日本にだって凄く慈悲深い人は時々居る。でも日本人という民族は(中国人とか韓国人はよくその点では分からないけど)、少なくともキリスト教徒的な慈悲深さは全く欠如している(そういう部分では暖かいとは言えない)民族とは言える。つまり完全脱落者に暖かい眼差しを注いでいるって言えるだろうか?


 日本宗教の神道も仏教も一種の正当的生き方への祈祷と指南と言っていい。キリスト教は罪人、敗北者、受難者の為の宗教である(神道も仏教もそうではない)。だから敗者と罪人の気持ちの分かる北野武の世界は、日本では全く受けないが、欧米では理解されやすい要素はある。彼等は慈悲深いから。


 僕は日本人の中では特例的に北野武が映画で描く破滅型の人間の像を理解できる方だと思うけど、僕自身徹底的に社会的敗者的人生の人間なので、もう(大体詩でなんて金儲けなんて出来る訳ないのだから)そういう敗者にしか分からない気持ちからだけ書ける詩を書いていけばいいし、そうするしかない。


 映画監督として北野武は国際的評価が凄く高いけれど、恐らく日本人で彼の映画をいいと思う人の数の方がずっと少なく、大半は全くいいと思えないだろうと思う。その理由は彼の映画はお笑い芸やテレビヴァラエティの仕事での一般市民受けと違う自分自身の敗北者的な究極の愛と憎しみを描くからだ。


 井山裕太九段と羽生義治永世七冠には国民栄誉賞受賞後の試合では勝たせたかった。二人とも(前者は外国棋士に、後者は藤井聰太新六段に敗れた)かなり敗北は気分的には辛いものがあっただろう。そういうことで彼等の名誉が傷つくことはないだろうけれど、気持ち的な事では何となく分かる。


 羽生結弦は66年ぶりの二連覇だったらしいが、怪我からの復帰であれだけの演技をしたこと、彼の技術(点は今回は三位だった)の確かさだけでない二つ程の要素、つまり芸術点と人柄と天性の華が偉業を光り輝かせている。彼の事を嫌う人はきっと居ない。恐らく国民栄誉賞は確実だろう。


 日本は社会の隅々にまで実は巧妙に言論封殺する様に張り巡らされている(あたかも全国どこでも鳥居がある様に)。会社組織(経団連以下全て)から学校、政党もだが、一切のリベラルは一定程度以上発言できない様にされる。つまりこの国では右翼(神道主義者)の意見だけが通りやすい様になっている。


以上18日、以下17日。


 日本が何故統制民族であり、絶対社会主義かは、日本では対話や論理的理由から物事が決まっていくのではなく、自然に決まると固く信じ、その迷信的自然主義を絶対疑ってはいけないし、それを言ったら常識外れで精神病でないかという態度に出る。日本では対話封殺と常識踏襲居丈高な人が大人態度なのだ。 Retweeted and liked in Twitter


 今年の大河ドラマは西郷隆盛だが、大河で幕末が出てくる時は大体注意である。国策的匂いをどうしても嗅ぎつけてしまう。日本は率直管理社会であり、統制民族であり、自由主義国家ではない。本質的に日本人は無自覚的な絶対社会主義者である。これは日本では一切闘争を避ける部分でそうだ。 Retweeted in Twitter


 はっきりしていることの一つとは、人は果たして本当に自分以上に信用できる他者などというものが一体居るのだろうか、ということだ。やはり自分以上に自分の味方になれる者等居はしないのではないか?相談等は警察官、教育者、公務員、精神科医、自衛官、官僚等には絶対すべきではない。


 一つはっきりしていることは日本では男子は自分以外の男子を自分より上か下かということ(それは能力的にも社会的地位的にも)でしか見ない人はかなり多い事だ。そしてそれは官憲的タイプと言ってもよい(警察官、公務員、自衛官等全般は概してそうだ)し、そういう人達はかなり多いという事だ。


 例えば人は生まれてきた時に性別も時代も国も言語も選べない。当然のことながら両親を選ぶこともできない。そしてどちらかと言うと父母のいずれかの方が好きだということはあっても、必ずしも好きな親が長生きし、嫌いな親が早く死ぬとは限らない。世間体でいい子ぶっている人だって幸福とは言えない。


 私は20代の後半のある時期までは確かに幸福だったと思う。若いから身体も今よりずっと自由も無理も効いたし、何より希望があった。だがその後或る時期を境に急速に息詰まる気持ちになっていき、それが30代前半にピークに達し、それ以後幸福と感じた時期は一回もなかった。結論として人生に幸福はない。


 よく聖人の様な人っていうのは居るのだ、とか天才っていうのは居るんだと言う人が居るが、それもその人のやはり主観でしかないのではないか?例えばどんな他者へも一切偏見なしに公平に見られる人など居るだろうか?誰しも主観的にしか人を見られず、最初から好き嫌いははっきりしているのではないか?


 哲学でも自然科学でも心理学でも何でも言えるこの非統一的見解と体系化されているととても言い難いかなり恣意的な個々の判断は、あたかも「あの人はいい人だ。いい人かそうでないかは時間をかけて見てみなければ分からない」と言う時個々の個人の判断にしか委ねられていないのと似ている。


 理論物理学のパリティ保存とか非保存とか、小林・益川理論とかと位相幾何学とかと同期とかとは明らかに関連性がある様にも思えるけれど、数学は明らかに代数とかとそれらとは必ずしも完全統一された体系があるとも思えない。個々の発見が別個に為され、積み重ねてきている様だけど恣意的だ。


 統一されているとはとても思えないのは物理学もだし、数学もだ。鏡像関係とかとも関連するパリティ非保存とかの問題とファラデーの法則とかと、同期物理学とかでも完全に一つの体系として物理学が認識できるとはとても思えない。自然科学自体がかなりどの分野もばらばらだし、専門分化も恣意的だ。


 色々と学んできて少し分かってきた事だが、自然科学と言ってもかなり主観的部分も強く、例えば心理学は自然科学でも哲学でもないが、統計的な認識があってもかなり曖昧だし、生物学の進化論もそうだ。精神病理学(臨床精神医学)もかなり疑わしい。生理学も体系的に統一されているとは思えない。 2retweeted and liked in Twitter


 物凄く不純な動機で作った作品(好きな女に褒めて貰いたいとか、いい所を女に見せたいとか)が凄く素晴らしい出来になることもあれば、逆に物凄く真摯に考え抜いて駄作になることも稀でない。結局結果責任、成果主義が絶対正しいとも言える。これと愛し合う夫婦に犯罪者が育つ事もある事は共通する。Retweeted in Twitter


 例えば凄く極端に言えばもの凄く善良で相互に深く愛し合う市民の夫婦の間から極悪非道の犯罪者が出ることもあれば、逆にレイプされた女性が生んだ子供が成長して偉大な仕事をする人になることもある。だからここでも人間の理性や善良さへの自分達自身だけの判断のある種の無力は証明されている。Retweeted and 2liked in Twitter


 日本だったら大体早く出世する奴はその時点で権威や権力ある人にごまをする奴だし、社会の善っていう奴が既に一種のそれが善だって信じらせられる人を巧く誘導する悪意ある権力者の策略で、アメリカだって安く大勢に買わせて自分がうんと儲ける事だけ考えている訳だから、人間には悪しかないのだ。