ポパイ本










椎根 和(しいね・やまと)。1942年福島県生まれ。早稲田大学卒業後、『婦人生活』編集者に。平凡出版に途中入社し、『平凡パンチ』『anan』に携わる。退社後、講談社開発室を経て『日刊ゲンダイ』創刊スタッフ。再び退社し、77年『POPEYE』定期刊行時に編集デスクとして参画、後にエディター・イン・チーフ。『Olive』創刊時に社員となり実質の編集長、以後『Hanako』『Comic アレ!』『relax』の創刊編集長を歴任。取締役就任後、1997年マガジンハウス退社。

 椎根さんが2冊目の本、『POPEYE物語』(最初は『平凡パンチと三島由紀夫』、僕にとっては難解なものだった…)を上梓した。このことは、昨年暮れのエディター・角島真寿美(享年・46歳)の葬儀の際に聞いていたし、先月発行の『小説新潮』にサワリが載っていた。
 雑誌『POPEYE』については、いままでいろいろあったが、創刊後30年経って、初めて内部の人間の手によって書かれたものが出たわけだ。
「主人公は石川次郎で、そのスーパースターぶりを中心に、木滑(きなめり)さんの悪役扱いもすごいらしい…」と聞いていたけど、話は椎根さんなりのポパイ・ジャーナリズムの解説が主。もちろん、その中心は次郎さんだけど、木滑さんのことには過去(『週刊平凡』や『平凡パンチ』編集長時)はともかく、『POPEYE』では大してページを割いていない。
 まず、次郎さんのことについては、たぶん椎根さんも客観視でしか書けなかったのだろう。主観でとらえた箇所(というより、仕事を降られた実体験からくる「凄み」だが)はなかったような。アンダーボスとカポーとはいえ(詳しくは、書籍内参照)、お互い「ジロー」「シイネ」の仲だったわけで、当時はまさか好敵手のことを書くとは思っていなかっただろうし。
 かえって、下で働いていた後藤健夫や僕の方が、当たり前だけど「凄み」を味わっていたと思う。たとえば、後の『ゲーム』特集につながる『ピンボール』特集の時、「自分と同じ世代の人間と仕事をしろ」とイラストレーターの松下進さんをポンと紹介してくれたり、読者から間違いを指摘する葉書を持ってきて「ひとりが思うことは千人が感じていることだ」と怒られたり。
 木滑さんの悪役ぶりは、じつはかなり期待していたけど、最後の一章であわただしく語られているに過ぎなかった。まあ、ヒールぶりがいかんなく発揮される(!?)のは『POPEYE』、『BRUTUS』『Olive』の創刊を経て『TARZAN』、そして『Gulliver』刊行あたりのバブル期(木滑さんが社長に就任)だと思うので…仕方ないか。
 でも、代わりといっては何だけど、当時『POPEYE』がどう作られていたか? また、椎根さんが何を考えていたかはよくわかって面白かった。
 僕は『日刊ゲンダイ』創刊時に椎根さんに拾われ、『POPEYE』に呼ばれた。『POPEYE物語』では「創刊時、潜りこんできた…」という記述があるが、それは間違い。『日刊ゲンダイ』で働いていた2年間で約200万貯めこんだ僕は、日刊現代の社員の誘いも断り、なんとか5年で大学卒業のメドが立ったとき、しばらくアメリカに遊びに行こうと考えていた。そのとき、退社されてしばらく会っていなかった椎根さんから一報あり、ポパイに誘われたんだ。
「すみません、アメリカに行こうと思っていて…」
「なら、自分の金じゃなく、会社の金で行ったら、どう?」
 本当は、当時ポパイがあった六本木オフィスにちょくちょく顔を出していたのに木滑さん、次郎さんからはスタッフとしての誘いの声がかからず、また大学同期の後藤がいた(彼には、ある種のコンプレックス〜雑誌が根っから好き〜を持っていた)し、新雑誌『POPEYE』の仕事はあきらめていたんだ。だから、椎根さんからの誘いはうれしかった。

編集部




写真は創刊2年目の編集部でのもの。
右から二人目が椎根さん。
中央/左のイスに座っているのが「ウチヤン」こと内坂庸夫
中央/右のポップコーンセーターが僕
左の壁際にいる、次郎さんのアフロチックな髪型は変わらないなあ


