2009年11月02日
またまた、お久しぶり。
ここのところ、大学の試験やらなんらやらで、忙しくしていた。
先日の試験はね、人格心理学、家族心理学、教育心理学の3教科であった。
どれも、すごく面白い科目である。
んでも、一番に面白いのは、やっぱり人格心理学かな〜。
私は、アドラー心理学が大好きだ。
アドラーはね、「人間には葛藤は存在しない」と断言した心理学者である。
その言い分は、、、、うなるよ。
「人間の内部には葛藤など存在しない。個人(生体全体)が身体や精神を動かすのであり、仮に意識と無意識、理性と本能などの葛藤があったとしても、それは見かけ上のものであり、様々な各要素は分業しつつ協力し合いながら1つの方向に向かっている」と言った。
これを「全体論」と言う。
アドラー心理学を「個人心理学」と言うゆえんも、ここにある。
これね、ある意味、正しい。
しつこいが、私の夫はアル中である。
私の尊敬するアル中の権威でもある I先生は言う。
「アル中は嘘つきです。酒を止める止めると云いながら飲む。それがアル中です。だから、家族は行動を見てあげて下さい。<酒を止められるか不安だ>と云いながらも自助グループに通い続けているかどうか、<酒を止める>と云いながら、お酒を飲み続けているのか。行動がすべてですよ」と。
ついでに。
アドラーは「人間の行動の原因よりも目的を理解しよう」とした。
これを「目的論」と言う。
これもね、すっごく正しい。
たとえば、家族メンバーに神経症の患者がいたとする。
その患者がなぜ神経症を発したのか、と考察するのも正しいが、家族内で犯人探しをしても意味がナイのも確かなのである。
その時、アドラーの言う目的論を念頭に入れて考えると、神経症患者の「疾病利得」(病気になることによって、何に作用し、何がメリットとなっているのか)から家族内の病理が理解できるんだよね。
それから。
アドラーは神経症患者の根拠に「劣等感コンプレックス」をあげた。
アドラーの言う劣等感コンプレックスとは、不安や怒り、罪悪感などの陰性感情と、妄想や抑うつなどの症状を言う。
私は、こういったことにもとても同感できる。
んでもって、「共同体感覚の育成」ね。
これは自助グループに通っていれば、理屈ではなく体感できることだ。
様々な人格理論があるけれど、どれもみな、知っていて損はないのが心理学の面白さだね。
あとはね〜。
試験勉強していて、すごく感銘を受けたのは、マズローとロジャーズかな。
人間を肯定的存在として、その自己成長力に信頼をおいた二人の理論は、勉強していてとても心が洗われる。
私も、そう在りたいものだな〜っと、素直に思う。
マズローの理論は特に素晴らしい。
マズローの欲求段階説は有名だよね。
マズローは、欠乏欲求が満たされてはじめて生じる成長欲求は、自己実現に動機づけられていると言った。
その通りだな〜っと思う。
そういえば。
先日、「吃音のつどい」という吃音の研究発表会に参加する機会があったのだ。
んでね、回復モデルとして示されたのが、ロジャーズの提唱した「自己一致の状態」とかぶってる。
吃音は、残念ながら、いまの科学では原因も治療法も解明されていない。
しかし、吃音を「負」と捉えるか、「正」と捉えるか、によって本人の「生きづらさ」は変化するのだ。
いい勉強になった。
話がとっても散文的でごめんなさい。
今、このように大学で勉強することがとても楽しい日々である。
勉強ってのは、実学であるものなんだよね。
これ、私の学部のモットーなんだけど。
「心理学は実学である」という。。。。。
そういうことも素晴らしい!っと私は思うんだよね。
そういえば。
12月に、私は自分の大学の通学生200人の前で、アル中妻&AC本人としてスピーチすることになった。
社会保険福祉士を目指す3年生の学生たちの前で、である。
今、あらためて自助グループの代表に、とても感謝の気持ちでいっぱいだ。
こうやって私が今を充実して生きていけるようになったのも、そんなチャンスをいただけるようになったのも、すべては自助グループの代表との出会いがあってこそだ。
んでもね、まだまだ私はひよっこである。
この先も、必死に先輩たちについていくのみである。
今、私は「人」が大好きだ。
人との出会いこそ、本当に財産であると実感している。
それこそ、私の人生の「宝物」である〜。
先日の試験はね、人格心理学、家族心理学、教育心理学の3教科であった。
どれも、すごく面白い科目である。
んでも、一番に面白いのは、やっぱり人格心理学かな〜。
私は、アドラー心理学が大好きだ。
アドラーはね、「人間には葛藤は存在しない」と断言した心理学者である。
その言い分は、、、、うなるよ。
「人間の内部には葛藤など存在しない。個人(生体全体)が身体や精神を動かすのであり、仮に意識と無意識、理性と本能などの葛藤があったとしても、それは見かけ上のものであり、様々な各要素は分業しつつ協力し合いながら1つの方向に向かっている」と言った。
これを「全体論」と言う。
アドラー心理学を「個人心理学」と言うゆえんも、ここにある。
これね、ある意味、正しい。
しつこいが、私の夫はアル中である。
私の尊敬するアル中の権威でもある I先生は言う。
「アル中は嘘つきです。酒を止める止めると云いながら飲む。それがアル中です。だから、家族は行動を見てあげて下さい。<酒を止められるか不安だ>と云いながらも自助グループに通い続けているかどうか、<酒を止める>と云いながら、お酒を飲み続けているのか。行動がすべてですよ」と。
ついでに。
アドラーは「人間の行動の原因よりも目的を理解しよう」とした。
これを「目的論」と言う。
これもね、すっごく正しい。
たとえば、家族メンバーに神経症の患者がいたとする。
その患者がなぜ神経症を発したのか、と考察するのも正しいが、家族内で犯人探しをしても意味がナイのも確かなのである。
その時、アドラーの言う目的論を念頭に入れて考えると、神経症患者の「疾病利得」(病気になることによって、何に作用し、何がメリットとなっているのか)から家族内の病理が理解できるんだよね。
それから。
アドラーは神経症患者の根拠に「劣等感コンプレックス」をあげた。
アドラーの言う劣等感コンプレックスとは、不安や怒り、罪悪感などの陰性感情と、妄想や抑うつなどの症状を言う。
私は、こういったことにもとても同感できる。
んでもって、「共同体感覚の育成」ね。
これは自助グループに通っていれば、理屈ではなく体感できることだ。
様々な人格理論があるけれど、どれもみな、知っていて損はないのが心理学の面白さだね。
あとはね〜。
試験勉強していて、すごく感銘を受けたのは、マズローとロジャーズかな。
人間を肯定的存在として、その自己成長力に信頼をおいた二人の理論は、勉強していてとても心が洗われる。
私も、そう在りたいものだな〜っと、素直に思う。
マズローの理論は特に素晴らしい。
マズローの欲求段階説は有名だよね。
マズローは、欠乏欲求が満たされてはじめて生じる成長欲求は、自己実現に動機づけられていると言った。
その通りだな〜っと思う。
そういえば。
先日、「吃音のつどい」という吃音の研究発表会に参加する機会があったのだ。
んでね、回復モデルとして示されたのが、ロジャーズの提唱した「自己一致の状態」とかぶってる。
吃音は、残念ながら、いまの科学では原因も治療法も解明されていない。
しかし、吃音を「負」と捉えるか、「正」と捉えるか、によって本人の「生きづらさ」は変化するのだ。
いい勉強になった。
話がとっても散文的でごめんなさい。
今、このように大学で勉強することがとても楽しい日々である。
勉強ってのは、実学であるものなんだよね。
これ、私の学部のモットーなんだけど。
「心理学は実学である」という。。。。。
そういうことも素晴らしい!っと私は思うんだよね。
そういえば。
12月に、私は自分の大学の通学生200人の前で、アル中妻&AC本人としてスピーチすることになった。
社会保険福祉士を目指す3年生の学生たちの前で、である。
今、あらためて自助グループの代表に、とても感謝の気持ちでいっぱいだ。
こうやって私が今を充実して生きていけるようになったのも、そんなチャンスをいただけるようになったのも、すべては自助グループの代表との出会いがあってこそだ。
んでもね、まだまだ私はひよっこである。
この先も、必死に先輩たちについていくのみである。
今、私は「人」が大好きだ。
