たしかに、悪いことはした。
晩ご飯のとき、先に済ませていた哲夫に「店番、替わっとくれ」と母親の薫から言われ、好きなテレビを渋々あきらめた腹いせもあってお店のお金をくすねた。
「だいたい、性根が許せないね。お店のお金に手をつけるだけじゃなくて、そのやり方が小憎らしいよ、ほんと。お客さんとの勘定のやり取りのふりして、『ハイ、お釣りです』なんて、ひとり芝居してごまかしてさ」
薫の怒りはおさまらない。
「やはり、だめだね、橋の下から拾ってきた子は。信も情もあったもんじゃないさ」
おいおい、いい歳して拾い子かよ…と、哲夫は呆れたが、顔には出せない。それに、お店のお金に手をつけたって、たかが30円だ。横丁の駄菓子屋でマーブルチョコひとつ、それも『世界の貝殻シリーズ』のおまけ欲しさにくすねただけ。それが、運の悪いことに見つかった、それも一部始終…。
寝るときまでもけちょんけちょんに言われ、さすがに夢見は最悪だった。
拾い子のことも、今回は「私とは血液型も違うんだから」と、薫には珍しい新手の論法をぶった。
夜中トイレに起きた哲夫の目尻は、久しぶりに濡れていた。
「オリンピックの顔と顔、それトトンとトトンと♪~」
鼻歌を口ずさみながら、哲夫は珍しくひとり、家路についた。頭の中では、派手な和服姿の三波春夫が踊っている。
峰原坂に出て、立正大学の裏手を巡りながら帰る。低学年の時、クルッと回ってはワンと吠える、“人工衛星”とあだ名した犬を飼っていた坂東さん家で右に曲がり、哲夫の家に出る横丁の坂にぶつかるまでダラダラと下っていく。以前、この道沿いには空き家が多くあって、幼なじみのトキちゃんたちとよく遊んだもんけど、五反田、大崎界隈も道路が整備され、ピカピカのビルができている。この辺りの空き家も、壊されて「SALE」なんていう看板が立てられる建て売り住宅に変わっていった。
さすがに、もうチャンバラごっこに興味はないけど、空き家に忍び込み、他人の暮らしていた空間を土足で歩き回ると妙に興奮した。
いろんな残留物を見つけるのも楽しかった。たぶん、主人の書斎だったところだろうか、大きな机の置かれていた跡が残る部屋の隅っこにカメラの色レンズが落ちていたことがあった。窓から射し込む光に透かして見ると、まるで「夢」の世界に入ったような気分になれる。見たこともない洋酒の瓶が棚にあれば、やはり海賊の宝物を見つけたみたいにうれしかった。台所に入れば鍋や釜を探し、侍のヨロイよろしく、身につけていい気になったもんだった。
今日は第一水曜日だ、月一回の下駄の市がある。朝、学校に行くとき、父親の孝一から「付き合いなよ、社会勉強にもなるから」と言われていたっけ。
面倒くさいこと思い出したな~と歩いていると、横丁の坂にぶつかる手前、米屋さんのはす向かいに頭に鉢巻き、腰に袋、地下足袋姿のおじさんがいる。最後の最後まで空き家だった家の前だ。ここも、いまは解体されて更地になり、新しく家が建てられようとしていた。おじさんは奇妙な壷から糸先を取り出し、それを角材に刺し、スルスルと糸を伸ばしては指でパチンと弾いている。
何やってんだ? と哲夫は近づいていった。
おじさんが指でパチンと弾くと、壷にカラカラと糸が巻き上げられ…白い角材の上にきれいな直線が描かれた。
うぉ、すげえ! 哲夫は内心叫んで、さらに近づいてみた。
鉋を、まじないをするかのように小槌で叩く。それを静かに角材の上に置いて一気に滑らせると、鉋は、その内部に巻取っていたリボンのように見えるものを中央の口からスルスル吐き出す。
「ちょっと見せてもらっていい?」
鉋が吐き出すリボンみたいなものを手にすると、それは肉屋や和菓子屋で使う経木みたいな感じだった。どんな紙よりも薄く、透かすと向こうの景色が見えた。まるで押絵でも見ているような気分だ。
おじさんは、ピーンと糸を張り、親指で車の回転を止め、中指で糸を押さえながら角材の上に静かに置いてパチン! そして、線を入れた角材を鋸と鑿を巧みに使って繋いでいく。ピタリ寸分の狂いもなく組み合わせていく。
