2037年06月01日

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2011年06月30日

人生。基本的になにも信じられない

多くのことを信じて行く人生が幸せだと思う。

私は、福音派の新興教会に行った結果、多くのものを信じれなくなっている。
自分や家族さえ

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2008年09月25日

やっぱり生きる動機が…

私の「生きる動機」とは相変わらず「私が人に受け入れられるため・人の歓心をひくため」になってしまっています。
それも、変わった人の歓心をひきたいのです。
これは悲しく生きづらい人生です。

3歳からある福音派の教会に忠実に通わされたのでこうなりました。

息抜きにサボることなど考えませんでしたし、教会の大人たちも「この世に染まらない」ことを信じきっていましたから、サボりを許容する空気はありませんでした。
軽い引きこもりの世間知らずだったわけです。

しかし、実は教会の中の方が世間よりも酷かったと今は思えます。毎週日曜日気晴らしもなく、大人20人位が朝から晩まで、顔を突き合わせ、教えと祈りと賛美歌と会議と勧誘活動をします。
週日、男性は牧師以外全員、仕事を持っています。安息日どころではありません。

息抜きや休みはストレスを緩めるためですが、日曜日がこれでは余計にストレスがたまったはずです。その結果、教会の熱心な信者は自分と家庭にストレスを抱えます。不寛容や怒りやすさなどが家庭にあるので、家族はあまりうまく行きません。

うちは母親と年の離れた姉が熱心だったのですが、ふたりは宗教的なことに口うるさくて怒りやすかったですね。怖かった。父親は精神的に弱く、口を出さなかった。私には楽しさより怖さや不安があり、テレビに逃げてました。

宗教無しにいろいろ頑張る家族ならまだ納得できたでしょうに、宗教が人生をサポートせず、宗教自体のために余計ストレスがたまるのは理屈に合いません。ストレスがあるのに余計のめり込む。かなり変な話です。

そんな変なストレスを抱えた大人とのかかわりが、私の人生前半の社会経験のほとんどでした。

変なストレスと欲求不満を抱え、戒律のせいで人のあり方も自分のあり方も否定する人たち。

私は、普通の人の歓心より、いまだにそんな変な人たちの歓心の方が欲しいのです。普通の人生や家庭を否定して、自分の属する活動だけ肯定をする変な人々の歓心を。
三つ子の魂、百まで…。私には安定した心の安らぎなど永遠に来ないかもしれません。
私の子供にだけは、自由な心を持って欲しいと願うばかりです。


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2006年11月28日

限界を知ること

人が自分の限界を知るとは、信仰の有無にかかわらずあります。
そして真の宗教とは、当然そのような悟りを伴います。

ところが、このような個人的内面のことを人前に公に告白させ認めさせる悪行を、福音派や聖霊派では日常しています。
「私は罪人です。神の前に高慢であり、砕かれる必要があります。」と牧師の前や複数の信徒の前で言うはめになることがよくあります。
これを言わないと、仲間と認められない雰囲気が充満しています。
こうして、今までの自分と汚れたこの世からの分離を迫ります。これはもうカルト化が始まっている状態なのに、聖書のことばだと疑いません。
彼らにとっては当然の人間性や人が心に感じることなど、聖書の字句の前には問題になりません。
完全に「適用」の域を越え、人格否定、人格破壊になっています。
これが、牧師、年長者、親、信仰歴が長い、教理に詳しいなどの上位の者から、それ以外の弱者に対して行われています。

この悪の循環に気付くかどうかが、人生正常化の鍵ですし、キリストが語っている福音を自然に受け入れれば当然気付くことだと思います。

人間性の限界を超えて聖書の字句を振り回す行為は、誰にも許されてはいません。


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2006年10月10日

徹底した自我の否定

私には、根拠のない自己否定と他人の要求を満足させよとの声が、意識を支配することがよくあります。
この声は、親や教会に自我を理不尽に破壊された人間が、他者に対して要求する内容そのままです。
原理主義的教会には、そのような人が集まりがちなのが大きな問題で、クリスチャンの子弟や内面が弱って助けを受けようと来る弱者たちに伝染していきます。これは深刻な問題です。問題をかかえた真面目な人が精神的問題をかかえるような結果にもなり、もはやカルト被害の様相です。


人生の中で時として自己が否定される場面はあるものです。
そういう経験を通して自我が練られて人間的に成長していくのは、クリスチャンでなくても皆が認めていることです。

ところが、福音派や聖霊派など聖書の無謬を権威的に教える教会では、日常的に教会員の自我を否定することを教えがちです。

それらの教会が語る難解な救いの教理をまとめるとこうなります。
「人は罪によって、完全に堕落した存在だ。だから、自分自身が全く堕落した存在だと自覚したときに、神が完全な清さを求める性質を持つことと、人がその清さの条件を満たすためのキリストの十字架による赦しや聖霊の清めがわかる。」

