特に思い出したい訳でもないのに、
何となくたまに思い出すのは、
辛島美登里の透き通った歌声。
もう、30年以上前のドラマの主題歌だった歌。
当時20代前後だった方で、彼女の声が耳に残っている方は、
多いのではないかと思います。
その歌は『サイレント・イブ』。
ドラマのタイトルは『クリスマス・イブ』でした。
バブル末期とはいえ、まだバブル真っ最中で
もう、ドラマの内容はよく覚えていないけれど、
バブルらしい光景と、
恋愛がドロドロと絡んだドラマだったような気がします。
でも、私が1番覚えている場面は、
とても美しかった女優の清水美沙が、
クリスマスに恋人と過ごそうと画策して失敗し、
ひとりぼっちにならない為に誰でもいいからその日に恋人のようになれる人を探して、
最終的に、
惨めになる場面でした。
そもそも、日本にクリスマスというものが無かったのは誰もが知っている通りで、
家庭でクリスマスを祝うようになったのは、
昭和30年代頃からではないかと思っています。
私が生まれたのは昭和40年で、
その頃には、
今と同じようなクリスマスが定着しつつありました。
そして、
ユーミンの『恋人がサンタクロース』が発表されたのは、昭和55年。
サンタクロースは恋人となってクリスマス商戦は継続。
辛島美登里の美しい歌声のドラマが放送されたのは、平成2年。
この辺り、バブル期に、
恋人と最高の日を過ごすという日本独自のクリスマスの価値が完成したのだと思っています。
私個人としても、
子供時代にサンタの夢が敗れてから、
ユーミンの歌に憧れ、
そして、大人になって、バブルが来て、
ドラマにもあるような、
「クリスマスは恋人とホテルを予約してディナー」
に憧れた訳です。
残念ながら、恋人はいても、
一度もそういう事はありませんでしたが、
クリスマスに賭ける思いは持っていたように思います。
それが、日本のクリスマスではないでしょうか。
「クリスマスに、恋人と2人で、プレゼントを持ってディナー」が、
幸せに思える、もしくは、
憧れとか、羨ましい位置にある。
あれから30年以上ですからね。
時代が変われば文化も変わって、今では、
「クリスマスとは、そもそも、キリスト教圏では家族と祝う日」
だという事も、周知されていると思います。
今の20代にとって、私は親世代。
あの、清水美沙の役の美人OLが、
何が何でも恋人か恋人もどきとクリスマス過ごそうとしたり、
そうでなくても、クリスマスじゃなくても、
とにかく、とりあえず、
20代なら恋人を作ろう…という流れが、
現代では変化して来たように思います。
恋人が欲しいのは事実でしょうが、
「とにかく、誰でも」ではなくなり、
ちゃんと選ぶようになって来たと思います。
各種ハラスメントに対する意識の向上によって、
色々と吟味するようにもなって来たんでしょう。
パワハラ、セクハラ、DVが認識されるようになっただけでなく、
マリハラ、マタハラもはっきりと認識されるようになりました。
恋愛講座と銘打ったナンパ講座が行き渡って、
見る目が必要になった事もあるかも知れません。
あの『クリスマス・イブ』は、
何だったのか。
お祭り騒ぎのバブルに乗りたかったのか、
お見合い文化から恋愛文化への移行期の未熟さだったのか、
椅子取りゲームのように恋愛をしていた気がします。
今は椅子取りゲームがなくなって、
安易な恋愛が減って来たように思いますが、
地に足を付けて物事を考えるのはとても良い事で、
クリスマスだからって、
いつものように過ごせる感覚は、
とても平和な感覚です。
今、心通う恋人が出来て、一緒にクリスマスを過ごすというのは、
素晴らしい事でしょう。
でも、そうではない事も、
素晴らしい事です。
それは、
「クリスマスはキリストだか誰かの誕生日を祝うんでしょう?」
という事とも、関係ありません。
そもそも、
自分は肉体ではなくて意識だという証明をしたイエス・キリストが、
自分の最後の肉体の誕生日を祝って欲しいはずがないと思いませんか?
肉体を超えた存在なのですから。
クリスマスにやりたい事は、
本来の自分に戻る事です。
「本来の自分って、何?」
それは、
古代アポロン神殿の入り口に刻まれていた、
γνῶθι σεαυτόν
汝自身を知れ
という事です。
これは、いわゆる「自分探し」とは違います。
自分探しって、
「自分はどんな人だろう」という事を集めてみますが、
それは個人の歴史の探索でしかなく、
見つけた感覚はなく、
断念してしまうのが殆どでしょう。
汝自身を知れ とは、
「自分はどういう人か」ではなく、
「自分はどこから来た何者なのか」です。
…そう!