しばらくして、哲夫はあわてて家へと駆け出した。
「追掛大栓継ぎっていうのか、すごい技だったなあ。ちょっと帰る時間には遅れたけど、親父に話してやろう、社会勉強してたんだって」
風呂敷を背負わされると、気分は一気に落ち込んだ。
「ほら、ぐずぐずしていないで。時間過ぎているんだから行くぞ、またバスに乗り遅れるじゃないか」
孝一に急かされて表に出る。バス停は環状6号線の通りの向こう側、左手の近藤書店か右手の大崎警察署の前だけど、できれば警察署の方に向かってくれないかと思った。左に向かえばヨッちゃんのパン屋の前を通ることになる。パン屋の兄ちゃんたちの目が気になって…この時間なら、パンが焼き上がるまで熱い釜の前から涼しい店先に出て休んでいるはずだ、冷やかされるに決まってる。
孝一が右手に向かったのでホッとした。
「あら、一緒にお使い、えらいねえ」
隣の安田屋さんのおばさんから声がかかる。本来は洋品店だけど、煙草も扱っていて、ちっちゃい頃ピースの銀紙をいっぱい集められたのもおばさんが空箱を取っておいてくれたからだ。ときどき哲夫に「大きくなりなよ」と言ってヤクルトなんかもこっそりくれる。背は低いけど、家のお婆ちゃんと違って太っていて、よく哲夫を可愛がってくれた。
そんな安田屋さんのおばさんから声かけられたらしょうがない、立ち止まって「お父さんの手伝いで市に行って来ます、しっかり荷物背負ってきます」と妙に元気な声を出した。
「あら、そうなの、偉いわねえ。じゃあ、ちょっと待っていて」とおばさんはしゃがみ込み、モソモソしてから表に出てきてくれた。
「はい、じゃあこれ」
おばさんは、ロッテのガムを手渡してくれた。
緑のクールミントは舌がしびれてたまらなかったけど、もらったスペアミントは甘みがあって美味しい。
「哲ちゃん、手伝いかい、しっかりおやりよ」
今度は角の葬儀屋、遠藤さんのおばさんが出てきた。哲夫は、子供扱いして人の頭をいつまでも撫でるガード下の小唄のお師匠さん、武田のオバさんと、世話好きな遠藤のおばさんが苦手だった。おばさんが景気いいってことはそれだけ人がよく死んでるってことで、なんか葬式を仕切るたびに店先に猫が増えていくような気がした。
愛想笑いを投げて、孝一の後を追う。
孝一は孝一で、伊勢屋食堂のおじさんにつかまっていて、どうやら先日の乗合い船じんべえ丸の釣果で話し込んでいる。仕掛けを用意してもらって、商店街の釣り好きを世話したはいいけど、乗合いは初めての丸吉さん夫婦が船酔いして大変だったらしい。
「お父さん、遅れるけどお」
「じゃあ、また」と、孝一までも愛想笑いして、哲夫の尻を叩きながらバス停に向かう。店から出た父親の、笑い顔を見たり、話し声を聞いたりするのは久しぶりだった。
目黒川を越え、三共製薬を横目に見て大井町行のバスは行く。
「次は品川区役所前、品川区役所前でございます」
「降りますよ、降ります」バスの車掌さんのアナウンスに、哲夫は切符を高々と掲げてと声をかけた。
下駄の市は、品川区役所前のバス停から歩いて7、8分、第一京浜を越え、京浜急行も越えた、目黒川の河口近くの荏原神社で行われる。城南の履物店連合会が主催するもので、戦前から大森で開かれてきた市を戦後真似たものらしい。
「うわぁ、お祭りみたいにいっぱいお店が出ているんだね」
「浅草からたくさん問屋さんが来ているんだ。ほら、あそこに篠田さんもいるだろう」
哲夫は、いつも家に来てくれる問屋の篠田さんに頭を下げた。それにしても、よく市とは言ったもんだ。和装全般が取り扱われ、下駄から草履、鼻緒、傘にサンダルまで、ずらり並べられている。神社の境内を見回すと、縁日みたいに金魚すくいや綿アメ、射的に輪投げこそないけど、焼きそばにおでん、お好み焼きなど、食べ物屋も出ていた。
「いつもはな、商品を買うと即金か月末払いのものが、掛け売りで翌月払いにしてくれるのがいいんだよ」キョロキョロしている哲夫の頭に手をかけながら孝一は言った。
