(※「LOTUS」第31号、第32号、第34号に掲載)

〈1〉
 もし、自分の身を悪魔に売り渡すことによって、良い作品が書けるという約束を取り付けることが出来るなら、私は喜んで実行するだろうと思っているほどだから、あるいは自分よりも俳句を愛していると言えるかも知れない。
 
 数寄な運命に導かれながら、俳句に生涯を捧げた女流俳人、中村苑子の言葉である。中村苑子の第一句集『水妖詞館』は、二十五年間の作品から一三九句を厳選した句集である。この句集によって苑子は、生死を往還する女流俳人と名付けられた。その後、四冊の句集が刊行されているが、どの句集にも『水妖詞館』の再現、或いは痕跡と思われる句々が精彩を放っている。初期の作品には、原型と思しきものも見られる。『水妖詞館』は、苑子の六十年余りの句業を包括している句集と言っても過言ではない。そこから発せられる光源に、苑子は自我を継承しようと踠き続けたのである。
        
〈2〉
 最終句集『花隠れ』は、「初期句篇」(昭和十七年─十九年の習作時代、昭和二十四年─三十二年の「春燈」時代)と「花隠れ」(『吟遊』以降の平成五年─八年)の二部構成である。大岡信は跋文にて「一つの共通項でつながれている」「すなわち、これらの作品が作られていた時代は、まさに高柳重信がそこにいなかった時代にほかならない」と語る。
 昭和三十三年、高柳重信の要請により苑子は、八年間在籍の「春燈」を辞し、自宅を発行所にして重信、同人らと「俳句評論」を創刊した(「春燈」の師、安住敦の言葉「新雑誌に鷹女が入るのなら君のために賛成する」が決め手になった)。五十八年に重信が急逝するまで、二人は四半世紀に渡り、公私を共にしている。大岡信は更に、「最もナイーヴに中村苑子であったという意味で興味深い時代」と述べている。重信の詩的影響が直接ない時代という意味であろう。しかし、「ナイーヴ」の語が「生まれた時のまま」「感じやすい様」と捉えるなら、『水妖詞館』の時代こそ、生と死にこだわり続けた苑子生来の「ナイーヴ」な心髄が、濃厚に表現されているのではないだろうか。
   
 いわゆる人間の言葉を、まだ一つも知らなかったころ、暗闇の中で理由のない恐怖におびえながら、ただ必死に泣き声をあげていた嬰児時代の、しんそこ切ない真実を忘れてしまって(中略)急速に眠りこけ、さびついていったのかも知れない。僕にとっての俳句形式は、その昏睡から時おり、覚めるための気付け薬であった。

と語る重信に共鳴した苑子の覚醒の軌跡『水妖詞館』は、「俳句評論社」発行、発行人は重信である。苑子は生前私的な場で、自身の句集の中で『水妖詞館』を一番に挙げている。最も納得のいく作品集を編む為に、「俳句評論」の精鋭達と切磋琢磨し、自身の詩を希求したのである。
 苑子は、大正二年静岡県伊豆(母の実家)に生まれ十一歳まで東京に住み、父の没後十七歳まで伊豆に過ごした。少女時代から読書に親しみ小説家を目指し、母親に反対されて家出までした。漸く東京の女子大へ入学したが、肺浸潤を病み学業を断念し、療養生活を余儀なくされた。回復後、佐渡出身の新聞記者と結婚する。文芸誌を発行したり文学者らと交友するも、林芙美子に「あなたはひ弱そうだから文学をやるなら短いものにしなさい」と言われて挫折感を味わう。昭和十九年、戦死した夫の遺品の句帖を切っ掛けに俳句を書き始めた。三橋鷹女の作品は、昭和十一年書店で知り、十五年『向日葵』を購入している。二十年、藤沢に疎開中、川端康成、久米正雄、高見順、中山義秀らが設立、運営した戦時下の貸本屋「鎌倉文庫」の事務を手伝う。二十二年、「鶴」の石橋秀野選に三回入選し、「馬酔木」「青玄」等へも投句するが、二十四年「春燈」に入会し、三十一年、重信との交流が始まる。五十八年、重信の急逝後「俳句評論」を廃刊し、俳句教室の講師等を務めながら単独活動をする。平成九年、生前葬「花隠れの会」にて俳句発表の辞を表明し、十三年一月永眠した。
 主な句集に『水妖詞館』(昭和五十年)、『花狩』(昭和五十一年)、「四季物語」(『中村苑子句集』所収・昭和五十四年)、『吟遊』(平成五年)、『花隠れ』(平成八年)、(津田清子との共著句集『非時の花』は、ほとんどの作品が『吟遊』所収句の為、本稿では割愛する)、三冊の随筆集の他、重信関連の本も二冊刊行している。
 俳句作品と随筆文を引きながら、『水妖詞館』から展かれた苑子の詩を繙いていきたい。『水妖詞館』は、死を予感し自ら編集した第一句集であるが、その傍らに重信が存在していたことの重さは計り知れない。
 重信は、苑子の十歳年下(大正十二年生まれ)であるが、少年時代(十三歳)から父の影響で俳句を始め、数々の俳誌を創刊した。十九歳からの宿痾、胸部疾患の為六十歳で没したが、多行形式俳句の先駆者であり、作品のみならず卓抜な評論、随筆で詩としての俳句の水準を高め、現代俳句に稀有な足跡を残している。「俳句を選択した動機の」「無意識に似た敗北主義こそ」「俳句の性格を決定する重要な要素であり、そこから無意識に引き出される虚無主義の妖花こそ、今後の俳句の当然の課題」と語る重信。「いつも架空と現実の交錯する地点に、冷たく燃えながら「敗北の詩」の廃墟を遠望し、韜晦的に生きていた彼」と形容する苑子。少女時代から貪り読んだ小説や詩歌が源泉となって、俳句へ邁進する苑子が、重信の詩の資質を見極め己れを高める為に巡り逢ったのは必然である。「重信との因縁は」「同種の昏い血が、先天的に混じっていたからだ」とも記している。鷹女の句に出逢った必然も含め、詩神は精神に同種の芸術を宿す者達の緒を結び付けるものなのである。
  
