風と、空と、大地と。。。

ヒーラーとして日頃どのようにセッションを行っているか紹介していましたが、覚醒していく中で、日々起きる事が変わり、過去世、地球にどのように降りたのか、地球に来る前を思い出すなど、自分に起きていることを綴る日記になっています。

福井県福井市にてスピリチュアルカウンセラーと、
完全に悟る覚醒に向けてのワークショップと個人授業をしています。

人は、7歳までの世界を生きている

現在、セッションと講座の傍ら、


翻訳をしています。


その本を使って悟りの道の講座をしています。


1冊目は「ハートの道」という題名でしたが、


翻訳も講座も、2冊目の「変容の道」に入りました。


ブログ内容も、


セッションの様子や私が日々の中で思った事だったのが、


今世生まれる前の過去世や、


もっと前の地球に来る前の記憶を書いたものがあり、


健忘録としてもう少し書いておきたかったのですが、


なかなか忙しくてあまり書けないまま、


本当に悟る道筋を辿る為の本の翻訳をしていました。


本当に悟る道筋…


と言うのは、


今まで読んだどんな本とも違い、


高いお金を掛けて受けて来た講座とも違い、


曖昧でわからないまま終わらない、


本当に全てが説明され、


そこに至る方法の書かれている本…


世界では有名ではない「本」と出会い、


どうしても、その、原書の内容のまま、


読みたかったのです。





それを翻訳して自分が読んで勉強しながら、


同時にアウトプットして講座を行なっています。


その本は3部作とも5部作とも言われていますが、


3部作と捉えると1冊目の翻訳を終え、


2冊目に入りました。


何かが大きく変わろうとしているのを感じてはいましたが、


変容の道Lesson1は、


(この本は、1章、2章、つまり、Chapter 1、Chapter2という表現ではなく、Lesson1、Lesson2…となっています。)


ハートの道Lesson1に初めて入った時のように、


把握や理解が出来ている気が全くしませんでした。


全くしないまま3カ月が過ぎ、


テキストと関係があるのかさえわからない、


ツールがいくつかもたらされていました。


その中でも、私が「あの四角」と呼ぶものは、


自分達がまだ、どんな夢の中にいるかを、


解き明かす鍵であり、


道しるべのようなものでした。


「あの四角」とは、


ある意味、心理学的に自分の深いパターンを、


簡単に知る方法。


心理学でもよく言われているけれど、


私達の人間関係の作り方、人との関係の仕方は、


7歳までに決まると言われている。


7歳までの事を覚えていない人は多いが、


それまでに、私達が生きて行く上で重要な事が決まってしまう。


という事は、


今現在、自分が他人とどのように関わろうとするかは、


自分が生まれてから7歳までに、


何が起きて、自分がそれをどう捉えて、それに対してどのように対処することにしたか、


無意識に繰り返しながら私達は生きて来た事になる。


『三つ子の魂百まで』とはよく言ったものだが、


まさにその通りなのです。


そう思っていながら、


それを解き明かすツールを、


私は見た事がなかった。


心理学ではそう言われているという情報を私に与えた人や本も、


具体的にどうしたらそれが解き明かされるのか、


多分、知らないのだと思う。


問題から辿ってその一つを見てワークする方法は知っているかも知れないが、


全容が見えないから極めて曖昧だし、


ワークする段階では、


抵抗して自分で見る事が難しくなり、


この問題にしっかり取り組んでクリアにした人を、


私は知らない。


むしろ、問題があるとわかりながら、


取り組まない…


取り組めない人がほとんどだと思う。


人間は、無意識に自分の怖れを避けてしまうからだ。


人間は、自分が怖れていることを見たら、


それに圧倒されて、対処出来ないような感覚を持っていて、


そんなもの、見たくも無い。


言い換えると、


過去に酷く傷付いた自分の感情を再び感じる事は、


何としても避けたい為に、


真実に触れる事が出来ない。


だから、心理テスト的なものはあっても、


ズバリそれがわかるツールを見た事が無かった。


(どうしたら、それがわかるのだろうか?)