「掛け売りって何?」
「後払いってことさ。浅草で仕入れたり、持ってきてもらうのもいいが、商品は入っても、お金は出ていくだろう。商売人は、お金を上手く回さなくてはいけないんだ、わかるか?」
「わかるよ、そんなこと。お金が出ていかないようにしながら商品を仕入れるんだろう。ツケみたいなもんだな。新開地ストアにあるお菓子屋さんで、3組の青柳さんの家はいつも次の月払いでやっているんだって。横丁の駄菓子屋さんでもやってくれないかなあ」
孝一が、浅草や店、また市の問屋さんと話をしていると、いつもわからない言葉が出てくる。「しゃくぬけ」だの、「だいまる」だの、何のことやら哲夫にはさっぱりわからなかった。
「ねえ、お父さん。先刻言っていた『つじまる』って、何のこと?」
「ああ、あれは勘定のことさ。おおっぴらに人前では言えないから、符丁で言っているんだ」
「ふ、ふちょお? 何、それ?」
「ああ、お父さんたちの家業の中だけで通じる言葉、ここじゃお金の勘定のことさ。仕入れ4000円を4000円ってそのまま言っていたら、お客さんに幾らで仕入れてきたかわかってしまう。上代8000円で売ろうたって無理だろう。だから、普段問屋さんたちとの間では符丁を使って4000円を『つじまる』って言うんだ」
「4000円のことを『つじまる』っていうの?」
「そうさ。いや、正しくはツジが4、マルが0だ。ということはお父さん、『40かい』って問屋さんに聞いていたんだが、それは商品からいって40円じゃなく4000円ってことさ。だいたい扱う商品でわかるからねえ」
「ふ~ん、何かむずかしいね」
「そりゃそうさ、すぐわかってしまったら符丁の意味がない。そうだ、この際だから教えておくか、お前にも」
そう言って、孝一は境内前の隅っこで土の上に数字を書き始めた。
「いいかい、1のことはダイだ、2はヤマ、3がウロコで4ツジ、5はカタリで6がリュウ、7シャク、8ヌケの9はキュウだ。で、0がマル。10や100、1000はすべてダイマルだよ」
「あ、そういえば『しゃくぬけ』や『だいまる』のほかにも『だいりゅう』とか『だいしゃく』って聞いたことある。みんな勘定だったんだね」
「家にやってくる篠田さんとか、中央なんかと店ん中で勘定の話するだろう。お客さんがいたり、入ってきたりすると都合悪いじゃないか。そういうとき、符丁は役に立つわけだ」
「商売やるのも、大変なんだね」
「そうさ。売るだけでもダメで、ちゃんと仕入れもできなきゃいけないし。その仕入れだって、ただモノ揃えればいいってもんじゃなくて、できるだけ売れそうなモノを安く仕入れるのが商売の妙味なんだ。わかるか?」
「そのくらいわかるよ。ただ、ウチじゃどのくらいの儲けで商売しているの?」
「先刻の、仕入れ4000円の上代8000円じゃないけど、お父さんたちの商売の儲けは5000円売って半分の2500円が目安かな。上代が半分ひっくり返ると儲けになる、これカクベエって言うんだ。カクベエって“ひっくり返る”という意味さ。たぶん、角兵衛獅子からきてるんだろうと思うけど、とんぼ切ったりするだろう、ひっくり返るあれさ」
いやいや市に付いてきたけど、父の孝一から家業のことを初めて聞いて、哲夫は面白かった。普段は仏頂面していることの多い孝一から、久しぶりに面白い話を聞けてうれしかった。
夕刻には、市は終わった。だいたい5~8万くらい仕入れたのか、哲夫の肩には風呂敷に包まれた草履や鼻緒がズッシリ重かった。
「問屋は下駄、草履が鈴屋、加部、地元じゃ柳瀬に斎藤かな。斉藤は塾の帰りに立ち寄ったこと、あるだろう。鼻緒は川又、こいつは市には来ないんだ。靴は中央だよ」
「お祖父ちゃんの三ッ木の店、覚えているか? 昔は大八車でよく仕入れに行ったものさ。空襲で焼けて戦後なくなったけど、戦前には広小路と戸越の間に桐ヶ谷っていう池上線の駅があってな、いまみたいに特売やらなくても仕入れたモノはさばけたものさ」
