風と、空と、大地と。。。

2008年から福井県福井市でヒーラーをしていて、生涯この仕事をしていこうと思っています。 当初はセッションの様子などを綴っていたのですが、覚醒の道を進むにつれて自分に起きた不思議な事や、 講座について、その他徒然に思った事を綴っています。。

福井県福井市にてスピリチュアルカウンセラーと、
完全に悟る覚醒に向けてのワークショップと個人講座ををしています。

Merry Xmas クリスマスに寄せて

クリスマスというと、

特に思い出したい訳でもないのに、

何となくたまに思い出すのは、

辛島美登里の透き通った歌声。

もう、30年以上前のドラマの主題歌だった歌。

当時20代前後だった方で、彼女の声が耳に残っている方は、

多いのではないかと思います。

その歌は『サイレント・イブ』。

ドラマのタイトルは『クリスマス・イブ』でした。

バブル末期とはいえ、まだバブル真っ最中で

もう、ドラマの内容はよく覚えていないけれど、

バブルらしい光景と、

恋愛がドロドロと絡んだドラマだったような気がします。

でも、私が1番覚えている場面は、

とても美しかった女優の清水美沙が、

クリスマスに恋人と過ごそうと画策して失敗し、

ひとりぼっちにならない為に誰でもいいからその日に恋人のようになれる人を探して、

最終的に、

惨めになる場面でした。

そもそも、日本にクリスマスというものが無かったのは誰もが知っている通りで、

家庭でクリスマスを祝うようになったのは、

昭和30年代頃からではないかと思っています。

私が生まれたのは昭和40年で、

その頃には、

今と同じようなクリスマスが定着しつつありました。

そして、

ユーミンの『恋人がサンタクロース』が発表されたのは、昭和55年。

サンタクロースは恋人となってクリスマス商戦は継続。

辛島美登里の美しい歌声のドラマが放送されたのは、平成2年。

この辺り、バブル期に、

恋人と最高の日を過ごすという日本独自のクリスマスの価値が完成したのだと思っています。

私個人としても、

子供時代にサンタの夢が敗れてから、

ユーミンの歌に憧れ、

そして、大人になって、バブルが来て、

ドラマにもあるような、

「クリスマスは恋人とホテルを予約してディナー」

に憧れた訳です。

残念ながら、恋人はいても、

一度もそういう事はありませんでしたが、

クリスマスに賭ける思いは持っていたように思います。

それが、日本のクリスマスではないでしょうか。

「クリスマスに、恋人と2人で、プレゼントを持ってディナー」が、

幸せに思える、もしくは、

憧れとか、羨ましい位置にある。



あれから30年以上ですからね。

時代が変われば文化も変わって、今では、

「クリスマスとは、そもそも、キリスト教圏では家族と祝う日」

だという事も、周知されていると思います。

今の20代にとって、私は親世代。

あの、清水美沙の役の美人OLが、

何が何でも恋人か恋人もどきとクリスマス過ごそうとしたり、

そうでなくても、クリスマスじゃなくても、

とにかく、とりあえず、

20代なら恋人を作ろう…という流れが、

現代では変化して来たように思います。

恋人が欲しいのは事実でしょうが、

「とにかく、誰でも」ではなくなり、

ちゃんと選ぶようになって来たと思います。

各種ハラスメントに対する意識の向上によって、

色々と吟味するようにもなって来たんでしょう。

パワハラ、セクハラ、DVが認識されるようになっただけでなく、

マリハラ、マタハラもはっきりと認識されるようになりました。

恋愛講座と銘打ったナンパ講座が行き渡って、

見る目が必要になった事もあるかも知れません。

あの『クリスマス・イブ』は、

何だったのか。

お祭り騒ぎのバブルに乗りたかったのか、

お見合い文化から恋愛文化への移行期の未熟さだったのか、

椅子取りゲームのように恋愛をしていた気がします。

今は椅子取りゲームがなくなって、

安易な恋愛が減って来たように思いますが、

地に足を付けて物事を考えるのはとても良い事で、

クリスマスだからって、

いつものように過ごせる感覚は、

とても平和な感覚です。

今、心通う恋人が出来て、一緒にクリスマスを過ごすというのは、

素晴らしい事でしょう。

でも、そうではない事も、

素晴らしい事です。

それは、

「クリスマスはキリストだか誰かの誕生日を祝うんでしょう?」

という事とも、関係ありません。

そもそも、

自分は肉体ではなくて意識だという証明をしたイエス・キリストが、

自分の最後の肉体の誕生日を祝って欲しいはずがないと思いませんか?

肉体を超えた存在なのですから。



クリスマスにやりたい事は、

本来の自分に戻る事です。

「本来の自分って、何?」

それは、

古代アポロン神殿の入り口に刻まれていた、

γνῶθι σεαυτόν

汝自身を知れ


という事です。

これは、いわゆる「自分探し」とは違います。

自分探しって、

「自分はどんな人だろう」という事を集めてみますが、

それは個人の歴史の探索でしかなく、

見つけた感覚はなく、

断念してしまうのが殆どでしょう。

汝自身を知れ とは、

「自分はどういう人か」ではなく、

「自分はどこから来た何者なのか」です。

…そう!

