題に没頭している。彼女の責任感の強さは今に始まったことではないのだが、夜なべし根をつめる気迫のこもった姿を見るたびに、クラスの皆が皆ミミと同じように真剣にやっているものだろうか、たかが宿題にこうまで夢中になることもなかろうにと思ったりした。しかし、彼女の心中では「落とされてはいけない」という一時の悲壮感や被害妄想は次第に消えかかっているようで、勉強に取り組む真剣みの中に、自分なりに楽しんでそうしている風な余裕の気配すら感じ取れるようになってきた。

神様が与えてくれた人生の希望に感謝しつつ、彼女は強靭な決意で大学を卒業しようとしていることがひしひしとわかる。卒業すれば、最低限私立学校の教師にはなれる。その仕事の傍らで、年に二回実施される公立学校の採用国家試験「ボード・テスト」を受けるつもりでいるようだ。公務員としての教師になれれば、給料もいいしさまざまな手当てや福利厚生が充実している。それが実現したら「食事の面倒を看てあげるから」と、いまからオレに約束をしているのだ。

ミミの将来を真剣に考え、力になれる人間は自分の家族の中に誰もいない。オレだけが、彼女の夢を切り開き実現させようとしている唯一の人間だ。ミミはそのことをよく知っているので、一日に一度はどこかで水臭いほど感謝の言葉を口にする。「日本人の恋人」が傍にいても、その感謝の気持ちが常にあるためか、不平ひとつ言わずに質素な暮らしをオレとともに耐え抜いてここまでついてきている。買い物に出かけても、ついでに何か欲しがったりねだったりするようなことは決してなかった。ひとりで遣いに出すと、オレの身になってちゃんと値切ってくるし、つり銭は小銭のレベルまで律儀に返してよこす。金で追い詰めて、やがてオレが金欠になって渡比できなくなったら自分が困ると思いこんでいる。貧乏のオレが、いまもフィリピンに通い続けていられるのは、ミミのいわばそうした「内助の功」のおかげだと言っていい。オレももう歳だし、毎月金を送るからそれでいいだろう。大学は心配するなと、ある日心にもない邪険な言い方で彼女の腹を探ってみたが、頑としてオレの提案を拒絶している。

ミミと知り合う以前から、フィリピンとはずいぶん長いつきあいがあった。過ぎさった星霜を振り返り傍らを通り過ぎていった女たちを思い浮かべながら、ミミのような女は珍しいとオレは気づき始めている。優しい情の深いフィリピーナは過去にもたくさんいた。多くは生活苦をひきずって、家族のために必死で働いていた。生きる方便として、時にはオレに平気で嘘をついたりした。そして大なり小なり、どのフィリピーナも金品をむさぼる女ばかりだった。

しかし、ミミはそうした女たちとはどこか違って見える。こうしたブログを書いて公開してから、人々はオレとミミを愛だとか恋だとかの舞台に上らせて、さまざまな感想を述べ合ってきた。純愛物語だとまで言う読者もいた。しかし、その好意を理解した上でもなお、愛や恋という文脈のみでくくられることに、オレはいささか違和感を禁じえないのである。

ミミという存在の奥深い場所に、フィリピン人が長い歳月の果てにどこかに置き忘れてしまった何か重要なもの、敢えていうならば、いままさに燃え尽きようとしている「フィリピン人の良心」のようなものを発見して、埋もれた灰のなかの「熾き」に必死に息を吹きかけ、炎をよみがえらせ、やがて耀よう姿を見たいと思い続けているのに限りなく近いと思える。

画像:薄暗い室内灯の下で夜更けまで大学の宿題に没頭するミミ

2010年08月27日

ミミの宿題

marcopolohotel病気(癌)のことは、近頃あまり気にかけなくなった。ホルモン治療を始めて1年あまりになるが、初めの数ヶ月こそうっとうしい副作用に苦しんだものの、人間の体とはじつに不思議なもので、その副作用にもしだいに慣れていった。血液検査の追跡データでは「貧血」の症状がでていてもおかしくないという。自覚症状があるかと医者に問われた。そういえば、常時ふらつきや軽いめまいがある。口中の粘膜からは滲むような出血もある。抗癌剤のせいかもしれないし、あるいは長年服用してきた血圧降下剤のせいかもしれない。この出血が貧血を引き起こしているのではないかと思われる。その副作用も治療するレベルではなさそうだ。

知り合ってもう4年になるが、いつも傍にいるミミにはそのオレの変化がよくわかっている。癌だということも知っている。背中や胸、うでの筋肉がかなり削げ落ちてきたのをふたりで気にかけてはいる。「プエット(でん部)がマリイット(小さく)なったね」とミミはしきりに言う。そう言ったあとで、ミミの目にはかつてのメタボの体形にくらべればずっとバランスがとれて「グアポ」に映ると、やさしい気遣いで言うのを忘れない。

日本とフィリピンを往復するとき、かつてはキャスターつきのバッグを引きずって歩いていた。タラップを引き上げて、込み合う機内の荷物の収納棚にそれを上げ下ろしする体力があったのだが、それが少しつらくなってきた。最近では、ダバオで使う身の回りの物は、あらかたミミのボーディングハウスに預かってもらっている。小ぶりのバックパックひとつを背負い身軽にしてフィリピンに足を運んでいる。渡比の際には、その手荷物1個のリュックがミミへの簡単な土産と自分の薬(錠剤と吸入器)でぱんぱんに膨らむ。帰国時にはそれが空に近くなる。

あと何年続けられるかわからない。それでも、ミミが大学を卒業するまでは体を騙しだましフィリピンに通うことにしなければと自分を励ましている。癌再発をうけてホルモン治療の段階に入ったいまは、治療効果がてきめんに出て、病状をモニターする検査も再び「事後検査」になった。診察直後に採血し、その結果を3ヵ月後の次の診察時にチェックするという呑気なやりかたである。これが非常事態になると、診察直前の採血結果を読む「事前調査」になる。そうでないだけまだ余裕があるのだろうとオレは解釈している。めまいやふらつきはあるが、しばらく癌のことは忘れようと自分に言い聞かせている...。

昨夜は夕食のあと、ミミの歴史の宿題を少し手伝った。夏休みや冬休みの最終日に、親が子供の宿題の後始末で奮闘する話はよく聞かされるが、大学に通うフィリピーナのガールフレンドの宿題を夜な夜な援助するという話はついぞ耳にしたことがない。宿題は「ホームワーク」だと思っていたが、Assignment(アサイメント)というようだ。

