唇からナイフ もしくは余計なお世話

イヤなものは嫌。御迷惑と知りつつだいたい毎日、憎まれ口満載でやらせて貰います (ほぼ古本状態だったが気が変って少しずつ書き足すことにした/13年9月)

世界が絶賛?ないない


日本サッカー帰国の歓迎ぶりに嫌悪感を覚える。馬鹿じゃないのかと。日本の戦いぶりに「世界が絶賛」というけれど、それこそ怪しさ半端ない。そんなの日本マスメディアのフィルターを通しての手前勝手な言い分だろう。
ベルギーとの一戦などひ弱さを露呈しただけではないか。2点リードを守り切れなかった作戦ミスではないのか。それこそポーランド戦のように汚くやる逆の意味の「勇気」が継続できなかっただけのことではないのか。
世界が永く記憶するのはポーランド戦の卑怯千万な戦いぶりだけだ。

だからスポーツは嫌いだ


日本―ポーランド戦ラストの10分。俺はあのやりかたは見たくなかった。
但し、そもそもサッカーの戦い方自体に多くの疑問があったのは事実。『又人にかけ抜かれけり秋の暮』花田英次郎(macht)がこう呟く。
――以前は違和感のあった「敵のシャツ引っ張る」のもアリなのだから、こういうコスい勝ち上がり方もアリなのだろうW杯
――。
またネット上でこういう意見もみた。
――白人は日本に勝てないスポーツはルールを変えてしまう。柔道、スキージャンプ。確かにみっともない試合だったが賭けに勝った。そんなに外人は綺麗なサッカーをするのか?――
そうなのだ。常々、
あの、かすっただけで大袈裟にもんどりうって倒れ反則を買うやりかたを俺はみっともないと思っていた。卑怯で姑息なやりかただと思っていた。
そう思いながら、どこかに幻想を追い求める見物の勝手な心がある。奇蹟のような瞬間、並外れた肉体と精神を持つ者にしかなしえないめくるめく躍動に遭遇し、密かに落涙するのを期待し俺たち見物はスポーツというものを観続けている。
今回もそうだった。日本流のやりかたで泣かせてくれるんじゃないかと期待して観ていた。ルールとか戦術とかそういうものを超えたところで、日本人にしかわからない、ひょっとしたら負けの美学かもしれないが、どこか自分の血というか、身体の奥底にあるものにスポーツを通じて触れることができるかもしれないと、勝手に期待して観ていた。
だが結果はルールにしたがって、はっきり言えば卑怯なやりかたで勝ってしまった。これはすなわち、どんな手を使ってでも「戦争」には勝たねばならぬという政治的な考えである。そこが俺には容認できない。今朝の中日春秋。
――圧倒されたのは西野監督の賭けだ。ポーランド戦終盤、負けているのに警告と失点を避け、攻めない。セネガルの負けを待った。恐れず戦うというサムライらしいイメージさえも、賭けのテーブルに置いた感がある。裏目に出れば損失も批判も莫大(ばくだい)だ。それでも別の試合に命運を委ねたことに驚かされ、うならされる。「日本はフェアプレーに貢献せず」「試合が死んだ」。それまでたたえていた欧州紙にそうある。イメージはやはり多少なりとも傷ついた。ただ賭けは、勝ちだ。<賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つていた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらわれない>(三島由紀夫)。道に反したという批判も背負っての次。また驚かしてくれるか――
中日春秋は捨て身で行って博奕に勝ったというが、それは違う。
賭けというなら、捨て身というなら、斬り込まねばならない。斬り込んで勝つか負けるかが賭けだ。それが三島の言う「賭けの真価」だ。
こういう間違ったスポーツの姿をみると、俺はいつも任侠映画へ逃げる。今から『博奕打ち
総長賭博』を観る。
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名和宏の声


『博奕打ち
総長賭博』を回想しながら、名和は声がいいなと思う。抜けるように澄んだセリフまわし。ああ、役者は声だなと思う。鶴田の地の甘さを上手さでカバーした声もいい。若山の非の打ちどころのないドスの利いた声もいい。
意地とプライド、僅かなボタンの掛け違い、そこに人情話と政治が絡み、奇跡的に完成した壮大な悲劇をもういちど劇場で観たい。

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