それは、簡単ではありません。

でも、これこそが、

地球上で最も価値のある問いだと、

私は思っています。

その問いは、

自分や他人や周りに存在しているものを

「物質」という表面として捉えている所から、

本当に起きている事への、

本質へと意識を向ける鍵なのです。

そしてその道は、

一生かけての大仕事になるでしょう。

じゃあ、クリスマスという、

その中のたったの一日に、

大仕事の中のどれだけも進んでいない一日に、

もしくは、

その道を選んだけどどこまで進んだかわからない一日に、

何をしたらいいのでしょう。

それは、

自分の中の光を感じる事です。

物質世界にいる私達は、

光と言うと、

物質としての光を連想します。

まあ、それでもいいでしょう。

光をイメージするのもいいです。

でも、本当に感じて欲しいのは、

怖れのない自分です。 

「怖れのない自分」と言うと、

怖れのない自分を作り出そうとして、

硬くなる人がいます。

そうではなくて、

何の心配もなくて、力が抜けた時の自分です。

心配事があるのにそれをなかった事には出来ませんが、

それをどうにかするのを完全に諦めた感覚…とも言えるかも知れません。

どこか、

自分の中の、

空っぽで、

平和な感覚ってないでしょうか。

子供の頃の方が、

そして、小さければ小さい方が、

より感じる事が多かったのではないかと思うので、

子供の頃の感覚を探すと、

感じやすいと思います。

すっかり安心の感覚。

その時私達は、

「愛」でしかありません。

それが、本来の自分です。

行く所もない、正すべき人や物もない、

安心の感覚、本来の自分を感じる事が、

クリスマスにして欲しい…すべき事です。

言い方を換えるなら、

意識的にも無意識にも、つい否定してしまう自分の中のロウソクに火をつける

と、表現したいと思います。

これが、

幸せな時は、

まあまあやりやすい。

「良かったね。これでいいよ。」

と自分に言ってあげられるから。

ところが、

人生が上手く行っていない時、

誰かに怒りがある時、

誰かに、怒りを通り越して憎しみを持っている時、

自分が不甲斐ない時、

ダメな自分を見た時、

希望が絶たれたと思った時、

汚い自分を見た時、

罪を犯した時、

誰かを傷つけた時、

不安に押しつぶされそうな時、

その他、苦しい気持ちを抱えている時は、

とても難しい事です。

それでも、

心の中のロウソクに火をつけて欲しい。

つけ方は、

自分を抑圧するのではなく、

自分を罰するのではなく、

受け容れる事によって、

です。

受け容れるとはどういうことかというと、

否定しないで、愛を持って見るという事です。

苦しい気持ちがあるのなら、

それをどうにかしようとせず、

つまり、

抑圧せず、否定せず、

「私は、この気持ちを体験する為に地球に来ました。」

と、言ってみてください。

その瞬間、

その体験を決めた、

自分のどこか深いところと繋がって、

その気持ちは大きく変わらなくとも、

少し楽になると思います。

そして、

今まで自分が何をしようと、

自分は生まれた時のまま、

純真無垢のまま、

無実のままだという事を受け容れ、

その、無実さを感じてみてください。

それが出来なければ、

「今はまだそうは思えないけれど、

自分は純真なままで無実らしい。

そして、そうなりたければ、

それを願いさえすれば、

いつからでも、

時間はかかるかも知れないけれど、

それがわかる所へと導かれる。」

と思ってみてください。

勿論、表面的な思い込みとか考えではなく、

実際に犯した罪を無実にする事は、

簡単ではありません。

罪は犯さない方がいい。

でも、

私達は、

ほんの一瞬でも誰かの気分をほんの少し害したと思うだけでも、

もの凄い罪の意識に囚われるし、

実際に大きな罪は犯さなくても、

頭の中では犯していたりします。

そういう意味では、

誰もが同じ罪人です。

そして、それを許さないのが、

他の誰でもない、自分自身です。

「お前は、あの時失敗した!」

「お前は、あそこでズルかった!」

「お前は、あの時思いやりがなかった!」

「お前には魅力がない!」

「お前には能力がない!」

「お前には愛がない!」

色んな事をでっちあげて、

自分を責めているのは、

自分です。

そして、その声は、なかなか止まない。

忘れた頃に、また蘇る。

まさに、これが本物の悪魔であり、

心理学ではシャドーといわれているものであり、

自分の声なんだから、

その悪魔に、力を与えるのも与えないのも自分です。

残念ながら、

人間として生きている間、

この声は無くなりませんが、

小さくすることは出来ます。

その声を、本気にしないだけで。

その声を本気にしないだけで、

その声の言うような、

恐ろしい未来はやって来ません。

本気にすると、

幻想の中に入り込んで正しい見方を失い、

そのうち、

実際にそのような未来を引き寄せる可能性もあります。

ぬいぐるみのような、かわいい悪魔を想像してみてください。

それは自分の思考の中の一部、自分の思考の声なのですが、

そのぬいぐるみが、

「お前は魅力がないから、誰にも相手にされない。」

と言ったとします。

その時に、

「あっ、悪い声に騙されないようにしよう。」とか、

「あっ、自己否定は真実ではないから、これは聞かない事にしよう。」

と思えば、

ぬいぐるみ大の悪魔は小指くらいの大きさになって、

「ねえ、ボクの話を聞けよ。お前は、ダメなんだって!」と暴れようと、

かわいくて笑ってしまいますよね。

馬鹿な事ばっかり言っている小さな悪魔(笑)

ところが、

「お前は魅力がないから、誰にも相手にされない。」

という声に同調して、その意見を採用し、

「ああ、本当にそうだ。どうしよう。私は一生独りぼっち。」

と思い始めると、

ぬいぐるみ大の悪魔はどんどん大きくなって、

自分より大きくなって部屋いっぱいにまで大きくなって、

「ナーバス」という名の心の中の大きなクレバスにハマり、

しばらくは出て来れないだけでなく、

事あるごとに、そこに落ちるでしょう。

私達は、

本当は、魅力のない人なんてどこにもいないって、

知っているでしょう?

自分に自信が無くなって、

面白くなくなっている人はいるかも知れない。

でも、どんな顔であれ性格であれ、

多分、

無人島で二人っきりで何十年も生きるとしたら、

その人の素晴らしいところに絶対触れる・・・

って、わかってますよね?

誰にだって、魅力はある。

その魅力を無かった事にして、

自己憐憫の中で遊んでいてもいいけど、

クリスマスの日だけは、

本当の自分に戻って、

自分の光を感じてみませんか?

生きている間、否定の思考は無くならないのだから、

否定を否定してはいけません。

否定の否定って、

否定の二乗のようなもので、

大きくなった悪魔を、更に別の悪魔が刺して、

自分の中が悪魔の対決場のようになって、

非常に苦しくなります。

否定をしっかり見て、

本気にしないでおく事が、

悪魔をちっちゃくして、笑って遊べるところです。

悪魔はいなくならないんだから、

上手に手懐けておくのです。

私達は、何も知らないと、

聖人というのは、

悪い考えが一個も浮かばない人の事だと考えてしまいがちです。

そして、悪い考えが一個でも浮かぶ自分を責めるか、

光ではないと判断して、

自分で自分を暗闇に閉じ込めて罰してしまいます。

言い方を換えると、

いい気分じゃない自分がいると、

自分にダメだというレッテルを貼って、

表面上は会話したりして普通に過ごしていても、

実際には引きこもって、

自分には何の力もないと思ったり、

他人に何か出来る自分じゃないと思ったり、

クレバスの中の妄想の世界の中に遊びに行ってしまいます。

でも本当は、

それは思考の中の遊びでしかなく、

どんな気分の時でも、

どんなに酷い気分でも、

自分は無実なんだというところに帰って、

自分は光なんだというところに戻れるのです。

自分だけは、

自分が酷い気分だと知っているかも知れない。

でも、

自分は光なんだという所に戻っている時、

自分の奥深くの、真の自己に繋がり、

自分にはわからなくても、

その光が、

誰かへの贈り物になります。

人は、愛が無ければ生きられないのではない。

愛が無い人というのは、存在しない。

私達は全員愛。

ただ、怖れに囚われている時、

その光の放射を、

自分が遮ったのです。

愛を貰ったと思っていたあの瞬間は、

自分が放射した愛を、

自分が感じたのです。

自分の怖れを自分が受け容れてあげる時、

自分の怖れを自分が自分の愛で包み込んだ事になります。

その時、

それは、愛でしかなくなるのです。

愛が光。

愛は放射。

それこそが、天使。

クリスマスには、

自分を天使として解き放ってあげて欲しいのです。

誰かといても。

ひとりでいても。

天使に肉体は必要ありません。

ひとりでいても、

誰か必要な人の所に、その愛の放射が届き、

その人の中の光に、その人が気付くかもしれません。

私達は全員、

そんな存在なのです。

光というのは、

物質界の光のイメージでもいいのですが、

光とは、愛と、叡智と、私達の真の自己、永遠の命を持つ意識、変わる事のない平和の感覚の事です。

従って「その人の中の光に、その人が気付く」とは、

その人が愛を感じるのかもしれないし、

大切な気付きを得るのかもしれないし、

何か、安心するのかも知れないし、

物質界にいるから物質として何かか起こるかも知れないし、

深い意識の中で、奇跡のような何かが起きるかも知れません。

今年は、本当のクリスマスを過ごし、

自分の天使を解き放ってみませんか?

ただ、自分が光だという事を感じればいい。

そしてそれは、

クリスマスの日に、

限らなくてもいい。

思い出した時、いつでも。
























「死に至る病」について<4>

さて、キルケゴールの「死に至る病」冒頭部分の説明を終えたところで、

ちょっとつぶやいて行きたいと思います。

ここに至るまでの前振り「死に至る病」について<1>

理解する為の前提条件「死に至る病」について<2>

私の解釈による解説「死に至る病」について<3>がありますので、

そちらをご覧になってから、以下にお進みください。




まず、この内容は、

簡単ではありません。

簡単に説明しましたが、

理解する為には時間がかかるでしょう。

これを挙げた思いは色々あり、

これを読んで下さった方に、

絶望というのは人生に失敗したからあるのではなく、

人間である限り持っているもので、

それがピークになっているなら悟りの道に入る時だという事を知っていただきたいという所と、

私が今、勉強している「マスタリーの道」を勉強している方の参考になれば、

という所にあります。

「マスタリーの道」は、

1冊目「ハートの道」の講座をやりながら、

これが英語の本だから翻訳をしていて、

訳は2冊目「変容の道」に入っていますが、

1冊目を修正するのは、

もう…3度目です。

大きく分けて…ですから、

細かい修正は数えたらキリがないし、

低い英語力から始めているので、

英語力が少し上がった時に修正しているのを入れたら、

もう少し増えます。

でね、

最初に「ハートの道」の本を手に取った時、

何とも言えない平安な感覚を感じたし、

まあ…今もそうで、

辛さや痛みや苦しみを抱えていると良くわかるのですが、

そういう時って、

胸が締め付けられるような感覚がするのですが、

この本を持つと、平安で、

胸の奥から静かに広がって広大になって行く感覚がします。

だから、「優しい本」なのですが、

これ、一冊をどれくらいの月日で終えられるのだろうか…と思うくらい、

本当に、進むのに時間がかかります。

一冊12章あるのですが、

1章に3ヵ月は掛けて、

半分まで進んだら振り出しに戻って、

ぐるぐるしてからやっと、

後半に入って行きます。

そして、2冊目の真ん中まで行ったけど、

再び、1冊目の振り出しに戻って来ました。

1章毎に、実践練習が提案されていたりして(その中に赦しもあります)、

それを実践する事によって、

実際の理解に至る…はずなのですが、

本気でやらないと(私は本気でやってますけど)、

「わかったつもり」で進んで(難しくてわからなくてもとりあえず進んで)、

進んだ先でわからなくなって、

戻るしかなくなるのです。

そう言うと、

「なんだ。全然進まないのか。」

と思われると思いますが、

進んではいます。

進むからこそ、

それまでの所が理解出来ていなかった事がわかって、

もう一度戻る必要があるとわかるんですから。

意識が変わる為の本ですから、

奥深いものがあるのです。

そして、2度目の訳し直しの後半に入った所で、

また、理解が大きく変わり、

それで、もう一度最初から…ってなっての3度目突入なのですが、

実際に大きく変化し始めたと同時に、

気付いたんです。

「マスタリーの道」は、

マーク・ハマー改めジェイエムの、

イエス・キリストのチャネリング本なのですが、
The Way of the Heart
Jayem
Heartfelt Publishing
2014-08-05






