とっぽいヤツ

昭和30年代、東京の山の手と下町との狭間で育った少年の歳時記

番外編 55歳誕生日記念「RHマイナス」の恐怖

 
 たしかに、悪いことはした。
 晩ご飯のとき、先に済ませていた哲夫に「店番、替わっとくれ」と母親の薫から言われ、好きなテレビを渋々あきらめた腹いせもあってお店のお金をくすねた。
「だいたい、性根が許せないね。お店のお金に手をつけるだけじゃなくて、そのやり方が小憎らしいよ、ほんと。お客さんとの勘定のやり取りのふりして、『ハイ、お釣りです』なんて、ひとり芝居してごまかしてさ」
 薫の怒りはおさまらない。
「やはり、だめだね、橋の下から拾ってきた子は。信も情もあったもんじゃないさ」
 おいおい、いい歳して拾い子かよ…と、哲夫は呆れたが、顔には出せない。それに、お店のお金に手をつけたって、たかが30円だ。横丁の駄菓子屋でマーブルチョコひとつ、それも『世界の貝殻シリーズ』のおまけ欲しさにくすねただけ。それが、運の悪いことに見つかった、それも一部始終…。

 寝るときまでもけちょんけちょんに言われ、さすがに夢見は最悪だった。
 拾い子のことも、今回は「私とは血液型も違うんだから」と、薫には珍しい新手の論法をぶった。
 夜中トイレに起きた哲夫の目尻は、久しぶりに濡れていた。

「オリンピックの顔と顔、それトトンとトトンと♪~」
 鼻歌を口ずさみながら、哲夫は珍しくひとり、家路についた。頭の中では、派手な和服姿の三波春夫が踊っている。
 峰原坂に出て、立正大学の裏手を巡りながら帰る。低学年の時、クルッと回ってはワンと吠える、“人工衛星”とあだ名した犬を飼っていた坂東さん家で右に曲がり、哲夫の家に出る横丁の坂にぶつかるまでダラダラと下っていく。以前、この道沿いには空き家が多くあって、幼なじみのトキちゃんたちとよく遊んだもんけど、五反田、大崎界隈も道路が整備され、ピカピカのビルができている。この辺りの空き家も、壊されて「SALE」なんていう看板が立てられる建て売り住宅に変わっていった。
 さすがに、もうチャンバラごっこに興味はないけど、空き家に忍び込み、他人の暮らしていた空間を土足で歩き回ると妙に興奮した。
 いろんな残留物を見つけるのも楽しかった。たぶん、主人の書斎だったところだろうか、大きな机の置かれていた跡が残る部屋の隅っこにカメラの色レンズが落ちていたことがあった。窓から射し込む光に透かして見ると、まるで「夢」の世界に入ったような気分になれる。見たこともない洋酒の瓶が棚にあれば、やはり海賊の宝物を見つけたみたいにうれしかった。台所に入れば鍋や釜を探し、侍のヨロイよろしく、身につけていい気になったもんだった。

 今日は第一水曜日だ、月一回の下駄の市がある。朝、学校に行くとき、父親の孝一から「付き合いなよ、社会勉強にもなるから」と言われていたっけ。
 面倒くさいこと思い出したな~と歩いていると、横丁の坂にぶつかる手前、米屋さんのはす向かいに頭に鉢巻き、腰に袋、地下足袋姿のおじさんがいる。最後の最後まで空き家だった家の前だ。ここも、いまは解体されて更地になり、新しく家が建てられようとしていた。おじさんは奇妙な壷から糸先を取り出し、それを角材に刺し、スルスルと糸を伸ばしては指でパチンと弾いている。
 何やってんだ? と哲夫は近づいていった。
 おじさんが指でパチンと弾くと、壷にカラカラと糸が巻き上げられ…白い角材の上にきれいな直線が描かれた。
 うぉ、すげえ! 哲夫は内心叫んで、さらに近づいてみた。
 鉋を、まじないをするかのように小槌で叩く。それを静かに角材の上に置いて一気に滑らせると、鉋は、その内部に巻取っていたリボンのように見えるものを中央の口からスルスル吐き出す。
「ちょっと見せてもらっていい?」
 鉋が吐き出すリボンみたいなものを手にすると、それは肉屋や和菓子屋で使う経木みたいな感じだった。どんな紙よりも薄く、透かすと向こうの景色が見えた。まるで押絵でも見ているような気分だ。
 おじさんは、ピーンと糸を張り、親指で車の回転を止め、中指で糸を押さえながら角材の上に静かに置いてパチン! そして、線を入れた角材を鋸と鑿を巧みに使って繋いでいく。ピタリ寸分の狂いもなく組み合わせていく。
 しばらくして、哲夫はあわてて家へと駆け出した。
「追掛大栓継ぎっていうのか、すごい技だったなあ。ちょっと帰る時間には遅れたけど、親父に話してやろう、社会勉強してたんだって」

 風呂敷を背負わされると、気分は一気に落ち込んだ。
「ほら、ぐずぐずしていないで。時間過ぎているんだから行くぞ、またバスに乗り遅れるじゃないか」
 孝一に急かされて表に出る。バス停は環状6号線の通りの向こう側、左手の近藤書店か右手の大崎警察署の前だけど、できれば警察署の方に向かってくれないかと思った。左に向かえばヨッちゃんのパン屋の前を通ることになる。パン屋の兄ちゃんたちの目が気になって…この時間なら、パンが焼き上がるまで熱い釜の前から涼しい店先に出て休んでいるはずだ、冷やかされるに決まってる。
 孝一が右手に向かったのでホッとした。
「あら、一緒にお使い、えらいねえ」
 隣の安田屋さんのおばさんから声がかかる。本来は洋品店だけど、煙草も扱っていて、ちっちゃい頃ピースの銀紙をいっぱい集められたのもおばさんが空箱を取っておいてくれたからだ。ときどき哲夫に「大きくなりなよ」と言ってヤクルトなんかもこっそりくれる。背は低いけど、家のお婆ちゃんと違って太っていて、よく哲夫を可愛がってくれた。
 そんな安田屋さんのおばさんから声かけられたらしょうがない、立ち止まって「お父さんの手伝いで市に行って来ます、しっかり荷物背負ってきます」と妙に元気な声を出した。
「あら、そうなの、偉いわねえ。じゃあ、ちょっと待っていて」とおばさんはしゃがみ込み、モソモソしてから表に出てきてくれた。
「はい、じゃあこれ」
 おばさんは、ロッテのガムを手渡してくれた。
 緑のクールミントは舌がしびれてたまらなかったけど、もらったスペアミントは甘みがあって美味しい。
「哲ちゃん、手伝いかい、しっかりおやりよ」
 今度は角の葬儀屋、遠藤さんのおばさんが出てきた。哲夫は、子供扱いして人の頭をいつまでも撫でるガード下の小唄のお師匠さん、武田のオバさんと、世話好きな遠藤のおばさんが苦手だった。おばさんが景気いいってことはそれだけ人がよく死んでるってことで、なんか葬式を仕切るたびに店先に猫が増えていくような気がした。
 愛想笑いを投げて、孝一の後を追う。
 孝一は孝一で、伊勢屋食堂のおじさんにつかまっていて、どうやら先日の乗合い船じんべえ丸の釣果で話し込んでいる。仕掛けを用意してもらって、商店街の釣り好きを世話したはいいけど、乗合いは初めての丸吉さん夫婦が船酔いして大変だったらしい。
「お父さん、遅れるけどお」
「じゃあ、また」と、孝一までも愛想笑いして、哲夫の尻を叩きながらバス停に向かう。店から出た父親の、笑い顔を見たり、話し声を聞いたりするのは久しぶりだった。
 
 目黒川を越え、三共製薬を横目に見て大井町行のバスは行く。
「次は品川区役所前、品川区役所前でございます」
「降りますよ、降ります」バスの車掌さんのアナウンスに、哲夫は切符を高々と掲げてと声をかけた。
 下駄の市は、品川区役所前のバス停から歩いて7、8分、第一京浜を越え、京浜急行も越えた、目黒川の河口近くの荏原神社で行われる。城南の履物店連合会が主催するもので、戦前から大森で開かれてきた市を戦後真似たものらしい。
「うわぁ、お祭りみたいにいっぱいお店が出ているんだね」
「浅草からたくさん問屋さんが来ているんだ。ほら、あそこに篠田さんもいるだろう」
 哲夫は、いつも家に来てくれる問屋の篠田さんに頭を下げた。それにしても、よく市とは言ったもんだ。和装全般が取り扱われ、下駄から草履、鼻緒、傘にサンダルまで、ずらり並べられている。神社の境内を見回すと、縁日みたいに金魚すくいや綿アメ、射的に輪投げこそないけど、焼きそばにおでん、お好み焼きなど、食べ物屋も出ていた。
「いつもはな、商品を買うと即金か月末払いのものが、掛け売りで翌月払いにしてくれるのがいいんだよ」キョロキョロしている哲夫の頭に手をかけながら孝一は言った。
「掛け売りって何?」
「後払いってことさ。浅草で仕入れたり、持ってきてもらうのもいいが、商品は入っても、お金は出ていくだろう。商売人は、お金を上手く回さなくてはいけないんだ、わかるか?」
「わかるよ、そんなこと。お金が出ていかないようにしながら商品を仕入れるんだろう。ツケみたいなもんだな。新開地ストアにあるお菓子屋さんで、3組の青柳さんの家はいつも次の月払いでやっているんだって。横丁の駄菓子屋さんでもやってくれないかなあ」

 孝一が、浅草や店、また市の問屋さんと話をしていると、いつもわからない言葉が出てくる。「しゃくぬけ」だの、「だいまる」だの、何のことやら哲夫にはさっぱりわからなかった。
「ねえ、お父さん。先刻言っていた『つじまる』って、何のこと?」
「ああ、あれは勘定のことさ。おおっぴらに人前では言えないから、符丁で言っているんだ」
「ふ、ふちょお? 何、それ?」
「ああ、お父さんたちの家業の中だけで通じる言葉、ここじゃお金の勘定のことさ。仕入れ4000円を4000円ってそのまま言っていたら、お客さんに幾らで仕入れてきたかわかってしまう。上代8000円で売ろうたって無理だろう。だから、普段問屋さんたちとの間では符丁を使って4000円を『つじまる』って言うんだ」
「4000円のことを『つじまる』っていうの?」
「そうさ。いや、正しくはツジが4、マルが0だ。ということはお父さん、『40かい』って問屋さんに聞いていたんだが、それは商品からいって40円じゃなく4000円ってことさ。だいたい扱う商品でわかるからねえ」
「ふ~ん、何かむずかしいね」
「そりゃそうさ、すぐわかってしまったら符丁の意味がない。そうだ、この際だから教えておくか、お前にも」
 そう言って、孝一は境内前の隅っこで土の上に数字を書き始めた。
「いいかい、1のことはダイだ、2はヤマ、3がウロコで4ツジ、5はカタリで6がリュウ、7シャク、8ヌケの9はキュウだ。で、0がマル。10や100、1000はすべてダイマルだよ」
「あ、そういえば『しゃくぬけ』や『だいまる』のほかにも『だいりゅう』とか『だいしゃく』って聞いたことある。みんな勘定だったんだね」
「家にやってくる篠田さんとか、中央なんかと店ん中で勘定の話するだろう。お客さんがいたり、入ってきたりすると都合悪いじゃないか。そういうとき、符丁は役に立つわけだ」
「商売やるのも、大変なんだね」
「そうさ。売るだけでもダメで、ちゃんと仕入れもできなきゃいけないし。その仕入れだって、ただモノ揃えればいいってもんじゃなくて、できるだけ売れそうなモノを安く仕入れるのが商売の妙味なんだ。わかるか?」
「そのくらいわかるよ。ただ、ウチじゃどのくらいの儲けで商売しているの?」
「先刻の、仕入れ4000円の上代8000円じゃないけど、お父さんたちの商売の儲けは5000円売って半分の2500円が目安かな。上代が半分ひっくり返ると儲けになる、これカクベエって言うんだ。カクベエって“ひっくり返る”という意味さ。たぶん、角兵衛獅子からきてるんだろうと思うけど、とんぼ切ったりするだろう、ひっくり返るあれさ」
 いやいや市に付いてきたけど、父の孝一から家業のことを初めて聞いて、哲夫は面白かった。普段は仏頂面していることの多い孝一から、久しぶりに面白い話を聞けてうれしかった。

 夕刻には、市は終わった。だいたい5~8万くらい仕入れたのか、哲夫の肩には風呂敷に包まれた草履や鼻緒がズッシリ重かった。

「問屋は下駄、草履が鈴屋、加部、地元じゃ柳瀬に斎藤かな。斉藤は塾の帰りに立ち寄ったこと、あるだろう。鼻緒は川又、こいつは市には来ないんだ。靴は中央だよ」
「お祖父ちゃんの三ッ木の店、覚えているか? 昔は大八車でよく仕入れに行ったものさ。空襲で焼けて戦後なくなったけど、戦前には広小路と戸越の間に桐ヶ谷っていう池上線の駅があってな、いまみたいに特売やらなくても仕入れたモノはさばけたものさ」
「そうそう、鼻緒のすげ方も東京と田舎じゃ違うんだ。くじりで先に穴を開けて、絞めてからすげるのは田舎さ。実用本位で、格好気にしないわけだ。お父さんは、穴を開ける前にまず鼻緒を絞める。この方が格好よくすげられる。履いていても伸びないんだよ」
「鼻緒の芯は、いいものは麻だね。ただし、最近はナイロンが多くなって伸びて困るんだ…」
 帰りのバスの中、孝一はいい気分で話しまくった。これには、哲夫も閉口した。

 2時間目の理科の授業は、担任の伊豆先生の好きな科目だ。
 お気に入りの白衣に身を包んで、身振り手振りを交えて活き活きと授業をする。実験や実習などの課外授業も多く組み込んで、生徒を理科室の清掃や堆肥作りにこき使った。でも授業中、他のクラスでは生徒は滅多に教室から出られない。1組の理科は、生徒にとっても気分転換にはもってこいだった。
「今日の勉強は、血液型だ。人間の血液型がいくつあるか、わかる人は手を挙げて」
 授業は、4種類の血液型から日本人の血液型分類、A型が40%、O型が30%、B型が20%、AB型が10%だということ。そして、血液検査の話に続いた。
「先日、新聞で読んで知っている人もいるかもしれないが、いま教えたABO式血液型検査の他にもうひとつ、RH式血液型検査がある。ちょっと難しい話になるが、赤血球中の5つのRH因子C、c、D、E、eのうちのひとつ、D因子について検査するものなんだ。D因子がある人をRHプラスといい、D因子がない人をRHマイナスといって分ける方法だよ」
「先生、そのアールエイチって、なぜ新聞に載ったんですか?」
 クラス委員の河野が尋ねた。
「私、知ってます。離島で怪我した人がいて、輸血しなくては助からないというとき、その人の血液型がたしか、RHマイナスで大騒ぎになったんですよね」
「仁志川さん、よく知っていたね」
「お母さんがその記事見て『RHマイナスの人は子供を一人しか産めないからね』と言っていたので」
 ちぇ、余計なこと、言ってらあと哲夫は心の中で毒づいた。ここんところ、女子に頭が上がらないうえ、河野と同じクラス委員の仁志川には学級会でやりこめられてばかりいる。苦々しく思っているのは、哲夫ひとりだけではなかった。
「そうだね。こういった血液検査をするのは、もちろん輸血が必要になったときのためだ。別にABOさえわかってればいいんじゃないと思うかもしれないが、例えば同じA型でも、RHマイナスの人にRHプラスの人の血液を輸血すると体内に抗D抗体というものが作られ、そのときは大丈夫でも、2度目の輸血の時には、最悪の場合は生命が失われてしまうこともあるんだ」
 伊豆先生の話では、日本人のRHマイナス人口は全体の0.5%程と言われ、200人にひとりだそうな。さらに、AB型でRHマイナスという人は2000人にひとりというでとても希少な存在だという。

 伊豆の話を聞いて、哲夫は、もし自分がRHマイナスだったら…と考えて、背筋が寒くなってきた。
 4年生の時、同じく授業でどういうわけか蓄膿症の話になり、その治療法が顔を割って骨を鑿で叩きながら膿を出す…そう聞いて、怖い想いをしたことを急に思い出した。しばらく自分の吐く息を気にしたり、鼻をかんだとき、つい鼻紙を開いてみたりしたことがあったっけ。
 低学年の時の「恵比寿」と「えきり」を間違えたこともそうだが、未知のこと、それも人体にまつわることには、哲夫は病的に臆病だった。

 終いには、D因子があるかどうかを調べるのに、なぜ「RH」というのか? それは1940年にオーストリアのランドシュタイナー博士がアカゲザルを使った実験をしているときに、ヒトの赤血球にアカゲザルと共通の血液型抗原があることを発見。この抗原中に含まれる「D」という抗原の有無によって区別する血液型を、このアカゲザルの学名「Rhesus Monkey」の頭文字から「RH血液型」と名付けたと、小学生にとって理解できない、難しい話にまで脱線していったところでチャイムが鳴った。

 昼休みの給食、好物の揚げちくわの味は、血液型の話なんか聞いたせいで、なんかザラッとした感じが哲夫の舌の上に残った。

 家に戻ってから、哲夫は古新聞の山を漁った。ズバリの記事は見つからなかったけど、後日談として「RHマイナスを考える」を見つけた。

「お父さんとお母さんがRHプラス同士、あるいはマイナス同士の場合は問題ありませんが、お父さんがRHプラスでお母さんがRHマイナスというケースでは注意が必要です。
 それはなぜか? まず子供の血液型を表に表してみましょう。
 母 Rh(+) Rh(-)
 父 Rh(+) Rh(-) Rh(+) Rh(-)
 子 Rh(+) ○ ○ ○ ×
 Rh(-) ○ ○ ○ ○
 このように、お父さんがRHプラスでお母さんがRHマイナスという組み合わせだと、生まれてくる子供はRHプラスの血液を持って生まれてくる可能性があります。
 胎児の血液というのは、胎盤を通って母親の体内にも流れ込むため、RHマイナスの母親がRHプラスの子供を妊娠すると、母親はRHプラスの血液の輸血を受けたのと同じ現象が体内で起こり、抗D抗体が作られます。前述のように、1回目の出産時は問題ありませんが、2回目の時には抗D抗体のせいで、赤ちゃんに貧血や黄疸などの症状が出ることがあります。
 ちなみに、RHプラスの人にRHマイナスの血液を輸血しても、何の問題もありません。問題になるのはRHマイナスの人にRHプラスの血液を輸血した時です。なので、お母さんがRHプラスの場合は問題なく出産できます。また、お母さんがRHマイナスでも、お父さんが同じくRHマイナスの時は子供は必ずRHマイナスの血液を持って生まれてくるので、これも問題ありません。
 自分がRHマイナスだと、子供を産むときに大変な思いをしなければなりません。しかし、自分がRHプラスでも、生まれてくる子供がRHマイナスだったりしたら、この子が妊娠したときのことを考えると、やはりそれはそれで胸が痛むでしょう。父親より母親のほうが強いのは、こうした悩みがあるからなのです」

その夜、店じまいのとき、お調子者の薫は、たぶんプラスだろうと思った。
「お父さんは…ヤバイかもなあ」哲夫は、痩せぎすな孝一の横顔をジッと盗み見た。

 明けて金曜日。5時間目の休み時間は、いつもダラけた。給食後ということもあるし、いい加減授業に飽きてくるからだ。
 白雪城の隅っこで、哲夫は山上と服田と一緒に治樹の手元を見ていた。三人の目線は、治樹の手に握られているボールペンに釘付けだった。親戚のおじさんの海外土産だと言って、じつは模型屋のブンちゃんから借りてきたそれは、持ち手のところがガラスになっていて、スリップ姿の外国人の女が映っている。ところが、持ち手を逆さにすると緋色のスリップがスルスル下がっていって、映っている女が裸になった。
「こいつはすごいや。エロ雑誌の写真にも負けないね」
 山上がうれしそうな声を出す。
「ブンちゃんが言うには、海の向こうにはこういうヤツたくさんあって、色の白いのや黒いの、もちろん、日本人だろうがインディアンだろうが、あるらしいぜ」
「何かこの女、おばさんぽいけど、年齢もいろいろあるのかな?」
「さあ、そこんところはわからないけど、この女は服田の好みじゃないの」
「こいつは、顔よりオッパイが大きければいいんだよ。運動会のフォークダンスの練習のとき、2組の海老名のオッパイ、ずっと見てたもんな」
「哲夫、そんなこと言っていいのかよ。おまえだって立花のこと、お熱じゃないの?」
「バカ言えよ、なんか握った手が濡れていたんで気になっただけさ」
 山上から言われたことに、哲夫はドキッとした。たしかに、当たっているか
も…たぶん汗で濡れた手の平の感触は、悪いもんじゃなかったし。
「そうそう、坂東の家で見た幻灯機のことだけどさ」
 哲夫は、あわてて話題を変えた。
「ああ、今度壁新聞の替わりに教室で映そうってやつね」
 治樹が、すぐに喰いついてくれたので哲夫は続けた。
「雑誌の付録についていたものを組み立てて、襖に貼った紙に写真を映して観たんだけどね。ボール紙製で、小さなレンズと鏡が付いててさ。もちろん、レンズと鏡はガラス製。あれ、うまく作れないかね、長門にでも頼んでさ」
 その構造は、四角いボール紙の箱の上に三角形の同じ箱を乗せ、その箱の中に45度の角度に鏡を取り付ける。それに、レンズを付けた円筒形の鏡胴を取り付けたものだった。鏡胴は二重になっていて、焦点調節が出来るようになっている。四角な箱の下に写真を入れると、襖に貼った白紙の上に写真が拡大投映される仕組み。光源として電球を使うけど、鏡に直接電球の光が入らないようにするので、電球の位置が難しかった。また、光源が高温になるため、発火に気をつけなければならない。
 そんな話をしていると、6時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。幻灯機の話をもっとしたかったけど、なんか途中で話の腰を折られたような気がした。

 校庭を横切る際、哲夫は目をパチクリさせながら歩いた。世の中がスローモーションに見えて面白い。ふいに、逆さになって見たら、ボールペンみたいに校庭にいる女子たちの着ているものがスルスル脱げていったら面白いのに…と思った。

 いきなりドスンと衝撃が哲夫を襲った! 急に誰かがぶつかってきたな…と思う間もなく気を失った。

 気がつくと、保健室のベッドの上だ。頭がズキズキ痛んだ。
「あっ、先生、気がついたようですよ」
 隣に河野がイスに座っていて、保健の川原先生に声をかけた。
「ああ河野、俺どうしたんだあ?」
「お前、校庭で6年の大庭くんとぶっかったんだよ。で、ドバッと鼻血!
大場くんが言うには、急にお前がしゃがみ込んだんで避けきれなかったって言ってたぞ」
「松川くん、大丈夫?」
 頭を強打すると鼻の奥がツーンとする、まるで鼻に食用酢を流し込まれたような気分だ。
「あ、先生、大丈夫です、ちょっとクラクラしますが…」
「あたり一面、お前の鼻血で真っ赤だったんだぞ。伊豆も心配しちゃってさあ」
「悪いな河野、ずっといてくれたのか」
「まあ、いちおうクラス委員だかんな。気をつけろよ。では先生、僕、教室に戻ります」
「河野くん、ご苦労様」
 川原先生は、保健室のアルコール臭とは違って、いい香りがする。2組の担任、佐藤先生とのロマンスの噂はあるけど、哲夫は、ちょっとポッチャリ気味だけど、しっとりとした和風美人の先生が好きだった。
 しばらく黙って横になっていると、だんだん哲夫は不安になってきた。先刻、河野が「ドバッと鼻血!」って言っていたっけ。ひょっとして、体に血が足らなくなっていやしないか? そう思うと、頭のズキズキが大きくなってくるような気がする。
「先生、僕の血液型、わかりますか?」
 書類から顔を上げて、川原先生は妙な顔をした。
「血液型? なによ、いきなり。それとも松川くん、何か気になること、あるのかしら」
「いや、河野からかなり血が流れちゃったって聞いたんで。先生、輸血なんて必要ないですよね?」
「輸血? 何で、そんなこと考えるの? たしかにすごい鼻血だったようだけど、横になっていれば気分もよくなるわよ、大丈夫」
「いや、じつは僕…」その先は、グッと飲み込んだ。いくらなんでも、先生にRHマイナスだったら怖いんで…とは言えない。
 そうはいっても、相変わらず痛みはある。授業終了のチャイムが鳴るまで、ベッドで横になっている哲夫の頭の中では「鼻血」「輸血」そして…「RHマイナス」の文字がグルグル回っていた。

 ピンポンパンポ~ン、ピン…チャイムが鳴った途端、頭は痛いけど、まあ授業抜けられて先生と一緒だなんてラッキー…と思った。その途端、どういうわけかボールペンに現れた裸の女のことを思い出した。
 哲夫は、近寄ってくる川原先生が恥ずかしくて見られなかった。

僕的雑誌編集体験記

僕の生い立ち話だけど、下町と山の手の狭間みたいなところで育ったせいか、「聞いたことを、あたかも見てきたように話す」術に長けていた。
また、人は同じ話を聞いても、喜ぶ場合とそうじゃない場合があるのが不思議だった。そこで行き着いた先が、どうやらA、B、Cの順で話しても面白くないものが、B、C、AやC、A、Bだとウケルことがあるということ。時系列に従ったり、「いつ、どこで、誰が…」的なモノの言い方より、「作られちゃいました! 何がってさ、南国の楽園・ハワイで見つけたレイン・スプーナー、ほら、あの生地裏使いのBDシャツに…」てな感じ。つまり、耳に残る「モノの言い方」に興味があった。わかりきったことでも、なんとか耳に残る言い方ができないものか!? 駄ジャレ含めて、いつもそんなこと、考えていました。

工夫こそ編集

こんなこと、くどくど書くのも、雑誌の活字を目で読む行為は「知らず知らずに自分で音声化している」と思うから。僕はいくつもの新雑誌の創刊に立ち会ったが、「新しい雑誌には、新しい文体が必要」で、僕が育てたライターには皆、この話をしたもんだ。
編集者としてライターを育てることは一番大切なこと。新しい才能には、必ずチャンスをあげることです。それは、彼または彼女の才能から、また違った自分の中の引き出し(編集能力)に気づくことがあるから。
また、ライターを育てる術だけでなく、このことは企画を考えるときにも役立つ。自分とは異なった角度からアイディアを考えられ、「真の価値」に照らし合わせ、読者の関心が最大限向かうよう工夫する、それが企画であり、一連の作業が編集だと思う。
僕はいま54歳、「ポスト団塊世代の生活術」では何も引っかからないが、「三度目の18歳、いかに楽しむか?」と替えるだけで興味湧きませんか? いかにヒッカケるか、それが肝心!

編集作法
さて、これから書くことは、僕がそれぞれの新雑誌(新規媒体)で当時の編集長と「アーでもない、コーでもない」と話して身につけた術です。

*日刊ゲンダイ 創刊デスク
椎根 和氏
何でもメモする
メモしている間にタイトルとなる言葉を考える
ひとつの仕事をやっている時に「次の仕事」を見つけろ

取材をおろそかにするヤツはダメ。いつのときでも、現場で話を聞くことに渇望すべきです。これをこなしていないと、タイトルのつけ方がわからなかったり(流行の言葉の真似ばかりしたり)、企画を考える能力が鍛えられない。また、新しいの才能(主に、ライター)を見つけ出し、磨きあげることもできません。

*日刊ゲンダイ 創刊編集長
川鍋孝文氏
書きたいことを言わせろ
白を黒と思わせろ
アッと言わせるのは新聞、ハッとさせるのは雑誌、ウチは両方

これは、いかにも「夕刊紙」的な考え方だけど、タイアップ、フリーマガジン等、スポンサー付きの媒体では使えるかと。最初から予定調和だけど、たまには相手(読者もスポンサーも)を裏切って、媒体継続させるには必要な知恵だと思います。
また、世の中の流れが明確なほど、正反対なモノの考え方を頭の隅に置いておくことが大切。企画に、思わぬ「味付け」ができるのは、そんな天の邪鬼な性格を持っているかどうか。これ、「上手な嘘」と同じ、編集者の適性ですから。

*POPEYE 創刊編集長
木滑良久氏
読者はいない、創るもの
自分の「言葉」で書け
会議は不要〜読者は自分〜自分が読むもの、やりたいものをやれ

編集とは「自分を活かす心地よさ」を知ること。ものの見方を鍛え、思いつきの集積から「新しい価値」を見いだすわけ。ただし、独りよがりに陥る危険性もあるため、いつも「DNAの異なる」スタッフを手元に置いておくこと。イエスマンばかりじゃ、自分が殺されます。

*BRUTUS 創刊編集長
石川次郎氏
自分と同じ世代の人間と仕事をしろ
ひとりが思うことは千人が感じている
海外出張時「台割」の作り方

名刺の使い方が下手なヤツは、仕事もできない。別に、大御所に会いに行けとはいわないが、気になる人がいたら名刺交換だけでもしておいて損はない。ビル・ゲイツだろうが、椎名林檎だろうが…名刺を使えば、会えない人間はいない。
また、それで会えないヤツは「自分にとって価値のない人間」と割り切れば楽。特に、同世代の才能あるヤツには自分のポジションを伝える有効な手段です、当たり前だけど。
あと、「台割」の作り方だが、はじめから決まっていて取材するのが海外出張の常だけど、ダイアリー表を壁に貼って毎日の取材成果を書き込み、そこからアイディアを拾って台割を作るやり方(次郎さんは皆にも書き込ませ、白紙から台割を現場で作り上げていった!)を学んだもんだ。
*POPEYE 創刊デスク
椎根 和氏
雑誌のタイトルは中味を決める
新しい試みこそ、すべて。失敗を恐れるな

新雑誌のタイトルは、人の口にのぼりやすく、といって中味がわからないものではダメ。PLAZAの『Ans.』は好例かと。いま、僕が持っているタイトル・アイディアは『アソンデル』『Leni』等(詳しくは、また)。
じつは、僕は雑誌はほとんど読まない。他人のやっていることに興味ないから。電車の中吊りだけ読めば十分だと思う。そして、そこで引っかかったものがあれば初めて手に取り、中味を読む。同じ業界でも、先述の「DNAの異なる」ものはあり、それをチェックする(またはリスペクトする)ことは大切、当たり前だけど。
ただし、自社の雑誌だけは読みます。そこでわからないことがあれば、訪ねていって「どう撮ったの?」「どう考えた?」と尋ねられるから。

*Olive 編集長
蝦名芳弘氏
雑誌の基本は「何を、誰に売るのか?」
台割上での見出しの作り方

いろんな人の下で働いたが、一番DNAの異なる編集長が蝦名さんだった。往年の『平凡パンチ』特集デスクであり、当時の編集長・木滑さんのもと、次郎さん、椎根さん、鈴木さん(作家・西木正明)らを束ねていたというので「どんな人?」かと思ったら…まったくコテコテの女性誌編集者タイプで参った。
着任いきなりで大げんかし、僕は会社を辞める、辞めないまでいってしまった。それは…。アイドル特集で「郷ひろみの通信簿をやってくれ」と言われ、まったくアイドルに興味がないし、また、僕の企画でもないので断ったわけ。「やれ」「やらない」で大騒動!
最終的には、副編集長の吉田 園さんが間を取り持ってくれて、僕は100歩譲って「では、通信簿を原寸大でデザインしてくれるなら」で落ち着いたっけ(笑)。
ただし、蝦名さんから言われた「何を〜」は、その後の僕の、新雑誌発想の原点となった、清水さんの社是「人間を大切に、読者を大切に、想像を大切に〜三つの大切」とも共通するし。
また、作った台割上に、各特集のタイトルから各ページの見出しまで書き込んでいく手法は、そのままいただいた。これで、1冊の見出し類がすべてマネジメントできる、重宝なものだった。
蝦名さんはその後、『フィガロ・ジャポン』を成功に導き『PEN』を創刊した。

*POPEYE 編集長
秦 義一郎氏
読者の心情からタイトルを付ける
嫌な電話ほどすぐかけろ
出来そうもないことをやれ


僕が一番影響を受けた編集長といえば、やはり秦“ハウスマヌカン”義一郎か。それまでの編集長といえば「雲の上の存在」だったものが、僕もデスクになって身近になったこともあるが、編集のことをよく話した。
一番新鮮だったことは、前任の『anan』編集長時のタイトルの考え方。それまで、一人称と話し言葉を使っていい気になっていた僕も、あくまでタイトルといえば「作り手からの言葉」だったが、彼は「読者の言葉」でつけていた。たとえば、「秋はローゲージのニットでいこう!」なら「この秋、ローゲージのニットを着るんだ。」という具合に。これは、前述した「活字を目で読む行為は「知らず知らずに自分で音声化している」と思う」と考える自分にとって、当たり前とはいえ、目から鱗のことだった。木滑さんも「読者の言葉で〜」だったが、秦は「啓蒙ではなく、読者主体で」、一歩前を行く考え方を感じたものだ。
「啓蒙」でいえば、秦はよく「明朝とゴチックの違い」を語った。これは、見出しの「縦組み」と「横組み」とにもいえることだけど、新しい価値を訴えたいときには明朝/縦組み、同じ目線でアプローチしたいときはゴチック/横組みだと断言した。
「学校の廊下に貼る標語を思い出してみろ。「廊下を走るな」とゴチック/横組みで書いても誰も守らない。やはり、明朝/縦組みで書けば上からモノを言われている気がして守るもんだ」
また、彼は「日本に西(シルクロード)からやって来るものと東(太平洋)からやってくるものは売れ方が違う。大ブレークするのは東のもの。西からのものは、オシャレだが売れない」やら、「テレビの番組改編のダイナミズムは凄い! 視聴率20%あるもの(1%=100万人)も、季節の改編でスパッと切ってしまう。果たして、雑誌は100万部売れているものをやめて新しいものに替えられるか?」、「都心の西と東は、革新と保守。若いヤツは西へと向かう」等、モノの考え方について論議するのが好きだった。
僕も触発されて「興味ある人間を見たら、そいつはどんな雑誌だったら読むか? 考える癖をつける」、「モデル読者は何線に乗っているか?」、「新しい行動形態をとるヤツらを見つけて、彼らに読ませるものを考える」等、したもんだ。
あと、前述のテレビの話じゃないが、「雑誌の人気企画は、すべてテレビにとられていく、旅しかり、グルメしかり。雑誌は本来「雑な本」、役立つからと言って教科書みたいなものばかり作っていくと行き詰まる」「いまの雑誌は、金がないと言って、できることばかりやっている。ちょっと考えて、これはちょっと無理…くらいなことをやらなければ、テレビに負ける」と言っていた。インターネットに腰を折られ、テレビで話題の著名人、タレントに頼っている現状をみて、予言は当たったなあと確信しています。

編集恋愛論

僕は、マガジンハウスで新雑誌創刊ばかりやりましたが、他人から「なぜ、新雑誌ばかりできるの?」と言われたことがあります。そのときは、笑ってごまかしましたけど、僕の信条「やりたいことには手を挙げる」、「人事は自分で決める」を実践しただけです。そのためには、いつも「アイツは、何か面白いことをやりそうだ」という雰囲気を身につけていないとダメ。僕が「自分の思いついたことを盛り込み、企画のボリュームアップをはかる」のも、「自分のやりやすいように企画を作り替える」のも、イエスマンじゃない、何かやりそうだ…とアピールすることだったわけ。
いま、雑誌は「変わり者」のもの、広告主&代理店のものじゃないわけで、このことはタイアップ&フリーマガジンでは経験できません。できればいつか一度、媒体側=編集部に身を置くことをすすめます。
そして、本当の最後は、いつも言っている編集恋愛論。追えば逃げる、逃げれば追う…恋と同じ、カケヒキこそ、商業誌でもタイアップ&フリーマガジンでも忘れてはいけない、僕的編集のキーワードだと思います
(詳しくは、また)。

ポパイ本

ポパイ本










椎根 和(しいね・やまと)。1942年福島県生まれ。早稲田大学卒業後、『婦人生活』編集者に。平凡出版に途中入社し、『平凡パンチ』『anan』に携わる。退社後、講談社開発室を経て『日刊ゲンダイ』創刊スタッフ。再び退社し、77年『POPEYE』定期刊行時に編集デスクとして参画、後にエディター・イン・チーフ。『Olive』創刊時に社員となり実質の編集長、以後『Hanako』『Comic アレ!』『relax』の創刊編集長を歴任。取締役就任後、1997年マガジンハウス退社。

 椎根さんが2冊目の本、『POPEYE物語』(最初は『平凡パンチと三島由紀夫』、僕にとっては難解なものだった…)を上梓した。このことは、昨年暮れのエディター・角島真寿美(享年・46歳)の葬儀の際に聞いていたし、先月発行の『小説新潮』にサワリが載っていた。
 雑誌『POPEYE』については、いままでいろいろあったが、創刊後30年経って、初めて内部の人間の手によって書かれたものが出たわけだ。
「主人公は石川次郎で、そのスーパースターぶりを中心に、木滑(きなめり)さんの悪役扱いもすごいらしい…」と聞いていたけど、話は椎根さんなりのポパイ・ジャーナリズムの解説が主。もちろん、その中心は次郎さんだけど、木滑さんのことには過去(『週刊平凡』や『平凡パンチ』編集長時)はともかく、『POPEYE』では大してページを割いていない。
 まず、次郎さんのことについては、たぶん椎根さんも客観視でしか書けなかったのだろう。主観でとらえた箇所(というより、仕事を降られた実体験からくる「凄み」だが)はなかったような。アンダーボスとカポーとはいえ(詳しくは、書籍内参照)、お互い「ジロー」「シイネ」の仲だったわけで、当時はまさか好敵手のことを書くとは思っていなかっただろうし。
 かえって、下で働いていた後藤健夫や僕の方が、当たり前だけど「凄み」を味わっていたと思う。たとえば、後の『ゲーム』特集につながる『ピンボール』特集の時、「自分と同じ世代の人間と仕事をしろ」とイラストレーターの松下進さんをポンと紹介してくれたり、読者から間違いを指摘する葉書を持ってきて「ひとりが思うことは千人が感じていることだ」と怒られたり。
 木滑さんの悪役ぶりは、じつはかなり期待していたけど、最後の一章であわただしく語られているに過ぎなかった。まあ、ヒールぶりがいかんなく発揮される(!?)のは『POPEYE』、『BRUTUS』『Olive』の創刊を経て『TARZAN』、そして『Gulliver』刊行あたりのバブル期(木滑さんが社長に就任)だと思うので…仕方ないか。
 でも、代わりといっては何だけど、当時『POPEYE』がどう作られていたか? また、椎根さんが何を考えていたかはよくわかって面白かった。
 僕は『日刊ゲンダイ』創刊時に椎根さんに拾われ、『POPEYE』に呼ばれた。『POPEYE物語』では「創刊時、潜りこんできた…」という記述があるが、それは間違い。『日刊ゲンダイ』で働いていた2年間で約200万貯めこんだ僕は、日刊現代の社員の誘いも断り、なんとか5年で大学卒業のメドが立ったとき、しばらくアメリカに遊びに行こうと考えていた。そのとき、退社されてしばらく会っていなかった椎根さんから一報あり、ポパイに誘われたんだ。
「すみません、アメリカに行こうと思っていて…」
「なら、自分の金じゃなく、会社の金で行ったら、どう?」
 本当は、当時ポパイがあった六本木オフィスにちょくちょく顔を出していたのに木滑さん、次郎さんからはスタッフとしての誘いの声がかからず、また大学同期の後藤がいた(彼には、ある種のコンプレックス〜雑誌が根っから好き〜を持っていた)し、新雑誌『POPEYE』の仕事はあきらめていたんだ。だから、椎根さんからの誘いはうれしかった。

編集部




写真は創刊2年目の編集部でのもの。
右から二人目が椎根さん。
中央/左のイスに座っているのが「ウチヤン」こと内坂庸夫
中央/右のポップコーンセーターが僕
左の壁際にいる、次郎さんのアフロチックな髪型は変わらないなあ


