翼をたたんで今日はお昼寝

遊月みおのエッセイとスピリチュアル小説。 (メルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝』の保管庫)

はじめまして。セラピストの遊月と申します。
2003年よりスカイプなどで、占い、セラピー、潜在意識セミナーやメディスンカード講座などをしています。
こちらでは2002年より発行しているスピリチュアルメルマガで書いたエッセイや小説をアップしています。
メインブログ(遊月の日々これ修行なり〜)
https://blog.goo.ne.jp/lovepengel

『パワースポットニッポン』(VOICEより出版)の北海道担当
スポニチ北海道版にて毎週木曜日の占い担当(2006年)

このブログのメニュー
http://blog.livedoor.jp/lovepengel/archives/51160541.html

嘘の名人(2002.5.23のメルマガより)

今ここに、ふたりの人がいるとします。
ひとりはとても美しいココロを持っているように見え、人の役に立つ仕事をし、あなたはその人に対し、立派な人という印象を持っている。
もうひとりは、自分勝手な犯罪に手を染め、自分の利益のために平気で人を陥れ、客観的に見て、いかにも悪い人。

そのふたりから自分の欠点を指摘されたとします。
その時、素直に耳を傾けられるのはどちらの人でしょう。
私は立派な人と思っている人に言われたら素直に聞けるかもしれないけど、たとえば極悪人のような人に言われたら、あなたに言われたくないと思う気がします。
自分を発見する出来事があったものですから。

全く同じことを言われても、相手の行いをみて素直に聞くかどうかを決めているのだと思いました。

             ++++++++++++++++++++

あらゆる人たちの魂は等しくすばらしいということを知っていながら、信じていない。だからその人の現実レベルの行動に惑わされてしまうのだと思いました。

ですが現実は現実です。それを無視するのもどうかと思います。
魂の世界では、全ての人が平等ですばらしい光の存在であっても、現実の
マインドが魂と一体化できていなければ、悪いこともするでしょう。
エゴにまみれ自分の利益のために、平気で人を騙すことも出来るでしょう。
そもそも、魂と一体化している人など、肉体を持った世界に存在しているものでしょうか?

自分の身を守ることができるのは自分だけです。
そのために、しっかりと肉体の目で現実を見て現実の思考力で考えて判断するのです。

現実を無視して幻想を信じることと、現実を知りながら、その奥にある魂の光を信じるのはまったく違うことなのです。
たとえ自分勝手な犯罪者が言ったことでも、そこから学ぶことを見つけられる。それと、その人が犯した罪という現実は別の次元のお話なのです。

             ++++++++++++++++++++

それに絡んで、最近、妙に新興宗教のエピソードを見かけるので、私自身の体験をお話したいと思いました。

>実際に命を奪われたり財産を巻き上げられたり本来の神への信仰とはちがう物欲の神に支配された教祖が沢山いる、その犠牲者達はタダ純心に心のよりどころを探していただけだと思う。

これは、友人Rさんの言葉です。
私も全く同感です。ただしもうひとつ付け加えるなら、騙したほうだけが悪いとは思っていないのですが。

でも、どうして純粋に神さまを求める人がこうもたくさん騙されてしまうのでしょうか。

             ++++++++++++++++++++

その前に、完璧な嘘をつくための鉄則をご存知ですか?
完璧な嘘をつくために必要なのは、99%の真実です。
99%真実なら、疑いようがないでしょ?
その真実に1%の嘘を包めば、よほどのことがない限り嘘は見抜かれないでしょう。

私は嘘をつくのがとても下手です。理由は簡単、その場しのぎに言ったことを、その後覚えていられないからです。

ほとんどが真実なら忘れる心配もないし、嘘だと詮索されても、もともとほとんどが真実なのだから、相手も信じてくれるものです。
完璧な嘘は、完璧な真実で固めるのがいちばんなのです。

             ++++++++++++++++++++

友人にその本を手渡されたのは中学生になる長男が、生まれたばかりの頃でした。

その本の内容は全く素晴らしかった。まるで、魂の手引き、そんな感じでした。
主婦や学生、社会人のそれぞれのシチュエーションでわかりやすい具体例が紹介されていて、さくさく自分の中に入ってきました。
たとえば、聖書に書かれている言葉を具体的な事例をもとに教えてくれているのです。 難しい表現やえらぶった雰囲気などなく、みんなで仲良く魂のことお勉強しようよ!僕はサークルのリーダーさ!
そんな雰囲気で書かれていました。

