Ones who are loved by nobody only get to be discriminators.

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 韓国人には神がある。人によってクリスチャンだからという意味でなく、ドラマを観ていると分かるが、先祖や親族の神という発想がある。これは日本人にはない。韓国は儒教国であり、それは厳密な先祖の神への尊崇とその神によって守られているという意識である。だから彼等は日本や北と違い闘争する。

 今年見た映画では『ムーンライト』(米映画)と『セールスマン』(イラン映画)が最も良かった(前者はオスカー作品賞、後者はオスカー外国語映画賞受賞)が、この二本とも人間の愛に就いての映画だった。人間同士の愛を育むのは神だけであるという発想では二本とも共通していた。

 カントもハイデガーも注意深く読めば分かるが、彼等は明らかに人間同士だけの判断では駄目だと言っている。そこには当然神がある。ヒンドゥー教は一神教ではないが、日本の宗教よりは人間同士の判断だけではない何かを言っていると思う。ニーチェも実は人間を復活させつつ超人と言って否定している。


 真木よう子って精神的女性ホルモンが決定的に不足しているよ。満島ひかりもそうだけどね。だからこの二人は意外と似ている。山口紗弥加は違う。

 日本人だけ世界でも稀に個がない。個があることが許されるのは、まるで天皇陛下だけでいいとでも言わんばかりだ。それが日本の実質である。だからこの国はいつまで経ってもずっと世界では危険視されるだろう。北朝鮮と最もこの国は似ているし、他の国も敢えて言わないが、そう思っているだろう。

 私は世界中の映画やドラマを観るのが好きだが、日本の会社等のシーンだけちょっとどの国とも違う。何かが違う。どの国でも日本程忖度し、他者を斟酌し、固有の配慮をする国民は見たことがない。これを変えない限り日本はどんどん世界潮流からは外れていく。日本の集団は率直醜い。

 俗こそが世の中を動かしていると考えている民族は世界でも日本人だけである。そしてテレビのヴァラエティ番組はその不文律だけに従って制作され放映されている。断じて違う。世界は聖こそが動かしているという発想にならない限り、日本はいつまで経っても蛮族の国である。


 皮肉なことにも安倍総理とトランプ大統領は北朝鮮が日米韓を震撼させている間は政権が盤石だと言える。もし北朝鮮問題が世界的に解決すれば、この二つの政権は微塵に吹き飛ばされてしまうだろう。その意味で内心彼等はキム・ジョンウンが厄介者でいてくれるおかげでほっとしているかも知れない。

 そう言えば最近これといった素晴らしい歌が余りメディアでも聴けていない気がするけど、どうなのかね?Radwimpsとかも決して悪くはないけど、もっとしっとりと聴かせてくれる歌も欲しいっていう気持ちもある。もう金爆みたいなこけおどし的なのでない真正の歌を聴きたいっていう感じはするな。


 確かに日本人にしてみればバスにも従軍慰安婦少女像を設置したりして、余り気持ち良くない事を日本へ示すけれど、それでも韓国が一番日本に近く、やはり理解できる間柄っていうことは確かなのだ。アメリカは確かに日本を今悪くは思っていないけど、地理的に遠いし、歴史が凄く日韓と違うんだからね。


 北朝鮮は色々なところから(例えばウクライナやクリミアやリビアやシリア)等からも秘密裡に武器を調達しているのだろうね。どんな手を使ってでもアメリカを面食らわせてやろうという意気込みだけは凄いからね。でもアメリカは今国内が気分的にかなりやばいので、どう展開するか分かったものではないな。


 いきものがかりが無期限活動停止してからどれくらい経っただろうか?確かにシンガー達は声や体のケアは大変だろうなと思う。絶叫型の八神純子、広瀬香美、大黒摩季、鬼束ちひろ、Superflyといった人達はかなり身体に無理がいっているのではないだろうか?長く続けて欲しいと願っているけどね。