日本の大学の授業とはずいぶんありさまが違うようだ。ほぼ毎日出されるアサイメントは、オレの目にはどうにも雑用にしか見えない。たとえば、「フィリピンの観光資源を5つ上げ、画像を添付してその所在地名をレポートせよ」などという簡単なものだ。また、「カダヤワン祭りの由来をレポートせよ」とか「太陽系の図と星座図を一枚の用紙にまとめよ」などというものもある。つい先日は地学の学科で、「地球の図をカラーの画像でスクラップにして提出せよ」などという細かい指示まで出して宿題が出されたときには、聞かされて気の毒に思った。そのために50名以上の学生がカラーのプリンターのありかを探してカフェを右往左往しなければならない。なければ本屋で画像の添付した本や写真集を買い切り抜かねばならない。労力と出費を考えると、非常識な教師もいるものだと思った。

大学の宿題だとはいえ、どれもこれも、作業自体は小学生か中学生レベルの課題に映る。インターネットの「ウィキペディア」のような事典にたどりつけばどれもこれも簡単に検索しダウンロードはできる。教師は、そういう作業を学生に強いて、1時間の授業でこぼれた内容を学生の自宅学習で補足しようとしているものと思われる。レポートは、出せばそれだけで学期の成績に加点される仕組みになっているらしく、オレには「大学生のやることとは思えぬくだらん仕事だ」と見えるのだが、横柄で暴君のような教授のいいなりに、ミミは疑問も抱かずに必死で取り組んでいる。

宿題の多くはネット検索を必要とする。オレがダバオにいるあいだ、ミミは部屋からノートパソコンにGlobe TattooのUSBモデムを差し込んでGoogleにアクセスする。検索やダウンロードに手間取るとロード(プリペイド)をあっという間に浪費してしまう。そこで、親切心というよりは吝嗇心から、ぎこちない彼女の検索姿を見かねてどれどれオレがやってやろうということになった。何をどうしたいのかミミに訊いたうえで、オレが手際よく検索し、さっとオンライン作業を片付けてやろうと考えたわけだった。オレがネットで情報を探るあいだ、初めのうちこそミミは傍につきっきりで、ああでもないこうでもないと注文をつけていたのだった。それが、いつのまにかディレクションといおうか指図といおうか、それだけしたかと思ったらあとは任せきりになった。自分は別の科目の教材にマーカーで線を引き、小テストの準備を始めたりするようになった。共同作業のはずが、いつのまにか分業作業になって、はたと気がつくとオレは恒常的な宿題処理屋に仕立て上げられていた。

こんなことになる前は、ミミの勉強の邪魔をするまいという親心があった。狭いホテルの部屋で、オレはオレのことに集中していた。ベッドに横になりながら、日本から携行した文庫本などを読み耽ったり、勝手に高いびきをかいて寝込んだりしていた。どうもそれがミミには、気に入らないらしい。どこかでオレを応援隊に釘づけにしておかなければ気がすまないといった、フィリピーナ特有のエゴが顔をのぞかせる。父兄や保護者の眼差しをどこかで担保しておきたくて仕方がないようだ。些細なことでも、オレを「自学自習」に巻き込もうとする。暗記物などがあると、オレは無理やり原本を持たされ、ミミが口にする答えが合っているかどうかの判定につき合わされる。大学生というよりも、態度は幼くかぎりなく小学生に近い。

画像:今朝のマルコポーロ・ホテル

2010年08月24日

カダヤワン祭り

kadayawan数日前からダバオにいる。いまが「カダヤワン(Kadayawan)」の祭りの季節であることを初めて知った。五穀豊穣に感謝しそれを祈念するカダヤワンは、ダバオ周辺の山あいに住む少数民族の土俗的祝祭として始まったらしいのだが、今や全国的に知られるほどになり、フィリピン各地からのみならず海外からも大勢の見物客が訪れている。

祭りのことをまったく知らず呑気に構え、いつものようにダバオ空港に降り立ち、オレは市の中心部にある定宿のIホテルに向かった。ところが、受付の女性から「今日は満室だ」といわれ、途方にくれた。かろうじて空いているという窓のない一室の鍵をもらい、旅装を解き旅塵をはらった。しかし、いつもの部屋に比べれば上格のその部屋は最悪だった。シャワーが壊れていて温水が出ず、トイレのフラッシュのレバーも折れて使い物にならなかった。発覚した時刻にメンテナンスはもう帰宅していた。ひと晩何とか我慢をし、翌日はいつもの部屋に移ることができた。

一夜明けた日曜日。カダヤワンの祭りの最終日だった。オレはミミと一緒に、朝食を摂ろうと部屋を出た。CM・Rectの表通りは鼓笛や吹奏の音であふれかえり、強い日差しの下でパレードが始まっていた。洪水も同然の人垣に阻まれて、オレたちはまったく身動きが取れない。人ごみに紛れるようにして、ホテルのルームボーイたちも仕事を放り出して見物していた。パレードのところどころに、トラックやワゴンを覆うようにして組上げられ、バスケット状に飾りたてた山車がゆっくりと動いてくる。日本ならば、さしづめ豊穣を祝う稲穂や麦穂などが揺れているのだろうが、それに替わって色とりどりの果物が飾りつけられている。南洋の土地柄を思わせて、その部分は面白い。

しかし、日本人のオレの目には、何の変哲もないただの退屈なパレードにしか見えなかった。それでもこれだけの人々が押し合いへしあいして集まっている。ミミの話では、どうやら、トロピカル・フルーツのデコレーションをほどこした山車の上には、ふだんTVでしかお目にかかることのできない有名芸能人が立っているらしい。ときどき甲高い歓声がどっとあがり、人垣が乱れて騒然となるのはそのためだ。「中央」から下って、営業にきているのだろうか、少なからぬ数の芸能人たちが、パレードにいろどりを添えているようだ。そういわれれば、前日のダバオの空港でも、何人かの芸能人が同じ便でマニラから降り立ったらしい。黄色い歓声がロビーに響き渡り、カメラを持った女性たちがサングラスの男を囲んで騒然となったことを思い出した。どうやら、その有名人たちが、パレードの客引きの大きな誘引になっていたもようである。

パレードの隊列は、少数民族の五穀豊穣の祝祭気分とはかなりかけ離れた印象だ。どれもこれも放送局やTV番組、ビタミン剤や清涼飲料水などのロゴを高々と掲げたいわば「コマーシャル隊」で、歴史や文化の面影がきわめて薄い。見ている方はうんざりしてくるのだが、フィリピン人にとっては芸能人を生身で見られる感激があるのでなかなか立ち去りがたいのだろう。古い言葉で言えば「ミー・ハー」とうことだろうか。そのあたりの軽佻浮薄さが、どうにもフィリピン人らしい。