それは、簡単ではありません。
でも、これこそが、
地球上で最も価値のある問いだと、
私は思っています。
その問いは、
自分や他人や周りに存在しているものを
「物質」という表面として捉えている所から、
本当に起きている事への、
本質へと意識を向ける鍵なのです。
そしてその道は、
一生かけての大仕事になるでしょう。
じゃあ、クリスマスという、
その中のたったの一日に、
大仕事の中のどれだけも進んでいない一日に、
もしくは、
その道を選んだけどどこまで進んだかわからない一日に、
何をしたらいいのでしょう。
それは、
自分の中の光を感じる事です。
物質世界にいる私達は、
光と言うと、
物質としての光を連想します。
まあ、それでもいいでしょう。
光をイメージするのもいいです。
でも、本当に感じて欲しいのは、
怖れのない自分です。
「怖れのない自分」と言うと、
怖れのない自分を作り出そうとして、
硬くなる人がいます。
そうではなくて、
何の心配もなくて、力が抜けた時の自分です。
心配事があるのにそれをなかった事には出来ませんが、
それをどうにかするのを完全に諦めた感覚…とも言えるかも知れません。
どこか、
自分の中の、
空っぽで、
平和な感覚ってないでしょうか。
子供の頃の方が、
そして、小さければ小さい方が、
より感じる事が多かったのではないかと思うので、
子供の頃の感覚を探すと、
感じやすいと思います。
すっかり安心の感覚。
その時私達は、
「愛」でしかありません。
それが、本来の自分です。
行く所もない、正すべき人や物もない、
安心の感覚、本来の自分を感じる事が、
クリスマスにして欲しい…すべき事です。
言い方を換えるなら、
意識的にも無意識にも、つい否定してしまう自分の中のロウソクに火をつける
と、表現したいと思います。
これが、
幸せな時は、
まあまあやりやすい。
「良かったね。これでいいよ。」
と自分に言ってあげられるから。
ところが、
人生が上手く行っていない時、
誰かに怒りがある時、
誰かに、怒りを通り越して憎しみを持っている時、
自分が不甲斐ない時、
ダメな自分を見た時、
希望が絶たれたと思った時、
汚い自分を見た時、
罪を犯した時、
誰かを傷つけた時、
不安に押しつぶされそうな時、
その他、苦しい気持ちを抱えている時は、
とても難しい事です。
それでも、
心の中のロウソクに火をつけて欲しい。
つけ方は、
自分を抑圧するのではなく、
自分を罰するのではなく、
受け容れる事によって、
です。
受け容れるとはどういうことかというと、
否定しないで、愛を持って見るという事です。
苦しい気持ちがあるのなら、
それをどうにかしようとせず、
つまり、
抑圧せず、否定せず、
「私は、この気持ちを体験する為に地球に来ました。」
と、言ってみてください。
その瞬間、
その体験を決めた、
自分のどこか深いところと繋がって、
その気持ちは大きく変わらなくとも、
少し楽になると思います。
そして、
今まで自分が何をしようと、
自分は生まれた時のまま、
純真無垢のまま、
無実のままだという事を受け容れ、
その、無実さを感じてみてください。
それが出来なければ、
「今はまだそうは思えないけれど、
自分は純真なままで無実らしい。
そして、そうなりたければ、
それを願いさえすれば、
いつからでも、
時間はかかるかも知れないけれど、
それがわかる所へと導かれる。」
と思ってみてください。
勿論、表面的な思い込みとか考えではなく、
実際に犯した罪を無実にする事は、
簡単ではありません。
罪は犯さない方がいい。
でも、
私達は、
ほんの一瞬でも誰かの気分をほんの少し害したと思うだけでも、
もの凄い罪の意識に囚われるし、
実際に大きな罪は犯さなくても、
頭の中では犯していたりします。
そういう意味では、
誰もが同じ罪人です。
そして、それを許さないのが、
他の誰でもない、自分自身です。
「お前は、あの時失敗した!」
「お前は、あそこでズルかった!」
「お前は、あの時思いやりがなかった!」
「お前には魅力がない!」
「お前には能力がない!」
「お前には愛がない!」
色んな事をでっちあげて、
自分を責めているのは、
自分です。
そして、その声は、なかなか止まない。
忘れた頃に、また蘇る。
まさに、これが本物の悪魔であり、
心理学ではシャドーといわれているものであり、
自分の声なんだから、
その悪魔に、力を与えるのも与えないのも自分です。
残念ながら、
人間として生きている間、
この声は無くなりませんが、
小さくすることは出来ます。
その声を、本気にしないだけで。
その声を本気にしないだけで、
その声の言うような、
恐ろしい未来はやって来ません。
本気にすると、
幻想の中に入り込んで正しい見方を失い、
そのうち、
実際にそのような未来を引き寄せる可能性もあります。
ぬいぐるみのような、かわいい悪魔を想像してみてください。
それは自分の思考の中の一部、自分の思考の声なのですが、
そのぬいぐるみが、
「お前は魅力がないから、誰にも相手にされない。」
と言ったとします。
その時に、
「あっ、悪い声に騙されないようにしよう。」とか、
「あっ、自己否定は真実ではないから、これは聞かない事にしよう。」
と思えば、
ぬいぐるみ大の悪魔は小指くらいの大きさになって、
「ねえ、ボクの話を聞けよ。お前は、ダメなんだって!」と暴れようと、
かわいくて笑ってしまいますよね。
馬鹿な事ばっかり言っている小さな悪魔(笑)
ところが、
「お前は魅力がないから、誰にも相手にされない。」
という声に同調して、その意見を採用し、
「ああ、本当にそうだ。どうしよう。私は一生独りぼっち。」
と思い始めると、
ぬいぐるみ大の悪魔はどんどん大きくなって、
自分より大きくなって部屋いっぱいにまで大きくなって、
「ナーバス」という名の心の中の大きなクレバスにハマり、
しばらくは出て来れないだけでなく、
事あるごとに、そこに落ちるでしょう。
私達は、
本当は、魅力のない人なんてどこにもいないって、
知っているでしょう?