しかし、なかなかそう説明する教会も少なく、大概はこう言います。
「人は例外なく罪深いので、神の目には汚れた存在だった。キリストが犠牲になることで、神は人に救いを恵んでくれた。だから、ひざをつき、自我の殻をやぶり、徹底的に悔い改めをすることで、本当の救いがわかる。それを口で告白してはじめて救いを受けることができる。教会はその救いを守る砦なので、教会に忠実であれ。」

後者のことばは救いの入り口としては分かりやすいですが、この文句で継続的に悔い改めと自我の否定を公に表明することとと教会への服従を迫ります。執拗に教会のやり方を強制されると、本質的な内面の悟りはなおざりにされます。


私は、教会の執拗なメッセージのせいで、自分が人や社会から全く否定され、人や社会の要求の言いなりならないと、生きることが認められないと思ってしまっています。これは、問題ある教会が教える神観と同じで、つまり神(実は教会)の言いなりにならないと人は救われない、ということです。

私の子供時代の内面では、この神像が一般化されてしまい、社会の皆が非常に厳しく人を裁き、決して赦さないものだと刷り込まれました。子である私は親に味方になって欲しかったはずですが、何よりも世間体だけを満たせば親が誉めていた記憶しかありません。

外見だけを気にするだけの浅はかな人生観が、教会による情に訴える単純な説得を簡単に取り込み、クリスチャンというステータス(見栄)を得たようです。自己否定の連鎖がある家系が、原理主義に出会うことは要注意です。

人の心の問題などどうでもよく、説得さえ受け入れるならクリスチャンの称号を与える教会の姿は、中世に戻ってしまったかのようです。いったいどこが「プロテスタント」なのでしょう。とっくに滅びたはず亡霊がプロテスタントの原理主義に巣食っているのです。

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2006年09月14日

人生をゆがめる教会の伝道教育

教会は信徒に伝道を促す。人の命を救う使命であると言われる。
度重なって言われると、信徒は伝道によって世の中が変わることを志すようになる。
社会の矛盾や痛みをなくし、周り人の身勝手な愚痴までもすべて自分の持つ救いを伝えることで解決すべきだと思う。

こんなことを子供の時に刷り込まれると、人生の岐路で選択を間違うことになりかねない。
牧師・信徒の子供は、伝道志向の教会からは離れた方が良い。その方が健全でいられる。

「自分を捨てて、人を救う」との思いが心のすべての領域で勝り、自分を見つめることができず、志、願望、能力、向き不向きを省みることができない。
献身的か、または教条的であるほど、人生のすべての局面で思考停止がおこり自分自身が見えなくなる。

ここまで来ると、自分らしい人生を取り戻すためには、もうキリスト教から離れるしかなくなる。

福音派、聖霊派から信徒が居なくなる原因はここにあるのだろう。
固定信徒は、自分の生活を守って、教会の言うことをやりすごせて、伝道の掛け声だけ切り離せる人なんだと思う。古株で支配側だったり、大口献金者だったりするのかもしれない。

こんな教会の伝道は、教会に人を増やすための方便に成り下がっている。決して人を救うことにはならないことを自覚すべきだ。パウロが言った、どんな動機でも伝道活動はOKとの一文は当てはまらない。パウロ書簡において、信仰義認をもう一度確認すべき問題教会として扱われる方だ。

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2006年06月28日

子供時代の信仰の証しとストレス

「信仰者の証し」になるならないで、子供時代の行動は統制されていた。
「証しにならないでしょ」が親の口癖でもあった。
教会でも、子供にまで伝道することを熱心に教えていた。
証しをしないと、ヨルダン川から流れてきた水を溜め込むイスラエルの死海のように、動物の居ない死んだ海のようになると一番偉い牧師が教えていた教会だった。

その教えに従い、確かに私は多くの同級生を教会に呼んだ。
しかし、逆にストレスを溜め込んでいき、吐き出したくても吐き出せない状況だった。
私の肩に神の名と教会の教えがのしかかっていた。

子供がストレスを表に出すことは、とても大事なサインだ。その原因を見逃すと、後々に大きな取り返しのつかない問題を起こすことになりかねない。
今私は、負い続けなお増し加わるその十字架を一人で分析しつつ、日々をやりすごしている。
子供時代のストレス発散と周りの大人と一緒にすべき分析と解決は、すべては無理にしても、少しは当時やっておくべきだったのだ。