「そうそう、鼻緒のすげ方も東京と田舎じゃ違うんだ。くじりで先に穴を開けて、絞めてからすげるのは田舎さ。実用本位で、格好気にしないわけだ。お父さんは、穴を開ける前にまず鼻緒を絞める。この方が格好よくすげられる。履いていても伸びないんだよ」
「鼻緒の芯は、いいものは麻だね。ただし、最近はナイロンが多くなって伸びて困るんだ…」
帰りのバスの中、孝一はいい気分で話しまくった。これには、哲夫も閉口した。
2時間目の理科の授業は、担任の伊豆先生の好きな科目だ。
お気に入りの白衣に身を包んで、身振り手振りを交えて活き活きと授業をする。実験や実習などの課外授業も多く組み込んで、生徒を理科室の清掃や堆肥作りにこき使った。でも授業中、他のクラスでは生徒は滅多に教室から出られない。1組の理科は、生徒にとっても気分転換にはもってこいだった。
「今日の勉強は、血液型だ。人間の血液型がいくつあるか、わかる人は手を挙げて」
授業は、4種類の血液型から日本人の血液型分類、A型が40%、O型が30%、B型が20%、AB型が10%だということ。そして、血液検査の話に続いた。
「先日、新聞で読んで知っている人もいるかもしれないが、いま教えたABO式血液型検査の他にもうひとつ、RH式血液型検査がある。ちょっと難しい話になるが、赤血球中の5つのRH因子C、c、D、E、eのうちのひとつ、D因子について検査するものなんだ。D因子がある人をRHプラスといい、D因子がない人をRHマイナスといって分ける方法だよ」
「先生、そのアールエイチって、なぜ新聞に載ったんですか?」
クラス委員の河野が尋ねた。
「私、知ってます。離島で怪我した人がいて、輸血しなくては助からないというとき、その人の血液型がたしか、RHマイナスで大騒ぎになったんですよね」
「仁志川さん、よく知っていたね」
「お母さんがその記事見て『RHマイナスの人は子供を一人しか産めないからね』と言っていたので」
ちぇ、余計なこと、言ってらあと哲夫は心の中で毒づいた。ここんところ、女子に頭が上がらないうえ、河野と同じクラス委員の仁志川には学級会でやりこめられてばかりいる。苦々しく思っているのは、哲夫ひとりだけではなかった。
「そうだね。こういった血液検査をするのは、もちろん輸血が必要になったときのためだ。別にABOさえわかってればいいんじゃないと思うかもしれないが、例えば同じA型でも、RHマイナスの人にRHプラスの人の血液を輸血すると体内に抗D抗体というものが作られ、そのときは大丈夫でも、2度目の輸血の時には、最悪の場合は生命が失われてしまうこともあるんだ」
伊豆先生の話では、日本人のRHマイナス人口は全体の0.5%程と言われ、200人にひとりだそうな。さらに、AB型でRHマイナスという人は2000人にひとりというでとても希少な存在だという。
伊豆の話を聞いて、哲夫は、もし自分がRHマイナスだったら…と考えて、背筋が寒くなってきた。
4年生の時、同じく授業でどういうわけか蓄膿症の話になり、その治療法が顔を割って骨を鑿で叩きながら膿を出す…そう聞いて、怖い想いをしたことを急に思い出した。しばらく自分の吐く息を気にしたり、鼻をかんだとき、つい鼻紙を開いてみたりしたことがあったっけ。
低学年の時の「恵比寿」と「えきり」を間違えたこともそうだが、未知のこと、それも人体にまつわることには、哲夫は病的に臆病だった。
終いには、D因子があるかどうかを調べるのに、なぜ「RH」というのか? それは1940年にオーストリアのランドシュタイナー博士がアカゲザルを使った実験をしているときに、ヒトの赤血球にアカゲザルと共通の血液型抗原があることを発見。この抗原中に含まれる「D」という抗原の有無によって区別する血液型を、このアカゲザルの学名「Rhesus Monkey」の頭文字から「RH血液型」と名付けたと、小学生にとって理解できない、難しい話にまで脱線していったところでチャイムが鳴った。