自分に自信が無くなって、
面白くなくなっている人はいるかも知れない。
でも、どんな顔であれ性格であれ、
多分、
無人島で二人っきりで何十年も生きるとしたら、
その人の素晴らしいところに絶対触れる・・・
って、わかってますよね?
誰にだって、魅力はある。
その魅力を無かった事にして、
自己憐憫の中で遊んでいてもいいけど、
クリスマスの日だけは、
本当の自分に戻って、
自分の光を感じてみませんか?
生きている間、否定の思考は無くならないのだから、
否定を否定してはいけません。
否定の否定って、
否定の二乗のようなもので、
大きくなった悪魔を、更に別の悪魔が刺して、
自分の中が悪魔の対決場のようになって、
非常に苦しくなります。
否定をしっかり見て、
本気にしないでおく事が、
悪魔をちっちゃくして、笑って遊べるところです。
悪魔はいなくならないんだから、
上手に手懐けておくのです。
私達は、何も知らないと、
聖人というのは、
悪い考えが一個も浮かばない人の事だと考えてしまいがちです。
そして、悪い考えが一個でも浮かぶ自分を責めるか、
光ではないと判断して、
自分で自分を暗闇に閉じ込めて罰してしまいます。
言い方を換えると、
いい気分じゃない自分がいると、
自分にダメだというレッテルを貼って、
表面上は会話したりして普通に過ごしていても、
実際には引きこもって、
自分には何の力もないと思ったり、
他人に何か出来る自分じゃないと思ったり、
クレバスの中の妄想の世界の中に遊びに行ってしまいます。
でも本当は、
それは思考の中の遊びでしかなく、
どんな気分の時でも、
どんなに酷い気分でも、
自分は無実なんだというところに帰って、
自分は光なんだというところに戻れるのです。
自分だけは、
自分が酷い気分だと知っているかも知れない。
でも、
自分は光なんだという所に戻っている時、
自分の奥深くの、真の自己に繋がり、
自分にはわからなくても、
その光が、
誰かへの贈り物になります。
人は、愛が無ければ生きられないのではない。
愛が無い人というのは、存在しない。
私達は全員愛。
ただ、怖れに囚われている時、
その光の放射を、
自分が遮ったのです。
愛を貰ったと思っていたあの瞬間は、
自分が放射した愛を、
自分が感じたのです。
自分の怖れを自分が受け容れてあげる時、
自分の怖れを自分が自分の愛で包み込んだ事になります。
その時、
それは、愛でしかなくなるのです。
愛が光。
愛は放射。
それこそが、天使。
クリスマスには、
自分を天使として解き放ってあげて欲しいのです。
誰かといても。
ひとりでいても。
天使に肉体は必要ありません。
ひとりでいても、
誰か必要な人の所に、その愛の放射が届き、
その人の中の光に、その人が気付くかもしれません。
私達は全員、
そんな存在なのです。
光というのは、
物質界の光のイメージでもいいのですが、
光とは、愛と、叡智と、私達の真の自己、永遠の命を持つ意識、変わる事のない平和の感覚の事です。
従って「その人の中の光に、その人が気付く」とは、
その人が愛を感じるのかもしれないし、
大切な気付きを得るのかもしれないし、
何か、安心するのかも知れないし、
物質界にいるから物質として何かか起こるかも知れないし、
深い意識の中で、奇跡のような何かが起きるかも知れません。
今年は、本当のクリスマスを過ごし、
自分の天使を解き放ってみませんか?
ただ、自分が光だという事を感じればいい。
そしてそれは、
クリスマスの日に、
限らなくてもいい。
思い出した時、いつでも。
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