阪神電気鉄道の空売りをほとんど最高値で買い戻した時、僕の資産は文字通りすっからかんになっていた。つい2ヶ月前には600万円あったのだ。それがきれいさっぱり消滅してしまった。いや、正確にはゼロではなかった。大損をしたことで還付金が数十万円戻ってきていた。当時は優遇税制で税率が10%の時代だった。
自分が単なる恐れ知らずのバブルキッズであれば、一発ぶん殴られたことで目を覚ましたかもしれない。だが、僕は底抜けのアホであり、救いようのないギャンブル狂いだった。一度は真面目に働いて金を貯めようと決心したし、担がれている時には頼むから借金だけはやめてくれ!と天を何度も仰いだ。それなのに、いざ救ってもらうと素知らぬ顔で僅かな残り金を小型株の決算持ち越し勝負に賭けてしまったのだ。
そして僕はその賭けに勝った。大勝利だった。ライブドアショック直前の2005年12月、福岡県を拠点とする商品先物取引業者、スターホールディングスの株価は好決算により天高く舞い上がり、僕は株式市場への華々しい復活を果たした。
それから1年後、紆余曲折を経て専業投資家としての新たな生活が始まっていた。これでやっと相場に専念できる。仕事をやめ、株に全てを注ぎ込んだ時に自分がどのような結果を出せるのか、それをどうしても試してみたかった。そうして迎えた無職での取引初日、僕は1日で30%の損失を出し、逃げるようにして実家に帰った。
そこからは順調に資産が増えた。ライブドアショックがあったとは言え、新興市場の取引高は依然として高水準で、トレーダーが稼ぐには十分な熱量がそこら中に溢れていた。日経平均は2007年の夏まで上昇トレンドにあった。その年、200万円でスタートした資産は秋には1000万円を超えていた。僕は再び自信を取り戻していた。
ところが、その後の半年は資産が横ばいになった。ただ、勝ったり負けたりの繰り返しではあったが、致命的な損失は出していなかった。そのため、やっていればまたそのうち増えだすだろうという楽観的な気持ちがあった。
そんな折、仙台で行われた投資家オフに参加した。日頃リアルで株の話をする機会などそうそうないので、会は大いに盛り上がりを見せて終了した。その帰り道、隣にいた同年代のトレーダーにある銘柄について何気なく質問してみた。今でいうところのユナイテッドで、当時はまだネットエイジという社名だったが、個人投資家に人気のネット株で活発な取引が行われていた。
だが、僕はどうしてもその銘柄で勝ち越すことができなかった。不思議なくらい、買えば下がり売れば上がるということを繰り返す鬼門のような銘柄だったので、その値動きの極悪さには辟易していた。僕としては当然、そのことに同意を求めたつもりだったが、彼は一度も負けたことがないという。信じられなかった。自分には攻略不能としか思えなかった値動きが、目の前の同業者には容易く見えているというのだ。
ザザ…
潮が引いていく音が聞こえた気がした。僕はその時はじめて、自分がカモにされる側に立たされつつあることを理解した。このまま漫然とトレードを続けていて本当に大丈夫なのだろうか?今まで考えもしなかった疑問が頭に浮かび始めていた。リーマンショックまで、残り2ヶ月のことだった。