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2006年05月25日

福音派教会で様々な財産を浪費する

教会堂建設のために、信徒は献金するが、その額は一家庭100万円を軽く超える。それまで貯めてきたものを、ここで使わねばいつ使うと、「信仰」に迫られるらしい。
私の家庭も、母親主導で献金した。
見栄えのいい建物になれば人が来るという話になっていたが、それほど成果は無かったようだ。やはり、外箱より人だろう。
また、費用対効果を考えると、規模がかなり小さかった。土地がまだ高い時期だった。
そして、私が行っていた福音派は、高額所得者ばかりではない。
全員かなり無理をしていた。

献金の動機は、そこの信徒は皆「神に捧げる」と言っていた。
神が見ていると思っているようだった。
そして、時期を見誤ったため規模の割に高額で、その後もずっと払いつづけている。
信徒の苦労の対価を、狭い教会堂が食ってしまったばかりでなく、未来の返済まで背負わせている。

「伝道のため」+「神が自分を見ている」で、自分の一生を教会堂に捧げてしまう。福音派ならではの話だ。
「伝道のため」との言葉があれば、無理をするのがあたりまえで、体の限界、心の限界、家庭の限界を越えて奉仕し、捧げる人たちも多い。
福音派の教会に傾倒する時点から、罪意識とへりくだりを持つようにマインドコントロールされ、心の判断力や抵抗力は弱くなっているので、協力的信徒は普通の人よりも簡単に労力とお金を提供することになる。

どうなんだろうか。
福音派に救いはあるのだろうか。
神が与える救いは、福音派にあるのだろうか。
たぶん、信仰のはじめには救いがあったはずだ。しかし、はじめの救いがあったために、間違って敬虔と呼ばれるような教条主義や罪意識を受けいれるようになってしまっている。
信仰を持ち救われたことで、人生を前向きに進みだし、現実の問題をも乗り越えねばならないのに、心や労力や生きるための糧を教会で浪費してしまう。
教会は、信徒で現実の厳しい問題にある人より、伝道や会堂が大事だ。というよりも、敬虔な信徒は、教会は捧げるところであって具体的な助けを受けるところではないと、思うようだ。もとより、心の力は全て教理理解に吸い取られているので、実際的な助けの知恵など持ち得ない。
そして、普通の感覚の人が疑問を感じて教会から離れると、もう背教者扱いだ。人生自己責任論は、福音派では日本伝道が根付き始めた50年前からあったものなのだろう。戦後すぐの伝道目標である日本キリスト教化が全く達成されていないから、それが「欲しがりません。勝つまでは」の空白に入り込んで、一部日本人クリスチャンの戦後の希望として、今も亡霊のように福音派を支配しているのかもしれないな。

私は、人から助けなど受けられないと思うように育てられてきた。
全部、自己責任だ。
神を信じる人間は、人から助けなど受けてはいけないのだ。
実際、私の家族は決して私に慰めの言葉などかけないし、助けもしない。
神が居る、祈っているから大丈夫とでも思っているのだ。
子供の頃に大方失った私の心の力は、果たして私に戻るのか、消えそうな生きる意欲は、果たしていつまで続くのだろうかと真剣に気に病んでいる。

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2006年04月05日

思えば子供の頃から うつだった。認知の歪みも教会の全員にあった。

子供の社会観や常識、希望は、周りの大人のあり方から作られる部分が大きいと思う。

思えば、私は子供の頃から、うつの症状があった。
最近も、午前中はずっとそうだ。

子供時代、福音派の教理に従って、自己否定と、社会の否定を繰り返しており、肯定していたのは親や上に立つものの権威、教会の言う聖書の規範だけだった。神に「親に従え」と言わせるのは、なんとも楽な方法だっただろう。

私の母親は、私のうつ状態に「根性がないからだ」と鞭打つのが常だった。後に聞くと、それは私を奮起させる手段だったという。なるほど、親の出身地方ではそんな親子関係も多いらしい。
しかし、原因は聖書の命令を根拠にした異常な自己否定、感情の抑制、そして決して達成できない清い行動基準や親が奮起させようと焚き付ける言葉をクリアしようとすることだった。

私は、そんな原因など考える余地もなく、自分のうつ状態を、そんなものか、人は全員そういう道を通っているものなのかと、ほぼ成人するまで思っていた。思春期に疑いは持ったが、クリスチャンとして試練はある、普通の人とは違う茨の道があると、聖書の「みことば」から自分を説得していた。
大人の教会員の発言も、およそ「教会のみことば」の通り規制に則ったものばかりで、それが「規範とする大人の姿」となり、「社会は悪く、教会は正義」の思いを強くした。