  目醒ざ
  がちなる
  わが盡忠は
  俳句かな              重信   
  
  俳句とは業余のすさび木の葉髪    苑子   
 
 俳句の渦の中で半生を共にした二人の俳句観に違いはあったのだろうか。「業余」は、本業を果たした余力、「すさび」は気慰みの技、「遊(すさ)び」である。様々な心身の痛みを抱え、死に直面した時も、その来し方に「すさび」が無くては息絶えてしまったであろう苑子の「すさび」が、重信の「盡忠」であった。

〈3〉
 「人間は美ともっぱら遊ぶべきであり、また美とだけ遊ぶべきである」とドイツの作家シラーは言った。
  
  翁かの桃の遊びをせむと言ふ    『水妖詞館』

 桃は中国では古代より霊妙があると言われ、日本神話のイザナキも追手に桃の実を投じて危機を免れた。その桃の魔力を授かった苑子は、読み手を変幻自在にエロスの神秘へと誘う。「遊びをせむとや生れけむ、戯れせむとや生れけん」と唄いながら。「翁という語」の「開放的な大きさはどのような意味にも動いてゆける「桃の遊び」ということばとの対応によって、生まれたもの」と述べる歌人馬場あき子の弁を借りるなら、「桃の遊び」は、芭蕉や数多の文学者「翁」との豊饒な詩の遊びであるとも言えよう(「翁」は仏を連想させるもの、と苑子は言った)。幻想の昇華は、苑子生来の生と死の甘美な融合である。
  
  海の中にも都の在るや桃洗ふ    『水妖詞館』
 
 竜宮城の如き安寧が感受されるが、陸地での桃の遊びの終りを然りげなく匂わせる「桃」への愛惜は、黄泉へと繋がる水の異界の意味を匿し持つ。妖艶に哀歓をもって詠われる「桃」は、翁や乙姫の棲む遥かなる世に漂う時、照り輝くのである。『花狩』から「桃」は瑞々しさを失う。『花狩』は、『水妖詞館』に洩れた句を重信が編集した第二句集である。〈桃の実の真昼はじらふ賑はいあり 『花狩』〉の現実的で安易な桃への愛撫を、苑子は自選から落した。〈桃のごと点りしランプ夕涼し 『花隠れ』〉は、桃への回想であり、〈桃色の拳こぶしをほどく死後の春 『花隠れ』〉は、翁との邂逅を夢見ている。こうした句に見られるように、桃の豊潤は『水妖詞館』のみに許されたのであった。
〈冬牡丹朝な夕なに翁来て 『吟遊』〉の翁も桃の遊びは誘わない。「遊び」は、美しくもストイックなのだろうか。
  
  野遊びの隠れ木なれば伐るなかれ  「四季物語」  
  野遊びの傷舐めて血の甘かりし   『吟遊』
  山椒の芽食べてかぐろき遊びする  『花隠れ』
 
 「野遊び」の木霊との密着、自虐を伴う血は、桃の実の甘さを思い出させてくれる。最晩年、萌え出る三月(苑子の誕生月)の「かぐろき遊び」は、今生の礼賛よりも来世からの客人(まれびと)との秘密めいた交流を楽しんでいるのか。どの遊びも擬(もど)きであると知りつつも、「遊び」は、仄暗い地の妖しさを醸す。
  
桃の世の洞窟(ほこら)を出でて水奔る    『水妖詞館』
 
 「桃の世」それは、『詩経』の祝頌歌「桃夭」にも詠われた桃花咲き満ちる桃源郷である。女はその幸福感に迸る。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女」大伴家持の祝福を受けて、神明に開かれた岩戸の外へ誘われた女は、ひたすらに日輪の陽を浴びる。
  