そう思った時、私にそのツールがやって来た。


私の内側から。


それが、四角い枠の中に、


7歳までの自分をイメージして、


家族についての図を描くという、


簡単な方法で見つける事が出来る事ものだった。


簡単でありながら、


それは時間をかけて少しずつ深まり、


情報量が多くて、


本当に、私達が知らず知らずに見ている幻想がはっきりわかるだけでなく、


悟りへの理解を時間をかけて深めることが出来るし、


悟りまで学ぶつもりがない人でも、


心理学的に、無意識の深いパターンを取り除いて、


「今、ここ」を生きる助けになる、


本当に良いものだとわかった。


あまりに良いので、メニューにしようか、


やり方を公開しようか、とも思ったが、


それはまるで、


パンドラの箱を開けてしまうような行為なので、


それなりに覚悟をしている人にしか、


お勧め出来ない。


それなりの覚悟とは、


自分のどんな側面を見ようとも、


それに向き合って、


真実へとたどり着く覚悟である。


覚悟なく、中途半端に行って、


辿り着かないのも勿体無い事である。


せっかくの良い道具も、


使いこなせる人、使いこなしたい人が持たなければ意味がない。


人は、他人のパターンを見通して、


判断するのは得意である。


それが、合っているかいないかに関わらず。


だが、自分のパターンを見る事からは、


無意識に、上手に、逃げたい。


見たくもない、知りたくもないからだ。


それは、痛いからである。


私の本心としては、全ての人に勧めたいものだが。


誰も痛い事を自分からしようなんていう人はいない。


「怪我をするのが趣味」なんて人はいない。


痛いから、怪我を避けるのが人間だ。


心の痛みも同じ事。


無意識に、避けてしまう。


7歳までの幼少期、


私達は、一人では生きてはいけない。


世話をしてくれる保護者が必要なのだ。


その事が、私達に大きな痛みを作っている。


どんなに幸せな幼少期を過ごしたとしても、


大きな痛みを作らなかった人はいない。


残念ながら。


母親のお腹の中にいた時さえ、


母親の血流が悪いなど、身体を作る上で不利な事があったり、


自分の存在が脅かされるような母親の心情や周囲との出来事から、


既に痛みを入れてしまっているし、


生まれ落ちる時も、


出産時のトラブルによる痛みから、


恐怖も感じるし、


それから、生まれてしまえば、


母親のお腹の中では羊水に包まれていたのが、


直接痛みと危険を感じるようになり、


辛い事ばかりが起き始める。


しかも、人間の肉体の成長は遅いから、


赤ちゃんという、全く何も自分では出来ない不自由な時代を、


何年も親に完全に依存して過ごさなければならない。


親も、赤ちゃんにつきっきりには出来ないし、


そばにいたところで、


全てを以心伝心で理解して、


赤ちゃんの思うようにしかしない…なんて事は、


全く有り得ない。


そこから、わかってもらえない痛みと、


いかにわかってもらおうとするかの努力が始まっている。


更に、歩けるようになっても、


幼稚園や学校に行けるようになっても、


降りかかる不安材料は沢山ある。


その中でも1番大きな問題は、


兄弟姉妹間での、親の愛情の取り合いだ。


赤ちゃんの時同様、


親が自分に注目し、自分を理解し、安全を確保してくれたら、


安心して生きて行ける。


だが、そんなに手厚く親が世話を出来もしないし、


兄弟姉妹という、ライバルがいて、


親の注目を取られてしまう。


小さな子供にとっては、


手をかけてくれるかくれないかが、


愛情を示してくれているかそうでないかになる。


兄弟姉妹に手をかけている間は、


自分に手をかけてもらえない。


それは、自分で何でも出来ない小さな子供にとっては、


死活問題なのだ。


つまり幼少期には、


親の愛情をいかに勝ち取るかという事をしているのだ。


そして、勝ち取れなかった部分に痛みを抱えてしまう。


そして大人になっても、


無意識に同じ事をしているに過ぎない。


幼少期に親の愛情をいかに勝ち取るかという観点から家族を見、


その見方と自分の性格から選択した、


その愛情を勝ち取る戦略を持っていて、


痛みや辛い事が無意識に追いやられた7歳以降、


何歳になっても、


その見方と戦略を使い続けているのだ。


イェシュアは私達の知覚は狂気の沙汰だと言っているが、


覚醒した見地からじゃなくても、


今現在、他人を見る時に、


自分の幼少期の親の愛情を得ようとしていた見地からしか見ていないなら、


本当に笑ってしまうくらい、


バカみたいな事をしている事がわかる。


他人から指摘されても抵抗してしまうが、


それを自分で見たら、


おかしな事をしていると、


間違いなくわかる。


エゴがどういうものか、


エゴが何を行うのか、


知らない人は自分のパターンを見る事は出来ないが、


これなら、一目でわかる。




英語でHow You Perseive Others と名付けたこれは、


私の講座内で行なっていますが、


お申し出があれば、セッションでも提供させていただきます。


心理学を学ばれた方、


カウンセラーやヒーラーとして活動中の方、 


覚醒に向けてワークしたい方、


その他、


自分が無意識にはまっている幻想を超えたい方にオススメします。


幻想と言っても、私は、生きる人間の幻想を抜ける勉強と講座を行なっていますが、


そこまで必要なくて、


生きる人間としてこの世界を生きて行こうとしている方にもオススメです。


何故なら、


今、自分が人を見極める時や、


今、他人にどう対処しようか決める時に、


7歳以下のパターンから見ていないとしたら、


その目は狂っていますよね?


それを超えたい方に、セッションとしてご提供します。


簡単な道具でありながら奥は深いので、


本当に深く知ってしっかり解消するには、


時間もかかります。


本当に習得したければ、


何度か通って頂く必要があると思います。


メニューには載せませんが、


裏メニューという事で、


ブログを読んだ方に対応させていただきます。


また、


初回、説明だけを聞いてやめられる方は、


無料にさせていただきます。


トラウマが現れる可能性があり、


それに対処出来るスキルをお持ちか、


そんな時に来ていただけるならば、


受けて頂けますが、


そうでない場合は、


おススメしませんし、


見た目、簡単過ぎて、


信頼してお受け頂けるかわかりません(笑)


「あの『四角』」ですから(笑)