今でも、認知の歪みの伝染とでも言うのだろうか、教会と無関係の普通の交流の中に、親や教会員の規範意識が重なり、常に自分が相手から否定的な指摘を受けている感覚に陥る。伝道が進まず、社会に対する恨み節のようにも聞こえるあのクリスチャンたちのことばが、子供時代から二十年近く私を洗脳しつづけていた。教会の大人たちが感情を爆発させているのは、「認知の歪み」を全員が持っており、その感情を無意識に応酬しあっているせいではないか思う。あとは力関係で上下が決まる。まるで野獣の世界だな。

カルトの洗脳が完全に解けるには、カルト在籍年数と同じくらいかかるという専門家が居るが、忠実な傾聴をしていた鏡い砲箸辰董△修譴六爐寮觜陲剖瓩ぁ

クリスチャン家庭の子に、常識的手助けをしてくれる大人も居なかった。
母は私について「(抑制が効いて)育てやすいいい子供だった」と言ったが、周りにもそう思われていたのだろう。
核家族化がさらに進行して、カルト的信仰家庭の子供の救済はますます難しい。原理主義的教会は将来悲惨な形で明らかになる問題を、現在も聖い信仰によって産みつづけている。福音派聖霊派の教会の忠実なメンバーになることは、自分と子供の精神を壊すことに自分でコミットするようなものだ。自治体単位で良いから、カルト規制条例を作ってくれないものか。

子育てのマニュアル本は多くあるが、成人してから子供時代に遡って意識を組替える方法は、誰も教えてくれない。精神的に問題を抱えた成人が、子供時代の問題から解放される方法が一般化されればとても良いと思う。

教会は、たぶん、そんな問題はどこ吹く風、いや、教会に来れば治るとでも言うのだろう。そんな教会には、決して行ってはいけない。そんな教会は、全くおぞましい呪われた場所なのだ。

「親を悪くいうな」とは、日本の良き伝統的価値観とされるが、それは儒教の教えだ。世界的に教会は、「教会を悪く言うな」と言うが、どれだけ教会が歴史上、そして今も個人に酷いことをやってきたか。
正しい自我は、親を乗り越えるものだが、教会は乗り越えるべきものではないと神聖化される。でも、実は、教会もろくでもない人間の集合体に過ぎない。優れた聖職者も信仰者も、それは個人の探求の結果にすぎず、教会権威の正しさの証明にはならない。
乗り越えるべき相手を見極めないと、人生には悲惨しか来ない。日本人のクリスチャン鏡い覆蕁⊃討閥飢颪鯑鷭鼎妨極めないといけないようだ。

ただ、もう自分に起こってしまったことは、日本の今の現状だから仕方ないとは思う。神だけは、そんな困窮者の味方だと思っている。普通の人がこれを読んだら、ヨブの妻のように「神を呪って死ね」と言うだろうか。それは無い。たぶん、福音派聖霊派の忠実なクリスチャンが「自分の問題を教会のせいにして批判する者は、自分を呪って死ね」と言うだろう。口にせずとも、彼らの批判者への対応がそう言っている。

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2006年02月06日

クリスチャンやめますか?それとも人間をやめますか?

十年以上前、「覚せい剤やめますか?それとも人間をやめますか?」とTVCMで言っていた。
今、教会によっては、クリスチャンをやめないと人間性を保てない。
その教会のクリスチャンは、ここまで読んでもう読む気が失せているはずだ。彼等にはその耐力が無い。なぜなら、彼等は知らずに人生の綱渡りを強いられているからだ。洗脳によって。


親が福音派と呼ばれるクリスチャンで、子供の頃から教会の価値観にあわせるようにさせられていた。

その教会の価値観とは、

・悔い改め・へりくだりという名の自己否定・自我の殲滅。

・聖書のエッセンスに従って、世間や常識を罪の支配下にあるとして否定し、天国/神の国の国民として、聖書どおりに生きる。

・聖書の一言一句を誤り無い神のことばとして、今神が自分に語っているとイメージしながら、自分に当てはめる。(自分の人生の文脈や、聖書が書かれた時代の文脈を無視して。あるいは、自分の人生の文脈にだけ合うように勝手に解釈して。)

・聖書の字面のエッセンスで救いのあり方を規定し、救われるための口上を決めている。(救いとは、自分が罪びとであることを認め、イエス・キリストが自分の罪を負って十字架につけられたことを認め、キリストが心に住むことを認めること。これを牧師か他のクリスチャンの前で口で言わなければ、救いを認定しない。)