 記述ミスでいえば、この本に僕に関してふたつの大きな間違いがある。
 ひとつは、49号『気分は、もう夏』特集で、カメラマンの村林真叉夫さんの事故が書かれているけど、あれが起こったのはハレイワではなくベルジーランド(ハレイワなら死んでいる!?)。また、自作のハウジングを持ち込んで水中撮影に挑む村林さんを、僕は取材終了時まで許さなかった。帰国2日前、おおよその取材が終わったので、宿泊先のクイリマ(現・タートルベイ)に一番近い、またノースでは比較的波が穏やかなベルジーランドを選んだわけ。
 僕は近視で、ビーチではたしかサングラスをかけていた。マンガではなく、たぶん『PLAYBOY』アメリカ版のヌード・グラビアを眺めていた僕の前に突如、彼が現れた。最初はわからなかったけど、頭から血を流していて、腕に大きな擦過傷があるのに気づいた。
「沖から、いくら呼んでも気づかなくて…死ぬかと思ったよ」
 壊れたハウジングから、水が勢いよくボトボトこぼれていたことを憶えている。
 もうひとつは、69号『60年代』特集。このテレビ記事は、名も無い制作プロダクションのオヤジと出会ってできた。そのオヤジは外信系の記事に強く、6ページで使ったTVスチールを全部持っていたんだ。データも、完璧だったが、あがってきた原稿はまさに『TVガイド』的だったので、すべて僕が書きなおした。『ローハイド』での以下の文章、「…ロディ役のクリント・イーストウッドに姉貴が夢中でした。」、この姉貴は、僕の本当の姉・美智子のことだもの。
 たぶん、椎根さんはポパイからいろんなタレントが輩出されたことで朝井 泉(泉 麻人)のことも書きたかったのだろうけど、彼の初仕事は後藤のフォーラムでの「懐古モノ」ではないか。

 椎根さん、木滑さん、そして次郎さんとの当時の個人的思い出を。
 椎根さんと初めて会ったのは76年秋で、渋谷・カスミコーヒー。本に書いてあるとおり、『日刊ゲンダイ』の創刊準備期間で、大貫憲章さんから紹介された。初めは「しょぼいオヤジだなあ」と思ったけれど、だだっ広い築地のオフィスビルのワンフロアで寺山修司さんの連載の話をしていたとき、話が『平凡パンチ』に及んだ。
「サム&デイブの日本公演の際、ポスターコンテストをやったでしょう。あれに僕、応募したんですよ」
「君、あれは僕がやったんだよ」
「えっ、では入賞した加藤裕将さんのポスター選んだの、椎根さんですか」
 その後、文化部のデスクをやられた椎根さんから『anan』の話等を聞かせてもらい、「これは、すごい人だっ!」とわかった。
 また、NETの深夜TV番組で『メロドラマヒーローコンテスト』に僕がふざけて出たことも知っていて、「今の大学生も、幼稚になったもんだと嘆いたけど、君だろう」と笑われた。
 創刊準備時期、築地にあるキャピタルホテルによく泊まったが、ある日、椎根さんとふたりだけで泊まったときがあった。出版界にはオカマが多い、僕は椎根さんにも勝手にその気を感じていて…その夜、求められたらどうすればいいか? 先を考えて、受けるべきか、拒むべきか…ひと晩寝られなかったことがあったっけ。
 木滑さんは、もう僕の中では比べようもない人だけど…。
『POPEYE』創刊当時、ラジオ関東で深夜番組のコーナーを後藤と僕が持っていた。いろいろ取材に行った最新情報や裏話を、編集部にかかってくる電話で語るものだったけど、それを聞いたニッポン放送の亀淵昭信さんから僕を社員にしたいとの誘いがあった。
 この本でもポパイの文体について触れられているが、基本は「話し言葉」。プレ創刊時、松山 猛さんから「松川なあ、オマエが使う“まんま”って何だ。“マンマ”といえば、京都ではご飯だぞ」と言われたことがある。自分が使う言葉が活字になる快感は、
内坂節しかり。
 で、僕は『POPEYE』の文章を「活字」とは思わず、ラジオの「音声」だと思っていたからスンナリ入り込めた。
 場所は本社前の喫茶フロリダ。メンバーは僕と亀淵さん。そこに木滑さんが来て…。亀淵さんが「松川をウチにくださいよ」ということになったとき、木滑さんはシレッと言った「こいつ、ウチの社員になるから」
 その次の春、僕は後藤とともに中途採用の試験を受け、晴れて社員となった。
 次郎さんともいろいろあったけど、ここでは自慢をひとつ。18号『スタ−・ウォーズなんか、もう見ない』特集は、アメコミ風イラストで図説されていた。このタイトルは、ゲラを見た僕が次郎さんの前でつぶやいたひと言だった。後日、採用になってびっくりした! この後、「なんだ、素の自分でいけばいいんだ」と変な自信を持ったものだった。

 最後に、僕についての記述の中で61ページで書かれているもの、「いつも新しい事をやりたがり、着地に失敗するという損な運命を持った青年」は、じつに正しいと思う。結局、僕だけ編集長職につけなかったが、そのことをまったく悔やんでいない。それより、1冊でも多くの創刊誌にたずさわり、そこで様々な新しい才能と出会うことの方が気持ちいいと『POPEYE』で知ってしまったから。

 椎根さん、どうせなら僕のこと「お調子者」ではなく、イラストレーターの小林泰彦さんからいただいた呼称「オキラクマン」を使って欲しかった…準備期間に出入りしていた人なら皆知っていると思うから。

『とっぽいヤツ』の楽しみ方

懐かしの銀座





写真は、東京オリンピック時の銀座4丁目交差点です。
写真右に和光、左には出来たばかりの三菱スカイリング、
また写真中央には懐かしい森永製菓の広告塔が写っています。


さて、ちょこちょこ書いてきた小学校時代の話をアップしました。
以下の方法でアクセスしてみてください。

1 トップ中央の「次のページ」をクリック
2 全15話の前半あたりが表示されるので、第一話まで下げてからどうぞ。
※スタイルが変わったため、面倒くさくてごめんなさい。

何か疑問、イチャモン等ありましたら、
可動していればHPの掲示板に書き込むか、
または以下のアドレスにメールください。
暇つぶしに楽しんでいただければ幸いです。

matsukawa@magazine.co.jp


追伸:
銀座の思い出は、アメリカの音楽ヒットチャート誌『Billboard』。
まだ『とっぽいヤツ』には出てきませんが、
中学3年の初夏、ニッポン放送の『オールナイト・ニッポン』で知り、
たしかヤマハに買いにいったっけ。
月の小遣いが3000円なのに、1冊900円近くしてたまげました
(飯倉のキャンティ、コーヒー1杯400円にも!)。
ちなみに、その時のヒットチャートNO.1は…
モンキーズの『ヴァレリ』か
ビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』だったような気がする。

訃報

 2006年11月4日午前7時25分、伊豆倉先生が亡くなられた。享年78歳だった。

伊豆倉先生






 2006年9月23日、土曜日午後。僕は、卒業40周年のクラス会開催の報告とお見舞いを兼ね、黒川誠治とふたり、東高円寺の先生のお宅を訪問した。迎えてくれた先生は、往年の面影もないほど痩せられていた、2年前の前回クラス会では変わりなかったのに。
 奥さんが奥の座敷に席を設けてくれていたが、手前のリビングのソファに横たわった先生は「悪いけど、難儀なのでこのまま横になって話してもいいかな」と言われた。僕たちは、座敷から座布団を持って先生の前に座り、小一時間思い出を話した。
 時々、記憶を探るように頭を撫でる先生の仕草が、妙に記憶に残っている…。

 先生の思い出といえば、芳水小学校旧・6年1組の生徒なら誰でも飼育栽培部のことをあげるだろう。当時、学校にどんなクラブが存在していたかは不確かだが、僕たちのクラスと先生イコール飼育栽培部だったような気がする。だって、他のクラスの連中が、たとえば飼っていた兎の世話や堆肥の仕込み、はたまた東京湾に似せて造られた池の清掃などをやっていた記憶がないもの。いや、各クラス(といって、他に2クラスだけだが)にひとつずつクラブがあったのかもしれない…男子が僕と義一、それに2組の添田の3人だけだった演劇部は、3組の鷺谷先生の受け持ちだったし。
 とにかく、よくクラブの用事をいいつかったものだ。授業中、急に呼び出されて、校舎裏の大すべり台脇に連れて行かれて畑作りをさせられたり、いまでは何の餌だか忘れたが、放課後、五反田の信濃屋まで行って鶏の首だけ買いにいかされこともあったっけ。

飼育栽培部





 不思議に思うのは、なんであんなに飼育活動をさせられる「自習」の時間があったのか? ということ。普通、小学校なら授業のカリキュラムは決まっていて、高学年なら平日でも6,7時間、土曜日でも4時間ちゃんと科目は決められていたはずなのに。先生は、何かといっては「自習をしていなさい」と言づけてその後、僕たち生徒を鳥小屋や池、畑に駆り出したものだった。
 このことは、僕たち男子は授業がないのでかえって喜んでやったものだが、女子たちはどうだったのだろうか? 
『とっぽいヤツ』の話のなかでも触れたことだが、ナポレオン・ソロの放映と時期同じくして、クラスの女子が「お嬢さん派」と「お姉さん派」のふたつ(もちろん、どちらにも属さない女子もかなりいたけど)に分かれた。そして、たしか飼育栽培部の活動は新たに台頭してきた「お姉さん派」が主に引き受けていたように思う。それまでワイワイやっていた「お嬢さん派」は、活動の中心から外れたことによって急激にその勢いを萎めていったような…そして、それはそのまま最終学年時の「私立派」「公立派」に移行していった気がするなあ。
 ということは、飼育栽培部の活動を通じて、そこに何らかの伊豆倉先生の「意志」も働いていたんだろうか? 
 亡くなられたいまとなっては、知る術もない。

 合掌。

『東京本』

心の風景





 泉 麻人の『東京検定』(情報センター出版局刊)を読んだ。

東京検定1









 第一講「まずはおさえておきたい基礎問題」から始まって第二講「観察力と推理力が試される応用問題」第三講「大人の東京人のための教養問題」第四講「東京のオーソリティを目指すためのマニアック問題」、以上全100問に、「特別講」として「東京タワーの絵を描いてください」がついている。「空欄に駅名を入れ、有名人の名前を完成させて該当する線名を当てよ」等、無理も多かったとはいえ、東京文化のオーソリティ的存在(著作での筆者紹介より)として宴会芸的・東京をよくまとめたと思う。
 ただ、個人的にも彼を知っているが、残念なのは出題レベルがイマイチ偏っていること。これは、彼が遅く生まれすぎたことと、性格(または体格!?)からか、映画のクレジットで言えば常に「撮影」であって「出演」でなかったことからかな。
 遅く生まれた(昭和31年生まれ)とは、少なくともあと2年、贅沢を言えば6年早く生まれていたら、もっとユニークな東京を「生」で見られたのに。となれば、出題も「アタマ」だけでなく、「カラダ」で考えられただろう(酒の席で、この手の話が盛り上がるのは、「知っている」ことではなく、「やった」ことで語るからだ)。
 たとえば、東京・原宿。ワシントン・ハイツ(もちろん、昭和28年生まれの僕だって知らない)の話はよく出てくるが、それをAKA的なキディーランドや東京ユニオン・チャーチ、またセントラルアパート等と同じく「記号」として語られてもしょうもない。むしろ、その残滓ともとれるコープ・オリンピアのダイナー(初めてルートビアやバナナ・スプリットを知った)や、竹下のカジュアル・ショップ、ハラダ(VANで4桁したBDシャツが3桁で買えた)、また駅前にあった24時間スナック、コンコルド(ジーンズに縄ベルト、サンダル姿の原宿族アンちゃんに連れて行かれた)、はたまた外苑西通りのプレイメイト(スカGのプレイボーイ風坊ちゃんの溜まり場)等で出題できないのが残念。当時の東京を「知識」ではなく、「体験」で身につけた彼が、どう語ってくれるのかは楽しみなんだけど。表紙・帯に「上京間もない大学生から、生粋の江戸っ子まで」とあるが、間違いなくこの手の本はオヤジ本なだけにね。
 また、性格(体格…子供の頃、たぶん太目で「やんちゃ」の隅っこにジッとくっついていたタイプだったんだろうか)でいえば、常に観察者ではなく、いくつかの場では当事者であった方がより面白い出題を考えられたことだろう(今で言う、チョイ悪おやじが「俺も、若い頃は悪くってさ」的な嘘っぽさといえばわかるかな。本当に悪かったヤツは、決して使わないフレーズだ)。その意味でも、彼は「撮影」サイドであって「出演」側ではなかったような気がする(同じく、表紙・帯にも「東京観察歴50年」とある)。
 ただし、大学卒業後から東京ニュース通信社を経て独立し、バブル期を経るあたりは彼の真骨頂だ(問61「歴史的なディスコ店の解説を読んで、店名とゆかりの深い人物を選べ」等)。ここでは、立派に「出演」しているから出題の深みが違う。近年、ノベルをモノにしていないが、彼の読み物が大好きな僕は、いついかなる時でも「バブル期」を基軸にしたモノを彼には書き続けてもらいたいと思う。
 あっ、彼の新宿育ちとやらも、十二社や三光町あたりならよかったが、下落合では「撮影」に徹するしかなく、しかも幼児期の趣味も「昆虫」「乗り物」「テレビ」等…仕方なかったのかなあ。
そうそう、『東京検定』には誤植が4箇所あった。そのなかのひとつ、「ファストフード」がいまだ「ファーストフード」、哀しい…。

銀座八丁・表銀座八丁・中







 もう1冊。『東京検定』を読んだ直後、義理の父から『銀座界隈・別冊』(東峰書房版)の『アルバム・銀座八丁』をもらった。これは木村荘八編著のもので、発行は昭和29年6月25日となっている。
 巻頭には以下の文句がある。「これは昭和28年11月から翌年春にかけて、出来るだけ同じ天候、同じ時間を選んで、鈴木芳一君の撮影した写真をつなぎ合はせ再編したもので…」WOW! まさに、僕の生まれた時じゃないか! つまり、銀座の両サイドの町並みを、東西1丁目から8丁目まで、すべて1枚写真にしたもの。いままで、地図や図等では描かれたものを見たことはあったけど、写真では初めて! 同じく巻頭言曰く「〜軒並写真に依る絵巻風の町のナマの表現の試みは、これが初めてだらう。…」
「銀座」をモノにした読み物は多くあるが、この手のモノから思い出すのは昭和初期の銀座をルポした松崎天民の『銀座』(前述の『東京検定』で語られている、今和次郎の『新版大東京案内』も読んでいるが、立派な!?考現学なので「風俗」としての愉しみに薄い)。そこには、たしか当時の銀座界隈が図で描かれていたと思う。『アルバム・銀座八丁』は、パノラマ写真で、まさに「ナマの表現」で作られているのには驚いた。こういう出版企画は、時を経ていま、インターネット全盛時においても色あせない。決して、ウェブではできない表現手法ですよ。
 また、写真のみならずテキストも付いていて、各建物写真の下に説明がある。つまり、備考として「年次の店名」が付いているわけ。第一段=昭和28年12月(戦災後)、第二段=昭和17年7月(戦災前)、第三段=昭和5年12月(震災後)、第四段=大正10年8月(震災前)とある!(東二丁目のオリンピックは本店で、西五丁目、つまり鳩居堂とワシントン靴店の間にもあったんだ)たとえば、西後丁目角の「三愛」は「キリンビヤホール」(戦災前)であり「昭和銀行支店」(震災後)であり「八十四銀行」(震災前)だったという風に。
 義理の父が持っていたのは別冊としてのアルバムだけ、それをいただいたわけだが、本誌『銀座界隈』もぜひ読んでみたい。


おまけ1

完成前










 映画『ALWAYS〜三丁目の夕日』を観た。いつもはSF等に使われるCG技術に、こういう使い方もあるのかと感心。東京タワーが完成する、昭和33年の町並みがリアルに再現されているんだ。
 原作はコミックだけど、主役の鈴木オートのお父さんと、集団就職で上京したサブキャラの六ちゃんが違っている。お父さんは、かなり喜怒哀楽の激しい性格設定になり、また、六ちゃんはなんと女の子(!)。このへんが東宝の映画(でも、始まりのクレジットが古の「東宝スコープ」になっていたから許すか)らしい。お母さん役の薬師丸ひろ子は、これがピッタリはまり役で、コミックの感じにも似ていてよかった。
 舞台は赤羽橋から三田に向かったところか。都電が通る大通りの横丁、そこにこぢんまりとした商店街がある…、たぶん架空だろう。現実は慶大裏あたりで、反対側には三田の商店街、山の向こう側には四の橋商店街があったけどね。
 さて、ストーリーは出会いと別離の人情話。だけど、湯たんぽの残り湯を朝の洗顔に使ったり、小児科の先生が往診に来てくれたり、悪ガキたちの決めポーズが「チョ〜ップ!」だったり等、当時の暮らしのディテールをおさえているのが楽しい。
 悪ガキといえば、もう一人の主人公役の少年がクリスマスに欲しがるのが「鉛筆」と「万年筆」だった。それで思い出したけど、戸越の塾に通いだして、初めて鉛筆の「濃さ」や「ブランド」を意識するようになったっけ。塾の先生は「答案はハッキリ書くよう、BかHBにしなさい」と勧めてくれたけど、僕の好みはH。細めだし、薄いのがかえってカッコいいと思った。2H使って怒られたり、Fなんていうのに憧れたりもした。また、僕が使っていたのはトンボの1本10円のものだったけど、医者の倅の金成なんか1本50円の三菱UNIを使っていたのにはビックリ。さらには、1本100円もするHI-UNIやトンボMONOなんかも出て、並びのオカジマ文具店で眺めて「1ダース買ったら1200円か…」とタメ息ついたなあ。
 同じく塾の帰り、大崎広小路のガード下にある吉光堂のガラスのショーケースに並ぶ万年筆にも見入ったりした。万年筆(巨泉のCM「ハッパフミフミ」で大ヒットした、パイロット・エリートはまだない)に腕時計は、中学生の証。それを手にすることで、角の南大門じゃないけど「大人」に近づけるような気がしたんだ。
「映画」だから、誰もが観て楽しめるものじゃないとダメなんだろうが、どうせなら東京で「その頃」すごした人しかわからないものにしても、いいかも!? 
 あっ、すると『とっぽいヤツ』になってしまうか。

付記

付記1
1963年9月10日、国鉄山手線の五反田駅東口に日本初の「歩道橋」が完成したそうな。たしか、伊豆先生がその旨を昼休みに話してくれた記憶がある。ただし、僕は日本初の歩道橋は第二京浜と中原街道に架かる歩道橋だ(その後完成した!?)と今まで思っていた。でも、明海さんが働いていたカサブランカに興味を持った頃には、もう完成していたような気がする。ちなみに、第二京浜と中原街道に架かる歩道橋を越えた向こう側には当時、星製薬の工場跡があり、その廃墟然とした建物がいつまでも僕に「戦後」という二文字を想起させたっけ。

付記2
2005年5月29日。何気なくテレビを見ていたら、「静岡県石廊崎沖で、漁船と貨物船が衝突し、乗組員一人が行方不明になって…」とお昼のニュース。そのまま聞き流していると「行方不明になっているのは、南伊豆町子浦港所属の漁船、抗日丸4トンの漁労長、石垣伝一さんで…」。僕は、あわててニュースに目をやった。そこには、船体がふたつに割れ、船底を海原に漂わせている漁船の絵があった。まさか、いや、たしかに「石垣伝一」と言っていたよな。ニュースは、すぐに終わってしまったが、石垣さんって、親父の命を助けてくれた「伝さん」じゃないか!? 「テッちゃん」「テッちゃん」と、僕のことを凄い訛でやさしく呼んでくれた伝さんだ。一体どうなっているのか…わからずに、僕はパソコンを立ち上げ、イライラしながらニュースを検索した。以来三ヶ月、その行方はわからず、捜索も打ち切られている…。

とっぽいヤツの条件

1 気障(きざ) 
決して嫌味ではなく、スタイリッシュでありたいための「とまどい」がなせる業です。

2 生意気 
旺盛な好奇心と知識欲が、他人の眼に映ると「生意気」と呼ばれる。何も感じない、自己中心的な「わがまま」とは違います。

3 早熟 
ミカケとナカミの差が大きい。と言って、頭でっかちではなく、物事に対する価値観が少年期に確立されているにすぎない。そのくせ、幼児性が抜けていないかも。

4 シャイ 
「恥」を知っているだけに、常に自分の感情のすべてに持ち合わせている。

5 都会的でスマート 
活発・利発・啓発(ただし少年期のみ!?)。

6 おっちょこちょい 
早熟なので、その機来あり。が、憎めない。甘えがかいま見られる。

7 思い込みが激しい 
こだわりがある。

8 ちゃつかりしている 
要領がよく、損得勘定が早い。アタマの中で浮かんでくる思考が、カラダの動きより早い。また、周囲に流れる時間よりも早い…そのためにイラつく。

9 お調子者 
もちろん、あわて者である。

10 かたくなで、しなやか 
二律背反、ジレンマ大好き。夢想家でリアリストかな。

とっぽいヤツその後

とっぽいヤツ




 まあ、自分でもよく書いたものだと思います、ほんと。いまは仕事モードに入っているので叶いませんが、『とっぽいヤツ』は続編2話を考えています。ひとつは、泰典たちとタムロった六本木のクラブ、ルフィノに舞台を移した高校時代の話、もうひとつは大学3年の夏から平凡出版入社までの話です。限りなくノンフィクションななかで「街」と「風俗」を取り込み、ちょっぴりスパイスとしてフィクションを盛り込んでみたら…さて、どうなりますやら!? 乞う、ご期待!

とっぽいヤツ15

15 壁新聞顛末記

航空事故






 今年は、60年に一度回ってくる「丙午」と書いて「ひのえうま」とかいう年で、火災が多いとか、この年に生まれた女性は気が強い、夫を殺すとかいう迷信があって、「江戸時代、八百屋お七の刑死を芝居にしたことで広まったんだよ」と孝一は教えてくれた。丙午の年は、子供が生まれる数も極端に減るそうで、「出生率、かなり減少か」と、新聞でも大きく書かれている。

「こんな冷蔵庫が、いまのハヤリなのかねえ」と、薫は広告を見てつぶやいた。
「どれ。あっ、知ってる、サンヨーのアート・ドアっていうやつでしょ。でも、金馬車だの、ペンダントだの、どれもすごい絵柄だよね、うちの台所にはあわないよ」
「元気になったのはいいけど、お父さんも釣りばかり行ってないで、少しは家のこと考えてくれないかねえ。おまえも、もうすぐ受験で中学だし、美智子も高校に進むのに」
「そうだよ、僕だって自分の部屋欲しいし、中学になって勉強するのに台所の隅っこじゃあんまりだよ」
 哲夫が低学年の頃、オジイちゃん、オバアちゃん、久男ちゃんの3人が三木からやってきた時、孝一は、それまでの平屋に手を加えたが、お店部分はそのままで、居室部分だけの増築になったため、1階と2階、その二間に家族7人が寝起きしている。1階の十畳の奥は台所になっていて、そこの窓側に申し訳ないように机がふたつ並べられていた。
「おじいちゃんも、お父さんが家を直す時に少しでも援助してくれれば、ねえ。もうちょっと、まともな感じで暮らせたのに…」
 薫も、ここのところ、店番を一緒にしている時、随分グチをこぼすようになった。まあ、美智子は商業学校とはいえ私立に通わせているし、この春、後を追うように自分の私立進学もある。家業のぞうり屋だって、けっして行く末、楽な商売じゃない。その先、高校、大学を考えると、薫は不安を感じているんだろう。
「そういえば、泰典も芝、受けるらしいよ。お母さん、話したの?」
「そうよ、伊豆先生と話して芝に決めた時、庄野さんもご一緒させてって」
 自分の成績なら、麻布や開成はちょっと無理だが、中堅どころの私立なら、まず大丈夫だろうとのことだった。第一志望は、授業に商業がある芝にして、すべり止めに明治の中野を受けることにしている。
「泰典っていえばあいつの家、また新しいステレオを買ったんだよ。ナショナルの、格子扉のついた天板固定式キャビネットの『潮』から超音響ステレオの『宴』に替えたんだ。今度のは、レコードケースが前面についてるし、自動的に戻ったり、切れたり、繰り返したりするプレヤーがとっても便利なんだって」
「庄野さんの家は社長さんだからねえ、うちにステレオなんか置いてごらんな、それこそ、その間に4人で寝なきゃなんないんだよ」
「わかってるさ。あいつの家じゃあ、タッパーウェアのホームパーティだってやっているからね。僕は自分の部屋さえできればいいんだよ、そこで、プレヤー聴ければいいんだから」
「はいはい、自分の部屋を持つ前に、ちゃんと中学生になってもらわなくちゃね。受験、がんばるんだよ」
 薫の決め言葉を合図に、哲夫は奥に引っ込んだ。

 お昼は、久しぶりに横丁のハッちゃんの店でラーメンを食べた。その味は、デパートの食堂で食べるのに比べると、同じ醤油味だがこってりしている。なんか、煮干しのダシが効いている。中華料理はよくわからないが、いってみれば大陸的で、ラーメンというより”支那そば“という語感が似合う味だった。
  
 最終学期に入って、クラスも受験組とそうでない地元進学組に分かれ、哲夫たちは放課後、居残っての補講が不定期にあった。そういう時、終わって下校の際、下駄箱に地元進学組からの励ましの便りが入っているのがうれしかった。芳水は私立進学が多く、6年1組のクラスは半数近くが受験組だ。

 あわただしい授業の最中、もう2年近く続けてきた新聞部の集まりも、最後をどうするか? で悩んでいる。
「だいたい、学校に新聞がないのがおかしいと思わない? ほら、以前NHKに”宿題のない学校“で取材された時、向こうの人に学校新聞なり、学級新聞はあるの? って聞かれただろう。俺たちみたいに好き勝手にやるんじゃなくて、普通は、ちゃんと学校公認というか、各学年から担当を選んで作っていると思うんだ。俺たちは”カタチ“を作ったんだから、それを残していくのがもうひとつの卒業記念にふさわしくないかな?」
「でもさあ、刷り物ならわかるけど、手描きの壁新聞だろう。それに、うちらのクラスだけでやっていたことだし。2組や3組なんて、カンケーないじゃないかあ。卒業記念は新校舎文庫に決まったんだから、下級生に無理矢理やらせて残すっていうのは、どうもなぁ」と、治樹は、冷静に言葉を選びながら言った。
「やろうと言い出したのも、もっと面白くしようぜとがんばったのも、松川の気持ちはわかるけど、やはり卒業で終わるって方がいいなあ…これは、僕らだけの思い出なんだからさあ」と慶一も言った。
 好きで始めて好きで終わる、それがいいじゃないかと長門から言われると、そこまで突っ張っていた自分も、次の言葉が出てこない。
「哲夫の気持ちわかるけど、最後まで面白くやろうぜ、なにもこれが俺たちのつきあいの終わりじゃないんだから」
 幼稚園、小学校と、7年間も一緒のクラスだった河野も続けた。
 最終号は、受験がひと段落ついた2月末から3月頃に出そうということになった。
「うち~~のテレビにゃ色がない、隣のテレビにゃ色があるぅ~♪の、サンヨーのカラーテレビのCMじゃないけど、最終号くらいはカラーでいこうや」
「みんなで色塗れば、フィナーレにふさわしいぜ」
「そう言えば治樹、話もひと段落ついたんだから、あれ見せろよ」
 野原が、急かせる。治樹は、かばんの中から1冊の雑誌を出した。
「もう、ボーイズライフじゃないでしょ。これからはパンチだよ、平凡パンチ」
 そう言いながら、パラパラと誌面を広げると、治樹の周りに輪ができた。
 彼が持ってきたものは1月24日号、特集は『1日の自由時間、217分を2倍に活用する方法』だった。が、みんなが飛びついたのはグラビア写真だ。
「ウヒョ~、すごいねえ、この裸」と、河野がうれしそうに言った。
「俺は、マカハで行われたサーフィン大会の記事の方がいいな、これ現地レポートじゃん」
 裸は気になったけど、ユタカちゃんたちがやっているサーフィンにも哲夫は興味があった。
「うちの兄貴も買っているけど、売れているらしいね、この雑誌。平凡を出している会社から出ているんだけど、三人娘とか、御三家とかは興味ないけど、マガジン・フォー・メン、つまり男のための雑誌って言うの、イカスと思うよ」
 やはり、長門も知っていた。
 ホンダのメキシコGP優勝の記事が載っている、ボーイズライフの今月号を出しそびれた。パンチを買うには勇気がいる。とてもじゃないけど、向かいの近藤書店なんぞで買おうもんなら何を言われるかわかりゃしない。
 その夜、五反田駅の向こう側まで哲夫は歩いていった。シャネル美容室の前を通った時、ママの大きなおっぱいが目に浮かんだけど、足早に遠ざかった。
 年寄りのおばあさんがひとり、店番している本屋をやっと見つけた。
「お兄ちゃんから頼まれて」といって、平凡パンチをなんとか買えた。100円出してお釣りの50円を受け取る時、おばあさんは言った「ちゃんとしまっておくんだよ、親に見つからないようにさ」

受験2












 2月1日、今日は芝中の受験日。朝から薫ひとり、ドタバタしている。
「お父さん、朝の勤行もいいけど、遅れますよ、もう急に信心深くなっちゃって」
「なにも、自分が受けるわけじゃないのにね、バッカみたい」
 美智子は、そう言い残して出ていった。
 仏様のある2階から降りてきて、コートを羽織りながら孝一は言った「何事も、落ち着いて取り組めば大丈夫だからな。なあに、だめなら中野があるしなぁ」
 哲夫は、全然気にしていない。芝だって、過去の出題問題やってみてもまったく問題なかったし、ましてや明治の中野の問題といったら、戸越の塾のBクラス程度のものだったからだ。泰典も受けるが、さすが今日は別々で、発表は一緒に行こうということになっている。
 出がけに見た新聞の一面には、アメリカがベトナム戦争で北爆を再開したと大きく出ている。
 浜松町まで山手線で行って、そこからタクシーで芝公園に行き、「がんばってこい」の孝一の声を背にして校門をくぐった。案内されて教室に入る前、狭いアスファルトの校庭を横切ったら、公園をはさんだ向こうにある東京タワーが覆い被さってくるようだった。その光景が非現実的で、すごく気に入った。
 受験番号は302番、前のヤツはアホみたいだったが、303番の丸山というヤツとは仲良くなった。
 国語、算数、理科、社会、4教科の試験は、楽勝だった。
 次の日は、明大中野の試験だ。初めて行ったが、さすが付属だけあって、アメリカの学校みたいに食堂があるのには感心した。新宿も通るし、学食もあるし、なかなかいいと思ったけど、どちらに行くかの答えは簡単だった。

受験1












 明けて金曜日、2月4日。芝の発表は、ピクニック気分だった。泰典も受かっていて、お互い「また、一緒かよ~~」とじゃれあう。チラッと見たら、合格番号に301はなく、303はあった。中学も面白くなりそうだ。
 記念写真を6人で撮って、帰りは渋谷に出て、東急東横の食堂で遅い昼食をとった。
「ええっ、ボ・ウ・ズ! 芝中って、なに、頭を坊主にしなくちゃいけないのぉ…」
「なんだよ、テツオ、知らなかったのか?」
「聞いてないよお、そんなこと。お父さん、ホント?」
「言ってなかったか、まだ? まあ、男子校だし、クラブでもやれば同じだし、いいぞ、気にすんなよ」
「そうよ、テツちゃん。泰典だって、誰だって、芝に入ったらみんな頭刈ってしまうんですもの、ねえ」
「まあ、おじさんは別に刈っているわけじゃないけどね」と、ツルツルの頭をなでながら泰典の親父さんが言った。面白くもない冗談だった。
「庄野さんは、頭の形がよろしいからお似合いですよね」と、薫もまた、余計なことを言っている。
 降下中のエレベーターの隅っこにつけられた鏡を上目遣いに見て、頭の上の黒いものがなくなった姿を想像してみる。かなり、気色悪かった。
 芝中合格のお祝いはパイロットの万年筆キャップレス、ホントは腕時計が欲しかったけど、哲夫の細い手首にはあわなかったのだ。

 その日、ソ連の宇宙ロケット、月9号が嵐の海中央に軟着陸した。昨年末の、ジェミニのランデブーの時もそうだが、米ソの月面探査の争いはますますヒートアップしてきている。試験の発表も終わって、夕飯の前に、久しぶりにミザールの望遠鏡を出して月を見た。彗星ブームの頃に比べ、季節的に空はきれいで、クレーターがよく見える。
「明日は、久しぶりに新聞部の連中を集めて最終号の話でもすっか」
 オリオン座のペテルギュウスを捜しながら、独り言をつぶやいていると、「お~い、どうやら全日空の飛行機が落ちたらしいぞ」と、孝一が奥の薫に向かって怒鳴っている。
 望遠鏡をしまって、店に入り、すぐに上がってテレビニュースを見た。
「こわいねえ、やはり空なんか飛ぶもんじゃないよ」と、台所から薫がしゃべっている。
「でも、まだわからないじゃない。消息を絶ったといっても、海にでも緊急着陸しているかもしれないよ」
「ばかねえ、運輸省に海上保安庁、防衛庁、警視庁、それに米軍まで出てるんだよ。どこか、千葉の山ン中にでも落ちたんだよ、きっと」と美智子が言った。
 テレビの話では、ボーイングの727機はアメリカでも事故続きだそうで、すでに改造勧告が出ているとのことだった。
「全日空機、東京湾に墜落。死者133人は航空機史上最悪! 午後7時1分、北海道千歳空港発羽田行の全日空ボーイング727型機が東京湾に墜落、乗員7人、乗客126人の133人全員が死亡した。事故機は、千葉市上空から推定高度約600m、時速450キロ前後で東京湾上空に入り、水平飛行を続けていたが、午後7時0分20秒の交信を最後に管制塔との連絡をたった…」(『20世紀全記録』より)
 夜、万福湯から帰ってきて、ニュースの続報を聞いたが、やはり羽田沖に墜落したらしい。テレビ画面には、木更津沖の波間に漂う胴体の一部が映っている。
「明日は、ちょっと新聞の気分じゃないなあ…」
 まだ温まっていないふとんに潜り込む時、そう思った。

 クラスでは、受験組のみんなそれぞれの進路が決まった。長門と石野は駒場東邦、慶一は攻玉社、服田は早稲田実業、山上は日大三中だ。
 意外だったのは、女子で調布に進む子が4人もいて、その中に樋野さんがいたことと、グラマーな佐藤さんが、東洋英和を落ちて大崎中に行くことになったことだった。でも、終わってみれば男子校、女子校、男女共学の地元中学と、その顔ぶれはふさわしかった。

 受験が終わってひと息ついた2月14日、月曜日。
 今日は、卒業アルバムの撮影があった。先月末、撮影のグループ分けでちょっとしたもめ事があって、一生に一度、せっかくの記念写真がハンパなものになってしまったんだ。
 泰典が、仲のいい黒パンと組んで仁志川さんたちと一緒のグループになったのはショックだったし、受験以来、生意気だった山上は、その仲間に入れてもらえずにふてくされていたんで、哲夫たち男子の仲間からもはじかれた。結局、残り男子の寄せ集めと一緒に写るハメになる。
 泰典たちは、新校舎の2階にあるルーフに降りて「シェー!」のポーズをして撮ってもらっていた。山上は、新校舎玄関で進藤、吉野たち5人とパシャッ、誰も笑っていなかった。
 哲夫たち男子は、雲悌の上に立って撮ってもらった。長門もいる、服田に河野、慶一、治樹、仲野も一緒だ。
 校庭のあちらこちらで歓声がわいている。撮られ終わって、以前樋野さんから言われた”クラスの中の不協和音“が最後まで影響しちゃったんだな、と思った。

卒業写真







 学校から帰ってくると、速達の小包が届いている。差出人はジュリだった。中には、真っ黒なチョコボールといい匂いのするカードが入っている。
「チャオ! 松川君はお元気ですか? 中学受験の合格、おめでとう。男子校だってね。ジュリも、市内にある山手女子中学に進学することになったよ。今度は、周りが女子ばかりでいやんなっちゃうけど、松川君のこと想ってがんばろう(何をよぉ!?)と思っています。神戸で有名なケーキ屋さんのトリュフを送るね。HAPPY VALENTINE DAY! 中学生になっても、仲良くいこうね! 貴男のジュリより」
 トリュフって、なんだ? と思った。バレンタイン・デイって、たしかテレビの『アンタッチャブル』でアル・カポネが裏切り者を虐殺した日だよな? 何の関係があるんだろう? わからないけど、ジュリも無事私立中学に進めたんだ、薫と美智子が冷やかすなか、気の利いたことはできないけど、お返しのカードを送ろうと思った。

謝恩会







「今度は、サントリーがビールを売るんでクイズを始めたね、一等の博士賞にはトヨタの2000GTだってさ」
 縦笛を止めて、泰典が言った。
「ペプシのときよりも、いいよね。ボンドカーのアストン・マーチンよりもかっこいいよ、今度のトヨタは」
 キーボードの手を休めて、長門も話題にのった。横でぼんやり眺めていて、ペプシの懸賞のことからジュリを思い出した。まだ自動車には興味がなく、それより自分はグリコのアーモンドチョコレートで当たるおしゃべり九官鳥人形の方が欲しい。
 いよいよ卒業月の3月になって、放課後の教室では、新聞部の最後の集まりの前に、卒業式の時の謝恩会でやるエレキ合戦とマジックショーの練習が空き教室で行われている。
 エレキは、ギターが黒パン、泰典と仲さんが縦笛、長門が電気ピアノ、仲野がドラムだ。哲夫はマジックショーの司会役だった。ホントは、若大将よろしくテケテケやりたかったけど、ギターも何も楽器が一切できないんで、あきらめるしかない。ならば、トニー谷じゃないが、最後にみんなを笑わせてやることに決めたんだ。
 マジックのネタは美女切断で、女装した治樹と野原がひとつの箱に入って、その間をノコギリで切り裂くというやつだ。切り裂いた後、頭と足が勝手に動き出すという趣向に、自分が上手くナレーションすることになっている。
「ちょっと、やはり空手じゃおもしろくないじゃない?」
「頭と足はピョンピョンしているんだから、哲夫はしゃべっていればいいんだよ、なあ」
 演出している河野は、気楽でよかった。空手じゃあと言っているのは、冒頭でマジックショーを紹介の後、立て看板を持って西小山のパチンコ26号線のサンドイッチマンになるコントがあって、出だしは笑いをとれる自信があったけど、最後のオチは弱いと思ったからだ。
「頭と足が、跳ねながら舞台から消えるっていうより、しゃべっている俺と一緒になって踊るっていうのはどうだい? その後の、エレキ合戦にもつながるし」
「そうだよ、せっかく俺たちが女の格好してんだから、適当に跳ねた後、箱から飛び出して一緒に踊るってほうが面白いわな」
 頭役の野原も、目立っていいからと賛成した。
 ダダン、ダン! とドラムが鳴って、エレキ組もノリノリだ。
「わかったよ、じゃあ、俺の魔術師に助手役の勢村も含めて、みんなで踊ろうかい」
「いぇ~~いっ!」
 バンドの演奏に合わせて、勝手にゴーゴーを踊り始める。
「そういえば、3組に関根っていう子、いるだろう。あいつの家、アパート持っていて、バンドマンが下宿しているんだってさ」
「知ってるよ。たしか堀威夫のカントリー&ウエスタンバンドなんかがいるって」
「同じ組の田村たちも、中学になったらバンド組むとかで、通っているっていうじゃないのさ」
 踊りながら、河野がご近所ネタをくっちゃべっている。
「おい、いい加減にケリつけないと新聞の話、できないぞ~う」
 残っている慶一は、みんなに声をかけた。
 最後の壁新聞は、いままでの記事の中から「思い出ランキング」と題して総集編を作ろうということになっていた。