人との出会いこそ、本当に財産であると実感している。
それこそ、私の人生の「宝物」である〜。
2009年09月04日
ブログの付き合い。
2〜3ヶ月前から、私はBohさんのブログ以外、まったく他人のブログを訪問することを止めた。
。。。というか、自然にかな。
自然に、訪問しなくなった。
それまで、何人かの仲間とは内緒機能のコメントでやり取りし合っていたが、今はそういったことも一切していない。
訪問しなければコメントを入力することもなく、コメントを入力しなければ返事コメントも来ない。
今、それで良かったと思っている。
私もブログでは、結構な痛い目を見ている。
悪口を垂れ流したあげくに閉鎖するハメになったり、コメントに一喜一憂して振り回されたり。
そういった経験を通して思うのは、やはり現実の顔を合わせた付き合いでなければ意味がないということ。
伝えられる、伝え合うツールとしての限界があること。
つまり、ブログに振り回される自分の愚かさ。
それを学んだ。
だから現在は、細々とやっているブログに、現実の付き合いのある人々からのコメントが入ったら、それに対して自分のブログで返事を返すぐらいだ。
現実の人付き合いでも苦労しているのだから、ブログなどの仮想空間で人脈を広げることほど危険なことはない。
また、現実に付き合いがある人でも、付き合いはブログ上ではなく現実の世界で行うこと。
それが大前提だと思う。
ブログをどう使用するか。
それは、このように大人でも難しい。
これが、子どもであったならば、本当に危険。
子どもが自分の身を守る方法を知らずして、ブログやプロフ、ネットでの人との交流に手を出すのは危険きわまりない。
私はそれを身を以て経験した。
まず、使い方を間違えた自分に反省する。
匿名性を盾にして、他人の悪口を垂れ流した自分を愚かだと思っている。
そして、次に、そういった人間関係しか築けなかった自分自身の幼稚さを反省する。
現実の世界で、きちんと自分や他人と向き合えない人間は、どんなツールを使っても真の仲間はできない。
真の信頼は得られない。
そこで一時期に得たと思った共感や人とのつながりとは、しょせん仮想空間の幻想に過ぎないんだよね。
残るのは虚しさだ。
細々とやっているブログは、言うなれば私の個人史のようなものであり、そこに行き場のないストレスや不満をぶつけることはなくなった。
書けなくなった。
今では、たいがいのことは、自助グループで消化できるようになったから。
でもって、自分の愛し方、自分の身の守り方、そういったことを日々学ばせてもらっているから、人への不満を垂れ流しできなくなった。
それは、間違っていることとわかったから。
自分を愛しているから、、、、自分を守る適切な方法を少しずつ知った今となっては、、、、ブログの使用の仕方は慎重にならざるを得ない。
それが自分を守る方法なのだから。
正しいことと、間違っていることというのが、あやふやな時代だ。
1つ1つの事柄に対して、多様な見方をすると、善悪の判断付けが難しい時代だ。
けれど、そういった軸を1つ1つ、きちんと消化して自己責任で判断していける自分でありたいと私は思っている。
失敗や間違いを不必要に恐れる必要はないけれども、自分の守り方、自分の愛し方を1つ1つの失敗を通して正しく身に付けていける自分でありたいと思っている。
。。。というか、自然にかな。
自然に、訪問しなくなった。
それまで、何人かの仲間とは内緒機能のコメントでやり取りし合っていたが、今はそういったことも一切していない。
訪問しなければコメントを入力することもなく、コメントを入力しなければ返事コメントも来ない。
今、それで良かったと思っている。
私もブログでは、結構な痛い目を見ている。
悪口を垂れ流したあげくに閉鎖するハメになったり、コメントに一喜一憂して振り回されたり。
そういった経験を通して思うのは、やはり現実の顔を合わせた付き合いでなければ意味がないということ。
伝えられる、伝え合うツールとしての限界があること。
つまり、ブログに振り回される自分の愚かさ。
それを学んだ。
だから現在は、細々とやっているブログに、現実の付き合いのある人々からのコメントが入ったら、それに対して自分のブログで返事を返すぐらいだ。
現実の人付き合いでも苦労しているのだから、ブログなどの仮想空間で人脈を広げることほど危険なことはない。
また、現実に付き合いがある人でも、付き合いはブログ上ではなく現実の世界で行うこと。
それが大前提だと思う。
ブログをどう使用するか。
それは、このように大人でも難しい。
これが、子どもであったならば、本当に危険。
子どもが自分の身を守る方法を知らずして、ブログやプロフ、ネットでの人との交流に手を出すのは危険きわまりない。
私はそれを身を以て経験した。
まず、使い方を間違えた自分に反省する。
匿名性を盾にして、他人の悪口を垂れ流した自分を愚かだと思っている。
そして、次に、そういった人間関係しか築けなかった自分自身の幼稚さを反省する。
現実の世界で、きちんと自分や他人と向き合えない人間は、どんなツールを使っても真の仲間はできない。
真の信頼は得られない。
そこで一時期に得たと思った共感や人とのつながりとは、しょせん仮想空間の幻想に過ぎないんだよね。
残るのは虚しさだ。
細々とやっているブログは、言うなれば私の個人史のようなものであり、そこに行き場のないストレスや不満をぶつけることはなくなった。
書けなくなった。
今では、たいがいのことは、自助グループで消化できるようになったから。
でもって、自分の愛し方、自分の身の守り方、そういったことを日々学ばせてもらっているから、人への不満を垂れ流しできなくなった。
それは、間違っていることとわかったから。
自分を愛しているから、、、、自分を守る適切な方法を少しずつ知った今となっては、、、、ブログの使用の仕方は慎重にならざるを得ない。
それが自分を守る方法なのだから。
正しいことと、間違っていることというのが、あやふやな時代だ。
1つ1つの事柄に対して、多様な見方をすると、善悪の判断付けが難しい時代だ。
けれど、そういった軸を1つ1つ、きちんと消化して自己責任で判断していける自分でありたいと私は思っている。
失敗や間違いを不必要に恐れる必要はないけれども、自分の守り方、自分の愛し方を1つ1つの失敗を通して正しく身に付けていける自分でありたいと思っている。
2009年09月02日
政権交代で日本が変わるというよりも。。。。
どこかのCMじゃないが、「私が変われば、未来は変わる」ということだよね〜。
政権交代したからといって、なんでも議会が、議員が、政党が、、、、自分たちの暮らしを変えてくれると思うのは、ちょっと違うよね。
確かに、国民投票で決めるわけだから、議員は、議会は、有権者の意思に鈍感になってはいけないけれど、「投票したんだから、後はよろしく〜」と、国の行く末を議員に丸投げしてはいけない。
日常の生活の中で、社会とは、人間とは、福祉とは、経済とは。。。。っと、国民1人1人が考え、行動することの方が、なんぼも日本は変わる起爆剤になると思うんだよね〜。
たとえば。
職場イジメを許さないとか、パワハラ上司に抗議するとか、会社や周囲の法に反する行為を許さないとか、社会的弱者の人々を虐げないとか、他人の足を引っ張らないとか、自分の損得ばっかり考えないとか。
そういう行動を、1人1人が起こせば、日本は変わる。
確実に。
人を信用できない人間が増えているな〜っと思う。
わし、先日に車をぶつけられたんだけれども、ぶつけてきた相手に開口一番に怒鳴られた。
わしも怒鳴り返した。
まあ、それでも最後は円満に示談したのだけれども。
でも、今になって思うのは、自動車事故といったような交渉の場で、どこか「ごめんなさい」と先に言った方が負け=損をする。。。というような価値意識があるのかな?っと思った。
それから、事故の後の数日間、相手は「体調はどうですか?」と電話をくださった。
あまりに低姿勢なので、気の毒になった。
ほら、事故の後に「むちうちになった」と言っては治療費を延々と請求する悪意のある人間がいるらしいことは私も知っていたが、それを警戒しているのかな。。。。っと。
こんな世の中では、確かに人間を信用するのはムズカシイのかもしれない。
「人を信用しない」というのは自己防衛規制なのだろうけども、そもそも人間を「信用できる」とか「できない」とか考えてしまうと、その先がないよね?