・この世のすべての人たち、クリスチャン以外の地獄に行くように運命付けられたすべての罪びとたちに伝道して救う。


これは、現実に存在する福音派・聖霊派と呼ばれるキリスト教集団の有様だ。
これは洗脳で、原理主義の様だ。
教会という集団にコントロールされた、こんな非人間的な生き様は肯定されるべきではない。
福音派・聖霊派の中でも、こんな風に完全に毒された状態もあれば、ここまで至らない場合もある。
しかし、福音派・聖霊派を自認する限り、教義や進んでいる方向はここに書いてあることに一致している。


この中に居ると、人間としての心の叫びが出て来るのは当然だが、絶対の真理と正義を確信する集団の前では、それは考慮される余地も無く受容もされない。

ただ、その叫びや感情を、巧みに信仰や聖書に絡めて言えれば影響力を持つ。それができるのは老練な信者か牧師だけ。それがこの集団をさらに歪めている元凶だ。それがあらわれるのは、程度に差はあるが、権威主義、教勢拡大・伝道至上主義、奇跡や癒し体験の絶対化など。

中堅より下の素直な信徒は、そんな抑圧下で抑圧の強弱に関わらず、人の自然な欲求としてなんとか自己実現をせずにはいられなくなる。その方向は、洗脳のゆえに、伝道活動や「ビジョン」として理想的(妄想的)教会のイメージを追求すること、滅私的愛の奉仕や清さの追求などになってしまう。絶対的真理と正義として宣言された教えの下では、どんなにか抑圧されながら、どれもこれも教会主導層の益と名声にしかならないのだ。これが教会をいつまでも健全化させない理由だ。

福音派と聖霊派の「真理と正義」に洗脳された信徒は、ハムスターが運動に与えられたドーナツ車輪で飽くこと無くいつまでも走るように、疲れ果ててドロップアウトするまで走り続ける。
清さと伝道と天国の国籍を追い求めて。
彼らの頭にイメージされる恐怖と安らぎが、揺るぐことなく走り続ける原動力だ。

人は、抑圧下では、さまざまな逃避や解放のイメージによって精神を保つ。
福音派や聖霊派は、抑圧的救いの枠組みと同時に解放のイメージさえコントロールして組織が維持されている。それは、最初から計画されたものではなく、原理主義が必ず持つ非人間性という矛盾の納めどころを、原理主義の自己確信に従って捻出した結果だ。それだけに、内部の人間にとっては何の疑問も無い。

人間として自然ではない、確信的イメージが頭と心に据えられていることは、洗脳と言える。
人間は罪びとだからと自己卑下し自己否定し、なんでもかんでも教会は正しいと思ってはいけない。いいなりになってはいけない。
そんな自己放棄が、カルトの迷宮の入り口だ。
自分の人生や成長には、自分の頭と心で見て聞いて感じて体験し、判断するためにさらに考えつつ探求して、学び取らなければならない。
自分の人生は、自分で責任を負わなければならない。教会の長老も牧師も、天国の門ではだれも自分のために責任は取ってくれない。
自分を守るのは自分だ、との当たり前のことを回復しなければ、この問題は終わらない。

神は、人間性を失わせることを決してしない。
キリストの十字架の犠牲は、それを得させるためだったはずだ。

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2006年01月19日

信仰の名のもとに、簡単に人情を無視できる体質

世の中は、複雑に感情や思いが絡み合い、理屈だけでは成り立たない。

それに対して、原理的信仰の世界は、どんな人情もバッサリ斬り捨てることができる。
信仰や救いの理屈=教理が、人ではなく、神に向かうから。(それが神の理屈で、神の意志だ、とかなんとか。)

その斬り捨て御免の様子は、ただただ見事だ。いったい何様なのかと思う。

人は誰でも必ず人の助けを受けて生きている。
でも、神だけが自分を生かすとの陶酔に、周りが何も見えなくなるらしい。
自分に良くしてくれる人は、すべて神が送ったと、神に感謝しているんだ。

人間関係に悩む人には、
「神を見上げなさい。神だけ見ていれば、悩みなんて無くなるのです。」
と言う。まぁ、人にはそんな瞬間もありますが、それが四六時中ではカルトですよ。
一生、神だけを見つめていることが、クリスチャン生活だそうです。

そんな異常なクリスチャンを、牧師さんはたしなめなければなりませんが、そうすると、「この世の悩みを負いなさい」と言うに等しいですから、なかなか言わない。

人はね、自分の置かれた環境で悩んで進むように、神が導いているのですよ。
その道が嫌だから、「神だけ」なんて言ってるでしょ。

うまく痛い思いしないで行こうとするクリスチャンって、ほんとうに人情味無い。
いっつも、神のために人をバッサリ斬ってますますから〜。残念(古ッ

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2006年01月11日

キリスト教会にある人格破壊と楽園指向と神の罰

表立って、自分の信仰を、一思想ではなく人類の普遍的アイデンティの柱だとキッパリ公言して譲らないような部類のクリスチャンがいる。私はそれらの人たちを危険な人間だと思っている。