 大半の日本人はやはり天皇陛下や皇后陛下の御前で粗相のない様な人生を送らなければという意識なのである。そういうあらゆる忖度を一切自分へ寄せ付けないで生きていける社会に本当にはなっていないということだ。だからアメリカってやはり自由だなと思えるし、韓国も日本よりアメリカ的だと思える。


 ここ数年では『昼顔~平日午後三時の恋人たち~』(昨今映画化)『ナオミとカナコ』が良かった。悪を描いていた。NHK土曜ドラマ『逃げる女』、『あなたのことはそれほど』(両方仲里依紗が良かった)、『奪い愛、冬』が良かった(水野美紀はどれもいいが、倉科カナ、大谷亮平、三浦翔平も良かった)。


 歌、音楽そのものでは夭折したシンガーの中でやはり坂井泉水は一際鮮烈だ。彼女は本当に透き通った美女だったし、今ああいうタイプの皆を勇気づける様なシンガーは少ない。Superflyの様な凄いシンガーも居るし、AIの様なブルージーシンガーも居るから寂しくはないけど彼女は忘れられない。

 本田美奈子も川村カオリも僕は凄くファンだったので、二人とも亡くなった時凄くショックだったけど、美奈子は日本社会に本当に巧く溶け込んでいたけど、カオリはやはりどこかで自分は日本と余り良好でない国ロシアの女だという意識も強烈にあって、生涯そのことに拘った感じはする。淋しかっただろう。Liked in Twitter


 今の日本の役者によるパフォーマンスでは恐らく演劇と映画がメインだと思う。テレビドラマは恐らく年々視聴率を落としているに違いない。寧ろ旅番組やドキュメンタリー(最近では山の日の深夜のドローン撮影を高山写真家が試みたものが凄く良かった)の方がずっと力を入れている。演技は演劇と映画だ。


 韓国社会はきっと日本より未だ自由は少なく、家庭でドラマを観ることが最大の愉しみなのだ。だから必然的にドラマは日本の様に社会の添え物以上の何かを提供しているのだ。兵役も今もある韓国は日本の様に各個人が自分勝手に楽しめるのとは違って結束心が国民の間にあるということなのだろう。

 日本人はこの数十年の間にテクノロジー進化に最も意識が行き、文化的なことは二の次になっている。それがドラマを面白くないものにしている。つまり今の日本人にとって娯楽はプロの演技を提供してくれるドラマ等でなく、自分で楽しめる機器やサーヴィス、ディヴァイス、ツール、コンテンツなのだ。


 夜は目が疲れるので執筆と本の読書は控えている。仕事後の疲れを癒す為見るドラマはいつの間にか眠っていてどうなったか分からない。それくらい余り面白くない。『悦ちゃん昭和駄目パパ恋物語』だけが楽しみだ。しがない作詞家ユースケと作曲家岡本健一がいい。きっと獅子文六原作がいいのだろう。

 奇皇后とは実在の人物である。14世紀後半に元朝最後の皇帝トゴン・テムルの皇后となった女性(彼女がトゴン・テムルの子、北元皇帝アユルシリダラを生んだ)の数奇な人生の物語を20132014年にかけて韓国MBCが月火ドラマとして送った作品が今回のテーマである。

 

 ドラマのタイトルにも説明がある様に上記事実以外は大半がこのドラマはフィクションである。でも見ていて面白い。まずそれぞれの役の設定と、脇役全員が光る様に持っていっている脚本がいい。

 こういった面白いドラマは今日本では余り無い。何故だろうか?その理由を考えてみるに、今日本ではテレビドラマを家庭で見るという習慣が消滅してしまっていることが最大の理由ではないだろうか?

 だから勢い日本のドラマではイケメンの若い役者とかを売り出す為に好感度アップをスポンサーが狙うということが第一義になるために、役柄の設定がフィクシャスでなく、現実にありそうなありきたりのものとなってしまうのだ。

 つまりドラマとはフィクションであるという観念は寧ろ50年代までの黒澤明の映画とか、60年代の日活B級アクション映画の方が上だったのではないだろうか?