ただし、大きな落とし穴が存在したのです。
お釈迦さまの教え、イエスの言葉、その事例に挟まって、ときどきこんな言葉が混じっていたのです。

『全ての人には、必ず霊がついています。
その人の心の状態が悪いと、悪い波動を出して悪い霊を呼びます。また逆に、よい波動を出しているがために霊を呼ぶ人もいます。
救われたい霊は、よい波動をだしている人のところへ寄ってくるのです。
たいていの霊は血縁関係がある先祖の誰かで、彼らは自分の子孫の最も波動が高いところへ集まってきてしまうのです。
あなたが魂のことを知りたいと思っているのなら、尚更その可能性は高くなるでしょう。
そんなことになっては、せっかく素晴らしい教えを実践しても、霊障が出てしまいます。
なので早いうちに、霊たちを成仏させてあげることをおすすめします。』

そして、巻末に、除霊の詳細が載っているのです。
『50000円くらいからできます。金額はお問い合わせください』
こんな感じで。

             ++++++++++++++++++++

それまで、純粋に神さまを求めていた人がどうやって騙されるのか、私は不思議でした。
でも騙されているわけではないのだと知りました。
なぜならその新興宗教の本は、ほとんどが真実と思えることで満たされていました。しかもとてもわかりやすく。
書かれていた内容に感動して、教えてくれてありがとうと、私はその本に言いましたから。
感動することがたくさん書いてあるんですもの。信じてしまっても無理はありません。

(上に書いたことがまるきり嘘かどうかは私にはわかりませんが、経験上思うのは、すべては自分で引き寄せているということです。そしてどうせなら私は、霊じゃなくて天使を引き寄せたいなぁと思います・・笑)

             ++++++++++++++++++++

本に書いてあるから、その本のほとんどが真実だから、だからそこに書いてある全てが真実だとは限らない。
なのにそのことをうっかり見落としてしまうのは怖いことです。

私はテレビや新聞の報道を、そのまま信じたりしない主義を持っています。
長男が工場の屋根の雪が落ちてきて救急車で運ばれたことがありました。
実は、当時小学校3年生だった長男が雪山を乗り越え、屋根のツララを引っ張ったので落ちてきて怪我をしたのです。
でも、報道は違っていました。
警察も、子供がツララを引いたためで、事件性はないという見解だったにも関わらず、報道では、長男が『工場の屋根の下で遊んでいたら突然雪が落ちてきて怪我をした』と伝えていました。
間違いではないのですが、遊んでいて雪が落ちてきたのと、屋根の雪をひいて落としたのでは、与えるイメージが全く違うのに。

報道は、視聴者にどのような印象を与えようか意図して流すことが出来きます。街灯インタビューなどで『今の政権をどう思いますか?』という質問に、そのテレビ局が『頑張っている』と伝えたいと意図した場合、そういう内容の人たちばかりを流せば、報道を見た人は、『今の政府は頑張っていると国民の多くは思っている』のだと感じてしまうのです。
テレビ局側は否定するでしょうし、そんなことしていないとは思いますが、可能性の問題であり、私は報道を鵜呑みにすることはしたくないのです。

             ++++++++++++++++++++

どんなことに出会っても、それが真実であるかどうかは自分で判断する癖をつけないと、権威に頼って、多数決で進む道を決定してしまうことは、危険かなと思います。

昔は、自分の考えと違っても、多くの人が進めというべき方へ行くべきなのではと思っていました。でも、その結果、誰かのせいにしてしまうことが多かった。
だから自分で考えて、自分で選んで行きたいと思います。たとえ私ひとりがそちらへ進みたいと思ったとしても、勇気をもって進みたいしその方角が間違いだったとしても、自分で選べば言い訳できないし、間違えたことは2度と間違えないと気をつけられると思うし。
そんな人になりたいと思います。

             ++++++++++++++++++++

師は、すでにあなたの目の前にいます。
わざわざどこかの団体に入らなくても、高価な本を買ったり、高い料金を払ってセミナーに出席しなくても、師はどこにでもいるのです。
昨日見ていた娯楽番組の中にも、あなたが知りたかったメッセージが含まれていたかもしれないのです。

高価な本やセミナーが悪いと言うのではありません。
高いお金は払えませんが、読みたい本も出席したいセミナーや講演会もたくさんあります。
大切なのは自分の選択に責任と誇りを持つこと。そうすればお金を払った値のことを学ぶことが出来るのではないかなと思っています。
ただ、立派な誰かに教えてもらう真理が素晴らしくて、昨日会社で経験した出来事から学んだ事は価値がないとは思わないですけどね。