それに、悪く言えば。
相手との相互作用であるさまざまな責任を回避しているようにも思える。
結局、責任転嫁しているように思えるんだよね〜、相手に。
「政権交代で日本は変わるか?」なんて問いも同じで、なんだか無責任に思える。
政治の行く末を、政権与党の行く末を、しっかり国民が監視して見届けてこその日本だよね。
先日の例会でも「人を信用できない」とおっしゃった人がいた。
私はすごくその言葉に違和感を憶えた。
「人を信用できない」のは、自分と向き合えていないからではないだろうか。。。っと思ったからだ。
私も昔はそう思っていた。
けれど、今はそうは思わない。
その言葉は、キレイだけれど、相手に責任を転嫁しているように聞こえる。
人と信頼関係が結べないのは、それに悩むのは、、、、その理由は、自分の心の中に存在すると思う。
「私が変われば、未来は変わる」
どこかのCMのフレーズだけど、その考えの方が、今の私にはしっくりする。
政権交代したからといって、なんでも議会が、議員が、政党が、、、、自分たちの暮らしを変えてくれると思うのは、ちょっと違うよね。
確かに、国民投票で決めるわけだから、議員は、議会は、有権者の意思に鈍感になってはいけないけれど、「投票したんだから、後はよろしく〜」と、国の行く末を議員に丸投げしてはいけない。
日常の生活の中で、社会とは、人間とは、福祉とは、経済とは。。。。っと、国民1人1人が考え、行動することの方が、なんぼも日本は変わる起爆剤になると思うんだよね〜。
たとえば。
職場イジメを許さないとか、パワハラ上司に抗議するとか、会社や周囲の法に反する行為を許さないとか、社会的弱者の人々を虐げないとか、他人の足を引っ張らないとか、自分の損得ばっかり考えないとか。
そういう行動を、1人1人が起こせば、日本は変わる。
確実に。
人を信用できない人間が増えているな〜っと思う。
わし、先日に車をぶつけられたんだけれども、ぶつけてきた相手に開口一番に怒鳴られた。
わしも怒鳴り返した。
まあ、それでも最後は円満に示談したのだけれども。
でも、今になって思うのは、自動車事故といったような交渉の場で、どこか「ごめんなさい」と先に言った方が負け=損をする。。。というような価値意識があるのかな?っと思った。
それから、事故の後の数日間、相手は「体調はどうですか?」と電話をくださった。
あまりに低姿勢なので、気の毒になった。
ほら、事故の後に「むちうちになった」と言っては治療費を延々と請求する悪意のある人間がいるらしいことは私も知っていたが、それを警戒しているのかな。。。。っと。
こんな世の中では、確かに人間を信用するのはムズカシイのかもしれない。
「人を信用しない」というのは自己防衛規制なのだろうけども、そもそも人間を「信用できる」とか「できない」とか考えてしまうと、その先がないよね?
それに、悪く言えば。
相手との相互作用であるさまざまな責任を回避しているようにも思える。
結局、責任転嫁しているように思えるんだよね〜、相手に。
「政権交代で日本は変わるか?」なんて問いも同じで、なんだか無責任に思える。
政治の行く末を、政権与党の行く末を、しっかり国民が監視して見届けてこその日本だよね。
先日の例会でも「人を信用できない」とおっしゃった人がいた。
私はすごくその言葉に違和感を憶えた。
「人を信用できない」のは、自分と向き合えていないからではないだろうか。。。っと思ったからだ。
私も昔はそう思っていた。
けれど、今はそうは思わない。
その言葉は、キレイだけれど、相手に責任を転嫁しているように聞こえる。
人と信頼関係が結べないのは、それに悩むのは、、、、その理由は、自分の心の中に存在すると思う。
「私が変われば、未来は変わる」
どこかのCMのフレーズだけど、その考えの方が、今の私にはしっくりする。
2009年08月26日
人を憎むのは。。。。
この頃、すっかり他人をキライに思ったり、憎んだりする気持ちから解放された。
すべて、過去のことだ。
その原因は、簡単に言うと、今の自分が大好きだからだ。
いたらないところも多々ある私だが、そういう弱さを含めて、等身大の自分をやっと受け入れることができたからだ。
これ、すべて認知行動療法のおかげ。
いろんなミーティングに参加した。
その道では有名な先生のミーティング。
それから斎藤学先生の講演会。
でも、やっぱりbohさんの例会が一番に私を成長させてくれた。
自助グループのミーティングというのは、自然に認知と行動を変化させていける絶好の学びの場だ。
罪を憎んで人を憎まず。
Bohさんは私の甘えは許してくれないが、私という全体論での私自身をいつも肯定してくれる。
そういった人間との出会いが、私の世界を広げてくれた。
世の中、条件付きでしか他人を愛せない人が多い。
無条件に他人を承認する、という感覚がない人が多い。
でも、自分がそうであるように、誰しもが個人の尊厳を持つ。
自分がそうであるように、誰しもが個の自由の権利を持っているのだ。
そんな簡単なことを「認められない」人間が多い。
他人をコントロールできないことを認めるのは、その反面で自分が誰からもコントロールされない自由を認めることでもある。
どっちがいい?
他人をコントロールできるなら、自分に自由がなくてもいい?
でもね。
考えてもみて。
他人は絶対にコントロールできないんだよ。
それはムリなことなの。
その現実を認めよう。
それを認められないから、他人をキライになる。
他人を憎んでしまうようになる。
でも、その葛藤に終わりはナイんだよ。
なぜなら、人間は他者の心を自在に操ることなど、絶対にできないのだから。
もっと、きつく言えば、それはおこがましい行為だ。
だから、他人を思うがままにコントロールできない葛藤、、、、つまり、心の不協和は、自分のなかで消化していくしかないんだ。
そのかわり、私たちは、誰からもコントロールされない自由があるということを忘れないで。
それを知る方が、よっぽど幸せなんだよ。
それを知ったとき、私は「ああ、自分の可能性は無限大なんだな」とわかったの。
何事も私次第。
私次第なの。
私のことは、私がコントロールできるのだから!!!!
すごいでしょ。
こんな簡単なことが私にはわからなかった。
自助グループに2年半、通い続けて、やっとそれを理解できた。
だから、私は今、他人を憎んだり、恨んだり、、、そういう感情に心が支配されることがなくなった。
だって、他人のことはどうにもならないんだから。
あるとすれば、唯一、それは「相互作用」。
私の内面の変化が、、、回り回って相手に変化を与える可能性があるってこと。
可能性。
いいね〜。
希望があるね。
まあ、でも他人に過度な期待はしちゃいけない。
そのかわり、不必要に人間不信を感じることもない。
私の心が流動的であるように、他人の心もまた刻々と変化していくのが当たり前なのだ。
世界は無常なのだから。
いつか、I先生が言っていた。
「もっと、出たとこ勝負でいいんじゃない」っと。
ホント、私もそう思う。
先取り不安。
これ、良くない。
過去のパターンに囚われると、、、、、未来はみごとにパターン化するものなの。
自分の認知や行動が変わらなければ、人間関係というのは硬直化するのだ。
誰が相手であろうとも。
相手が悪いのではない。
自分が硬直化していることに気づいて。
そして、そこから一歩踏み出す勇気。
AAの「平安の祈り」。
いつか、I先生はこう言った。
「平安の祈りは、人間の心の健康をみごとに言い表していますね」と。
私もそれに同感。
興味があったら調べてみてほしい。
とてもシンプルだけど、深く、そして的を得た素晴らしい祈りなんだよ。
すべて、過去のことだ。
その原因は、簡単に言うと、今の自分が大好きだからだ。
いたらないところも多々ある私だが、そういう弱さを含めて、等身大の自分をやっと受け入れることができたからだ。
これ、すべて認知行動療法のおかげ。
いろんなミーティングに参加した。
その道では有名な先生のミーティング。
それから斎藤学先生の講演会。
でも、やっぱりbohさんの例会が一番に私を成長させてくれた。
自助グループのミーティングというのは、自然に認知と行動を変化させていける絶好の学びの場だ。
罪を憎んで人を憎まず。
Bohさんは私の甘えは許してくれないが、私という全体論での私自身をいつも肯定してくれる。
そういった人間との出会いが、私の世界を広げてくれた。
世の中、条件付きでしか他人を愛せない人が多い。
無条件に他人を承認する、という感覚がない人が多い。
でも、自分がそうであるように、誰しもが個人の尊厳を持つ。
自分がそうであるように、誰しもが個の自由の権利を持っているのだ。
そんな簡単なことを「認められない」人間が多い。
他人をコントロールできないことを認めるのは、その反面で自分が誰からもコントロールされない自由を認めることでもある。
どっちがいい?