心の中でどんな確信を持とうが、社会的に表に出して良いかは別だ。誰の心にも深いものがあるだろうが、それをやたらと人に押し付けるのは配慮が足りないし、相手への理解や尊重からかけ離れた行為だ。だから、人に対してどんな裏切りをするか分からない。しかし、彼らはその押し付けを「愛」だと言ってはばからない。

そのおかしなクリスチャンが信じているのは、おなじみの

「全人類は罪人で、キリストを神として心に受け入れないと魂が永遠に滅びる」だ。

神学の字面からこの言葉を抜き出して生活の中心軸にするように教える教会が、今日も正統教会であると看板に出して活動している。カルト化に最短距離に居るのに、自分たちこそが正統中の正統だと言う。彼らのアイデンティティのあり方が、恐いし憎い。晴れやかな顔で、なんと多くの人の人生を奪ってきたことか。

「キリスト」の文字を他に入れ替えると、他のカルト宗教と同じであることに彼らは気付かない。そればかりか、「我こそ「本当の信仰」を持っている。その信仰によってキリスト教2000年の歴史に無かった信仰の大覚醒が今起きる」というものまで居る。


上のような精神構造を客観視すれば、それがカルトそのものであるのは明白だが、全く裸の王様状態だ。彼らは「自分は神の子どもだ」とよく言うが、そのことばが自らをよく表している。
また、そのことばの裏には、「他の人間は罪の子どもで、地獄に行く運命だ。そのような世の罪から離れねば」との思いが隠されている。あの晴れやかな顔の裏で、実はそんなことを心に抱いている。これは、かつての自分もそうだったから分かることだ。子供にさえそんなことを吹き込む。彼らリバイバル運動や聖書主義を掲げるキリスト教宗教法人が、信教の自由を訴えつつ、社会と他人の人格を蝕んでいる。これは立派な「子供への人権侵害」で、法規制をすべき問題ではないだろうか。無論、他のカルト宗教と一緒の扱いでだ。


驚くべきことに、そんな彼らのサークルである教会では、「クリスチャンの交流はキリストの身体の現れであり、みな兄弟姉妹だ」という楽園志向がある。互いが愛し合い、苦楽を共有する、という。外の世界である一般社会とは違う本物の愛があるそうだ。
これは、紀元1世紀の初代教会で、荒れ弛む教会と信徒を励まし、たしなめる、特定の意図のことばとして伝えられている。
しかし、そんな歴史の文脈無視で、またぞろ聖書の字面だけ取ってファンタジーに酔っているのだ。なぜ、そんな風に酔えるのか。食べるのに何不自由のない豊かで幸せな人たちが、教会を何十年も支える屋台骨だからだ。彼らは現実を悟りもせず、よくもそんなに続くものだとほとほと感心するが、それも時代のせいか。一体何が世を支えているというのか…。神の愛と憐れみだと涼しい顔で言うんだろうが。

他方、主の十字架クリスチャンセンターのように、殉教などというものをちらつかせて、そのファンタジーの「生ぬるさ」を喝破して人を集める教会もある。このような教会の虐待問題はさらに上を行く。

こんな教育を受けていたら、戦争なんて簡単かもしれない。

汝、殺すなかれ。

この意味を、殺人だけに当てはめて自らの清さに酔うキリスト教会の人格破壊者たちは、「神の国の前進」の理由があれば何でもやってのける社会と人を破壊するマシンだ。だから、虐待問題が耐えない。…参考に脱会者ページ内キリスト教内虐待・カルト問題 情報リンクへ。




私はただただ、わが身の生まれを嘆くしかないな。その両方を経験したわけだから。


そして、その私は、この世に生きる事をやっと決断し、社会生活を送ろうとしているわけだが、今もって、普通の生活のだれにでもある労苦が神の罰に思えてしまう刷り込みに苦しむのだ。
神学の字面では、アダムとエバの堕落の報酬なのだが、それを子供の生涯消えない精神に刷り込んでどうしようというのだ。人が自ら大人になってこそ悟る神学の真理は、正に真の知恵だ。子供になにを求めていたのだろう、あの当時の教会に集いし大人になれていなかった大人たちは。

さぁ、私はどこへ行けばよいのだろうか…。


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2005年12月22日

今後は、核個人化でカルト化した者同士が利用し合うか、争う時代。宗教がその先兵らしい。

ひとりの人間のわがままは、必ず誰か他の人間の犠牲の上に成り立っている。人のコミュニティが壊れないためには、必ず誰かが献身的犠牲を払っている。
このわがままと犠牲の構図は、互いに入れ替わりながら赦し合いながら人の交流の一部となっている。