  桃のなか別の昔が夕焼けて      『花狩』
  桃の昼さび声あげて車井戸      『吟遊』
  若き僧の和讃なまめく桃の花     『花隠れ』
 
 現状の逃避か、回想か、黄昏の女の哀切を桃灯りは優し包むが、白昼の桃花から聞こえるのは女の悲愴な呻きの如き「さび声」。桃花の歳月は陰陽を重ねた末、現世を離れる齢の女に、若き日の艶めきを懐旧させる。魔除け、長寿を願う、雛祭の花との深奥な縁を苑子が物語る。
   
 竹の声桃の花が自分のなかにあると思ふようになったのは、いつのころからであろうか。今はもう、竹の声は聞こえるだけでなく、桃の花が聞こえたりもする。(川端康成「竹の声桃の声」)
 
 川端康成は自然と一つである自己の到達を自覚した一年後自死した。若き日、この文豪の気骨を垣間見ることのできた苑子も桃の花の声を聞いて彼の世へ参じたのである。
 第一句集に『水妖詞館』と命名した苑子には、「水」に関連した秀句が多いのは周知のことである。
   
〈汐木積み水の匂ひのもの焚ける〉他のものでなく、「水」がなんともいいと思う。

と『水妖詞館』の序文にて高屋窓秋も水の句への賛辞を呈している。『水妖詞館』を刊行する決意をした時、「自分とは何か」「人間とは何か」と思いつめ「人間とは水だ」と答えを出した。「人間とは水によって形を成し、水の力によってこの世に生まれ出て、やがて水に戻って土に還ってゆくという生の輪廻」に眩惑し、潮の干満と人間の生死の時刻の神秘や、血も水であることに「人間とはなんと玄妙な生き物か」と無常感に至り、「原始は水」であることの愛しさも思われたと言う。
  
  鈴が鳴るいつも日暮れの水の中   『水妖詞館』 
  地の春に水の絶景はじまりぬ    『花狩』
  金魚売り己れの影へ水零す     『吟遊』
  生前も死後も泉へ水飲みに     『花隠れ』
 
 水中に奏でられる「鈴」の音も、自身の生誕の季節でもある春の訪れも、苑子の原始を呼び覚ます。炎天を歩き続ける「金魚売り」に、俳句を書き続けなければならない自分を重ねる。「水」を吸い込んでは渇くことを繰り返す「影」を、生身よりもこの世の証として際立たせることは苑子俳句の特長の一つでもある。〈縄とびの縄に搏たるる己が影 『吟遊』〉など「影」を用いた句は全句集で二十句以上にも及ぶ。『花隠れ』の句は、「人間とは水だ」と念じ続け、二十年を経ても変わらぬ輪廻への悟りである。この句には自負があったと思われる。死後刊行された随筆集『俳句礼賛』の「入院目録─聖路加国際病院にて」(平成十二年十二月「俳句研究」初出)の「九月二十一日」の文中にて〈膝抱いて影と居るなり十三夜『花隠れ』〉との二句を「『水妖詞館』後に残る句」と自ら記している。〈一椀の水の月日を野に還す 『水妖詞館』〉は「水」への感謝、〈睡蓮や聞き覚えある水の詩語 『吟遊』〉は水との深い縁を語るなど、水の句は枚挙に遑がない。水の恩恵と玄妙さは、苑子の詩精神を潤わせ、血潮を滾らせ、俳句の骨肉の形成へと導いたのである。
  
  前生の桔梗の朝に立ち昏らむ     『水妖詞館』
  一度死ぬ再び桔梗となるために    『花狩』
  寝苦しき鬼が踏みしか折れ桔梗    「四季物語」
  桔梗さはに咲かせたり仏母たり得ずに 『吟遊』
  身を離れ影が佇ずむ白桔梗      『花隠れ』
 
 年代順に列挙したこれらの句々を読み通せば、赤裸々な心情や姿態に、苑子の今生の物語を想像することも可能である。初秋の朝露をのせた桔梗は、可憐にして凛然な立姿である。五裂の花片は血脈に似た模様を透かし、古風な艶と勁さを併せ持つ。桔梗色の和服を好み、自らを桔梗と名告った苑子を、「平安朝の女人」になぞらえ、「個性的非個性」の人格の「肝のすわった人」と大岡信は評した。
 「ただその大地の水が真桔梗の青い色でございます」(泉鏡花「眉かくしの霊」)池の辺りには真白い桔梗が咲くという。その館の主、剃った眉の跡の薄青い女人は「前生」の苑子を思わせる。夏目漱石は〈仏性は白き桔梗にこそあらめ〉と詠んだが、「仏母たり得ずに」脇目も振らず俳句の花を咲かせることに苑子は勤しんだ。咲き満ちては折れ、蕾を膨らませては開き、再生を繰り返すが最晩年咲かせる白い花は己ではない。同句集には〈我よりも我と思へり山桔梗〉も置く。魂魄は「桔梗」を離れ中天を彷徨しつつ昇天へと向かう。
  