最初はチャネリングを録音していて、

YouTubeでそれも公開されていますが、


彼の最初の著書「イエシュアの手紙」
の時から、

イェシュアの手紙
マーク ハマー
ナチュラルスピリット
2007-12T



The Jeshua Letters
Jayem
Lulu.com
2021-07-25



本当に、優しくて平安なエネルギーに惹かれていた訳ですが、

哲学に慣れ親しんだ事がない私には、

ジェイエムの経歴が全然わかっていなかったんです。

あれですよ。

聞いているようで聞いていない、

右から左…。

何がって、

彼は、大学で哲学を専攻していて、

家に哲学書3000冊持ってたんです。

3000冊ですよ(笑)

まあ、英語版と原書など合わせてかも知れませんが。

そして、東洋哲学にハマって、

ヨガの先生もやっていたんです。

そんな人がチャネリングする事の意味を、

考えた事なかった

当たり前ですけど。

哲学を知らないんだから。

ただ、本の話をするとうるさかったんです。

「どの本だ?」って。

当たり前ですね。

いや、つい最近まで、

ジェイエムの読むような本など読んでませんでした

でね、

何に気付いたか、ですよ。

優しいエネルギーの本だけど、

これが、易しくはない。

何故なら、

哲学を学んで来た、

勿論、覚醒を望んでいた、

ジェイエムに教えている話ですから、

哲学の疑問の答えが散りばめられているって事です。

だから、時間を掛けてハートの道に慣れ親しんでいた私には、

今、

哲学が面白過ぎたんです。

これまでにも述べましたが、

私は宗教に拘ってはいないので、

これだけ深淵なものならば、

誰が著書で誰のチャネリングでもいいのです。

拘るのは、

自分が納得出来るだけの深い叡智であるかという所です。

イギリスの哲学者ウィトゲンシュタインは、

論理哲学論考 (岩波文庫)
野矢 茂樹
岩波書店
2017-04-20



「語り得ぬものについては、沈黙するしかない」

と言っていて、

ホントにそうだな…と思いますが、

その、「語り得ぬ」つまり「語る事が出来ない」のは、

語る程理解していないから語れないだけで、

理解している者は、

言語を駆使して語れるんだと、

ハートの道を読んで思いました。

また、語り得ぬものは、

見て、経験してわかるしかないのですが、

ハートの道(マスタリーの道)の本は、

映画『ネバーエンディングストーリー』みたいに、

読み始めると、

その理解に至る経験が実際に始まるので、

まさに、生きた本であり、

経験して理解出来て来るのです。

ハートの道の中では、

私達が認められる為に何か物質を得ようとしたり、

名誉や肩書きを得ようする見方から、

違う見方になる事について書かれているので、

ジェイエムは肩書きをどこにも書いていなくて、

どこかで話をしていた内容から、

「どうも、哲学を専攻したらしい」とか、

「心理療法を行う事を仕事にしていたらしい」、

という事しかわからないのです。

ただ、哲学を学んでいたので、

哲学は思考を重視するものだから、

覚醒の道を進むに当たり、

覚醒するには「感じること」がとても大切なので、

頭が硬くて苦労したとジェイエムは言っています。

また、投影を超えて物事を見るには、

心理的なワークが欠かせません。

心理療法というか、

赦しというか。

私達は、キルケゴールの言う所の「否定する第三者」がいる時、

実存である自己をいない事にしたいんです。

そうすると、

神戸メンタルサービスの平さん流に言うと、

生まれた時は親や家族の喜びでしかなかった自分が、

何をしても喜ばれた自分が、

ぼろぼろこぼしながら食べても、

「遊び食べの時期だから。」って許されたのが、

ある年齢になると許されなくなってくるんですよね。

親からしたら、

自分の事でさえ精一杯なのに、

いつまでも世話を焼いてばかりはいられないし、

学校に上がるのに恥ずかしい思いをさせないように躾をしたいし、

そんなような理由しかないんだけど、

子どもからしたら、

もう喜んでもらえなくなった自分を、

否定するんです。

「あ、愛されなくなった」って。

今まで喜んでもらえていたからって、

同じ事をしても、

もう喜んではくれないから。

とはいえ、

私達は皆、

親に愛されていることくらい、

わかってますって。

だけど、

親に愛されている事がわかっている裏側には、

『愛されなかった物語』も出来上がっています。

「あの時、あんな事して、私を愛してくれなかった。」

子どもって、身体が小さくて、手も小さくて、

『出来ない人間』なんですよね。

成長と共に出来て行く過程なんだけど、

出来ないのは本当。

身体として一人前になって社会人になれるまで、

長い年月がかかるのが人間だから。

そうすると、

親が、神のように見えるんですよね。

文字通り、

自分に全てを与えてくれる存在だから。

親も人間だなんて、

人間がどんなものか知らない子どもには、

わからない。

大人になって初めてわかるんです。

いつでも子どもの欲求に応えたり、

いつでも子どもを理解するのは、

出来ないんだって。

でも、

子どもの時はそうは思わないから、

出来るのにしないとしか思えなくて、

その理由を作り出すんです。

すると、

「愛されていない。」

「わかろうとしてくれない。」って…

文句ばっかりになっちゃうんですよね。

そして、それを自分だと見做すから、

『愛されない自分』として、

自分を否定するんです。

その他にも、

「自分は身体という物体だから、生き延びなきゃ。」

という観点から、

生き延びられないと思われる事があると、

自分の何かを否定して、

生き延びられると思われる戦略を採用する。

そんな事を沢山繰り返して、

自己否定した事が、

全部他人に投影されているのです。

自己否定していない所は、

物事がクリアに見え、

自己否定した所は、

自分を映し出した鏡を見ているだけなんだけど、

この2つの違いが通常はわかりません。

信号でも点いてくれたらわかるんだけど。

(青)ピコン、ピコン…正常です

(赤)ピコン、ピコン…投影です

って(笑)

そんなものはないけど、

これが、わかるようになるのが、

いわゆるハートの感覚です。

心臓の後ろの気道を流れる息を感じる感覚です。

これ、

感情や情動を感じるのと混同してしまいやすいのですが、

それは違うんです。

悲しい、切ない、苦しい、痛い、辛い、そして怒りや憤りなど。

それらを感じながら、それらとは違った、

心臓の後ろを息が流れるのを感じる事が出来ます。

その感覚が、

赤信号か青信号かを教えてくれます。

赤信号は、勿論、嫌な感じ。

重たい感じ?

青信号は、平安な感じ。

落ち着いた、静かな感じ?