ところが、この人間社会のコミュニティのために決して犠牲を払わない利己的でカルト的な確信が人に入り込むと、人間性で保たれてきたコミュニティの絆は、目に見えない内に簡単に破壊できる。
そして、信仰も人間性を失った時には、必ずそうなるのだ。
教会を含め現実離れした逃避的集団の中ではそんな現象が大小繰り返されながら、本来人に備わっていた人間性や愛の否定・破壊、カルト化が進行していく。
人が必ず負わねばならない現実の痛みを、心傷のゆえ、また逆に快適さを求めるがゆえに放棄して逃避すると、こんどは共に現実逃避する非人間的反社会的グループをつくろうとする。それは個人が自分だけが生き残ろうとするための利己的グループだが、その手段として非人間的反社会的人格を再生産し勢力化しようとする。
利己的動機なのに相伴う人格を必要とする。それが人間の心理らしい。
一般市民でさえこんな現実を知識に加えて生きなければならない。そんな時代になったんではないかと思う。


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教会は簡単に人格破壊マシンになる

幼い頃から禁止や貶しことばで育てられてきた私は、何をやるにしても自分が貶されることだけは避けようと必死になる。
それが根気や粘りにつながる時もあるが、自分を評価して認めるという、区切りや終わりが全く見えないことがよくある。その時はいくら努力しても安定した感情や安らぎは決して来ない。
そうなると、一体何のために生きているのか分からなくなる。
この混乱した思索を抱えて生きるのは、苦痛で心の大きな重荷・足かせになっている。
こんな理不尽で普通でない成育歴とその感情を抱えて生きる理由がどこにあるのか時々分からなくなるなる。
それに加えて、教会ではその感情を抑えて、良い行いをし、伝道し、愛と清さを身につけろと言う。
それでは私のような人生には、一生安らぎはない。
こんな悪循環を起こす構造を持つ教会は、人格破壊マシンなのだ。


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2005年12月21日

真剣なクリスチャンほど人格がおかしい

教会に居るとウマが合う合わないにかかわらず、仲良くしなければならない。そうしないと愛がないとか成長してないとか言われてしまう。非常に居づらくなる。
どんな人とでも仲良くできない人にはキリスト教の市民権は無いのだ。

しかし、これは歪みの原因なのだ。
人は周りの素直を見て我が身を振り返る。しかし教会では、どんなに非常識でもクリスチャンらしい言葉をつかって打ち明け話さえすれば、神の家族、兄弟姉妹として丁寧に受け入れられてしまう。

いつしか個人の非常識故の悩みが、兄弟姉妹が共に悩んでくれるみんなの悩みになる。個人で解決すべきところを、他人に打ち明けるだけで誰かが解決しようと尽力してくれるようになるのだ。

徹頭徹尾クリスチャン的言葉で真剣に相談すれば、一生依存して生きられる。我が身の非常識を省みることなしに。

真剣なクリスチャンほど、おかしな人格であることが多い。

そんなことに気づかなかった我が身が悲しい。変だなと思ったことを懸命に打ち消して、「愛の受容」に思考を変換しつづけた日々を呪いたい。

教会は裸の王様の集団かもしれないので、軽々しく信用しないことが肝要と存じます。


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2005年12月15日

共感願望と自立

精神的に痛みがあると、共感が欲しくなる。
でも、完全な共感や理解は決して存在しない。
どこまでも、共感や理解や慰めを追求してしまうと、有りもしない空想や身勝手な理想を追い求めてしまうことになる。
カルトは案外そんなところから始まるのかもしれない。
それに対して自立とは、ある時点で自分の傷からの願望や理想をあきらめることから始まるのではないだろうか。

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2005年12月13日

議論を許さないカルト・自由を重んじる心

議論、疑義を受け入れない相手はもはやカルトといえる。
彼らは「聖書に書いてある」「異端の考えだ」「罪だ」「世的だ」「神の領域だ」という言葉で議論を打ち切る。

幼い疑問も、愚かな知恵も、人間的成長と共に変わり、人が大人になるにつれて分かる掟はたくさんある。その大人の知恵と掟は、聖書にある神の知恵と掟に重なることを深く感じる。

議論を打ち切り、疑問を断ち切ることは、丸暗記の聖書知識・神学知識だけを振り回す、人間的に全く成長していない人物を作っている。丸暗記の知識は、魂の中に深い納得をもたらさず、誤った適用で人を傷つける。