ブログを読んで、価値があると思われた方に、


提供したいと思いますが、


不安な方はお問い合わせください。
















Good Bye My Love

ご無沙汰しています。

セッションもしていますし、

ヒーラー養成コース、ハートの道の講座も行っています。

ハートの道の講座も、

一期生はハートの道を終え、

二冊目の変容の道に進みました。

私は相変わらず、英語と格闘しております。


さて、久しぶりに書きたいことが出来たのは、

ふと出て来たYoutubeの曲が懐かしくて、

そのことについて書きたくなったからです。

私の年代なら知っている、

アン・ルイスのグッド・バイ・マイ・ラブ。



リアルタイムで聞いたかは覚えが無いので、

多分、恋愛も知らない子供の頃にリリースされた曲かもしれません。

いやいや、こんなに髪がさらさらで肩くらいまでしかない

アン・ルイスを見た記憶が無いので、

やっぱり子供だったのでしょうが、

題名と言い、

歌詞と言い、

別れの曲だというのはわかっていました。

この曲が私の思い出の曲になったのは、

そう、

精神世界に入るきっかけとなった恋人との別れの時、

どうしてもその人が好きで別れたくなくて、

そんな時に、

ハイヤーセルフに聞いた時の事でした。

ハイヤーセルフからは既にメッセージを直接もらっていましたが、

よく、スピリチュアルの入り口で聞くような、

『欲しい答えがある時はハイヤーセルフに質問すると、

開いた本や、つけたラジオやテレビ、

耳に入った誰かの話から答えか貰える』

というのを、実際に、

よくやっていたんです。

実は、別れた人が会ってくれたりして、

自分でもこれはどうなのか、わからなくなっていました。

いや多分、

自分の希望的観測から、

別れが受け入れられていなかったのかもしれません。

そんな時にハイヤーセルフに質問していて、

その日の、数時間後にテレビをつけた瞬間、

始まったのがこの曲でした。

昭和の曲をばっちり平成の時代にテレビでやるなんて。

(やられた~。こんなところで答えが・・・(泣))

というのが、率直な気持ちで、

胸が痛かったし、

別れという現実を突きつけられて、

もう、受け入れるしかない瞬間でした。

いや、別れたのは分かっていて、

まだ持っていた期待を諦めなくてはならない瞬間でした。

  グッド・バイ・マイ・ラブ
       この街かどで
       グッド・バイ・マイ・ラブ
        歩いてゆきましょう
  あなたは右に 私は左に
  振り向いたら負けよ

あの頃の私は、

まともに歌詞も聞けなかった。。。

それが今はじっくり聞けました。

しかも!!

今まで英語は単なる模様だったり、

意味不明な宇宙語くらいな感覚だったのが、

ちゃんと聞こえてきました。

ん、ん~??

こんな曲だったっけ?

二番を聴いていると、

     グッド・バイ・マイ・ラブ
       二人の恋が
       グッド・バイ・マイ・ラブ
       真実ならば
  いつかは会える これがほんとの
  さよならじゃないわ

し、知らなかった・・・

そういう歌だなんて。

がっつり別れの歌だと思っていたのです。

この曲、前奏から聞くと、

終わった感満載のスローテンポで、

グッド・バイ・マイ・ラブと何度も連呼して、

「さよなら。私の恋」

って感じです。

もう期待もしないし、

それどころか自分からお別れを決める歌ですよね。

それが、「お別れするけど、この恋が真実だったらまた会えるね。」

って言っていたとは。

実際に、私はこの後、

再び付き合うようになりました。

それは、

精神世界を旅して、

真実に触れたからなのだと思いますが、

それでも、

安定してパートナーがいると、

いつでも真実に触れているのが怖くなって、

つい、再びエゴに入り始めます。

(愛しているとわかってもらうためには、自由にしたらダメだろうなぁ。

あれをして見せて。これをして見せてなきゃ。)

(こうしてくれないと、私に気持ちが向いていないんじゃないの?)

などという考えがむくむくと起きてきます。

何故なら、

エゴとは、怖れを回避したいから、

安全を確保しようとするのです。

それは、愛ではないもの。

怖れです。

怖れがある時、

それは真実ではありません。

私達は、

0から7歳までに起きたことによって他人を知覚します。

0から7歳までにエゴから知覚したことに対して使った戦略を、

その後の人生の全ての人間関係に使っているのです。

自分は小さな子供で、

親の庇護が必要だった時と同じ、

怖れから物事に携わっています。

だから、怖れを感じた時、

(大抵の人はそれにさえ気づきませんが)