 今の日本のドラマは時々の世相に対する癒しの効果を狙っているものの、今一つ創作的な意気込みが足りていない気がするのである。だからきっと今放映中の多くのドラマは余りどれも視聴率が良くないのではないだろうか?

 

本題に戻ろう。

韓国は同族主義的民族国家である。縦の先祖から引き継がれた現在という意識が異様に強い。そしてその愛国心を巧くそそる様にこのドラマが書かれている。だから視聴者である韓国国民の情感を巧く引き出すことに命を製作者達が賭けているのである。

そしてこの『奇皇后』は元に支配され隷属した時代の高麗を描いているので、必然的に登場する主要キャストである高麗国王であるワン・ユは完全に臥薪嘗胆の役割を演じている。そして元皇帝タファンの子としてタナシルリが生んだとされていたマハ皇子が実はワン・ユとヒロイン奇皇后キ・ヤンの息子であるという完全なるフィクション、出生の秘密物語が涙を誘う様に仕掛けられている。

 主演のハ・ジウォンは韓国でも日本でも既に知られたトップ女優である。しかし彼女も既に39歳、見せ場は悪役であったタナシルリやバヤンフトを演じる若い女優へとバトンタッチし、自らはどちらかと言うと元皇帝と高麗国王二人から寵愛される大人の女性として毅然とした態度で臨む姿を描いている。前半には派手なアクションシーンも多く登場するが、皇后となるまでの宮中皇室での出来事からはアクションは二の次へとなっている。

 本ドラマでは
人間関係が例えば高麗から呼び寄せられた宦官と女官達それぞれの人物描写が卓越である。

トクマンという宦官は高麗出身だし、女官ソ尚官(サングン)は腹心のヨンファをバヤンフト(タナシルリの処刑の後皇后となった女性)の計略で失うも、その経緯を知らず暫くバヤンフトに忠実に仕えるが(今日の回では未だヨンファの恋人だったヨム・ビョンスはバヤンフトに自分が騙されていることを知らされていない)、バヤンフトの残忍な謀り事を知るに及んで高麗出身の奇皇后であるキ・ヤンに組みする辺りに民族意識というものを巧くそそる様に描いている。
 ここら辺も女官という地位の物悲しさを巧く伝えている。本来ならもっと違う人生があったかも知れないが、宮中の謀り事の犠牲となっていってしまう様にドラマでは大勢の女官を描く。その一人はタナシルリの計略で身重の侭殺害されるパク・ジウォンである。中盤でこの下りは描かれた。


 又ヨンチョルとなったペガン将軍の腹心タルタルはキ・ヤン(奇皇后)の精神的な味方として描かれ、どう展開するか未だ分からないが、恐らく彼の存在がペガン将軍と皇太后の陰謀から奇皇后を助けるのではないかという期待を持たせる。元々忠実なペガンの配下の者なのに、このドラマではペガンの野望の強さの前で次第にキ・ヤンへと同情的になっていく様にずっと最初から描かれていた。イケメン役者をここでは使っている。

 

 今日の回ではチュルク出身の戦士であるヨンビスがタンギセ(前ヨンチョルの息子で、処刑されたタナシルリの兄の元の元将軍)に殺されて、その亡骸をワン・ユが葬るシークェンスが描かれた。彼こそがマハ皇子の実の父という設定もそうだし、皇帝タファンから臥薪嘗胆の憂き目に遭わされ、しかし今でもキ・ヤンを愛している辺り、このドラマは実はワン・ユを通して高麗民族の持つ誇りとか、道義を大切にする心をも最大限の強調をしていることが分かる。


