過日「シラスの誘拐」をめぐりメッセージ欄が盛り上がった。

そこで、美味しんぼう次郎(以下:次郎)とiromegane_k (以下:眼鏡)のウナギに関する貴重な意見を、許しを得て「対談」にアレンジしてみた。


次郎:さて、資源枯渇の問題に関して私の考えはいつも同じで、不特定多数が読むブログには書けない意見ですが、クロマグロにせよウナギにせよ100円すし屋や牛丼屋の陰謀によって、従来の“晴れの食い物”から“普段着の食い物”に変わったために、世界中のありとあらゆるサプライヤーが法外な安値でかき集め、結局、資源枯渇を招き世界中から眉を顰められるような状況になってしまった。だからいっそ高騰して昔のような特別な食い物に戻れば自然と納まるのではと。

眼鏡:確かに供給が細り価格が高騰すれば需要も減少し、結果として漁業資源は保護される方向に進むでしょうね。

次郎:ええ、資本主義の大原則からみれば、資源が枯渇すればするほど価格は高騰するので、経済的に余裕がある消費者しか購入できなくなるため消費は低迷し、そのうち供給不足も鎮静化する。

眼鏡:おっしゃる通りですが、それに加えて消費の部分にも規制を導入して積極的に需要を減少させることで供給意欲を後退させることも、資源回復に有効ではないかと考えます。短期間により大きな効果を得るために需要者、消費者側への規制も必要ではないかと思っています。

次郎:ただし食文化の違うアメ公や英国人たちが“種の保存”を名目に「ワシントン条約」などを持ち出して商業的シラス捕獲の全面禁止などと喚きだすことは許せない。そんなのに屈服してウナギを我慢するというのは癪にさわる。

眼鏡:ですから鰻を、本来好ましい“ちょっとしたご馳走”に戻すわけです。規制によって半ば強制的にウナギの正しい在り方というか方向づけをする。言い換えれば鰻本来の価値、即ち味わいや価格からあまりに逸脱した、安直で美味しくない鰻の販売、安易な消費は認めないという規制です。鰻を丁寧に喰らうことで過剰な需要を抑制し、乱獲に歯止めをかけるといったところでしょうか。

次郎:なるほど。クロマグロやウナギも、年に二、三回喰えばいいとこの“晴れの食材”のままだったらここまで資源不足にはならなかった。そういう時代に積極的に戻すわけですね。ガイジンに言われるのではなく我が国固有の積極的ウナギ規制なら私にも受容れられるかもしれません。

眼鏡:この規制は自由主義経済とは真逆で相容れない部分もありますが、資源の保護を需給と価格の自然な摺合わせのみに頼るのではなく、人為的な需要の制御によって短期間でより大きな効果を期待するものです。抜け道が用意できる中途半端で表面的な長期の規制より、厳格な「緊急避難的規制」の方が好ましいと思っています。

次郎:緊急避難的規制とは面白そうですね。具体的には?

眼鏡:はい。これまで何んらかの適当な理由を口実にお上が得意技として用いてきた規制手法を応用すれば十分かと思います。鰻に関わる事業活動の国営化や1920年代の米国の禁酒法ならぬ「禁鰻法」などは荒唐無稽で面白いのではないかと(笑い)

次郎:禁鰻法はいいですね。法律の中身はどうしましょうか。

眼鏡:そうですね、例えばこんなイメージを抱いています。

1)制限魚獲量のシラスウナギ全量を政府が買い上げ、鰻の国内流通量を管理する。ただしこれは「闇鰻」やら「自由鰻」が発生するかもしれません(笑い)。
2)安直で美味しくない鰻の提供につながるシラスウナギの輸出禁止、及び、調理済冷凍品、真空パック品の輸入禁止。保存性を高めた鰻食品は佃煮のみ認める。
3)消費者側にもタスポのような認証制を導入したり、いささか前近代的ですが食べることが許される日を制定して、安直な摂取、消費を抑制する。勿論、賞与支給日等は鰻屋を訪問することが推奨される日にあたります(笑い)。
4)総量規制、即ち、国民一人当たりの「年間許容摂取鰻量」を規定する(爆笑)。
5)シラスウナギの捕獲に始まる、養鰻、販売、調理といった事業活動に申請、登録、或は免許制を導入し、例えば、「鰻稚魚魚獲管理者」「鰻取扱主任者」といった名の元に鰻資源管理者としての矜持と責任に裏付けられた、鰻の価値を貶めず、且、過剰に持ち上げることない自律ある行動を求める。等々が考えられます。

次郎:理工学系の色眼鏡さんならではの理路整然とした提言。感じ入りました。

眼鏡:恐れ入ります。ついでながら、以上の規制導入の結果、既得権にあぐらをかき、これを盾に暴利を貪る連中、或は、一層の資源減少に拍車をかける輩が現れた場合には、鰻との接触禁止命令を発令し、捕獲、養鰻、輸送、販売、調理、摂取等、鰻に関わる全ての活動を禁じることを付け加えておきます。


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【総評】

「貧乏人は麦を食え」との名セリフを池田隼人が正確に語ったかどうかは知らないが、戦後復興に向かう時代の気分はよくあらわしていて、いわゆるなんというか、金持ちと貧乏人の理不尽な区別はきっちりなされながら、そんななか、いったい何が幸せかの追求はあった。

ウナギのことを考えれば江戸時代から庶民の食い物の範疇に位置しつつ、我らの時代になっても日常的に鰻屋へでかけたり、出前して貰うなどということはまずなかったわけで、ちょっとした客があったり、なにかいいことがあってはじめて――ウナギでもとろうかね――となるわけである。

それが次郎氏の言う「晴れの食い物」の意味で、ちょっと前までは日頃の食生活の舞台にもきちんと柳田國男の言う「ハレ(非日常)」と「ケ(日常)」があったのである。

普段は食えないからこそ食うと決まったらいかにも晴れやかなるものが、ウナギであり寿司でありビフテキ(ステーキなどというな)であった。

止むを得ざる境遇からくる知恵。或いはメリハリ。そういうものが一生幸せな思い出として残った。

色眼鏡氏の提言はいかにも冗談めかしているが、まさにかつてのメリハリのある暮らしを見つめる良い機会ではないかと語っているのである。言い換えれば「本物」或いは「伝統」を大切にしようという主張である。

鰻屋や鮨屋が大儲けするなどということは本来あってはならぬことだ。ましてや大手流通が庶民のハレの食材を“クイモノ”にして利益を独占していいはずがないだろうと遠まわしに語っているのである。

ハレの日ならいつだって入れる、普通に出前してくれる、無理のない回転で普通に成り立っているのが店屋の正しい在り方だ。そういう姿を取り戻せと言っているのである。

この際だから言えば、名古屋の鰻屋で常時客が並んでいたのは錦三の「いば昇」くらい。「蓬莱軒」だって以前はスッと入れた。それが今では鶴舞の若い鰻屋に開店前から人がズラリと並ぶ。ネットの仕業である。そういうのを見て変だと思わない人がまた並ぶ。完全に間違った方向を向いている。

ウナギの値上がりで店屋に並ぶ馬鹿者が一人でも減ることを望む。(ルキウス)