勿論、

ハートの感覚を感じる事を忘れてしまうと、

…通常は、それも気にしていないでしょうから無意識に突入しますが…

反応パターンにはまってしまいます。

これは、

自己否定する時、私達は怖れに入っているのですが、

怖れに入ると、筋肉が緊張するんですね。

そして、完全に諦めるか戦うかしない限り、

その緊張は残ってしまうらしいのです。

その辺りは、、心理学者のゲイ・ヘンドリックス(1945-)が以下の本で説明しています。

気づきの呼吸法
ゲイ ヘンドリックス
春秋社
2011-10-05





この本に書かれているような、

癒しの呼吸法があって、

私がさっき説明した「心臓の後ろの息の流れ」の感覚の習得と、

癒しの呼吸法の習得、

どちらも大切です。

呼吸、息は古来からの覚醒に関するどの教えの中にも必ず存在していました。

私は、実存が物質界に存在するのは、

息を通してだと解釈しています。

ゆったりした呼吸が出来る時は、

実存がしっかりとやって来ていて、

早い呼吸の時は、

実存があまりいないというか、否定されているというか、

私はそんな感じで捉えています。

上記の本は普通に読めるのでお勧めです。

入門的なところかなと思います。

呼吸法や赦し(私の捉えている赦しについてもいつかまた書けたらとは思いますが)

によって投影から出始めないと、

いつでも正常な思考力を使うという事は非常に困難なので、

これは必須です。

たまに明晰な方がいますが、

そういう方は、

既に「心臓の後ろの息の流れ」の感覚を習得していたりします。





さて、キルケゴールはいかがでしたでしょうか。

哲学の根幹にあるものと、

キルケゴールの言っている事。

キルケゴール(1813-1855)は、

42歳くらいまでしか生きていなくて、

わりと短い生涯だったのに、

これだけの理解があった事に本当に驚きです。

父親と母親の結婚の秘密を教えられた事や、

彼は7番目の子どもなんだけど、

34歳を超えて生きられたのが長男と自分だけで、

それをクリスチャンだった父が、

自分の犯した罪のせいだと思っていた事もあるのだろうし、

兄弟が次々に早死にすると、

自分も死に向き合わざるを得ない状況になる…というのが、

彼をここまで真剣に向き合わせる直接の原因だったのではないかと、

推測されます。

父親と母親の結婚の秘密と言うと大袈裟なんですが、

特に、現代では、何ら問題に感じない人が殆どだと思うのですが、

父親が、

結婚前に母親と強引に肉体関係を結んだ事に対して、

ものすごく罪の意識があったようなのです。

まあ、結局、結婚しているわけですし、

今だったらそこまでナーバスにならなくても…という事案ですが、

他人の自由意思を無視したのはしたんでしょうし、

また、

当時のキリスト教の教えに非常に影響されていた部分も大きいのでしょう。

だからこそ、

「それは本当にそうなのか」「本当はどうなのか」考えざるを得なかったのかも知れない。

私は、「信仰」という言葉があまり好きではありません。

どうしても、

「強制的に信じる(信じなくてはならない)」

というイメージがあるからです。

「死に至る病」について<2>で、

日本人の神の捉え方に問題があるような話をしたと思いますが、

このキリスト教的捉え方も全く同じで、

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは 誰さ」

から始まらないで、

「信じなさい」から始まっているんですよね。

まず、「神」がありきで、

まるで、悪い事をしたら罰が当たるみたいです。

「神」についての概念が正しいものへと変わる第一歩は、

「神って、罰をあてるものかな?」

という疑問が湧くところです。

「怖れによって支配するのは、神ですか?」

って事です。

神は、愛ではないのですか?

怖れによって支配するのは、

いわば、悪魔とかそういったものじゃないでしょうか?

(悪魔なんていませんけどね。あるのは、頭の中の否定です。)

そこを考えて、罰をあてるというのは人間の投影だとわかるところが、

一歩目だと思っています。

まあ、悪魔とは言いませんが、

生きる為の考え方や、

政治的支配と関係があって、

「信じなきゃ。」が先に来てしまう…

それが信仰のイメージだからです。

勿論、そうでない方、違う捉え方をしていらっしゃる方もいると思います。

あくまで、私のイメージです。

強制的な宗教のイメージがあるんです。

本来、「知る」という事は、

「経験する」事が入るはずなんです。

私達は、見た事、聞いた事、経験した事によって、

「わかる」「知る」というところに至るので、

どんなに「こっちの方が正しいよ。」と言っても、

その人が違う経験をしていたら、正しいとは思えません。

人が何か知らない事を理解するには、

今の考えに基づいて、

それが変わってしまうような経験をしないと、

知らない事を知る事は出来ないのです。

となると、

実際の経験って、とても大切になってきます。

私達が望んで来た、

『いい学校に行って~いい仕事に就いて~好きな人と結婚して~健康な子どもが出来て~幸せな結婚生活が出来て~子どもが健康に育って~子どもがいい学校に入って~子どもがいい仕事に就いて~子どもが好きな人と結婚して~・・・』

という永遠の繰り返しが、

私達の本当にやりたい経験ではなくて、

私達が本当にやりたい事は、

何か、経験から知って行く事なんです。

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは 誰さ」

私達は何故、

わざわざ自分を忘れて、

わざわざ思い出す旅に出るのでしょう。

もう、ホントに、

忘れた後に作ったトラウマがあり過ぎて、

物質界を超えた実存が、

物質全部を使って自分の事を導いたり、

物質全部を使って何か教えてくれても、

ちょっとやそっとじゃ信じられないくらいです。

それでも、

「不思議と導かれた」という経験が積み重なってくると、

信じられるようになってきます。

それは、「信用」ですね。

信じられる事が起きて、信じるようになる。

私は、これが大切だと思っています。

私達は疑り深いのです。

ちょっとやそっとじゃ、「たまたま」

だと片づけられます。

でも、何年も何年も導かれていくと、

やっと、「ずっと導かれていた」

だから、信用していい。

ってなります。

その為には、信頼して飛び込むしかないのですが。

「信頼」は、まだ起きていない事を信じる事です。

ものすごいパラドックスですが、

私達は2つの統合ですから。

でもそれは、

『飛び込んでみる』事から始まります。

ジェイエムも、

数々の局面で飛び込んで来たから今があるのだと思います。

彼の著書『イェシュアの手紙』によると、

ヨガの講師として億単位のお金を稼ぐ算段が出来ていたのですが、

(一生暮らして行けるお金を用意してから、この道を進むつもりだった)