昼休みの給食、好物の揚げちくわの味は、血液型の話なんか聞いたせいで、なんかザラッとした感じが哲夫の舌の上に残った。
家に戻ってから、哲夫は古新聞の山を漁った。ズバリの記事は見つからなかったけど、後日談として「RHマイナスを考える」を見つけた。
「お父さんとお母さんがRHプラス同士、あるいはマイナス同士の場合は問題ありませんが、お父さんがRHプラスでお母さんがRHマイナスというケースでは注意が必要です。
それはなぜか? まず子供の血液型を表に表してみましょう。
母 Rh(+) Rh(-)
父 Rh(+) Rh(-) Rh(+) Rh(-)
子 Rh(+) ○ ○ ○ ×
Rh(-) ○ ○ ○ ○
このように、お父さんがRHプラスでお母さんがRHマイナスという組み合わせだと、生まれてくる子供はRHプラスの血液を持って生まれてくる可能性があります。
胎児の血液というのは、胎盤を通って母親の体内にも流れ込むため、RHマイナスの母親がRHプラスの子供を妊娠すると、母親はRHプラスの血液の輸血を受けたのと同じ現象が体内で起こり、抗D抗体が作られます。前述のように、1回目の出産時は問題ありませんが、2回目の時には抗D抗体のせいで、赤ちゃんに貧血や黄疸などの症状が出ることがあります。
ちなみに、RHプラスの人にRHマイナスの血液を輸血しても、何の問題もありません。問題になるのはRHマイナスの人にRHプラスの血液を輸血した時です。なので、お母さんがRHプラスの場合は問題なく出産できます。また、お母さんがRHマイナスでも、お父さんが同じくRHマイナスの時は子供は必ずRHマイナスの血液を持って生まれてくるので、これも問題ありません。
自分がRHマイナスだと、子供を産むときに大変な思いをしなければなりません。しかし、自分がRHプラスでも、生まれてくる子供がRHマイナスだったりしたら、この子が妊娠したときのことを考えると、やはりそれはそれで胸が痛むでしょう。父親より母親のほうが強いのは、こうした悩みがあるからなのです」
その夜、店じまいのとき、お調子者の薫は、たぶんプラスだろうと思った。
「お父さんは…ヤバイかもなあ」哲夫は、痩せぎすな孝一の横顔をジッと盗み見た。
明けて金曜日。5時間目の休み時間は、いつもダラけた。給食後ということもあるし、いい加減授業に飽きてくるからだ。
白雪城の隅っこで、哲夫は山上と服田と一緒に治樹の手元を見ていた。三人の目線は、治樹の手に握られているボールペンに釘付けだった。親戚のおじさんの海外土産だと言って、じつは模型屋のブンちゃんから借りてきたそれは、持ち手のところがガラスになっていて、スリップ姿の外国人の女が映っている。ところが、持ち手を逆さにすると緋色のスリップがスルスル下がっていって、映っている女が裸になった。
「こいつはすごいや。エロ雑誌の写真にも負けないね」
山上がうれしそうな声を出す。
「ブンちゃんが言うには、海の向こうにはこういうヤツたくさんあって、色の白いのや黒いの、もちろん、日本人だろうがインディアンだろうが、あるらしいぜ」
「何かこの女、おばさんぽいけど、年齢もいろいろあるのかな?」
「さあ、そこんところはわからないけど、この女は服田の好みじゃないの」
「こいつは、顔よりオッパイが大きければいいんだよ。運動会のフォークダンスの練習のとき、2組の海老名のオッパイ、ずっと見てたもんな」
「哲夫、そんなこと言っていいのかよ。おまえだって立花のこと、お熱じゃないの?」
「バカ言えよ、なんか握った手が濡れていたんで気になっただけさ」
山上から言われたことに、哲夫はドキッとした。たしかに、当たっているか
も…たぶん汗で濡れた手の平の感触は、悪いもんじゃなかったし。
「そうそう、坂東の家で見た幻灯機のことだけどさ」
哲夫は、あわてて話題を変えた。
「ああ、今度壁新聞の替わりに教室で映そうってやつね」
治樹が、すぐに喰いついてくれたので哲夫は続けた。