300年有余にわたるスペインの統治から開放され、20世紀に入ってからは小半世紀もアメリカの植民地だったフィリピン。宗主国からいったい何を学び移殖されたのだろうかと、この国が不思議に思えてならない。特にアメリカから受け継いだものは何だったのか。生半可な英語と中途半端な乗り物のジープニー。残っているものといえば、そのあたりしか思い浮かばない。民主主義とプライバシーの権化ともいえるアメリカのはずだろうが、この国の民を権威の前に卑屈で、プライバシーの観念にもっとも乏しい国に仕立て上げてしまったのはなぜだろうかと疑問に思う...。

ミミが「大学生」になって2ヶ月が過ぎた。1学期の前半を何とかやり過ごし、後半の授業に入っている。その間オレは二度ダバオを訪れ新入生の彼女の傍らで時間を過ごした。ミミは、持ち前のド根性を発揮して、毎日科目ごとに出されるおびただしい量の「宿題」と格闘しながら、必死でそれをこなしている。大学生になってから、彼女の形相がすっかり変わってしまったようで痛々しい。体育やコミュニティ活動の科目があって、授業中といえども屋外にいる時間が多かったためか、すっかり日焼けしてしまった。おまけに宿題に追われストレスを溜め睡眠不足に陥っているせいで、肌も荒れ放題、文字通り「なりふり構わず」ただ勉強に食らいついているようだ。

当初はいきなり「落ちこぼれ組」の仲間入りかと心配したのだが、今は押しなべて言えば中の上ぐらいの成績でここまできているらしい。数学はまったくの苦手で、テストで「零点」を何度か取ったときにはどうなるかことと思ったが、英語を専攻する今のクラスでは「マジョリティ」だったというので笑ってしまった。宿題の数式を見せられたとき、オレも見たことのない記号と数値の組み合わせで、まったく歯が立たず相談に乗ることもできなかった。オレが試験受けても点数は取れないと妙な確信をした。クラス全体ではもう10人近い生徒が脱落して学校に出てこなくなったらしい。ミミの好きな科目は「社会学」や「歴史学」などで、典型的な文科系タイプである。

宿題のほとんどが、インターネットの情報検索やプリントアウトを必要としている。大学から帰っても、ミミはカフェに入り浸っているようだ。オレが渡比するのを待ちかねている心に変わりはないが、再会した日の夜から部屋でオレのパソコンを奪うようにしてにかかりっきりになっている。大学に高い授業料を払ってそれで済むというわけでなさそうだ。家でネットやパソコンでのレポートなどにかける時間と費用もかさむこともわかり、これでは「貧乏人は学校に来るな」と言われているも同然に思えた。

何事にも生真面目に取り組むミミは、過去に経験したことのない膨大な知の断崖・絶壁にもひるむことなく、無心に立ち向かっている。講座が始まった当初は、即刻振り落とされてしまうのではないかという「恐怖心」ばかりが先に立ち、神経をすり減らしていた。いまは、勉強のコツのようなものを少し身につけたようで、このままやっていれば中の上ほどのポジションで、何とか進級はできるはずだとの感触をつかんだようだ。その自虐的な環境に自らを追い込んでいくことに、彼女は案外楽しさを感じ始めているようにも見受けられる。宿題は、翌日の授業の発表やテストに結びついている。

授業は午前中3科目の3時間だけで、部屋で帰りを待っているオレに、教室からたびたびテクスが入る。「いまのテストで20問中15問正解でした」などと、夕べから今朝にかけて格闘していた宿題の成果を速報してきたりする。オレの大学時代の怠惰な生活を思い起こしながら、ここまでやらなければならないのかとこちらが心配になるほど彼女は勉強をしている。ここで挫折したらもう希望の道は閉ざされる。そうなれば、またプロビンスに引き揚げるしかなく、惨めな暮らしが待っていると思い込んでいるようだ。

この調子なら、パソコンもいつかは買い与えなければならないだろうと思う。このクリスマス商戦では、売れ残った「Windows XP商品」の叩き売り競争になるはずだから、安いからと言って慌てて買うよりは、もう少し待ったほうがいいだろうと彼女には言い聞かせている。来年のクリスマスまでには、「Windouws 7」のミニノートを買ってやる約束をした。それまでは、少し小遣いを増やしてやるので、カフェに通って済ますよう言い含めている。ミミは気づいているかどうか定かではないが、初めにパソコンありきではなく、ほんとうに進級できる力があるかどうかを見定めたいという気持ちがオレにはある。加えて、そもそも学生はみな貧乏なはずで、苦学する精神を常に忘れないでほしいという思いがなくはない。しかし、ここはフィリピン。どうもミミの話では、親のすねをかじっているはずの学生同士でも、人前では見栄をはったり金持ちぶりたがる人間たちが多いようでオレは当惑している。

2010年07月12日

ダバオのオレの暮らし

ummatinaダバオ市中心部のホテルの4階にいるというのに、夜間烈しいスコールが続いたあとには、決まって地鳴りのような壮烈なアマガエルの合唱がとどろく。とても寝ていられない。これだけの数のカエルが、いったいどこから集まってくるのだろう。もともと住みついているのだろうか。それを思うだに、熱帯雨林とは神秘と謎につつまれ過ぎている。

草木をなぎ倒して少しばかり地面を広げ、そこにアスファルトを敷きコンクリートの塊を積み木のように建ち並べて「大都会」の装いをつくろってみても、巨きくみれば、地球的規模や宇宙的規模でみれば、人間の知恵が生み出すものは所詮はかない。巨大な生命エネルギーをたたえた熱帯雨林の表層に、指の腹ほどの小ささの絆創膏でも貼った程度の文明の営みの大きさでしかない気がする。昆虫も草木も、生きとしいけるものすべてが、人間の目では捉えられないほどの「か細さ」と「静けさ」で、宇宙の生命継承の役割をにないながら、ひとつひとつの部分(パート)が全体となって、荘厳な「いのちのオーケストラ」を演奏している....。

この周辺では、人々の暮らしさえも「熱帯」の性質を帯びているのか、足早に変化する気がする。ダバオはこの半年、ずいぶん変わった。訪れるたびに、しおれた花のように精気を失っていく。世界的な不況の影響がここにも押し寄せている。そう言ってしまえばそれまでの話だが、悲しむべき事件や惜しむべき出来事が、次々と周辺に起こっていく。ホテルの二階にあったレストランは、結局潰れてしまった。店主が選挙に出て落選したためだ。ホテルのルームボーイの噂では、4000万円ほどの借金を背負ったらしい。あくまでもチスミスだ。その落選のあとレストランは閉店、働いていた顔見知りの従業員たちが失職し、どこかに去っていった。このホテルの経営とそのレストランとは直接かかわりがなかったようだが、身近に起こった不運が飛び火したように、ホテルの客足が細り、すっかり活気が失われていった。

