c178bcf9.jpgオレたちは昨日久しぶりに「ウィゴールズ」で夕食を食べた。そのときミミは「これが一緒に食べる最後のディナーになるかもしれないね」と、意味深長なことばをポツリとつぶやいた。そして「テーク・ケア・オールウェイズね」と、力ない笑顔を浮かべながら寂しそうに言った。オレはミミが何を言おうとしているのかがよくわかった。オレはミミのつぶやきとも取れるその言葉には直接何も返さず、ただ黙って聞いていた。

ミミもオレもサン・フランスを引き揚げてから、これからの生活のイメージを絶えず模索してきたことはいうまでもない。しかし、アパートを引き揚げる前後の二度のカミギン島への訪問で、互いの意識の中に眠っているものが顕在化し、オレたちはひょっとしてふたり別々な道を歩み始めているのかもしれないと感じるようになっていた。それは短絡的に「別れ」を意味するのではなかったが、ミミがしきりにこだわってきた物理的に傍にいる「一緒の関係」ではなく、時間的にも空間的にもかりに離れていても一緒にいるという信頼関係への、発展的移行と言うべきものだった。

カミギン島でオレは多くの知人や友人を作り、島の自然がもたらす底知れぬ魅力や霊気に心が癒されていった。その一方で、元々海辺で暮らしてきた22歳の未来を夢見る娘のミミには、「オレ流」に島で暮らすことの楽しさや喜びを見いだすことはなかなか困難なように思えた。ミミにはカミギンでの二度の体験が「退屈」で「浪費的」だと感じたようだった。カミギン島では外国人の姿を多数見かける。島の外から、ガールフレンドを連れて遊びで短期間訪れる連中がいる傍らで、島にのめりこんでいく外国人の多くは、現地の素朴な若い女性に惹かれ親しくなった人々だ。島の男も女も、外国人との出会いに強く憧れている。そういう中で、オレがこの島にしばらく住もうとすればするほど、「無国籍人」のようにミミの立場が浮いたものになり存在感が希薄になっていく。現に、あっという間に知人や友人ができたオレとは裏腹に、人見知りの強いミミは相変わらず新しい人間関係に興味を示さず、困窮する家族を心の片隅で気遣いながら、視界いっぱいに真正面からオレと向き合おうとした。そのひたむきな分だけどこか孤独で、オレにかまってもらえない状況になると、ひとりで退屈を紛らわすことができず、こちらの注意を引くために、幼児のような聞き分けのない言動をわざとすることもあった。

ミミは田舎の貧しい家庭の娘で、人並みに「チスミス(噂話)」にはついていけるが、その一方でまったく「社交性」に乏しい女だった。オレと二人きりでいるときにはすっかり心を開放しているため、ひょうきんで冗談を言いふざけが過ぎるところがあったが、一歩外に出るとひとから蔑まれまいとして極端に身構えてしまう性癖があった。他人の視線に過剰に反応する癖もあった。かつてサン・フランスで大家の奥さんにたびたび招かれたとき、「招かれたのはイカウで、アコには興味がないはず」と決めつける卑屈さも目立ち、見知らぬ人々が大勢で集まり外交辞令を交えて歓談する場などではまったく言葉を失ってしまうことがしばしばだった。

ミミは最近ひとりで考え込むことも多くなった。その日食べる食物にも不自由している実家の家族のことが気になっているようだった。どこまでもオレの後を付いてくるという意思を明確にしてはいる。その言葉通り、フィリピンの各地を旅して歩き、飛行機にもバスにも思いついたように飛び乗るオレの後にしたがってはきた。それはそれでミミにとっては得がたい経験だったはずである。しかし、日が落ちる頃になると、腹をすかしている家族に、100ペソの仕送りもできない自分に罪の意識を感じている気配も見え隠れしていた。各地を転々としていくら見聞を広めようとも、その日のメシにありつけるかどうかに苦しむ極貧の家族を背負っているミミには、カミギン島の暮らしはどうかと尋ねられても気もそぞろな反応しか返ってこないのは当たり前かもしれない。