0から7歳までの出来事で感じた怖れを感じている、

と言えると思います。

そんな時、Iメッセージで自分の気持ちを伝えて、

真実を相手に確かめるのはアリです。

Iメッセージとは、英語の"I"の事で、

「私は」から始めて気持ちを伝える事です。

「あなたってねー。どうせ私の気持なんかわからない人よ!」

「私」で始めないと、こうなります。

でも、「私」で始めると、

「私は、こうされると悲しくなる人よ。」

となります。

人は、自分の痛みになんかこれっぽっちも触れたくないから、

その気持ちをかばう事が、相手を責めることをしてしまうんですね。

それでは、相手は嫌な気持ちになって、

喧嘩にしかなりません。

喧嘩ならマシですね。

自分の事をそんな風に見ていたのか、とばかりに、

幻滅してしまうかも知れません。

それより、自分がどんな人かを発表すれば、

冷静に会話が出来るんですね。

ACIMの中でもイェシュアが言っているように、

人間の知覚は間違えているから、

そっと確かめてみるIメッセージはアリですが、

それらは「愛」ではなくて「怖れ」です。

知覚が間違えているのがわかったら、

次の段階に進みたい。

それは、自分が愛になる事。

つまりそれは、

自分が、自分の怖れを超える事。

その感覚がまるで、

この歌なんです。

エゴは、

甘えたりねだったり、

本音でぶつかったり、

思いやっているつもりの行動を、

愛だと思っていますが、

それは、

愛を欲しがる事だったり、

愛だと思うことを表して自分の立ち位置を確実にする事だったり…

結局、

愛を求める事でしかありません。

愛を求める事は、愛ではなくて、

求めないと得られないと思う怖れです。

自分がやっている時には気付かないけど、

相手がやっているとわかります。

そして、嫌になる…。

いくら好きな人でも、ちょっと離れたくなる。

魂が喜ぶ事は、

人間が喜ぶ事とは違います。

人間は、

愛されていると思ったり、

認められていると思ったり、

安全な感じがしたり、

安全が保障されていると喜びます。

魂は違います。

神の叡智に触れる事が1番の喜びです。

     私はそんなに崇高じゃないわ(笑)

いいえ。

知覚が間違えているから、

わからないだけです。

それに、

神の叡智に触れる事は、

人間らしい生活を失う事ではありません。

異性と触れ合わなくなる事でもないし、

お金を得ない事でもない。

ただ、

怖れを超えて、

真実を見る事。

いつも人間は、

怖れを見る前に、

怖れを見ない為に、

怖れを避けてしまって、

怖れに入っている事にも気が付かない。



好きな人と、別れるのは怖い事。

それを何とか避けたい。

それは、

怖れに入っている場所であり、

愛を表現していない場所です。


本当に愛を表現したいなら、

愛でありたいなら、

怖れを受け入れて、

降参する事。

諦める事。

その、諦め感が、この歌とピッタリなんです。

エゴは、

愛を得たいから、

諦めなきゃいけない時、

ガッカリします。

でも、愛はエゴではないから、

エゴを超えたところにしか愛は無いから、

自分にはガッカリさせて降参したところから、

真実の愛へとたどり着き始めます。

期待しちゃダメよ。

それではまだ降参していないから、

再び、エゴから何かをする事になる。

真実である事、

怖れを超えて愛である事は、

いつでも、…エゴからはリスクにしか思えない事と、

隣り合わせでいる事。

自分の安全を確保しない場所にいる事。

私達人間は、知覚が間違えているのだから、

安全が無いと思われる場所に、

本当に安全がない訳ではないのです。




もう、10年以上前なんだけど、

この歌を聴いてガッカリしたのは(笑)