人間もかくしゃくとしているうちはいいが、ヘタリ始めると人は寄りつかなくなってくる。歳をとればなおさらのような気がする。若い時代を懐かしみながら、老境にさしかかった自分の身をもてあまし、寂しいとか恨めしいというふうに思わないようにしている。歳をとればしおれた花のように、体力も気力も衰え、知能も不器用になって、細かいことが気になり、結果として頑固になり、偏頗でしぼんだ人間になっていく。しかし若い人には真似のできない、年寄りにしかできないこともある。「徳」を積むことである。生きた仏になることである。これまでの半生で、オレは「侠」にこだわって生きてきた。これからは「徳」を積み、金持ちなどではなくてもいい。「徳持ち」になって豊かに天寿を全うし終えればと考えている....。

「オッパー、バーリンって知ってる?」

部屋のドアを開け放った午後のまどろみのなかで、戸口近くに据えた皮の椅子の背もたれに深々と身を預けていると、重いまぶたを烈しくノックするように、甲高いミミの声が突然聞こえた。「は、バーリン?」と、まだ夢心地で誰かと言葉を交わしながら、重いまぶたのテントのとばりを開けてみると、見晴るかす草原のなかに、羊の大群をまつろえた武将か何かのように、大学の教科書を手にしたミミが凛とした姿で立っている...。はっと目覚めたオレは、背もたれから背を浮かして言った。

「あ、バーリンって、ベルリンのことか?」
「そう、たぶんそのバーリン。行ったことある?」

ベルリンなら、若い頃東西ドイツがまだ冷戦で対峙していた頃、二度行ったことがあった。ニューヨークのイーストビレッジにある友人のロフトで知り合ったカールという男を訪ねて行った。行って初めてわかったのだが、彼は歳は若いが銀行のシステム部門の責任者で、個室に招かれたオレは数枚の模造紙を連ねた紙にびっしりと書かれたシステムのフローチャートを得意げに見せられたことがあった....。で、そのベルリンがどうしたというのか。

「ホセ・リサールが本を書いていたときバーリンに滞在していたらしい」

ミミは、部屋のテーブルの椅子に両膝を立て抱き込むようにして座り、「フィリピーノ」という科目の予習をしていた。なんでもフィリピンには元々土俗の難解な文字があったらしい。それを土台に、アルファベットを使って現在のタガログ語の原形を作ったのがホセ・リサールであるらしい。そのあたりの歴史にミミは特に興味を持っているらしかった。

覚えたての面白い知識は、その場ですぐにオレに教えたがる。面倒なときもあるが、オレもホセ・リサールについては少し勉強した。いずれ教師になりたいミミだから、彼女の「講義」ぶりを確かめる意味で、つきあって聴いてやることにしているのである。ホセ・リサールの伝記は過去に何冊か買って読んだことがある。彼の生涯を題材にした映画もあり、日本に来たときわざわざ神保町のあたりの書店の上階にあるホールに観にも行った。その映画を収録したDVDを、のちにマニラで偶然見つけいまも持っている。

彼はスペインとのあいだを船で何度か往復する間、横浜にも立ち寄っている。そこで知り合った「おせい」という名の恋人もいたらしい。その辺の史実は、映画にもDVDにも取り上げられてはいない。伝記でも少し厚手のものにしか書かれていない。確か写真も載っていたような気がする。フィリピン人で、そのホセ・リサールの日本人のガールフレンドについて知っている人は少ない。

ホセ・リサールが書いた代表的な小説が二つあり、ハイスクール時代にはそれを読破したものだとミミは得意げに言う。そう自慢するいっぽうで、「イントラムロス」がどこにあるのかは知らない。彼女の知識は何事にもまだらである。スリガオの寒村に長いあいだ封じ込められるようにして育ったミミは、おどろくほど地理感覚に乏しい。今月末に、大学の行事で「イントラムロス祭り」と題するイベントがあるのだそうだ。そのために学部ごとにプリントの違うTシャツを着て参加することになっているらしい。それを学内の購買部で買う必要があるのだといって、申し訳なさそうな顔をしながら250ペソほどの金をオレからもって行った。マニラの市街にあるスペイン・コロニアル時代の史跡「イントラムロス」にちなんで、ミンダナオ大学が何のイベントをするというのか、じつに怪訝に思った。

それにしてもUMという大学は、教科ごとに、行事ごとに、白地に簡単なプリントを施しただけのTシャツをよく学生に買わせる。大学の本文ではないだろう。学生を囲い込んで商売をしているのは見え見えだが、大学の精神がきわめて幼稚に見える。ミミにすれば、そのつど真新しいプリントの大学のTシャツを着て外を歩くことで虚栄心が満たされるためか、むしろ面白がって歓迎しているようでもあり、大学にいいようにカモにされているのだという被害意識はないようである。

正直言えば、ミミが大学に進学してからのオレのダバオでの暮らしはじつに退屈極まりないものになった。唯一の楽しみは読書で、日本から持ち込んだ文庫本を夢中で読みふけっている。すべて図書館で借りてきているが、借りた本の延長や、新規の予約などはホテルの部屋からパソコンで済ませている。どうも、オレの知的な興味はいまのところ古い時代の朝鮮半島や中国に偏っているようだ。民族的にみればどうやら、「女真族」あたりに引き込まれている。要するに満州族ということだ。韓国ドラマにのめりこみ本を読みふけっているうちに、いつの間にかそのような時間と空間にオレはたたずんでいた。満州といえば奉天だが、藤沢にいる老いたおふくろが満州から引き揚げてきた人間である。もう何十年も、そんな話をされたことはなかったが、6月の下旬小遣いを届けに言った日、突然おふくろが脈絡もなく、何かに憑かれたように「京都の沖あいのどこかだったと思うナ。病気で死んだ人を、甲板からどんどん海に放り投げてサ。それから汽笛を鳴らして船が海の上をぐるぐる回ってネ....。」「上陸してからは寺にお世話になったのサ。お経を上げにきた高野山のお坊さんが、すばらしい男だった」などと急に言い出して、オレは薄気味が悪くなった。その日の朝までオレは満州の馬賊の張作霖の物語などを、ドキドキしながら読み耽っていたからだった。満州は仏の信仰が強く、「まんしゅう」という言葉が「文殊菩薩」の「もんじゅ」から来ているということを始めて知った。

ダバオでも、ミミの傍らにいながら、オレは清朝滅亡の頃の中国を渉猟している。ダバオにいて、オレはフィリピンにいるという気がしていない。地平線が緩やかな弧を描くほどの広大な草原に立っている。もうじきミミが、腹を空かして大学から帰ってくるころだ。