  東西南北いづこも濡れる濡れ桔梗     鷹女
  雨風の桔梗ゆかねば悔のこる        〃
 
鷹女の遺作(「遺作二十三章」から)も、もう励みとはならなかったのである。
 
苑子は、桜にも憑かれた。
  
  鳥も傀儡も花一舟の訣れかな    『水妖詞館』
 
 掲句も馬場あき子の歌心を刺激した。「累積するたての時間の重さと血の重苦しさにめまう」が「自らの存立を」問わずに「ほの暗い意識の奥拠をもう一度たしかめようとする姿勢」を「生きてきた時間への自恃が、一つの総括を求めて」いると評する。桜という絢爛さと潔さの象徴との随に埋もれていく、より儚いものへの哀愁は女流作家が追随しなければならない景色であろう。それは古の景であろうとも〈木の国の女の部屋の霜格子 『水妖詞館』〉も抱える女の存在認識の一つである。語ることのない歴史の中の女達を再確認することは現在でも決して無駄にはならない。
  
  忘れめや花の怨みの埋れ木を  「四季物語」
 
 短歌の世界を俳句で試みたという「四季物語」の〔吉野花讃〕十五句は、吉野山に今生を観た苑子の心の有様である。十五句目〈天が下に花こそ結べ夢は成らずも〉は、諦念感に縁取られた古からの女の希いの詩である。

  影と往き影のみ帰る花の崖      『吟遊』
  落花舞ふ渓の無明や水明り      『花隠れ』
 
 苑子の桜花の句は、一貫して影を持つ。朝桜、花の昼、花灯りの下に佇む俏した女の影は、はらはらと舞う薄い花弁が重なるばかりである。苑子は桜を「天地に融合する永遠の曼荼羅へ人を導く、仏陀のような聖なる樹」と呼んだ。最終句集に『花隠れ』と名付け、西行研究へと向かう旅を始めたのだが、現世には桜の哀切な俳句だけを残した。
  
  言霊も花も絶えたる木を愛す     『花狩』
 
 桜を愛した苑子が、掲句を『水妖詞館』に収めなかったことが疑問であったが、鷹女の晩年についての論を読み返す内に私なりの見解に至った。「溢れるように言葉が湧き出た若き日とあまりにも相違してくる、言葉の操作に対する力不足の自覚」を指摘し、「わが身に引き寄せてものを言っているようだが」「もはや長年かかって修練してきた言葉の技術だけに頼って作品を書かねばならなくなった」と、七十四歳で語っている。日々感性が衰弱していく自分をも含めた芸術家の姿は、苑子には居た堪れなかったのだ。その枯れた老熟の果ての「木を愛す」とは言っても、『水妖詞館』からこの句は外されたのである。
 しかし、最晩年の苑子は掲句を愛した。『水妖詞館』から二十二年後(八十四歳)、「花隠れの会」まで催した俳句への惜別の決意は、遠く遥かに消えた「言霊」を呼び戻そうと踠く己の姿の見苦しさを痛感した答えである。それは「言霊も花も絶えたる」自らを愛していたからではないだろうか。
 樹齢千年以上もの花を咲かせる名代の桜を見て廻り、それらを「鬼気迫る」「異様な姿」と怖がり、「珍しいばかりで美しくなかった」と語った。若木の根接ぎや、分離、錯綜、癒着を繰り返しながら、人々の尽力に支えられる老桜の姿に自分はこう在りたくはないと恐れたのであろう。平成九年、或る新聞で連載中の随筆に生前葬「花隠れの会」について記した最後に掲句を置いている。四半世紀も前に書いた句に自然に老いゆく在るがままの己の姿を見たのであろう。〈還らざる多感なる日や水鶏笛『花隠れ』〉は、懐旧の念の独白である。十二年(没前年)飯島晴子の自死を「無念である」「先(せん)を越された」と言ったその後に「私は自死はしない」と呟いた。
 
 桜だけでなく、木を愛した苑子の生まれ育った時代は、日常生活に木が溢れ、自然の樹々に感性が研ぎ澄まされ、詩性は育まれた。枯木、流木、臼、木遣り唄、木の国と様々な容で苑子俳句に登場する。
  
  木の梢に父きて怺へ怺へし春    『水妖詞館』
  わが墓を止り木とせよ春の鳥    「四季物語」
  よるべなき木霊の憩ふ青木立    『花隠れ』
 
共に怺えてくれた父からの安慰を受け継ぎ「止り木」となり、静かな抱擁を与えようと思惟する。耐えてきた身の悲しみと安らぎを「木霊」は知っているが、老年の気怠さは、よすがもない。
  