でも、再び巡って来た今、

まだ、諦め切れていないと、

教える為に巡って来たのね。

人間はあまりに深く怖れに入っているから、

そこから簡単には脱出出来ない。

少しずつ、だんだんと、

怖れから抜けて行くしかないし、

再び怖れに入らないように、

いや、今、普通にやっている事の、

何が怖れで何が怖れじゃないか、

よりわかるようになって、

より愛へとたどり着けるよう、

より、自分が愛を表現出来るよう、

進めて行くしかない。

愛という言葉を

誰もがわかりながら、

その言葉に、

愛じゃないものを当てて来た。

その、愛じゃない愛に、

グッド・バイ・マイ・ラブ。

愛は、何かをしなきゃならない事でも、

何かを守る事でもない。

この歌みたいに、

何だか緩んだ感じの、

自分が愛されているかどうか、

自分が認められているかどうか、

自分の安全を見付けてくれているかどうかを気にする事をやめて、

それらを超えた向こう側で、

静かに、

脈々と流れていて、

エゴには素晴らしそうには見えないが、

感じてみたらわかる。

獲得したかった愛とは格段に違った、

本当の満足が、

そこにはある。







今夜、若さの証を

ワークショップを始めて3年目になりました。

メンバーも徐々に増えて来たので、

また、感想などもホームページの方へと

アップしていきたいと思います。

スピリチュアル・カウンセリングの個人セッションの傍ら、

翻訳とワークショップを行っています。

ヒーラー養成コースも、

生徒さんが途切れることなくやっていますが、

全て、本当の、真実に沿っての、

活動がしたいと思っています。

本当の真実とは、私達の実在における真実です。

それは、人間としての真実ではありません。

私達は人間の在り方には長けていますが、

実在の在り方は忘れてしまっています。

であっても、実在であることに変わりはありませんが、

人間として生きながらにして実在としての在り方になるのが、

覚醒した状態、いわゆる悟りを開いた状態です。

私自身がそこへと変化をしながら、

ワークショップで教えています。

思えば、

ただ、完全に悟りを開いた存在に会いたいという希望から、

バリ島に渡って、

成り行きでイニシェーションを受け、

そこから私の人生は変わりました。

その後、最初の一年は、

2000年前にイスラエルで、

主にクムランでの出来事を思い出すことが起き、

その後、地球に生まれる前の、

宇宙の旅と、地球にどうやって生まれる事になったかを思い出し、

次の一年は、

今世の一つ前の前世である、

福井県小浜市に生まれていた転生を思い出すことが起き、

次の一年は、

日本で長々と生まれ変わって来た、

日本の転生…

…神社に関わるような転生ばかり…

を思い出し、

本当に沢山の事を思い出しました。

そして更に、最近は、

この次元の宇宙の、もう一つ上(?)の次元?私達の実在?を

思い出しています。

ハテナ?が付いているのは、

そこが最終地点なのか、

この先、更にまだ深みがあってそこに辿り着くのかわからないので、

言い切れないからです。

次元は、まるで入れ子のようになっていて、

どうも、私達が地球上で想像しているものとは、

違うよう。

縦×横×高さが三次元だなんて、

どうしてそれをベースに私達の存在次元を考えてしまったのか、

物理世界と次元の混同をしてしまったのか、

だから、真実の世界がわからなくなっていたのだと、

最近は思っています。

イェシュアはいつも、

次元の上の次元上の次元…

(上はupではなくて、on)

という表現しかしません。

「平面」という表現もしますが、

縦横高さを三次元とは言っていません。

数学と、物理世界と、混同してしまっていたのか。

私達、全ての存在は、

勿論、実在なので、

その実在がどのようなものかを知っています。

知っていながら、

わからなくなっているので、

こうして地球で何度も転生しているのです。

どうしてわからないのか。

それは、

思考による、実在とは逆の選択を繰り返してきたからです。

私達には創造する力があるので、

それによって、

そういう現実を創り出せるのです。

スピリットでありながら、

自分を肉体だと思っている。

そして、人の死を見る度に、

自分もいずれこうなると自分に思い込ませて、

あんな風に、

何も聞こえなくなり、

何も見えなくなり、

何も感じなくなり、

存在自体が消えるかもしれないから、

少しでも生き長らえようと、

存在が消えたら怖いから、

生き長らえようと、

実はそればかり考えているのが、

人間なのです。

本当ではない思考回路のもつれたかたまりと、

アイデンティティが肉体なのが、

人間。

だから、実は、

人間が考える事は、

真実でもないし、

むしろ逆でしかない。

そして、それに気付かないで、

自分自分は正しいと思っているのが人間なのです。

だから、そこから抜ける方法は、

次元を超えた存在に聞かないといけない。

それが、Way of Mastery。

イェシュアがチャネリングした本は、

もう、半世紀以上前にチェネリングされた『A Cource In Miracles』

が、その内容の素晴らしさを実証していると思います。

これは、「奇跡のコース」もしくは「奇跡講座」として

邦訳が出版されています。

Way of Masteryは、その続きとでも言おうか、

その、覚醒版とでも言おうか、

『A Cource In Miracles』と違うのは、

それをチェネリングした意図と、

私は、チャネリングの精度の高さだと思います。

人間の思考が入らないものの方が、

より精度が高いと言えます。

『A Cource In Miracles』は、

2人の人が仲良くしたいのに出来ない事を憂い、

その方法を訊いたもの。

イェシュアに訊いたのだから、

その答えは真実に基づくものですが、

Way of Masteryは最初から覚醒する道を教えているものなので、

覚醒したい、本当の真実にたどり着きたい場合は、

こちらです。

これを勉強しながら、翻訳しながら、

ワークショップで教えているので、

今年は、ワークショップの募集は、

ホームページに書いただけで、

呼び掛けませんでした。

翻訳する時間が欲しいので、

積極的に呼び掛けていません。

今年で翻訳が一段落するので、

来年からはもう少し呼び掛ける予定です。

また、

今年から(正確には去年の秋からですが)