 その日、3月4日の夜、またしても事件は起こった。
 濃霧の羽田空港で、香港から飛んできたカナダ航空のダグラスDCー8が着陸に失敗、進入灯に主脚を引っかけ、防潮堤に激突、爆発して炎上したのだ。先月のボーイング727といい、憧れの飛行機に何か起こっている気がした。
「カナダ機が羽田空港で炎上。濃霧のため防波堤に激突、死者64人。午後8時15分ごろ、羽田国際空港でカナダ太平洋航空のDCー8型機(乗員10人、乗客62人)が、濃霧のために着陸に失敗、進入灯に主脚をひっかけ、滑走路南端の防波堤に激突、炎上した。この事故で64人が死亡、8人が奇蹟的に救助された。事故機はホンコン発東京経由のバンクーバー、ブエノスアイレス行で、濃霧のために千葉県木更津沖上空を上空を45分も旋回していた。一度は着陸をあきらめて台北に向かおうとしたが、視界が1000mまで回復したため、羽田に着陸しようとして事故となった…」(『20世紀全記録』より)

 明けて土曜日の5日。なんかモヤモヤしている気分のなか、総集編の記事づくりをしている哲夫たちのところに、今度は羽田から香港に向かうイギリスのBOACボーイング707機が富士山ろくに墜落したというニュースが飛び込んできた。
「連日の空の惨事! BOAC機は富士山に墜落、死者124人。午後2時20分頃、BOAC(イギリス海外航空会社)のボーイング707型旅客機が富士山太郎坊測候所付近に墜落炎上し、乗員11人と乗客113人全員が死亡した。航空史上例のない、2日続きの大惨事となった。この日、富士山には強風が吹き荒れ、激しい乱気流が発生していた。BOAC機はこの乱気流に巻き込まれた可能性が強いが、生存者がなく、機首に積まれたフライトレコーダー(飛行記録計)も焼失したため…」(『20世紀全記録』より)

「おいおい、いったいどうなっちゃってるんだ。このふた月で3回、昨日今日と連続事故なんて! こりゃ、思い出に浸っているより、何かしなくちゃいけないんじゃないかあ」
「そうだな、河野の言うとおりだよ。世の中みんな海外旅行に浮かれているけれど、こんな事故が続いちゃあ、なあ」と、治樹も続けた。
「よし、思い出ランキングなんていう後ろ向きなことは止めて、最後までみんなの知りたいことやろうぜ、そっちの方が俺たちらしいだろう」
「いいと思うよ、僕も。とにかく、安全なはずの飛行機が、こうも事故ばかり起こしているんだから、今回はいろんな記事を集めて飛行機のメカニズム、特に安全対策に絞ってやってみようか」と、長門がまとめた。
 新聞部ではいろんな記事を作ってきたが、それらは担任の伊豆いわく「社会勉強をかねて、実際足を運んでごらん」が基本だった。晴海の自動車ショウに行ったし、オリンピック直前の羽田空港にも行った。噂を追って、昭和26年の十円玉を調べにコイン商のところまでにも話を聞きに行った。「分からないことは自分で調べる」を地でいったわけだけど、今回の航空機事故は特別だ。卒業を間近にひかえて、自分たちがやってきたことが何だったのか? みんな、それぞれの胸に問いかけているようだった。
 
 1966年の春、321人の命が海に、空に散ったことは一生忘れないだろう。

卒業式













 卒業式が終わって、哲夫はひとり校舎を歩き回ってみた。
 保健室の前を通ると、いろんなことが思い出されたけど、一番は3年の夏に起こした”出来事“だった。
 低学年の頃、担任の先生がバタバタ替わって、落ち着かなかったあの頃、自分は鬱屈した問題児だった。新しい担任の太田先生と折り合いがつかないなか、しでかしたんだっけ。クラスのみんなで育てていた、3つのクロッカスの水栽培のひとつを、掃除の時に落として割っちゃった。あたりを見回して、誰もいないのをいいことに、残りの花瓶も割って教室から逃げ出したのだ。
 先生には、掃除の時、猫が入ってきて花瓶を割っていった…って、我ながらうまい嘘をついたんだけど、これが窓から見ていたやつがいたらしくて、バレて大変だった。昼休みの給食の時、みんなの前で泣きながら謝させられたっけ。一番に恥ずかしくって、一番に情けなくって、でも一番に自分らしいことだった…。

 春休み、哲夫はジュリからまた手紙を受け取った。
 今度の中学校の制服がかわいくないので嫌になっちゃうとコボしている。馬に見立てられた哲夫が、たぶんジュリだろう、女の子のもとに鼻息荒くかけてくる絵が一緒に描かれている。その手紙を机の中にしまう時、ちょっぴり胸がチクチクした。

 4月1日、エイプリルフール。
「おおっ、バリカンが入ったぞ」
「あ~あっ、よせばいいのに」
「でも、規則だかンな、芝中の」
「俺なら行かないね、そんな学校」
 外野の声は、自分たちには聞こえない。泰典とふたり、横丁の床屋で髪を丸刈りにしている。
「どのくらいにする? 五分か、三分か? それとも、いっそ五厘刈りにするか」と床屋のおやじは気楽に言ってるけど、ふたりは、それがいったいどのくらいの長さなのかわかっていない。結局、変な話、間をとって三分にしたけど、これがカリカリに短かい。
「おお~、やった!」
 黒パンも、慶一も、服田や河野も、ふたりの断髪式にやってきている。
「ちょっと触らせろよ。お~~、またジョリジョリとして」と慶一が茶化す。
「哲夫は、頭の中まで色黒だわな。それにくらべて、泰典は青白いぞ、やはり」
 服田が、上から覗き込むようにして言った。
「おい、ちょっと右側のハゲてんとこ、気にならないか? そこ、マジックで塗ってくれない? 河野よぉ」
 もう少ししたら、おなじみの顔とはしばらくバイバイ、また新しい世界だ…刈り込んだ頭に目立つハゲを、マジックで黒く塗ってもらいながら、哲夫はそう思った。

 いつも、とっぽいヤツだった。

とっぽいヤツ14

14 カタ屋のオヤジを逃がすな

飼育栽培部







「なぁ、おい、葉書出そうぜ」
 野原が、教室の隅っこでみんなに声をかけている。テレビのハヤリといえば視聴者参加番組、まあ、いってみれば素人がテレビに映って、アレコレもてあそばれるわけだ。
「林家三平の歌って踊って大合戦なんか、どだろうか? 鈴木やすしとジュディ・オングの勝ち抜きエレキ合戦みたいに、エレキできなきゃダメっていうのは無理だけど」
 参加者だって番組を楽しめばいいわけで、三平と一緒に「どおぅも、スミマシェ~ン」ってやったら面白いだろうな。
「あと、今月から始まる手塚治虫のジャングル大帝なあ、あれ、オールカラーだろう。いったい、誰が見られるんだぁ?」と慶一が言った。
「おれ、泰典の家で見るもん、ご愁傷さまぁ~」

 ジュリが転校してって、久しぶりの新聞部の集まりだ。
 新校舎になってから、一時は汚れるとかで壁新聞も止めにしたらって話もあった。学級会で「次に入ってくる5年生の人たちのことを考えたら、きれいな教室そのままで出ていくのがあたしたちの使命じゃないかしら」なんて、学級委員の仁志川さんたちが言ってたっけ。遠慮しいしい使ったって楽しくも何ともない。せっかく最終学年で入ったわけで、自分たちの手垢が付いたくらいがちょうどいいんだ。
 今日は、来年の卒業記念を何にするか? 各クラスに配ったアンケートの整理をやっている。花壇だの、壁画だの、ちょっと気がきいていてタイムカプセルなどで、どれもピンとこなかった。
「まあ、時間はまだあるんだし、よそのクラスの委員たちと話し合っていこうぜ」

「もう、それでなくてもこの不況なのに、困っちゃうねえ」
 薫が、新宿三越の新館オープンのチラシを見ながらコボしている。
「商店街のハズレなんだから、そんなこと、関係ないじゃん」
「跡継ぎのおまえが、そんなこと言ってどうすんの。まだまだおまえや美智子にお金がかかるんだから、少しは親の苦労も考えな」
 母親との口ゲンカの後、哲夫はひとり『トム・ソーヤの冒険』の”ある場面“を思い出してニヤついた。作中では、こうだ。トムはおばさんに怒られると、いつも理不尽さを感じて…急に不治の病にかかって、おばさんの言う「トムや、ひと言、許すと言っておくれ」にソッポを向きながら死ぬ間際を想像する…のだが、この気持ちに、いつも同感したものだ。
 薫の苦情を聞きながら、哲夫は10月6日の新聞の小さな記事に目がとまる。プリンス自動車の試作車が四つの国際記録を破るというものだった。オリンピック以来、高速道路の建設は続いているが、そのくせ国産車は連続の高速走行がまだ苦手だということは長門から聞いている。各地に高速周回路ができて、試作車R380がスピード記録を出したのは茨城県は谷田部の自動車高速試験場でだった。
 R380の写真を見て「たぶん、宿敵ポルシェを破るのはこの車しかないね」と、同じく車好きの泰典が言ってたことを思い出した。

「お母さん、チケットはちゃんと買えたの?」
 奥から、姉の美智子がやってきた。ここのところ、美智子の宝塚への思い入れようはすさまじいものがある。パリでの公演が好評で、来月は真帆志ぶき、那智わたる、甲にしきなどのパリ組と、ご贔屓の内重のぼる、加茂さくらたちを加えた、宝塚歌劇始まって以来のオールスター顔合わせ、凱旋公演があるからだ。
「大丈夫だよ、プレイガイドで買ってあるから、ほら」
 6年になって、哲夫は演劇部に入っていた。別に、姉の影響ってわけじゃないけど、演芸好きの母とヅカファンの美智子に囲まれて、舞台への興味は刷り込まれている。将来、家業を継ぐよりも、スポットライトが当たる仕事への憧れは、現代っ子、テレビっ子といわれる自分たち世代は、みんな持っていた。

宝塚





















 ツタンカーメン展が終わり、その入場者数が新記録を作った10月16日、土曜日。放課後、来月の演劇部発表会『折れたクレヨン』の練習を講堂でしている。
 演劇部は5年と6年の2学年で構成されていて、なんと男子は同じクラスの慶一と、3組の土田の3人だけ。芝居に興味があって、慶一を誘ったまではよかったが、まさか、あとは全員女子だとは思わなかった。アッという間に転校していったジュリも「ハーレムみたい、やるじゃない、松川くんも」と言っていたが、気づいて辞めようとした時、部の顧問、3組の担任の鷲谷先生から「男子がいないと、お芝居にならないでしょう。頼むわぁ」と請われてしまったのだ。
 いつも世話になっている図工の赤石先生からも「舞台を作る時、君たちがいると助かるんだがな~」とラーメン1杯ごちそうになってしまったものだから、逃げ出しようがない。「おい、5年の美少女、中込もいることだし、鷲谷のおばさんから頼まれちゃあ仕方がないだろう」と、いやがる慶一も引留めた。
『折れたクレヨン』は学園もので、教室でクレヨンがなくなって騒ぎになる話だ。内気な主人公は土田で、それをいじめる憎まれ役が哲夫、騒ぎをまとめるいい子役が慶一だった。
 今日は、なくなったクレヨンを人のせいにする、憎まれどころのクライマックスを練習している。
「おい、それ俺のクレヨンじゃないか!」
「ええ、僕、知らないよう~」
「そんなこと言ったってダメさ。ほら、ここんところに印が…」
 そんな場面に、河野たちが走ってやってきた。
「お~~い、居木神社にカタ屋がきているぜ」
「ホント、久しぶりじゃない」
「行ってみよー」
 いい加減、トロい土田と、アーだコーだとうるさい女子たちに嫌気がさしていた哲夫は、これ幸いと逃げ出した。
「鷲谷先生に、言いつけておくからね~」
 女子の声を振り切って、講堂を後にした。

 カタ屋にかけつけたのは河野のほか、慶一、黒パン、服田に野原、泰典の7人だった。
「おっ、あそこだ。あそこ」
 新校舎の裏、ちょっと小高くなったところが神社の入口で、その鳥居の脇にオヤジはいた。
「おお、元気いいね、さあ、遊んでいってくれ」
 オヤジの前にはゴザが敷かれ、そこに大小いろんなカタが並べられている。
 名刺くらいの大きさの、亀や王冠といった絵柄で400~500点くらいからカタはあって、虎や般若といった弁当箱くらいの中型で5000点~1万点、武者絵の合戦図や霊峰富士など、大きなやつで2万点。世の中インフレとかで、オヤジの前にある遊園地や、大相撲土俵入りなど、野球のベースくらいの大きさで3万点と書かれた紙が貼られている。
「これがカタっていうのか、初めて見るよ」
「おい、泰典、おまえ初めてなのかよ」
「うん、話には聞いていたけど、親父から行くなって止められていたからな、うちは。テツオ、どんな仕組みになってるんだ?」
「まずは、持っていなかったら、気に入ったカタを買うんだ。10点で1円だから、あの東京タワーは6000点、つまり600円だな。カタを決めたら、次に粘土と色を買うわけ。粘土は1本5円、色はほら、砂絵みたいに粉になっていて、赤青緑に金銀の5色、これに塗るちっこい筆がついて20円くらいさ。ほかに、赤銀や青銀っていう特色があって、ひと袋5円だ。これを使うときれいに仕上がる。でもな、これだけじゃ子供のお遊びだろ。カタは、品評会があって、オヤジにカタ抜いたやつを色づけして出すのさ。すると、オヤジはそれに値札をつけてくれる。それで、値札の点数を集めてより大きなカタと交換して、また作って出すんだ。わかったか?」
「へえ、面白そうだねえ。でも、けっこうなお金かかるんじゃないの?」
「大丈夫だよ、みんなで協力して作っていけば、月の小遣いのうちで楽しめっから」と野原がいった。
 カタ屋の回りには、まだそんなに人が集まっていない。一度家に戻ってから、集合! ということになって、みんな学校に戻った。
「今回は、逃がさないぞ」と思った。いつも点数を貯めて、一番大きなカタを手に入れる直前にカタ屋のオヤジは消えていってしまうからだ。

 その夜、テレビの『スター千一夜』で鉄腕アトムが登場したのを観ていたら、孝一から電話があった。順調に回復して、来週には帰れそうだ、ということだった。

カタ





 次の日、日曜日の午後。居木神社の鳥居周辺は、カタ屋目当ての子供たちでいっぱいだ。
「オヤジ、粘土ちょーだい」
「はいよ、きちんと仕上げないと、いい点やんないよ」
「おじちゃん、このカタ、いくら?」
「こっちかい、このゴジラは八百万両…、800円だよ、がんばってな」
 今回のオヤジは、気さくなやつだ。愛想もいい。
 哲夫たちは、黒パンの家から中型のカタを持ち込んでいた。
「ほぉ~、よく持ってるな、大鵬かい」
「そうだよ、以前のオヤジからとったんだ、2万点したぜ」と、野原が見栄張った。
「何を言ってるんだ、こいつらは。せいぜいが1万がいいところだろ」
 オヤジは冷静だ。
「オヤジは、どこから来たの?」と泰典が聞くと「荒川だよ、品川は久しぶりだあね」とうそぶく。
「いつからやってんのよ、この稼業?」
「朝鮮の戦争の後くらいかなあ」と、オヤジは遠い目をして言った。
「カタ屋は、どのくらいいるの?」と、しつこく泰典が尋ねると、オヤジは水筒から茶を出して飲みながら言った。
「おまえらな、そもそもカタ屋がいつから始まったか、知ってっか? 明治、メイジな、30年頃、西暦で言やあ20世紀のちょい前だ、葛飾の四ツ木に東京粘土工芸という会社があったんだ。ここが、喰ぶちにあぶれた連中向けにカタを作ってくれたんで生まれたんだよ。そして戦後、復員してきた俺たちが、やはり喰ぶちのために訪れて、自転車やバイク、オート三輪でカタ屋を始めたわけさ、そう一時は2000人くらいにまで膨れ上ったとかだよ、いまはその半分もいねえがさあ。だからホレ、俺のカタにはTNKとマークがついてんだろう」
 自分は、このオヤジただ者じゃないぞと思って、もう少し突っ込んで聞いてみた。
「稼ぎなんか、どうなのよ?」
「おまえ、商売人のせがれか? 稼ぎは、日銭商売で親子4人が立派に暮らせてんだからねえ。ここだけの話、儲けのほとんどは何だかわかるか? 色代で稼いでんだよ。新聞紙に包まれた、ほんのわずかで20円だろう。あの色は八丁掘の金属塗料関係の色屋で仕入れてんだ、ほら、芸能ショーやデコレーションで使うアレだよ」
「それで使い終わった色の新聞紙、拾わされるんだからたまったもんじゃないよなあ」と哲夫がこぼすと「いいっこなしだろ、ここまで教えてやったんだから」
 オヤジは、ヤニのついた歯を見せながら笑った。

 13本目の粘土を使って、なんとかカタはおさまった。
「ゆっくりだぞ、周りは湿らせといたよな、ゆっくり」
 黒パンが、服田に言った。河野は、仕上げの水を取りに行って戻ってきた。ひっくり返して、色を塗る前に、粘土の表面を水でならす。これをやらないと、きれいに色がのらない。
「おい、赤銀が足りないんじゃないか。まわしが命だかんな」と注文をつける。そろそろオヤジの声がかかって、品評会が始まる頃だ。1万点は取らないと、元が割れる。
 カタから出した粘土は周りから乾いていく、それを、泰典たちが筆で湿らせる。こんなところは、最後に塗ればいい。でも、オヤジに文句をつけさせない意味で大事だった。
「おらぁ、オヤジ、できたぞ~~~」
 黒パンが叫びながらオヤジのところに持っていった。
「ハイよ、じゃあ始めるよ」そういって、オヤジはまずコマイのから値を付けていく。
「ハイ、500点。これ、500点。ほれ、ここがマズイやな、1000点だい」
 値札がつけられたものは、次々とオヤジの手の中で丸められ、箱の中にしまわれていく。粘土を返してもらってもよかったけど、もう使い物にはならない。
 少しずつ大きなものに値札がつけられていくが、自分たちの大鵬のほかに、三木の連中が花やしきを持ち込んでいた。浅草にある、老舗の遊園地だ。
「おい、あいつらのけっこういいんじゃないか。あのカタ、2万近くはするぜ、たぶん」と耳打ちすると、黒パンもうなずいた。
 最後にオヤジが選んだやつが一番高い値札をつけてもらえる。持ち込んだ大鵬もいい出来だけど、いかんせん、カタの造りが違う。いい色使いをしたけど、花やしきの細やかな造作には分が悪かった。
 オヤジは、花やしきに1万5000点をつけた。三木の連中が喜んでいるのを尻目に、オヤジの手の中で大鵬はクシャクシャになっていく。

 次の週、女子が週末に公開の『0011ナポレオン・ソロ 消された顔』について相変わらずしゃべっている時、哲夫たち男子はこっそり持ち込んだチョコレートをクラスの後ろで食べている。
「これかよ、お酒が入っているバッカスっていうのは」
「なにせ、チョコで乾杯! だからね」と泰典は言った。コマーシャルでは、明治のアルファの加賀まりこの方がバツグンだが、たしかにうまい。
「おれ、酔っぱらってきちゃったよ」と野原がふざけた時、「あんたたち、教室で何を食べているの?」と声がした。やはり、仁志川さんだった。
”伊豆の部屋“はなくなったが、その後、広い新校舎の廊下にパンパンと張り飛ばされる音が響いた、ちっくしょう。

「あれ、あそこを歩いているのはカタ屋のオヤジじゃないか?」
 昼休み、新校舎の裏窓から何気なく外を眺めていた哲夫は、ひとりつぶやいた。降りていって、滑り台の端にある金網の破れたところから神社に出た。
 オヤジは、商売道具を前にごそごそしている。
「何、やってるのお?」と気軽に声をかけた目の中に、とんでもないものが飛び込んできた。
「お、おやじ、どした?」
 カタ屋のオヤジはズボンのチャックを開けていて、そこから飛び出した金玉はコッペパンくらいの大きさがある。なにやら白い塗り薬でなでつけているのだ。
「なんだ、脅かすなよ。おまえか、坊主。いやなもの、見られちまったなあ」
「どうしたの、それ?」
「これか、前から具合が悪かったんだが、いつの間にかこんなになっちまったんだ」
 なっちまったって、その金玉は人間のものではない気がした。まずいもの見たような、バツの悪い顔をしている自分にオヤジは言った。
「これはなあ、象皮病っていって、なにも金玉が大きくなる病気じゃねえんだ。体のどっかに症状が出ると、そこの皮膚がまるで動物の象の肌のように固くなっちまう病気なんだ、大丈夫、移らねえから」
 哲夫は、そんなオヤジの金玉を見て、怖いとか、汚いとかいう前に、かわいそうに思えた。だって、もし自分がなったら…、悲しくなるし。
「大変だねえ、オヤジも。大丈夫だよ、俺、誰にも言わないからさ」
「つまんない気を遣うんじゃねえよ。それより、また遊びに来てくれよな」
「オヤジこそ、約束どおり、この間見せてくれた4万点のカタ、ちゃんと用意しておいてくれよ」
 4万点のカタとは初めて見る大きさのもので、ディズニーランドが型どられているやつだった。
「ああ、わかったよ。じゃあ、帰りな。また、明日な」

 カタ屋のオヤジは「また、明日な」と言いつつ、やはり忽然と消えてしまう。金玉のことは、みんなには黙っていた。自分に見つかったから、いなくなったのか? いままで何回か東大崎にカタ屋はやってきたけど、同じオヤジだったことはない。縁日の”シマ“のようなものがあるのか? 不思議だった。
 哲夫たちの手元には、3万6000点のカタの値札とカタ3つが残った。

 前から痩せてはいたが、さらに身体がひと回り萎んで、その週末、下田から孝一が帰ってきた。「胃を3分の2ほど、とったんだ」と、鳩尾のあたりから臍下まで縦一文字の手術の跡を見せてくれた。
 孝一の苦しかったことをわからせるのに十分なものだった。

 イケヤ・セキ彗星の最接近も終わり、東海道新幹線の、東京と大阪を3時間10分で結ぶという世界一のスピードアップ運転も無事始まる。江利チエミが主人公の、『サザエさん』もいよいよテレビに登場すると話題に上るようになった11月2日、また僕はひとつ歳をとった。
「テッちゃん、いるかい」と、久男ちゃんが声をかける。孝一の入院は、家族にもいろんな影響を与えたけど、それまであまりなじめなかった叔父と話せるようになったのはいいことだった。遠慮していた薫も、以前にくらべて取っつきやすくなったね、と言っている。
「なあに?」
「今日、誕生日だろう。ほら、知り合いからソニーのソニオマチック借りてきたんだ。12歳の声、録ってみないか?」
 美智子や薫もやってきて、テープレコーダーを取り囲んで即席バースデイ会になった。初めて聞く自分の声に、「マンガみたいな声だ」とガッカリした。美智子は『レインボー・タカラヅカ』を歌い、ヤケになった哲夫も『青春とはなんだ』を歌った。
「久男のやつも、気の利いたコトするな」と、15も歳の離れた弟を孝一はほめてたが、調子にのって『愛して愛して愛しちゃったのよ』を歌った薫に「早く、店に顔を出せ」と怒鳴ることも忘れていなかった、前より弱々しい声だったけど。

 戸越の進学教室では、そろそろ私立に進む塾生に志望校を提出させる時期になってきた。京陽に通う金成が、早くも中学生気取りで腕時計をしている。
「それ、セイコーのファイブデラックスだろ。自動巻で、ひとつの窓に日付と曜日、今日なら水曜日のWEDに10が入ってンだよなあ」って羨ましそうに言うと、周りの奴らも取り囲んだ。
「金成は、どこ行くんだ?」
「おれ、駒場東邦考えているんだ、将来医者にならなきゃいけないし」
「聞いた話だけど、前田くんは学芸大の竹早、受けるらしいぜ」
「前田ならバッチリだよな、一番できるし」
「僕なんか、どこでもいいから引っかかれって、5つも6つも受けさせられるんだよ、世の中、まちがっとるョー」
「指圧の心は母心、押せば命の泉湧くぅ~~~ってか、ダハハ」
「誠に遺憾に存じます~!」
 いつでも、親は自分にないものを子供に求めたがる、どこ受ける、受けないの話の輪から遠ざかりながら、そう思った。
 塾から帰ると、孝一がお客さんと立ち話をしていた。なにやら、アメリカのニューヨークで大停電が起きているらしい。
「なにせ、ひと晩真っ暗闇だってぇからすごいやね、だんな。これが不思議に、その夜は悪さするヤツも少なかったらしいすよ。でも、損害額は1億ドルって言うから腰抜かしまさぁね」
 以前、衛星中継がつながった時、一番最初に入ってきたニュースもケネディ大統領暗殺だったことを思い出して、誕生月はいろんなことがアメリカで起こる…と思いながら奥に上がった。
 次の週、今度は素敵なことが同じアメリカであった。ユタ州ボンヌビルの塩湖で、ジェット推進自動車「スピリット・オブ・アメリカ」が時速966・57キロの地上世界最高スピード記録を樹立したのだ。この20万ドルの車を操縦したのは、元消防士のC・ブリードラブだった。

 11月20日は土曜日だけど、午後、講堂では演劇部の発表会が行われた。舞台はラスト、クレヨンを盗んだと批難した憎まれ役が、主人公に謝るシーン。
「だって、目印の包み紙の折れ方が同じだったから…、ごめんよ、本当にゴメンよ」
「こうして、クラスを騒がせたクレヨン騒動も終わり…」
 講堂では、割れんばかりの…はずだったが、ほぼ出演者と同じ数くらいの父兄とおぼしき人たちの拍手が響いている。この晴れ舞台を、ジュリに見せられなかったのが残念だった。

南極観測船






 その日、第七次南極観測隊は、宗谷にかわって建造された新しい砕氷型観測船ふじに乗って一路オーストラリア、フリマントルに向かって出航した。
「どうだったんだい、今日の芝居の出来は?」
「見に来てくれなかったのは、うちだけだったよ」
 薫に聞かれても、哲夫は新聞から顔を上げなかった。終わったことに関心はない。

「排水量:7760トン、全長:100メートル、最大幅:22メートル、深さ:11・8メートル、吃水:8・12メートル、速力:16・5ノット、航続力:15×15000、主機:ディーゼル電気推進、軸馬力:約12000馬力、乗員数:約235人、砕氷:6メートル(厚さ)」
 ふじの性能は、日本鋼管の全面広告にそうあった。
「ねえ、南極って遠いんでしょう?」
「そりゃ、赤道越えた反対側だもの、遠いだろうねぇ。どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、新しい観測船が今日、出航したって言うからさあ」
「おや、宗谷じゃないのかい?」
「うん、ふじって言うんだ、今度の船」
「宗谷は以前、南極の氷につかまっちゃって、大変だったからねえ、もうダメなんでしょう」
「でも、今日出て、途中オーストラリアによって、年末に南極に着くっていうから乗っている人たちも大変だね」
「残されている家族が、一番大変なんじゃないかい」
「若い乗務員の人なんか、船に乗りっぱなしで面白くないだろうなあ」
「やることがいろいろあって、それはそれで、忙しいんじゃないかい、きっと」
「恋人なんていたら、さみしいだろうな」
「おや、この子ったらマセたこと言うね。そうそう、いつかの電話の子は、どうしたの?」
「あの子ぉ、転校しちゃったよ、お父さんの仕事の都合だって」
「おやおや、寂しいことで。なんだったら、南極でも行くかねぇ?」
「お母さんは、お父さんとはどうして知り合ったの?」
「なんだいこの子は、いきなり」
「いや、どうしてかなあ…って」
「言っただろう、戦争が終わった後じゃあ、五体満足なら誰でもよかったって」
「それでも、他にもいたでしょうに、お父さん以外だって」
「そうねえ、商売やっていただろう、田舎のおばあちゃんが食いっぱぐれなくていいんじゃないかって」
「へえ、おばあちゃんがすすめたんだ」
「そうさ、ぞうり屋だったら間違いないって。それがこれだから、世の中わかんないけどね」
「でも、姉貴や僕ができたんだから、よかったじゃない。これ、お父さんと結婚していなかったら、どうなっていたかわからないよ」
「もっといい子が出てきたかもねえ。でもほら、おばあちゃんが戦争前に蒲田でバーやっていて、あたしも働いていただろう。水商売の女もらったって、おじいちゃんによく言われてさあ…くやしかったけど」
「ふ~~ん」
 いつも無口なオジイちゃんが、薫と言い争っているところなど、見たことがなかった。オバアちゃんとだって、たまに話しているのは法事のことぐらいだ。オジイちゃんとのことは、自分がちっちゃい頃のことだろうか、いろいろあるものだ。

 師走に入って、クラスで『11PM』という深夜番組が面白いぜと話題に上がる頃、アメリカの宇宙船、ジェミニの6号と7号がランデブー飛行に成功した。しばらくは、いい仲の男と女が会うことを「ランデブーする」なんていうのを聞いて、いつかのテレシコワの「わたしはカモメ」を思い出して、懐かしかった。
 孝一は、だいぶ回復してきて、以前にくらべて顔色もいいが、食べ物と動き方が変わったのには驚いた。まあ、よくもイモばかり食べるわ、食べるわ、ほとんど野菜中心の食生活になって帰ってきた。あんなに好きだった釣りの代わりに、暇さえあれば温泉に通っている。
「傷跡を、ふやけさせて直すんだってさ」と薫は皮肉ったが、皮肉が言えるようになったのもいいことだ。

 年末年始の東宝映画は『エレキの若大将』と『怪獣大戦争』の2本立てだ。山上や泰典たちと観に行ったが、映画のなかでは若大将こと田沼雄一が、相変わらず星由里子演じる澄子さんを追いかけ回している。ちぇっ、隣の席に、ジュリの姿はない。

エレキの若大将













 明けて20日、横浜港に停泊していたノルウェーの貨物船、トロヤ号に先月密航し、メキシコまで往復してきた5人の中学2年生の話が、放課後の哲夫たちを興奮させた。
「そうか、密航っていう手があったかあ。お金使って、ジャルパックなんかで外国に行かなくてもいいんだなあ」
「でも、今年になって横浜港で起きた密航事件は、大人も入れて6件あったようだけど、彼ら以外は全部失敗してるっていうじゃないの」
 お得意のセーター姿の慶一は言った。 
「うひょ~、メキシコで3時間上陸したらしいぜ。おまけに、日本大使館の家に招かれて、ご飯までごちそうになったっていうじゃん」
「トロヤ号みたいなのは異例らしいよ。普通は、船内の一室に軟禁されて、上陸禁止で送還されるんだってさ」
「日本から無線電話もできたらしいぜ」
 うまいことやりやがって! と、治樹もありありの顔をした。
 海上保安庁は、今後未成年者による同じような事件を未然に防ぐため、警告を発している。
「そうかあ、どうりで彼らが、どうやってうまく切り抜けたのか?肝心なところが抜けてんだな」
 もうすぐ冬休みだ。自分と歳が2つしか違わない少年たちの”快挙“に、しばらくは補講にも集中できなかった。

 暮れの26日、日曜日。哲夫は、初めて馬券というものを買って当たった。100円が160円になったんだ。三冠馬のシンザンが、有馬記念でミハルカスを破って史上初の五冠馬となったが、これは問屋の篠田さんから教わったものだった。

 オリンピックこそなかったけど、心の中にジュリという金メダルを手にした1965年も終わろうとしている。

とっぽいヤツ13

13 鎌倉サイクリング

白雪城













 ビートルズがエリザベス女王から勲章をもらうだとか、もうモンキーダンスは古くて、今年の夏はスイムだとか、ニュースは次々と生まれてくる。そんななかで、7月3日の朝刊の見出しはショックだった。吉展ちゃん誘拐殺人事件の容疑者が、犯行を自供したのだ。明けて5日、遺体も発見され、ここに2年3か月ぶりに事件は解決した。
「でも、やはり殺されちゃっていたんだなあ」
 新聞部の話し合いの席で、河野が言った。
「身代金要求して、顔見られちゃあ、やっちゃうって」と、治樹が続ける。
「でも、殺さなくてもいいのになぁ、親はたまんないだろう」
「いろいろ事件について言われてきただろう、なんか吉展ちゃんのことが身内のことのようでさあ」
 いつもはヒョーキンな野原も、ボソリ言った。
 歳も近くて、たぶん好きなことや夢中になっていたことも似たようなものなのに、一方的に命をとられてしまった彼に同情し、やり場のない怒りがこみ上げてくるのをみんな抑えられなかった。

「学校も休みになって、電話もかけられないんじゃ、どうやって遊んだりするわけ?」
 給食が終わって、片づけをしながら、ジュリは口をとんがらせる。
「だから、何度も言ったよね、家の電話は商売用なんで、よくは使えないって」
「そう、じゃあ手紙でも書いて交換しあうの? 今度の月曜日、お暇ですか? なんて」
 女の子から手紙が来たら「すわ、ラブレター?」って大騒ぎは目に見えている。電話もそうだけど、いちおう「夏休み、同じ班で共同研究があるから」と言っておいた方が楽だ。
「わかったよ、ちゃんとするから。それより、ジュリの方こそ映画、大丈夫なの」
 お盆の時期に、東宝映画に新作がかかって、今夏は『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』と『海の若大将』の2本立てだ。怪獣ものには興味はないが、若大将こと加山雄三にジュリはぞっこんで、一緒に観にいこうということになっている。主題歌のレコードも持っていて、ジュリは自分に覚えるようにと借してくれていた。
「パパが帰ってくるのが今月末で、その後、家族で那須高原に行くらしいけど、別荘地の売り出しを見るとかで、お盆は外すって言ってたわ。大丈夫よ」
 最終学年の夏、自分にはふたつの計画がある。
 ひとつは鎌倉までのサイクリング。電気屋のゴウちゃんから久しぶりに声がかかって、地元のみんなで行こうというものだ。
 もうひとつは、上野の国立博物館で開かれるツタンカーメン展に行くこと。三千三百年前、エジプトに君臨した王の墓から発掘された黄金のマスク、王座、金印の指輪などを、この目で実際に見てみたかった。

「久しぶり、元気にやっているみたいだね」
「ハイ。ゴウちゃんも、ハム無線続けてるの?」
「ああ、やっているよ。でも、なんか実家の手伝いやっているような感じでね」
「そうかなあ、僕なんか羨ましくて…、海外とも交信しているんでしょう」
「うん、この間はオーストラリアのシドニーと交信したっけ。でも、本当はキャンプや旅行のとき、小さい無線機と組み立てアンテナを持参して移動運用交信をやってみたいんだけどね」
「じゃあ、今度の鎌倉では、やってみるの?」
「まあ、手配がつけば、だけどね。あっ、ユタカちゃんたちが来た」
 ゴウちゃんと話すのは、ホント久しぶりだったけど、小さい頃、何かといっては頼りにしていたのを思い出した。
「よう、ゴウちゃん。テッちゃん、久しぶり」
 弟のヨッちゃんと一緒にサーフィンをやっているって聞いていたけど、ユタカちゃんは、中学生になってだいぶ太ったようだ。
「じゃあ、だいたいのコースと予定表を渡すから、近くにきて」
 今回のメンバーは全部で5人、金物屋のトキちゃんは入っていたが、乾物屋のサトシ、ラーメン屋のハッちゃんは抜けていた。

 8月2日、月曜日。
 先週末から降っていた雨もあがって、大崎広小路のガード下にみんな揃ったのは6時ちょっと過ぎ。
「自転車の調子は、どう? タイヤに空気は入ってる? ギヤはちゃんと入る? 忘れ物はないか、複写した地図は、ポケットに入れておくようにね」
 ゴウちゃんは、テキパキと指示を出した。
 横浜までの道を、第一京浜で行くか、第二京浜で行くか迷ったが、起伏がある第二京浜より、ちょっと遠回りでも平坦な海沿いの第一京浜で行った方がいいということになる。先頭はユタカちゃんにまかせ、小学生の3人をはさむようにして、ゴウちゃんは最後に着いた。
 クネクネした環6を快調に飛ばして、天王洲のお化け煙突、東電の品川発電所が見える、品川区役所前で第一京浜に合流する。週の初めだけに交通量は多く、トラックがみんなの脇を走り抜けていく。
「ふらついちゃダメだぞ! あと、あまり間隔を詰めないで、自分のペースで走っていいんだから」と、ゴウちゃんの声が飛ぶ。
 鈴ヶ森を抜け、平和島の温泉を過ぎる頃には左手に高速道路が見えてくる。モノレールが併走していくのを横目に、ペダルをこぐのは気分いい。
 六郷土手で橋を渡れば、川崎だ。競馬場や東芝の工場を過ぎて、鶴見橋を渡る。左手に京浜工業地帯の工場群を眺めながら、卸売市場を抜けると横浜の町に入った。
「よ~~し、じゃあ、ちょっと休もう」
 東口を通りすぎて、運河を越えた先、高島町で5人は自転車を停めた。
 この春、商店会の視察で横浜に来ていたが、連れてこられるのと実際自分の足で行くのとでは町の感じ方が違うことに気づいた。眺めるのと、見るのとでは目に入ってくるものが違う。こんなに外人が多い町だとは思わなかった。よく孝一から言われてた「テレビで見たからといって、知った気になるな。本当に訪ねていって、初めてわかることの方が大事なんだ」って、こういうことかと思った。
「ゴウちゃん、横浜って外人が多い町だね」
「外人っていうより、アメリカの基地が近くにあるから軍人が多いんだろう」
 ゴウちゃんも、キョロキョロしながら言った。
 休んでいる間、ちょっぴり明海さんのことを思い出したが、覚えているのはバルーンスカート姿だけ、もう顔の輪郭も忘れている。
 高島町から、いよいよ鎌倉に向かって出発だ。「とべ」と、大きく駅名が書かれた京浜急行のガードをくぐり抜けて東海道を保土ヶ谷に向かう。国鉄の保土ヶ谷駅手前で、大きく道を左に曲がって鎌倉街道に入った。急な登り道を上がっていくと、また京浜急行を越えて井土ヶ谷の町に出る。その先、大岡川を越して係留されている船を眺めながら、しばらく川沿いの道を走る。
 上大岡の駅前に着く。ここから、道はいよいよ狭くなっていく。日野の町を過ぎて、公田まで来ると、さすがに疲れてきた。
「ねえ、まだかな~」と、ヨッちゃんが弱音を吐いた。
「がんばれ、もう少しだから」
 ゴウちゃんの声も、心なしか小さく聞こえる。
「鎌倉女子大前」という信号に出て、はじめて「鎌倉」という文字に出会って、みんな少しは元気を回復したようだ。砂押橋を越え、常楽寺から先はなが~い下り坂が続いた。
「ひょえ~~~、キモチいいい~」と、ユタカちゃんはすごいスピードで下っていく。
「ユタカちゃんー、北鎌倉のぉ、駅前で待っていてよ~」
 ゴウちゃんが叫ぶ。哲夫も、ペダルが回るままにまかせて下っていった。

 朝、広小路を出てから3時間半、北鎌倉の駅前に着いたのは10時近くだった。
「じゃあ、みんな、ここに自転車おいて建長寺に行こう」
 見終わると、裏山にハイキングコースがあって、尾根づたいに半僧坊に上がって、さらに下れば鶴岡八幡宮まで行けることがわかった。
「どうする? 歩いていくのも面白そうだけど、自転車置きっぱなしじゃあ、戻ってくるのは難儀だし」
「ゴウちゃん、俺とヨシノリはサーフ・ショップに行きたいから、ここから海に出るわ。昼食べてから、そうだな、2時くらいに鎌倉の駅前で集まるってのは、どう?」
 話は決まって、ユタカちゃんとヨッちゃん、トキちゃんの3人は海に向かい、僕はゴウちゃんと一緒に半僧坊に上がることにした。
「鎌倉も、最近は宅地開発でどんどん自然がなくなっていってるんだってさ。まあ、ゆっくり登ろうよ」
 ハイキングコースとはいえ、道はかなり急で、おまけに前夜までの雨で滑ってしかたがない。ゴウちゃんは、荷物になるからといって携帯無線機とアンテナを持ってこなかったけど、正解だった。
 なんやかやで20分近くクネクネ登ったか、お堂にたどり着く。パッと目の前が開けた。八幡宮の緑が見下ろせて、その先、若宮大路から由比ヶ浜、材木座の海が広がっている。
「ゴウちゃん、やはり登ってきた甲斐があったね」と振り向いた哲夫は、「あっ!」と声を出した。そう、お堂の後ろは10メートルくらいまで地続きだが、そこから先は見事に削られている。削り取られて、崖になったところから遠くを見下ろすと「今泉台、好評分譲中!」の立て看板が区画整理されたひな壇に林立していた。