如月も尽きたる富士の疲れかな    『水妖詞館』
  雪の富士さらに遠くに俳句富士    『吟遊』
  雪の墓碑富士逆光の訣れかな     『花隠れ』
 
 富士山も心の尺度であった。早春の山に己が身と同じ姿を見る。心痛の思い出に「あまり好きではない」と言った故郷だが、その地で朝な夕なに眺め続けた富士山を「俳句富士」と呼び、裾野に重信と並び墓碑を建立したのは、郷愁の表れであろう。
  
  凧何持て死なむあがるべし     『水妖詞館』
  凧一つ貌のごときが冬空に     『吟遊』

 故郷での少女時代、「苑子と書いた大空の凧」と「地上で操っている自分」のどちらが本当か判らなくなった。後に「生きるとは何だろう」と思う時、凧揚げの「無我の境地」や充足感に「優るものは何一つなかった」と断言している。しかし、俳句に於いてその「凧」を具現化しているではないか。傷付き、方途を見失っても、己れを叱咤激励する生死の迫間のますらおぶりは俳句の真骨頂に達している。「技巧の無技巧、さらっと詠み上げたこなしがじつにいさぎよい」と加藤郁乎も絶賛した。晩年の「冬空に」苑子と書いた凧を思う。蕪村句〈凧きのふの空のありどころ〉に苑子は感銘した。重信や郁乎、幾多の俳人が愛誦する苑子と蕪村の「凧」である。
 
苑子に限らず、女流俳人の代表句には深い依拠とされるものがしばしば登場し、彼女達はその題材を好んで描く。
  
  雄鹿の前吾もあらあらしき息す    橋本多佳子
  鶏頭を三尺離れもの思ふ       細見綾子
  寒凪やはるかな鳥のやうにひとり   清水径子  
  炎昼の馬に向いて梳る        渋谷 道
  人体に蝶のあつまる涅槃かな     柿本多映
  生まざりし身を砂に刺し蜃気楼    鍵和田秞子

 「鹿」の存在は、多佳子の女心を新鮮な切り口で詠わせた。自然に身を委ねた綾子の「鶏頭」への眼差し。径子は「鳥」に寂寥の身を重ね、道の瑞々しいエロスは、柵を越えて「馬」へ語り掛ける。多映は、「蝶」の幻妖な世界に遊び昂じ、秞子は、永遠の未生の子への思念を詠み続ける。
 女流俳人のものへのこだわりは、詩の源流となり湧出する。男性俳人にも見当る現象だが、女流俳人の執着は極めて印象深い。折口信夫によると、日本の古代信仰は、神、鬼、霊(たま)、ものの四つが代表的であった。日本の神話には、小さい神の出現が多く、「これらの神々は、たいていものの中に入っている」という。女流俳人はものの中に入り、念じ詠うことで、女としての我を確認し、生成し、個性を確立させていくのである。苑子も『水妖詞館』から始めたものらへの心の有様を詠い続けた。ものは、やがて光彩を失いつつ、苑子と共に詩の中に沈静した。しかし、物忌を装い、実はものの中で翁と遊んでいるのかも知れない。

〈4〉
 「出会いの始めから終わりまで、三橋鷹女という類い稀な女流作家は、私を衝撃し続けてきた唯一無二の存在であった。」と、苑子は、三橋鷹女を生涯の俳句の師と仰いだことを断じている。昭和十一年に作品を知り、十五年『向日葵』を読み、「身の内で眠っていた何ものかが急に呼び覚まされ」「言葉とは何かをおぼろげながら覚ることができた」のであった。重信だけではなく、鷹女の存在が昭和三十三年(「俳句評論」創刊)の人生の転機となったのである。
 
 苑子は、鷹女の初期作品では、第一句集『向日葵』の鮮烈な作品〈夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり〉よりも、第二句集『魚の鰭』集中の〈秋風や水より淡き魚の鰭〉を好んだ。「心に沁みてくる無常感を感受すればよい」と鑑賞している。『花隠れ』刊行の平成八年冬、千葉県の成田山霊光館で催された「成田の近代文学」展に出品されていたその短冊の前で、苑子は暫く佇んでいた。『魚の鰭』は、『向日葵』の同時代作品が所収され、三ヶ月後に刊行された。『花狩』も『水妖詞館』の翌年刊行されている。偶然にも二人は、姉妹句集を刊行している。
  
  忿り頭を離れず秋刀魚焼きけぶらし  鷹女『魚の鰭』
  曲がごとの重なる目刺し焼きにけり  苑子『花隠れ』「初期句篇」
  かなしびの満ちて風船舞いあがる   鷹女『白骨』
  置きどころなくて風船持ち歩く    苑子『花隠れ』「初期句篇」
 