私の資料を使って、

金沢のAngel Heart AquaさんでもWOMの講座を始めます。

その講座で、

私の資料を買って使って頂く事になるので、

その資料代金を頂くことになりました。

それに伴って、

福井の方でも、資料代金を頂く事になり、

来年からは、代金を値上げする事となりますので、

ご了承ください。

少しでも安い方がいい方は、

今年のうちにお受けください。

個人講座の方は、

いつでもお申込みいただけます。






さて、

2月に福井県は久しぶりの大雪に見舞われました。

その他の地方でも、

大雪、震災等ありましたが、

心が痛んだり、

ボランティアや募金をしても、

自分に関わらないと、

臨場感が無く、他人事でしかない。

でもそれが、ほんの少しでも自分に関わると、

死の怖れを感じるのだと知りました。

大雪の予報があって、食料も買い込んでいたのに、

今年はまず、肩を痛めていて自分の体力に自信が無かった事と、

いつものように除雪が入らなかった事で、

56豪雪ほど雪が降っていないにもかかわらず、

怖れを感じました。

1週間分の食料は買い込んであったし、

お米も沢山あったのに。

でも、1週間を過ぎても除雪が満足に入らず、

被災した気分だった。

老夫婦となった両親の家の周辺にも除雪が入っていなかった為、

電車もバスも車も通らないから、

歩いて食べ物をどうやって運ぶかを考えていた。

毎日の除雪も、無理をしたら肩の筋肉が断絶するかも知れない恐怖と痛み。

日に日に、野菜と肩の湿布が無くなり、

恐怖が煽られたが、

赦しを行いながら、毎日を過ごした。

とりあえず、除雪も入って道が見えて、

決死の両親救出の必要もなくなった時、

今度は、娘の手術の為に県外へ。

予定していた歯科手術だったが、

全身麻酔で行う手術だったので、

本人も私も、一応の覚悟をして挑まなければならなかったし、

手術が出来るならば命は救われるように思っていたけど、

どんな手術であれ、

身体を切って何かするという事は、

身体にリスクがあると認識して、

また、怖れを感じました。

この冬、大切な友の伴侶の死にも直面し、

物理的に肉体にかかる恐怖というものを体験しました。

私が扱って来た怖れは、こういうものではなくて、

ある状況によって起こる、気持ちの中での怖れだった。

誰かや何かに怒りを向ける時、

本人は気付いていなくても、

その人は怖れの中にいる。

しかし、その怖れは実は、

肉体の死に直結している。

肉体の死に怖れを感じる事が無ければ、

その怖れは無いのだ。

ならば、その怒りもない。

悟りの一つの側面は、

怖れを超える事。

そしてその全ては、

自分は肉体だと認知しているとこから来る。

とはいえ、

長い間そう思って来たのを、

「はい。そうですか。」と変えられるものではない。

精神世界を知るものなら、

幽霊がいると信じるなら、

神が居ると信じるなら、

自分は肉体ではないと考えているはずだが、

いくらそう考えても、

無意識の自分のアイデンティティが肉体だと、

知っているだろうか?

これは、人間として生まれたら仕方のない事で、

このアイデンティティがなく、

人間として生きている者はいない。

ある側面から言うと、

覚醒するとは、悟りとは、

そのアイデンティティが肉体ではなくなることである。

それは、

すっかり無意識でそう思い込んだところからは変える事は出来ないが、

それを選んだ深みで変えることが出来る。

その深みへと、

無意識を意識に上がらせ、

その深みへと一歩ずつ進むのが、

Way of Masteryだと言える。

その深みに行かなければ、

どれだけ学んでも、

人間のアイデンティティの上に築き上げた知識にしか過ぎない。

『悟った人は、過去世を思い出す』と言われるから、

どこかの前世を思い出したりすると覚醒してきたように思えるかもしれないが、

それは、神秘的な考えを受け入れる一歩にはなったとしても、

覚醒という観点からは、

何も変わってはいない。

前世を知らないよりは、

変わる「可能性」を秘めているとは言える。

覚醒とは、

この世に生きながらにして、

実在の在り方へと変わる事である。

自分の肉体の死が起きる時に、

それは肉体を脱ぎ捨てるだけで、

真の自分の姿へと…意識へと還る為に、

ひとつのドアを潜り抜けるだけだと、

納得して超えて行けるだろうか?

ただ、習った言葉を覚えているだけのものとしてでなく。

強がりや諦めではなく。



ワークショップ1期は今、

Lesson8まで進んでいます。

単なる知識ではなく、

本当に理解する為に運ばれ、

実践する事によって変化して、

その変化によって更なる理解へと繋がるこの道。

だから、Lesson8の内容を先取りしても、

その深みはわからないし、

その真実には至れないから、

詳しい説明はしないが、

今現在どのように変化しているかを

書きたいと思う。

通常、本は、1章、2章…と進んでいくが、

(英語ではchapter1,2...)