 もう一度、建長寺まで戻ったふたりは、八幡宮に向かう。半僧坊の裏の様子を見てからじゃあ、そのまま降りていく気にはなれなかった。
 お昼が近づいて、若宮大路で自転車を押しながら歩いていると、あか抜けたユニオンというスーパーがある。お腹も空いてきたので、とりあえず駅前まで行ってみようということになった。
 鎌倉の駅前は、平日ということもあって空いている。
「ねえ、テッちゃん、ピザ食べてみない?」
 それまで、ピザなんて食べたことがなかったけど、お店の前はいい香りがする。ゴウちゃんが見つけたお店は、ランプポストという名のレストランだった。

銭洗弁天







 ユタカちゃんたちが駅前に姿を見せたのは、もう3時になろうかという頃だった。
「ゴメン、ゴメン。海から戻る道、迷っちゃって」
「遅いなあ、これじゃ、長谷の大仏見て帰ると、途中で暗くなってしまうかもしれないよ」
 いやな予感は的中した。長谷の大仏を見てから、家へのお土産だと銭洗弁天に立ち寄ったのがいけなかった。来る時に通った道を戻ればいいだけなのに、そこは知らない町の通ったこともない道だ。別に標識があるわけじゃなし、ゴウちゃんの地図、ユタカちゃんのコンパスを頼りにペダルをこぐ。
「もう6時半かぁ、上大岡に出てもいいハズなんだけどなあ」
「ほら、あそこに電車が通るのが見えるよ、行ってみよう」
 ユタカちゃんに励まされて行ってみると、そこは京浜急行の屏風ヶ浦だった。
「あちゃー、ずいぶんとまあ、曲がっちゃって、このままじゃ海に出ちゃうよ」
「でも、この先は16号だから、左折すれば横浜の町に行き着くはずだよ」
 それから小1時間走って、あたりが暗くなって街灯が点き始める頃、たどり着いたところはアメリカ軍のベースだった。「本牧PX」と描かれたゲートを前にして、5人は完全にギブアップしてしまった。
 アメリカ人の兵隊さんが、ジープに乗って通りかかった。ゲート前に座り込んでいる子供たちを見て、車を停める。「MP」と書かれたヘルメットをかぶっている人が降りてきて、声をかけてきた。ゴウちゃんが、なにやら英語で話していたけど、振り向いてみんなに言った。
「おい、自転車をジープに積んでって。東京までは無理だけど、多摩川まで送っていってくれるってさ」

「サンキュー、ジミー、バーイ」
 ゴウちゃんがそう言って、みんなが自転車を降ろしたところは、第二京浜の多摩川大橋だった。
「ゴウちゃん、あそこ、本牧って言うところ、まんま外国だったね」
 そう言って、哲夫は怪我見舞いで豊田に行った時、従兄弟の健次が教えてくれた立川ベースのウェルカム・デイのことを思い出した。
「そうさ、まだ米軍の接収が解除されていないんだ、中にはいると英語で話して、ドルで買い物して、まさにアメリカなんだってさ。いいよね」
「俺、もらったハンバーガーって言ったっけ、あんなにおいしいもの、初めて食べたよ」
「横浜ってすごい町だよなあ、朝の時も外人多いと思っていたけど、外人オンリーの地区があるんだから」
 トキちゃんやユタカちゃんも、ペダルをこぎながら話に加わった。
 第二京浜は、五反田に近づくにつれて街灯が整備されて明るくなっていく。東急大井町線のガードを越えて、中原街道との合流からマックスファクターのビルが見えた時、みんなで「やったー、着いたぞー」と歓声を上げた。
 その時、角の第一銀行の鐘がちょうど夜の9時を打ち始めた。

 8月の最初の週末、ジュリから電話がかかってきた時、映画の約束をして電話を切ってからが大変だった。ついてないことに、電話をとったのが姉の美智子で、いい加減いやになるくらい「哲夫さん、いますか? だって。哲夫さんって、誰よ」と茶化された。薫は、「中山さんって、どんな子だい?」と突っ込むし…、オジイちゃんまでが「哲夫も色気づいてきたか」には参った。
「松川の家はホームドラマみたいだ」と言った泰典の言葉は、当たっている。

「や~~るせない~、夜ぉ~るの町ぃ~~♪」
 目黒の東宝から、ジュリと一緒に出てきた哲夫は、若大将のかっこよさにシビレていた。
「ねえ、よかったでしょ、観ておいて」
「うん、僕もレコード買おうかな。『恋バラ』よりも、『君が好きだから』の方がいいな」
「映画でさあ、スミちゃんが働いていたスーパーあったでしょう。あそこ、ユアーズっていうんだけど、開店の時、パパに連れていってもらったわ」
「あそこって、どこ?」
「渋谷から地下鉄に乗っていくの、青山ってとこまで。行ってみる?」
「まだ、早いものね、行ってみようか」
 哲夫は、半袖のプリントシャツに珍しくGパンをはいていた。手こそつなげないけど、ジュリは白いシャツに襞のない巻スカートがよく似合っている。
 渋谷で乗り換えの時、終戦記念日まであと3日というのに、ハチ公前では右翼の街宣車が大音量で何か叫んでいる。子供の頃、東横の試食コーナーで補導された話を耳元でしたら、ジュリは目から涙を出して大笑いした。
 地下鉄で神宮前、外苑前と二つ目で降りると、青山通りを渋谷方面に戻る。ユアーズは、店の前に高級車がズラリ駐車してあって、すぐわかった。
「ほら、ここや、あそこに手形がいっぱいついているでしょう。あれって、映画スターや、歌手の人たちが、買い物に来たついでに手形を押して、サインしていったものなんですって」
「へえ、カッコいいね。でもぉ、何も買わないのに入ってもいいのかなあ?」
「別に、いいんじゃないの、ちょっと中を見て歩いて、そうねえ、ガムでもひとつ買えばいいのよ」
 こういう時のジュリは、機転がきく子だ。
 先日の、鎌倉のユニオンじゃないが、アメリカンスタイルのスーパーマーケットに入るのは初めてだ。店内は、滑車のついた大きなカゴに、山盛りの商品を入れて押している人でいっぱいだった。
 今日観た映画に出てくる、水泳部の闇鍋で使われたドッグフードをお土産にしようと考えたけど、「ちょっと悪趣味」とジュリに言われて、やめた。探し物をしている彼女の横顔を見て、いつかこんなところで買い物できる大人になりたい、と思った。

 この夏、一番気に入った新聞記事のフレーズは「八時半の男」、低迷する巨人のリリーフエース、宮田のニックネームだった。

 8月のお盆明け、今年も孝一が伊豆の子浦に連れていってくれた。去年は、おかげで夏のプール講習では黒帽に線2本、つまり50メートル水泳に25メートル潜水まで進めたんだっけ。
 出がけに、姉の美智子に薫が何か言っていたけど、大して気にしなかった。
 子浦の石垣さんは、相変わらずの凄い訛りで「いよお、ミッちゃんにテッちゃん、よく来たねえ」と迎えてくれる。おばさんも、ふたりの娘さん、景子に綾子も元気で、東京から持参した月刊平凡と亀屋万年堂のナボナに嬌声をあげていた。
 子浦の日々は昨年と変わらず、孝一は釣り三昧、美智子と哲夫は、知り合った近所の子たちと一緒に遊んだ。
 今回、哲夫は石垣さんの弟のアンちゃんにかじきの一本釣りに連れていってもらった。漁船の舳先に乗って終日アンちゃんにつきあったけど、残念ながらかじきは揚がらなかった。その夜、自分のふとんはドンブラコ、ドンブラコといつまでも揺れていた。
 
 事件は、帰る前の日、8月20日の夜、起こる。
 その日、昼間に珍しく子供ふたりと海に入った孝一は、夕方から体調を崩し、夜には腹痛でかなり苦しみだした。
「ねえ、お父さんどうしたの?」と美智子に尋ねたが、彼女は心配しなくて大丈夫、先に休みな、と言って下に降りていってしまった。昼間の遊び疲れもあって哲夫は寝てしまったが、美智子と石垣さん一家は眠れない一夜を過ごすことになる。
 孝一の容態は急変し、夜中には吐血する。美智子は、出がけに薫から父の胃の具合が相当悪いらしいことを聞いていたので、石垣さんに相談し、急きょ孝一を下田の菊池病院に緊急入院させた。石垣さんの「松川さん、しっかりしなきゃ、いかんぞ!」の声にも、孝一はうめくだけだったようだ。菊池先生は、そんな容態を見るなり、即手術の用意を整えた。ただ問題があって、かなりの量を吐血していたので、病院には手術用の輸血が足りない。
 石垣さんは、すぐに子浦に引き返して、夜中というのに近所の人たちをかき集めて、孝一と同じO型の人たち5人を連れて戻ってきてくれた。孝一の病名は胃穿孔、つまり、かいようのひどいやつで、胃に大きな穴が開いてしまって、もう少しで腹膜炎をおこしそうになっていたのだ。
 手術が終わった時には、もう夜が明けていた、と後から聞いた。
 孝一は、菊池先生、石垣さん、美智子、そして子浦の人たちの懸命な処置のおかげで九死に一生を得る。
 何も聞かされていなかった哲夫は、次の日ひとりで磯釣りに出かけていた。釣れるのはふぐばかり。くやしまぎれに、はちきれんばかりに膨らんだそのお腹を、足で踏みつぶしていた、まさか、父親がそんな状態だとも知らずに。
 孝一は3か月の間、下田で静養期間をおくることになるのだった。

ツタンカーメン











「われわれは日本のみなさまに深い友情と尊敬をあらわす意味で、ここにツタンカーメンの秘宝のコレクションを送ります。古代エジプトの美に対する日本人の強い関心と高い鑑賞眼によりこの展覧会がかならず成功するものと確信するとともに、両国の文化交流と相互理解を深めるよう希望します。」
 エジプトのナセル大統領からのメッセージをカタログで読みながら、ガラスケースに入れられていた黄金のマスクを思い出していた。いくら眺めていても飽きないほどきれいで、それが三千年前のものとは、とても思えなかった。
 でも、死んだ後までエジプトの王様は祀られているが、はたして魂はついてきているんだろうか? ミイラにしたり、金張りの寝台などの秘宝を一緒に埋蔵したりするのも、これらがある限り、魂も生きていると古代エジプト人は考えたわけだが、キリスト教でいう復活もふくめ、人は再びよみがえることなんかあるんだろうか? 塾で、熟語として「輪廻転生」という言葉は習っていたが、人は死んだらどこに行くんだろう? …久々に考えてみたら、店番しながらでも怖くなってくる。

「夕刊でーす」
「ごくろうさま」
 夕方ひとりで店番の時は、真っ先に夕刊を読める。なにか気分がスカッとする記事はないか捜したが、ろくなものがない。
「私は嘘を申しません」の池田勇人がガンで死んで、新しく首相になった佐藤栄作は、沖縄返還に動き回っていたけど、アメリカの手先呼ばわりされている。まだ新入生の頃、日米の安保条約締結紛争があって、なんだかわからないのに「アんポ、ハンタイ、アんポ、ハンタイ!」と、集まればスクラムを組んで騒いでいたのも懐かしい。
 以前は、株式の欄を見て、ひとつの銘柄、化学の保土ヶ谷の株価の推移を調べ続けるのが面白かったが、当たり前だけど、実際の損得につながらないので飽きてしまっている。
 最近は、求人情報の欄を見るのも好きだ。将来、どんな仕事で食べていくのか考えたこともないが、今夜の求人欄では、鉄腕アトムの虫プロダクションが男女社員を募集している。「履歴書、身上書、作品、希望職種明記の上、九月四日迄郵送必着のこと、面接日通知す」とあるのを見て「こんな仕事も、面白いなあ…」と思った。
 反対側の紙面下段は、ジャルパックの第2期会員の募集広告だ。第1期の1000人は、アッという間に満員御礼になったようで、今期は11月から来年3月までの分だ。ハワイコース9日間が37万8000円、アメリカ一周コース17日間が65万3000円、一番高いのが中南米コース18日間で81万7000円だった。
 怖い気分はなくなったけど、金額の数字を見て、今度はため息が出た。

プラネタリウム







 夏休みの最終日、31日の火曜日、叔父の久男ちゃんに頼み込んで、久しぶりにプラネタリウムを見に行った。
 電車のなかで、「戦前、プラネタリウムは大阪の電気科学館と東京の東京毎日会館だけだったんだ。戦後はじめて作られたのが、ここなんだよ」と教えてくれた。
「五島とあるのは、東急の五島慶太が渋谷地区の立体的区画整理として東急文化会館を建てる際、その計画にプラネタリウムを組み込んだからさ。若い人たちの科学育成のための要望書に、五島さんがOKを出して設計変更されたってことだよ」
 久男ちゃんも、渋谷の事情には明るい。その周辺は戦後、闇市の露天が多く軒を並べていたが、文化会館建設で、新しくしぶちかを作って彼らすべてに入ってもらった…以前、電器屋のゴウちゃんにも教わったけど、久男ちゃんだって通学の時、渋谷を通っていたから経緯は知っていたのだ。
 文化会館は昭和31年のオープンだけど、プラネタリウムは1年遅れの昭和32年4月に開館した。20mのドームにカール・ツアイス4型を組み込んだもので、学芸課の責任者、水野良平さんの子供天文教室は名物だ。以前、文化会館に入っている映画館でセシル・B・デミルの『十戒』を観た記憶がある。たしか、家に帰ったら、父親とオジイちゃんが「なんで、耶蘇教の映画なんて観せるンだ」で、ケンカになったことも覚えている。
 入ってくる子供が「ウワ~、怪獣がいる!」といって泣き出した。
 あたりが暗くなっていくと、昨年の夏、臨海学校に行った時、隣のクラスの連中が星で埋め尽くされた夜空を見て「プラネタリウムみたいだな…」とつぶやいたのを思い出して、ひとりニヤついた。

 2学期が始まって、なかなか授業に集中できない日々が続いた。クラスでは、来年の進学で、地元の区立中学に進むか、私立中学を受験するかで、浮き足だった雰囲気が蔓延していたからだ。
 休み時間に、久しぶりに樋野さんが自分のところにやってきた。
「お隣さんとは、仲良しみたいね、ごちそうさま。でも、どう思う、ちょっとクラス、おかしいと思わない? もうじき、みんなお別れだっていうのに、なんか仲間はずれや、いじめがあったりして」
 彼女がいうとおり、ここのところ、クラスの雰囲気はギスギスしていて、おかしい。といって、新聞部でどうこうしてほしいっていうもんじゃないけど…といって、樋野さんは席に戻っていった。
 クラスみんな、いままでは小学校という狭い世界のなかで過ごしてきたが、親の意向だけではなくて、初めて自分の意志で将来を考えるとき、頭と心のバランスがとれなくなってもがいているのかもしれない。

 明けて、週初めの13日、テレビニュースでは、昨年のオリンピックに続き、大阪で1970年に万国博覧会の開催が承認されたと報じられる。なんなんだ、万博って?

 そろそろ12回目の哲夫の夏が過ぎ去ろうとしている時、9月19日。ふたりのアマチュア天文家、静岡県浜名郡舞阪町の池谷薫さんと高知市通町2丁目の関勉さんは、別々に、しかしほぼ同時に未知の彗星を発見する。その星は、ふたりの名をとってイケヤ・セキ彗星と命名された。

日光












「とにかく、すごいことだよ。池谷薫さんって、楽器会社に勤める工員さんでね、口径15センチ、22倍の手製のニュートン式反射望遠鏡で見つけたんだ。アメリカのスミソニアン天文台じゃあ、”今世紀最大の彗星“と折紙をつけた大発見らしいぜ」
 明けて20日、最初で最後の修学旅行があった。日光への1泊2日の旅だ。バスの車内で、ひとり、興奮してしゃべった。
「ひと月後には、太陽から48万キロのところまで最接近して、このときの明るさはマイナス七等、尾の長さは視角で五十度以上に達するらしいよ」
 天体望遠鏡の仕組みや、新彗星の見方、また、過去の有名な彗星にまつわるエピソードを集めて、壁新聞でまとめようということになった。
 その夜、哲夫たち男子9人で「菊」の個室に泊れたのはよかったが、夜中、怪談の最中に、山上が怖くなって大部屋「あおい」に逃げ込んでしまったのには呆れた…。

彗星















 イケヤ・セキ彗星の発見で、天体観測ブームがにわかに起こって、哲夫も以前から欲しかった天体望遠鏡を買ってもらう。日野金属産業という会社が作ったミザール型の望遠鏡で、東横の売り場で5000円だった。この会社は、アルミや銅、黄銅(しんちゅう)など、鉄以外の非金属材料の売買をしていたが、先代の社長の息子さんが大学院まで出て天体に興味を持っていたことと、皇太子のご成婚の時の見物ブームを当て込んで、日野ライトという単眼鏡を売った実績で、望遠鏡などの光学機器部門に参入したのだ。レンズのほか、グレイの塩化ビニールのままで製作した筒、架台等には、手作りの良さが残っている。
 ミザールとは、北斗七星のうちのひとつの星の名だとは知らなかった。
 それから毎晩、お店が閉まる頃、道路に望遠鏡を持ち出しては夜空を眺めた。50Xのレンズで見ると、月など、その表面のクレーターがクッキリきれいに見える。図鑑ではおなじみだったけど、土星の輪を初めて見た時は、すごく感動した。
 日が過ぎるほどに自分の心に浮かんできたことは、あの暗闇、やはり宇宙の向こう側はどうなっているんだろうか? 低学年の時の核戦争じゃないけど、夜、ふとそのことが頭に浮かぶと、なかなか寝つかれなかった、ここのところ、休みがちなジュリのことも心配だったけど…。

 そんな9月、まだ孝一は下田にいる。

 9月24日、あんなに仲がよかったジュリは、パパの転勤で神戸に転校していく。国鉄にみどりの窓口が開設されたその日、哲夫は急に転校話を聞いた。放課後、ひとり白雪城に上がって、ポケットに手を突っ込みながら『涙くん、さよなら』を歌った。

とっぽいヤツ12

12 パンアメリカン・ドリームス

新校舎





 いよいよ哲夫も最終学年、6年生になる。
 ちょっと前までは、正門から見て左端の高台にある旧校舎だったが、一番右端の、運動場の一角をつぶして建てた新校舎に移った。落成したばかりの鉄筋の校舎に6年生3クラス入れてもらったはよかったが、塗料のせいなのか、新築のヘンな匂いがするので最初はみんなイヤがっていた。
「でも、トイレはきれいだし、教室も広いし、いいことだってあるよ」
「そりゃ、おまえは誰かさんの隣に座れるんだからねえ、文句はないよなあ」と、服田は冷やかすように言った。

 新校舎に足を踏み入れ、始業式のその日、”誰かさん“はやってきた。
 父親が商社に勤めていて、転勤でインドネシアから戻ってきた帰国子女とかで、姓は中山と普通だが、名は珠里と書いて「じゅり」というのがイカす。身長は高くなくてちょっと小太りだったけど、手足の長さ、顔の小ささなど、バランスが整っているのが自分好みで、キュートな子だった。
「はじめまして」の挨拶の際、哲夫はインドネシアと聞いて「ジャカルタからなの?」とひとり尋ねた。
「そうです。父が石油プラントの建設をしているので、アジアや中近東を転々としていました」と答えてくれた彼女に、「へえ、だからか、日に焼けたような肌の色をしているのは」と、もうひと言突っ込んだ。
「日焼けもそうだけど、まわりは石油だらけだったからオイル焼けもはいっているかな~。そういう君はこんな子、好きですか?」
 一瞬クラスが凍りついてしまったかのような沈黙の後、男子からはヤンヤの拍手喝采が起こった。ふたりのことを冷やかすと同時に、素直にものが言えない、言わせないクラスの女子たちに対しての批難もそれには混じっていたのだ。

 男子と女子との力関係を物語るのに、昨年末の学級会での”ある決めごと“が格好のエピソードかもしれない。それは「男子は、女子がブランコで遊んでいる時、前の手すりに座ったり、その前で立ち止まったりしてはいけない」というものだ。こう決まってはみたものの、いったい何を意味するのか? 男子の大部分は一瞬わからなかった。「誰も、おまえたちの汚れたパンツなんか、好きで見るかよ~」と、治樹だけが余計なこと言って、女子にとっちめられた。
 一事が万事こんな感じで、ここのところ男子は、遠回しな言い方を大人らしさと勘違いしている女子たちの言いなりだった、担任が女子に甘かったからかもしれないが。塾で仕入れてきたスカートめくりなんてしようものなら、女子からはつるし上げを食らって、伊豆にもはり倒されること必至だ。
 今年になってからは、女子の間でちょっとしたトラブルもある。まあ、お嬢さん派とお姉さん派の、言ってみれば権力争いみたいなものが起こって、それが尾を引いたままで新校舎に入ってきたのだ。それまで、実家が手広く商売をやっていて、チヤホヤされている伊橋さんやノッポの紗治さんたち”お嬢さん派“に替わって、学級委員を務めるなど、精神的にマセた仁志川さんや松井さんたちの”お姉さん派“がクラスの主導権を握り、リードし始めた。
 どちらにも頭が上がらないことは同じだったが、子供っぽい哲夫たち男子にとっては、まだお嬢さん派の方が接しやすく、軽口も言えた。お姉さん派は融通がきかないし、冗談も通じない…。
 最初の自己紹介の時、さらり自分の気持ちを素直に話した中山さんのひと言は、男子と女子の、そして女子の中のお嬢さん派とお姉さん派の間のわだかまりを、あらためて浮き彫りにするものだった。

 新学期の席決めで、「一緒に座りたい人を書いて、双方あえば相席決まり」という無茶苦茶なやり方で中山さんの隣になった哲夫は、はじめは照れくさかった。「短い期間かもしれないけど、仲良くやろうね。あっ、私のこと、ジュリって呼んで」と言われ、机の下でこっそり手を差し伸べられた時はびっくりしたけど、久しぶりに女子の前で素直になれる自分を感じた。
「いままで、いろんな人と席一緒になったけど、ジュリのいたところ、みんな知っている人って初めてだよ」
「そうなんだ、ブルネイって、たしかイギリスの植民地だったけど、戦後自治を回復して、いま独立に向けて王様ががんばっているんだよね。クウェート、ブルネイ、そしてインドネシアかあ。石油の仕事だったっけ、しているお父さんもそうだけど、家族みんなも大変だろうね」
 世界を飛び回るってどんな感じなのか、うれしそうな中山さんの横顔を見て、想像もつかなかった。

”アメリカ生まれ“というキャッチフレーズで、硬質ゴムでできたスーパーボールが、休み時間に床と天井の間を思いっきり弾んでいる頃には、もうだいぶ新校舎になじんでいた。
「ねえ、松川くん、今度の土曜日の午後、ジュリの家に遊びに来ない?」
 掃除が終わって、みんなでバラバラッと帰る際、襟にレースをあしらったシャツを着た、パンツスタイルの彼女が言った。
 高学年になって女子の家に行くのは、休み中の地区訪問で近所の伊橋さんの家に上がって以来なかったが、なんの気負いもなく「いいよ」と返事できた。普通、クラスの女子と会うことになったら、それだけでアガッてしまうもんだが、彼女は、気楽にものが言える最初のガールフレンドだった。

ジャルパック





 4月16日、金曜日。夕飯前の店番の時、見慣れない朝日新聞を読んでいると、今年になって日本航空が商品化した海外旅行、ジャルパックの広告がまた出ている。
 昨年、オリンピック前に羽田に行った時もそうだったが、どうしても自分が外国に行くイメージが持てない。金髪の女の人に「アイ・ラブ・ユー」なんて使うことあるんだろうか? ひと頃流行ったアメリカの歌じゃないけど、「ユー・ニード・タイミング!」なんて、どんな顔して言うんだろう。 
 地図を見るのは好きだったので、世界各国、その地名や経済・文化までもある程度詳しかったが、だからといって、知っていることと行けるってことは関係ない、まあ、かわいい転校生と知り合うのに役立ちはするけど。
 いつか懸賞にでも当たった時か、結婚してハネムーンの時が海外旅行の唯一の機会かなあ~と思いながら新聞をめくった。
「釣り堀ブーム、銀座にも!
 東京・銀座8丁目停留所前の10階建てのビルの2階に、冷房つきの釣堀が8日開業した。昼休みには、早くもうわさを聞きつけ、物見高いサラリーマンやオフィスガールがかけつけたが、「なんともアンバランスだなあ」という声もチラホラ。釣堀はベニヤ板にブリキで底を張ったもので、2・7mと2・4mの小さいほうにはウナギ、3mと9mの大きなほうにはコイ。料金は30分で、エサつき100円。(中略)とった魚はお持ち帰り願うかわりに、細い竿が折れたら70円、ウキがなくなったら30円、針をとられたら10円、お土産の獲物を入れるビニール袋は20円といったぐあい。金魚すくいの奇抜な現代版、といったところか。」(朝日新聞/夕刊より)

 新聞の記事は大げさだが、ちょっと足を伸ばせば小池の釣り堀もあるのに、地元のビリヤード場や卓球場が、いつの間にか釣り堀になってたりするのをみてハヤリなんだな…と思う。降って湧いたような釣り堀ブームよりも、この春、五反田にオープンしたボーリング場の方が気になった。1ゲームが250円もするっていうから、いったいどんな人たちがやるんだろう? 不思議だ。
 ゲームとは関係ないけど、目黒のスターレーンに裏の伊藤さんの兄ちゃんがよく行くっていってたっけ。ダンスパーティが、いつも開かれている。せっかく明海さんから教わったんだ、早く自分も出入りしてみたい。

 いま一番気に入っているグレーの丸首カーディガンをはおって、峰原坂を上がっていく。出がけに、薫につかまって「召かして、どこいくの?」と聞かれたけど、もちろん本当の行き先は言えない。ジュリの社宅は、上りきって、幼稚園を越した先にある。ちっちゃなマーケット、新光ストアの裏手だ。
「ママ、席が隣の松川くん。社会が得意で、ジュリたちの住んでいた国のこと、すごく詳しいの」
「こんにちわ、はじめまして」
 玄関では靴を脱がない、立ったそのままでの挨拶だった。ジュリのママは、まだ歩き始めるくらいの男の子を抱いた、長い布を体に巻きつけた長身の女性だ。
「よく、いらっしゃいました、ゆっくりして、いってください」
 挨拶を返してくれたママと抱かれた坊やは、目の色、髪の色は同じだけど、完璧な外人だった。
 リビングの隣にある自分の部屋に通されても、哲夫はドキドキしていた。
「イヤだ、松川くん、やっぱりママに驚いた?」
「えっ、いや、驚いたっていうか、なんて言うか…、中山さんってハーフなんだあ」
「えっ、あたしってママみたいに外人ぽいかな~、これでもれっきとした大和撫子なんだけど」
 そういわれて、僕はワケがわからなくなってきた。からかわれているのか? とも思ったけど、それなら趣味が悪い…そんな感情が顔に出たのか、ジュリは僕の顔をのぞき込んで言った。
「ごめんなさいね、混乱させちゃって。彼女は、たしかに私のママだけど、血のつながりはないの。私の本当のママは幼稚園に入る前に死んじゃっていて、サミーラさんって名前なんだけど彼女、パパが後妻さんにもらったわけ」
 向こうの言葉で「ステップ・マザー」、つまり後妻さんだから、ママとジュリとは似ていないわけだ。
「松川くんに余計なこと、くどくど説明したくなかったし、きっとわかってくれると思ったし」とジュリはそういって、手を握った。いままでも家族のことで苦労してきたんだろう。
「家族って、血のつながりだけの関係じゃないよ。でも、初めてだな、こういうの」
「私だって、そうよ。いま、ママが抱えていた子は『健斗』と書いて『ケント』って言うんだけど、いちおう弟でしょ。彼が生まれてきた時、ショックでさあ」
「ふーん、パパは同じなのに…って、やきもちみたいな感情、起こらなかった?」
 うつむいていた顔を上げて、ちょっとジュリは唇をとんがらして言った。
「そういう、ちょっと聞きにくいこと、ハッキリ口に出して言う君って好きだな」

サジッド・カーン











 ドアがノックされて「ジュリ、ケーキが焼けたから、出ておいで」とママの声がした。もう一度、リビングに出ると、台所とつながっているのか、部屋にはバターのいい匂いが漂っている。
 ソファの前にデンと置かれたテーブルの上には、おいしそうなパンケーキがお皿に取り分けられ、その前には半透明な容器にクリームやフルーツが入れられている。フタになった部分をパコッと開け、スプーンで好きな分だけ取り出すのだが、使っていて、なんだかアメリカの家に遊びに来ているような感じがした。
 容器を眺めていると、「松川くんの家でもこれ、タッパーウェア、使ってるの?」とママに尋ねられた。
「いや、たぶん初めて見るから。便利そうですね、これ」
 以前、泰典の家に遊びに行った時、おばさんがハンバーグをこれと同じものから出して調理してくれたっけ。
 その後、また部屋に戻って、いままでジュリがいた国の写真や、彼女が集めている映画スターのサイン入りブロマイドを見せてもらったりした。『巨象マヤ』の主人公、サジッド・カーンのものを見つけて、やはりジュリの趣味はいいと思った。
 帰り道、ジュリとのひとときは楽しかったが、強く印象に残ったのは例の半透明な容器だ。のどが渇いた時のジュースを入れていたのも、お土産用にくれたクッキーを詰めていたのも、いろんな大きさのタッパーウェアだった。

「どこに、行ってたんだっけ?」
 家に帰ってカーディガンを脱いでいたら、台所にいた薫と美智子から声をかけられた。
「タッパーウェアがある家、だよ」とふたりに言ったけど、それ、なんのこと? と反応がない。
「私は、夢見る、シャンソン人形~♪ホントの恋なんて…」と歌いながら、トイレに向かう美智子に見つからないように、哲夫はもらったクッキーを机の中にしまった。

タッパーウェア




 コルゲンコーワのCMじゃないが、いいかげん「おめえ、へそねえじゃねえか」に飽いた頃、久しぶりに天王州に野球をやりに行った。学校に集合してから、国鉄の大崎駅に出て環6を品川に向かう。
「ひと言文句を言う前にぃ、それ親父さん、それ親父さん、あんたの息子を信じなさいっ、ホレ、信じなさいっ、ホレ、信じなさいっ♪」クレイジー・キャッツの新曲をみんなで歌いながら、足どりも軽い。
 三共の工場を目黒川沿いに入って第一京浜を越え、途中、北品川の古い町並みを過ぎると、運河の向こうにグランドが見えてくる。まるで、江戸・明治の時代から昭和へとタイムスリップしたような感じだ。
 以前遊びに来た時は、高速1号線は野球場と発電所の間に建設中だったけど、いまは横一文字に出しゃばっている。なじみのグランド横のパン屋も、立ち退きでなくなっていた。
 夕方になって、そろそろ帰ろうかという時、誰もいないグランドを振り返ってみた。シェーをした自分の長い影がグランドに映っている。その影が空にまで伸びていくのを思い描きながら、「このまま、時間が止まらないかなあ…」と、ひとり哲夫は思った。

 叔父の久男ちゃんがメーデーだと言って騒いでいるなか、哲夫は薫と一緒に八王子のおばさんの家に行くことになった。
「初江ねえちゃんも、ほんと苦労ばっかりで、困っちゃうわよね~」と薫がこぼせば「グズグズいってないで、早く化けて出かける用意をしろ」と孝一が急かす、出がけは、いつもこうだ。
 初江さんは薫の姉で、とてもきれいなおばさんだった。家のアルバムに、薫たち3人の姉妹が写っている古い写真があるが、若い頃の初江さんは断髪の女優さんみたいで、イングリッド・バーグマンに似ていると評判だったらしい。原のおじさんと結婚して、4人子供はいるが、これが全員男で、一番上の長男、武人さんたるや、初江さんの一番下の弟、晃さんより年上だった。三男の雄司、末っ子の健次が、美智子や哲夫と歳が近くて仲がよく、田舎に行ったときなど、一緒に遊び回ったものだった。

 原のおじさんは、哲夫たち従兄弟の子供たちにはウケはいいが、身内からは女にだらしがないとか、定職に就かないとかで総スカンだった。今回は、ふたつ年上の雄司がえらい怪我をして、その見舞いを兼ねてのご機嫌伺いだ。
 中央線も、新宿から中野を過ぎると線路の周りは畑が目立ってきて、荻窪を越すともう武蔵野の佇まいのなか、のどかな田園風景が広がっている。立川を過ぎて、八王子の手前、豊田という駅で降りたが、駅前はともかく、おばさんの家、公団住宅が建ち並ぶ多摩平はあまりにひなびていて、僕はここが同じ東京とは思えなかった。 
「よく来たねえ、テッちゃんも大きくなって」
「初江ねえちゃん、今回は大変で」
 試験勉強をしていた雄ちゃんが、眠気覚ましに明け方、3階建ての団地の屋上に登ったところ、そこを通る高圧電線に触れてぶっ飛ばされたって話だった。そのまま地面に叩きつけられ、動けないでいたところ、たまたま帰宅途中の深夜タクシーの運転手さんが通りかかってくれて大騒ぎになったんだとか。
「でも、よかったねえ、命とられなくって」
「ホント、頭が割れて、死んじまったって不思議じゃないような怪我だったとかで。これで少し、大人しくなってくれるといいんだけどねえ」

 女ふたりおしゃべりに入ったところで、健次が帰ってきた。家にいても雄ちゃんが元気になるわけでもないので、ふたりは自転車に乗って遊びに出かけた。
「この先、高速道路の建設現場があるから、見にいこうや」
 健次の先導でついていくと、大きな山を切り崩して中央道の高架橋が造られている。
「去年、遊びに来た時、みんなで魚釣った池って、どこ行った?」
「あれは、この山崩したんで埋められちゃったよ。この辺も、高速道路が出来ると随分変わるだろうなあ」
 建設現場を見上げながら、健次は言った。
「テッちゃん、いつまでそんな髪型してるんだい?」
 急に声かけられて、哲夫は「えっ、何を?」と返事するのが精一杯だった。
「髪型さ、たぶん床屋でやってもらっているんだろうけど、いつまでも坊ちゃん刈りじゃカッコつかないでしょ」
「どんなのが、いいのかな…?」
「やっぱり、プレスリーみたいなGIカットか、せめてボンドみたいにシチサン分けくらいしたら」
 自分が人に言ってる口調でやられて「シチサンはやるけど、いつの間にか髪がおりてきて、分け目がなくなっちゃうんだよ」といいわけをした。
「そんじゃあ、整髪料つければいいじゃん」
「健次は、どんなのつけてるの?」
「俺は、スコアーかな、雄ちゃんなんかバイタリス使ってるね」
「そうか、髪型に整髪料かぁ」
「テッちゃん、あと洋服も、いつまでも親に買ってもらっているものばかり着てちゃダメだぜ、古くさいのしか買ってこないんだから」
 健次はひとつ歳下だったけど、やはり上に男3人いるだけに、自分よりもマセている。いろいろカッコつけられる洋服の話をしたり、バイクや車のこと、エレキ・サウンドやダンスの話をしたりした。

「そうだテッちゃん、今度一緒に立川のベースに行こうか?」
「なんだい、ベースっていうのは?」
「だめだな、基地のこと、英語でベースって言うんだよ。そんで、年に何回か、ウェルカム・デイっていって一般開放されんだけど、基地の中って、まんまアメリカだぜ」
「どうなってるのさ」
「まず、日本のお金じゃなくて、全部アメリカのお金、ドルを使うんだ」
「ドルなんか、持ってんのかい?」
「いやだなあ、入口で両替えするのさ。そいで、基地の中じゃあ、なんでも安いんだ。福生あたりで2000円くらいするアメリカ直輸入のGパンだって2、3ドルで買えるし、お昼のハンバーガーだって、キャベツくらいあるやつが飲み物付きで1ドルしないし、さ」
「ハンバーガーって、あのパンにお肉はさんだやつ?」
「そうさ。広場でやっているのも、チンケな野球じゃなくてアメリカン・フットボールだったり、映画館じゃあ、まんま英語で007がかかっていたり、さ。とにかく、ベースん中はアメリカそのものなんだよ」
「ふ~ん」
「この春行った時、俺、ストックカー・レースっていうの、初めて見たんだけど、ありゃスゴイよ」
「NETで中継録画している、アメリカのカー・レースだろう」
「そう。フル・サイズ・セダンやハードトップの乗用車をレース用に改造して、何十台もがバンク付きのオーバルコースをぶつかり合いながら競うやつさ」
「ウェルカム・デイかあ、いいなあ。健次さ、今度あったら教えてくれよな、絶対来っからさあ」
「そうさ、雄ちゃんからバイク借り出してさ、かわいい金髪のガールフレンド、一緒に探そうぜ、な」

 夕暮れが近づいて、高速道路の高架橋工事現場を後にして、また田んぼのあぜ道をふたりで走って戻る。健次の言った「金髪のガールフレンド」っていう言葉が気になって、哲夫は何度も復唱した。

 家に戻ると、狭い部屋に次男の政博さんも帰っていた。雄ちゃんの休んでいる枕元で、仁義の切り方を教えてくれたけど、本物の短刀を持ち出してきたのにはビックリした。長男の武人さんは船乗りだし、政博さんは土方の大将だし、みんな原の従兄弟連中はおじちゃんの血をひいている。
 健次は、隅っこにレコードプレーヤーを置いてベンチャーズをかけていた。一緒になって、腰を振って踊っていると、それを見て雄ちゃんが笑っている。
 帰り際、「テッちゃん、俺はヤクザだけど、おまえのおばさんには小さい頃えらく世話になったからよ、何かあったら言ってきな」
 政博さんが耳元でささやいたが、初江さんにも聞こえたとみえて、思い切り叩かれていた。従兄弟たちとはいえ、あまりに気性も性格も違っている。だけど、自分にないものを持っている原の兄弟たちが僕は好きだ。

 飛び石連休が終わると、新しく始まったスパイTV番組『0011ナポレオン・ソロ』の人気で、クラスがソロ派とイリヤ派のふたつに分かれてしまう。ソロ派は、男子と女子のお姉さん派がメイン、お嬢さん派は甘いマスクのイリヤにぞっこんだ。
 一時席が隣だった、山岸という子の家がクリーニング屋さんだったので、テレビの設定と同じ、男子はアンクルの本部にしようということを考えた。が、用もないのにぞろぞろ店に出入りしては商売にならない。
「ちぇっ、山岸の親父さんはウェイバリー課長にはなれねえぜ」と言って、みんな悔しがった。

私にも写せます










 5月18日、ファイティング原田が、エデル・ジョフレを破り世界バンタム級のチャンピオンになった。これで、2階級制覇だ。クラスで一番背の大きい黒パンこと黒田が、ボクシング・ジムに通い始めたという噂が流れたけど、じつは地元の中学のワルに目をつけられ、身を守るために空手を始めたのが本当のとこだった。
「なんで、哲夫までが野蛮なスポーツに夢中になるのか、わからない」とジュリは言ったが、「絶対、ボクシングは習わない」ことを約束した、その気もなかったけど。
 テレビで、8ミリ片手のおばちゃんが「私にも、写せますぅ」とCMで言い始めた頃、いくらスパイがかっこいいって言ったって、架空のドラマに飽きた連中は、海の向こうからやってきたスロットルレーシングに夢中になった。隣町の、武蔵小山にはバンク付のコースができただの、品川のボーリング場には全長100メートルを超える5レーンのレース場があるだのと長門、治樹、泰典、野原たちが夢中になっている。哲夫も、ギヤをいじるだの、タイヤを変えるだの、細かい作業は不器用なので無理だったけど、いちおうコースを走れるコルベット・スティングレーをブンちゃんの店で買って参戦した。
「休みの日まで、男の子同士遊んで、いつ私と遊んでくれるの?」とジュリは怒ったが、これまた「絶対、週に1回は一緒に遊ぶ」ことを約束させられた、願ったリだったけど。
 ブンちゃんの店は、学校と百反の商店街の中間にあって、文房具から模型まであつかっている。自分よりふたつ年上の、芝中に通っている文治って兄ちゃんの店で、彼は地元で起こるトラブル、まあ、主に喧嘩だけど、の仲裁役、つまり地元のワルの元締めだ。弱気を助け…を地でいく好漢で、僕は従兄弟の政博さん同様、ちょっぴり憧れている。

