2012年07月22日

『日本の文脈』

『日本の文脈』内田樹、中沢新一
内田:ということは、われわれが理解できる以上の意味がそういう仕掛けの中には組み込まれているんじゃないか。学校も、医療も、親族も、あるいは司法や宗教も、そういう起源の古い社会制度の中に含まれている
「よくわからない決まりごと」については、軽々に理非を判断すべきではない。どうして、「こんなもの」がかくも長きにわたって人類史を生き延びてきたのか、それを問うという姿勢があってもいいと思うんです。(p35)

内田:沈黙交易というのは、部族と部族のテリトリーの境界線近くに、どちらにも属さないノーマンズ・ランドがあって、そこに何かが置かれているところから始まります。(中略)
価値のあるものを贈られたので、等価値をもってへんれいするわけじゃない。(中略)
もし、相手にその価値がわかるものを贈与したら、相手が等価値を贈り返す。それで「チャラ」になったら、交換は終わってしまう。交換は始められた以上、停止させてはならない。そして、「贈られた相手にはその価値や有用性がわからないもの」だけが、等価値による相殺不可能であるがゆえに、交換をエンドレスに継続させる力を持っている。(中略)
交換の目的は、「交換を継続すること」なんです。(中略)
「おや、ここに私に対する贈り物がある」と思い込み、「贈与を与えた以上、反対給与の義務がある」と感じた人を基点として、すべての交易が始まった。ここが深いと僕は思うんです。
(p37~p39)

内田:日本人の「ど真ん中」というのは、中間にいるということです。ふらふらとしているということですね。きっちりつじつまのあった「政治的正しさ」を追求しているわけじゃない。ベタな生活実感に没入して、「人間、結局、色と欲だろ」と居直っているわけじゃない。それぞれの言い分を聞いて、両方に足をかけてふらふらしている。(中略)
原理と生活実感の二極のあいだで、きょろきょろ、ふらふらしている自分がいるんです。
(p93~p94)

内田:ユダヤ教のすごいところは、コスモロジーであると同時に日常倫理だということなんです。中心にがっちりした神学体系があって、その上にトリヴィアルな日常的な規範がある。徹底した思弁と徹底したリアリズムが背中合わせになっている。そういうのって宗教としては珍しい。一方、武士道というのは真ん中がすぽんと抜けていて、そのまわりに緻密な体系があって儀礼性が非常に高い。
(p131〜p132)

内田:「ユダヤ人の枠組みを絶えず超えていくことができる人間をユダヤ人として認定する」というひじょうに不思議な条件を課した。そういう不思議なことを考えついた集団が、何千年か前に中東の荒野にいたんです。とにかく一点に安定してはダメ、最終的決定に固定しちゃダメである、と。(中略)
ユダヤ人はいまここにある枠組みを破壊しようとする。日本人はいまここにない枠組みにキャッチアップしようとする。
(p145〜p146)

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