直前で辞めて、

結局、スーツケース1つだけを持って旅に出るんです。

その時、

3000冊の本は処分されたのですが、

1冊だけ、

薄っぺらい本をスーツケースのどこかに入れたと、

確か、

もう消えてしまっているのですが、

Facebookで言っていたと思います。

それが、キルケゴールの『死に至る病』だったと思います。

The Sickness Unto Death
Kierkegaard, Soren
Merchant Books
2013-06-02


この本、本当に薄っぺらいので、

鞄のどこかに入れておけそうです。

確か、Facebookで一度紹介して、

「anotherも全部、自分の中の話」って言っていた気がするのですが、

私はちらっと見ただけでちゃんと訳していないし、

間もなく削除されてしまったのです。

本人に確認しようかとも思ったのですが、

そう思うとハートの感覚がもやーっとします。

同じ実存なんだし、

私は私で導かれるから、ま、いっかーと思うと、

ハートが静かな音を奏でるような感じがします。

キリスト教など、

政治利用されたり、

理解不足だったり、

本質とは違ってしまって、

「神は死んだbyニーチェ」

みたいになったりしますが、

これは、

例えそのような環境にいたとしても、

本質に繋がる事は全く可能です。

まさしくキルケゴールはそうじゃないかと思うし、

そう言い出したら、

ジェイエムだって畑違いだったし、

実存は一つなんだから、

当たり前と言えば当たり前なんですよね。

ハイヤーセルフ(ハイヤーマインド)って、

「高次元の自分」もしくは、

「自分の中の、普段は意識出来ないような、高い意識を持っている自分」

という事で、

自分のあらゆる過去世や人生の目的などを知っている…

自分だけどまるで背後霊のようなイメージが、

日本人が最初にするイメージだと思うのです。

私自身、ヒーラーになりたての頃はそのようなイメージだったし、

そう習ったと思うし、

沢山の方々と共有して来たイメージです。

でも、理解が進むにつれて、

それは、実存とか、実存をイメージする神のイメージになります。

そして、まさしくそれは「自己」ですね。

その、自己と、

今、自分だと思っている自分を切り離すようになったところから、

私達の「絶望」が始まっています。

『死に至る病』を紹介するどこかの動画に、

北斗の拳の、

「おまえはもう死んでいる」

に掛けて、

「おまえはもう絶望している」

というのがありましたが、

まさに、私達は、

絶望しながら、それを見ないで生きて来たんです。

その絶望の感覚を、

多分、他人に投影して、

誰かや何かのせいにして。

そして、

物理世界でやりたかった事を全部終えたら、

ここで、

絶望が最高潮になるに決まっていたんです。

はたから見たら、

「どうしてそんな事くらいで、死にたくなっちゃうの?」

というような、

失恋だったり、

親子関係のもつれだったり、

仕事に関する何かだったりするかも知れないけど、

そうじゃないんです。

何かを探索して来て、

それが、

ついに最後の経験だっただけです。

物理世界への、ある意味、下降が終わったんです。

私が一番最初にカウンセラー養成講座を受けた、故・長谷川泰三さんですが、

彼は、親戚の家で育って、

車椅子になった時や、

仕事に行き詰った時(彼も「億」稼いでいた事があるらしいです)、

離婚した時(3回離婚されています)、

どこかでついに、

絶望に行き着いて、

平準司さんを訪ねています。

そこで言われたらしいんです。

「デッドゾーンへ、ようこそ。」

心はもう、死んでいるような・・・

そんな時に、

「ようこそ。」って言われたんです。

関係が否定する第三者から、

向きを変えようとする、その、

最も深い絶望の場所に、ようこそ。

ここから、

全体を打ち立てる第三者となって、

関係が打ち立てられ、

自己へと戻る道が始まるのです。

ここからまだまだ「絶望しながら自己が自己であろうとする状態」が続いて、

関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係にある」ようになるまで、

時間はかかりますが、

ついに、絶望を無くす方に向かう、

祝福すべき転換点と言えるのです。

まあ、まだ、

最悪の絶望が続くというのは、

残念なお知らせではあります。

でも、時間を掛けて向かう場所があり、

そこに到着してから始まる事があるのです。

故に、絶望にある自己の状態を完全に僕滅する方法は、関係自体をその関係を持つ自己に関係させ、その関係自体であろうとする事によって、自己が、関係を事実と仮定した、あるいは断定した力に、一点の曇りもなく、基づく事である。

方法と訳された公式です。

方程式っていうのは、

式の中に未知数…Xとかyが含まれているのですが、

公式は含まれておりません。

だから、ここで言う公式とは、

原理というか、法則というか、

間違いなく、こうしたらそうなるよって事です。

要は、

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは 誰さ」

これを知らない自分が、

それを知っている自己(実存)と自分は一致していると、

仮定か断定して、

であるならば、

物質界を創り、自分をそこに送り込んだ自己(実存)は、

自分をここでどのようにしたいかを知っているのだから、

物の見方も、

考え方も、

自分がどのように行動するかも、

全部全部、

一点の曇りもなく、

そこに基づいて行えば、

「絶望」を感じる事なく、

「平安」でいられる…という訳です。

この公式が何を言っているのか分かった人は、

非常に難しい事を、

極々、簡単に一言で述べられた事がわかったはずです。

私なりに要約しますと、

まず、覚醒したい、悟りが開きたいと、

はっきり望まないとダメです。

そこから旅を始めて、

悟りって、

なんかこう・・・

座禅をしてある境地に至るとか、

ある時からエクスタシーを感じるようになって絶望から解放されるとか、

神から自分に言葉が掛けられるとか、光がもたらされるとかして、もう、全然自分が変わってしまうとか、

自分では起こせないけど、

ある時向こうからやって来て自分が一瞬で変わってしまう事、

では、無いんです。

それはそれであるのですが、

実存を一瞥したに過ぎず、

いわば、

関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係にある」ようになる為の、

呼び声みたいなものです。

「ある境地」というものは、

過ぎたら終わりです。

なんなら、

まだ「否定する第三者」が勢力を振るっていると、

否定して終わりで、

自分にそんな事があった事すら認識しません。

逆に、

それが「覚醒」だと思うと、

それを何度も起こして、何度もその感覚を味わおうとして、

そこから進みません。

それはただ単に、

「デッドゾーンへ、ようこそ。」

の次の段階、

「こっちだよ。」に過ぎません。

そこから、

今まで価値を置いてきた事から、

少しずつ価値を引き下げ、

真実を求め始めます。

最初は、投影と、欲求や欲望にまみれつつ、

暗い道を、

何故かわからないけど、

「こっち」と思う方向に進みます。

まるで、本当に、

暗い夜道を、

灯篭のような薄明かりだけを目指して、

やっと進むような感じです。

ここではまだ、

絶望はなくなっていません。全く。

そして、

起きる出来事によって、

「死に至る病」について<2>の前提条件のように、

その人が実存と一致するという事がわかる為に必要な事(前提条件)を、

教えられて行きます。

私は、その段階で起きて来るのが、

OSHOタロットのこれ、

Oshoタロット10

















ニーチェの言う、らくだから獅子になる、

これだと思います。

まあ、つまり、

REBIRTHとなっていて、

「再誕生」という意味ですが、

覚醒した者は「二度生まれし者」と言われる事がありますが、

この段階は、

絶望しながら自己が自己であろうとする状態」の段階で起きると思います。

怖れに基づいて、

らくだのように、

「本当は嫌だけど自己主張せずに迎合」して重い荷物を背負っているところから、

自分の思いだけを生きるようになるところ。

ああ、これだけでも、

迎合のA地点から独立のB地点まで、

長い道のりだとわかると思いますが、

少しでも吹っ切る事に役立ちそうな良い動画を見つけたので、

リンクを張っておきます。

神戸メンタルサービスの大野愛子さんのYouTubeですが、

松下幸之助さんの2-6-2の法則の話をされているのですが、

非常に分かり易いです。

自分の何かを断ち切るのではなく、

自分が愛でありながら、

誰にも影響されないで、

実存へとまっすぐ向かうまで、

なかなか時間がかかります。

そして、獅子になって初めて、

自分の中で哲学が打ち立てられて行きます。

ま、自分の足で立って、自分で進んで行くという事ですが、

「いや、今までもそうして来たし。」

と思うでしょうし、

やって来たに違いないのですが、

それは、まあまあのラインであって、

まだ、何か人のせいになっていたり、

自分の外側で物事が起きて自分に降りかかって来ると思っているならば、

あやふやで、ちゃんと見ていなく、

思春期の子どもみたいなところにしかいません。

身体が大きくなったから、一人前のつもり。

自分で生活しているから、自分でやっているつもり。

そうではなくて、

起きる事全て、

自分に責任がある、

物事は全部自分の内側で起きている、

という自己責任が取れるところで、

本当に全部自分で考えて自分で進むようになる・・・

ここは少し語弊があって、

ここでは、ある程度、

見えないところからの情報を受け取っているので、

全部自分かというと、

ちょっと違いますが、

自分で目的地を決めて、

自分の内側で弁証法的に色々と進めながら、

本当に一人で立てるところです。

ここまで来るのは、

何もなしでは無理だと思います。

学ぶとか、導かれるとか、

やはり、

既に、覚醒しようとか悟りを開こうとか、

はっきりと決めた後、

道を求めて、

その道で運ばれる事によって、

ここまで来ます。

その後です。

絶望を撲滅する公式に至るのは。

だから、よく「魂の暗い夜」と言って、

目覚めの前が一番暗いとか言いますが、

私達は、絶望を感じないように色んな事で気を散らしているのですが、

もう、本当にどこにも投影しないようになる(しようとする)頃には、

気を散らす事はしないし、

全部内側にある事はわかっているので、

抵抗しないで絶望を感じれば、

まあ~、酷い気分を味わうしかありません。

ただ、ここまで来ると、

「デッドゾーンへ、ようこそ。」

と言われて、

「ひぇ~、こんなに酷い気分なのに、『ようこそ。』って言われた~

と驚いていた時とは違い、

その、酷い気分を感じても安全だとわかっています。

そして、その酷い気分が、

次のステージへと連れて行ってくれます。

本当にうまく出来ているなって思うんですよね。

「絶望」が、帰り道の道しるべみたいなものだから。

「絶望」がなかったら、

ここ、物質世界の中の、地球上にいる事に、

何の不自由もなくなるから、

「帰ろう。」なんて思いません。

安心して、「地球で転生を繰り返す生命体」として、

永遠にここにいるでしょう。

でも、「私」は物質界の外にいて、

今、眠ったように物質界に注意を向けて、

まるで、夢の中のように、

物質の感覚を感じるのを現実だと思いながら、

夢を見てるんですよね。

夢の中に入った事をすっかり忘れて。

だから、「絶望」という鍵を持って、

気持ち悪い感覚から逃れたいが為に、

鍵穴を探すんです。



さて、獅子になったけど気分の悪さが抜けない私達が向かうのが、

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは 誰さ」

これを知っている自己との統合です。

統合という事は、どちらも存在します。

なんか、仙人みたいになって、

雲を食べて生きて行けるようになるとか、

人間の感情が無くなるわけではありません。

どちらも存在して、

人間的、物質世界的見方に偏らないという事です。

ここで、

多分、「死に至る病」について<1><2><3>のどこかで書いたと思うのですが、

肉体が死ぬまで実存との差がただ縮まっていくだけで、

斬近線のように近付いて行くだけで、

肉体が死ぬまで一致しないのかと思っていたら、

書いた次の朝、すぐにメッセージが来ました。

「そのものになりなさい。」



故に、絶望にある自己の状態を完全に僕滅する方法は、関係自体をその関係を持つ自己に関係させ、その関係自体であろうとする事によって、自己が、関係を事実と仮定した、あるいは断定した力に、一点の曇りもなく、基づく事である。