 このドラマではバヤンフトが女官ヨンファを騙して絞殺させたり、既に処刑された役であるタナシルリが皇帝からの愛を獲得したく、愛されていない悲劇の悪女よろしく拾い子(それが実は主演奇皇后キ・ヤンとワン・ユの息子だったという設定だが)を自分の生んだ子として偽って皇室に振れ込む為に、拾い子の事情を知る女性の僧侶達をソ尚官を使って惨殺させたりする下り等、目を覆いたくなる残酷な描写を繰り返し描いている。

 要するに韓流ドラマは性悪説的に人間を描くのである。
 この点でも日本の今のドラマは悪を殆ど描かない。確かに犯罪的なことは描くが、本当の人間のエゴイスティックな醜さは描かない傾向がある。これが又迫力をないものにしている。余りにも平凡な一般市民のほのぼのとしたことなど描いても観ている方はちっとも心を揺さぶられない。

 皇太后からタナシルリ、バヤンフト、そして結局同郷である奇皇后キ・ヤンに皇室から離れて自由を授けられるソ尚官(サングン)等の描き方に、そして元皇帝タファンの身の回りの世話全てを行う元の宦官コルタ等の脇役の描き方がそれぞれ効果的に使われている。要するに韓流ドラマは人間の欲望を描いているのである。最後迄重要な役割を演じている高麗出身の宦官トクマンも時にはヒロインと対立し、最後は協力するという様に丹念に描かれている。

 また音楽はインド音楽で使用する楽器もふんだんに利用しているし、そこら辺もドラマの盛り上げ方に効果的である。

 

 結論的にはこのドラマは実は毎回出演シーンは然程多くはないが、今日の回では最大の見せ場である実はずっと密にワン・ユに恋い焦がれてきたヨンビスがタンギセの手によって弓矢で射殺されるシーンで見せるワン・ユの男らしさ、元の支配に甘んじて尚愛国心を失わない配下を引きつれた男の責任感と潔さ(彼は自分が犠牲になることで多くの高麗出身の人達の命と生活を保障してきた)こそが本韓流史劇で最もメッセージとして伝えたいことである。

 それは韓国人が実は日本人以上に精神的には憎しみを抱くのが中国人であることの遠因となっている元という国家(それは中国人でなくモンゴル人だったのであるが)への憎しみを解消して溜飲を下げる、やはり朝鮮民族は潔白で偉大であると国民に思わせる仕掛けとなっているというわけだ。


 人間は自分本位で自分の立場からしか世界を見ることができない。その点ではこのワン・ユ高麗国王だけがそうでなく描かれる(この役者チュ・ジンモが最も役得である)。寧ろヒロインであるキ・ヤンは皇后になるに従い猛烈なエゴを丸出しにして敵対者を打ち倒していく。自分の息子を皇帝にすることで、前皇太后とヨンチョル・ペガンを失脚させようとしたりしながらもの凄く悪に目覚めていく。だから却って常に彼女の悩み事を聴いてあげるペガン将軍ヨンチョルの腹心のタルタルや宦官トクマンが凄く善人に見え、逆にヒロインもかなり野心と下心見え見えの悪女にも見えてくるという仕掛けなのだ。


 こういった脚本の妙がこのドラマを面白いものにしている。


 だから日本のドラマもいい子ぶった内容ばかりでなく(多少はそうでない凄い内容のものもあるが、未だ足りない。日本は映画の方がドラマよりずっと面白い)人間の欲望と悪を描くドラマを期待したいものである。

 韓国ドラマはその点では醜さを描いている分、表現的には今のところ、日本ドラマより大分上である。  
 現実がどうであるかということで当たり障りのない脚本しか描けない日本のドラマはスポンサーの顔色しか窺っていないということになる。さして素晴らしいとも思えない若手イケメンの見せ場ばかり作る日本のドラマには今のところ映画を活動の軸としている浅野忠信やオダギリジョーや松田龍平や染谷将太達からもそっぽを向かれていると言っていいのではないだろうか?

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