永年考えていたことである。貸した本は絶対に戻ってこない。
過日、林望が同じことをエッセイに書いていたのを見て、矢張りそうかと思った。そして、たぶん、貸した側は貸した事を一生覚えていて、借りた側は借りた事をとうに忘れている。
俺はこの人生で三冊の本を人に貸した。凡そ50年前に映画本を、20年前に哲学本を、10年前に哲学本を、それぞれ別の人に俺にとっては極めて大切な一冊を貸したがすべて戻ってきていない。
何故か。何故貸した本は戻ってこないのか。
待て、その表現は若干おかしい。本が自ら戻ってくるわけではないので、借りた人は何故その本を所有者である俺にかえしてこないかと問うべきである。林望はそこは考察の対象とせず「本は他人からはもちろん図書館などでも借りず、買って読むべし」と、本は身銭を切って読むからこそ身につくことを唱えていたのだが、俺は身につく云々などという優等生的な議論より貸し借りの考察のほうが面白い。
そこでまずは俺自身のその時、まさに貸した時の一瞬を目を閉じて冷静にじっくりと回想してみたのである。そして驚いた。いずれの本も、借りた側が興味を示した事実はあっても強く貸してくれと頼んではいなかったことに気づいた。
要は、俺が貸したかったのである。
借りた側は積極的に借りたつもりはなく、俺に“読むことを勧められ”受け取ったに過ぎないのではないか。即ち、ある意味贈与されたと考えていたのではないかと気づいた。
フロムは「人が読書する理由の多くは他人に教えるためだ」と語ったが、その意識のもう一歩先に本を人に貸したい欲求があったのである。
50年前に貸した映画本にまつわる記憶がある。貸してから数年後、俺は借り手の友人に、あの本をそろそろかえしてくれないかと言った。するとその友人は一瞬驚き、次に薄ら笑いを浮かべこう言ったのである。「そんな野暮な」と。
(続く)