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UM(ミンダナオ大学)マティナ校舎

2010年07月08日

カレッジ・ライフ

attendingschoolミミは、2010年6月15日をもって、ミンダナオ大学(UM)教育学部の学生となった。「晴れて」と快哉を叫んでやりたいところだが、そう浮かれてもいられない。ハイスクールを出てから、もうだいぶ経つ。かなり遠回りして遅れての入学で、入試のない大学に世話になることになった。ハイスクールで習得した過去の知識などもはやすっかり風化し、忘れ去ってしまったようだ。誰でも金さえ支払えば「入学」はできる大学だが、肝心な点は、授業についていけるかどうかで、この先も波乱に満ちた生活が待ち受けているに違いないとオレは思っている。

圧倒的多数の新入生が17歳前後だという。そのひな鳥の学生の群れに紛れこんで、24歳の「新入生」は、ひと月近くを経た現在も、日に焼けた顔を紅潮させ、緊張と不安をにじませながら通学している。「老」学生のひとりに数え上げられるとはいえ、そこはこの国特有のおおらかさで、ミミのような回り道をした大学生が、奇異な目で見られるということもない。彼女の身近には、20歳の子持ちがいたり、23歳の妊婦がいたりもする。そこに、また賑やかな大勢のバクラが混在したりもして、日本の大学とはだいぶ趣きの異なる授業風景が見られるようだ。

マティナの校舎まで、彼女はジープニーで通っている。市内は大人ひとり7ペソの運賃。登校下校時に、大学のIDを提示すれば、学割が利いて6ペソになる。うれしいことではあるはずだが、ミミはそのささやかな「特典」をなかなか享受しようとはしない。入学早々のこと、堂々と「学生です」と申告してジープニーに乗車しようとしたら、運転手が怪訝な顔で振り返り確認を求めてきたという。公衆の面前で恥ずかしい思いをさせられたことがあり、以来通学時以外はつとめて通常の大人料金を払っているらしい。たしかにふたりで連れ立ってガイサノに買い物に出るときも、オレの横で学生だとは言いにくいらしく、そ知らぬ顔で普通料金を支払おうとする。オレは不愉快になる。たかが1ペソとはいえ、その割引の権利を放棄するのはもったいない、(承服できない)と目の動きだけでオレが抗議すると、ミミも(恥ずかしいからおとなしくして)と言いたげな顔をする。狭いミニジープニーの客席で、ふたりして目だけをきょろきょろさせ、他の乗客から見ればなんと謎めいたカップルだろうと思われて不思議はない、熱く激越な視線を戦わせているのである。

大学では、しかるべき学業成績を修めさせようという、教育ママ然とした期待はあまりない。ミミの尻をはたき、今よりも上の社会階層(クラース)に押し上げて、将来生きのびるうえで、少しは誇りや自信を持たせてやりたいという素朴な願望があっただけだ。そこそこ頑張ってくれたら、「中退」でもいい、学歴はいまより半角上がって「カレッジ・レベル」になる。職探しにも、少しは有利になるだろうという考えだった。その点では、もう学生証をもらった時点で「カレッジ・レベル」にはなっているのだろう。何事にも頑張り屋で生真面目なミミは、何とか穏便に卒業はしたいと考えているようだ。「トライ・マイ・ベスト」が最近の口癖になっている。しかし、実際に入学してみると、今までとは勝手の違う世界に足を踏み入れた実感があるようだ。毎日ストレスを溜めて帰り、頭痛や発熱に苦しんだり、体調不良を訴えるほど緊張している。

授業は教師が一方的にしゃべったり黒板に書いたりして学生がそれを必死でノートに書きとめるという、日本の大学によくあるやり方ではないようだ。「授業」をするのは学生のほうらしい。毎回何人かの学生が順番に課題を与えられるという。それらの学生は数日後に、教師と他の学生に向かってプレゼンテーション(日本的にいえば教師がやるべき授業そのもの)をするようだ。教師は他人に向かって説明する学生が、内容をどれだけ正確に深く理解しているかを確認するために、さまざまな、時には意地悪な質問を投げかけるのだという。準備不足な学生は、頭が真っ白になって答えられなくなり、教室内で赤恥をかくことになる。まわりの学生は、(明日はわが身)と思えば、ひとごととは受け止められず、いつ自分に順番が回ってくるか戦々恐々としているというわけである。田舎育ちの恥ずかしがり屋のミミが、大学でストレスを溜めて帰るのは、プレゼンテーションとディスカッションを主体としたその授業のやりかたに原因がある。かわいそうだが、そういう環境に慣れるしかない。

その授業方法は、一見進歩的な方法には見える。しかし、ここはフィリピンだ。よく考えてみると、学生が必死な分、教師のほうが楽をしているだけだという風に思えなくもない。たとえば、入学手続きの杜撰さや、前触れもなく講義予定が変わったりする大学のモラル、随所に間違いだらけの教材のテキストなど、あげつらえばきりのないほどのいい加減さに照らしてみると、やはり進歩的な装いを凝らした「手抜き」のような気がしてこないでもない。そもそも、大学には新入生に向けた「入学要領」などがきちんと整備されていないのである。入学手続きから入学、授業開始に至るまで、日本ではとても考えられない珍事が、ミミの周辺にも頻繁に起こった。

入学手続きに行くという当日、ミミは早起きをして、大学本部の受付窓口の前の長蛇の列に並んだ。構内とは言っても、受付窓口は館内ではなく屋外に面している。入学希望者は、炎天下で何時間も並んで待たされる。ミミが勇んで列に並んだその日、あろうことかさんざん待たされたあげく、「担当者の都合」で本日の受付は中止になったと一方的に通告され、引き返してくるというハプニングがあった。顧客第一主義の日本ならばそんな失礼なことは起こりえない。急遽別な担当者でも立てるのが常識とされる事態だが、この国では学生の都合などどこ吹く風で、いとも簡単に「受付中止」になってしまう。炎天下で並んで待ち続けた人々からは、さすがに不満や怒りの声が上がったようで、大学側は「本日中止」の理由を苦し紛れに集まった人々に説明したという。「サマール島で学会があり、急遽出席することになった」と言ったらしい。急に学会の話が出てサマール島に行くという話自体が胡散臭い。実にフィリピンらしく、憎めない弁解だが、いかがわしさが臭ってくる。誰もが信じられないといった顔で、ブーイングが沸き起こったそうだ。そうであっても、騒ぎにはならない。「しかたない」で散会してしまうというのも、権威の前に卑屈なフィリピン人らしさといえばまさにそのとおりで、情けないかぎりだと思った。おかげでミミは、入学手続きに無駄足を喰らい、帰ってきたときの顔を見ると、海で貝拾いでもしてきたのかと思えるほど、すっかり「ネグラ(日焼け)」になっていた。