一点の曇りもなく」ですもんね。

ここで、

私達は、自分の欲求や欲望を超えなくてはなりません。

物質界を創って、そこに来る事にした存在が、

物質界の中の何かに未練があるとしたら、

物質界から去って帰ろうとは…しないですよね。

人は精神である。では、精神とは何だろうか?精神とは、精神的な自己の事である。

ここは、私の訳は、紹介した本と違っている部分があります。

『Man is spirit.』を、「人は精神である。」と訳しましたが、

『Spirit is the self.』のtheも訳出しして「精神的な」を付けたんですね。

という事で、

超・超・超簡単にまとめると、

「人は実存です。そして、実存に一点の曇りもなく基づいていないと、絶望を感じます。」

ってところでしょうか。

ここをもっとかみ砕いて説明は、ここでは出来ません。

その理解のための前提条件は、

The Way of the Heart
Jayem
Heartfelt Publishing
2014-08-05






この本の前半、全部だからです。

そう。一章に何ヵ月もかけて、

振り出しに戻ったりしながら、

何年にも渡る学びが必要だと思います。

ただ、実存に一点の曇りもなく基づき始めるとどうなっていくかだけは、

ちょっとした説明が出来ます。

これが完全に出来るようになるまでは、

最高潮の絶望感から出たり入ったりしますが、

出来るようになると、

絶望感に入らなくなります。

それと同時に、

実存に基づくという事は、

人間的な考えから人生を決めなくなります。

そして、実存側に使われるようになります。

それは、人間的な「良かれ」ではなくて、

「絶望」という鍵を持って鍵穴を探している人の、

助けになるという事です。

それも、人智を超えた実存に任せて。

また、

別の観点から言うと、

今まで、生まれてから自己否定をして愛のない世界へと行き着いた逆を行くので、

愛ではなかったものが全部愛に変わります。

怖れなく人生を歩けるようになります。

地球上の全てが美しいものに変わります。

まるで凱旋帰国です。

「魂の開花」と言われますが、

この本の冒頭を理解した私達は、もう、

魂じゃなくて実存だと捉えていると思いますが、

だからこそ、つまり、全体に仕えるようになり、

本当に、私達は独りぼっちではなくて、

いつも一体だった事がわかります。

そうして、地球上での役割を終えたら、

ソクラテスのように肉体の死を通り抜けて、

まるで、朝、夢から覚めるかのように、

物質界の外に個人的自分としての全意識が戻ります。






どうですか?

おもしろかったですか?

自分は、

絶望しながら自己が自己であろうとしない状態」ですか?

それとも、

絶望しながら自己が自己であろうとする状態」ですか?





さて。

まあ、そういう事で、

どんな訳だろうと、

私は他人の訳では納得出来ませんからね。

ジェイエムの本の翻訳に戻ります。

また一から修正ですから。

ブログも、なかなか時間がとられてしまうので、

また、なかなか更新しないかも知れません。

気が向いたら、また、更新しますが。




これからクリスマスからお正月へと突入し、

会いたい人に会える方や、

会えない方、

いつもと変わらない方など、

色々いらっしゃると思いますが、

この、冬の静かな時間に、

ひとり、自分に振り返ってみるのもいいかも知れません。

「私」は、

どこに繋がっていくのでしょうか・・・








「死に至る病」について<3>

Kierkegaard_300











さて、キルケゴールの「死に至る病」冒頭部分の説明に入ります。

ここに至るまでの前振り「死に至る病」について<1>

理解する為の前提条件「死に至る病」について<2>がありますので、

そちらをご覧になってから、以下にお進みください。



それから、哲学の場合は、

答えが1つだとは限りません。

思考の数だけ、考え方があっていいものだと思っています。

そして、哲学において最初に教えられるのは「自分で考える事」だと思っています。

そこに間違いというものはなく、

例え後から考えが変わったとしても、

変わる前の考えがあるからこそ変わるもので、

であるならは、その変わる前の考えは必要な訳で、

変わる前の考えは間違いとは言えません。

同じものを見ても違う位置から見たら違うものに見えるように、

同じものを描写しても表現方法が違ったら違う表現になるように、

多様性をそのままにしたいと思っております。

ここれから綴っていくのは、

「私の気付き」「私の解釈」であって、唯一の正しさの主張ではありません。

なので、自分の解釈と違って気持ち悪い場合は、

どうぞ、ご自分の考えを大切にして、

「何か、違った。」という事でどこからでも立ち去っていただければと思います。

私の解釈を理解・吸収したい方は、

ゆっくりと時間を掛けて、

掴んで頂けたらと思います。

理解にはそれなりの時間が必要になるかも知れません。





という事で、英語版からの私の訳に沿って説明していきます。

日本語版の内容が知りたい方は、

日本語版はご自分でご購入ください。

前振りで3冊紹介させていただきましたが、

優劣をつけてオススメ出来るものはありません。

全ての本にリスペクトしております。


死にいたる病 (ちくま学芸文庫)
セーレン キルケゴール
筑摩書房
1996-06-01


舛田啓三郎さん(1904-1990)は法政大学文学部哲学科を卒業後、同大学で長く教鞭をとられていました。哲学者として語学が堪能で、勿論、デンマーク語でキルケゴールの著書を何冊も翻訳されています。この本だけ特に分厚いのですが、それは、巻末の訳注の量の多さによるものです。


死に至る病 (講談社学術文庫)
セーレン・キェルケゴール
講談社
2017-04-11


鈴木祐丞さん(1978-)は上智大学哲学科から筑波大学院哲学・思想専攻を経て現在秋田県立大学で宗教哲学で助教授をされています。出版がわりと近いので、現代版という感じでしょうか。まだまだお若いので、更に今後の活躍が期待される方です。


死に至る病 (岩波文庫)
斎藤 信治
岩波書店
2014-12-18

斎藤信治さん(1907-1977)早稲田大学文学部西洋哲学科を卒業後に東北帝国大学法文学部哲学科を卒業され、同大学で副手や助手を経、エジプト大学でイスラム研究をし、北海道帝国大学法文学部助教授、北海道大学文学部教授、神戸大学文理学部教授、中央大学文学部教授、北海道大学では「イロニーの研究」で文学博士になり、渡欧してマルティン・ハイデッガーにも面会している方です。
私が最初に読んだのはこの本で(やっぱり岩波の青でしょって事で(笑)))、また、透視能力者的な言い方になりますが、この本のエネルギーがとても好きです。

ああ、



本の紹介のために本を書かれた方の経歴を載せてみましたが、

哲学者というのは、

勉強が出来る方の中でも特に出来る方がなるものらしいです。

世界の名著を原書で読むには語学力も必要で、

第三外国語くらいは使いこなせるとなると、

そうでしょうよ

難関大での講義には、英語で行われる講義もある訳だし、

エジプト大学だなんて、何語だよ

気後れしそうですが、気を取り直して始めたいと思います。

で、最初に言いたかった事は、

翻訳本は、原書にかなり寄せてありますが、

その考え方が私は少し違うのです。

上記の訳者達は、

出来るだけ文の形を崩さずに翻訳をしようとされていると思うのですが、

私は意味を取るために、

意味を優先しております。

また、実際に本を出す訳ではないので、

精査の余地がまだあるだろうという事も念頭においていただき、

(多分、日本語訳者達の経歴を見たら、私にそこまでの期待はしないでしょうけど

始めていきたいと思います。





「死に至る病」 セーレン・キルケゴール

第一編 死に至る病とは絶望の事である

一 絶望が死に至る病であるということ

 

A.絶望は精神における病である。すなわち、自己における病である。そして、それには3つの形があると仮定する。1つは、自己がある事を意識していない絶望である。だがこれは、言わば絶望と言うには不適切である。故に、絶望の1つめは、絶望しながら自己が自己であろうとしない状態。2つめは、絶望しながら自己が自己であろうとする状態である。

 

 人は精神である。では、精神とは何だろうか?精神とは、精神的な自己の事である。では、精神的な自己とは何だろうか?それは、関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係にある事である。すなわち精神的な自己とは、関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる(関係を説明する)関係の状態にあるという事だ。だが、精神的な自己がその関係という事ではなく、関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係が(実際に成り立っているのが)、精神的な自己なのだ。人は、無限と有限が、永遠と一時的が、自由と必要性が、1つに合わさったものである。要するに、両方が一緒に置かれたものなのだ。1つに合わさったものとは、2つの要素の間の関係である。そう考えると、人はまだ、1つの自己になってはいない。


ここまでで、小見出しから内容に入って一段落分です。

難解と言われる意味が分かったでしょうか。

関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係」という部分が、

何を言ってるんだ???