この本は、Lesson1、2…という形になっていて、

それは、1章ずつが、実践すべき敷石のようなもので、

敷石を飛ばすと、

周りの景色がちゃんと見えない。

だが、実際にその敷石を歩きさえすれば、

自分の在り方が徐々に変わるという、

こんな深遠な本に、

私は出会ったことが無い。

例え実際に、映画『ネバーエンディング・ストーリー』のような本があったとしても、

この本にはかなわない。

Lesson8は、1冊目の…山に例えると6合目を過ぎたあたり。

学ばなければ、怖れだとさえ認識しなかった怖れを認識できるようになり、

その一つを解除出来る毎に、

実感するものが変化している事に気付き始めました。

私達は全てが実在なのだから、

元々すべての存在がわかっている存在とは言え、

それをすっかり忘れているのだから、

学ぶ必要があり、

実在の意識からは「良い悪いは無い」とはいえ、

学ぶ段階では、進む方向を「良い」今までいた場所を「悪い」と認識してしまう人間の意識があるとはいえ、

その、自分の人間として無意識に生きて来た在り方を、

愛おしい目で見て抱き始めた…

…ので、

「地球って、失望しかしない星だったんだ。こんな星もう嫌だ。早く帰りたい。」

と思っていたのが、

「ここから去りたい気持ちは変わらないけど、あの失望も、この失望も、愛おしかった。」

と思うようになってきました。

これは、

変化していない意識が、

「悔いはない。」と言うのとは、ちょっと違います。

私はエディット・ピアフのNo regretという歌が好きですが、

それは、人間になっても、

「どこかで分かっている質」に繋がった、「やり切った感」とでも言いましょうか。

Lesson8でまで来て感じているのは、

人間ではありながら、

実存として人間になる前に選択した質からの、愛おしさです。

この二つの質の違いは、

体験しようとして出来るものではありません。

この道を歩いて、

知覚が変わり始めて、感じる事です。

イェシュアは、人間は知覚が間違っているということを教えています。

6合目を過ぎて、

その知覚とは何のことで何が違っているのか、

それが正しくなったらどうなのかを感じ始めたという事です。



ここに来るまで私は冒頭でも書いた通り、

過去世も沢山思い出しました。

中には、殺された転生もあって、

殺された瞬間も思い出しました。

そんなに痛くなかったし、

今思っているほど大変でもなかった。

不思議な夢や予知夢を見たり、

ハイヤーセルフやイェシュアの声を(実際に)聴いたり、

死んだ方の意識に繋がってセッションで答えていたし、

宇宙船で旅していた事や、それにまつわる沢山の事も思い出したし、

何より、スピリチュアルをする前から

元々、

生まれる前に母の所に来たりしていた事を覚えていたにもかかわらず、

人間としての「死の恐怖」を越えていませんでした。

わかるという事と、実際の在り方、実際に怖れを感じるということは、

違うのです。

今までの数々の死と違って、

今世、死ぬ時には超えるのでしょうが、

それでも実際に超えるのは多分、

肉体が実際に死を迎える時でしょう。

けれども、そこに向けて、

変化しています。



私は、実は、20代の頃は、

死も、老いも、考えませんでした。

都会に住んでいて、

沢山の人の中で、

若い自分が誇らしかった。

おじさんおばさんを見ると、

「若くて羨ましいでしょう。」

という感じだった。

まだ、何も怖くないと思っていた。

死なんて、老いなんて、ずっと先の話だと。

少し前に、

どうしても聞きたい曲が出て来て、

Youtubeで探してみました。

若い頃にやっていたドラマの主題歌で、

かなり独特の内容のドラマと、

パワーのある歌でした。

Youtubeで見つけたので聴いてみると、

英語の部分がやけに耳に残り、

でも、真似したくても出来ず…

歌詞を探してみて、

それは原曲が英語だったことに気付きました。

そしてその原曲は、日本のドラマとは全く関係が無い、

映画『Street of Fire』の曲だったことも思い出しました。



訳してみたので、邦訳をつけます。

ネットで色々見てみると和訳を付けている方がいらっしゃいますが、

それぞれ違った訳になっていました。

それらともまた、一味違った私の訳をお楽しみください。


Tonight Is What It Means To Be Young 
Fire Inc. & the Soreles

天使が海辺にいるのを夢見ているの
大きい波が来ると
金色のリボンでまとめた髪が大きくたなびき
触れられたら気絶しそうなパワーが彼にはあるわ

天使が森の中にいるのを夢見ているの
湖のほとりで心を奪われるの
彼の身体は生きている宝石が流れているみたいで
その素晴らしさに足元の大地も揺れ始めるくらいよ

でもこの街で天使を見る事は無い
聖歌隊の歌も聞えない
天使を捕まえることは出来なくても
男の人を捕まえることは出来るわ
男の人は次に最高な事だわ
天使の次に最高な事
男の人は次に最高な事

お城にいる男の人を夢見ているの
彼はまるでジャズが好きでたまらない奴みたいに階段で踊ってる
彼の眼には王子の情熱の炎が宿り
彼の耳には雷のようなドラムの音が鳴り響く

星にいる男の人を夢見ているの
世界の果てを見下ろしながら
一人ぼっちで私のように誰かの夢を見ている
私は天使じゃないけど女ではあるわ

私は暗闇が終わる時を夢見てる
私達は陽の光の中に在るのよ
それは単なる夢だけど、今夜は本物よ
あなたはその意味を決して知る事は無いけど
どうやって感じるかはわかってる
それは終わってしまう
始まったことをあなたが知る前に
(始まったことをあなたが知る前に)

それが、私達が今夜本当に得るものの全てよ
気持ちを留めて泣いていないで
それが過ぎ去ってしまったことを知る前に
今夜、若さの証を
今夜、若さの証を

お祭り騒ぎを始めよう
情熱に火を付けて
休まないで傷心のダンスを踊りましょう

お祭り騒ぎを始めよう
情熱に火を付けて
死に物狂いで傷心のダンスを踊りましょう

お祭り騒ぎを始めよう
今夜、若さの証を
情熱に火を付けて
それが過ぎ去ってしまったことを知る前に
休まないで傷心のダンスを踊りましょう
お祭り騒ぎを始めよう
情熱に火を付けて
死に物狂いで傷心のダンスを踊りましょう

闇の中で魔法が起きるよう祈りを捧げよう
それがどんな風に見えても問題じゃないわ
今夜、若さの証を
それが過ぎ去ってしまったことを知る前に
今夜、若さの証を
それが過ぎ去ってしまったことを知る前に
Ah...