オレは今回渡比する直前に、検査でPSA(癌腫瘍マーカー)の数値が気になるレベルに上がっていることを知った。「2ヵ月後の検査までようすを見てそれから判断しましょう」と、医師は言った。今回帰国すると、すぐ次の検査が待っている。病状の悪化が予想されるということも、やんわりとミミには打ち明けている。ミミはオレの次の渡比が、病院の検査次第ではかなり遅れるのではないかと危惧している。前回1ヶ月強オレを待つのでも「消耗状態」になっていた。これが数ヶ月となれば、心を切り替えなければ持たないと覚悟しているようだった。

それらもろもろの不安がない交ぜになり、ミミをして昨夜「これが最後の晩餐になるかもしれない」と言わせたのだろうと思っている。フィリピンにいて、オレはいつも終の棲家を訪ねる思いで歩きまわっている。当初はミミも、それをよく理解して地獄の底まで「カサマ(一緒)」と言っていたのだが、家族の貧窮が深刻になるにつれ、焼け石に水とはいいながら、何とか今できることをしてやらなければならないという意識に変わってきているのだった。深いディレンマの中で、ミミはマニラで働いて、月に500ペソでも仕送りしたいと考え始めている。そのために、オレに会う機会が少なくなっても仕方がないと、自分自身を説得しだしているようすだった。

この状況は複雑な問題をはらんでいる。フィリピーナと長く付き合った経験のある読者諸兄にとっては、歯がゆい思いがあるかもしれない。要するにオレがミミの家族の米代ぐらいは仕送りしてやれば解決する話じゃないかと、単純な議論が出てきてもおかしくはないからである。しかし、それは気前がいいかけちかという対立問題などではない。そうしたからといって、問題の「解決策」にならないことはわかっている。そもそも、マニラに大勢働いている子供たちがいるというのに、そうする義務と責任がオレにはあるのだろうか。オレは、そんな責務は「ない」のだと、頑なに信じている。ミミとオレとの間で、「仕送り」という言葉はタブーになっている。それは即座に「別離」を意味するからで、ミミが最も恐れている言葉である。

これまで、ミミにはできる限りのことをしてきた。オレについてくる限り、彼女を食べされる責務があると考えていたからだ。そして、オレは毎朝夕、食べたいものを一緒に相談しあって、おいしいものにこだわりながら好きなだけ食べてきた。もちろん米のご飯を欠かすことはなかった。しかし、そのミミの家族となると話は別で、冷酷なようだがオレとはとりあえず無縁であると思っている。これは、過去の経験からもたらされた慎重な判断で、ただ闇雲に心を鬼にしているわけではない。

オレはミミに日ごろから言ってきた。ミミの家族が貧乏なことはよくわかっている。しかし、娘を訪ねてくるとき、かつてミミが好物だったものを何か食べさせてやりたいと思う親心というものがないのだろうかと。いくら貧乏でも、畑で取れたカモテのひとつやふたつ、海から獲れた「アバロン・シェル(鮑)」の一杯や二杯、「スカロップ(ホタテ)」の一杯や二杯を、娘に食べさせてやりたいと思う慈しみの気持ちはないものかと。ミミにいえば「とてもそんなことは期待できない」と、貧乏を弁護する。貧乏で分け与えるものが何もないというのなら、食べ物である必要はない。来る道すがら咲いている野生の花々を摘んで束ねて持ってきてもいいだろう。木の実でもいい。なにか娘を喜ばせ幸せにしようとする心がないものか。いつも手ぶらで来ては鍋釜のふたを開けて冷や飯があれば座り込んで手づかみで食べていく.....。施しを期待するばかりでは、永遠に「貧乏」から脱却することはできないはずだと。海や山の幸は、もともと神様から授かったものだ。金を払って手に入れたものではない。その授かり物を、少しでも「人に与え」人と「分かち合おう」という意識が働かない限り、豊かになるエネルギーは湧いてこないものだ。いつも人を頼り、他人からもらうことばかりに腐心しているかぎり、豊かになる可能性は生まれてこない。貧乏でも人に与えようという意識が働けば、それが豊かさや余裕を生み、貧乏から這い上がる原動力になるのだと。オレはことあるごとにミミにそういい、家族の貧乏は貧乏に安住している罪の表れでもあるのだと批判してきた。「与えよ、しからば与えられん」とキリストも言っているではないか。敬虔なクリスチャン一家だというが、何のための信仰なのだ、ただ窮乏と空腹に耐えるだけの信仰ならばまったく意味がない....。ときには、厳しく言い放ってミミの涙を誘ったこともあった。言い過ぎたきらいがないでもないが、過去に家族のために何をしても焼け石に水だった根本的な原因が、このような「貧乏以外の世界を知らない」人々が「貧乏にただ安住している」意識にあることを自覚させたかったのである。