肝心の授業料にしても、なんだかすっきりしない。あとから設備費や施設利用費、試験代など、意味不明の細目が加算されてくるのはどうしたことか。ミミに説明を求めても、彼女には答えられるはずもない。煎じ詰めれば、この用件のために渡比しているオレのほうも、煙に巻かれた思いはあるが、言われるがままに支払うしかなかった。手続き全般にいえるが、そういう「説明責任」の部分があいまいで言葉足らずなのである。その費用だが、授業開始前に一括して払い込むと1割引きになるというので、あらかじめ工面しておいたペソを早々にミミに持たせて完納した。ところが、いざ払い込む段階にいたっても、今年度の予算はまだ精査されていないので最終的には若干変わる可能性もあるなどと受付で言われたと申し訳なさそうにミミが言うので、オレはあきれ返ってしまった。

そんな珍事をいくつも経験しながら、とにかくミミはIDを取得して入学した。授業が始まって二週間ほど経ったある日のことだった。またしても、仰天するような事実が判明したのだ。予定されていた最初の「テスト」が、いよいよ数日後に迫っていた。担当の教師が、出欠の点呼をとったあと、学生に授業料の納付状況を確認したらしい。授業料の一部には、数回の小テストの受験費用も含まれているからである。と、同時にどうやら教師の給料にも影響があるらしい。完納した学生に挙手を求めたところ、なんと約50人ほどいるクラスで、手を上げたのはミミひとりだったことがわかった。別に自画自賛で言うのではない。割引に魅力を感じて完納するというのは珍しいことのようで、割高であっても分割したほうがいいとする比率のほうが圧倒的に高いことを初めて知らされた。この国は「貧困層」ほど高負担だと聞いていたが、まさにそのとおりだと思った。彼女も、部屋に帰るなり、驚いたと同時に得意満面でその事件のことをオレに報告していた。すでに授業は始まっているというのに、学科小テストの受験資格をもつ生徒は、厳密に言えばミミだけということがわかり、結局試験は数日後に延期されたという。それからは、毎朝教師が授業の冒頭で、「借金の取りたて人」に変貌し、学生を目の前にしてすみやかに授業料を払うようにと大声を張り上げていたらしい。

父兄は既に生徒である子供たちに授業料を手渡しているのだろう、それを使ってしまったか、手続きを面倒くさがってまだ支払っていないかのどちらかではないかと、ミミは狐につままれたようなその出来事を彼女なりに分析してみせた。教室で、ガキ同然の振る舞いで、品行の悪さをさらけ出してやまない年下の学生たちを思い浮かべながら、ミミはちょっとドタバタ過ぎる教室の風景に先の不安を訴えていた。ハイスクールから順調に大学に進学してきた学生たちの多くは、怖いもの知らずで、大学なんぞアクセサリーのひとつと公言してはばからない無頼なところがあるようだ。授業中に平気でおしゃべりをしたり、携帯電話を使ったりして、たびたび教師に叱られて、退席したりしているという。

ミミは火曜日と土曜日を除けば、午前中で授業が終わる。たまには寄り道でもしてくればいいのにと思うのだが、放課後はすぐにオレのいるホテルの部屋に帰ってくる。何事にも騒々しいストレート入学組から、近くの「NCCCモール」に遊びに行こうとしきりに誘われるらしい。これといった目的もなく、ただおしゃべりをして、金を無駄遣いするような遊びに、ミミが興味を示すはずがない。うまい口実を見つけては断って帰ってくるようだ。

クラスのそういう遊び仲間をリードしているのは、きまって何人かいるバクラ(おかま)連中らしい。そのうちの一人が、どうもミミに懸想してくるらしい。ミミの話だ。「きっとボーイフレンドになりたがってるんだろう、つきあってあげればいいじゃないか」と、オレはからかい半分で、話を盛り立てると、「やめてよ、気持ち悪ぅい。相手はバクラでしょ」と、ミミは日に焼けた眉間に深く皺を寄せて抗議する。オレも調子に乗って「ミミを女じゃなくて、トンボイだと見てるんじゃないのか?」と畳みかける冗談を放ち、彼女の顔を覗き上げたりする。トンボイとはレスビアンの「男役」を努める女をいう。

ミミが放課後部屋に直帰したがるのは、きっとオレのことを気にかけてくれているのだろうと楽天的にうけとめている。エアコンの効いた部屋が、何よりも居心地がいいということもあるだろう。しかし、彼女に本音を語らせれば、きっと「昼ご飯を思う存分に食べたいから」と白状するのではあるまいか。だいぶ以前の話になるが、ミミが大学に入ったあと、オレが具体的にどのような生活支援をすればいいのか彼女の要望について話し合ったとき、彼女は実に生真面目な態度で、「日に三度、きちんと食事したい」と、歯切れのいい口調でオレに言ったのを鮮明に記憶している。

その後入学を果たして、ミミの行動を観察してみると、その言葉の重みが伝わってくる思いがする。大学生活という、環境の激変があるにもかかわらず、ミミはこれまで同様に炊事や洗濯に手抜きすることがなく、小さなからだをたえず動かして働きづめている。何もしないオレに文句を言うわけでもなく、かといって大学に行かせてもらっているからという計算や見返り意識の片鱗もない。気負いや卑屈さも毛頭なく、大学生活を口実に家事の力を加減するでもない。ただ黙々といつものように家事に精を出しているのである。

新たにやることが極端に増えて、一日の時間配分に制約が見え出してから、ミミはこれまで野放図に向き合っていた「食事」と「睡眠」に、執拗なこだわりを見せていることが鮮明になってきたのだ。大学に行けば、寝食も忘れて勉強するのではないか、少なくともそういうそぶりを援助者であるオレの前では装うのではないかと思っていた。そうではなかった。大学に行くことによって、彼女の生活上決して揺るがせない主柱というものが、にわかに浮き彫りになってきた。それが「三度の食事」と「十分な睡眠」だということを知ったのである。彼女のロジックで言えば、「よく食べてよく眠らないと、大学生活は続けられない」という。現象的に見れば、労働者の生活により近づいたとも見える。大学生活といういわば頭脳労働を、肉体労働のOSのうえで作動させているといっていい。