「雑誌の付録についていたものを組み立てて、襖に貼った紙に写真を映して観たんだけどね。ボール紙製で、小さなレンズと鏡が付いててさ。もちろん、レンズと鏡はガラス製。あれ、うまく作れないかね、長門にでも頼んでさ」
その構造は、四角いボール紙の箱の上に三角形の同じ箱を乗せ、その箱の中に45度の角度に鏡を取り付ける。それに、レンズを付けた円筒形の鏡胴を取り付けたものだった。鏡胴は二重になっていて、焦点調節が出来るようになっている。四角な箱の下に写真を入れると、襖に貼った白紙の上に写真が拡大投映される仕組み。光源として電球を使うけど、鏡に直接電球の光が入らないようにするので、電球の位置が難しかった。また、光源が高温になるため、発火に気をつけなければならない。
そんな話をしていると、6時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。幻灯機の話をもっとしたかったけど、なんか途中で話の腰を折られたような気がした。
校庭を横切る際、哲夫は目をパチクリさせながら歩いた。世の中がスローモーションに見えて面白い。ふいに、逆さになって見たら、ボールペンみたいに校庭にいる女子たちの着ているものがスルスル脱げていったら面白いのに…と思った。
いきなりドスンと衝撃が哲夫を襲った! 急に誰かがぶつかってきたな…と思う間もなく気を失った。
気がつくと、保健室のベッドの上だ。頭がズキズキ痛んだ。
「あっ、先生、気がついたようですよ」
隣に河野がイスに座っていて、保健の川原先生に声をかけた。
「ああ河野、俺どうしたんだあ?」
「お前、校庭で6年の大庭くんとぶっかったんだよ。で、ドバッと鼻血!
大場くんが言うには、急にお前がしゃがみ込んだんで避けきれなかったって言ってたぞ」
「松川くん、大丈夫?」
頭を強打すると鼻の奥がツーンとする、まるで鼻に食用酢を流し込まれたような気分だ。
「あ、先生、大丈夫です、ちょっとクラクラしますが…」
「あたり一面、お前の鼻血で真っ赤だったんだぞ。伊豆も心配しちゃってさあ」
「悪いな河野、ずっといてくれたのか」
「まあ、いちおうクラス委員だかんな。気をつけろよ。では先生、僕、教室に戻ります」
「河野くん、ご苦労様」
川原先生は、保健室のアルコール臭とは違って、いい香りがする。2組の担任、佐藤先生とのロマンスの噂はあるけど、哲夫は、ちょっとポッチャリ気味だけど、しっとりとした和風美人の先生が好きだった。
しばらく黙って横になっていると、だんだん哲夫は不安になってきた。先刻、河野が「ドバッと鼻血!」って言っていたっけ。ひょっとして、体に血が足らなくなっていやしないか? そう思うと、頭のズキズキが大きくなってくるような気がする。
「先生、僕の血液型、わかりますか?」
書類から顔を上げて、川原先生は妙な顔をした。
「血液型? なによ、いきなり。それとも松川くん、何か気になること、あるのかしら」
「いや、河野からかなり血が流れちゃったって聞いたんで。先生、輸血なんて必要ないですよね?」
「輸血? 何で、そんなこと考えるの? たしかにすごい鼻血だったようだけど、横になっていれば気分もよくなるわよ、大丈夫」
「いや、じつは僕…」その先は、グッと飲み込んだ。いくらなんでも、先生にRHマイナスだったら怖いんで…とは言えない。
そうはいっても、相変わらず痛みはある。授業終了のチャイムが鳴るまで、ベッドで横になっている哲夫の頭の中では「鼻血」「輸血」そして…「RHマイナス」の文字がグルグル回っていた。
ピンポンパンポ~ン、ピン…チャイムが鳴った途端、頭は痛いけど、まあ授業抜けられて先生と一緒だなんてラッキー…と思った。その途端、どういうわけかボールペンに現れた裸の女のことを思い出した。
哲夫は、近寄ってくる川原先生が恥ずかしくて見られなかった。






























