 苑子の初期作品は、鷹女の句に較べるとやや消極的である。しかし、「俳句評論」創刊(昭和三十三年)から鷹女の感性に近接した句が多くなる。〈咆えてもみよ檻の中まで寒月光〉(二十九年)、〈ゆふべ死んで炎天を来る黒い傘〉(三十一年)などはその序章であろう。
  
  しゃがに降る雨は人妻にしか降らぬ 鷹女『魚の鰭』
  夕べ著莪見下ろされゐて露こぼす  苑子『水妖詞館』
  秋の蝶です 一本の留針です    鷹女『羊歯地獄』
  留針を真昼の蝶にしかと刺す    苑子『花狩』
  薄氷へわが影ゆきて溺死せり    鷹女『羊歯地獄』
  わが影はすでに溺死の秋の川    苑子『吟遊』

 女の哀切を分ち合うかのような両者の「著莪」。嗜虐的な「蝶」。嘗て師に見た悄然も過ぎた悲愴な「わが影」を己が姿にも見る苑子。鷹女の凄絶さが顕著な『羊歯地獄』に最も近い句集は、『花狩』である。「蝶」の作品に見受けられるが、両句集から三句例をあげてみる。
 
  苦しくて 蚕が金の鎖を吐く       鷹女
  絶え絶えに水が歔くなり蔵の中      苑子
  枯木山枯木を杖に亡母遊ぶ        鷹女
  紡がれて枯れし老母の紡ぎ唄       苑子
  雲雀高啼き鼓膜に聴けば狂ひ啼く     鷹女
  声あげて沖へ沖へと火の雲雀       苑子
 
 母は枯れ、二人は蔵の中、空の果てから呻き啼き狂う。この他にも『花狩』には過激な表現が並ぶ。〈母と並びて剃刀を研ぐ波打際〉の母は鷹女だろうか。『花狩』は、重信による編集(命名は吉岡実)であるが、その所以を跋文にて語っている。『水妖詞館』は、「中村苑子作品に対して抱いていた印象とはどこか異なるものを感じ」「幾人かは、もっと愛誦すべき作品の幾つかが」「洩れてしまっているのではないかという疑問を、率直に表明した」―と、鷹女を俳句の母であると言う(父は富澤赤黄男)重信は元より、周辺の詩歌人は苑子俳句に鷹女像を重ね、自身もまた自句に鷹女の匂いを嗅いだであろう。
 そうして鷹女を敬愛し師と仰いだ苑子は、模倣を重ねながら修練し三十年余りの歳月を経て独自の詩を編みあげた。それが『水妖詞館』なのである。鷹女ではなく、苑子でしかない句集を残し、玄妙な一人の女流俳人を自らの手で誕生させたのである。その結実の年、苑子は六十二歳になっていた。
 
 「昔は六十を超えたる老人は、此蓮台野へ追ひ遣る習ならひありき」とは柳田国男の『遠野物語』であるが、この野に移り見殺しにされた老人の如く、鷹女と苑子は仮の世の残滓を嘆き続けたのであった。
  
  老いながら椿となつて踊りけり   鷹女『白骨』
  墜ちてゆく炎ゆる夕日を股挟み   〃『羊歯地獄』
  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ  〃『橅』以後
  黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ  苑子『水妖詞館』
  死ぬに似る朝顔とめどなく咲くは  〃『四季物語』
  そこかしこ死者も死に倦む山ざくら 〃『吟遊』
 
 鷹女俳句の最大のテーマ「老い」は〈夏藤や女は老ゆる日の下に〉が四十歳にして詠まれている。苑子は「老いや孤独や死などの晩年意識は、鷹女が人間として如何に生き、老い、如何によりよく死すべきかを俳句表現によって見定めるため我が身に課した実験」と述べている。鷹女が死への意識によって生への求心を昂らせたのならば、苑子は死の世界を希求することで生の感触を得ていたのではないだろうか。死へ挑むように生という地獄を直視する鷹女の詩と、死を携えつつ認識する生を死の側から詠いあげる苑子の詩は、それぞれの特色を示している。
  
  水誘ふ水際の葦になりすまし   鷹女『橅』
  青芦原母はと見れば芦なりけり  苑子『水妖詞館』
  寒満月こぶしをひらく赤ん坊  鷹女「遺作二十三章」
  桃いろの拳こぶしをほどく死後の春  苑子『吟遊』
 
 鷹女句、そのオマージュと思しき苑子句にも向日性が窺える。前者の苑子句は、水草の鷹女への懐慕の念を表しているのであるが、その表現方法は時を超えた掛け合いのようであり、また永遠に、水としての苑子の傍らに佇つ鷹女を描写しているとも感じられる。後者は、「寒満月」と「桃いろ」「春」の措辞が各々を象徴していることも然ることながら、鷹女は輪廻転生を疑わぬかの如く「こぶし」を開き(遺作の最終句に置かれている)、苑子の本意は泉下にての再生を心待ちにしているかのようである。ここにも生へ向かう死と、死を憧憬する生の表出の個性が認められよう。
  