希望が見える貧しさかどうか、それは家の内外の清潔さや清掃が行き届いているかどうかで見分けることができる。貧乏がある極限を越えると、物を大事にするという心まで失ってしまうことがある。家の周りがゴミ捨て場のようになっていく。脱いだサンダルやスリッパが散乱し、その上を泥のついた裸足が踏みつけていき、履物の傷みを早める。普段着にぼろ布のようなものを着て過ごしているため、昼に着ていた洋服のまま寝る習慣が大人になっても身についてしまう。Tシャツなどの前襟をハンカチ代わりにして口元をぬぐう癖も、ぼろ衣だからできてしまった悪習で、その癖は新調の服を着てもなかなか抜けきれない。いつのまにか洋服の前襟の部分が緩く伸びきってしまう。化学品への無知から、衣類や手の皮膚を傷めてしまうこともたびたびである。こうなると、貧乏だからこそ更なる貧乏が生まれてしまう。物を大切にするこころがあるかどうか、それが貧乏の先に希望が見えるかどうかの大きな指標となる。

言うように、ミミがマニラで働きに出るかどうかはまだわからない。スリガオ女性特有の大きな目とまぶしい笑顔が取柄だとはいえ、したたかな競争を勝ち抜いて職にありつけるたくましさがあるとは思えない。子供っぽさや背の低さも採用時には大きなハンディキャップになる。自分はマニラで働きながら、オレがひとりでカミギン島に行くことを拱手傍観しているとも思えない。頭で計画しているようには行かないだろう。結局どんなに長引いても、オレを待っているような気がする。かりに待っていても、働きに出ても、月々ミミが食べて、時どきインターネットカフェに通えるだけの小遣いは置いて帰るつもりである。

朝食のあと、ミミはひとりでモンティーリャ通り(Montilla Boulvard)のサロンに行った。マニラに行くとき、少しでも都会の空気に合った「髪形」をしておきたいと思っている風だった。色黒になり、髪もぼさぼさではかわいそうだと思った。500ペソを持たせ、枝毛のカットからシャンプー、トリートメント、アイロンまで全部込み込みで400ペソで納めるといって張り切って出かけて行った。ブトアンでもサン・フランスでも、過去に何度も苦い経験をしたのだが、オレが一緒についていくと外国人のスポンサー付きだと読まれて高くついてしまう。ふだんどこに行くにも「一緒」にこだわるミミだったが、このサロンだけは初めからひとりで行くと言い張った。ところが、どこのサロンに飛び込んだのかは知らないが、カットとシャンプー、トリートメントを終えたところで突然「停電」になってしまったと、緊急のテックスがミミから入ってきた。しばらく電気の回復を待っていたが、埒が明かないといっていったん部屋に戻ってきてしまった。あとはアイロンとブローだけが残っているという。電気が回復したらサロンから連絡が入ることになっているとのこと。金はまだ払っていないそうだ。それにしても、一事が万事こうである。この国では、一日に一度はあっと驚くようなハプニングがあり、胃を焦がす思いに襲われる。明日オレたちはマニラに移動する。

画像:水田の田植えの風景[マンバハオ、カミギン島]