他人をコントロールできるなら、自分に自由がなくてもいい?
でもね。
考えてもみて。
他人は絶対にコントロールできないんだよ。
それはムリなことなの。
その現実を認めよう。
それを認められないから、他人をキライになる。
他人を憎んでしまうようになる。
でも、その葛藤に終わりはナイんだよ。
なぜなら、人間は他者の心を自在に操ることなど、絶対にできないのだから。
もっと、きつく言えば、それはおこがましい行為だ。
だから、他人を思うがままにコントロールできない葛藤、、、、つまり、心の不協和は、自分のなかで消化していくしかないんだ。
そのかわり、私たちは、誰からもコントロールされない自由があるということを忘れないで。
それを知る方が、よっぽど幸せなんだよ。
それを知ったとき、私は「ああ、自分の可能性は無限大なんだな」とわかったの。
何事も私次第。
私次第なの。
私のことは、私がコントロールできるのだから!!!!
すごいでしょ。
こんな簡単なことが私にはわからなかった。
自助グループに2年半、通い続けて、やっとそれを理解できた。
だから、私は今、他人を憎んだり、恨んだり、、、そういう感情に心が支配されることがなくなった。
だって、他人のことはどうにもならないんだから。
あるとすれば、唯一、それは「相互作用」。
私の内面の変化が、、、回り回って相手に変化を与える可能性があるってこと。
可能性。
いいね〜。
希望があるね。
まあ、でも他人に過度な期待はしちゃいけない。
そのかわり、不必要に人間不信を感じることもない。
私の心が流動的であるように、他人の心もまた刻々と変化していくのが当たり前なのだ。
世界は無常なのだから。
いつか、I先生が言っていた。
「もっと、出たとこ勝負でいいんじゃない」っと。
ホント、私もそう思う。
先取り不安。
これ、良くない。
過去のパターンに囚われると、、、、、未来はみごとにパターン化するものなの。
自分の認知や行動が変わらなければ、人間関係というのは硬直化するのだ。
誰が相手であろうとも。
相手が悪いのではない。
自分が硬直化していることに気づいて。
そして、そこから一歩踏み出す勇気。
AAの「平安の祈り」。
いつか、I先生はこう言った。
「平安の祈りは、人間の心の健康をみごとに言い表していますね」と。
私もそれに同感。
興味があったら調べてみてほしい。
とてもシンプルだけど、深く、そして的を得た素晴らしい祈りなんだよ。
捨てておいたが、、、、
このブログ。
事情があって捨てておいたが、閲覧者がいるようだ。
歓迎すべき閲覧者である。
今、私は他社のブログでいろいろな日々の思いを吐露している。
このブログを更新しなくなってから、1年半以上が過ぎる。
その間、私はいろいろと成長したと思う。
物事の考え方というのは、あれから、また様々に変化した。
ずっと、ずっと、Bohさんに支えてもらっている。
それと、Bohさんの後を追いかけて、大学に入学したことが大きかったかな。
いろいろ学習した。
Bohさんに時には叱咤され、時には励まされ、ここまできた。
今年は返済不要の奨学金給付を受けられた。
もちろん、返済不要というからには、、、、選考がある。
私はそれほど成績優秀ではないが、なんの間違いか、、、選考に通った。
大学に感謝!
そして。
必死に勉学に励めたのも、Bohさんと家族の支えがあってこそだ。
そのことによって、とても自分に自信を持てるようになった。
Bohさんとの出会いは、あれから2年半が過ぎても、奇跡のように思える。
Bohさんと出会う前、私は人間というものがわからなかった。
他人というものがわからなかった。
でも、それは、自分がわからないということだったんだよね。
人を上手に愛せないのは。
人と信頼関係を結べないのは。
人と心地の良い距離感で付き合えないのは。
これ、すべて自分を上手く愛せていないから。
そうわかったのだ。
心理学で「自己一致」という言葉がある。
興味のある人は調べてみてほしい。
この自己一致ができていないと、人間は自分を承認できない。
自分を肯定できない。
他人と上手く付き合えないのは。
人間関係において「生きにくさ」を抱えてしまうのは。
ありのままの自分を、ありのままの姿で、承認していないからだ。
自分の弱さ。
自分の愚かさ。
これらと向き合うというのは、ムズカシイようでいて、とても簡単。
でも、現代人は皆、これが苦手。
なせなら、周囲に自己一致している大人が少ないから。
自己一致の概念を教えてくれる大人に巡り会えない。
とても不幸なことだ。
自分を知る。
自分を守る。
自分を承認する。
こういったこととは真逆の価値意識が社会の大多数を覆っている。
自分を愛する。
っというのは、弱点も含めてなのだ。
弱点は恥ずべきものではない。
本当の意味での自分の愛し方。
私は今、すっごく楽に息を吸っている。
事情があって捨てておいたが、閲覧者がいるようだ。
歓迎すべき閲覧者である。
今、私は他社のブログでいろいろな日々の思いを吐露している。
このブログを更新しなくなってから、1年半以上が過ぎる。
その間、私はいろいろと成長したと思う。
物事の考え方というのは、あれから、また様々に変化した。
ずっと、ずっと、Bohさんに支えてもらっている。
それと、Bohさんの後を追いかけて、大学に入学したことが大きかったかな。
いろいろ学習した。
Bohさんに時には叱咤され、時には励まされ、ここまできた。
今年は返済不要の奨学金給付を受けられた。
もちろん、返済不要というからには、、、、選考がある。
私はそれほど成績優秀ではないが、なんの間違いか、、、選考に通った。
大学に感謝!
そして。
必死に勉学に励めたのも、Bohさんと家族の支えがあってこそだ。
そのことによって、とても自分に自信を持てるようになった。
Bohさんとの出会いは、あれから2年半が過ぎても、奇跡のように思える。
Bohさんと出会う前、私は人間というものがわからなかった。
他人というものがわからなかった。
でも、それは、自分がわからないということだったんだよね。
人を上手に愛せないのは。
人と信頼関係を結べないのは。
人と心地の良い距離感で付き合えないのは。
これ、すべて自分を上手く愛せていないから。
そうわかったのだ。
心理学で「自己一致」という言葉がある。
興味のある人は調べてみてほしい。
この自己一致ができていないと、人間は自分を承認できない。
自分を肯定できない。
他人と上手く付き合えないのは。
人間関係において「生きにくさ」を抱えてしまうのは。
ありのままの自分を、ありのままの姿で、承認していないからだ。
自分の弱さ。
自分の愚かさ。
これらと向き合うというのは、ムズカシイようでいて、とても簡単。
でも、現代人は皆、これが苦手。
なせなら、周囲に自己一致している大人が少ないから。
自己一致の概念を教えてくれる大人に巡り会えない。
とても不幸なことだ。
自分を知る。
自分を守る。
自分を承認する。
こういったこととは真逆の価値意識が社会の大多数を覆っている。
自分を愛する。
っというのは、弱点も含めてなのだ。
弱点は恥ずべきものではない。
本当の意味での自分の愛し方。
私は今、すっごく楽に息を吸っている。
2008年01月03日
新年ですね。
元旦、2日、と私は仕事をして、本日は休み。
帰省している弟は、連日トモダチとの飲み会に明け暮れて楽しそうである。
なによりである。
そんなわけで今朝も弟は不在。
家では一滴もお酒を飲まない弟であるが、飲み会では飲んでいるのだろうかね。
まあ、そんなことはどうでもいい。
Wの会に弟が行くのは7日の午後である。
私は仕事なので一緒には行かないけれど、なんとなくドキドキする。
が、義兄の仕事の都合で10日まで滞在することはできないようで、例会には参加できないようだ。
まあ、弟のことはいいのだ。
私。
じっくりと大学の募集要項パンフに目を通した。
ひょえ〜〜〜〜〜っである。
まず、Tさんのブログに書いてあった通りに提出書類の多いこと、多いこと。
志望動機のレポートは1000字である。
いつ、書けというのだ?????