全ての宗教団体が胡散臭いとか、嘘つきだとも思いません。
それぞれの出会いがあり、何を学ぶかを自分で選んでいるに過ぎないからです。
お金もエネルギーのひとつなのだから、払う価値があると感じたのであれば、いくら払っても構わないと思うし。
ただ、その時自分の意志で払ったと自覚することが大切だと思います。

どんな出来事も、どんな人も言葉も、そこに神を感じる目をもってさえいれば世界は素晴らしく輝いて見えるのではないかなとそう思っています。



メルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝♪』2002.5.23より




子どもが泣いたほんとうの理由

子どもが泣いたほんとうの理由



あれはまだ長男が 三歳の冬でした。

当時私は保険の外交員をしており、成績が悪く上司に絞られ、締め切りを控えたた 先輩にきつい事を言われ、ストレスをたっぷり抱えて子供を保育園に迎えに行きました。

まだ幼くてうまく雪道を歩けない子供の手を強引に引き、保育園の凍った階段を駆け下りたところ、 いきなり激しく転んでしまいました。

頭を打った子供は痛いと泣き出し、はじめは心配したものの、あまり子供が しつこく泣くので腹が立ってきて、
「ママはもっとひどい怪我しのに我慢してるんだよ。だからもう泣くんじゃない」
と怒鳴りつけ、パンストが破れ流血していた自分の膝を子供に見せました。

すると、子供は泣き止むどころか、道に突っ伏して益々激しく泣くのです。
寒さと痛みから私の怒りは頂点に達し、ヒステリックにうるさいと叫びそうになった時、 子供が泣きながら言いました。
「こんなお怪我してママかわいそう。」
そうして、また突っ伏して泣く子供を見ながら、私は力が抜けていきました。

何も悪くない子供に向かって職場のストレスを発散していた自分が恥ずかしくて、 なのに、そんな母親の怪我を心配して、自分が痛かった時より激しく泣いた子供が愛おしくて、 涙が溢れてきそうでした。

「ママあんよ痛いの?大丈夫?」
心配して尋ねる子供に、
「ママはもう大丈夫だよ。それより寒いからタクシーで帰ろうか」
と、暖かい気持ちで答えていました。    





1998年5月ごろアップしたもの
ホームページ(rest station〜休憩室)  



名もない小川

名もない小川


私がまだ子供だった頃、家の近くに小川が流れていました。
小川と呼ぶのにふさわしいその名もない川には、くるぶしまでの深さの冷たくて奇麗な水が流れていました。

川幅は一定ではなく、広いところは一メートルほどだったり、狭いところだと子供の足でまたげるほどであったりしました。

近所の子供たちで二組に分かれ、それぞれの年齢にあった川幅の場所を、 足に水を付けずに飛びきった人が多い組が勝ちという遊びや、 ひたすら川の中を歩きまわり、ザリガニや魚を捜して遊びました。
特に理由がなくても毎日川に入ることが楽しみでした。

ヒルがいるのでサンダルを履いて遊びなさいと注意をされたものの、裸足で丸いぬるぬるした石を踏み、勢いよく流れる水が飛沫を上げて足の甲にあっていく冷たい感覚が気持ちよくて、 ヒルも恐れずざぶざぶ川に入ったものでした。

五年生の秋、その小さな小川が工事される事になりました。
ある日を境にその狭い川原にブルドーザーが入り込み、凹型のコンクリートで 川の両側を補強していきました。
大雨が降って洪水になったら困るからという理解しがたい理由で、 その一メートルの川幅もない小さい川は、コンクリートを流れる名前の付いた 大きな下水道のようになってしまいました。

それでも工事が終わると川で遊んだ楽しい思い出を忘れられない子供たちは、かつては 地面の続きにあったのに、自分たちの背丈より高いコンクリートの壁のせいで、 深い場所におちてしまった川にこっそり降り、昔のように水の気持ち 良さを味わおうとしました。

けれど、かつてその砂利の下にわくわくする生き物をこっそり隠していた小川の底には、 濡れたコンクリートが平たく広がっているだけで、生き物など何ひとつ見つかりませんでした。