ペプシ








 金曜日の放課後、ジュリとの約束どおり、白雪城にやってきた。白雪城は、ディズニーの映画に出てくるようなお城だが、緩斜面を駆け上がると踊り場があって、そこからは尖塔の形をしたドームを1本の鉄棒で降りるか、滑り台でグルリ一周して降りるか、選べる。男子は、そんなまどろっこしいことはしないで、いきなり踊り場から下に飛び降りたりもした。
 下校時間も近づいてきて、ふたりでドームを降りると、ジュリがシャツを引っ張った。鉄棒で降りたところは、ちょっとした薄闇な空間があって、そこから通路をしゃがんで表に出ていけるのだ。
「ねえ、ペプシコーラの50の質問、考えてくれている?」
「うん、やってるよお。でも、今度コカ・コーラでもホーム・サイズが出ただろう。安くて経済的だって、ウチはそっちにしちゃって…いちいち、ペプシの王冠集めて、その裏から答えを捜すことができなくなっちゃってさあ」
 ふたりの間で、ペプシの懸賞に応募しようということになっている。ゴリラの住んでいる地域はどこでしょう? からボーリングの徳利型のピンの高さは? までの50問を答えて送ると、抽選で1052人に賞品が当たる。一等は、パンアメリカンのファーストクラスで3週間の世界一周の旅、もちろんお2人さま1組だった。
「一緒にいけるといいね」
「今日は哲夫の髪、いい香りがする」
 薄闇のなか、初めて女の子とキスをした。

 土曜日は、東農大のワンダーフォーゲル部で起きた「しごき事件」でちょっとした騒ぎが家の中であった。
 叔父の久男ちゃんの趣味は同じ登山で、訓練中の上級生による下級生へのしごきでの過失死に「山を愛する者ならば、決してあんなことはしない」と怒っていた。「それでなくても山は怖いのに、みんな無理させるんだねえ」と、薫がチャチャをいれたから話はこんがらがった。登山そのものが「高尚な趣味」か「野蛮な行為」かで、しまいには言い争いになってしまったのだ。
 まあ、哲夫にとってはどうでもいいことで、その後しばらく「おまえ、シゴクぞ!」と、また新しいボキャブラリーが仲間内でひとつ増えただけだった。
 日曜日は、クラスの有志、といって長門と慶一の3人だったけど、日進の進学教室主催の全国模試に、四谷の上智大学まで出かけた。いつもは、立正大学で行われる、城南地区の東進の模試に行ってたが、ここのところ上位1、2、3をかわるがわるとっていたんで飽きちゃったんだ。

 5月23日。大相撲夏場所は千秋楽、佐田の山が優勝した。
「ヒョ~ショ~ジョ~、アナタハ…」と、ヘンな日本語で有名なデイビッド・ジョーンズ氏が、土俵上でパンアメリカン賞のトロフィーを手渡すのをオジイちゃんと一緒に観ている。アナウンサーが、このトロフィーは直径40センチ、全高115センチ、重さは42キロあって、ジョーンズ氏が渡すようになったのは36年の夏場所、優勝した前頭3枚目の、同じ佐田の山からだと言っている。
「なんだ、おまえ佐田の山のファンだったのか?」
 ニヤついた哲夫の口許を見ながら、オジイちゃんは言った。
「ううん、俺、パンアメリカンだから」
 自分の視線は、テレビに大きく映し出されている、地球儀の形をしたトロフィーに釘付けだった。

とっぽいヤツ11

11 優しく、怪しい大人たち

誕生日1





「いま、演技に入りました。見事な停止姿勢です。おっ、手を離した、これはウルトラC級のワザです」
 鉄棒をやっているのは、仲野だ。彼は抜群に運動神経に長けている。中継のアナウンサーの真似をしているのは河野。休み時間に、華麗な? 鉄棒をみんなで見ている。
 飛びついて、片足をかけてクルクル片膝回転してから手を使わずに棒の上に座る。両手を離したままで後ろ宙返り、つまり両足で棒をはさみ込んでクルリ1回転して飛び降りる”こうもり飛び“をやってのけた。
 最中は、もう結果だけ追いかけるのに夢中で、終わってみて、はじめてオリンピックの楽しさ、すごさ、面白さがわかったような気がする。女子は放課後、”東京五輪の華“チャスラフスカの平均台の演技を、男子は休み時間、重量挙げ三宅義信のジャークの仕草や、体操の山下の着地を真似た。 
 地元の商店会でも、日本選手が金メダルを獲るたびに記念1000円銀貨が当たるくじがあった。結局、16回行われたけど、実家も主催者側だけに、哲夫は参加できなかった。

「おい、テツオ。一緒に帰ろうぜ」と泰典に声をかけられたけど、元気のない声で「おー、今日は先に帰っていいや、またな」と答えた。
 放課後、円谷、君原の走り方を真似たマラソンごっこで疲れた。今日は、塾もある。ケンカをしたわけでもないのに泰典と帰る気がしなかったのは、最近ちょっと考えるところがあるからだ。
 芳水で高学年になって、クラスの連中とも十分にうち解けて、自分が気づいたことは、言い方は悪いが”違う人種“がいるってことだった。
 地元、大崎の幼なじみといえば、ヨッちゃん、ユタカちゃんはパン屋、ゴウちゃんは電気屋、横丁のサトシは乾物屋という風に、みんな商売人の子たちだ。どんな家に住んでいて、どんな暮らしをしているのか、みんな知っている。
 それが、なんで商売もしていない社宅暮らしの奴が、月末になると新しいおもちゃを持っていたり、新調の洋服を着てきたりするのか、最初は不思議だった。クレイジー・キャッツじゃないけど、毎月25日が彼らの親父さんの月給日、その日にお小遣いをもらったり、欲しいものを買ってもらってたりするわけだ。
 夏の課外教室も、自分ところは臨海、林間のどちらかだが、彼らは両方に参加できる。理屈じゃわかるけど、どんな暮らしをしているのか、どうつきあえばいいのかは、まだわからないことが多かった。
 自分ふくめて商売人の子は、誕生日など、これといって祝ってもらったためしがない。それが、今年5年生になると、サラリーマンの連中は盛んにお誕生日会をやって、仲のいい友達を呼んでご飯なんか食べている、らしかった。
 この誕生日会には1回だけ誘われたことがあったが、それは泰典のところだったので、たいして新しくわかったことはなかった。
 ただ、プレゼント交換があって、何を持っていっていいのやら?悩んだ。誕生日の泰典にあげるもの、彼の好きなものなら想像もつくけど、呼ばれたみんなで交換しあうっていうんで、自分のものが誰のところにいくのかわからなかったからだ。じゃあ、一体プレゼント交換って誰のためなんだよ? と哲夫は思った。

 こんなこともあったっけ。百反で遊んだ後、まだ時間があったので戸越に近い山上の家に遊びにいこうということになった、まあ、いるかいないかはわからなかったけど。結局、治樹がついてきて一緒に行ったんだけど、門扉の呼び鈴を押すと、そこがマイクになっていて「どちらさまですか?」と女の人の声がした。「松川ですけど、山上くんいますか?」って言うと、「ちょっと、待っていてください」だ。それから4~5分近く待たされただろうか、家の玄関が開いて山上が出てきた。
 まず、マイクに驚いた。そして、てっきり遊べるのかと思ったら、山上の口から次のような言葉が出たのにはたまげた。
「おまえさあ、遊びにくるならくるで、電話ぐらいくれよお。いま、家庭教師が来ていてさあ、ママなんか『先生の時間なのに遊びの約束、入れていたのっ!』っておかんむりなんだぜ」
 玄関の向こうには、家の中なのにスーツを着た山上のおばさんがこっちを覗いている。
「またな、悪いな」といわれれば仕方がない。家路についたけど、治樹と別れた後も、たかが一緒に遊ぶのに電話するなんて信じられなかった。電話は、それこそ自分の家では注文のための商売の道具で、私用で使うなんて考えたこともないもの。
 慶一の家に遊びに行く時なども、おばさんは嫌な顔しないけど、挨拶の後、必ずいつも「家の人には、言ってきてあるの?」と尋ねられた。
 だいたいサラリーマンの子は、ちゃんと自分の部屋を持っている。その部屋で遊ぶんだけど、普段は家の人は入ってこない。トントンとドアが叩かれて、お茶菓子が出てくる時、必ずいつも「遅くなるって、電話入れなくていいの?」と聞かれた。帰りには「お父さん、お母さんによろしくね」と、いつも玄関で言いつかる。
 これが、地元ならな~んにもいらない。まあ、自分の部屋がもらえるサラリーマンの子の暮らしぶりには憧れるけど、いちいち面倒くさいことが多いもんだ、と思った。

「ねえ、お父さん、うちでも誕生日会やってよ」
 いつもの店終いの時、頼んでみた。姉の美智子に、以前同じことを聞いたら、「自分の部屋も、人を呼ぶ応接間もないのに、うちで誕生日会なんて、無理、無理」といって相手にしてくれなかった。
「誕生日会か、そうだな~、あと1週間だものなあ。考えておくよ。でも、その間に誰を呼ぶか、決めておきな」
「え、いいの、誕生日会やって」
「なんだ、ヘンなヤツだな。ほら、しっかり持って…そりゃ、おまえもつきあいってあるだろうから、考えてやろうというんだ、いけないか」
「いや、だって本当にやってくれるなんて思わなかったからさあ」
「おまえも、もう5年生だろう、クラスにちゃんとした友だち、いるのか?」
 4年から仲のよくなった連中が、みんな百反近辺の遠くに家があるということもあったし、商売をやっているだけに、遊びに行くことが多かったから、美智子じゃないが、友だちを呼ぶということは少なかったので、孝一は彼らを知らなかったのだ。
 その夜、哲夫は大きなバースデイケーキを頭の上からぶつけられる、まるでアメリカTVみたいな夢を見た。

誕生日2






 11月3日、文化の日。誕生日会は意外なカタチになる。三浦半島への遠足だ。
 誰を呼ぼうか? 考えあぐねたけど、これも父親の「一度、呼んでくれた子は、必ず呼べよ」のひと言で泰典に相談し、男子は山上、慶一、河野を呼んで5人、女子はグラマーで人気のあった佐藤さんを呼ぼうということになり、声をかけたら「立花さんと一緒なら」ということになって2人、計7人に孝一というメンバーになった。
 朝、大崎駅で待ち合わせ、品川駅に行き、京浜急行で久里浜まで行く。なんか、いつもの釣りに行く気分みたいだと思ったけど、みんなはこの時期海に行けるというので大喜びだ。
 久里浜に着くと、目の前はピカピカの巨大な東京電力の発電所だ。この夏の臨海学校で、バスの中から浦賀水道をはさんで見た記憶がよみがえる。徒歩で、いい加減歩かされて、観音崎京急ホテルに入った。180度、東京湾を眺められ、海側はテラスハウスになっていて磯に出られる。

誕生日4






「みんな、ここでお昼まで遊んでおいで」
 孝一のひと声で、磯に飛び出していった。
「哲夫よぉ、おまえ、いつも誕生日って、こんな風にどっか連れて行ってもらってたのか?」と河野が尋ねてきた。
「わけないじゃん。今回は、特別だよ」
「いいよな、おまえんちはいつも親父がいて」と、山上がボソッと言った。
「こいつんちじゃ、いつも家族みんないるんだ。俺も時々遊びに行くけど、いつもテレビのホームドラマやっているみたいなんだもの」と泰典も続けた。
 水に濡れながらもイソギンチャクをいじめたり、カニを追いかけたり、シャコを見つけて捕まえたりした。
 そうか、商売人の子は、それなりにサラリーマンの子から見れば羨ましい面もあるんだってわかった。なんか、急にうれしくなって、連れてきてくれた父親のいる方を見ると…孝一は、ひとり離れて釣り糸を下げている。

誕生日3






 ホテルで食事をし、観音崎の灯台に立ち寄る。高所恐怖症の孝一は上らず、みんなで360度のパノラマを楽しんだ。それからバスで城ヶ崎に向かう。城ヶ崎大橋を手前で降りて北原白秋の詩碑を見て、バスステーションからグルリ一周城ヶ崎を回ってから三崎港に行く。漁港が珍しいのか、いろんな魚が荷揚げされ仕分けされるのを見てみんなは喜んでいたが、哲夫は「なんか、親父の趣味につき合っているみたい」と一瞬思った。
 海沿いにバスを乗り継いで油壺まで行く。相模湾に面しているので波は荒く、オープンしたばかりの油壺京急マリーナはきれいだ。各界の著名人のヨットが集まっているというんで、みんなでスターの姿を探し回ったけど、そこには加山雄三も、団令子もいない…。船を前にしての記念写真は、いい思い出になった。
 天気のいい文化の日とはいえ、3時を回ると吹く風も冷たく感じてくる。油壺から久里浜まで、再びバスで戻った。降りたバス停では、「野比第一次建売住宅、好評販売中」の看板がやけに目立つ。
「哲夫、みんなでここで待ってるようにな」と言い残した孝一が、入っていったのは釣り宿じんべえ丸だった、25分は出てこなかったぞ、おい。

 哲夫の誕生会が、三浦半島の遠足行だったことは、その週末クラス中に知れわたった。というのも、慶一が撮った写真の一枚が物議をよんだからだ。観音崎の京急ホテルのテラスハウスに、海に続く芝生があって、下から上がってくる佐藤さんに手を差し出した河野の写真が女子に見つかり、「お手をどうぞ」の文句と一緒に黒板に張り出されたからだった。そのことに関して、伊豆は文句言わなかったけど、しばらく河野は女子から敬遠され、また佐藤さんは「先生に、えこひいきされている」と噂される。
 誕生日会は呼ばれる、呼ばれないでショックがあるし、またその後にまでひと騒動起こることもある…やはり、お祝いは身内だけで済ました方がいいと思った。

誕生日







「そういえば最近、ケンさんを見かけないねえ」と、薫が隣の安田屋の娘さん、サーちゃんに話している。
 ケンさんは、目黒川沿いの新開地ストアーの並びにあるバークラクラのシスターボーイだ。以前、城南ベーカリーのオヤジへの復讐のときは、大いに協力してもらった。そんな彼は、大崎警察署の向かい、その昔、巨人軍の野球選手、国松が下宿していて話題を呼んだ、伊橋スポーツの横丁を入ったところにある楓荘に住んでいる。
 年の頃なら、もう30近くかもしれないが、歌が好きで、お世辞もうまかったので薫は気に入っていた。孝一はいやがったけど、生まれも信州だったせいか、よくSKDの東京おどりや、ターキーこと水ノ江滝子の近況などを、店先でふたり話していたもんだった。
「こう言っちゃなんだけどね、サーちゃん、ケンさんって大学出だったのよ」
「へえ、おばさん、よく知っているわね」
「だって、はじめの頃、あたしケンさんに言ったことあんのよ。ほら、何がよくて男娼なんかやってんのよって。そうしたら、言うじゃない、おばさん、俺だっていちおう大学出てお勤めしたことあるんだ、って」
「それで?」
「田舎で好きだった子が東京まで追いかけてきてさ、止せばいいのに花街で働いて、そこで肺やられちゃったんだって。ちょうど、ケンさんが大学出る時で、そのことがわかって、しばらくは一緒にいたらしいのよぉ。でも、商事会社に勤めに出てるうちに、亡くなっちゃったんだって」
「いやあ、おばさん、かわいそう~」
「それで、ほらケンさんって、見かけによらずに優しいでしょう。休んで、いろいろ後のことやってたら…会社ってとこも薄情だねえ、この月給泥棒っ! って言われたんで腹たててヤメちゃったんだってさ、何もひと月ふた月休んでいたワケじゃないのに」
「へえ、でまたどうして、男娼なんかに?」
「そりゃ、気があったかもしれないけど、なんか亡くなった、名前は里美っていう子の供養もあって、似た仕事に就いた…なんて淋しく笑っていたけど、ホントかねえ」
 聞き耳を立てていた哲夫は、「ちょっと本屋さんに行ってくる」と言って、表に出て夕暮れが近づいた十字路を越えていった。目黒川を渡り、新開地ストアーからバークラクラを眺める。その昔、スプーンで器用にゆで卵を食べていたケンさんの姿が目に浮かんだ。
 愛嬌があって、誰にでも優しかった彼はその後、二度と東大崎の町では見られなかった。

 ケンさんが消えた頃、11月の中ば。塾の帰りに、五反田の丸竹さんまでの用事を言いつかった。池上線を降りて、東光ストアーから店に向かう。
 出がけに、孝一から「余計なところに寄ってくるんじゃないぞ」と言われたのは、東光ストアーと丸竹さんの店の間にあるシャネル美容室のことを言っているんだな、と気を回した。
「あそこに近づいちゃいけないよ」と言われるところはどこにでもあるが、シャネル美容室は駅向こうの要注意ポイントだ。ここのママは、チワワだの、ダックスフンドだの、いつも珍しい犬を飼っていて、それはそれでいいんだけど、近所の子供にちょっかいを出すので有名だった。
 ママはいつも小綺麗にしているし、女優の左幸子似の容姿で、ちょっと前まではトランジスター・グラマー、なんて言われていた。やってくるお客さんも、近所の新東京温泉やクラブ月世界のお姉さんたちだったから、なるほど自分がフラフラ入っていきそうなところだ。
 自分は、女の人が化粧をちゃんとするのはいいことだと思っている。薫が”化ける“のを見ているのも、小唄のお師匠さん、武田さんの着物からする凛とした香りも、好きだ。
 ちっちゃい頃、母方の叔母の環さんという人が一時下宿していたことがあった。彼女も、哲夫のお気に入りだ。器量は姉たちよりはだいぶ劣るけど、度胸だけは満点で、田舎から出てきていきなりデパートの美容部員になってしまった。その応募規定には「容姿端麗」という一項があって、どう見てもうなずけなかったけど、環さんもお化粧だけはうまかったんだ。
 父への届け物の会報を預かって、また戻ってくると、名画座の上映案内のウインドが目に入った。ここは、名画とは名ばかりで、ピンク色の映画ばかりやっている。いつもは、こっそり古本屋さんで立ち読みする、大人の娯楽誌のピンナップと同じ裸の写真が、これ見よとばかりに飾ってあるのだ。
 名画座の前をウロウロしていると、「何やってんだい、この子は」と声がかかってしまった。ママだ。
「ちょっと、落とし物しちゃんたんです、ここで」
 自分のやっていることに後ろめたさがあって、つい返事をしてしまった。
「そう、何を落としたんだい? 一緒に捜してあげようか、ねぇ」
「いえ、いいです、小さなものだから。また買えるし」
「大事なものだったの? いいから、言ってごらん」
「すごく小さい人形の家で、妹に買ってあげたやつだったんです」
 とっさに、丸竹さんの店のショーウインドで見かけた、豆粒みたいな家の模型を思い出して、口にした。
「おや、じゃあ妹さんも悲しむだろうね、困ったねえ。そう、替わりにいいもの、あげようか?」そう言って、ママはお店に入っていった。
 ホントなら、このとき、走り去ってしまえばよかったんだ。ママが消えてすぐに、「ちょっと、おいで」とお店の中から声がかかったが、入口にはレースのカーテンがかかっていて中は見えないようになっている。つい好奇心をおこして、お店がどうなっているのか覗くだけでも…とカーテンをくぐった。
 いきなり、抱きしめられちゃった。5年生になったとはいえ、僕は朝礼の時、前から数えて3番目、130センチの30キロしかない。大人の女の人に抱きつかれては、動きようがない。
「ぼうや、おばさんは知っているんだよ、何を捜していたのかは。ほら、これだろう」
 いつの間にママのブラウスの前ははだけていて、気づかなかったけど下着もつけてない。胸を押しつけられて、哲夫はあわてた。ママの手が腰の方にも伸びてくると、これはやばい! と思った。
 無我夢中で口を開け、「やめてよぉ!」と叫ぶ…つもりが、開けた口の八重歯に、ママの気の利いた乳首が引っかかってしまって、結果的にイヤッというほど噛んでしまう。
「痛いっ! 何するの、この子は!」
 一瞬、ママの手が緩んだ隙に抜け出した。が、店の奥に後ずさりするしかない。髪をかきなでながら、ブラウスを脱いだママが近づいてくる。
「ほら、大人しくしなさいよ、男の子でしょう」
 かなりヤバイけど、不思議に大声を出そうという気にはならなかった。それは、かえってママを侮辱することになる。自分でも不思議だったが、ドキドキするココロとは裏腹に、アタマはかなり冷静に働いていた、以前後楽園球場でのこともあったし。
「わかったよ、おばさん、じゃあ、こんなのは、どう?」
 哲夫は、近づいてくるママの足下目がけて、履いていたズックを投げつけた。思ったとおり、ママはヒョイと避け、無事ズックは表に転がっていく。
「さあ、ここで僕が大声を出したらどうなると思う?」

「ほら、忘れ物だよ」
 ママが会報を渡してくれた時、手をなめられた。「お釣りはいらないからね」と言ったママは、イスから下着をとって衣服を整えはじめた。
 塾で習ったばかりの言葉だけど、夕暮れ時を「逢魔が時」とはよく言ったもので、先刻の出来事を思い出しながら家路を急いだ。
 金子園の前を通ると、足の悪いジイさんが縁台将棋の真っ最中だ。このジイさんも、悪い人じゃないんだけど、変わっている。お茶を煎っているのを、いい香りとばかり嗅いでいると「お金、取るぞ」と言うし、そのくせ、『愛国行進曲』だの、『加藤隼戦闘隊』などの戦争の歌なんかを教えてくれて、ちゃんと歌えると味付け海苔なんかくれたりする。
 地元、五反田や東大崎には、ほんとに不思議な大人がゴロゴロしている。

 昭和39年も終わり、昭和40年になった。あれだけオリンピックで盛り上がったのに、世の中は冷たいもので、もう次、今年は明治百年だっ! と騒ぎ出したのには閉口した。
 3学期に入って、まだ松も明けないうちに伊豆大島元町で大火事があった。元町には、芳水小学校に入って最初に哲夫の担任になってくれた中山先生が赴任している。新聞部が先頭に立って、みんなで島の小学校宛に励ましの手紙を書こうということになった。このとき、よそのクラスも協力してくれたことがうれしかった。

26年












 2月1日、月曜日の放課後。5年1組の教室では、トンチンカンな話があった。
「ちょっとさ、治樹、いいかい。ちょっとこっちへ来いよ」
「なんだよ、いま壁新聞のマンガの仕上げで忙しいんだからさあ」
「来いってさ、いいもの見せるから」
 治樹を教室の隅に呼ぶと、哲夫は思わせぶりに麻袋を見せて、そこから机の上に中味をジャラジャラ出す。
「なんだい、これ?」
「へっへ、何に見える、これ?」
「何って、ただの十円玉じゃないか」
「ノー、ダメね。もっとよく見ろよ」
 そう言われて、治樹は20枚くらいの十円玉のなかから何枚か手に取ってみたが、別にこれといって変わったところはない。
「おい、おまえ、まさかこれ、ニセモノっていうワケじゃないだろうな?」
「シェ~、手に取ればわかるだろう、みんな本物さ。わかんないかなあ?」
 治樹は、からかわれていると思ったのか、「わかった、これ、くれるんだろ」と言って、手にした十円玉をポケットに入れようとする。あわてて言った「おいおい、じつはこれな、みんな昭和26年の十円玉なんだよ」

「なんかその話、ウソくさくないか?」と長門が言えば、「李さんって、話しちゃダメだって言われてる人だぜ」と泰典も続けた。
 南大門の李さんが、哲夫を呼び止めて「ぽかーね、君にだけ話すかんね。テッチャン、ショーワの26年の十円玉、金入ってるよ、ホント」と言ったのは、先々週の土曜日、1月23日だった。このオヤジ、また子供だからって…と思ったが、お店に呼び込まれて神戸の兄弟からの手紙と、一升瓶の半分くらいまで入った十円玉、それも昭和26年のものばかりを見せられて、本気になった。
 李さんは朝鮮の人で、いつもはワケのわからない人だけど、ことお金のことになると違う。孝一も、「よくやっているよ、李さんは。国に残した親戚に、ちゃんとお金も送っているんだから」と、マネービルに関しては認めていた。それからは、毎日お店の小銭をチェックして集めまくったのだ。
「そんな話なら、みんな知っていてもおかしくないじゃないか」
 慶一はまともなことを言った。
「ほら、この間話したM資金のこと、覚えているだろう。みんなわかっていても、要はちゃんとやったやつだけが儲けられるんだよ、それが金儲けってやつさ」
 調べてみよう、もしもデマでも「町の噂を追う」とかなんとかまとめれば新聞にも使えるし…ということになった。
 長門は、お兄さんの知り合いが造幣局に勤めているというので聞いてもらうことにした。
「よし、じゃあ僕は、おじさんが古道具屋をやっていて、昔のお金なんかも扱っているから尋ねてみるよ」と慶一が言った。
 果たして、本当に金が入っているのか、いないのか? でも、調べてみるだけでもワクワクした。

「壁新聞 号外版 十円玉の謎を追え!
 このところ、社会では、昭和26年の十円玉には金が入っている、という噂が流れています。僕たち子供だけでなく、大人の人たちまでもが信じているそうです。そこで調べてみると、やはりその話はウソということがわかりました。
 では、どうしてそんな「デマ」が言われるようになったのでしょうか? 次の2つの話は、新聞部記者が命をかけて聞いてきた実話です。
◆ 26年の10円玉といえば、わが国ではじめて発行された10円玉です。当初は洋銀(ニッケル合金)で出す予定だったようですが、朝鮮戦争の勃発でニッケルが高騰したため、急きょ青銅(銅950、亜鉛40~30、錫10~20)で作られました。
 通称ギザ10といわれるもので、これは昭和26年から33年まで発行され、以後はギザなしになりました。このギザのいわれは、古く明治のころにさかのぼります。当時、わが国は金本位性で、貨幣は等価の金と交換できました。このとき、不埒な輩に金貨の周囲を削りとられる恐れを防ぐため、ギザが入れられたわけです。以後、高価な貨幣にはギザを入れるという慣習が生まれました(ちなみに、穴あきはギザ同様識別用で、省資源化の意味もあり)。
 昭和26年の10円玉に金が入っているという噂は、たぶん、はじめて発行されたので貴重だということから噂になったのではないでしょうか。
造幣局東京支局 文書課 鈴木さんのお話
◆ 最近、そんな噂がありますね。たぶん、はじめて10円玉が発行され、それがキラキラ光っていたからそう言われたのではないでしょうか。
日本貨幣商協同組合の理事のお話
◆これが、十円玉だ!
10円青銅貨(ギザ有) 
直径23・5ミリ 量目4・50グラム
年号    西暦   発行枚数
昭和26年 1951  101068000
  27年  1952  486632000
  28年  1953  466300000
  29年  1954  520900000
  30年  1955  123100000
  32年  1957  50000000  
  33年  1958  25000000
試=不発行10円洋銀貨 
直径20ミリ 量目2・79グラム
品位ニッケル160~180/銅550~600/亜鉛200~220
昭和25~26年(1950~1951)
朝鮮動乱のため、ニッケル相場騰貴不発行
 身の回りで不思議なこと、わからないことがあったら教えてください。僕たち新聞部が徹底的に調べて報告します」

 2月になって、オジイちゃんの「福は内」だけの節分が終わった頃、哲夫は念願の横浜に行けた。「ニッパチは商売にならない」というわけで、商店会のお歴々はこの時期、各地へ視察旅行に出かけるが、今回の目的地はオープンしたばかりの横浜西口ダイヤモンド地下街で、頼み込んで同行させてもらったのだった。
 午前中に地下街を見学し、中華街でお昼を食べた。移動の車の中では、思い出したようにカサブランカのようなダンスホールがないか探したが、そう見つかるものではない。
 視察の最後は、ピカピカのマリンタワーだった。展望室の望遠鏡から港を眺める。カチャっという音がして目の前が暗くなった時、ジルバを教えてもらった明海さんのバルーンスカート姿が、一瞬目に浮かんだ。

とっぽいヤツ10

10 後楽園球場の名物は?

「まこ、甘えてばかりでゴメンね~、みこはとっても、幸せ、なのぉ~♪」
 夏休みが明けてから、姉の美智子の、トイレでのお気に入り曲は『愛と死をみつめて』、青山和子が歌う歌詞がとっても暗いので、哲夫は大嫌いだった。「あの子をペットにしたくって~ぇ♪」と小林旭が歌う『自動車ショー歌』の方が、よっぽどいい。

 オリンピックが近づいてくるなか、周りでは、消えていくものもあれば、新しく生まれてくるものもある。
 消えていくものには、目黒川沿いのベアリング工場、子供の頃から好きだった。アルミのお皿に白熱電球の木製電柱、よく暗くなると、このガイシのスイッチをひねって点けて歩いたもんだったが、これも町内からアッという間に消え去ってしまった。代わってといってはなんだが、道路に水銀灯が増え、夕暮れともなるとUFOみたいな灯りがポッと点くのを見ると妙に安心したりもした。以前、店の前に点いたものはアイランプと呼ばれるもので、主に高速道路用の照明だったが、品川では道路維持課が中心になって盛んに整備がすすめられたのだった。
 次々と閉鎖されるベアリング工場跡は、噂によれば護岸工事が施されて緑化公園になるらしい。昨年の社会科見学で区役所に行った時、『わたしたちの品川』という資料を見て、区内の工場は全部でおよそ5000、その半分以上がベアリング、飾り電球などの小さな町工場だったことを覚えている。まだ、幼稚園に通うか通わないかの時、三業地にあるバーのいろんな形をした洋酒のビンと、川沿いのベアリング工場からくすねてくるベアリング球が地元の子供たちの宝物だったのが懐かしい。

 昼休みを使って、東京オリンピックの競技観覧券の抽選が終わったところだ。芳水に割り当てられた券は8種で、開会式は入っていなかった。飯島がメダルを期待される男子100メートルもなかったが、さすがにすべてのくじに外れたのにはガッカリした。
「ちぇ、俺は面白くねえ。もう、オリンピックなんか見ねえんだ」と毒づくと「まあまあ、かわりにちゃんと見てきて、いい記事書くからよ」と河野がホクホク顔で言った。
「でもさ、哲夫はついていないよなあ~、あれだけスクラップ作って張り切っていたのに」と慶一も慰め気味に続けた。
 ケンさんに頼んで城南ベーカリーのオヤジを凹ませた後、夏休みの宿題を片づけるのと同じくらいの精力を使って、哲夫はオリンピック・ブックなるものを作った。1932年ロサンゼルス五輪の馬術競技、大障害で金メダルを獲得したバロン西こと西竹一中尉のことや、1936年ベルリン・オリンピックでともに4メートル25を跳び、銀と銅のメダルを分け合った西田修平選手と大江秀雄選手の”友情のメダル“物語、さらには、前回ローマ大会での、体操の小野喬の活躍など、戦前戦後のオリンピックでの日本選手の活躍をまとめたものだった。
「でも、松川の作ったスクラップが学校の観覧テキストに組み込まれるんだから、新聞部としては鼻が高いよ」
 長門のひと言はありがたかったが、ふさぎ込んだ気持ちは癒しようがない。
 
 9月第2週の週末。野球の、セ・リーグ覇者は大洋か阪神か? パ・リーグ覇者は南海か阪急か? そんな話にはうんざりしていた時、店番の暇つぶしに読んでいた夕刊に羽田空港の記事が出ている。戦後に駐留米軍から返還され、その名も東京国際空港となった羽田が、自分の生まれた年、昭和28年にできた民間会社だと初めて知った。この春、近年のジェット化対策で整備拡張工事がようやく完成し、夏に高速道路も開通して、オリンピックになんとか間に合ったわけだった。
「そういえば、来週にはモノレールも開通かぁ? 春先に羽田へ行こう思ったけど、小判でフッ飛んじゃったなあ」
 頭の中には、スーツ姿でアストンマーチンに颯爽と腰かける自分がいた。オヤジのスーツを拝借してスパイに扮して、空港の送迎デッキで707をバックに記念写真を撮り、それを新聞に載せる、なんて痛快なアイデアだったんだろう…ひとりニヤニヤしながら、新聞紙の上にマジックで文字を描く。そこには「モノレール、もう、乗れーる?」とあった。

「おまえらしいね、みんなオリンピックって騒いでいる時に羽田を記事にしようなんて言うのは」と、長門は言った。先の運動会の騎馬戦では、毎度馬になってもらって世話になった。
「春は、行こうって時に小判だったから流れちゃったけど、今度は時期もいいと思うよ、外国からワンサカ観光客もやってくるし」と治樹もうなずいた。あれから野島に気を遣った彼の優しさは、みんな知っている。
「記事の中に、ワンポイント英会話、なんてコーナー入れてもいいかもね、僕はアナタのことが気に入っています、って、やはりアイ・ラブ・ユーとは違うんだろうな」
「おまえ、そんなこと言ってるから女子にやられるんだよ」と河野がたしなめる。治樹はマセたところがあって、以前も女子にニラまれて「山本くんと丘田さんはキスしたんだって~」と噂のタネにされたことがあった、誰が言い出したのやらわからないが、そんな噂で凹まされるのは決まって男子の方だ。
「でもさ、羽田というと伊豆に言わなくていいかな~、天王洲に野球やりに行ったってうるさかったぜ」
「だいじょうぶだよ、慶一。だって、今度は遊びに行くんじゃなくて取材だよ、取材。社会見学も兼ねてっからさ」と言うと「社会見学兼ねたやつって、以前アメ横に行った時も使ったんじゃなかったっけ。でも、あのときは張り倒されたぜ、たしか」と河野がニヤついていった。
「おまえは、風邪ひいていて助かったんだよな。よし、じゃあ今回はちゃんと伊豆に届けだしていこうぜ」

伊豆倉先生







 伊豆先生は、容姿はお世辞にもハンサムとは言えないが、ダルマ和尚の頭が禿げあがったような顔つきで、黒縁の眼鏡をかけた体格のいい人だ。歳は、クラスの父兄より2、3歳若い38だが、いっさい遠慮などしない。教育に関しては精力的で、時間割以外に補習をやってくれたり、上野の博物館の常設展や、地元の公会堂の音楽会に連れていってくれるなど、社会実習的な授業にも積極的に取り組んでくれた。学校のクラブ活動では飼育栽培部を面倒みていて、生徒たちに兎の世話から花壇にやる堆肥づくりまでやらせたりもした。哲夫の姉の美智子も担任していて、松川の家としては5年続けて世話になっている勘定になる。
「デタラメをやるなっ!」がいつもの口癖で、この言葉が出たときには、たいていビンタが飛んだ。
 ちょっと変わっていて、先生は普通、職員室にいるもんだが、彼は高台にある、哲夫たち5年と6年が入っている”くの字型“をした旧校舎の、2階の曲がり角に部屋を持っていて、ほとんどの時間をそこで過ごしている。担任から職員室に呼び出されるのは怒られる時だが、まだ他の先生もいるから手は出ない。”伊豆の部屋“と呼ばれる、この小部屋に呼び出される時は、真っ当で済むはずはなかった。
 担任になってすぐの4年の初夏、横浜の花火大会に行ってもいないのに行ったようなことをクラスのみんなに吹聴してしまって、この部屋に呼び出され、まるで警察の取調室のような感じのなか、本当のことを言うに言えずにブッ飛ばされたことが哲夫をビビらせた。ケンカで、クラスの男子全員が次々と呼び出せれてビンタされたり、自習勘違い事件のときも当然ひとり、この”伊豆の部屋“に呼ばれた。
 といって、すわ暴力教師かといえばそんなことはなく、部屋にいる時に詩を詠んだり、図工室の赤石先生と一緒にスケッチに出かけたり、なかなかアカデミックな先生でもあった。家庭訪問時にも、分け隔てなく父兄と接して評判はいい。そんな伊豆が、女子はともあれ、男子はみんな好きだったのだ。

「じゃあ、行ってくらあ」
 誰か一緒に来てくれないか、しばらく間をおいてみたけど、みんなの顔には「おまえにまかす」と書いてある。
「でもさ、伊豆は女子には甘いよな、男子にはビシビシやるくせに。あと、山上から聞いたんだけど、家庭訪問で話が終わって、酒が出るともう最悪らしいぜ。オヤジの説教に伊豆ものって、山上はヒーヒーいわされたってじゃないか」と毒づいて、伊豆の部屋にひとり向かった。

 9月20日、日曜日。出がけに、薫は「みゆき族、一斉補導される」という見出しの新聞をみて神妙な顔をしていたっけ。若い人の流行を扱っていないのは、やはり家業に響くんじゃないかと相変わらず心配のようだ。
 家の前を走る環6と第2京浜の交差点を、泰典と一緒に五反田駅に向かって渡っている。
 池袋から渋谷経由で走っていたトロリーバスも、消えて久しい。この四つ辻は広小路十字路と呼ばれ、角っこは第一、協和、そして三菱と銀行がおさえ、ただひとつの角が李さんの焼肉屋、南大門だった。入口は赤い磨りガラス、ちっちゃい頃、前を通るとプ~~ンと肉の焼けるいい匂いがした。いかつい男の人が、だいたい淋しげな感じの女性の肩を抱きながら入っていくのをみて、「早く大人になりたい」と思ったものだ。赤い磨りガラスの扉の向こうが、大人と子供のボーダーラインだってと考えていた。まあ、小学校も高学年になって、三業地のこともなにもわかってきたいまは、中学生になったら、お年玉を貯めて腹一杯肉を食ってやろう、と秘かに考えていたが。

 五反田駅の改札には、もう長門と河野が待っている。
「おお、長門、その首から下げているのはリコーのオートショットじゃないの」
 泰典が目を輝かせながら言った。
「そうさ、月給日前だったけど、オリンピックもあるからオヤジにねだったのさ」
「それって、オリンピックに公式採用されたヤツだろう」
「近代五種の着順記録に使われるヤツさ、触ってもいいよ」
 残念ながら、自分にはカメラのことがよくわからない。カートリッジを入れるだけの、コダック・インスタマチックは欲しかったけど。遠足などにカメラを持ってこれるのは、クラスでもひと握りの子、たいていがサラリーマンの連中だった。
 長門たちの輪から外れて、哲夫は山手線の向こうに見える東光ストアーを見上げた。閉店した「砂漠の不夜城 カサブランカ」のネオンサインはまだあったが、ビルに下げられた垂れ幕『火災予防運動実施中』の文字はシャレに思えた。
 間もなくやってきた治樹が、シャツにネクタイをしてきたのにはキザだな、と思ったけど、5人は山手線で浜松町を目指した。
 浜松町駅では、モノレールとの連絡橋を上って切符を買った。片道250円、往復450円には驚いたが、半額だから、まあいいか。

「1955年(昭和30年)5月20日 ターミナルビル開館、営業開始
 昭和27年7月、羽田空港は駐留米軍から日本側に返還され、その名も「東京国際空港」と改称して、新生日本の空の表玄関として輝かしいスタートを切りました。国際線には、すでに世界各国の新鋭旅客機が就航し、華やかな空港風景を描き出していましたが、これを受け入れるターミナルビルは、戦前建設の狭く老ちく化の激しいものでありました。このため、内外各方面から、外国の空港ターミナルに恥じない近代的空港ターミナルの建設が要望されましたが、当時の政府は、このような建物を国費で建設する余力がなく、これを民間資本をもって建設することを決定し、郷古潔、秋山龍(初代会長)の両氏にその斡旋方を依頼しました。両氏は、これを請けて、全国の財界有力者に働きかけ、昭和28年7月、日本空港ビルデング(株)を設立し、直ちにターミナルビルの建設に取りかかりました。
 昭和30年5月、着工以来11ヵ月の短期間に、鉄筋コンクリート造、4階建ての、当時としては、豪壮なビルが完成し、新聞、雑誌等は、「東洋一のターミナルが竣工し、東京国際空港もようやく世界のAクラスに昇格した」と報じております。オープニングには、政官財界の名士四千余人が招かれ、盛大に開館を祝うとともに、秩父宮妃殿下のご来場によりテープが切られ、ここにわが国最初の民間資本によるターミナルビルが誕生しました。
 ちなみに、開館時の利用旅客数は、年間43万人といわれています」