という感じにならないでしょうか。

これは、これ以上分かり易い言葉には、

ならないんです

ということで、図にしてみます。

自己_s












これです。

何と何との関係かというと、

今、「自分」と思っている自分と「実存」との関係です。

全部、自分の内側の話です。

勘の良い方は、

前回のガザニガ教授の「私はどこにあるのか」の話はどうなったのか混乱したり、

「神との合一」という意味がもうわかっているかも知れませんが、

細かく説明して行きますね。

図を見てお分かりのように、

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは だれさ」

と思っているのは、『自分だと思っている私』で、

その答えを知っているというか、それをやった張本人というか、

その『実存』は、

同じもので離れた事はないのです。

図では、便宜上、分かり易くするために、

人の形の頭の部分にそれらを描いていますが、

ガザニガ教授の「私はどこにあるのか」で理解したように、

実際に頭の中に在るのではなく、

物質世界の外に在ります。

これを「実存」側から描くととってもわかりにくくなってしまうし、

描くのも大変なので、

まずは、

自分として、

自分の内側がどうなっているのか理解する事が大切だという事で、

頭の中に描いています。

が、脳ではないという事は、ご理解いただいていると思います。

頭の中にはないし、脳ではないんだけど、

ある意味、

自分の思考が分裂しているようなものなのです。

まだわからなくても、進んで行くとわかるので、進めますね。

関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係にある」とは、

自己2_s














こうなります。

本来、「自分だと思っている私」と「実存」が関係していて一緒に在るのが「自己」だという訳です。

そして、「自分だと思っている私」と「実存」としての思考が自分の中に在るのですが、

その関係性を決める事で、分裂させたり結合させたりしていると言うんです。

それが、ここはこれ以上訳せなかったので、「(関係を説明する)」という言葉になっています。

そして、自己とは、本来、

この両方なんですよ、という事を言っています。

「自分だと思っている私」は、有限で一時的で必要性があります。

死んじゃうし、だからこそ、生きなきゃいけないし、食べなきゃいけないし、

それだけじゃなくて、

認められなきゃいけない、愛されなきゃいけない、etc…。

「実存」は、無限で永遠で自由です。

物質界を超えたものですからね。

しかも、全体で「一体」なのだから、

何の獲得の必要もありません。

自己とは、本来、この両方が同時にあるもの、

つまり、統合されているものだという訳です。

そこで人間に立ち返ると、

人間はそうなっていないですよねーって事ですね。

では、次行きます。

その関係は、2つの間の関係において、1つである事を否定する者としての第三者になり、その2つがその関係にそれぞれ関係して、関係に関係する状態にある。人を魂だとみなすならば、魂と身体の関係は、そのような関係という事になる。だが逆に、関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係であるなら、それは1つである事を肯定する第三者となり、これが精神的な自己である。

 関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係(という事が、1つの自己である)は、そのような関係を関係が自ら買って出るか、もう一方によってそれが打ち立てられなければならない。

 関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させるこの関係がもう一方によって打ち立てられたなら、その関係は間違いなく第三者にはなるものの、この関係(第三者)は、全体の関係を打ち立てる事に関係を関係させる関係に変わる。


では、人間はどうなっているかというと、

人_s













こうです。

否定する思考があって、

「『生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは だれさ』
 の答えなんか、わかるはずない。」

「神との合一なんて大それた事、
 出来るはずない。」

こんな風に否定します。

否定形には変わったものもあって、

「神と合一して、自分はすごいって見せてやる。」とか、

「神と合一なんかしなくても、自分はすごいから。」とか、

「神と合一なんかしなくてもいいよ、そんなの。」とか、

というのもあります。

なんか、すごいように思えて(笑)いいのかと思うのもあるけど、

これも実は否定から始まっているか、

上手に否定しているだけだから、

否定していないようで、否定です。

これは全部自分の中の話なので、

「第三者」となっていますが、

いわば、「まるで第三者がいて、否定しています」って事です。

自分に振り返ってみると、そんな感じではないですか?否定する時。

「ああ、東大に行ったら、自分が知りたい事を全部知れるかも知れない。

東大、行きたいなぁ

「でも、東大なんか、入れるわけないか

こんな風に、頭の中でしゃべってますよね。

そんな風に、「自分だと思っている私」と「実存」を切り離す、まるで第三者がいるような感じになっているという事です。

人と魂























そして、人と魂という区別をしてしまうと、

「自分だと思っている私」単一の自分となり、

この場合、「否定している第三者」がいる状態になる訳です。

という事は、「魂」という見方は、

自分を物体の「人間」でしかないと見た時の見方、なんですね。

だから、覚醒していない人の物の見方になって、

覚醒している人はそのような見方はしない、という事です。


けれども、

だが逆に、関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係であるなら、
人から自己_s













否定していた第三者が肯定する第三者に変われば、

「自己」になるんですよ、という事です。

ここまで来るとわかって来ますね。

意味がわかる文章になって来ます。

そしてこうなるには、

関係を否定していたどちらかが、「関係したい」と買って出なければなりません。

そのような関係を関係が自ら買って出るか、もう一方によってそれが打ち立てられなければならない。

この部分の、「もう一方」という言葉ですが、

日本語訳の上記3冊は、どれも「他者」と訳されていたと思います。

ここ、多分、デンマーク語も同じなんじゃないかと思いますが、

英語では、anotherになっていて、

one
anotherotherthe othersとなって行く代名詞なんですが、

この代名詞は人でも物でも何でも良いので解釈によって訳が変わるのですが、

私は、実存側でないといけないと思うんですよね。

舛田さん訳には訳注があって訳注では「神」になっていました。

前回、「実存が神って事になるよね~」という内容でしたので、

異論はないし、まあ、どちらが買って出てもいいという事なので、

これ以上深く追及する問題でもないかな、という事で、次行きます。

 関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させるこの関係がもう一方によって打ち立てられたなら、その関係は間違いなく第三者にはなるものの、この関係(第三者)は、全体の関係を打ち立てる事に関係を関係させる関係に変わる。



関係があることを否定していた「関係」が、全体の関係を打ち立てる「関係」に変わるという事ですが、

これは、覚醒の途中の段階で起きる事です。

次に進みます。次の段落はちょっと長いので、分けます。

 そのように打ち立てられたところから来る関係が、人間の自己であり、それは関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係であり、関係を持つ自己自身に関係自体を関係させる事が、もう一方へとその関係を関係させる状態にある。これ故に、いわば、絶望には正確には2つの形があるという事になる。もし、人間の自己がそれを買って出ないとするなら、1つの形しか考えられない。その人が自己になりたくなく、自己自身を取り除こうとしているという事だ。だが、自己自身であろうとする事からは、どうしても逃がれる事は出来ない。ここで、自己がもう一方によって打ち立てられるという事を前堤に、次の事が成り立つ。1つは、それは完全にその関係(すなわち自己)にコントロールされている状態だという事。そしてもう1つは、その自己は、自分では、自分の心の平静に至ったり、それを保ったり、安心したりは出来ないという事である。それが出来るのは唯一、全体の関係を打ち立てるカへと関係自体を関係させる事によってである。さらに言えば、この、絶望の2つめの形(絶望しながらその人自身の自己であろうとする)は、絶望の唯一の特殊な形を表すほど、あまりに真実とはかけ離れているが、むしろ、絶望は、最終的にはここに至る事が出来るものでしかない。

もう、「関係が関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係」という、

言葉をこねくり回していてわかりずらい言葉は、

あの図の真ん中の所がお互いに関係しようとしている事を表している決まり文句みたいなものなので、

簡単に読み進められるでしょう。

そうすると、

もし、人間の自己がそれを買って出ないとするなら、1つの形しか考えられない。その人が自己になりたくなく、自己自身を取り除こうとしているという事だ。

ここですよ!!