月日が流れ、ただ外で遊ぶ事が楽しかった日々も遠くなり、急速に自分の周りから自然が失われていた事など気付かないまま私は大人になっていました。

子供が生まれ、子供が外で遊ぶようになって、作られた公園以外の場所に自然がない事に気付きました。
私たちが子供の頃、てくてく歩いて行く事が出来た単なる野山は、今では、 日曜日にお父さんが車を担ぎ出して遠くまで出掛けなくては経験する事が出来なくなっていたのです。

近所には、子供が安心して遊べる公園と、きちんと設計されて造成された、 人工的な河川があります。
柳が気持ちよく風になびき、程よい緑があるその川にはコンクリートが敷き詰められ、 生活廃水がこっそり混ざった水をどんどん流していました。
もちろん春にはヤマメの放流もされていて、子供たちは釣りを楽しむ事も出来ます。

札幌から車で2時間かけて出掛けた積丹で、自然が作った窪みに山から溢れてきた水が 流れる川があり、そこで裸足で子供たちと遊ぶうち、奇麗な水にしか住めないという日本ザリガニが、突然の来訪者に驚いて足元を慌てて横切った時、私は気付いたのです。

今の子供たちは作られた自然でしか遊べずにいる事を。

小川がコンクリートに覆われたとき、どうしてって何度も思いました。
親にも聞いたけど、納得できる理由はありませんでした。
何故私たちの大切な小川を奪う必要があるの?
その気持ちだけを宙に浮かせたまま諦める以外ありませんでした。

あれからどれだけの自然がニンゲン達によって失われていったのでしょう。
本当の自然って遠くにしかないものなのでしょうか。

あの時の何故は、今も私の心に浮かんだままです。



(1999年にサイトのエッセイのコーナー『言葉たち』に上げていたもの)

メルマガ〜前世の法則1〜対になる(2016.6.9のメルマガより)

◆ プチエッセイ〜前世の法則1〜対になる


今日は、陰陽の日です。
6月9日の数字が勾玉を逆さに1つの円にしたあの陰陽のマークに似ているので、ずっと前からそう呼んでいます。

ぐるぐる回るイメージから、前回の続きの前世の話をしようと思います。

前世の法則の1つに、前世は対になって存在するいうものがあります。

私の前世の例で言うと、前回お話ししたインディアンだった前世にも、対になるものが存在します。
前世療法を受けたいと思ったきっかけになったイタリアのものでした。
イタリアでは、ルネッサンスの頃に、貴族の家に生まれました。

その前世を掘り下げるうち、大きな視点から見ると、因縁めいたものがあることに気づいたのです。

歴史的に見て、インディアンの人たちは、スペインなどからやってきた体験ヨーロッパの貴族をパトロンとする存在によって、迫害されてきました。

インディアン時代の私は、居留地に閉じ込められて自由を切望する人生を歩いていました。

かつて赤い大地を自由に歩きまわっていたインディアンの末裔として生まれるも自由を失ってしまっていた私は、ヨーロッパの貴族たちの策略によって狭い居留地に追いやられ過酷な人生を歩く羽目になったのです。

いってみれば、インディアンにとって、敵と呼べる存在がヨーロッパの貴族だったわけです。

そのインディアンの前世より200年ほど前でしょうか、イタリアで貴族として生まれた私は、そこで子供産みました。
そのまま私の産んだ子供の子孫たちが、やがてアメリカ大陸に渡り、インディアンを迫害した可能性があるわけです。

子孫という肉体としてつながりのある存在が、魂としてつながりのあるのちの人生の自分にとって、
仇となったのです。

そのことに気づいたとき、単純に自分を迫害している存在が、単なる敵とは思えなくなりました。

前世の法則の1つに、たくさんの人生を通してあらゆる体験をすると言うものがあります。
よく聞く話が、被害的な人生があるのなら、どこかで加害者的な人生があると言うように、バランスをとっているというものです。

もちろん全てが両極端な両方を体験していると言うわけではありません。
エネルギー的にバランスが取れるような体験をしていると言う意味なのですが、それでもやはり私の例にあるように、よく考えると深い因縁がそこに必ず存在しているものなのです。

前世を知る意味の1つが、今の人生だけで全てを語れない深い縁が存在していると気づくことで、単なる被害者や加害者といった視点だけにとらわれず、もっと深い学びの方向に意識を向けることができるということです。

だからと言って、すべての罪を許せとか、された事は前世のカルマなのだから仕方がないなどと
言うつもりはありません。

人間社会に置いて、悪いことは悪いことなのです。前世の因縁だからと言う理由で許す必要性は全くありません。

あくまでも自分の感情を処理する上で、前世の因縁を知ることで少しは楽になれることもあると言うお話です。
その逆で、前世での関係性を知ってしまうことで、余計に苦しむ場合もありますから、一概に全てを知ることが正しいわけでもありません。