ロビー





 壁に掛かった『羽田空港の歩み』を読みながら、5人は新しくオープンしたターミナルビルへと向かった。
「1963年(昭和38年)7月15日 ジェット化対策で本館改築
 開館して4年、やっとターミナルの運営にも安定が見られるようになったのも束の間、日進月歩の航空界は、次の時代に突入し始めます。すなわち、Bー707型、DCー8型ジェット旅客機の登場です。
 昭和34年9月、太平洋線に就航したBー707型型は従来のプロペラ機に比べ、乗客数において2倍、速度、航続距離においても2倍、乗り心地は例えようもない程といわれたのですから、まさに画期的な航空機の出現でした。熾烈な競争を繰り広げる各航空会社は、遅れじとこれらの大型ジェット機を路線に投入し始めました。日本航空、フランス航空、スカンデイナビア航空等、相次ぐジェット化の波は、ターミナル施設を一挙に旧式なものにしかねない勢いにありました。
 このため、当社は、昭和36年ターミナルビルの大改築工事に着手し、東京オリンピックの開幕を翌年に控えた昭和38年までの間に、コントロールタワーの移設等を含め本館官庁部分ならびに国際線部分の増改築工事を竣工させ、併用を開始しました。それにより、面積も一挙に3倍となったほか、ターミナルの外観を一変させるほどの工事となりました」
 
送迎デッキ





「なるほどね、以前は出発客と到着客が一緒のところだったのが、ちゃんと分けられたんだ」と低学年の時、香港まで飛んでいったことがある泰典が言った。
「ここが1階だろう。到着客はあの先で入国手続きを済ませた後、以前は2階にもう一度上がったんだけど、いまは目の前のターンテーブルから直接荷物を受け取って外に出られるようになったわけだ。ほら、反対側の出口の向こうに航空会社のカウンターが並んでいるのが見えるよな」
 その後、泰典を案内役に2階に上がっていった。富士銀行の前で、みんな持ってきた親父の背広を着て記念写真を撮っていると、搭乗の案内が流れる。
「気分いいなあ~。俺も外国に行ってみたいぜ」と、河野が夢見るような口調で言ったけど、たぶん5人とも同じ気持ちだったことだろう。アナウンスの言葉「アッテンション、プリィーズ~」が気に入った。記事の見出しに使ってやろう。
「ほら、あの奥が出国の手続きをするところだよ、きっと。そして、出国待合室があって、あそこで見送りの人たちと別れるんだな」
 今度は、空港案内のパンフレットを見た長門が、みんなに説明する。

お別れの窓





 一般の待合室は無料だけど、80円払って有料の特別送迎待合室に入る。ここには”お別れ窓“と呼ばれる、窓越しに姿が見えて話くらいならできる面会窓がある。その先、フィンガーと呼ばれる国際線の送迎台に出て写真を撮りまくった。
 その後、最上階にある航空教室に行って世界の飛行機の歴史をメモったり、陳列されている飛行機のエンジンを写真に撮ったり。航空発展の歴史を描く、各時代の飛行機の模型は、すべて同じ縮尺50分の1で作られていて、それらが教室内の大壁画になっているのにはみんな感動した。
 お腹も空いたので、団体食堂では金250円を払って”機内食“を食べ、最後に、増築部分の屋上に移設された管制塔を眺めながら帰途についた。
「おい、治樹さあ、あのみょうちくりんなものはなんだ?」
 哲夫が、モノレール乗り場に行く途中見たもの、それは印象的な形をしたガソリンスタンドだった。

スタンド





「幸せなら~手をたたこう♪ 幸せなら~態度で示そうよ♪…」
 帰りの車内は、みんなで九ちゃんを歌いながら手拍子足踏みではしゃぎまくった。取材行は大成功だった。

 秋分の日の9月23日。この日は、午前中にお寺さんをすませた孝一が後楽園球場に巨人ー大洋戦のWヘッダーに連れて行ってくれた。孝一は大の大洋ファンで、今年は久々の優勝のチャンスだ。哲夫は巨人ファンだけど、優勝はともかく、王貞治の三冠王獲得も、打率で中日の江藤にかないそうになく、興味はホームラン日本新記録の55号が見られるかどうか、だった。
「ちぇ~、雨、止まないね、お父さん」
 水道橋の駅から球場に向かって、傘の花が咲いている。なにしろ、台風20号の影響からか、朝のうちから降り出した雨はいっこうに止む気配がない。
 球場に入ると、孝一が手配してくれた内野席がぎりぎり大屋根にかかっているんで、試合を見るのに支障はなかった。

後楽園





 Wヘッダーの第一試合、大洋先発は秋山、それに対して巨人は城之内と両エースが先発し、七回裏、長島が右翼席に本塁打して4ー2とリードしている。
「ちょっと、トイレに行ってくる」と孝一に言って、哲夫は席を立って通路に向かってかけ上っていった。球場をグルリひと周りしている通路は、用を足しに行く人、飲食を買いにきた人、また席に戻る人たちでごったがえしている。
 トイレから出てきても、すぐ席には戻らず、通路をバックネット裏に歩いていった。テレビやラジオなどの記者席を覗けば、ゲストで女性歌手や芸人などを見られることもあったからだ。
 このWヘッダーに連勝すれば優勝まであと1勝なだけに、記者席はほぼ満席状態だったが、その下、もろバックネット裏のシーズンシートに人だかりができている。通路の手すりに足をかけて見下ろすと、そこにはパ・リーグの優勝を決めている南海の両エース、スタンカと杉浦がいた。たぶん、日本シリーズに備えての偵察だろうか。今期、セ・リーグの阪神で活躍したバッキーもそうだけど、杉浦と並んで座っているスタンカの体の大きいこと、同じ野球をやるのに「それは、ねえやな」ってくらいの体格差だもの、かなうわけないや、と哲夫は思った。
 席に戻ると、試合は8回表に入っていて、大洋が一死満塁と攻めていた。いまなら、機嫌がいいやとばかり、孝一に言った。
「ねえ、お腹空いたよぅ~、ホットドック食べたいよ」
 後楽園といったら野球、そしてホットドック食べなきゃ話にならないよ、とは誰から聞いたんだろう、問屋の篠田さんか? パン屋のユタカちゃんからだっけ? ともかく、口コミでハイカラな食べ物があるって言われていた。
 一塁側と三塁側、そしてセンター裏に売店があって、値段は70円と、横丁の来々軒のラーメンでさえ60円だから、ちょっと高かった。パンをヨコ割でなく、タテ割にしてソーセージをはさみ、お好みで刻まれたピクルスとオニオンをのせて、ケチャップにマスタードで味付けして食べるホットドックは、テレビで見るアメリカのそれとソックリでおいしい。
「おじさん、ホットドック、ふたつちょーだい。それに、コカコーラとバヤリース・オレンジね」
 注文を言って、目の前で作るおじさんに尋ねた。
「ねえ、なんで後楽園でホットドックを始めたの?」
 忙しいなか、「わかっていることしか言えないけどよ」と、おじさんは当たり前のことを言って教えてくれたことには…。
 やはり、後楽園球場も戦後、米軍に接収されていたらしい。それが解除された頃、昭和の24年、進駐軍の慰問に大リーグのサンフランシスコ・シールズが海を越えてやってきた。この時、はじめてコカコーラと一緒に売り出されたのがホットドックの始まりだったとか。パンもそうなら、ソーセージも三和ハムに特注して作らせているからおいしいんだと、おじさんは自慢げに言った。プリプリとした噛みごたえは、町で売られているものとはまったく違う。
「なにしろ坊主な、たとえば阪神戦みたいな人気カードの時なんか、1万食を優に超えるくらい売れるんだぞ」と、おじさんはうれしそうに話す。哲夫はそれを聞いて、ホットドックが出来上がる間、同じ働くんなら、自分の仕事を誇らし気に笑って話せる仕事に就きたいと思った。

 第一試合は結局、八回表の大洋が二死満塁から3点をあげて逆転して、そのまま逃げ切った。ホットドックにコーラを飲む、孝一の機嫌がよかったのは言うまでもない。
 続いて行われた第二試合、巨人ー大洋最終戦は、雨がたえまなく降ってグランドはぬかるみ、とても試合をやれるような状態じゃない。
「きっと、なんとか王に三冠王を取らせてやりたいからって、川上が無理強いしてんだ」と孝一は息巻いたが、規定イニングの5回表までに5対0となると「もう、いつでも降雨コールドでおかしくないだろー」と勝手なことを言った。それでも、第一試合よりも観客が増えたようで、スタンドはジャイアンツ・ファンの声援がこだまする。当然、みんな王のホームランを見に来たんだろう。
 5回裏、ピッチャーは先発の佐々木、先頭打者としてバッターボックスにたった王は、右翼上段に55本目の日本新記録となるホームランをかっ飛ばした。
 試合は、結局7回降雨のためコールドゲームとなり、Wヘッダーは大洋の連勝で終わった。第一試合の観客数は約一万八千、第二試合は約二万四千。
 同じ日、神宮球場で行われた国鉄ー中日戦は観衆三百七十だった。

「ちょっとトイレにいってくるね」
 降雨でコールドゲームのせいだろうか、ゲーム終了後のダッグアウト裏のトイレにはあまり人が入っていなくて、何人かの巨人ファンがブツブツ言いながら出ていくところだった。
 どうも、巨人ファンっていうのは野球ファンじゃないような気がする。シーソーゲームにこそ野球の醍醐味があると哲夫は思うが、巨人ファンって勝てばよくって、それも1対0より、13対0くらいじゃないと気がおさまらないみたい。さらに、13対0で勝っていても、9回の表の攻撃でツーアウト、ランナーなし、そこでバッターが内野フライを打ち上げた時、「落とせッ!」って叫ぶのが巨人ファンだ、いやんなっちゃう。
 そんなこと考えながら用を足して、出ていこうとすると、急に大のトイレの扉が開いた。なんじゃ? と見やると、そこにはコートを羽織った男の人がいて、おいでおいでをしている。ん? と思ったけど、たぶんそうなんだろうな…と察して、先に声をかけた。
「おじさん、悪いけど俺、そんな粗末なものに興味ないんだ。今日は、ホットドックもいただいたしね」
 その男が、コートを開く前にトイレから飛び出した。
「どうせなら、手を洗った水でもぶっかけてやればよかったかな」
 後楽園球場の、もうひとつの名物? にも行き当たったことだし、今日はホント、ついている日だ。
 トイレでのことは内緒にして、孝一はペナントリーグの行方を、哲夫は王の日本新記録をしゃべりあいながら家路についた。

聖火







 テレビ、新聞は、もうオリンピック一色だ。カルピスの王冠1個で、東京オリンピックのハイライトソノシートのプレゼント! には、親に頼み込んでいっぱい応募した。なんせ、開会式に閉会式、各種競技の熱戦を1時間5分に収録するというもので、五輪にちなんで5枚のソノシートが先着30万組に当たるんだ。
 10月1日、東海道新幹線も開通した。同じ日、富士山頂に気象用レーダーが設置されたことは誰の興味もひかない。
 日本国内に到着した聖火は、4つのコースに分かれて運ばれ、その通り道たるや黒山の人だかり。哲夫も、クラスのみんなと放課後には聖火リレーの真似をした。誰もが最終ランナー、早大・坂井義則になりたかった。
 先日行った羽田の記事を書いた壁新聞も、なかなかの好評だった。じつは、出来上がった後、みんな”伊豆の部屋“に呼ばれたんだ。
「しっかり見てきたね、わかりやすくて、よく出来ているよ」と言われたのにはビックリした。この部屋で、伊豆にほめられたのは初めてのことだったからだ。

オリンピック






 10月10日、土曜日。前日までの激しい雨がウソのようにあがった秋晴れのもと、東京オリンピックは開幕。テレビで、延々とその放映を見ていた哲夫は、二度テレビの前から姿を消した。
 一度目は、航空自衛隊ブルーインパルスによって五輪のマークが空に描かれるのを店先に見にいった。Fー86F3機が5色の輪をスモークで描いたんだけど、彼らがハチロクブルーと呼ばれ、浜松の第1航空団の戦技研究班に籍を置くエリート集団だっていうことは、夏休みに作ったオリンピック・ブックでも自慢のネタだったなあ。
 二度目は、開会式のフィナーレで、国立競技場の上に花火が上がった時だ。表に飛び出して、一目散に立正大学を目指して走った。この時間になれば、怖いロイ・ジェームス似の守衛のおじさんは、もういなくなっている。裏口の門を抜け、大階段を上がると夜景が広がっている。右手に品川の火力発電所、真ん中に東京タワーが見え、左手にはマックスファクターのビルがあるため何も見えないけど、広がる夜空に花火がきれいに上がっている。
 夜風に吹かれながら、これから訪れるだろう素晴らしい時の予感に、胸は高ぶった。
 水泳競技でのアメリカ選手の活躍で、自由形のドン・ショランダーの金メダルのたびに、館内に流れる国歌『星条旗よ、永遠なれ』のメロディーを完璧に覚えてしまった。たぶん、みんなそうだっただろう。
 オリンピックが終わって、三宅の重量挙げもウルトラCも、「おれについてこい」、円谷の銅メダルさえも、すべて吹き飛ばしてしまった印象的な場面は、陸上女子80メートルハードル決勝、おでこに絆創膏をつけた依田郁子の姿だったのには、自分でも情けなかった。

とっぽいヤツ9

9 秘密の隠れ家

新潟地震













「まったく、近頃の大学生ときたら困ったもんだね」と店番の最中、母親の薫が、またコボし出す。
「別にいいじゃん、カッコいいし…」と哲夫が口を出すと「なに言っているの、総領のくせに! このままじゃ、商売アガったりだわさ」
 薫は、店の前を行く立正大学の学生たちの足下を眺めながら、梅雨入りしたばかりのここんところの空模様のようにブツブツ言っている。怒っているわけは、昨日の夕刊で知った、銀座にタムロする”みゆき族“と、その格好だけを真似た若者たちにだった。
 その昔、太陽族という若者の集団がいて、そのときはよくビーチサンダルが売れたらしい。また、ハリウッド映画『ベン・ハー』が上映された時、映画の中でチャールトン・ヘストン扮する古代ローマ戦士が履いていた、くるぶしで留めるサンダルも話題になって売れた。それらは、急速な都市開発で路地裏までも整備され、ぞうりや下駄が売れる時代じゃなくなってきたご時勢で、ともあれ貴重な売り上げに貢献したものだった。
 そんな家業に、薫が危機感を持っていることは自分にもわかっているけど、カッコよく刈り込んだ短髪に、柄シャツを着て、細みのパンツをあわせて、決まって履かれている皮靴にまで文句いうことはない。店でも革靴は扱っているが、それらはみな、靴ひも付きのポッコリしたビジネスシューズってやつで、いま、目の前を行く、つまり気取った学生が好んで履いているローファーとは明らかに違っていた。
「おまえもさ、グズグズまとわりついていないで、用意したら。今日は塾だろう?」
「は~い、これからやるもんね」と奥に上がろうとした時、「ほら、一緒にいる女もあの靴だよ。お父さんも、釣りにばかり行ってないで、問屋から早くハルタの靴、とってきてくれないかね~」と、薫は誰に言うでもなく、またコボした。
 奥に上がって、切り抜かれた新聞のスポーツ欄を読み返す。「飯島秀雄(早大)、100メートルに10秒1をマーク、29年ぶりに日本新記録を出す」とあった。畳の上でロケットスタートの真似をしたら、棚にうずたかく積まれた運動靴がちゃぶ台に置かれた鍋の上に崩れてきて…あわてて受けとめた。
「ふぅ~~、インド人もビックリ!」

 母親がコボした次の日、6月16日、火曜日。
 5年生になった哲夫たちは、何年か前の卒業記念で作られた、東京湾に似せた池を見下ろす、学校でも一番高いところにある旧校舎に入っている。
 今度の教室は不思議なところで、放課後の掃除の最中、上下にある窓のレールに触れるとビリビリしびれる。初めは面白がって、2、3人手をつないで、ひとりが上のレールに手をのせ、もう一方の端の奴が下のレールに手をのせて、みんなで”シビレごっこ“して遊んだ。その後、たまたま窓ふきをしていた生徒、河野だったけど、シビれて窓から落っこちそうになったので、さすがに用務員さんに報告した。古い校舎だったから漏電していたんだ。

 そんな教室から出て、階段を降りて通路の左手は給食室、右手は校舎にプールという池の脇で、昼休み、哲夫は茶化されている。
「それで、それで、どした?」と涙目になりながらも、治樹は泰典に話の続きをせがんだ。
「それでね、こいつ何を聞いたか、伊豆の『自習していろ』を『給食にしろ』って勘違いして、えらくひっぱたかれた後ね。この間の父兄会で『こんな子もいまして』って伊豆が話したんだって、ヒッヒヒ。そしたら、止せばいいのにテツオのおふくろが『それは、誰なんですか?』ってことになってさ」
「ヒヒヒッヒ、それで、それでさあ~」と、腹をネジくって慶一が急かせた。
「あのな~、たしかに俺の早とちりだったけど、喜んだ顔して給食室に一緒にかけ込んだのはどちらさんだったっけ? それに、フザケていたのはオバちゃんたちだよな。3時間目だぜ、3時間目。よくもまあ、ハイって給食、渡してくれたよなあ」
 3人の顔を見回しながら言った。
 あの自習事件には、参った。先月末、校庭にいた哲夫は、伊豆から「次の時間は自習をして待て」と言われたらしかったが、どう聞いたのか「次の時間は給食の用意をして」と勘違いしてしまったのだ。みんなにビッグニュースを伝えて準備万端、用意も整い、さあ伊豆がやってくるのを待って、食うぞ! で…ビンタを食らったんだった。
「そしてさ、うちのおふくろが言ってたぜ、『それが庄野さん、誰って聞いて「お宅の息子さんです」って先生から聞いた時は、もう恥ずかしいったらなかったわ~』だってさ、テツオのおふくろ」
 全然自分の話など聞こえていない風で、泰典は話を続けている。
「サイコー! もう、止してくれ! 腹の皮がよじれちまう~っ」と、治樹が倒れるふりしてうめいた。
「チェ~ッ、サイテーだったよな。俺なんか、もうすっかり忘れていたのに、あの日、塾から帰ったら親父に呼ばれてさあ…、もう言い訳も何もなくてパンパ~ンさ。オイ、少しは同情してくれよ~」
 クラスで一番背が高い、黒パンこと黒田が、大きなバケツを下げてやってきたので、自分への茶化しも終った。
「なんだよ~オマエら、何にもしちゃいないじゃねぇかよ、もうすぐ昼休みも終っちまうぞ。早く池の掃除やってエサやらねぇと、また伊豆にドヤされっぞ」
 黒パンが下げてきたバケツには鯉のエサがたっぷり入っていた。4人の足下には、水替えに使う小さなバケツが転がっている。みんな、靴を脱いでおそるおそる池に入っていった。
 そんなに大きな池ではなかったが、掃除の時には、池にいる鯉たちを残らず出してしまわないといけない。ポチャっとした普通の鯉たちは問題ないが、変わり鯉で体が金色のキンカブトと、同じく黒銀色のドイツ鯉は動きが素早く、捕まえるのに苦労する。最後は、水をかき出して、地図でいえば三浦半島の浦賀にあたるところにある穴に追い込んで捕まえればいいのだが。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る頃、なんとかカタがついた。池に入った4人はもちろん、ビショ濡れだった。

 5時間目が始まっても、クラスは、いやに静かだった。
 ちょっと前急に教室がグラグラッときて、女子の一部から「キャッ!」と叫び声があがって、地震は終った。
「なんでえ、高山たちなんかがカワイイ声出して」と、哲夫が隣に座る女子の山岸に声をかけた時だった。
「おい、見ろよ、プールの水が波打っているぞ!」
 窓から見下ろして、河野が叫んだ。
「そんなに大きな地震だったかしら…」
 自分の脇に座っている高岡さんも、いぶかし気につぶやいた。
 鐘が鳴ってから5分後、伊豆は現れない。それはいつものこと、つまり、授業時間になってもすぐにはやって来ないで、ジレて男子が騒ぎ出すのを見計らってとしか思えないタイミングでクラスに入ってくる、のでもない雰囲気だった。
「起り~っつ!」
 ざわめいたクラスに、学級委員の仲村の声が響く。伊豆がやって来たのだ。
「みんなそのままで、そのままで。さて、君たちの中で新潟に知り合いがいる人はいるかな? いたら、手を上げるように」
 穏やかな話ぶりに、これはいつもの伊豆ではないような気がした。
「誰かいるか? いない? いないかね」
 伊豆は、念を押すように続ける。きっと、手を上げたやつは、何かイチャモンをつけられて、またハリ飛ばされんのかな? と、怪しんだ。それにしては、いつものドッシリとして「黙っていても分かっているんだぞ」という感じがない。
「そうか、よかったな。じつはいま、新潟で大きな地震があって、市内にかなり被害が出ているらしいんだ。田舎、親戚が新潟の人は、何かあるといけないから5時間目以降、早退するよう職員会議で決まったんだが…」
 伊豆の話を聞いて、「しまった」と思った。嘘でもいい、知り合いがいれば早退できたのかあ~、と心の中で地団駄を踏んだ。
「ウチのクラスはとりあえず関係者なしか。僕も地震を感じた時、そんなに大きな地震とは思わなかったが、職員室にあるテレビの速報では震度5の強震だということだ。まあ、新潟の人たちは大変だろうが、クラスのみんな、それにお父さん、お母さん方にも災いが及ばなくてよかったな」
 話の最後になると、いつもの伊豆節に戻っていた。授業短縮も早退もなく、きっちり6時間目まで絞られた。
 その日、放課後も事件は続いた。
 池の清掃の時気づかなかったけど、1尾の鯉をバケツに入れっぱなしで、それが昼過ぎの地震でひっくり返っていたのだ。死んだ鯉は、気に入っていたドイツ鯉、鏡鯉ではなく革鯉だ。日曜の朝のテレビで以前、第二次世界大戦の記録番組をやっていて、悪者とは知りつつも、ナチス・ドイツのカッコよさにシビレていた。ドイツで作られた鯉の飼育変種も、まるでナチス親衛隊の軍服を着ているようで好きだった。
「チェッ、地震で池の鯉が死ぬなんて、マヌケな話だな」とボソッと言うと「何がマヌケな話だよ、これで俺たち5人、また伊豆にブッ飛ばされるぞ、ア~アッ」
 仕方ねぇやという顔をしている泰典と慶一に向かって、黒パンはグチった。

 家に帰って、ニュースを見ると、将棋倒しになっている団地群が映っている。哲夫はゾッとした。地震の規模を示すマグニチュードは7・7、これは、いつも薫が引き合いに出す関東大震災の7・9に次ぐ大きなものだった。
「きっと、おふくろは大騒ぎしたんだろうな…」とニュースの音声だけを耳にしながら、母親の横顔をジッと見つめた。

カメラ









 11回目の夏がきた。ひと月以上ある休みも、始まってしまえば早い、早い! 
 休み早々には、塾の旅行があった。信州の高峰高原への2泊3日の旅で、前年の台風17号によるツメ跡か、稜線の下、風がモロ当たった西側は、大きな木々が全部同じ方向に倒されていた。そんな光景を、初めて見た。
 初めてといえば、金成と書いてカナリと読む塾のやつが、6月に発売になったばかりのコダックのインスタマチックを持ってきていた。フィルムはカートリッジ式で、”出す、つめる、写す“の簡単操作に、ビックリした。
「感度も絞りも自動で、ピント合わせだっていらないんだ。ほら、ボタンを押すとカメラからフラッシュが飛び出すだろう」
 やはり、アメリカの製品はすごい! と、つくづく感心した。
 8月に入ると、孝一が後楽園遊園地で開かれているウエスタン博に連れていってくれる。普段はおとなしくて頑固な父親だったが、カウボーイがロデオに失敗すると「コラ~ッ、何やってんダー!」と怒鳴り声をあげたのには驚いた。
 本当は、横浜にオープンしたばかりのドリームランドに行きたかったが、孝一は「そんなものは、浅草の松屋にスポーツランドがあるじゃないか。小さい頃、連れて行ってやったろ。鬼倒しが怖いって、よく泣いたなあ」と、トンチンカンなことを言って猛反対した。浅草に仕入れの際、よく行ったけど、なにせ昭和6年の松屋開業と同時期にできたものだけに、古くさい屋上遊園地でしかなかった。
「いまでいう”何々ランド“なんて、みんな松屋を真似してんだぞ」と孝一はいきまいた、なんか違うんだけど…。

臨海学校






 初めての臨海学校もあって、千葉県は岩井海岸、岡田源兵衛さんの家に行く。品川区の小学校は皆、岩井だったが、これまたみんな初めて漁師の家に寝泊まりした。広い和室の続き部屋がズラ~ッとあって、他の学校も利用していた。女子部屋を覗いた覗かないで、同じときに宿泊していた区内の第二延山とケンカになり、自分はちょっと凄みのある戦い方をしたのが自慢だった。

水不足





 陽気のいいにこしたことはないけど、それにしても雨が降らない日々が続き、新聞ではコレラ騒ぎとともに”東京サバク“なる言葉が連日誌面に現れた。

 お盆の前には、孝一と美智子の3人で西伊豆に出かける。なんでも、薫が庄野さんから聞いてきたところとかで、下田まで行って、そこからバスで1時間ほどの港町、子浦という町だった。
 それにしても遠い、遠い。朝一番で、東京から東海道線で熱海まで行って、次に伊東線に乗り換えて伊東まで、そして伊豆急で下田に着いたのが昼前。そこから1時間のバスは、こんなに曲がりくねって細いところを通れるのか! といった道だ。いくつかの山を越え、木々の向こうにキラキラ光る海が見えてきた時にはふたりともぐったり。
 小さな入り江になっている子浦では、石垣伝一さんの抗日丸という釣り宿に民宿することになっていて、なにか釣り好きの孝一の思惑が分かるような気がした。この港は、単なる漁港ではなく、外洋に出るヨットの係留地にもなっていて、「三船の敏郎さんや、加山の雄ちゃんなんか、ヨット好きの芸能人がやって来たことあんだぞ、テッちゃん」と、すごい訛りで石垣さんは教えてくれた。
 海の水は、いままで自分が見た海では一番きれいだ。泳いでいると、珍しいのか、小魚が寄ってくるし、ちょっと磯で潜ればさざえにあわび、うに、とこぶしがいっぱいいる。
 孝一は朝から晩まで、釣りをした。堤防の上に日和山があって、朝食、夕食の時は美智子と交代で駆け上がって、入り江の、一番外洋に近いところにボートを浮かべている孝一に「おとうさ~~~ん!ご飯だよ~~ぉ!」と声をかけるのが日課となる。
「それにしても、ミッちゃん、テッちゃんのお父さんは好きだなぁ、釣りが。いままでいろんな客が来たけどよぉ、松川さんが一番だよ。住んでみちゃ、どうだい」と石垣さんまで呆れていた。夜になると、ふたりに石垣のおじいさんをいれた3人で、一杯やりながらの釣り談義になる。普段は難しい顔をしている父親の、日に焼けた笑い顔を見ると、哲夫もうれしかった。

 その週、孝一が4泊した後、入れ違いで週末に薫がやってきて、姉と哲夫は都合1週間、子浦にいた。朝晩、孝一が釣りに精を出し、天日干しで作った大量の干物を抱えて3人は帰京した。
 じつは、それまで僕は25メートル泳ぐのがやっとだったけど、子浦での日々で、どこまでも泳げるようになっていた。

 8月16日の深夜。
 夜中の11時半過ぎにコッソリ家を抜け出して、表通りから葬儀屋の角を曲がり、坂の途中で立正大学の裏口を入っていく。校舎に上がる階段脇の道路は、夕暮れや夜景を時々見にやってきたことがあって、なじみのところだ。
 階段側の植え込みの反対側は薮になっていて、高さは10~15メートルはあろうか、ガケになっている。幼稚園に通っていた頃、遊んでいてこのガケから落ちたことがあった。そのときは、下で焚き火をしていた人がいて、焚き火の燃えかすの中に運良く落ちたので助かったんだ。実家へと背負っていってくれたオジさんの背中で、意識を取り戻したらしい。「おんぶされ、揺さぶられたのがよかったんだね~」と、両親が話し合っていた記憶がある。
 そんな薮の中に、秘密の”通路“がある。ガケの土砂が崩れないように土留めの石が組まれる合わせ目で、ちょうど子供の足がかかるくらいの足場が大学の裏口下から警察署の裏までズ~ッと続いている。正しくは、警察署の裏はどこかの建設会社の資材置場になっていて、そこをつたって警察署脇の峰原坂まで出られるようになっていた。高さは5~6メートルはあり、日中でも渡ろうものなら、警察署の剣道場から丸見えなだけに「コラーッ! アブナイぞ~ッ!」と怒鳴られること必至だ。
 階段の手前で、さあ薮に入ろうかという時、坂の下からフクロウの声が聞こえた。
「誰だ、泰典かあ~、誰?」
 裏口の明かりも小さく、薄闇の中で、フクロウの声がした方に哲夫は小さく声をかけた。
「俺だよ、泉だよ、もうみんな集まってっか?」
 そもそも警察署裏の資材置場は、地元の連中のたまり場だった。それが、5年になろうかという頃からクラスの連中との秘密の隠れ家になる。資材の奥に無造作に転げられた岩塊の間に、天井こそ1メートルちょっとくらいしかないけど、広さでいえば4畳半くらいの”すきま“があるのだ。それを見つけたのは、小判騒動のちょっと前だった。
 地元のたまり場だったときは、峰原坂の入口から入って、お祭りの話やら正月の海老盗りの話やらを資材の間でウダウダとしていたが、いまではいっちょまえに深夜零時に幹部会と称した集まりを開いている。007シリーズを真似て、初めはスペクターの大崎支部というふれこみだったけど、最近は『少年マガジン』で知った犯罪組織、マフィアをもじってマファイアの本部と呼んでいた。峰原坂からも入れたが、ワザとちょっぴり怖さが味わえるガケ下の足場を選んだのも「ガキじゃねえんだかんな!」だった、やってることはたいして変わりはない…。
「ちょっと待て。いま確認すっから」
 哲夫は、まるでゴジラの背にも見える岩塊に向かって、先刻泉がしたようにフクロウの声を真似た。すると、岩塊の間から小さい明かりの点滅が1回、2回、3回と続く。
「おい、みんな来てるぞ。俺たちが一番遅いらしいや」
 ふたりは土留めの石が組まれた合わせ目をつたって資材置場の上に出て、そこにクサビで吊るされているロープで下り、秘密の隠れ家へと急いだ。

「遅せーじゃねェかよ」と悪ぶって、泰典がふたりに声をかけた。
「ワルイ、ワルイ。親父たちが、まだ起きてたもんだから」
 哲夫はいつもは親子4人で1階の10畳で寝るのだが、今夜みたいに幹部会がある夜は「たまには、2階でオジイちゃんたちとも寝なくちゃね」と言い訳じみたことを言って、2階の物干し台から抜け出して表に出てくるのだった。隠れ家には、泰典の他に長門と慶一がいる。ほんとうは、治樹や山上、服田たちも呼びたかったけど、なんせ家が百反商店街の向こう側だけに遠い。
 今夜の話題は、城南ベーカリーのオヤジへの復讐と、金春湯のお兄さんへのお礼だ。どっちも待ち合わせのところだが、夏休み前に城南ベーカリーのオヤジが学校に「店前に座り込んで、商売のじゃまを云々…」と文句を言いにきた。待ち合わせには使っているが、店前のガードレールにいるわけだし、たまにはパンも買っている。
「ビンタ喰らわなかったからいいものの、このままじゃ引き下がれないよな。なんとかギャフンと言わせてやろうぜ、あのオヤジに」といきまいた。
「それにくらべて、金春湯の兄ちゃんはいい人だよな。ほれ、見てみろよ」と、泉が差し出したのは『エフロクセブン』という大人の雑誌だった。休み前、みんながクダまいていた時、「おまえたち、ちょっとこっちへ来い」と声をかけられ、ボイラー室に連れて行かれると、そこには女のハダカ写真が山とあった。「好きなの、持っていっていいからよ。そのかわりといっちゃナンだけど、おまえらヒマなんだろ、裏の薪の片づけ、頼まれてくれねえか?」と言われた。いってみれば、ていよく手伝わされたわけだが、もとはつかまされているわけだから文句もない。毎度、薪の片づけではたまらないので、なにかカタチになるものをお礼にしようという話が持ち上がったのだった。
「じゃあ、ベーカリーのオヤジの件は哲夫にまかすとして、兄ちゃんには長門の兄貴のハンチング、お古でいいかな?」と慶一が言った。
「気が利いているって、喜ぶぜ」と泰典もうなづいて、その夜の会はお開きになった。
「そうそう、そういえばよかったな、松川」
 長門が、抜け出そうとしている哲夫の肩越しに声をかけた。
「ん? なんだい?」
「たしか、今日が時効だろう、例のヤツ」
「ああ、松川事件ねえ、あれにはずいぶんヤラレましたわ」
「でも、わかんないもんだな、真犯人不明によりって」
 気にかけてくれたことが、うれしかった。
 資材置き場に抜け出てみると、夏の夜空がきれいだ。泰典と一緒に帰って、角で別れて、しばらく暗くなった大崎広小路の駅前で走る車を眺めた。
 こんなときは、夏休みに読んでいる平凡社の百科事典のことを思い出す。「原子」と「宇宙」の項目が好きだった。子供心に、精巧な顕微鏡かなんかで原子を覗くと、そこにはきっとまた別の宇宙があると信じていた。その宇宙で、また原子を覗くと別の宇宙があって…それは鏡の中のように果てしなく繰り返すのだ。辞書で覚えたばかりの「輪廻転生」という言葉とあいまって、いまのこの世では自分だけど、また別の宇宙にも自分がいて、それらは綿々とつながっているんだと考えている。
「よくやっているよな、俺だって」
 わけのわからない寂寥感が襲ってくる前に、哲夫はヨッコラショッと物干し台をよじ登った。

男子













 オリンピックの聖火が無事ギリシャのオリンピアで採火され、東京に向かってリレーが始まった頃、金春湯の兄ちゃんへのお礼はスムーズに運んだけど、城南ベーカリーのオヤジへの復讐は、哲夫の頭を悩ませている。
 そんな夏の終わりに、迷走台風の14号がやってきた。なにせ、その発生から10日間も日本の近くをウロウロしたあげく、上陸時には勢力を落とさずに来たもんだから西日本ではかなりの被害が出た。東京でも、明けて24日の昼一番に風雨が強くなる。
 昼間の台風が大好きだ。こんな言い方は不謹慎かもしれないが、大人がオロオロするのを見聞きするのも楽しい。
 以前、こちらは雨ならぬ雪、昼間まで大雪が降ったことがあって、そのときも大喜びした記憶がある。普通、東京で雪は夜半から降り始め、明け方過ぎると小降りになるんだけど、その時は朝になってもじゃんじゃん降った。喜んだ哲夫は、早速久男ちゃんからスキーを借りてクロスカントリーで百反まで遊びに行ったけど…そこはまた東京で、降りやんでしばらくたったら、あんなにあった雪もアッという間に解けてしまって…重いスキー板を背負って帰ったものだった。

 木戸を閉めた店先から表を眺めながら、哲夫はオヤジへの復讐を考えていた。が、これがなかなか難しい注文だ。へたなことしたら警察沙汰になってしまう、これはヤバイ。といって、オヤジそのものを狙っても、あんな大男にかないっこない。店のシャッターにいたずら描きも考えたけど、見つかって弁償させられたら元も子もない。
「なに、ウンウン言ってるんだい、この子は」と、薫がやってきた。その時、派手な格好をした男? がヌッと顔を出した。
「オバさぁん、頼んでおいたサンダル、入ったあ?」
 やってきたのは、目黒川沿いの新開地ストアーの並びにある、バークラクラのシスターボーイ、ケンさんだった。
「あらあ、こんな陽気にご苦労さんだねえ、はいってますよ、サンダルは」
 五反田界隈は、それこそ山の手と下町が同居している町だ。高級住宅街もあれば、かなり怪しい三業地もある。それこそ、泰典の親父さんじゃないけど社長さんもいれば、怪しい水商売をしているおばさんもいる。シスターボーイのケンさんは、僕が知っている不思議な人物3人衆のひとりだ。
 あとは、ちょっとイカレていると評判のシャネル美容室のママ、そして焼肉屋・南大門の李さん、この3人が自分の好奇心に引っかかるワンダーピープルだ。まあ、その他にも立正大学にいるロイ・ジェームス似の守衛さんや、お茶の金子園の軍歌好きジイさんなども気にはなったけど。
 シスターボーイといえば気取っているが、いってみれば男娼なわけで、父親の孝一などは毛嫌いしている。知り合う前に玉突き屋で数とり娘をやっていたこともあったし、根っからの演芸好きの薫は「楽しい人だよ、陽気だし」といって、妙な色眼鏡で見たりもせず、かえってお得意さんと思っているようだ。その血を、哲夫もひいている。 
「やあ、ケンさん、今日はまた、きれいな格好してるじゃない、台風だっていうのに」
「ううん哲ちゃん、だめだめ、顔も作ってないんだから…そんなに見ないでぇ」
 新開地ストアーにある、バークラクラ近くの鶏肉屋、信濃屋さんにお使いに出された時のことを思い出した。初めてケンさんを見た時、店先で彼はゆで卵を食べていたけど、なにやら白い器みたいなものに卵を乗せていた。それがエッグスタンドというものだとは知らなかった。ゆで卵をエッグスタンドに乗せ、スプーンですくって食べている、ケンさんは、そんな人だった。
「そうそう、ねえ、哲ちゃん、台風って海の向こうのアメリカじゃあ、必ず女の名前で呼ばれているって、知ってるぅ?」
「はい、僕が生まれる前、戦後間もなくの台風にジェーンだのキャサリンだのの名前が付けられていたのは社会で習いました」
「あら、オバさぁん、哲ちゃんって物知りねえ~。行く末が楽しみじゃなぁい。ほらあ、女ってすぐにヒステリー起こして暴れるじゃない、だからよ、きっとぉ」
「そうなんですか。知らなかった」
「あたしたちの世界にもぉいろんなのがいるけど、ヒステリー持ちだけはイヤよねぇ、やきもちは仕方がないけど」
「そんなものなんですか、僕はわからないけど…」
「ここだけの話、あたしのお店に来る人でもいるのよぉ、そんなヒスさんがぁ。いい商売、パン屋なんだけど、しているのにねえ」
 
 台風の日のケンさんとの会話は、城南ベーカリーのオヤジを凹ますにはもってこいだった。夏休みも終わる週末、頼み込んで店に行ってもらって、スッタモンダのあげく、オヤジのカツラをケンさんに引っぺがしてもらったのは、人生11年の哲夫にとって初めて見る”修羅場“ってヤツだった。
 秘密の隠れ家にしていた資材置き場の岩塊は、これまた台風一過、雲ひとつない空のように消えてなくなる。オリンピック開催直前の資材整理で、跡形もなくなってしまった。
 2学期の始業式後、話を聞きつけ、みんなで確認しにいったが、砂ぼこりだけ。入口脇のゴミ箱に、濡れて破けたヌード写真が残っている。そこに写る裸の女は、誰にというわけでもなしに、いつまでも笑っていた。

とっぽいヤツ8

8 小判騒動

 まだ春休みの最中なのに、昼間から店番をやらされている。
 ガガーリン少佐が「地球は青かった」と言った頃だっけ、五反田の商店会の人たちがバーをハシゴしてたのは。「トリスを飲んでハワイへ行くぞ!」って騒いでたよな。
「4月2日」と大書きされた新聞を何気に広げると、ある記事が目に入った。
「観光自由化。1番人気はハワイ。これまで主として政府関係、業務渡航、留学だけに限られていた海外旅行が、観光の目的でもできるようになった。自由化とはいえ、滞在費に一人500ドル(18万円)の枠があるため、長くても3週間、普通にみて1~2週間の滞在期間が予想され、帰国時の免税持ち込み品にも厳しい規制を受ける。(中略)条件付きの自由化ではあるが、確実に海外旅行ブームを巻き起こすことだろう」