。。。。ブログならサラサラ書けてもね、、、、そう上手くコトは進まないよな。
それから高校の卒業証明書やら戸籍謄本やら健康診断書、写真やら。。。。
う〜ん。
第一回目の締め切りが1月21日らしいので、それまでには用意したいものである。
頑張る。
私、頑張るぞ〜。
初詣で学業御守を買った。
するとTさんのブログでも、同様のことが書かれてあった。
なんとなくニヤ〜っとしてしまう。
私も順調に勉強が進むのか、不安で仕方がない。
無事に卒業したいという希望(私はまだ入学もしてないけど)と、課題をクリアできるのかという不安とが、
ない混ぜの気分である。
がね、自分で稼いだ金で学費を払うのは、同じ勉強でも学生時代とひと味違うとよ。
薄給の身であるからにして、爪に火を灯す様な赤貧に耐えながら学費を支払うのである。
これで留年などできるかーーーーー!!っである。
留年などして、不必要な学費を支払うのはイヤ!!!
貧乏人の底力を今こそ発揮せねばならんとよ。
貧乏人に年間20万円は大金である。
でもね、約70万円で大学4年間の勉強をできるのなら安いものである。
勉強とは、その勉強の仕方によってはお金に換えられない価値のあるものだと思う。
大学側が私の入学を認めてくださった暁には、必死に勉強しようと思う。
支払った額の10倍ぐらいの知識を頭に詰め込んで卒業することを目指そう。
。。。。知識はお金に換算できないけど。
。。。。ようするに、そのぐらいの心意気を持とう、ということです。
さて、私の目指す学科。
それはTさんに道を作っていただいたというのもあるけれど、Tさんと同じ学科に決めたとです。
冗談まじりにTさんがおっしゃった。
「卒業後に大学院に進めば○○の資格も取れるから」
そうか。
今は夢物語に聞こえるかもしれないけど、頑張って大学を卒業した時にはそれは実現可能な夢になるのではないだろうか。。。。。と素直に思えた。
すごいな〜。
人生はまだまだ無限大の可能性があるんだなー。
しかも私のちっちゃい人生の中でも。
つまり人間とは、誰しもが無限大の可能性を秘めているということだ。
人間は興味深い。
人間のココロとはなんと素晴らしいものであることか。
その「人間」について、私はびっちり大学で学ぶ予定だ。
ああ、学ぶ予定であるからにして、そろそろ志望動機のレポートを書かねばね。。。。。。
ブログを更新している場合じゃないか?!
帰省している弟は、連日トモダチとの飲み会に明け暮れて楽しそうである。
なによりである。
そんなわけで今朝も弟は不在。
家では一滴もお酒を飲まない弟であるが、飲み会では飲んでいるのだろうかね。
まあ、そんなことはどうでもいい。
Wの会に弟が行くのは7日の午後である。
私は仕事なので一緒には行かないけれど、なんとなくドキドキする。
が、義兄の仕事の都合で10日まで滞在することはできないようで、例会には参加できないようだ。
まあ、弟のことはいいのだ。
私。
じっくりと大学の募集要項パンフに目を通した。
ひょえ〜〜〜〜〜っである。
まず、Tさんのブログに書いてあった通りに提出書類の多いこと、多いこと。
志望動機のレポートは1000字である。
いつ、書けというのだ?????
。。。。ブログならサラサラ書けてもね、、、、そう上手くコトは進まないよな。
それから高校の卒業証明書やら戸籍謄本やら健康診断書、写真やら。。。。
う〜ん。
第一回目の締め切りが1月21日らしいので、それまでには用意したいものである。
頑張る。
私、頑張るぞ〜。
初詣で学業御守を買った。
するとTさんのブログでも、同様のことが書かれてあった。
なんとなくニヤ〜っとしてしまう。
私も順調に勉強が進むのか、不安で仕方がない。
無事に卒業したいという希望(私はまだ入学もしてないけど)と、課題をクリアできるのかという不安とが、
ない混ぜの気分である。
がね、自分で稼いだ金で学費を払うのは、同じ勉強でも学生時代とひと味違うとよ。
薄給の身であるからにして、爪に火を灯す様な赤貧に耐えながら学費を支払うのである。
これで留年などできるかーーーーー!!っである。
留年などして、不必要な学費を支払うのはイヤ!!!
貧乏人の底力を今こそ発揮せねばならんとよ。
貧乏人に年間20万円は大金である。
でもね、約70万円で大学4年間の勉強をできるのなら安いものである。
勉強とは、その勉強の仕方によってはお金に換えられない価値のあるものだと思う。
大学側が私の入学を認めてくださった暁には、必死に勉強しようと思う。
支払った額の10倍ぐらいの知識を頭に詰め込んで卒業することを目指そう。
。。。。知識はお金に換算できないけど。
。。。。ようするに、そのぐらいの心意気を持とう、ということです。
さて、私の目指す学科。
それはTさんに道を作っていただいたというのもあるけれど、Tさんと同じ学科に決めたとです。
冗談まじりにTさんがおっしゃった。
「卒業後に大学院に進めば○○の資格も取れるから」
そうか。
今は夢物語に聞こえるかもしれないけど、頑張って大学を卒業した時にはそれは実現可能な夢になるのではないだろうか。。。。。と素直に思えた。
すごいな〜。
人生はまだまだ無限大の可能性があるんだなー。
しかも私のちっちゃい人生の中でも。
つまり人間とは、誰しもが無限大の可能性を秘めているということだ。
人間は興味深い。
人間のココロとはなんと素晴らしいものであることか。
その「人間」について、私はびっちり大学で学ぶ予定だ。
ああ、学ぶ予定であるからにして、そろそろ志望動機のレポートを書かねばね。。。。。。
ブログを更新している場合じゃないか?!
2007年12月31日
今年最後の日を迎えて
皆さん、どうもありがとう。
今年は感謝の年だった。
皆さん、本当にありがとう。
今年は人に支えられた年だった。
自治体、どうもありがとう。
今年は初めて役所の福祉課&家庭健康課にお世話になった。
お父さん、お母さん、いろいろありがとう。
。。。。こんな私でも、両親に感謝の気持ちはきちんとあります。
お姉ちゃん、いろいろごめんね。
。。。なんとなく、申し訳なく思っています。
弟よ、いろいろありがとう。
。。。おかげでいろいろ勉強させてもらいました。
そしてアル中の夫、ありがとう。
あなたのおかげで、人生を生き直すことができています。
ずーーーっと前に別れた前夫へ。
今年はあなたのことを思い出すことが多い年でした。
償いのできない後悔は、今も私を苦しめているけれど、それが私の生きる糧にもなっています。
そして、子供へ。
日々、目に見えて成長していく子供を抱きしめながら生きられることが、私の1番の喜びになっています。
子供の背中にいつも小さい頃の自分を感じ、子供を愛することが自分を愛することに直結している気がしています。
私の存在をいつも子供は意識している。
少し場を離れた私を見つけ出した時、子供は私に向かって両手を広げる。
手のひらまでいっぱいに広がった子供の小さな両手に、まるで世界さえすっぽり入るような錯覚を覚え、子供ではなくて、私がいつも子供に抱きしめられているように感じている。
子供は時折、「世界で1番ママちゃんが好きなの〜」と、私の耳元でささやく。
この頃は「大丈夫よ、ママちゃん。○○ちゃんがそばにいるからね!」っと私を励ましてくれる。
子供は私が語りかけること、私の仕草、私の全てを真似をする。
私が子供に語りかける言葉は、いずれ子供が私に語りかける言葉として、私のもとに返ってくる。
私はココロから安堵する。
子供を抱きしめる時、私は自分を抱きしめている。
そこに世界を感じるのは、、、、あながち勘違いではないよね?