私は暗闇が終わる時を夢見てる
私達は陽の光の中に在るのよ
それは単なる夢だけど、今夜は本物よ
あなたはその意味を決して知る事は無い
でも、それをどうやって感じるかはわかってる
それは終わってしまう
始まったことをあなたが知る前に

それが、私達が今夜本当に得るものの全てよ
気持ちを留めて泣いていないで
それが過ぎ去ってしまったことを知る前に
今夜、若さの証を
今夜、若さの証を

人が何て言おうと
誰がどうしようと
これが真実なら、止めるものは何も無い・・・

人が何て言おうと
誰がどうしようと
これが真実なら、止めるものは何も無い・・・

人が何て言おうと
誰がどうしようと
これが真実なら、止めるものは何も無い・・・






「今夜はエンジェル」というのが、

日本語を付けてドラマの主題歌にした曲ですが、

イメージがちょっと違うと思います。

なんだかすごくパワーを感じて聞きたくなったのですが、

それもそのはず。

今夜、若さの証の為に踊ってるんですから。

この曲自体の邦題は「今夜は青春」ですね。

当時の日本人向けに付けた題名だと思います。

夕日に向かって走って行く、

青春ドラマで育った世代ですし、

簡潔でわかりやすいです。

Tonight is what it means to be youngの

what it means to beで「~であることの証」というのが辞書に載っていました。

「今夜は、若くあることを意味するものだ。」では、

日本語として意味わかりません。

この女性、天使と恋に堕ちたかったようですね。

日本とは、天使の捉え方が違うので、

「今夜はエンジェル」のような歌詞に替えたのでしょうが、

実際には、

天使と恋をしたかったけど、天使がいないから男でいいわって言ってますね(笑)

男は天使の代用で、2番目だそう(笑)

でも、歌の中では、その、男性もまだ夢見ていて、

手に入っていない模様。

日本人の天使に対する思いと、

生まれるから教会に触れていたアメリカ人では、

感覚が違うんでしょうね。

天使が本当にいると思って、会いたいと思って、

現実の街にはいないと気付いてガッカリしたかも知れないけど、

そのガッカリ感も日本人には想像出来ないかも知れません。

心の中で感じた深淵さに比べたら、

人間は2番目だというのは、

素晴らしいかも。

日本で言えば、ユーミンの「優しさに包まれたなら」の、

小さい頃は神様がいて…

それが今はいなくなっちゃったみたいな感覚に似ているかな?

この曲がリリースされた1984年は私は19歳。

今の私の娘くらいの年齢でした。

丁度、こんな感じでしょうか。

理想と現実は違っても、

そこで止まっているうちに、

若さは過ぎ去ってしまうから、

過ぎ去ってしまう前に、

それを感じようとしている…。

生きている意味も、年老いる意味も、

若いという意味もわからないけど、

感じる事は出来るから、

お祭り騒ぎをして感じましょうって。

赤いドレスを着たボーカルのエレン役の方、

実際には歌っていません。

歌も、3人くらいの方のミックスだそうで、

どうりで上手いしカッコいいし…口パクだからか…

なんだか最近のリアルな3Dゲームの主人公的な動きで…

ドレスの色は派手で美しい赤だけど、

形はかっちりしているのを、

これ、背中のファスナー全開にして着崩しているのかと思ったけど…

背中が開いてるデザインですか?

外国のドレスっぽくて、

カッコいいですね~

ライブの一曲目にやったら、

一気に盛り上がる曲ですね〜



日本は、この辺りからバブルへと突入して、

ディスコがとても流行った時代です。

私はまだ精神世界に目覚めていない普通の女性として生きていたけど、

そして、同じように、若さはいつまでもあるものではないと思っていたけど、

ここまで謳歌できただろうか?

バブルの時代に生きながら、

髪はストレートで長かったけど、ワンレンじゃなかったし、

ボディコンの服を会社のパーティー用に買ったけど、

恥ずかしくて殆んど着なかったし、

女性としての美しさも、

肉体の短い命も、

謳歌する前に、

怖れの思考に囚われて自分を箱に入れ、

面白くもない、安全な毎日を選んだのかもしれない。

この頃流行った、

サザンオールスターズのミス・ブランニューデイという曲の中で、

女性の事を、「みな同じそぶり」「誰かと似た身なり」と歌って憂いているけど、

ワンレン・ボディコンでディスコに行っていた人達は、

それでも謳歌したのかも知れない。

いや、映画は私達の希望の象徴みたいなもので、

実際には、みんなが謳歌したくて出来ない…くすぶったものを抱えて生きて来て…

本当に死に向き合った時、

それを超えようとした時、

初めて、怖れを超えた本当の謳歌があるんじゃないだろうか。

人は「生きる為」なら、こんなにパワーが出るんだなと思った。

真実にたどり着くと、

人間である事の全てを抱く地点にたどり着く。

精神世界一筋にやって来たら一周して、

この世界で、今度こそ、本当に生きる事を始める。

死を超えたいと一心に思ってそこに向かえば、

この世界で、今度こそ、本当に生きる事が始まる。

私は、こんなパワーを、

生きている事の謳歌と共に、

ただ一つの、

真の真実を生きる事に使いたい。

それは、

今はまだ超えていないかもしれないが、

身体が自分では決して無い、

怖れを越えた在り方でパワフルに生きる事。

死など無い、真実の意識で、

死の扉を通り抜ける事。

日々の暮らしの中の、

とても大きく思える、

小さな怖れの輪っかを潜り抜ける事。




ということで、

そこに至る読み物の翻訳作業を今年も進めてまいります。

次のブログ更新まで、

ご機嫌よう。








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