兼高かおる






「海外旅行か…」と、哲夫はタメ息をつく。行きたいところはたくさんある。『ローハイド』や『ライフルマン』『ララミー牧場』の舞台、アメリカ西部にも行ってみたいし、社会科で習った、生きた化石シーラカンスがいるらしい仏領コモロ諸島にも行きたい。ちょっと上流社会っぽいのが鼻につくが、『兼高かおる世界の旅』を見ても、好奇心は地球儀をかけめぐる。
「ちょいと、ダンナさん、いる?」
 想いに耽っていると、ガード下の小唄のお師匠さん、武田のオバさんが店先に顔を覗かせた。
「こんにちわ。仕入れに行って留守なんです、母ならいますけど」
「そう、じゃあ武田が頼んでおいたツマ皮どうなりましたかって、聞いておいてちょうだいな」
「はい、わかりました」
 新聞に目を戻そうとすると、いつものオバさん節が始まる。
「そういえばテッちゃん、何年生だったっけ?」
「はい、今度で5年生になります」
「こんなにちっちゃかったのに、もう5年生なの? 歳とるわけだわあ」
「いいえ、先生だって変わりませんよ、今だって昔だって」
「うまいこというわね、それってお世辞、それとも皮肉?」
「お世辞も皮肉も、学校じゃ習いませんよ」
「わたしもね、テッちゃんくらいの歳の頃に、世間が東京でオリンピックだって騒いだことがあったけど、ほんと、アッという間ね、年月なんて…」
「オリンピックといえば、家で使っている歯磨き粉の景品にも記念ワッペンですものね、お祭り騒ぎですよ、まるで」
「誰と話しているんだい、店番だっていうのに」
 割烹着を着た薫が、ヒョイと顔を出した。
「あら、武田さん、いらっしゃい。きょうは?」
「いえね、いまテッちゃんと話していたのよ。もう5年生ですって、早いわねえ」
「おかげさんで。でも、まだボウヤで困ってるんですよ~」
 そう相手しながら、薫は「奥に引っ込め」と手で合図する。
 奥に上がると、台所からいい匂いがしてくる。そうか、今日は死んだ順子姉ちゃんの祥月命日か…。台所で、湯気を上げている鍋を開けてみると、カンピョウを煮ている。
 菜箸を手にフタを開け、ちょっと味見してみようとすると「おやかましゅ~」と、武田さんのいつもの言葉が聞こえてきた。あわてて口にカンピョウを放りこむと、これが熱いこと、熱いこと。唇をちょっと火傷して、哲夫は店に戻った。
 
 店番から解放されて、百反に向かう。大学裏の坂をダラダラ上っていく。米屋の本庄さんの家の角を曲がると、右手に家が新築されている。いつだったか、スモッグが騒がれた頃、遊んだ空き家があったところだ。『隠密剣士』を真似て、障子や鴨居を木刀でメチャクチャにしていたら、近所のオバさんに見つかってドヤされたことを思い出した。
 小学校を越えて、さらに坂を上りきると、そこは百反の商店街だ。春休みの間、クラスの仲間と遊ぶのにしょっちゅう通っている。商店街の戸越側の端にある金春湯の前か、品鶴線側に折れて中程のパン屋、城南ベーカリーあたりをうろつけば、誰かいた。左に折れて城南ベーカリーに向かった。
「よお、哲夫」と河野が声をかけた。慶一、長門と一緒だ。
「あれ? 治樹はどした?」
「あいつ、仲さんたちと新丸子の東横池まで釣りに行っちゃったよ。元気のいいことさ」
 慶一が、口を尖んがらせて言った。仲さんとは、同じ同級生の仲村のことで、クラス一の釣り好きだった。東横池とは、いつも遊びにいく戸越公園の池や洗足池とは比べものにもならないほど大きな池で、多摩川を越えるだけあって哲夫もクラスの仲間とは行ったことはなく、父親に何度か連れていってもらったことがあった。
「ま、残された私どもとしてはユメもチボーもないってわけ、でね」と、河野は茶化すように言った。
「ええ~、そんなら昨日言ってくれればいいのに。親父に頼めば用意もできたのにぃ…」
「クソっ。伊豆だって、同級生だけで川越えちゃダメだって言ってたよな。おい、これ壁新聞ものだぜ」
 腹に据えかねて慶一も口走った。が、あとの祭りだ。
 みんな黙っている長門の方を見た。彼はニヤニヤしている。
「はいはい、わかったよ。書かないよ、そんなこと。な、哲夫?」
「おまえが泰典たちと黙って二子玉川園に遊びに行った時、悔しかったけど、書かれたかい? 言いつけっこは、なしだぜ。それよりもさ」
「それよりもって」
 3人は、初めて口をきいた長門の、次の言葉を待った。
「それよりもさ、今日、俺の家でさあ…」
「不二家かあ!」と慶一は言った。
「俺の家でさ」
「おい、不二家だろう?」
 じれったそうに河野が言った。
「今日もシュークリームか?」と、哲夫も長門の顔を覗き込みながら言った。

 長門の兄さんは歳が離れていて、もう勤め人だ。お菓子の不二家に勤めていて、新製品が出来上がると、年に数回だが弟の友人たちを家に呼んでくれる。言ってみれば、試食会を開いてくれていた。試食するものはキャンディーだったりパイだったり、いつも違っていたが、「お礼にね」と、最後はシュークリームをくれる。食べにいってる奴らは、やれ量が少ないだの、色がおかしいだの、兄さんが聞きたい味覚についてはアヤシイことしか言わなかったが、それはオイシイ話だった。

 アッという間に試食会なるものは終わった。
「じゃあ、もっと粒が大きなほうがいいってわけかい」
「ウン、だってとてもじゃないけど300メートルはもたないもんな」とシタリ顔でみんなは言った。
「今回のは、フルーツの味がいろいろ楽しめることと、カラフルな色合いを商品価値にしているんだけど、そのことについて何かある?」
 もう、いいかって顔で兄さんは尋ねた。
「いつもありがとう。じゃあ、これ、つまらないものだけど…」
 何がつまらないものか、みんな、テーブルに座り直してパクつきはじめた、長門の兄さんには悪いが、不二家はやはりシュークリームだよな、という顔つきで。
 シュークリームを食べながら慶一が言った。
「それでさ、次の新聞の話だけどさ」
 壁新聞は、おおむね好評だった。治樹が描くマンガ『お呼びでないくん』は、サンデーのおそ松くんの真似だが、クラスの連中ばかり出てくる身近なもので、女子に人気だった。けっこう、笑える。長門が受けもった戦記シリーズも、マガジンの大伴昌司の大図解からヒントを得たものだったけど、その絵は迫力があってよかった。伊豆は「君たちのお父さんにも話を聞いて、戦争とは何か? を書き込んでみたら」なんて、ウルサイこと言ってたが。
 哲夫はというと、もっぱら記事を作った。1号目は「なんである?」で、カメラ好きの石田に広角レンズでいろんな物を撮ってもらって、クイズをした。2号目は「ウルトラC」で、これは東京オリンピックで見られる必殺技予想だ。が、ともに人気はいまひとつだった。
「やはり、もっと面白いものをやらなくちゃいけないんじゃない」と、指についたクリームをなめながら河野が言った。
「面白いものって、なんだよ」と突っかかるように言い返した。
「気取ってんだよ、なんか。雑誌の真似っこしててもしょうがないと思うな」
 慶一のひと言は、こたえた。いいものイコール雑誌みたいなものって感じで思っていたからだ。
「長門は、どう思う?」
「う~ん、そうねえ。たしかに、慶一が言うとおり、俺たちがやっていることって雑誌の真似事に近いよな。マンガや読み物はそれでも何とかなるけど、記事は難しいよ。松川は、よくまとめてると思う。でもな」
「でも?」
「そう、ほら、いつもみんなに妙なこと、面白おかしく話すだろう。あれって、いつも松川らしいやって思うんだけど、壁新聞の記事にはそれがないね、おまえらしさがね」
「……」
「たとえばさ、なんだっけ、フランスの深海探査船の名前?」
「バチスカーフだけど」
「そう、バチスカーフなんて名前、とても覚えられないけど、今でも覚えているの、バチスカーフにノーチラス、女が悦ぶシ~ムレス…♪って松川が歌ったやつな」
「俺も覚えてるよ、なんか、わけわかったようでわかんないやつ」と河野が言った。
「あれから深海の話になって、たしかマッコウクジラと大イカの戦いの話になっただろ。深海探査船の話をまんま書いたって面白くないけど、なんていうの、ほら、持っていき方ってあるじゃない」
「あるある。だから言ったんだよ、ちょっと気取りすぎてるって」
 長門の話に、慶一も相槌を打つ。
 カッコつけてたかもしれないと思った。治樹のお呼びでないくんじゃないけど、もっと身近な話題のほうがいい。

 パッとひらめいた。
「よし、わかった。じゃ、今度は羽田空港の話ってのはどうだい?」
「どういう話にするんだ?」と河野が尋ねた。
「今日の新聞に書いてあってさ、海外旅行が自由化されたんだ。たぶん、これからハワイに行くやつが増えるんだって」
「それで?」
「今年はオリンピックの年だろう、ターミナルビルの工事が終わった羽田に行く機会もグッと増える」
「俺たちがかよ」
「まあ、いいじゃない。それより、いつも俺たちの頭の上を飛んでいくやつ、ボーイングの707やDCー8の実物を見たくないかい?」
「うん、いいね」
「だろう。それに、この間のなんである? は写真だったから分かりにくかったけど、今度は写真だけじゃなくて絵地図もいれればいいんじゃないか」
「いいじゃない、ガイドっぽくて、それ」
「空港って、イカスじゃない。なんかスパイっぽいし、007みたいで」
「おっ、慶一のアイデア、いいね。羽田にいく奴はみんな、ボンド気取って親父から背広借りていって記念写真を撮ってくるっての、どう? それも新聞に載せるんだ」
「いいじゃん、いいじゃん、それ松川っぽいよ。面白そうだ」
「よし、3号目の記事は『羽田をスパイ!』に決定!」
 やはりニヤニヤしながら、長門は口を開いた。
「で、いつ行く?」

小判














 盛り上がった羽田行きの話は、その日の夕方にケシ飛んでしまう。
「2日朝の東京都江東区深川有明町の東京湾埋立地は時ならぬゴールドラッシュ。およそ百人の小判狩りでにぎわった。
 この埋立地から、ふたたび時価八万円の慶長小判が出たという同朝の新聞記事を見て、都内をはじめ関東近県から老若男女がどっと押し寄せ、手に手にクマデやスコップを持ち山吹色の小判を求めてあたり一面を堀あさった。
 なかには犬を連れたここ掘れワンワン組もあり、この日も午後2時までに世田谷からやってきた工員君が一枚掘り当てたのをはじめ、数人が5、6枚見つけた、とあって大ハッスル。みんな小判の魅力に取りつかれた表情だ。
 この小判騒動は先月25日、同埋立地で慶長小判15枚が見つかったのがはじまり。これに刺激されて連日20人近い人々でにぎわったが、川崎市の自動車運転手が仕事を休んで同埋立地に通いつめ、30、31両日で13枚を掘り当てた。このため「まだまだたくさんでるだろう」と見る人たちが多い。」(朝日新聞/夕刊より)

 夕方の松川ぞうり店の店先も、小判の話でにぎわう。哲夫は、壁新聞のことなどスッカリ忘れて、やってくる人たちと親の会話を聞き回った。
 晩ご飯の話題もコバン、こばん、小判!
 なんせ、その日の借り湯の万福湯の、お勘定の番台での会話まで
「このへんじゃあ小判、ダメみたいよ」「アラ、残念だわ」だった。
 明けて3日、新聞の朝刊の小判関係の見出しは「有明の小判、出所を推理する」
 哲夫は、その記事もジックリ読んだ。
「都港湾局開発課の説明では、昭和11年までこのあたりは海で、同年から17年まで埋め立て工事が進められたが、その後、工事は中絶していた。
 当時の埋め立て用の土砂は、芝浦、竹芝両桟橋の前から沖にかけて、海底を掘り、船で運んだそうだ。その後護岸のないまま放置されていたので、台風や潮の干満で次第に削りとられて今の状態になった。(中略)
 同開発課の推理では、小判が出る場所とそのあたりの土の色などからみると、小判は戦後捨てられたガレキや、地下鉄工事現場などからの土砂の中ではなく、芝浦桟橋先あたりから運んだ戦前の土砂の中にあったという。その理由として現在の芝浦、竹芝桟橋先は江戸時代の船筋にあたり、小判を積んだ船が沈んだかあるいは千両箱でも落とし、それが戦前、埋め立て用に運ばれた土砂の中に混じっていて、長い間波に洗われ、最近顔を出したという推理。真相はどうであろうと、当分は、小判話でもちきりのようだ」(朝日新聞より)

 その日の昼、百反の城南ベーカリー前には4人の小学生が座り込んでいる。
「休みも終わり近くになって、スゲエ話が出たもんだ」と服田が言った。
「羽田もいいけど、やっぱり小判でしょう」
「一枚が時価8万円かあ…、うまくすれば車だって買えちゃうなあ」
「僕は、車よりモーターボートがいいな」
 哲夫と慶一のふたりは、路上に絵を描きながらつぶやいた。
「深川有明町だっけ、そこ。自転車でどのくらいかかるのかな?」
「バカいえよ。朝のニュースじゃ、すごい人だかりらしいぜ。お巡りさんも出ていて、遠くからやってくる野次馬を追い返しているくらいだってさ」と、服田がたしなめる。
「よお、みんなそろってるな」
 通りの角から、河野が顔を出す。
「あれ、今日も治樹は釣りか?」と声をかけると、チッ、チッ、チッと河野は手を振って「長門さあ、もちろん小判の話は知っているよな」
「今、みんなで話していたんだよ。なあ?」
 3つの頭が上下した。
「へへえ、知っているんだ。じゃあ、治樹がどこ行ったかは知ってるかい?」
「知るかよ、そんなこと」と慶一が言った。
「今日は、船橋のヘルスセンターにでも行ったかい?」と哲夫は皮肉った。
「長門、こいつらダメだね。まったくわかっちゃいないなあ。野島の家に行ったのさ」
「わかるかよ、そんなことが」
 慶一が話を続ける前に、河野は長門に向かって言った。
「ほら、覚えているかい? たしか天王州に野球しに行った時さあ」
「ああ、そうか、それで野島ね…、おもしろそうじゃない」
 ひとりうなずく長門に、他の連中はまったく話が見えてない。
「ほら、休み前にみんなで天王州に野球しに行った時、野島が言ってたじゃないか、同じ海沿いでも、自分のオバさんのいる芝浦じゃあ、野球もできないって」という河野の話に、長門がからんで「そうさ、深川へ出かけるなんてできない話だけど、そもそも小判が埋まっていた芝浦へなら行ける。しかも、野島のオバさんの家があるってのも好都合だろうし」
「そうか、同じ探すんなら、小判が運ばれたところじゃなくて、埋まっていたところに行こうってわけか。うん、そっちのほうがよさそうじゃないの」と、慶一の頭を叩きながら哲夫は言った。
 ようやく、みんな河野の話がわかった。それは、ワクワクする小判探しの話だったのだ。
 野島の家は、目黒川沿いにある工場町の中のアパートだ。社会科で習った京浜工業地帯って感じからは程遠いけど、大崎から天王州に続く目黒川沿いには小さな機械工場がいっぱいある。明電舎とは比べ物にならない。
「そんな町工場からソニーのトランジスターは生まれたんだ」という伊豆の言葉を思い出しながら、哲夫は先頭を切って歩いていった。
 野島の家に行くのに、あまりいい想いはない。彼は3年の時の転校生で、はじめは問題児だったのだ。人と話がうまくできず、鬱屈した感情の発露が激しく、よく暴れた。それをみんなで押さえ込んで落ち着かせるのだが、いまでこそ慣れたけど、最初は保健室や職員室に連れていってもダメで、押さえ込んで落ち着かせた後、仕方なく家まで連れていったことが何回もあったからだ。
「野島く~ん」
「野島く~ん」
 何回目かの呼び声の後、アパートの窓がガラッと開いた。そこには、カーテン生地を腰に巻き付けただけの素っ裸の野島が立っていた。
「ハ~イ、みなさ~ん、ミロのビーナスよ~ん」
 治樹の言葉が、みんなの頭の上を飛んでいった。

ビーナス





















 翌日、土曜日は曇りだった。
 国電田町駅の芝浦口を出て2、3分歩くと、東京湾からの運河が目に入ってくる。運河沿いは人気もないが、やたら食堂が多い。喜久屋という店を右に曲がると、「治樹、案内頼むな。おれ、先に行ってっからよ」といって、野島はかけだした。海に続く一本道の突っ外れ、左手がオバさんの家だった。
 遅れてきた6人が「こんにちわ」と挨拶する前に、野島とオバさんの会話が開けっ放しの玄関から洩れてくる。
「そうね、でも、実君もよかったわね。オバちゃん、また転校っていうから心配しちゃったけど…、そうそう、成績も上がったんだってね。ガンバリましょうの丸より、ガンバリましたの点の方が多かったんでしょう」
「そんな話はあとでいいから、今日はよろしく頼むよ」
 みんなは、聞き耳を立てている。
「ハイ、わかってますよ。理科の宿題で、海の生き物の採集でしょう、こんなところでも大丈夫なの? でも、ちゃんと実君たちのためにお三時も用意しているんだから」
「ありがと。あっ、きたきた、今日世話になんの、コイツら」
「よろしくお願いします」と落ち着いて長門が言った。
「理科の採集でお世話になりま~す」と、あわててみんなも続けた。
 家の裏から猫の額ほどの海辺に出て「聞いたかよ、慶一、学校の宿題だってさ、ク、クク」と笑った。
「ああでも言っとかなきゃ、イザとなったらウルサイだろ」と、野島は準備している治樹たちに言い訳する。
「イザとなったらって?」と泉が突っ込むと「バカ言え、もちろん小判が出たらさ」と野島はムキになって返事した。
「はいはい、今日はイザとなったらってことで、ガンバろうぜ」
 海辺に打ち上げられたゴミを足で除けながら、哲夫は言った。
 そんな話を、海辺に降りる階段に腰掛けていた慶一は黙って聞いている…、いぶかし気な顔をして野島に尋ねた。
「なあ、おまえ先刻オバさんと話していた通信簿のこと、あれだけど…」
「いいんだよ、気にすんなよ。あれでいいんだよ」
 どうやらオバさんは、自分たちの小学校の通信簿の見方を知らないらしい。芳水小学校の通信簿の表記は変わっている。普通なら5から1までの5段階評価だろうが、芳水では各科目の評価項目に点が打ってあって、それをクリアすると丸がつけられる。他の学校でいう”オール5“が”全丸“というわけだ。僕が通う戸越の塾でも、「なんだ、オマエの学校は」と、よくチャチャを入れられた。野島は、家の人には逆に説明していたってわけだ。
「さあ、つまんないこと気にしていないで、みんな、ガンバろうぜ!」
 野島の威勢のいい声に、みんな長靴に履きかえて海辺に降り立った。
 それにしても汚い海辺だ。生ゴミから不燃物、壊れたセル人形に空の一升瓶まで、東京の街が吐き出した、ありとあらゆるゴミが打ち上げられている。たぶん、清掃屋もここまでは来ないんだろうな。
「じゃあ、いくら狭いとはいっても、無闇やたらに掘り返したってダメだろう。ソッチの端は河野、コッチの端は服田に頼むな。真ん中に野島に入ってもらって、それぞれ半分の中に僕と治樹、そしてソッチは松川と慶一で頼むよ」
 さすがに、長門はしっかり仕切ってくれる。

 それから小1時間は掘り続けただろうか、曇りだというのに、哲夫たち7人はジットリ汗をかいた。
 はじめのうちは「ウヒョ~、これ見ろよ! 女もんのパンツじゃねえの!」とか「コバンじゃねえ、ゴハンの残りが出てきた~っときたもんだ」とかフザケていた。が、次第に無駄グチも減っていく。オバさんの「精が出るわね、お三時にしたら?」のひと声に、みんなホッとして、スコップやバケツ片手の手を休める。
 玄米パンを平らげてから、再び作業についた。ゴミの下にはゴミがあって、イザとなることはあるのか? 怪しんだ。
 突然、「何か箱が埋まっているぞ!」と野島が叫んだ。
 みんな「またかよ」といった顔で、とりあえず彼の方を向いてみたけど…、どうやら只事じゃないらしい。
「どれ、なんだよ!」
 端にいた服田たちもかけ寄った。バケツの向こうに箱らしきものが見えている。
「へへえ、なんだこの箱はあ…」
「みかん箱じゃねえの、それ」
 目ざとく治樹が、スコップで土を突きながら言った。
「ばか言えよ。箱じゃない、中身だよ。おっ、けっこうズッシリくるぜ」
 野島は、興奮気味にやり返した。
「いいから、さあ、開けてみろよ。さあ」
 みんなが言う前に、たぶん、野島だって目の前にある箱に小判が詰まっていないことくらい、心の中でわかっていたはずだった。それを、性格だろうか、今日のイベントのフィナーレくらいに考えてカラ騒ぎの気持ちが起こったんだろう。取り囲んだ6人だって、それがカラ騒ぎであって、そろそろこの無駄な作業を止めたい気持ちになっていた。
「へへ、さあ、よく見ろよ、きっと中には…」
 その直後、ちっちゃな浜辺に悲鳴みたいなものがあがった。
「ギャア~!」っと叫んで、野島は急に箱を放り出したかと思ったら、オバさんの家にかけ込んでしまったんだ。みんなは、いったい何が起こったのかわからずに、一瞬ポカ~ンとしてしまったけど、放り投げられた箱から出たものを見てギョッとした。さすがに野島みたいに叫ぶやつはいなかったが、哲夫も慶一も、治樹も長門も服田、河野だってア然とした。
「野島を迎えにいってやろう。詳しいわけは分からないけど、きっとショックだったんだろうな、あれで」
 投げ出された箱からは、たぶん新聞紙に包まれていたんだろう、彼の飼い犬、ジョンの亡骸が転がり出ていた。

 5日は、春休み最後の日。夕方、店番をしているとラジオからマッカーサーが死んだというニュースが聞こえてきた。
 開けて6日、新学期が始まって5年生になったが、自分のテレビっ子ぶりは変わらない。外で思いっきり遊びもしたし、塾にもちゃんと通ったけど、その隙間をぬってはブラウン管の前に座っている。
 平日の夕方は、NHKで始まった『ひょっこりひょうたん島』と日本テレビの『遊星王子』を観た。『ひょっこり~』は人形劇だけど、ドン・ガバチョとかトラヒゲ、そしてハカセにダンプ、テケといった名前が面白い。島が流れていって、はて、どこへ行くのやら? 何が起こるのやら? という設定も好みだった。
 今月は、NETの新番組『木島則夫モーニング・ショー』が話題を呼んでいたが、自分たち小学生には関係ない。

テレビ







 月曜日は、夜6時15分からNETで『狼少年ケン』、7時5分前にはフジにチャンネル回して『マイティ・ハーキュリー』から『ミスター・エド』を観る。8時台は、NHKの『私の秘密』にするか、NETの『アンタッチャブル』にするか、チャンネルの主導権争いがあって、9時からは日本テレビの『ブラボー火星人』、ちょっとフジの『スター千一夜』に立ち寄って、10時からTBSの『あひる飛びなさい』まで観た。『あひる飛びなさい』は、国産旅客機YSー11の開発秘話を面白く人間ドラマに脚色したものだ。土曜の昼間に再放送している『赤いダイヤ』もそうだが、専門分野の知識をドラマ仕立てで楽しませてもらえるのはいい。
 火曜日は夜6時からTBSで『伊賀の影丸』、日本テレビの『透明人間』は終わったので、もう悩む必要はない。7時からはフジで『ザ・ヒット・パレード』、『地上最大のクイズ』。8時からのNHK『ジェスチャー』とNET『外国テレビ映画ショック』、どちらを観るか? すったもんだした。
 水曜日は、夜6時15分からNETで『珍犬ハックル』、7時から日本テレビで松山容子の『舞姫さま』、お次は『底ぬけ脱線ゲーム』につきあって、8時はNETの『鉄道公安36号』、10時もそのまま『特別機動捜査隊』を観る。
 木曜日は、夜6時からTBSで『エイトマン』、8時も『七人の刑事』。9時には日本テレビにいって『名犬ロンドン物語』、締めは9時45分からフジで『ルート66』を堪能した。
 金曜日は夜6時15分から日本テレビで『冒険少年団テリブル・テン』、7時はフジで『忍者部隊月光』、7時30分からNETで『ちびっこギャング』で笑い、8時からは日本テレビで『プロレスリング中継』。その後は『バークにまかせろ』『ベン・ケーシー』、また『夫婦善哉』や『宝塚50’』なんかをつきあって観たりした。
 土曜日は、気が向いたらプロ野球のデイゲームを観たりもしたけど、やはり夜7時からフジの『鉄腕アトム』で始まって日本テレビの『ホイホイミュージックスクール』。TBS夜中の『ミステリー・ゾーン』は終わったが、8時からはNETで『空想科学劇場アウター・リミッツ』がある。9時にはフジの『ズバリ!当てましょう』かNETの『ハワイアン・アイ』、10時の『ローハイド』を観終わってから万福湯の時間になる。
『~アウター・リミッツ』は、最初の放映が大きいアリの形をした宇宙人の地球侵略という話で、最後のクライマックスが壁一面にアリ、蟻、ありで、目鼻がついた不気味さは、しばらく夢の中に出るくらい怖かった。 
 日曜日は、朝から忙しい。『琴姫七変化』に『兼高かおる世界の旅』あたりをつきあって、昼は『スチャラカ社員』『大正テレビ寄席』『がっちり買いまショー』と続き、夜6時からTBSで『てなもんや三度笠』、6時30分は日本テレビで『シャボン玉ホリデー』。7時からはまたTBSに戻って『隠密剣士』、『ポパイ』。ボクシングの番組も花盛りだが、日曜夜9時フジの『ダイヤモンド・グローブ』が一番だ。10時『サンセット77』で「あ~あ、また明日から学校かあ」のタメ息とともに1週間のテレビは終わる。 

 4月12日、日曜日。7つ目のチャンネル、東京12チャンネルが開局する。これといって特徴のない、なんかわけのわからないテレビ局だと思った。
 次の週の塾の試験で、算数に「1、◯、4、6、8、10、12とあります。マルの部分に当てはまる数字を入れなさい」という問題が出た。哲夫は、迷わず「3」という数字が入れられた。

とっぽいヤツ7

7 JFKと力道山

 2学期が始まっても、夏休みにあった地元の仲間たちとの感情のすれ違いが、哲夫の心に微妙な影を落としている。
 休み明け早々の爆弾騒ぎは、そんな不安な気持ちに追いうちをかけた。「草加次郎」って、声に出して言うにも無機質な響きの名前が、子供心にも不気味だった。
 地元とクラス、このつきあいのバランスがとれないまま、その騒ぎは起こった。自分と同名の、松川事件にまつわるものだ。
 低学年の時、とっぽい自分が一番嫌がったことは、まったく関係ないこの事件で仲間から茶化されることだった。本心からではないことがわかっていただけに、感情は欝屈したのだ。
 9月12日、最高栽は再上告を破棄し、事件後14年目に被告全員の無罪は確定した。
 今度もまた、この事件が僕のまわりを騒がすことになる。
 明けて13日、昼休みにクラスでケンカが起きた。はじめは、もと1組の石田と、もと3組の服田のとっくみあいだったが、いつしかクラスの男子を二分する騒ぎになる。
 もと2組の連中は傍観していたが、誰かが、高見の見物を決め込んでいた哲夫にちょっかいを出した、「おまえかあ、松川事件の犯人ってのは!?」って。
 この言葉を聞いた哲夫と、もと2組の仲間が、ケンカの渦に飛び込んだから、騒ぎは大きくなった。
 結局、女子の通報で、担任の伊豆がやってきて騒ぎは終わったが、このとき、クラスの男子全員がビンタを食らった。
「チェ、男のケンカにふざけんじゃねぇよな」
 ビンタを食らった全員の胸のうちだった。
 放課後、自分にちょっかいを出したもと3組の小林が、謝まりにきた。
「いいよ、気にすんなよ。ただ、俺たちも松川に面白くねえこと言ってたんだって気づいたもんでさ。これから仲良くやっていこうぜ、な」
 もと2組の仲野のひと言で、少しは救われたような気がした。
「ま、今日は13日の金曜だし、イヤなことは早く忘れようぜ」
 新しく舗装する道路の、コールタールの臭いをかいだような気分だったけど、この出来事を境に、クラスの雰囲気は和んだ。クラスメートへの思い入れも、グッと馴染んだものになっていった。
 
 この月は、海老原博幸がポーン・キングピッチを1回KOで倒して、ボクシング世界フライ級の新チャンピオンになった。クラスの男子は、みんな興奮し、カミソリ・パンチという言葉が流行った。ボクシングの真似っこをしたものだ。
 残暑が厳しいなか、暑いからといって、家の製氷庫の氷を盗ろうもんならドヤされる。地元にくる、新しい氷の配達のオジさんは子供たちにやさしい。飲み屋の配達の途中、哲夫たちが取り囲んでも嫌な顔せず、ジャキジャキと氷を切って、途中で「ハイよ」と氷の切れっぱしを投げてくれる。みんなで、かわるがわる口に含んだ。とても、うまかった。
 かっぱのバッジもひとつ増えた10月は、東京オリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場が完成し、プレ・オリンピックが開かれる。男子100メートル、飯島秀雄のロケットスタートを校庭でみんな真似した。オートバイの本田技研も、2人乗りスポーツカー、ホンダ・スポーツ500をこの月発売。泰典や、マンガのうまい長門、治樹たちと、休み時間にアレコレ話した。

一等賞





 
 そして、哲夫は11月2日で10歳になった。
 昭和38年の誕生日は、落ち着かないものになる。というのも、その前日、薫がお客から受け取ったお勘定でひと騒動あったからだ。
 ニセ千円札の横行に業を煮やした政府は、それまでの聖徳太子に変えて、伊藤博文の新千円札を11月1日発行したが、いかんせん急なことだったため、巷のアッチコッチでトラブルを起こした。それが、松川ぞうり店でもあったのだ。ヘップを買いにきたお客が差し出した新千円札を、いつもの思い込みで「すわ、ニセ札!」と薫が騒ぎ出した。隣りの安田屋のオバさんが間に入っておさまったが、その夜、話を聞いた孝一と薫とでケンカになった。
 薫は「オリンピックになったら、どうしよう? ガイジンからワケのわからないことを言われて、買い物のお金をゴマカされたら困っちゃうねぇ~」「やはり、旺文社のオリンピック英会話、買わないとダメかしら」と、いつもコボす、コボす。孝一は「うるさい、いつまでも同じことを言ってんじゃないっ!」と、毎度怒っていた。
 このケンカは後を引いて、誕生日の”ささやかな食事“が台無しになったんだ。
「チェ、好物の太巻まで味が落ちてんじゃん」と、ひとりクサった。
 次の日、文化の日は、ゲンなおしで虎の子の100円持って喫茶稲に行った。並びの店のクリームソーダは、横丁の来々軒のラーメンと同じ60円もしたが、竹内パンのひとつ25円のカスタード・シュークリームと一緒に食べると最高に贅沢な気分になれる。
 誕生日のクサった気分も、晴海で開かれる第5回東京オートショウの話題や、11月10日の日曜日、日本初のレーシングコース、鈴鹿サーキットで開かれたオートバイ世界選手権、第1回日本グランプリ大会のニュースが吹き飛ばしてくれた。世界選手権最終戦は、ホンダ、スズキの日本車が圧勝する。
 早速、月曜日、塾の時間でその話を披露した。

 五反田という町には、女装した男の人や、日本語の怪しいおじさん、歳のわからない美容院のママなど、それこそいろんな大人がいる。平気で大人の話に首を突っ込む哲夫だが、なかなか近寄りがたい人物もけっこういた。
 進学塾に通い出して、大崎広小路~戸越銀座までの一区間なのに池上線の定期をわざわざ五反田からにしているのも、定期代同じだしとか、雨が降ってもアーケード沿いに帰れるしとか言い訳をしたが、五反田からの帰り道に出会う、そんな不可思議な大人ウオッチングや、カメラ屋でキャノンのダイアル35、フジカハーフ等の新製品を眺めたり、家から離れた古本屋さんにおいてある、ヌード写真が載っている大人の娯楽誌を立ち読みしたりするのが楽しみだったからだ。
 11月22日の金曜日。塾の選抜テストに時間を取られて、五反田駅に降りたのは午後6時近く。池上線は、東光ストアーで山手線とつながっていて、そのホームは最上階の5階にあたり、階段で下にグルグルと降りていくと表に出られる。東光ストアーの5階は何も入ってなくて、4階から吹き抜けになっている。キャバレーのカサブランカが入っていた。4階に降りると、「砂漠の不夜城」「魅惑のダンスホール」と描かれた、左右の看板にはさまれて入口がある。
 ぼやを出す前から、哲夫はこの店のことが気になっている。立正大学の近藤さんと親しくしていた頃、ロカビリーや、ポップスなどの洋楽を教えてもらってはいたが、この店の中から流れてくる、腰の浮くような音楽が好きだったからだ。階段の途中にある踊り場で煙草を吹かしているお姉さんたちは、みんなきれいにしていて、彼女たちから漂ってくるいい香りも自分の鼻をくすぐった。
 そんな香りを、今夜も嗅ぎながら階段を降りていくと、またテンポのいい音楽が流れている。カサブランカの入口で、ちょっとの間、聞き入った。

「ぼうや、何回か見かけるけど、近所の子なの?」
 いきなり、踊り場から声がかかった。覚えがないが、背のひょろっとした、色の白い女の人が降りてくる。その口調から、別に怒られているワケじゃないことを察して「はい。いつも楽しそうな音楽が流れているんで」と返事した。
「ぼうや、いくつ?」
「小学校の5年、いま塾の帰りなんです」と答えて、相手の女の人をじっくり見た。明るい水色の開襟シャツに裾のふくらんだバルーンスカート、足もとは白いハイヒール。髪は、肩よりも長く伸ばしているのをクルクルっと巻き上げて留めている。まだお化粧もしていないのに、ハッキリとした顔立ちが印象的だった。
「お姉さんは、お店に勤めているの?」
「そうよ、ぼうや、名前は?」
「松川です、広小路で父が商売しています。お姉さんの名前は?」
「あけみ、明るい海って書くの、ちょっと珍しいかな」
「生まれが、海に近いから?」
「近いといえば、そう言えないこともないけど。横浜の近く、屏風ヶ浦って、わかる?」
 横浜と聞いて、わかるのは以前、テレビで観た大さん橋に、港の見える公園くらいだ。どんなところなのか思案していると、いきなり明海さんは言った。
「ねえ、松川くんは踊れるの?」

 カサブランカの店内は、まだ営業前ということもあって明るい。吹き抜けになっているため、天井は高く、中央に設けられたダンスフロアを囲むようにボックスの席が並んでいる。どん詰まりの奥は演奏席で、そこでは日活映画にでも出てきそうなバンドマンたちがプースカやっていた。
 明海さんに連れられて入ってきたはいいものの、坊ちゃん刈りの小学生に似合う場所じゃあない。フロアを通る従業員に「あれ、明海さんにそんな大きなお子さん、いましたっけ?」などと冷やかされて、ひょこひょこついてきたことを後悔し始めた。
「いいのよ、気にしなくて。みんな口は悪いけどいい人たちだから」
 ボックス席に塾用のかばんを置いて、板張りのフロアに出されると、明海さんは僕の横に立ってくれてステップを踏み始める。
「ほら、こうやるのがジルバ、こうやって、こうで…」
 もともと運動神経はいい方だ。学芸会の余興で、『五匹の子豚とチャールストン』を踊ったこともあった。生まれて初めてダンスを教えてもらって、自分が覚えるのが早く、リズム感もいいことに気づいた。
「そうそう、なかなか上手じゃない。じゃあ、次に一緒に踊るの、教えましょうか」
 結局、その後ワルツとフォックストロットっていうふたつのダンスを教えてもらった。明海さんから言わせると、彼女たちより、いまの子供たち、自分たちの方がテレビっ子だから踊るのがうまいらしい。
「大人になったら、上手に彼女、リードしてあげてね」
 30分近く相手をしてくれた後、また入口まで手を引いていってくれて明海さんは言った。きれいなお姉さんと踊ったことがうれしかった。クラスの誰にも出来ない、ダンスを覚えたこともうれしくて仕方なかった。

カサブランカ







 カサブランカでの出来事があって、塾帰りに2回ほど明海さんを訪ねてみたけど、彼女の姿はそれっきり見えなかった。2回目の時、思い切って店内に入って従業員の兄ちゃんに聞いてみた。
「彼氏がいてさ、新しく横浜にできたクラブに引き抜かれていったんだってよ、その後は知らないけど」
 今度、横浜の町にも行ってみようと、そのとき、哲夫は思った。
 
 松川ぞうり店は、いつも夜10時頃が店終いの時間だ。2階にいるオジイちゃん、オバアちゃんの夜の勤行の時間とダブっている。
「お~い、そろそろ閉めようか!」と孝一が叫ぶ。
 台所の片づけをしている薫が「ホラ、お父さんが呼んでるよ。いつまでもテレビ見てないで」と、声をかける。
 親の用事にはいつもグズグズ言ってるけど、こと店終いに関しては文句を言わない。9時近くまでハッピーと表で遊んでいられたり、万福に借り湯に行っても、11時近くまでテレビを見ていられるのは、実家が商売をやっているからだと、よ~くわかっている。
 実際、夜10時台のテレビは好きな番組がいっぱいあった。洋物でいえば『ローハイド』『サンセット77』、『夢であいましょう』もある。でも、お気に入りは月曜日の『赤いダイヤ』だ。小豆相場のドラマだけど、なんせ、主演の大辻伺郎の相方は野際陽子! 彼女の、クールでクレバーな感じは、自分の好みだ。
 ただ、見ているテレビがちょっとくたびれてきていて、できればサンヨーのワイド19じゃないけど、新しいのが欲しい。

 店終いのときは、父親とふたりだけになるので格好の”お願いの時間“でもある。
 滑車のついた品台の前に置かれた、特価品のサンダルケースを奥に片づける。その間に、孝一はゴミ片づけだ。ぞうりや運動靴で山盛りになった、畳2畳分くらいの大きさの品台をふたりがかりでゴロゴロと横にする。このときが”お願いの時間“の始まりだ。
「ねぇ~おとうさん、今度切手を集めようかと思っているんだけど~」
「集めるといっても、たいへんだぞ。朝早く、郵便局に並ばなきゃいけないんだから」
「え~っ、新開地の文房具屋でも売ってるよ」
「なんだ、古切手が欲しいのか。値がついているものより、新しく発行される切手をシートで買ったほうがいいぞ。必ず額面より高く値がつくし、社会勉強にもなるし、なあ」
「シートってなあに?」
「同じ切手が20枚一緒になったものさ。そのなかでも大蔵省印刷の文字が入ったやつは値うちが出るんだ」
 話をしながら、品台を横にした次は、その上に吊されている傘を降ろし、表に突き出ているライトを引き入れて幕をかける用意をする。商店会の他の店はちらほらシャッターになってきているが、松川ぞうり店は、相変わらず幕をかけてガラスがはまった木戸で閉めていた。
 木戸のレールを埋め込んだ基木は、店の横の路地にかけてあって、ヨッコラショとふたりで運んでくる。その裏には出っ張りがあって、これを間口のへこみに入れ込むのだ。店の間口は3間だが、基木は1間ごとに分かれていた。基木を入れ込んだら幕をかける。間口の上部にフックがあって、これに幕を引っかける。木戸は、安田屋さんとの間の引き戸の中にしまってあって、6つを孝一と手分けして入れていく。あとは、日除け雨除けのビニール庇を上げ、鍵をかければハイ、それまでよ、だった。