夜は必ずと言っていいほど9時前には就寝する。テストの前でもそうで、徹夜で試験に臨むという発想はまったくない。テストの前だからこそ早寝するといった気配である。それならばいったいどこで勉強しているのかといえば、大学から帰って昼食を済ませた直後や夜の家事の片づけが終わった直後などである。大好きな2時間程度の「午睡」はあいかわらず続いている。変わったことといえば、炊事、食事、家事、入浴、睡眠などの行動の谷間にできるちょっとした時間に、気がつくといつも教科書を読みふけっている姿が目立つようになったことだ。どうやら、ミミには「基盤生活」とでも呼んでいい磐石な生活モジュールが既にあり、大学生活はそれらのモジュールのすき間に配置されているようなのである。

オレがダバオにいる間のことに限る話だが、ホテルの部屋にはいまや自炊の設備が整っている。備え付けの冷蔵庫には、食材がたくさん詰まっている。米は絶やさずにストックしてある。ミミがこだわる「食事」というのは、実は「米の飯」という意味にほぼ近い。おかずは何かがあれば満足という、まさに長い貧困の暮らしで鋳抜かれた悲しいほど粗末な食事である。食事といえば多彩なおかずをまず念頭に考えるオレたちとは、まったく違う観念である。

体育のある木曜日、ミミは朝食の残りのご飯を弁当に詰めて学校に行く。それを近くのカンテーンに持ち込み、何か一品を注文して食べているようだ。その日の昼食を除けば、オレたちは三度三度の食事のすべてを一緒に囲んでいる。外食はまったくしないで、すべて自炊だ。平日もほぼ6時間ほど待っていると、判で押したように彼女は帰宅する。オレのためでもあり、自分の昼食のためでもあるはずだ。オレの渡比は、突き詰めれば、ミミと囲む質素なその食事を楽しみにして通っているといえなくもない。いつも夕飯だけは少し贅沢にと気負って、魚や肉を材料にする。二日か三日に一度は、一緒に買い物に出かける。ところが肉にしても魚にしても、二人所帯の質素な一品料理だから、一回の夕食の食材に二人分併せても100ペソを超えることはあまりない。これに慣れてしまうと、外食は恐ろしくてとてもできなくなる。その100ペソを外食に置き換えると途方もない金額になるからだ。現にオレたちは、長いこと外食をしたことがない。フルーツやミルクなども、絶やさず冷蔵してあるので、ミミにしてみれば、話の合わない年下の同級生たちと買い食いして遊ぶよりは、部屋にいたほうがずっと快適なのではないかと思う。「道草」をオレは勧めるのだけれど、当面その気配が見えない。

大学に進めば、少しはオレから意識が遠ざかるかと覚悟し期待もしていたのだが、実際にはそうはならなかった。この先も変わることはないと思っている。彼女が大学の学業に専念すれば、オレの渡比の回数も減って、お互いに落ち着いた付き合いになれるのではないかと予想していたのだが、これもあてがはずれ「カンバック・スーン」のせりふを彼女が棚上げにする気は毛頭ない構えである。もちろん、それは「ファイナンシャル・セキュリティ」の不安からそう言っているに違いないということはわかるが、どうもそれだけではない機微の深いひだを感じている。

食事と睡眠を主柱にしたミミの基盤生活は、どんな環境にあっても動じない堅牢なもので、景観としては野生的な匂いに満ち満ちているようだ。簡単な折りたたみ式の住居を背負ってオレと草原を渡り歩く、遊牧民の暮らしのイメージに近いのではないかと思うときがある。ミミが大学生活に入ったとはいえ、それは足元を揺るがすような特別な暮らしではなく、彼女の心の中では、草原の地平線のかなたに水を汲みに出かける程度の重みの出来事としてしか存在していないのではなかろうか。

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入学したての頃の通学風景。(2010年6月中旬)。この日ミミは体育(PE)の授業があるため、着替えて登校した。ふだんは私服で通っている。

2010年07月06日

ブーゲンビリア

bugenvillaブログを書こうとするとき、脳裏の片隅にいつも浮遊するシャボン玉に封じ込められたような光景がある。

オレたちが定宿にしているダバオのホテル「I」の室外は、天ざらしの廊下になっている。その通路の、部屋の壁面とは反対側に、古錆びた鉄パイプの手すりが設置されている。暮れなずむダバオの紅いに染まる空の下で、緑色に塗装された、一見古苔と見間違う鉄パイプに両ひじをかけて、思いのままに上体を揺らしながら、ミミは目睫に迫る「マルコポーロホテル」や「アテネオ大学」の方面に視線を遊ばせている。そのミミの華奢なからだを、オレは後ろ抱きにするかっこうで、そっと背後から腕を伸ばし、鉄パイプを軽く握りしめ、すっかり白くなった髭痕の浮いた顎を彼女の肩にのせるようにして、その横顔を斜めに見下ろしている....。

彼女は生まれながらの出不精で、他人から見られることにすこぶる神経質だという話は、以前もたびたびここで書いた記憶がある。そのうえ日差しが大嫌いで、そうして部屋の外に出て手すりにもたれながら無聊をかこつ姿をさらすのは、ほんとうに珍しいことだった。4、5月ごろのミンダナオは異常気象で渇水が続き、うんざりするほど頻繁に見舞われた「停電」で、一日のどこかで部屋のエアコンが使えなくなるようになってからというもの、さすがのミミも部屋から這い出して、廊下の手すりにもたれかかるようになった。オレは赤ん坊を自転車に乗せて漕ぐような格好で、たびたび背後から手すりを握り、彼女の横顔に視線を凝らしている。

アポ山の山並みに、まさに沈もうとする夕日を照り返して紅く染め上がる彼女の頬の稜線のかなたに、異様なほど長い微細なまつ毛が伸びている。スリガオ女性に特徴的ともいえる、巨きな眼窩と眼球に合わせて、自然が特別にデザインした、濃く細長い、天然の日覆いであろうか。単調なダバオのホテル住まいの、その何気ない暮れなずむ風景のただなかにふたりで溶け込む時間が気に入ったようで、ミミはすっかり心を開放して、しばし平和な時間を堪能しているようすだった。

「ブーゲンビリアだよ!」

と彼女は、振り向きもせず不意につぶやいた。背後にオレの視線を強く感じて、むずがゆくなったのだろう。背を向けたまま、しかし後頭部に隠されたもうひとつの眼球でもあるかのように、絶妙な間合いを読みきって、ぽつりと独り言のように声を発した。思わず我に帰って見ると、長いしなやかな枝にまるで蝶が群生したかのように、淡く可憐な赤紫色の花弁を一面に結んだ花が、鉄パイプの手すりに絡み合ってオレたちの目の前に伸びいでて、時にはじゃれるように、時にはひやかすように、夕まぐれの風にそよいでいた。