>「目的因」をみつけられるかもしれません。
>つまり「自分はなんのためにこれらの体験をしてきたのか」

私の中にある、否定感脅迫感はたぶん一生消えないと思う。
でも、そんな否定脅迫の感情が湧き出る自分に、私は私の存在理由と存在価値があると思う。
信仰的に言えばそこに神の平安を感じる。
どうしようもないこと、死さえ願いたくなる感情をあるものとして認め、乗り越えることができるかもしれない。
そして、自分がカルトではない証拠は、隣人に自分の結論を決して押し付けず、それぞれの自由な思いや議論を喜ぶ姿勢にあると思っている。

私が今後生きる証は、自分の身近に自由や異なる意見の存在があることに大きな喜びを感じることだ。


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2005年12月10日

個人の信仰あり方を観察し、傾向と対策を告げる福音派「知識人」

人の持つ信仰について、クリスチャンが論評できることが、立派な信仰の知識だと勘違いしている輩がいる。
過去の神学者や異端の教えの傾向に当てはめて、危険だとか、異端的だとか、何派の立場に近いとか、人の心を勝手なカテゴリーに分ける。まぁそんな人も何百年前にいたのかと思うが、俺は今を生きているのだ。彼らは小さい時に、歴史の知識がすべてを解決するとでも親に教わったのでしょうか。

間違った教えにはまらないために、聖書に立ちましょうと言うが、実はしっかり正解(教理)が固まっている。それは、聖書通りだと多くが主張する教派的立場の一つにすぎないのに。福音派神学は化学や物理学や数学並にきっちり答えが出る神学だと勘違いしているらしく、えらく自信たっぷりなのだ。

人の弱さ愚かさ(自分の弱さ愚かさ)について、もっときっちり実践的に学んだ方が良いと思いますよ。福音派の皆さん。教派の立場も語る人間もあてになりませんて。教理は所詮、人間の知恵ですから。
現実に遭う出来事を重視し、心に住む聖霊を信じましょう。教理の知識よりよっぽど役に立ちます。

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不完全さを楽しむ

神は、人の不完全さを受け入れ、人を子として愛している。

人に罪があるからキリストを送り、律法の束縛されることではなく、信じることで救うようにした。

神が完全であるように完全であれとは、人を赦せということで、それは完全な罪の無い状態になれということではない。不完全さの内にキリストの十字架の犠牲が有効なのだから。
不完全さを愛し受け入れる神の赦しの真実がキリストの十字架に表れているのだから。

この不完全な状態を喜び、神に受け入れられていることを喜ぼう。

完全さ清さを誤解して人に教える教会や牧師や信徒はあまりに多い。

人の不完全さは完全に神に受け入れられ、この時代の人を神は愛し、今も導いている。
それぞれの限界のままに、神にアプローチする自由を私たちは持っている。

ただ、人を神の名を使って要らぬ束縛・抑圧する人間だけは大嫌いだ。
それを、怒りを持って告発したい。

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ltd_exp at 20:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年12月05日

「人が自分を愛すること」 これを否定する牧師の説教が普通にある。

「罪である自分の自我に死にましょう」って説教がよくあった。
その引用元は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」という福音書のキリストの言葉だ。

でもそんな説教はまやかしだ。


最近このメッセージに無意識に縛られていたのが分かった。

私にも、自分を信じ、自分を愛し、自分のためにがんばってきた時がある。
その時を思い出せ。取り戻せ。
何かに束縛されることに、気をつけろ。
学習と成長は、束縛とは縁の無いものだ。
自分のことばで束縛をしたがる、自分の内外の欲求不満の教え魔に注意しろ。


「自分と同じように隣人を愛せよ。」
「妻を愛する者は自分自身を愛している。」

この聖句の意味が、こんなにも長い間分からなかった。

自我という言葉が、教会というところではひどく間違った理解で教えられている。
人の自我を殺すというのは、人格を殺すに等しいことにも気付かない。

キリストは、個人のあらゆる現実への神の赦しと愛と神自身の介入を教えているではないか。自我がどんな形をしていようと、神が心に共に居るというのが信仰ではないか。

犯罪的に人を傷つける自我の発露が悪い事は常識で誰にでも分かる。だが、福音派聖霊派聖書主義の教会はそれ以上に際限ない自省と悔い改めを強いて、清めの名のもとに人格を破壊するところまで行く。たとえ犯罪を行っても、その心の現実を共に紐解き理解しながら人を変えようとするのがキリストだろう。そんなことは福音書のイエスの言動を見ればすぐ分かる。「自分を捨てろ」のメッセージはそんなキリストしか口にしてはいけない言葉ではないか。多くの牧師にはその資格が無い。

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