 孝一と哲夫、男同士ふたりだけのおしゃべりは、店終いの”お願いの時間“のときと、もうひとつ、夕飯づくりで薫が奥に引っ込んでいる時だ。哲夫が台所にいるとうるさいので、「お父さんのところに行ってなさい」と、奥から追っぱらわれる。
 この時間、哲夫が高学年になったからか、孝一は何度も”人生の閉じ方“を熱っぽく話す。その話は、こうだ。
「哲夫な。お父さんは、今はぞうり屋をやっているけど、年とってイヤんなったらどうすると思う? 江戸っ子はな、そのときはスパッと家業をやめて、旅館の下足番になるんだ。客とその下足を、ひとつたりとも間違えずに扱って、いい下足番のまま死んでいく…、これが最高の死に方なんだぞ」
 はじめは、そんな人生の閉じ方を話す父親の、身体の調子が悪いことを薫からさんざん聞かされていたんで、なんか寂しい気になったものだった。ひょっとして、親父はもうすぐ死ぬんじゃないだろうかって勘繰ったくらい。でも、耳にタコができるほど聞かされていても、いっこうに孝一がピンピンしているので、いまでは「親父からせがれへの、松川の男としての教育なのか」と思うようになってきた。同じ話でも、お寺さんの経本を覚えろと言われるよりはマシだ。
 孝一の話し方が、4年になって親しくなった泰典や山上の親父さんたちと、ちょっと違っていることにも気づきはじめた。どちらかというと、孝一の話は、ネガティブな言い回しが多い。それに比べて、泰典や山上の親父さんたち、サラリーマンはポジティブなのだ。
 友達がやってきた時、孝一は悪気はなくとも「おっ、何しに来たんだ?」とワザと言う。片や、泰典の親父さんは「やあ、よく来たね」と素直に言う。これは、低学年までは気がつかなかったことで、クラスよりも地元の付き合いのほうが多かったせいかもしれない。
 自分は、しょせんは商人のせがれだ、そんなものの言い方をする孝一が嫌いじゃない。高学年になって、10回目の誕生日が来た頃には、「人生の終わりは、旅館の下足番がカッコいい!」と真剣に思うようになっていた。
 
 店終いは、10分もかからないで終わる。
「お店は終わったよ~」と上がった後、5~10分くらいしてから孝一は上がってくる。勘定を済ませてくるのだ。
 店を閉めている間、姉の美智子はトイレタイムだった。「すみれのは~な~咲く~ころ~♪」と宝塚に夢中の姉は、いつもなにやら歌っているので、すぐわかった。
 孝一が上がると、薫がお茶をいれて持ってくる。帳面をつけながらも、夜の10時過ぎて、はじめて親子4人揃っての団らんになる。お茶を飲みながら、哲夫たちはその日1日起こったことをしゃべり、親は相槌をうつ。テレビをみたり、ときにはトランプやバンカースなどのゲームに興じることもあった。
 柱の掛け時計がボン、ボン、ボン…と11回鳴る頃、薫が腰を上げるのを合図に布団が敷かれる。ふたりは、そのまま布団にもぐりこむが、孝一と薫は、この時間から万福に出かけて行った。
「おとなしく寝てなさいよ」とひと言いって出ていくけど、それで済むわけがない。美智子は寝つきがいい。哲夫は久男ちゃんから買ってもらったモデルガンのルガーなんぞを持ち込んで、枕を土嚢がわりにコンバットごっこなどして、いつもグズグズ起きていた。
 孝一たちは、残してきた子供たちのこともあって、だいたい掛け時計が12回鳴る前には帰ってくる。孝一ひとり横に寝て、あと3人は”川の字“で縦に寝た。
 松川の家の1日は、こうして終わる。

JFケネディ








 その日も無事1日が終わり、いつものように家族4人は寝床についた。隣りの美智子の寝息を聞きながら、哲夫は、観ているのかいないのか、孝一がテレビをつけっぱなしでいるのを気にしながらも、明日は土曜日、河野たちと戸越公園で遊ぼうかなどと考えながらうつらうつらしていた。つけっぱなしのテレビは、ザーっと砂嵐のような音がしている。
 いきなり、パッと画面が出たらしく、ニュースの音声が耳に飛び込んできた。
「…臨時ニュースを申し上げ……メリカのケネディ大統領がテキサス州ダラスで銃撃さ………」
 これが、初の日米間テレビ衛星中継実験の第一報だ。
 孝一は寝ているらしく、はじめは何の物音もしなかった。それがかえって不気味で、哲夫はソッと布団から顔を出してみた。それと同時に、孝一もニュースに気づいたようで、いきなり飛び起きて、姉が寝ている上をまたいでテレビに手をやり、ボリュームを上げる。
「……の日、午後12時30分、アメリカのテキサス州ダラス市内をパレード中のケネディ大統領は、頭部に銃撃を受け、午後1時死亡しました。ダラスは、テキサス遊説の最後の地で、ジャクリーン夫人の遊説初参加も…」
 いつもなら、ニュースにウルサイほど「なんで? どうして?」と尋ねまくる自分も、起き上がって静かに画面を観ていた。眠気はあったけど、何かありえない出来事を見てしまった気になっていたんだ。
 孝一も、話しかけてこない。
 銃撃されたケネディのことはよく知っている。キューバ危機の時だ。テレビの画面でケネディ、フルシチョフの姿を見ると、やはりスマートなケネディは正義の味方で、太っちょフルシチョフは悪魔の手先という、子供なりの偏見に満ちた色メガネで覚えてしまっていた。そんな、正義の味方、ケネディが死んだ?
 ボ~ッとしている自分をよそに、テレビ画面は、テキサス教科書ビル前の、銃弾がケネディの頭部を打抜く一瞬を何度も何度も繰り返している。
「お父さん、これって大変だよね」
「ああ」
 妙に落ち着いたものの言いようが、ことの重要さを含んでいた。
「もう少し起きているけど、おまえはもう寝なさい。明日、起きられないぞ」
「うん、わかった」
 32も歳が違う、10歳のせがれと42歳の父親の、午前2時過ぎの短い会話だった。

 次の日、家では何かはばかるものがあったんで、もっぱらクラスでケネディ暗殺に関しての話をした。
「KKK団という秘密結社がやったらしいぜ」とマセた治樹が言えば「いや、事件が起こったのは南部だけど、やはりキューバの仕返しじゃないか」と大人びた長門は言った。
 みんな、心のどこかで怯えていたのだろう、何か決めつけなければ落ち着かなかった。
 そんなクラスの動揺を察してか、担任の伊豆は学級会を開かせた。いつもなら女子たちから、やれ男子は言葉使いが乱暴だの、掃除をサボるだの責められることばかりだったけど、今回は違う。男子も女子も、なぜ、ケネディが暗殺されたのか? を話し合った。
 答えは出しようもなかったが、みんなの気持ちは「暴力に訴えるやり方は卑怯だ!」、これひとつだ。哲夫は学級会の間中、クラスみんなの顔をうかがっていた。あの、いつも姉さんぶっている樋野さんや、ほか女子の何人かの目に涙が浮かんでいることに胸が痛んだ。

 2日後、犯人だと目されていたオズワルドがジャック・ルビーに撃たれるニュースまで飛び込んでくると、世の中どうなってしまうんだろう? という感じが強くした。
 放課後、哲夫は長門に声をかけた。
「ねぇ、今度のことで思ったんだけど、ウチのクラスに新聞部を作らないか?」
「新聞部?」
「うん。伊豆に言われてさ、4年になってから部活動は始まったけど、それって全部学校からのもんじゃない。そういうのじゃなくて、自分たちで何かやれないかって思ってたんだけど、今度の事件はいい機会だと思うんだ。長門は、どう思う?」
「ウ~ン、新聞かあ」
「ここのところ、女子にやられっぱなしだろ、くやしいけど、あいつらには絶対作れないと思うんだ、もちろん印刷は出来ないけど」
「ガリ版ってのは?」
「それは考えたんだけど、面倒臭いだろう、いちいち墨で刷るのもさあ。それより、みんなで作るってことで壁新聞にしたらどうかって思うんだけど」
「いいな、それ。そいつにマンガ描かせてくれるか?」
「もちろん。だって、おまえや野原、それに泰典が絵描いてくれないとダメじゃん。普通の新聞と違って、そうそう写真なんか、使えないしな」
「よし、やろうか。それでさあ…」
 それまで、芳水のクラスでの部活動といったら高学年のみで、それも給食費を集める会計部、ウサギや植え込みの世話をする飼育栽培部、低学年の掃除の世話をする学級指導部など、クラブ活動というよりは学校側の手足となって動くものばかりだった。
 4年になってから始まった部活動はあまり面白くない、会計部で、授業中に近くの郵便局までの使いで外出が出来ることを除いては。
「でもさ、松川。伊豆、何て言うかな?」と上目使いに長門が言った。
「な~に、大丈夫だよ。メンバーさえ間違わなければね」
 長門とふたり、早速新聞部の部員の人選に入った。いつものメンバーだったが、フザケたものじゃないことを伊豆に分かってもらうために、うまいアイディアを思いついた。編集部員に、その学期ごとの学級委員をまぜるのだ。長門は、はじめ「それじゃあ、女子も入れるのかよ」と難色を示したが、「実際、新聞を作る段になったら、自分たちの好きにすればいいだけのことじゃん」というひと言でOKした。
 結果は、自分たちの思うとおりになった。伊豆は「社会の勉強のつもりでやってみたらいいだろう」と言って、4年1組だけのクラブ活動を認めてくれたのだ。
 それからしばらくは、壁新聞のプロット作りに熱中した。
 なにも壁新聞でなくてもよかったのだ。自分たちの及ばぬところで起こることへの不安を、何かを始めることでまぎらわせたいだけだった。

力道山










 昭和38年、1963年は、来年のオリンピックへの期待と、わけの分からない不安のなかで師走を迎えた。
 12月16日、月曜日。この冬から、教室にあるストーブの燃料が石炭からコークスへと替わった、昼休み、余らせたパンを焼いて食べるのには同じだったけど。
「たぶん俺、力道山のこと、一生忘れないと思うぜ」と、自分に言い聞かせるように服田は言った。
「僕もだよ。ケネディがオズワルドに殺されたかと思ったら、今度は力道山が暴力団にだもんな」と、石田も難儀そうに口を開いた。
 ふたりは、プール前の理科室の掃除をしている。
「それにしても、新聞やテレビはいい加減だよな。大したことないって言ってたのに」
「なんでも、チョーヘーソクってやつがもとで死んじゃったってさ」
「石田、それ誰から聞いた?」
「兄貴からだよ、詳しいんだ」
「ふ~ん、でも力道山も人間だったってことか」
「まあね」
「世の中、最後に勝つのは悪党なんだよ」と、窓の下から声がした。ふたり乗り出してみると、そこに哲夫がいた。
「おまえかあ。そんなこと壁新聞に書くから、伊豆にビンタくらうんだよ」
「だって、そうじゃん。テレビじゃいっつも勝つのは正義だけど、あれ、おっかしいと思ってたんだ」と、投げやりに言った。
「そうだよな。今度のことだって、ナイフ持ってこられたらどうしようもねぇもんな」
「ヤバイとき、駆けつけてくれるエリオット・ネスなんかいないんだよ…」
 3人の話題は、それから洋物のテレビ番組になった。
「やはり、外人はスゲエよな。オッパイなんか、こうだじぇ~」と、石田が胸の前にグーした手をやってグルグルさせると、服田はうれしそうに目を細める。
「先週のサンセットだってさ、クーキーなんか駆けつけないで、あのまんま金髪のネーちゃんが裸にされちゃった方が面白かったよな」
 ふたりはウンウンうなずいた。
「ああいうときほど、悪党ガンバレ! って思うとき、ないよな」
「ないよな」
「でも、テレビじゃダメなんだよな。ちっくしょう」
「ちっくしょうめ!」
 3人が、ああだこうだ言い合っていると、山上がやってきた。
 来週のクリスマスは、今夏発売されたばかりの不二家のアイスクリームケーキを食べるんだとハシャいでいる。
 金髪のネーちゃんから、クリスマスの話にガラリ変わった。
「一個600円もするんだぜ」
 その値段は、自分のひと月のこずかいと同じだ。
 クリスマスなんぞ、祝ったことのない松川の家だけど、アイスクリームケーキという言葉にはひかれるものがある。
 その日、塾から帰って薫に言った。
「うちも、今年はクリスマスやろうよ」
「なに言ってんの、耶蘇教のお祭りの話なんかオジイちゃんに聞かれたら、怒られるよ」
「じゃ、せめてケーキを買ってよ。不二家のアイスクリームケーキが食べたいんだ」
「そんなことは、ミソ汁のネギが食べられるようになってから言いな」
 薫は、痛いところをついてくる。美智子と一緒になって騒ぐしかないなと、思った。
 ここのところ、アメリカの大統領や力道山が殺されたということで、夜、しばらく見なかった原爆やゴジラの夢が戻ってきたのにはショックだった。
 原爆の爆発の瞬間など、体験したこともないのにリアルだ。まっしろな世界で、頭上に大きなピストルの閃光のようなものが光る。それに続いて、光は渦巻き、みるみるうちに濁っていく。それと一緒にドス黒いキノコ雲がゆっくり上がっていく。いくら声を出そうとしても無駄だ…。息ができない、海の底にでもいるような感じなのだ。
 胸が苦しくて…飛び起きたら、寝汗でビッショリだった。
 暗がりのなかで目をこらすと、みんなスースー寝息をついている。起こすわけにはいかない。
 狭い裏庭のガラス戸を開け、表に出る。白い息を吐きながら、そ~っとハッピーの寝床に手を入れる。
「クゥ~ン」甘えるような声がして、差し入れた手のひらを舐めてきた。
「よしよし」
 そう言って、ちっちゃな体をなでてやった。その手に、暖かさが伝わってくる。
 寝床に戻った僕は、手のひらに残った温もりを頼りに、また浅い眠りについた。

とっぽいヤツ6

6 夏の夜の楽しみ

女子






「げっ、お父さん、それなんなの?」
 塾から帰ると、孝一は上がり間口で一升ビンを抱えている。その中には、アリンコみたいな小さな虫がビッシリ入っていた。
「おう、おかえり。これか、九龍虫っていうんだよ。丸竹さんからもらったんだ。お父さんが子供の頃流行ってね、薬用昆虫なんだよ」
「クーロンチュウ? 薬用昆虫って?」
「そうさ、生きたまま飲み込むんだ。すると、コイツは胃の中で苦しがって吐液を出すんだけど、そいつが滋養強壮に効くんだとさ」
 孝一は、いつも胃の調子がすぐれなくて、痩せて顔色が悪い。それを気にしてくれてか、同業の丸竹さんが横浜の友人からわけてもらったんだとか。
「でも、どうやって飲み込むつもり? そのまま口に入れても、はい出してくるでしょ」
「コイツらをパンにのせて、そいつをゴクッと丸飲みするつもりなんだがなあ」
「うぇっ、大丈夫なの、そんなことしてえ」
「なにしろ、あの鉄人アベベだってこれを飲んでマラソンの覇者になったとか、有名なプロ野球選手がこれで首位打者になったって話があって、九龍虫を酒に浮かべてサービスする小料理屋まであるってくらいだからな」
 その話を聞いて、奥に上がってから机の百科事典を手に取った。ホントの話なら面白いや。
「九龍虫という虫は、正しくはキュウリュウゴミムシダマシという体長6ミリほどの小さい甲虫です。生きたまま服用すると活力が全身にみなぎり、時には鼻血まで出るという精力剤で、昭和初期と戦前および現在の3回の大流行がありました。飲み込むと、苦しがって出す吐液が効くそうで、九龍虫は虫としては異例の知名度を誇っています。
 九龍虫は中国起源の虫で、その名のいわれには香港の九龍半島由来説と、高貴万能を意味する”九“と帝王を表す”龍“を組み合わせたとする二説があります。中国でも古くは精力剤のほか、ほかの薬草と共に用いるといい効果があるとされていました。
 幼虫は、雑食性で穀類やパンくずや乾魚・乾肉などの動物質の貯蔵食品でも簡単に飼育でき、とくに朝鮮ニンジンで飼ったものが最高といううわさもありました。また、戦前には1匹数十円という破格な高値で売られ、ついに「百害あって一利なし」と販売が禁止されたという記録も残っています。
さてその効用ですが、吐液が分析されたという記録もなく、真相は不明です。ただ、パンくずなどの九龍虫の飼料が古くなれば各種細菌類が繁殖し、大量のコナダニ類も発生します。これを虫と一緒に食べてしまう影響は無視できないでしょう」
 なんか、わかったような、わからないような話だ。
 でも、それで父親が少しでも元気になればいい…そう思った。

 夏休みが始まる。なのに、哲夫の顔は苦手な水泳教室での25m泳のように沈みがちだった。”悩みのタネ“が、ボンヤリしていた。”気になること“があって、それが気持ちの上に覆いかぶさっている。休みになれば、普段のつきあいはクラスから地元に戻るものと当り前に考えていたが、そうは問屋は卸さなかった。 
 7月21日、新聞を読んで哲夫は唸った。北海道の苫小牧から知床半島にかけて、日本で見られる、今世紀最後の皆既日食を完全に観測したというのだ。この話、早速、路地裏で三角ベースをやっていたトキちゃんやサトシに吹聴した。が、期待した手応えは返ってこない。
「相手が悪いや」と、哲夫はゴウちゃんの家にかけていった。オバさんが出て「豪は、いま塾に行っていて、いないのよ。どう、テッちゃんのほうは。がんばってる? どこの中学を考えているの?」とトンチンカンな話になってしまった。ボウズ頭の怪我なし中学です、なんて言っても、わからないだろうな。
「いないんじゃしょうがない、ハイ、それまでよっ」と隣に飛び込んで、ヨッちゃんをつかまえた。
「カイキニッショク? それ、食べられるの?」
 そう哲夫の思うままに関心を持ってくれるものではない。彼は、見習いの兄ちゃんから感化されて、この夏、波乗りに興味のすべてがいっていたんだ。
「チェッ、みんな、わかっちゃいねぇんだ」
 箱根の芦ノ湖で起きた、スイスはジュネーブから贈られた白鳥をバーベキューにして食べてしまった東京の若者3人の事件では、あんなに盛り上がったのに…、グチッてもしょうがない。
 低学年までは、いってみればまだ幼年期の延長みたいなもので、地元のなじみのほうが強いが、やはり高学年にもなるとクラスのつきあいのほうが増えてくる。そろそろ、地元のみんなとのつきあいと、彼らの興味の変わりように気づかなければいけなかった。

 そんな7月末の水曜日、31日。水泳教室からの帰り、哲夫は意外な話を泰典から聞いた。
「テツオさ、あまり親しくないから言いにくいんだけど、トキちゃんたちがヘンなこと、言ってたぜ」
「なんだい、ヘンなことって?」
「僕と違って、テツオは地元に知り合い多いじゃない。なんでも知ってること鼻にかけてるって」
「エ~ッ、ほんと? トキちゃんが?」 
「今日の教室は合同だったろう。3組のトキちゃんと2組のサトシ君がしゃべっていたの、テツオが残されていたとき、聞いちゃったんだ」
「う~ん、そうか…、わかんないもんだなぁ。トキちゃんとサトシがねぇ」
 電柱のところでバイバイして、家に帰る道すがら、気になっていたことの正体がわかってきた。
 先日、パン屋から出ていった時、クラブ帰りのユタカちゃんから「おまえ、最近いい気になってんだってな」と急に言われて驚いたことがある。そのときは、ご無沙汰の冗談だと思って「はい、わりかしね」とトボけて出たが、なんか奥にいるヨッちゃんの目が気になったことを思い出した。休み前、塾にいく日にトキちゃんたちから「おまえもつきあいづらくなったな」とイヤミを言われたことも、そういえばあった。
 なんだ、地元の連中も冷たいな、自分が変わっていないことくらい、わかりそうなもんだろう。梅雨入りの時も、日曜学校に行く、ネッカチーフなんか首に巻いて気取っているボーイスカウトの連中をみんなで襲撃したばかりだろう。それを、つきあいづらくなったなんて、いい気な連中だ。
 昼間のこともあってか、一日中、表には出なかった。こっそり集めている、マーブルチョコレートのアトム・シールをいじくってみたり、お気に入りの本『トム・ソーヤの冒険』を、また始めから読みなおしたりして過ごした。トムとベッキーがキスをする場面は、何度読んでも照れ臭い。トムが覚えさせられる聖書の言葉、「幸いなるかな、心の貧しきもの、天国はその人のものなり」は、親には内緒だがお気に入りだ。

ロゼット







 夕方前に、孝一が仕入れに行く声が聞こえた。それまで、奥でお勝手仕事をしていた薫に「おーい、早くしろ! 早く、化けて出てこいっ」と、イライラして怒鳴っていた。いつも、出がけはこうだ。
 孝一は、薫が化粧することを「化ける」と言ってるけど、ちっちゃい頃からうまい言葉だな~と思ってる。薫は化粧映えがする方で、化けてきれいになる母親が好きだった。

 ハッと気づくと、夕暮れが近い。
 薫に買い物を頼まれて、やっと重い腰を上げた。
 買い物帰り、空にはこうもりが飛ぶ。空に向かって靴を投げると、何事か! と飛んでくる。
 家に戻ってから、昼前のことをまた考えた。ほんとうは、毎日でもクラスの連中と会いたかったが、家庭の事情でかなうわけない。
「クラスのつきあいは、まだ、どうなるものかわからないしなあ…」とタメ息をついた。休みになれば、なじみのある地元が一番だ。世話になった仲間は、大切にしようと思った。「ナンダカンダいって、どこでもいい顔していたいもんな」と、思わず独り言が出る。
 夏休みに入って、塾が休みになったのはいいが、まだ自分の時間をうまく使うことができない。
「あ~かい野バラを、ささげる君に~ぃ♪」
 トイレから聞こえてくる美智子の歌声に、フッと現実に戻された。

美しい十代







 この日、哲夫の家にちょっとした出来事があった。姉の美智子が、隣の丸吉さんの路地で子犬を拾ってきたのだ。真っ黒な雑種の犬で、顔の両目の上だけが白い。
 生き物を飼うことに、いつも母親は甘く、父親は厳しい。オジイちゃん、オバアちゃんが同居しているから、孝一は遠慮していたのだろう。いままでにニワトリ、雷魚、ヒヨコ、カメなどを飼ったことはあった。が、犬はそう簡単にはいくわけがない。美智子は飼いたいと言い張った。哲夫も応援したが、孝一はなかなか「いいよ」とは言わない。
 そんなところに、オジイちゃんが2階から降りてきた。小犬を見るなり「おっ、四つ目の犬じゃないか。こいつは、利口だよミッちゃん」
 このひと言で決まりだった。
 ふ~ん、四つ目の犬って言うのか。子犬の頭をなでる姿を見ながら妙に感心したが、その後のひと言に、哲夫は、オジイちゃんらしいな、と思った。
「こいつ、泥棒よけのいい番犬になるよ」
 フッと、節分のときのことを思い出した。
 孝一に家業を譲ったとはいえ、節分の豆まきはオジイちゃんの仕事だ。オジイちゃんは、普通なら「鬼は外、福は内」と言うのに、どうしても「福は内」しか言わない。
「鬼が出て行かないもんだから、うちは良くならないんだよ」と、いつも母親がこぼしていたっけ。哲夫は、そういう実利的なオジイちゃんの”ものの考え方“が嫌いではなかった。
 その夜、黒い子犬の名は、拾ってきた美智子の命名で「ハッピー」に決まった。家の裏手の、猫の額より狭い庭に物置がわりの納屋がある。そこを少し整理して、ふたりでハッピーの寝床を作ってあげた。
 兄も、弟もいない、少年時代の哲夫にとって、ハッピーはいい遊び相手になった。

 東大崎の夏の夜の楽しみといえば、並びのガソリンスタンドでのスケート遊びと、角の銀行での虫採りだ。
 スケート遊びは、並びのスタンドが閉まる夜の8時ころから始まった。地元のみんなが、ローラースケートを持って集まってくる。
 店の前の歩道は、まだ舗装が出来ていなくてデコボコだ。スタンドはアスファルトがひかれ、車もいなくなれば、遊ぶには格好の場所となる。知らない人からみれば、8時過ぎに子供たちが表で遊ぶなんて! と、目をつり上げて言うだろうが、親たちにしてみれば、その後店終いを手伝わせるわけだから、時間になって帰ってくればどこにいようが関係なかった。
 トキちゃんやハッちゃん、他の連中も、家の中にいるより涼しい表にいるほうがいい。
 スタンドのオジさんもよくしたもので、防犯の意味で灯りを9時前までつけてくれていたから、ちょうどよかった。滑っている時は、どーだこーだもない。
 ガソリンをいれる給油器を中心にして、グルグル滑る。2チームに分かれて、ときには競争もした。汗をかいたら転がっているタイヤの上で休み、喉が乾いたら水道の栓をひねればOK。ヘタに転んでも、滑走面はツルツルだから怪我の心配もいらなかった。
 大崎警察署のお巡りさんたちも、剣道の練習が終わる9時前になると「お~い、そろそろ家に帰れよ」と、ひと声かける程度。ちゃっかり隣の風呂屋に飛び込んで、店終いをフケる奴もいたけど、それはそれで、後で親父のカミナリを受ければいいだけのことだった。
 時折、昼間にもスタンド前を通る。そんなとき、歩道にこぼれた油の跡はきれいな虹色の輪をして輝いている。哲夫が幼稚園の頃、小料理屋のアンちゃんから「あれは雷が落ちた跡だぞ」と言われ、心の中で「そのとき、ここにいなくてよかった…」と安堵したのも遠い日の思い出だ。
 銀行での虫採りも、スケート遊びと同様、子供たちにとってはエキサイティングなものだ。
 普通、虫採りといえば野山だろうが、来年に迫ったオリンピックの影響からか、まわりに緑が少なくなった東大崎では、銀行の白い壁が原ッパを追われた虫たちの格好の採集場所となっている。こうもりが飛ぶ夕暮れ時が勝負で、細長い棒の先にトリモチをつけて角の銀行の前に行く。銀行の壁は白く、誘蛾灯ともいえる電灯がついているから、どこからともなくいろんな虫たちが飛んでくる。それを、セミ採りよろしく、トリモチでソ~ッと下から捕まえるんだ。
 一番多く採れるのは「じいじい」となくクビキリバッタで、コイツに噛みつかれると難儀した。カナブンも多い。カマキリやカブト、クワガタも採れたが、喜んだのが蛾の大将、オオミズアオを捕まえた時だ。色、形も美しいが、もうひとつ使い道があった。夕飯に遅れて、母親からドヤされる時、十分に威力を発揮する。これを見せると、つまらない小言を聞かされずに済んだんで。

 8月8日、木曜日の夕方も、トリモチのついた棒を片手に角の第一銀行に行く。夕立ちが軽くあったが、逆に蒸してきて、こういう日は虫がよく飛んでくる。
 交差点の前に電話ボックスがあって、寄りかかってしばらく誰か来ないか待っていたが、サトシもハッちゃんも来ない、一向に来る気配がない。銀行の壁に近づいて、見上げてみた。いるのはクビキリばかりだった。
「チェ、ツイてねぇの」
 みんなは、まだ来ない。クワガタでもいれば、いいチャンスなのに…。
 そのとき、視線を感じた。角の向こうから、誰か見ている。
 白い服を着た女の子がいる。目をこらして見ると、4年から同じクラスになった樋野さんだった。彼女の家はミルクホールをやっていて、場所は第2京浜国道沿いにあった。上大崎にある芸能プロダクション、ナべ・プロのスター、ジェリー・藤尾が、『ザ・ヒットパレード』の縁で渡辺トモコと逢い引きしに来ていると評判の店だ。ゴウちゃんが以前、ヘルメットを盗ってきた森本電機の近くだった。
 男子と女子、4年のクラス替えで初めて席を決める時、担任の伊豆先生はそれぞれアイウエオ順に並べさせて隣りあった者同士、席につけさせた。男のマと、女のヒが並んだ。横を向いた哲夫は、ちょっと目線を上にあげて、内心喜んだ。間近で見る樋野さんは、NHKのアナウンサー、才女の野際陽子に似ていた。低学年の夏休みに小学校の校庭で観た、東映動画のアニメ『白蛇伝』のヒロインにも似ていて、白娘と書いてパイニャンと読む、そのヒロインの顔立ちは樋野さんそっくり。切れ長の強い目元も好みだった。
「毎日、樋野さんと一緒の席に座れるなんて、イカすじゃん」と、こっそり喜んだ。
 が、その喜びは、10日と続かなかった。やれ、爪を噛まないの、ハンカチ持っている? だの、うるさかったし、苦手の算数や、ボ~ッと考え事していると怒られたりした。同じ年なのに、自分を子供扱いにするんだ。
 でも、相手は自分より背が高く、好みの女の子だ。異性に対して”恥ずかしい“という感情を持つことを、初めて覚えさせられた。休みの日にクラスの女子に会っても、それまでは冗談のひとつでも言って素直に話せたものを、樋野さんと並んで以来、妙に構えてしまうことが多くなったのだ。
 そんな彼女が、いまは自分を見ていることに気づくと、どっしり緊張した。

 もう、虫どころじゃなかった。落ち着きのない自分の様を見てとったのか、樋野さんは近づいてきて言った。
「こんばんわ。なにか、採れたの?」
 哲夫は、黙っていた。
「どうしたの? へんな子ねえ。わかった、みんなから仲間外れにされてしょげてるんでしょう」
「なに、やってんだよ。そっちこそ」
 ボソッと、どうにか言えた。
「あら、だっていいじゃない。こっちの道は私の家の道だもの」
 そうじゃないだろう、言いたいことはね…。自分の口からは、何も出なかった。樋野さんは、白いナッパ服みたいなやつを着ていて、それが夏の日の夕暮れに、よく似合っている。
 頭の中を、次の言葉がグルグルしていると、彼女は、自分の心臓の鼓動がドキドキ聞こえるくらい近づいて、耳打ちした。
「ねえ、知ってる? 山本君と丘田さんのこと。休みに入る前の噂、本当だったみたい。ホラ、多摩川園に行って、キスしたって」
 その噂は、知っている。茶化しもした。山本治樹は、自分とはまた違った意味でマセていたから「スゲえな」と思った。丘田さんは、我関せずといった風で、これまた「スゲえな」と感心した。
 路上で、しかも休みの時に、同じクラスの、それも樋野さんから言われたので、哲夫は耳が真っ赤になった。
「なんだよ、いきなりにぃ。それが、おれとどういうかんけいがあるっていうんだよぉ」
 情けないくらいにシドロモドロになっている自分に、家にかけ戻りたくなったけど、樋野さんとこのままずっといたい気持ちもある。ふたつの異なる感情がなんなのか? 9歳の自分には、わからない。
 樋野さんは、そんな様子をジッと眺めている。なんか観察されているようでシャクだったが、相手の方が1枚も2枚も役者は上なのだ。

「いよー、おふたりさん、仲よろしね」と、いきなり背後から声をかけられる。向こう角の焼肉屋、南大門のおじさん、李さんだった。「ぽかーね、いろいろクローしてきたかんね~」が口癖で、ヘンな日本語を使って、ちょっと話し方がおかしい朝鮮の人だ。
「おじさんは、いいの、あっち行ってよ。いま、大事な話してるんだから」
 毅然と樋野さんは言う。
「こんなじぶんに、タイジな話か、いいないいな、聞かせてヨー」と、顔をのぞき込みながら言うおじさんに「しつこいわね、だから奥さんに逃げられちゃうのよ、あっち行ってったら」と、一歩前に出ながら樋野さんが言うと、李さんの顔色が変わった。
「なにいうか、コイツは。おそれおおくもヘーカから国民名乗れといわれたワタシよ」
 ああ…、李さんの口から天皇陛下まで出てきたらうるさくなる。
 しばらくは、戦後どれだけ自分が苦労してきたかしゃべりまくって…、そのうちに自分の足元を見つめ、ブツブツ言いながら交差点を渡っていってしまった。

 ふたりとも、南大門のおじさんが悪い人じゃないことは知っている。
「もう暗くなるのに、家に帰らなくていいのか? 俺、大丈夫だけど」
「虫採りは、もういいの?」
 いきなり、話題を変えられた。
「虫? ああ、今日はクビキリばっかだからな。もう」
「じゃあ、暗くなってきたから、家まで送ってよ」
 樋野さんは、涼しそうな横顔を見せながらサラッと言った。一瞬、なんて言おうかとまどったけど、しょうがねぇな~って、なんとかカッコつけられた。
 よく見ると、彼女はお使いの帰りのようだ。手に買い物カゴを持っている。緊張のせいか、哲夫は今までそのカゴに気づかなかったのだ。クルッと向きを変えて家の方に戻る樋野さんの後を、黙ってついていった。ますます情けなかったけど、それでもよかった。
 結局、ミルクホールの前まで一緒についていってサヨナラしたけど、「またね」でも「今度遊ぼう」でもなかった。
「なんなんだろう、俺って…」
 トリモチのついた棒を抱えながら、虫の一匹も捕らなかった自分に腹もたったが、帰り道、心の隅にはホワ~ンとした感情が残った。
 それは、とても暖かかった。

 その日の夜、夕飯時のテレビのニュースは、郵便列車が覆面グループに襲われ、250万ポンドが強奪されるというイギリスの事件を報じる。いつもなら、興奮気味に尋ねまくる哲夫だが、変にニヤニヤしていた。
「なによ~、気持ち悪い子だね、まったく」
 薫は気味悪がったが、相手にしなかった。いつも騒がしい夕飯が、その夜は少しだけ静かだった。

水銀灯

















 お盆も近づいた、週明け12日の月曜日。
”世界の朝食“がうたい文句の、シスコのコーンフレーク、シスコーンを初めて食べたが、思ったほどおいしくはない。
 哲夫は、朝から道路工事を見守っている。ついに、店の前の道路に水銀灯が建てられるのだ。
 オリンピックを来年に控え、東京は、その姿を変えつつある。第2京浜国道と中原街道のY字交差点に、東京で初めての横断歩道橋が出来たし、前の年に「山手通り」と名づけられた環状6号線も、ガガッと拡張工事が行なわれ、道幅40mの立派な道路になった。
 幼い時分、この道でトンでもないことを目撃している。台風の日、店から外の様子を見ていると、知らないオジさんが道のこちら側から向こう側まで、傘もろともフッ飛ばされたんだ。環状道路とはいえ、当時はそれほど広い道ではなかったからかもね。
 興味ある話では、夏休み中に行こうと思っている羽田空港も、ターミナルビルの大改築工事や国際線の増改築工事が、一応のメドはたったらしい。高速道路も、港区芝海岸通り1丁目~品川区西戸越1丁目の2号線工事が、Y字交差点近くの星薬科大学跡まで伸びてきていた。
 店の前の街路灯といえば、それまでみんな白熱灯だった。それが、昨年くらいから本格化した、オリンピックに向けての第1京浜、第2京浜、甲州街道、環状7号線の整備とともに、他の環状、放射道路の、白熱灯から水銀灯への取り替えに弾みがつき、いよいよ今日、工事が行なわれるのだ。

「ねえ、オジさん、水銀灯ってどういうものなの?」
 工事の邪魔にならないよう気を使いながら、指示を出している監督風の人に尋ねる。
「ボウヤ、ぞうり屋さんの子かい。よ~し、教えてあげよう。水銀灯っていうのはね、水銀蒸気中のアーク放電で起こる発光をうまく利用して明りを作り出す電灯のことだよ。アーク放電ってのは、蒸気の中で電気の粒がぶつかりあうってことで、それが発光するってことは、雷雲の中でカミナリがピカッと光るだろ、あれと同じ理屈さ」
 道路工事のオジさんは、まるで理科の先生にでもなったかのような顔をして話してくれる。
「たぶん、ボウヤも病院かなんかで低圧水銀灯は見たことがあると思うよ。ホラ、パン焼器ほどの大きさで、中に機具なんかをしまっておくやつさ。あれは、紫外線を放っていて殺菌用なんだ。いま建てている水銀灯は、照明用の高圧のものなんだよ」
「うちの前が初めてなの?」
「いいや、下町の、江戸川区なんかの江東六区では、もう防犯灯にも利用されているんだよ。でも、本格的な道路照明で言えば、2年前の日比谷公園裏道路が最初かな」
 話してくれたオジさんのかぶっているヘルメットには「小糸工業」と書いてある。
 工事を見守っていると、1箇所建てるのに3本のポールとランプ、安定器、配電盤がセットになっているようだ。タイマー付の自動点滅装置が入っている配電盤を、地中に埋めて地下ケーブルにつなぐ。6インチのポールに安定器を入れ、それを固定させてから4インチのポールを取り付け、最後に1・5インチのアームを付けてランプをセットさせれば完了だった。
 ピッカピカの水銀灯は、SF映画を思い起こさせる。五反田名画座のポスターで見た、『宇宙戦争』だったか『地球最後の日』だったか、悪い火星人が乗った空飛ぶ円盤の、地球攻撃用の武器に似ていたからだ。

 昼過ぎに工事が終わっても、店先でハッピーとジャレあったりして、哲夫はブラブラしていた。暗くなると自動的につくっていう、水銀灯の明りがどんなものか見てやろうと思っていたのだ。
 その”遊び“は、おやつのふかしイモを食べて、ハッピーの散歩から帰り、通りをいくクルマ見物にも飽きてきた時、試してみる価値があるな、と思った。
 最近、”運“というものに興味がある。いいことがあるってことは”運“が強いからで、その”運“をなんとか鍛えられないものだろうか? と梅雨時、思いつきで考えたことがあった。
 キッカケとなったのは、4年生になって始まった給食の時の肝油配りだ。よくクラスの仲間たちと言い争いになったのは、この肝油と一緒についてくるざらめ糖の多い、少ないでだった。これは、決して係の生徒が故意にしていることではなくて、たまたまスプーンですくったら…といった、まさに”運“によるところが大だったのだ。
 そこで、確率の問題だが、”運“を鍛える方法を思いついた。
 店番のとき、表をパッと見て、初めに目に入る人は男か、女かを当てる”遊び“を始めたのだ。これなら、アタリハズレは五分と五分。最初は、それでもなかなか当たらなかったが、よくしたもので、四分六が逆転することもあった。最高で、10人中9人を当てたこともあったりした。
 これで自信がついた哲夫が、次に考えたことは、男か女かではなく、もう少し細かく、子供、大人、年寄りでやってみた。意外に簡単すぎて、大したことはなかった。
「よし、今度は職業でやってみよう」
 初めは、いささか難儀した。それでも、思えば立正大学も近いしな、「う~ん、次はお坊さん!」で、本当に坊主が通ったときは気味悪くなった。
 クルマ見物にも飽きて、表に出したイスに座っている哲夫は、目をつむって開けたときの、道いく自動車の色を当てる”遊び“を始めた。
「クロ!」「チェ~っ」「アオ!」「チェっ」「アオ!」「ヨシャ~っ」
 その時、品川のほうから見慣れないオートバイが走ってくる。
「うおっ、あれはCR110カブレーシングじゃ…!」
 一瞬、独り言を飲み込む。フッと、ある考えが浮かんだからだ。 そうだ、水銀灯がつく時が当てられたら、もし当てられたら、樋野さんを多摩川園に誘おう。いいアイデアじゃないか! じつに、いい。しばらく、意識を水銀灯のポールの上に飛ばした。そのまま、ランプの回りをフワフワ泳ぎまわっている、そんな気分だった。

新しいバイク






 日は、なかなか暮れない。通るクルマのライトも、まだチラホラついているにすぎなかった。
 今夜は「馬がしゃべる、そ~んなバカな」の『ミスター・エド』があるな…なんて思って、ジッと水銀灯を見ていると、配電盤からか、安定器からか、耳にジィイイと音が聞こえてくるような気がした。あたりはそんなに暗くなっていなかったけど、当たるわきゃないよな…と思いながらも「点け!」と念じてみた。
 座っているイスから落っこちるかと思うくらいにビックリした!なんと、水銀灯がパッとついたのだ! それは、思ったよりもずっとミドリがかった色をした、きれいな明りだった。
 どうしていいかわからずに、オロオロした。誰かのイタズラじゃないかと、あたりをキョロキョロ見回したりもした。さっきまでのフワフワした気分もどこへやら、哲夫は恥ずかしくなって店の中へかけこんだ。
 自分の机に座っても、胸のドキドキはおさまらない。願いが叶うってことが、こんなにも苦しいことだなんて! また、叶った願いの先にあることを思うと、胸が締めつけられるような感じだった。
”運“を鍛えることはいいが、”欲“に走るととんでもないことになるなと、大きく深呼吸しながら思った。

 その夜、胸の苦しみはお腹にも下りてきた。
 次の朝、哲夫は佐藤先生の病院に盲腸で入院した。
「宿題もやらずにモー、チョーがないんだから」
 夏休みの後半しばらく、このシャレが松川家のなかで流行文句になった。淡い想い? なんぞスッカリ忘れた自分が、自ら好んで使っていたのは言うまでもない。
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