そして子供を愛おしいと思う時、いつかはきちんと誰かを愛することができるのではないか、という希望が見える。
子供に希望を見い出す。
自分に希望を見い出す。
しかし、難しく考えることはない。
子育てを難しく考えないことにしている。
私は上手な子育てなど目指していない。
目指したってムリというものだ。
子供の両手と、私の両手で、互いを抱きしめ合いながら歩んで行ければいいと思っている。
子供よ、私のもとへ産まれてきてくれてありがとう。
振り返ってみれば、濃密な1年であった。
ありがとう。
今年は感謝の年だった。
皆さん、本当にありがとう。
今年は人に支えられた年だった。
自治体、どうもありがとう。
今年は初めて役所の福祉課&家庭健康課にお世話になった。
お父さん、お母さん、いろいろありがとう。
。。。。こんな私でも、両親に感謝の気持ちはきちんとあります。
お姉ちゃん、いろいろごめんね。
。。。なんとなく、申し訳なく思っています。
弟よ、いろいろありがとう。
。。。おかげでいろいろ勉強させてもらいました。
そしてアル中の夫、ありがとう。
あなたのおかげで、人生を生き直すことができています。
ずーーーっと前に別れた前夫へ。
今年はあなたのことを思い出すことが多い年でした。
償いのできない後悔は、今も私を苦しめているけれど、それが私の生きる糧にもなっています。
そして、子供へ。
日々、目に見えて成長していく子供を抱きしめながら生きられることが、私の1番の喜びになっています。
子供の背中にいつも小さい頃の自分を感じ、子供を愛することが自分を愛することに直結している気がしています。
私の存在をいつも子供は意識している。
少し場を離れた私を見つけ出した時、子供は私に向かって両手を広げる。
手のひらまでいっぱいに広がった子供の小さな両手に、まるで世界さえすっぽり入るような錯覚を覚え、子供ではなくて、私がいつも子供に抱きしめられているように感じている。
子供は時折、「世界で1番ママちゃんが好きなの〜」と、私の耳元でささやく。
この頃は「大丈夫よ、ママちゃん。○○ちゃんがそばにいるからね!」っと私を励ましてくれる。
子供は私が語りかけること、私の仕草、私の全てを真似をする。
私が子供に語りかける言葉は、いずれ子供が私に語りかける言葉として、私のもとに返ってくる。
私はココロから安堵する。
子供を抱きしめる時、私は自分を抱きしめている。
そこに世界を感じるのは、、、、あながち勘違いではないよね?
そして子供を愛おしいと思う時、いつかはきちんと誰かを愛することができるのではないか、という希望が見える。
子供に希望を見い出す。
自分に希望を見い出す。
しかし、難しく考えることはない。
子育てを難しく考えないことにしている。
私は上手な子育てなど目指していない。
目指したってムリというものだ。
子供の両手と、私の両手で、互いを抱きしめ合いながら歩んで行ければいいと思っている。
子供よ、私のもとへ産まれてきてくれてありがとう。
振り返ってみれば、濃密な1年であった。
ありがとう。
2007年12月30日
私の弱点
先日、Tさんに「親との関係が○○さん(私)の弱点である」ということを言われた。
続いてTさんは「(両親に)悪意はないのだから」とも。
私はびっくりした。
悪意はない?????
そうだったっけ?。。。。という感じだ。
ちょうど、その2日前に以前住んでいたアパートの大家さんからあるコトを聞いていた。
それは母親がまた周囲に「娘(私)に意地悪をされて夜も眠れない。ひどい娘だ」と悪口の数々をまき散らしている。。。。という事実だ。
っと言っても、それは少し前の話である。
「疲れた」と私が言ったことに対して母親がガミガミと嫌味を返してきたことによって、しばらく互いに口をきかなかった時期のことである。
そんなことは想定内である。
なぜなら私が在宅時、内容を聞かれたくないために母親が庭で誰かに電話しているのを数回目撃していた。
そんな時には私に対する罵詈雑言を吐き出しているに違いない。
っと、思っていた。
そんなにコソコソしてまで私の悪口を言いたいのか〜、っと私はある意味、その執念に感心した。
そして、勝手に言っておれ!っと放っておいた。
どうせ電話の相手は姉か、もしくは近所のおばちゃんである。
こういうの、、、、、Tさんのおっしゃる通りに悪意はないのかな〜。
。。。。が、きっと母親からしてみれば悪意はないのだろうね。
彼女は共依存だから、「愛してほしい」という気持ちの裏返しで、他人の憎むのかもしれない。
この頃思うのは、母親は一人芝居が好きなのだな〜。。。。っと。
一人で騒ぎ、一人で泣きわめき、一人でコトを大袈裟にし、一人で周囲を巻き込んでいく。
巻き込まれた人々を少々気の毒に思うが、裏を返せば好きで巻き込まれているのだから放っておけ!っという感じである。
母親のヨタ話に真剣に付き合うとは、なんとココロにも時間にも余裕のある方々なのだろう。。。っと羨ましくもなる。
。。。。嫌味です。
ははは。
私にはそんな時間はない。
ココロに余裕があるのならば、美しいもの、楽しいもの、明るくなれるもの、に意識を集中させたいし、この頃はそう努力している。
今朝、Tさんのブログを覗いたら「奇跡」という言葉が使われていた。
すっごく良い言葉だな〜っと思った。
「奇跡」は私だって私の人生に作り出すことができる気がするもん。
でも私1人の力ではムズカシイのだ。
「奇跡」はきっと、頑張っている人に神様が与えてくれるご褒美のような感じがする。
言い替えると、私に「奇跡」をおこしてくれるのは、人とのつながりの結果なのではないか、と。
話がそれた。
私の弱点。
そうだ。
本当に弱点だ。
私にはきっと親に対して悪意がある。
自分に悪意があるから、相手にもそれを感じる。
それは事実だ。
が、真実として親に悪意がないと、思える日もあれば思えない日もある。
こういうことを考え出すとキリがないので、自立したいな〜っと思うわけだ。
親に対する恨みはなかなか克服がムズカシイ。
I先生は笑い飛ばす。
「そんなに簡単に恨みの感情はとれませんよ」っと。
ホントだね。
でも意識をそこに集中させないでやり過ごせるようになってきているから、気持ちはとても楽である。
母親の一人芝居も、それに振り回されている人々の言動も、私のココロに侵入させない。
侵入させなければいいだけの話だ。
まだまだ対症療法に過ぎないけれども、それだけでも私はとても生きやすくなった。
私は私の道を行く。
私を勝手に評価したいのならすればいい。
私を「ダメだ」と決めつけたいのならすればいい。
私はそんなことを気にはしないんだ。
私は私の希望に向かって歩いていくんだもんねー。
大丈夫。
世の中はそんなに悪意に満ちたものではない、ときちんと思えている。
そして自分という存在が、それほど大層なものではないということも。
もっと成長したいと思う自分はもちろん未完成で未熟なものであるけれど、自分を愛する気持ちはそういうこととは別なのだと思う。
未熟でも未完成でも、自分を愛していいのである。
明日に向かって希望を持てる自分が在るならば、未熟でも未完成でも胸を張っていいのだ。
Tさんと出会って、I先生と出会って、自己矛盾が霧が晴れるように解消しているのが嬉しい。
親の言うこと、自分が考えること、社会のルール、他人という存在。
そんな様々な要因に矛盾を抱えずに生きることって、実はとてもムズカシイことだよね?
消化できない矛盾を抱えて生きるのは、私にとってとてもストレスだった。
自助グループや家族ミーティングで学んだことは、そういう意味でも多いに役立っている。
人間、自己矛盾を解消することができれば、それほどの愚痴は口から出て来ないと思うんだよね。
状況は変わらずとも、自分のココロの有り様にストンと落ちどころがあれば、必ずしも大きなストレスには発展しない。
先日の例会で副代表のSさんに少し心配された。
未来を不安に感じない自分がいると言ったところ「何も不安がないと言われると、それが不安です」と。
Sさんのそのコメントは、私のココロにきちんと残っている。
ブレーキの役割だな〜。
来年は私も少しは周囲の人間の役に立てたらいいな〜。
なんて思うこの頃である。
続いてTさんは「(両親に)悪意はないのだから」とも。
私はびっくりした。
悪意はない?????
