1983年の高額納税者番付で1位となり、「最後の相場師」と言われた是川銀蔵。一昔前なら、相場をやっていてその名を知らぬ者は居ないと言う存在だったのだろうが、僕くらいの世代だとあまり名前を耳にすることもなかった。数々の仕手戦を手がけたとも言われ、相場師と言う呼称が持つイメージも相まって、僕はこの人のことをてっきり生粋の山師だと思い込んでいた。最期には借金を残したとも言われるから、日本版リバモアのような人であったのだろうと勝手に想像していた。そして、改めて氏の自伝を読んでみてあまりの衝撃を受けたので、その感想をここに残しておきたい。

 是川銀蔵は貧家の出で、14歳の時に貿易商の丁稚となるが、この会社が倒産すると独立を決意。単身で中国へ渡り、その才気によって若干16歳にして日本軍の御用商人の地位を獲得、利益を上げることに成功する。無論、未成年であることは隠していた。

 その後、紆余曲折あって無一文となるも、再び中国にて一厘銭商売なるビジネスを思いつき復活する。一厘銭とは中国の現地通貨で、亜鉛、鉛、銅からなる合金である。当時の日本の1円銀貨と一厘銭の交換レートは1:1000だったが、1000枚の一厘銭を鋳潰してインゴットに戻すと、戦時価格の影響もありなんと2円以上で売れたのである。もちろん不法行為だったが、彼は官吏に銃口を突きつけて脅迫するなどし、またもや持ち前の才気と度胸を発揮してこのビジネスを押し通すことに成功してしまった。当時まだ18歳のことであった。

 このようなとんでもない無茶もやったが、彼は優れた実業家として次々に新しいビジネスに取り組んでいった。21歳の時には鉄の圧延工場を経営して260人を雇用。恐慌の煽りで会社が倒産した31歳からの3年間は、資本主義の行方について徹底的に研究するために図書館に通い詰め、経済関係の本を漁り尽くした。そして34歳の時に初めて相場の舞台に立つと、百発百中の当たり屋としてたちまち名声を得て、他人から勝手に事務所を作って指導を請われるまでになる。

 だが、太平洋戦争勃発の兆しを感じ取ると、株の指導などをしている場合ではないと、朝鮮での鉱山開発に乗り出す。日本の軍備増強に貢献するためである。この時41歳。もちろん地質学、鉱床学など開発に必要な知識は全くなかったが、独学の猛勉強により会得した。朝鮮進出から4年後には、政府機関から資金を調達して是川製鉄を設立。グループ全体で1万人の従業員を抱え、実際に8基の溶鉱炉を建設して運営にあたった。この時の朝鮮総督、小磯國昭は後に総理大臣となり、その縁で彼には入閣要請があったと言うが、これを固辞した。終戦時は処刑も覚悟したと言うが、当時の経営者としては珍しく、日本人も朝鮮人も平等に処遇していたことに感銘を受けていた朝鮮人従業員の活動により、釈放を許されることになった。

 戦後は、日本の食料自給率の低さに危機感を抱き、農業に傾倒する。是川農業研究所を設立して二期作の研究を続け、ついには三井化学やクボタからの協力をも得るようになった。そして、一定の役割を果たしたところで約10年間に渡る農業研究に終止符を打ち、いよいよ相場に本格参入しようと決意したのは63歳の時であった。

 投資のための資金稼ぎにあたっては、土地投機の機会も見逃さなかった。全国の大工業建設計画の中から、大阪府が構想していた堺の埋め立てコンビナートに注目。分析の結果から、完成後には堺市の人口が5万人も増加、それを収容するためのベッドタウンが必要になると読んだ。そして、実地調査も含めた更なる詳細検討により、堺市から7キロほど離れた農村地帯が最も適していると結論付け、資金を持つ友人を説得して捨て値で数十万坪の土地を購入した。すると、3年後にはなんと、大阪府がその場所にニュータウンを作るという構想を発表し、地価は瞬く間に5倍にも急騰した。これによって彼は3億円の資金を手にし、株で勝負に打って出る準備が整ったのである。

 ここからは日本セメント、同和鉱業、不二家など、世間でもお馴染みの仕手戦を繰り広げていくことになる。中でも最も有名なのは、彼を高額納税者番付の筆頭に押し上げた、住友金属鉱山への投資だろう。1981年、金属鉱業事業団は、鹿児島県菱刈金山に高品位の金鉱脈を発見したと発表した。当時、日本の金山の平均品位は1トンあたり4.9グラムであったが、この新たな鉱脈は同220.3グラムと桁外れの品位を誇っており、しかもそれが地下280mと極めて浅い場所にあった。この発表を目にした時のことを彼は「体中の血がわき上がり、頭はカーっと燃え上がった。久し振りに震えるような感動が全身を襲ってきた」と表現している。

 この発表を見るやいなや、彼は大阪から鹿児島へと飛んだ。早速現地調査に乗り出したのである。金属鉱業事業団が実施した2本のボーリング地点の間隔は700mで、二箇所の鉱脈が繋がっているかどうかはわからない。住友金属鉱山の専門家も、たまたま二箇所とも高品位の部分にあたっただけで、鉱脈全体としては採算に乗らない可能性が高いと否定的な意見を述べていた。だが、朝鮮で地質学を徹底的に学んだ彼には、確信があった。40年以上前に手がけた鉱山開発の経験が、この時になって生きたのである。

 この時見つかった鉱脈の母岩は、水成岩からなる四万十層と呼ばれるもので、その特徴は規則正しい堆積層を形成し、しかも連続していると言うものだった。これまで日本で見つかってきた金鉱脈の多くは、不規則で局部的な特徴を持つ火成岩からなる層がほとんどであり、今回の鉱脈が水成岩の層であるならば、その特徴から言って700m間隔の鉱脈は繋がっていると考えるべきだと彼は直感したのである。もしそれほど大規模な鉱脈に、これだけの高品位の金が眠っているとしたら、その価値は数兆円規模になる可能性があるということが彼にはわかっていた。

 そのインパクトを即座に理解した彼は、文字通り全てを注ぎ込んで住友金属鉱山の株を買って買って買いまくり、おまけに所有者が住友金属鉱山とは別だった隣の鉱区まで買った。これは後に、住友金属鉱山から買取の打診があった時に、自分は株で儲けるつもりだからそれでいい、として簿価で売却している。後日、住友金属鉱山が行った詳細なボーリング調査の結果を発表すると、200円台から買い付けが始まった株価は最高値で1200円台まで上昇した。この時の利食いが、高額納税者番付1位と言う結果を生んだのである。

 このように、是川銀蔵の投資は徹底した調査と分析に基づいて行われており、その他の銘柄も確たる見通しを立てての投資であったことが自伝では明かされている。その金額の大きさと派手さから仕手筋とも呼ばれたが、やっていたことはまさに正統派の投資なのだ。そして、その判断の礎となる知識や経験は、新たなことにチャレンジする度にゼロから習得し直している。およそ相場師のイメージからは180度かけ離れた、驚異的な勤勉さと向上心を持ったベンチャーの人だったのである。ちなみに、彼には慈善家としての顔もあり、晩年に設立した是川奨学財団は現在でもその活動を続けている。

 是川銀蔵が自ら語った実像は、驚きと発見の連続だった。その生涯には、人は相場とどう向き合うべきかと言うことについての多くの示唆が込められているように感じた。この本を読み終えた時、僕はこれまでの数々の誤解と自らの未熟さを恥じた。しかし同時に、日本の「最後の相場師」と呼ばれた人が、これほどの人物であったことに、少し勇気づけられた気がした。


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