「花博士」。そう呼んでもいいほど、ミミは草花に詳しかった。こちらがあえて訊きもしないのに、自分から花の名前を口に出すのはよほど気分がいいからに違いない。よくよく見ると、ブーゲンビリアは不思議な花だとオレは思った。指先に乗るほどに可憐な三つの花びらが、互いにからだをすり寄せるように触れているだけであやうく結花している。花一輪は可憐だが、枝一面に結んだ花は圧倒されるほどに艶やかだ。粗忽な蝶なら、仲間だと思い込んで羽を休めて気づかずに去っていくかもしれない。しかしよく見ると、しなやかで長く伸びた枝の葉裏には、随所に鋭いとげがひそんでいる。薔薇の仲間だろうか。無粋なオレは、ミミに言われるまで、そんな艶やかな花が、ホテルの部屋の外に咲いていることにさえ気づかずに暮らしていた。

5月に、「選挙」の投票を口実に、一年半ぶりに帰省したミミは、少し口数が減って妙に落ち着きを増してダバオに帰ってきた。それまで、大学進学については、うれしさを抑えきれずにはしゃいでいたミミだったというのに、実家から戻ってからは、気味が悪いほど「大学」のことを口にしなくなっていた。

頃合いを見はからって親兄弟に進学の話を切り出したものの、皆はただ笑うだけで、誰も真に受けてはくれなかったとミミは寂しそうに報告した。帰省したての頃は確かにそうだったらしいが、いよいよダバオに帰る日が目前に迫った頃には、誰もがひとこと言いたくてうずうずしていたのだろう。抑えていた本音が噴き出たのか、父親や兄たちから「進学は思い直せ」としきりに説得されたという。「4年間どうやって食べていくつもりだ、続けられるはずがない」という話に始まって、「将来の幸せを思うのなら、もうそろそろ世間並みに結婚をして子供を育てるべきではないか」とさんざん言いこめられてダバオに帰ってきたようだった。

貧しさのどん底から這い上がるために、身を切る思いで未来を切り拓こうというミミの話だったはずだが、だれひとりその希望を共に分かち合い、押し広げるために手を貸そうとする家族はいなかったようだった。ハイスクールを卒業するか中退して、16か17で簡単に男と同棲し、次々に子供を生しながら、腰までどっぷりと貧困に浸かって人生を引きずるように惰性で生きていく.....。その希望の見えない「世間」に倣えと助言する家族に、ミミは絶望を感じ、言葉を失ってダバオに引き上げてきたようだった。

「大学に行く」という揺るがせない決意は真実だった。しかし、家族に向けたミミの話には多くの嘘がこめられていたはずだ。もちろん悪意は毛頭ないのだが、ミミは最後までその嘘をつき通してきたようだった。誰の世話にもならず、自力で進学する、いわゆる「ワーキング・スチューデント」として大学に行くのだという、前もって周到に用意していた作り話を押し通してきたのだ。昼は働き、夜間や週末に学校に通うという計画だが、その暮らしぶりを説明すればするほど、家族は不安に駆り立てられたようだ。いまでさえ食べていくのが困難なのに、学生として「どうやって食べていくつもりか」という心配が、彼らの「反対」の理由だった。

ミミの苦肉の作り話は、もうひとつの嘘からおのずとつむぎだされている。つまり「オレとは別れた」という話になっているのである。それを前提とすれば、必然的に「ワーキング・スチューデント」という、窮屈な立場に身を置くしかなくなるのである。だから、聞かされる家族は「無謀な計画」だと思い込んでしまう。ミミが固い決心で家族に語るのは、もちろん背後でオレが面倒を見る約束をすでにしているからこそだ。もしそのことを正直に打ち明けてしまえば、反対している家族も賛成にまわり、激励や祝福の言葉を添えてミミをダバオに見送ってくれたはずである。

ところが、一ヶ月間家族と心を通わせたあげく、ミミは自分の判断で、家族に嘘を貫く決心をして帰ってきたのである。オレと相変わらず付き合っていて、学費や生活費の面倒をみてもらうことになっているとわかれば、家族はまた金の無心をミミに始める可能性がじゅうぶんありうることを察知したのに違いない。当面は自分を、とどのつまりはオレを家族から守るためには、頼る相手がもう存在しないのだということを明言し、「嘘」を貫くしか道がないと判断したのだろう。既に「前科」といえる事件が過去にたびたび起こっただけに、家族の問題に再びオレを巻き込んで、その結果自分の将来までも破滅させるわけにはいかないとミミは判断したのに違いない。

ミミは、ただ気立てのよい優しいだけの女ではなくなった気がする。3年半も一緒に過ごしてきて、このところ時として彼女の言動の中に、からだを張ってオレを守ろうとする「侠気」に似た気概を強く感じる瞬間がある。「侠」とは、平たく言えば「この人のためなら命を投げ打ってもいい」と感じるこころのありようだとオレは思い続けている。言ってみればオレの半生はその「侠気」を物差しにして生きてきた。侠の背骨が一本まっすぐにそなわった生きざまに出会うために、出会いと別れを繰り返してきたと言えなくもない。

郷里からダバオに帰ったミミは、家族から進学を反対され少し傷ついていた。未来を切り開くうえで、家族が無力であることを知って、嘘をつき通す決意も固めねばならなくなった。そうしたことどもが心の重石になってしまうのか、オレの前でさえも大学のことを気軽に話題にすることがなくなった。彼女の「不眠症」の癖も、再発したようだ。

正直言えば、このオレにも彼女の大学進学には迷いがないわけではない。深夜まんじりともせず、部屋の窓のブラインドから洩れ込む青白い光に浮かんだミミの寝顔を、ただじっと見つめながら物思いにふけることが多くなった。山あり谷ありの、険しいこの三年半の道程だった気がする。いくつもの困難な峠を越えてきたという実感がある。大学進学となれば、この先それ以上の長い時間(4年間)を共に過ごし、彼女の生活を支えて、卒業という目標地点に着地させなければならない。それを思うと、気が遠くなる。その来し方行く末を考え出すと、彼女の寝顔が心に重苦しくのしかかって、夜もなかなか寝就けないのだ。

まぶたを無理に閉じれば、すぐにまたミミの将来に思いが至りはっと目が覚める。オレが目を覚ましたとわかると、ミミのほうはあわててまぶたを閉じ、眠ったふりをする。彼女もきっと同じ思いに胸ふさがれて寝つかれず、こちらが目をつむったのを見計らって、すでに老醜の浮き出したオレの顔をじっと見つめては、同じようにもの思いに耽っているようである。

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Lolipop893
数々の病気を親友とし余命を楽しむ境地で生きながらえている。フィリピンの片田舎で質素に暮らすことに憧れ、ふさわしい土地に出会えばそこで静かに骨をうずめようと考えている。市場を散策したり近くの海に釣りに行ったり、フィリピン料理を楽しんだりしている。
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