そうだったっけ?。。。。という感じだ。
ちょうど、その2日前に以前住んでいたアパートの大家さんからあるコトを聞いていた。
それは母親がまた周囲に「娘(私)に意地悪をされて夜も眠れない。ひどい娘だ」と悪口の数々をまき散らしている。。。。という事実だ。
っと言っても、それは少し前の話である。
「疲れた」と私が言ったことに対して母親がガミガミと嫌味を返してきたことによって、しばらく互いに口をきかなかった時期のことである。
そんなことは想定内である。
なぜなら私が在宅時、内容を聞かれたくないために母親が庭で誰かに電話しているのを数回目撃していた。
そんな時には私に対する罵詈雑言を吐き出しているに違いない。
っと、思っていた。
そんなにコソコソしてまで私の悪口を言いたいのか〜、っと私はある意味、その執念に感心した。
そして、勝手に言っておれ!っと放っておいた。
どうせ電話の相手は姉か、もしくは近所のおばちゃんである。
こういうの、、、、、Tさんのおっしゃる通りに悪意はないのかな〜。
。。。。が、きっと母親からしてみれば悪意はないのだろうね。
彼女は共依存だから、「愛してほしい」という気持ちの裏返しで、他人の憎むのかもしれない。
この頃思うのは、母親は一人芝居が好きなのだな〜。。。。っと。
一人で騒ぎ、一人で泣きわめき、一人でコトを大袈裟にし、一人で周囲を巻き込んでいく。
巻き込まれた人々を少々気の毒に思うが、裏を返せば好きで巻き込まれているのだから放っておけ!っという感じである。
母親のヨタ話に真剣に付き合うとは、なんとココロにも時間にも余裕のある方々なのだろう。。。っと羨ましくもなる。
。。。。嫌味です。
ははは。
私にはそんな時間はない。
ココロに余裕があるのならば、美しいもの、楽しいもの、明るくなれるもの、に意識を集中させたいし、この頃はそう努力している。
今朝、Tさんのブログを覗いたら「奇跡」という言葉が使われていた。
すっごく良い言葉だな〜っと思った。
「奇跡」は私だって私の人生に作り出すことができる気がするもん。
でも私1人の力ではムズカシイのだ。
「奇跡」はきっと、頑張っている人に神様が与えてくれるご褒美のような感じがする。
言い替えると、私に「奇跡」をおこしてくれるのは、人とのつながりの結果なのではないか、と。
話がそれた。
私の弱点。
そうだ。
本当に弱点だ。
私にはきっと親に対して悪意がある。
自分に悪意があるから、相手にもそれを感じる。
それは事実だ。
が、真実として親に悪意がないと、思える日もあれば思えない日もある。
こういうことを考え出すとキリがないので、自立したいな〜っと思うわけだ。
親に対する恨みはなかなか克服がムズカシイ。
I先生は笑い飛ばす。
「そんなに簡単に恨みの感情はとれませんよ」っと。
ホントだね。
でも意識をそこに集中させないでやり過ごせるようになってきているから、気持ちはとても楽である。
母親の一人芝居も、それに振り回されている人々の言動も、私のココロに侵入させない。
侵入させなければいいだけの話だ。
まだまだ対症療法に過ぎないけれども、それだけでも私はとても生きやすくなった。
私は私の道を行く。
私を勝手に評価したいのならすればいい。
私を「ダメだ」と決めつけたいのならすればいい。
私はそんなことを気にはしないんだ。
私は私の希望に向かって歩いていくんだもんねー。
大丈夫。
世の中はそんなに悪意に満ちたものではない、ときちんと思えている。
そして自分という存在が、それほど大層なものではないということも。
もっと成長したいと思う自分はもちろん未完成で未熟なものであるけれど、自分を愛する気持ちはそういうこととは別なのだと思う。
未熟でも未完成でも、自分を愛していいのである。
明日に向かって希望を持てる自分が在るならば、未熟でも未完成でも胸を張っていいのだ。
Tさんと出会って、I先生と出会って、自己矛盾が霧が晴れるように解消しているのが嬉しい。
親の言うこと、自分が考えること、社会のルール、他人という存在。
そんな様々な要因に矛盾を抱えずに生きることって、実はとてもムズカシイことだよね?
消化できない矛盾を抱えて生きるのは、私にとってとてもストレスだった。
自助グループや家族ミーティングで学んだことは、そういう意味でも多いに役立っている。
人間、自己矛盾を解消することができれば、それほどの愚痴は口から出て来ないと思うんだよね。
状況は変わらずとも、自分のココロの有り様にストンと落ちどころがあれば、必ずしも大きなストレスには発展しない。
先日の例会で副代表のSさんに少し心配された。
未来を不安に感じない自分がいると言ったところ「何も不安がないと言われると、それが不安です」と。
Sさんのそのコメントは、私のココロにきちんと残っている。
ブレーキの役割だな〜。
来年は私も少しは周囲の人間の役に立てたらいいな〜。
なんて思うこの頃である。
2007年12月29日
弟
昨日、帰宅後に母親からびっくりすることを聞かされた。
それは弟が。。。。Tさんの主催する例会に言ってみたい、と電話で言っていたそうだ。
弟と社会的引きこもりを専門とするNPO法人の人々との面談は1月7日に決まった。
その法人を「Wの会」と言う。
全国的にも知名度の高いNPO法人だ。
NHK出版から活動に関する書籍もでている。
私はそれをネットで知った。
「引きこもり」で検索したところ、このWの会がヒットし、読めば読むほどに弟の状態が「引きこもり」であるという確信を持った。
弟がWの会のA先生と会ってカウンセリングを受け、その後に何を思うのか。
来年は新年早々から良いことが起こりそうだ。。。。
Tさんの例会。
例会は1月10日のスタートだ。
弟が1月10日まで実家に滞在できるかどうかはわからない。
母親は気が焦るのか、「10日までいてくれればいいね。例会にぜひ参加できるといいね」と言う。
が、どれもこれも本人次第だ。
周りが焦ってはいけない。
せっかく弟の意識や関心が外に向いてきたのだから、こんな時こそ本人の歩く速度を尊重してあげたい、と私は思う。
タイミング、というものがあるのだろうと思うのだ。
「気づき」のタイミング。
「変化」のタイミング。
そして、本当はね、じっくり通い続けることが大事だから。
毎週通い続けることが大事だから。
いつだったか、弟はTさんのブログを真剣な目で読んでいた時がある。
弟は慎重だ。
そして私と同様に、とても臆病だ。
弟はよく「エセ」という言葉を使う。
周囲の人間をじっくり観察し、相手が自分にとって「エセ」か「ホンモノ」かをいつも確認しているのかもしれない。
誰とでも上手く付き合えているようで、実はいつも気疲れしている。
それが弟だ。
対人関係ではいつも受動的だ。
長年、母親のカウンセラー役を押し付けられてきたせいだろう。弟は対話となると、受け手であることが自然に身に付いているようなところもある。
そんな弟がTさんと会いたいという。
こんなに素晴らしいことはない。
Tさんと副代表のSさんと弟が会えるのはいつになるかわからないけれど、それはきっときっと弟にとって目からウロコな出会いになるに違いない。
弟が帰省して、まずは私に何を語ってくれるのか。
楽しみだなー。
それは弟が。。。。Tさんの主催する例会に言ってみたい、と電話で言っていたそうだ。
弟と社会的引きこもりを専門とするNPO法人の人々との面談は1月7日に決まった。
その法人を「Wの会」と言う。
全国的にも知名度の高いNPO法人だ。
NHK出版から活動に関する書籍もでている。
私はそれをネットで知った。
「引きこもり」で検索したところ、このWの会がヒットし、読めば読むほどに弟の状態が「引きこもり」であるという確信を持った。
弟がWの会のA先生と会ってカウンセリングを受け、その後に何を思うのか。
来年は新年早々から良いことが起こりそうだ。。。。
Tさんの例会。
例会は1月10日のスタートだ。