  昼山火事へ一本の羽毛が走る    鷹女『羊歯地獄』
  羽毛一と吹き老春は今初まるか   苑子『水妖詞館』
 
「一句を書くことは 一片の鱗の剝脱である/一片の鱗の剝脱は 生きてゐることの証だと思ふ」と全身全霊を投げ込んだ『羊歯地獄』の最終句と苑子句の「羽毛」。鷹女から送られた「一本の羽毛」に、苑子は「老い」の覚悟を自らに課したのだ。
  
  椿落つむかしむかしの川ながれ   鷹女『橅』
  草ひばり晩年水のごとく澄み    苑子『吟遊』
 
 先掲の『白骨』では老いながらも踊っていた椿と、『花狩』の蔵に歔く水や雲雀の火の鎮静を告げる、鷹女と苑子の晩年であるが、苑子は鷹女の晩年について、「動から静へ、燃焼から帰依へと諦念の様相を帯びてきた」と言っている。それでも〈藤垂れてこの世のものの老婆佇つ〉を、『橅』刊行の七十一歳から没年の七十三歳の間に詠んだことは苑子の励みでもあった。
 
  千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き     鷹女「遺作二十三章」
 
そして、苑子はこの遺作の一句に、「ナルシズムの境地」を見て驚愕している。死の淵での最後の絶叫は、まさしく鷹女の生の在り方である。苑子は、身を悪魔に渡しても良い句を得たいと言った。鷹女は、死神に生を渡してこの一句を得たのかも知れない。  

  鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ  鷹女『羊歯地獄』  
  鳴き急ぐ死に急ぐなよ初蟬よ    苑子『花隠れ』
 
 『花隠れ』集中の掲句は、鷹女への最後のオマージュである。刊行後の十二月、鷹女のブロンズ像(鷹女の郷里、千葉県成田市)除幕式を終えた苑子は、「もうこれでやり残すことはないわ」と静かに微笑んでいた。二人は、生と死が絡まり縺れる女の悲哀を描く、孤独な詩人であった。しかし、鷹女から苑子の世代へ、苑子から次の時代へと伝承される慈愛の声が蒼天から聴こえてはこないだろうか。
  
〈5〉
  僧形のあとさきとなり麦の中    習作時代(昭和十七年)
 
 『水妖詞館』から生死往還は繰り広げられるのだが、掲句は、後に昇華する作品群の原型と思われる生死の間の遊戯性や翁的「僧形」との景が、美しくも柔軟な動態で表現されている。本格的に俳句に取り組む前から苑子の詩の世界は存在していたのであった。
  
  春の日やあの世この世と馬車を駆り 『水妖詞館』
  他界にて裾をおろせば籾ひとつ   『吟遊』

 いとも簡単に「あの世この世」を往き来する術は、苑子の夢であり使命であった。シンデレラが舞踏会へ出掛ける事と、苑子が黄泉へ赴くのは、同等の興奮を示す。 後年、〈ふるさとへ馬車は花菜の夜を馳せる〉と、己への咎を消して懐郷の念を表した「ふるさと」は、生を賜り遠祖の霊が息衝く処である。着物から落ちた一粒の命の糧である「籾」は、日本人の原点に遡る。悲喜交々の生の未練を持ち来た身がいとおしい。〈飲食のあと白繭を見にゆかむ 『吟遊』〉も、この世に生きるものの存在の内奥を、五感を通して「飲食」に表出した幽玄さを纏う。
『吟遊』には、この他にも前掲の〈金魚売り己れの影へ水零す〉や〈人の世は跫音ばかり韮の花〉など七十余年の現世を物語る秀句が散見される。
  
  天と地の間(ま)にうすうすと口を開く  『水妖詞館』
 
 しかし、『水妖詞館』に於けるこの一句は、『吟遊』に具象化された現世を包括した生の境地の詩である。「天と地の間に」浮遊する無幻泡影の寂なる生の絶唱は、この世に生み落とされた万物の遣る瀬無い無常観を詠っている。
 森羅万象を畏敬することとは、生死を超越したその目めくるめ眩く循環の上に、過ぎ去り訪れる時間を崇拝する心持ちであろう。苑子が、生と死を往還する俳句を作り続けたのは、生者死者、万朶の花、寂漠たる枯野が唯いとおしかったのである。いとおしいは厭うという語源の一説もあるが、厭うは出家する意味も含有する。現世を見据え、心眼を持って彼の世と交わり、古代信仰である神、鬼、霊、ものを崇め化身する。