準備ができたときに、情報はやってくるものです。それが前世の記憶であったとしても。

大切なのは、それを知ることで、今の人生がより豊かに幸せになれると言うことです。
そうなれないものであれば、無理に知る必要はないのです。

今を生きることに集中することが、1番幸せになれる方法です。
前世はあくまでもそのサポートであると思ってみてください。

ありとあらゆる事はめぐりめぐってやがて自分に返ってくるということを知っていれば、良い行いを積み重ねる事は、未来の自分を助けることになるとわかります。
よりよい未来のために、日々、良い言葉、良い気持ち、良い行いを重ねていきたいと思っています。

  
            遊月

メルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝♪』2016.6.9より

前世へと続く扉( 2016.6.2のメルマガより)

◆ プチエッセイ〜前世へと続く扉



はっきりと前世の記憶がもともとあっとのだと自覚したのは、前世療法を受けた時でした。
今から20年ほど前のことです。テレビで、前世療法と言うものを知りました。

心療内科的な治療で、トラウマになった原因を原因が起きた時代まで遡り、そこで暗示をかけて直すというものがあります。
ある時、なかなか治らない患者さんに、その元になった時までさかのぼってと暗示をかけたところ、今の人生をさらに遡り、前世まで行ってしまったということがありました。
そのことから、前世療法と言うものが、本格的に研究され始めました。

当時私は、初めて出産をした時から、それまで大嫌いだったイタリアのことが、とても好きでどうしても行きたいと思うようになり、中でもルネッサンスの時代がとても好きで、なぜこんなに好きなのか、もしかして前世と関わりがあるのかと漠然と思っていました。

だからテレビで見たとき、私も受けてみたいと思いました。
当時まだインターネットがそれほど活発ではなかったので、前世療法と検索ても3〜5件ほどしか見つかりませんでした。
しかし、そのうちの1つが札幌にあるのを偶然見つけたのです。
私は早速前世療法が行われているお店に様子を見に行きました。


 ☆‥‥…━━━━…‥‥☆

私はそこで、前世療法受けました。
イタリアの前世を知りたかったのですが、前世両方には、何かそれを見るための理由が必要でした。
当時私には全く自由がなくて、なぜこのような縛られた環境にいるのか理由が知りたかったので、それの答えがある前世へと、意識は飛んで行きました。

セラピストさんが、何が見えますかと質問しました。
それまで全く何も見えなかったのに、突然目を閉じた私の頭の中に、赤茶けた高い山が見えたのです。
そこはインディアンの居留地でした。
私はそこでの人生を死ぬまで眺めました。

前世療法が終わったものの、その物語は、自分で勝手に想像したものだと思いました。
さらに、自分が履いていた靴を見たとき、そんなものがその時代にあるわけないと思いました。
なので私は本屋に行き、インディアンの歴史の本を調べました。するとホピ族の衣装が、私が見たインディアンだった自分の服装とそっくりだったことを見て呆然とするのです。
ホピ族の方人は平和と言う意味。私の名前にも平和という意味が入っています。偶然かもしれないけれど、何かつながっているように感じました。

そのあと思い出したのですが、私は子供の頃から、インディアンの人たちが迫害されるドラマを見ては、彼らは何も悪い事していないのにどうして殺されるのかと、よく父に泣きながら問いただしていました。

次々と、実は前世の記憶だったと思われる不思議なビジョンを、子供の頃からよく見ていたことを思い出して行きました。

そしてその前世療法をきっかけに、私の前世の記憶へ続く扉が開かれたのが、次々とたくさんの前世の記憶を取り戻しました。

それらは特徴がありました。すべて子供の頃から、まるでどこかで映画でも見ていたかのように、ずっと私の中に記憶の断片として残っているビジョンがきっかけになっていたと言うことです。

それが、一度強くそれが前世の記憶なのだと自覚した時から、次々と、必要になるたびにとびだしてくるようになったのです。

しかし一定の法則があり、それらのコントロールは、潜在意識、自分を超えた意識が司っているようです。

以前、夢解き講座の原稿を作っていて、その辺りのことは詳しく教えてもらいました。

次回は、前世を知る意味と、前世を思い出す方法があると思うので、それについて語りたいと思います。


  
            遊月

メルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝♪』 2016.6.2より
QRコード
QRコード
最新コメント
  • ライブドアブログ