弟が1月10日まで実家に滞在できるかどうかはわからない。
母親は気が焦るのか、「10日までいてくれればいいね。例会にぜひ参加できるといいね」と言う。
が、どれもこれも本人次第だ。
周りが焦ってはいけない。
せっかく弟の意識や関心が外に向いてきたのだから、こんな時こそ本人の歩く速度を尊重してあげたい、と私は思う。
タイミング、というものがあるのだろうと思うのだ。
「気づき」のタイミング。
「変化」のタイミング。
そして、本当はね、じっくり通い続けることが大事だから。
毎週通い続けることが大事だから。
いつだったか、弟はTさんのブログを真剣な目で読んでいた時がある。
弟は慎重だ。
そして私と同様に、とても臆病だ。
弟はよく「エセ」という言葉を使う。
周囲の人間をじっくり観察し、相手が自分にとって「エセ」か「ホンモノ」かをいつも確認しているのかもしれない。
誰とでも上手く付き合えているようで、実はいつも気疲れしている。
それが弟だ。
対人関係ではいつも受動的だ。
長年、母親のカウンセラー役を押し付けられてきたせいだろう。弟は対話となると、受け手であることが自然に身に付いているようなところもある。
そんな弟がTさんと会いたいという。
こんなに素晴らしいことはない。
Tさんと副代表のSさんと弟が会えるのはいつになるかわからないけれど、それはきっときっと弟にとって目からウロコな出会いになるに違いない。
弟が帰省して、まずは私に何を語ってくれるのか。
楽しみだなー。
2007年12月25日
お父さんみたいだ〜
Tさんのコメントを読んだ。
お父さんみたいだ〜っと思った。
で、胸がほっこりと温かくなる。
私の実際の父は非常に寡黙な人間である。
今でこそ、父親とはいろいろと会話をするけれど、26歳まで父親とはあまり話をすることもなく育った。
良く言えば、放任主義の父親であった。
父親は私が学校に行かない時も、私の素行不良が原因で学校に呼び出された時も、高校を中退した時も、通信制に編入した時も、結婚する時も、ほとんど何も言わなかった。
唯一言ったことは、高校を中退する時に「学歴がないことで苦労する時があるだろうから、それは覚悟しておいた方がいいぞ」ということだけだった。
過干渉な親で苦労しているトモダチがいる。
けど、干渉されないということは寂しいものだったりする。
人間とは、ないものねだりだね。
でも、これまでの人生を振り返ると、父親が放任主義で良かったのだろうと思う。
じゃなきゃ、私には逃げ場がなかっただろう。
私は石橋を叩いて渡る慎重さはないけれど、実はいつもビクビクオドオドしながら人生の選択をしている。
これでいいのかしら。。。。
この選択をして、私は無事かしら。。。。
っと、いつもビクビクオドオドしている。
だから、誰かに背中を押されると、本当に嬉しい。
自信がわいてくる。
ホッとする。
そうだ、私は大丈夫だ!っと思える。
Tさんと出会ったのはわずか8ヶ月前だというのに、それからずっと私はTさんに支えられてきている。
なんだかずーーーーーっと前から知っていたような、ずーーーーっと前からそばにいてくれたような、最近はそんな感覚が普通になってきている。
Tさんがいつも見守ってくれていると、ココロから思える。
前回の記事のコメント。
お父さんみたいで嬉しい。
本当に嬉しい。
実際の私の両親。
私は両親にどう思われているのか。
いつも気になっていた。
でも、もう気にしないんだ。
少し気になるけど、もうそれに囚われるのは止めるんだ、私。
私は私にしかできない子育てができる。
同様に私にしかできない親とのつきあい方があると思う。
とにかく抜け出す。
ACの思考から私は卒業するんだ。
正直、姉や弟と付き合わなくなって、自分の中で自分と姉弟を比べてしまう思考から解放された。
ね、確実に私は問題の本質に近づいているよね。
姉や弟の行動や言動がどうのこうの、ということではないんだ。
一緒にいると、私が姉や弟と自分を勝手に比べて自己嫌悪に陥っていたのだと思う。
今は本当に気持ちが楽。
両親も昔と違って、「そろそろ仲直りしたらどう?」とは言わない。
それだけでも随分楽。
そう言われると、「お前が悪い。お前から歩み寄れ」と責められているように感じるから。
私は出来の悪い人間だから。
だから、いろんなことにチャレンジする。
いろんなことをやってみて、いっぱい自信をつける。
通信大学のこと。
とにかくTさんについて行こうと思う。
これも神様の思し召しに違いない!!っと思えるぐらいの絶好のタイミングで話が進むのだもの。
うんうん、言うなれば、Tさんは私の娑婆(Tさん用語)でのお父さんだな。
これからも私は娑婆のお父さんにしがみついて、人生の荒波をモリモリ乗り越えて行くぞー。
頑張る、私。
お父さんみたいだ〜っと思った。
で、胸がほっこりと温かくなる。
私の実際の父は非常に寡黙な人間である。
今でこそ、父親とはいろいろと会話をするけれど、26歳まで父親とはあまり話をすることもなく育った。
良く言えば、放任主義の父親であった。
父親は私が学校に行かない時も、私の素行不良が原因で学校に呼び出された時も、高校を中退した時も、通信制に編入した時も、結婚する時も、ほとんど何も言わなかった。
唯一言ったことは、高校を中退する時に「学歴がないことで苦労する時があるだろうから、それは覚悟しておいた方がいいぞ」ということだけだった。
過干渉な親で苦労しているトモダチがいる。
けど、干渉されないということは寂しいものだったりする。
人間とは、ないものねだりだね。
でも、これまでの人生を振り返ると、父親が放任主義で良かったのだろうと思う。
じゃなきゃ、私には逃げ場がなかっただろう。
私は石橋を叩いて渡る慎重さはないけれど、実はいつもビクビクオドオドしながら人生の選択をしている。
これでいいのかしら。。。。
この選択をして、私は無事かしら。。。。
っと、いつもビクビクオドオドしている。
だから、誰かに背中を押されると、本当に嬉しい。
自信がわいてくる。
ホッとする。
そうだ、私は大丈夫だ!っと思える。
Tさんと出会ったのはわずか8ヶ月前だというのに、それからずっと私はTさんに支えられてきている。
なんだかずーーーーーっと前から知っていたような、ずーーーーっと前からそばにいてくれたような、最近はそんな感覚が普通になってきている。
Tさんがいつも見守ってくれていると、ココロから思える。
前回の記事のコメント。
お父さんみたいで嬉しい。
本当に嬉しい。
実際の私の両親。
私は両親にどう思われているのか。
いつも気になっていた。
でも、もう気にしないんだ。
少し気になるけど、もうそれに囚われるのは止めるんだ、私。
私は私にしかできない子育てができる。
同様に私にしかできない親とのつきあい方があると思う。
とにかく抜け出す。
ACの思考から私は卒業するんだ。
正直、姉や弟と付き合わなくなって、自分の中で自分と姉弟を比べてしまう思考から解放された。
ね、確実に私は問題の本質に近づいているよね。
姉や弟の行動や言動がどうのこうの、ということではないんだ。
一緒にいると、私が姉や弟と自分を勝手に比べて自己嫌悪に陥っていたのだと思う。
今は本当に気持ちが楽。
両親も昔と違って、「そろそろ仲直りしたらどう?」とは言わない。
それだけでも随分楽。
そう言われると、「お前が悪い。お前から歩み寄れ」と責められているように感じるから。
私は出来の悪い人間だから。
だから、いろんなことにチャレンジする。
いろんなことをやってみて、いっぱい自信をつける。
通信大学のこと。
とにかくTさんについて行こうと思う。
これも神様の思し召しに違いない!!っと思えるぐらいの絶好のタイミングで話が進むのだもの。
うんうん、言うなれば、Tさんは私の娑婆(Tさん用語)でのお父さんだな。
これからも私は娑婆のお父さんにしがみついて、人生の荒波をモリモリ乗り越えて行くぞー。
頑張る、私。