2012年07月28日

『構造と診断 ゼロからの診断学』

『構造と診断 ゼロからの診断学』を読む
誤診も含めて、医者が間違いをやらかした時は、それをしっかり認識する必要がある。しかも、多方面にわたってやった方がよい。
1)患者に対して
2)関連した医療者に対して
3)上司に対して
4)部下、学生に対して
5)自分自身に対して
(p59)


なぜ誤診するのか。(…)
働く場所が変わると、患者のデモグラフィクスが一変する。「よくある現象」「まれな現象」という感覚がつかみづらくなる。よく診る病気、あまり診ない病気の微調整ができなくなる。(…)
セッティングが変わると診る病気の内容が変わり、有病率が変わり、検査前確立が変わる。大きなマインドセットの変更が必要になる。その微調整には若干の時間がかかるため、転勤直後の診察には要注意である。
(p61-63)

かぜを診ることができるというのは、かぜにみえて実はそうではないものとかぜを峻別できる能力のことである。コモンな病気を診ることができる、というのはコモンにみえて実はまれな疾患を引っかけることができることだ。
(p64)

失敗の構造を分析する時は、その時の状況を振り返って「遡った時間」の観点から行うのが基本である。「今の眼」で過去を振り返ってはならない。どういうことか。われわれはしばしば、「後づけの」説明で物語を作ってしまいがちである。起こった事実がすべて必然的な流れでもって明快な因果関係をもっている、という世界観に縛られがちである。
リスクをゼロにはできない営為が医療である。しかも、そのリスクが生じるのは確率的な(つまり偶然の)事象である。たまたま運悪く患者の悪化に遭遇した医療者を処罰し、運良くそういう目に遭わない医療者は放っておく。これが道義的に許容できるとはぼくは思わない。
(p65-68)

「学生時代の勉強なんて、医者になったら全然役に立たないよ」と言う先輩の言葉に耳を傾けてはならない。その先輩が、学生時代に、役に立つ経験をしていなかったことをカミングアウトしているだけだ。学生時代の勉強は臨床現場でとても役に立つ。役に立つように勉強し、役に立つような診療をすれば、の話だ。
(p87)

「画像検査でははっきりわからない骨折」は骨折として扱えばよいというわかりやすい対処方法がある。疑わしければ、ギプスを巻いてしまえば、問題ない。(…)診断が正しくなくても、適切なマネジメントは行える。「正しい」診断ができるかできないかにかかわらず(ここがポイントなのだが)、骨折に関して言うと、ちゃんと学んでおけば露骨に間違うことはあまりない。
幅の広い疾患、幅の狭い疾患、疾患にはこのような特徴がある。両者をちゃんとわけておくことが重要である。梅毒、結核、HIVは幅の広い疾患である。だから、常に念頭に置いておく。訳のわからない熱、訳の分からない皮疹、訳のわからない咳、訳のわからない何か。こういう時にはこの3つを調べておくとよい。(…)
難しい診断を簡単にする方法はない。しかし、難しい診断に自覚的であること、難しいことは難しいと了解することが、いろいろ助けになることはある。能力のエンハンスメントは容易ではないが、能力がないことに自覚的であることは割と簡単で、しかも役に立つ。現場ではとにかく、役に立つことこそが大事なのだ。
(p103-104)

患者の様態が「変わりなし」というのはグッドニュースとは限らない。この患者は24時間以上、ショックの状態が続いている。昇圧薬全開にしてもまだ血圧が戻らない。その状態が継続している。「変わりない」というのは「ずっと悪いまま」という意味である。「変わりなし」がどのくらいのレベルで変わりないのか、明確にしないといけないのだ。言葉とは実に診療において大切なアイテムである。
(p109)

ここで検討するのはゲーム理論「的な」ものである。ゲーム理論の根幹にある「要諦」と申しあげてよろしい。それは、「どっちに転んでも損をしない選択肢を選ぶ」である。あるいは「両者にとって最適解を選ぶ」でもよろしい。(…)
診断学とは、ピンポイントで唯一にして絶対な正しい診断名を言い当てること、と規定されやすい。もちろん、そっちのほうがかっこいい。ぼくもそう望みたい。しかし、現実にはそうはいかないことも多い。唯一にして絶対な正しい診断名を言い当てることができない時、その時は合理的に「どちらに転んでも」OKなような、ゲーム理論を駆使することが必要になる。
(p105-112)

このような身体化の習得は、「理不尽に」行わなければならない。(…)理由を説明してはならない。理由を説明し、理解・納得してしまえば、それは「頭が」考えて習得する事項になってしまうからである。(…)頭は言い訳するからである。
忙しい時、疲れている時、単に面倒くさい時、ぼくらの頭はそれを「しなくてよい理由」を一所懸命考える。一所懸命考えれば、それらしい理由の1つや2つは思いつくものである。
しかし、身体化された習慣は頑固であり、容易に言い訳に妥協させない。それは生理的な気持ち悪さを伴う妥協だからである。
(p140-141)

ライプニッツは『モナドロジー』のなかで、「事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分な理由がなければ、いかなる事実も真であることあるいは存在することができず、またいかなる命題も真実であることはできない」と述べた。かぜを10例診てもかぜを診ることができるようになるわけではなくい。アッペを100例経験しても同じである。これがかぜであってインフルエンザでなく、アッペであってエルシニア盲腸炎でない理由をことばで説明できない限り、それはあくまでも「前診たのとなんとなく似ているなあ」という思いつき診断に過ぎない。
(p144)

病気の診断とは、このように似ているものは「同じもの」とまとめあげつつ、異なるものは「別なもの」と峻別する、類化性能と別化性能を同時に同程度に発揮させる複雑な作業の結果にある。
(p182)
Posted by lovemusic0921 at 11:12│Comments(0)TrackBack(0)書籍 

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/lovemusic0921/52028433