 記述ミスでいえば、この本に僕に関してふたつの大きな間違いがある。
 ひとつは、49号『気分は、もう夏』特集で、カメラマンの村林真叉夫さんの事故が書かれているけど、あれが起こったのはハレイワではなくベルジーランド(ハレイワなら死んでいる!?)。また、自作のハウジングを持ち込んで水中撮影に挑む村林さんを、僕は取材終了時まで許さなかった。帰国2日前、おおよその取材が終わったので、宿泊先のクイリマ(現・タートルベイ)に一番近い、またノースでは比較的波が穏やかなベルジーランドを選んだわけ。
 僕は近視で、ビーチではたしかサングラスをかけていた。マンガではなく、たぶん『PLAYBOY』アメリカ版のヌード・グラビアを眺めていた僕の前に突如、彼が現れた。最初はわからなかったけど、頭から血を流していて、腕に大きな擦過傷があるのに気づいた。
「沖から、いくら呼んでも気づかなくて…死ぬかと思ったよ」
 壊れたハウジングから、水が勢いよくボトボトこぼれていたことを憶えている。
 もうひとつは、69号『60年代』特集。このテレビ記事は、名も無い制作プロダクションのオヤジと出会ってできた。そのオヤジは外信系の記事に強く、6ページで使ったTVスチールを全部持っていたんだ。データも、完璧だったが、あがってきた原稿はまさに『TVガイド』的だったので、すべて僕が書きなおした。『ローハイド』での以下の文章、「…ロディ役のクリント・イーストウッドに姉貴が夢中でした。」、この姉貴は、僕の本当の姉・美智子のことだもの。
 たぶん、椎根さんはポパイからいろんなタレントが輩出されたことで朝井 泉(泉 麻人)のことも書きたかったのだろうけど、彼の初仕事は後藤のフォーラムでの「懐古モノ」ではないか。

 椎根さん、木滑さん、そして次郎さんとの当時の個人的思い出を。
 椎根さんと初めて会ったのは76年秋で、渋谷・カスミコーヒー。本に書いてあるとおり、『日刊ゲンダイ』の創刊準備期間で、大貫憲章さんから紹介された。初めは「しょぼいオヤジだなあ」と思ったけれど、だだっ広い築地のオフィスビルのワンフロアで寺山修司さんの連載の話をしていたとき、話が『平凡パンチ』に及んだ。
「サム&デイブの日本公演の際、ポスターコンテストをやったでしょう。あれに僕、応募したんですよ」
「君、あれは僕がやったんだよ」
「えっ、では入賞した加藤裕将さんのポスター選んだの、椎根さんですか」
 その後、文化部のデスクをやられた椎根さんから『anan』の話等を聞かせてもらい、「これは、すごい人だっ!」とわかった。
 また、NETの深夜TV番組で『メロドラマヒーローコンテスト』に僕がふざけて出たことも知っていて、「今の大学生も、幼稚になったもんだと嘆いたけど、君だろう」と笑われた。
 創刊準備時期、築地にあるキャピタルホテルによく泊まったが、ある日、椎根さんとふたりだけで泊まったときがあった。出版界にはオカマが多い、僕は椎根さんにも勝手にその気を感じていて…その夜、求められたらどうすればいいか? 先を考えて、受けるべきか、拒むべきか…ひと晩寝られなかったことがあったっけ。
 木滑さんは、もう僕の中では比べようもない人だけど…。
『POPEYE』創刊当時、ラジオ関東で深夜番組のコーナーを後藤と僕が持っていた。いろいろ取材に行った最新情報や裏話を、編集部にかかってくる電話で語るものだったけど、それを聞いたニッポン放送の亀淵昭信さんから僕を社員にしたいとの誘いがあった。
 この本でもポパイの文体について触れられているが、基本は「話し言葉」。プレ創刊時、松山 猛さんから「松川なあ、オマエが使う“まんま”って何だ。“マンマ”といえば、京都ではご飯だぞ」と言われたことがある。自分が使う言葉が活字になる快感は、
内坂節しかり。
 で、僕は『POPEYE』の文章を「活字」とは思わず、ラジオの「音声」だと思っていたからスンナリ入り込めた。
 場所は本社前の喫茶フロリダ。メンバーは僕と亀淵さん。そこに木滑さんが来て…。亀淵さんが「松川をウチにくださいよ」ということになったとき、木滑さんはシレッと言った「こいつ、ウチの社員になるから」
 その次の春、僕は後藤とともに中途採用の試験を受け、晴れて社員となった。
 次郎さんともいろいろあったけど、ここでは自慢をひとつ。18号『スタ−・ウォーズなんか、もう見ない』特集は、アメコミ風イラストで図説されていた。このタイトルは、ゲラを見た僕が次郎さんの前でつぶやいたひと言だった。後日、採用になってびっくりした! この後、「なんだ、素の自分でいけばいいんだ」と変な自信を持ったものだった。

 最後に、僕についての記述の中で61ページで書かれているもの、「いつも新しい事をやりたがり、着地に失敗するという損な運命を持った青年」は、じつに正しいと思う。結局、僕だけ編集長職につけなかったが、そのことをまったく悔やんでいない。それより、1冊でも多くの創刊誌にたずさわり、そこで様々な新しい才能と出会うことの方が気持ちいいと『POPEYE』で知ってしまったから。

 椎根さん、どうせなら僕のこと「お調子者」ではなく、イラストレーターの小林泰彦さんからいただいた呼称「オキラクマン」を使って欲しかった…準備期間に出入りしていた人なら皆知っていると思うから。