  貌が棲む芒の中の捨て鏡      『水妖詞館』
  船霊や風吹けば来る漢たち       〃
 
 折口信夫は、「日本人としての優れた生活は、善悪両者の渾融された状態の中から生まれてきている」と述べる。悪霊とも見紛う「貌」を映す「鏡」に、女の酷薄な時間までが見える。女の髪や人形など「船霊」に込められた願いが船乗り達の霊を鎮める。交信技術の発達とは裏腹に、容易には見聞できない救われぬ魂の蠢きが、信仰など無縁な生活の隙に膨らんできているのかも知れぬ。馬場あき子が述べる苑子俳句の「ほの昏い意識の奥拠」への再確認に共感せずとも、その一切を忘却の彼方にすれば、輪廻の罅は深くなるばかりであろう。
 
  喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子  『水妖詞館』
  蝦夷の裔にて手枕に魚となりたる       〃
 
 『水妖詞館』は一句目にて、「竜のおとし子」が死の負荷のもと生まれ、最終句に於いて父祖の海を伸びやかに揺蕩う魚となる。他の句集の最終句を引いてみる。
  
  ぬくき灰舞ふ死顔の終りかな     『花狩』 
  髪は藻となりて日輪失せにけり    「四季物語」
  風邪寝してなつかしき香のどこよりぞ 『吟遊』
  音なく白く重く冷たく雪降る闇    『花隠れ』
 
 句集の最後を飾る作品が、その一冊を総括し、行く末を暗示するならば、『水妖詞館』と『吟遊』は心地佳い招来を仄めかせて結ばれ、『花狩』「四季物語」は喪失の慟哭が余韻を残す。『花隠れ』集中の〈綿津見にかけての喜雨や借枕〉は『水妖詞館』の最終句を彷彿とさせながらも、最後の句集は父祖の地「蝦夷」を思わせる混沌とした雪の闇の静寂に閉じられた。この句は、同句集の初期編の締め句〈雪掻けば雪降る前の地の渇き〉との対句である『花隠れ』は前半が『水妖詞館』以前の作品、後半は『吟遊』以後の作品構成である。『水妖詞館』は、生と死にこだわり続けた苑子生来の心髄が濃厚に表現されていると初めに述べた。『花隠れ』の初期編「地の渇き」と最終句の「雪の闇」は、生死の往還が始まる前と終了後の作品である。生死の間の渇きを埋める為に、苑子は俳句という舟を漕ぎ出したのだ。『水妖詞館』から始まった自己救済の旅は、大海原を様々な潮流に乗り、遊び、溺れ、疲れ果ててはまた、痩身の力を振り絞り櫂を操る。そうして『水妖詞館』の潤色を滲ませた『花狩』「四季物語」『吟遊』が編まれ、『花隠れ』の「闇」に幽玄と消えたのである。
 苑子は引退を表明する生前葬「花隠れの会」を決めた頃、「私は俳句で中村苑子物語を書いたのだ」と語っている。若き日、小説家を目指していた苑子が、林芙美子の言葉(「躰が弱いから短いのになさい」)と、戦死した夫の遺品の中の句帖とが契機となり、結果的に俳句という形で私小説を描くことになったのは、やはり苑子が俳句の神(或いは悪魔かも知れない)に選ばれたからであろう。
 
 夫を亡くし三人の娘と老母を養う母を見た。苑子自身も夫が戦死し、二人の男の子を抱えながら、戦後を生き抜く女達の姿も見た。杉田久女、三橋鷹女の孤独や鈴木真砂女、桂信子の流転など、女流作家達の俳句を貫く生き様を思惟した。遥かなる世の先達、捨女、千代女らを尊びつつ、男性中心であった俳句界に女流俳句が大手を振る現在に至るまでの道筋を幾多の先輩同胞と共に苦難を持って築きあげたのである。平成まで続き惜しまれつつ終刊した超結社誌「女性俳句」の永年の活動も女流俳句史に残るひとつの大きな成果である。俳句に憑依した数奇な生涯を「小さいながら人の運命を決定する怖しい形式である」と苑子は説いた。満身創痍で〈凧なにもて死なむあがるべし〉と納得のいかぬ地への墜ち様には抗う。しかし、天の意を得て舞い散るのであれば喜んで応じるのである。〈黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ〉と死の側から女の真意を紡いだ。こうして、ますらおぶりを根底に、妖艶な情念を背景にして、自我を継承しようと詠い続けたのである。『水妖詞館』の遍いた、生と死を往来しつつ刹那の存在を見据える苑子俳句は、女流俳句の真髄へと迫り、浮き彫らせながら、その過去と未来を往還する架橋と成り得るはずである。

【参考文献】
(一)『水妖詞館』昭和五十年(一九七五年)俳句評論社
(二)『花狩』昭和五十一年(一九七六年)コーベブックス
(三)『吟遊』平成五年(一九九三年)角川書店
(四)『花隠れ』平成九年(一九九七年)角川書店
(五) 散文集『俳句自在』平成六年(一九九四年)角川書店
(六) 散文集『俳句礼賛』平成十三年(二〇〇一年)角川書店
(七) 花神コレクション〔俳句〕『中村苑子』平成六年(一九九四年)花神社