何で、あの時、

「だからさがすんだ 君と
 でかい青空の下で
 この若さをすべて賭けていい何かを」

こっちを取っちゃったかなぁ、もう~。

とか、

覚醒に向かう扉が近くにあって、

有限から無限に向かえる訳だから、

仕事がとか、お金がとか、時間がとか、私には無理とか、

きっと超えて行けるのに、

そこから引き下がってしまったのも、

まだ自己にはなりたくなかった、という事です。

そう。間違っている訳ではない。

だって、わざわざ、ここに存在するようにしているのだから。

ここで、自己がもう一方によって打ち立てられるという事を前堤に、次の事が成り立つ。1つは、それは完全にその関係(すなわち自己)にコントロールされている状態だという事。

もう「もう一方」という代名詞はやめて、

「実存」にしましょうかね。

代名詞なんだから。

あ、でも、先行詞のどこにも「実存」って出て来てなかったんだった。

変えられませんね。

そして、次なんです。

そしてもう1つは、その自己は、自分では、自分の心の平静に至ったり、それを保ったり、安心したりは出来ないという事である。

関係を否定している第三者が自分の中にいる場合、

つまり、

覚醒していない人間全員です。

全員が心の平静には至れないのです。

ここは、衝撃であり、納得でした。

まあ、ある程度の年齢になった人はわかると思います。

心の平静を求めて色んな事をして来たはずだけど、

そこには至っていないという事を。

若い時は、まだまだ時間があって希望があって、

「いや、まだ、自分がああなったら幸せになれるから。」

と思えるから頑張れるし、そこに時間を使います。

ところが、

そのような、思うようにはならなかった。

もしくは、

思うようになったけど心の中の空虚なような何とも言えない気持ちは感じていた、

というのが真実ではないでしょうか。

それが出来るのは唯一、全体の関係を打ち立てるカへと関係自体を関係させる事によってである。

それを埋める事を考えて来たけど、

物質世界の物事では埋められないって事です。

さらに言えば、この、絶望の2つめの形(絶望しながらその人自身の自己であろうとする)は、絶望の唯一の特殊な形を表すほど、あまりに真実とはかけ離れているが、むしろ、絶望は、最終的にはここに至る事が出来るものでしかない。

人間は、覚醒の段階の途中で、実存とひとつになる関係を打ち立てる事を始めない限り、

絶望している事はやめられない。

絶望を抱えながら生きているのが人間で、

絶望しながらも自己であろうとしない。

という事ですね。

そして、

多分、肉体を持って自分を忘れる中でやりたい体験が終わるにつれて、

絶望がどんどん深まり、

もう、やりたいことが何もなくなった時、

(まだ、「これを得たら幸せになれたのに」という執着は残っているかもしれませんが。)

絶望がピークになっている。

だから、

「生まれてきたのは なぜさ
 教えてぼくらは だれさ」

という問いを本気で生きる事を始める直前、

覚醒しようと思う直前、

悟りを開きたいと思う直前、

そういう時は、

一番深い絶望にあるし、

絶望はここにしか至らないし、

全員ここに至ることになっている、以上。

…って感じです。


ハイ。

続きは、違う話と、じゃあ、どうしたら絶望が無くせるかという公式です。

もし、絶望にある人が自分の絶望について意識しようと思うなら、意味がわからないままに、それが何か自分に振りかかる物事として口に出してはいけない(何かが振りかかるというのは、空間識失調に苦しむ人がまるでその人の上に本当に何かがのしかかっているかのように、その人やその人の頭の上の重荷について自己欺瞞の神経症と会話するようなものであり、そのような時、実際には、その重荷や重圧は、外側にあるものではなく、内側にある経験を外側に反映したものである)。また、その絶望を自分で撤廃しようとしても、自分が背負っている重荷を全部背負う事になって、より深く絶望するだけである。絶望と関係しないという事は、ただ単に絶望とは関係しないようにすればいいという事ではなく、関係自体をその関係を持つ自己に関係させる関係をもう一方に打ち立てられる事によって、絶望と関係しない事になるのである。そのように自己と関係する事によって絶望と関係しない事が、その関係を打ち立てた力へと関係する事を、無限に反映する。

私達は通常、

外側から何かが自分に降りかかって来るから辛い事が起きる、

外側から何かが自分に降りかかって来るから絶望する、

と考えますが、そうではないという事です。

覚醒の道の一歩目は、

「物事は内側で起きている」という事を受け入れる事からで、

出来事によってそうなるのではなく、

自分の考えや信念によってそうなるという事を理解して、

そうなる原因を癒すとか、

そうなる思考回路を正常に戻すというか、

そうなって行く事をするのです。

私達は、自分が否定した事を周囲に投影するので、

周囲に見えていて、原因は自分なんです。

だから、「自分に降りかかった」物事として口に出してしまうと、

それが自分にはまるで真実に見えてしまって…

口に出した瞬間にはもう、その考えを選択してしまった後だから、

それを基とした幻想に入ってしまって、

真の真実が見えなくなるのです。

ここは、この文章は、非常に凝縮されていて、

言っている言葉の意味は分かっても、

実際に理解して実践出来るというのは、

余程鍛錬しないと…無理でしょう。年単位で。

まあ、でも、分かり易く、凝縮しての説明です。

そして、「絶望をなくそう!!」というやり方では無理ですよ、

今まで説明して来たように、関係を打ち立てる事が必要です…と言っていますね。

非常に明晰です。

これは、もう、実存に関係を打ち立ててもらって、

どの程度かはわかりませんが、

自己になって来ていないと、わからない事です。

では、最後、

故に、絶望にある自己の状態を完全に僕滅する方法は、関係自体をその関係を持つ自己に関係させ、その関係自体であろうとする事によって、自己が、関係を事実と仮定した、あるいは断定した力に、一点の曇りもなく、基づく事である。


これで、冒頭部分は終わりなのですが、

ここまでで、「公式」というような言葉を3回使っています。

厳密な表現だとそうなるのでしょうか。

ここまでの所で「公式」という風に訳さなかったのですが、

日本語版の訳者達も、

この辺りの訳はまちまちです。

最初の2回の辺りは、私としては、

「三段論法的には」くらいに訳せなくもなかったのですが、

意味が取れる事を重視しているので、

文法に沿って単語を入れ替えた後、

一旦飲み込んで、意味が通じる日本語に訳しています。

そしてこの、最後の部分は、

日本語では「公式」とはあまり言わないので「方法」にしました。

でも、哲学書としては「公式」の方がいいのかも知れません。

まあ、一般人の私としての理解では「方法」になりますが、

訳を精査して行くと、

どちらかを選択して訳注を付けると思いますが、

あくまで、

私の理解の為の訳という事で、

今回はこのままにします。


という事で、

実存を意識して、実存と関係のある関係自体で在ろうとすることによって、

そして、

実在と関係していると…ここは仮定でも断定でもいいけれども(仮定の意味も断定の意味もある単語でした)、

仮定でも断定でもいいけど、その力に一点の曇りもなく基づけば、

絶望は無くなる…つまり、平安な心でいられるという訳です。

まあ…言うは易し、行うは難しですね。

まあ、説明の段階ですから、

公式だけ述べられても、

その公式が使えるようになるまでの部分は、

ここでは述べられていません。

超、凝縮された、

論説、なんでしょうか。

「関係の関係が関係して…」じゃないけど、

関係関係言っている部分と、言葉にはなっていない隠れた部分が難しかっただけで、

ここが理解出来たら、多分、後は理解出来ると思います。

起承転結の「起」に持って来るには、

高度過ぎる内容に思えますが、

非常に明晰で、精鋭にして秀逸とでも言いましょうか。

明晰すぎて、「否定している第三者」を持っている方には、

受け付けられないかも知れません。




さて、私の解釈による解説はこれで終わりです。

今回は解釈のみとして、

<4>に続きます。







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