2005年07月05日

トータルコストとファッションそして芸術

ビジネスマインドな研究者である内田先生のプログで、ファッションに関するエントリーがありました。非常におもしろい記事で、ここで引用するのも二度目なんです。

内田樹の研究室:モードの構造

内田先生は、このエントリーで
『日本では時給750円のビンボー娘がヴィトンのバッグを持っているのであるから、ブランド商品は「所有者の所属階層を指示する記号」としてはまったく機能していない。
記号としてはたしかに機能しているのだが、それは「階級」というようなおおざっぱなもの識別指標としては機能していない。』
と述べられた後、日本人の流行に関する記号特性ということで論ぜられている。

根源的に考えるならば、時給750円のビンボー娘がその安くないヴィトンのバックを買ったとした場合の、家計の収支をどうするのかということが、個人的にはもっとも気になるポイントである。

収入はそれぞれ違うのに、あるものに同じ支出をするという行為はその他の支出を制約することである。ということは、そのバック以外はコストを抑えたものでそろえるのか、それとも食事であったりの他の支出項目を制限するのだろうか?総収入が変わらない限り、低収入の人間が、ヴィトンのバックというバック全体の中でのレベルをその他の装飾品でも維持することができないのは明白である。その場合に生じるアンバランスをどのように日本人は感じているのだろうか?ここが日本人文化論を語る上で最も重要なポイントではないかと思っている。

トータルという考え方。
クールビズ考でも述べているように、日本人のファッションというものに対する概念はそれぞれのグッズを並べることであり、それを陳列し表記するということでしかない。クールビズでは、まさにノーネクタイ、ノー上着でしかない。陳列する記号を減じただけと思っている。それぞれのグッズが組み合わさることで発生する正や負の複合効果というものに対しての考え方が非常に乏しい(特に、男性におけるファッションに関して)。もしかしたら、ないのかもしれない。問題はここにあるのではないかという気がする。つまり、ヴィトンのバックを持ってしまったがために、その他のグッズとの間に生ずる負の複合効果というのものには、目が行かない。もしくは、それを認識できていない。

このトータルという考え方をするための最も重要なことは自己の確立とコスト意識であると考えている。要するに、自己の確立とは、ものごとの最適化を行うためのパラメーターであり、コストとはそのための制約条件であるからである。日本人の場合、この自己の確立というパラメーターが、外部に依存しているので最適化するにも常にその外部の影響因子を加味する必要がある。内田先生がいうところの「付和雷同体質」である。その外部因子の変動が大きい場合は自己の最適化は常に外部に支配される。(すべて、これで説明できてしまうような気もするが)
一方で、この制約条件に対する意識が日本人には欠如していると思われる。それぞれのパラメーターにいくらずつ投資することがもっとも望ましいのか。つまり、グッズに掛けるお金を右のグッズから順に揃えていくと、途中でコストが目一杯になってしまった。そんな中途半端では単に未完のプロジェクトである。コストに見合わせて、プロジェクトの全体規模をどのように縮小するのか。最適化のパラメーターが外部に依存しているので、それができないのかもしれないが、もっとも重要なことではないかという気がしている。

実は、ファッション以外にも、このことを考えさせられるものがあった。それが芸術である。フランスの片田舎で、花火を使ったパフォーマンスがあった。花火大会というには、あまりに花火が「いけてない」ので、花火を使ったパフォーマンスというべきである。しかし、このパフォーマンスは非常に「いけていた」。花火に音楽とライトアップを付加して、パフォーマンスにしていたのである。花火単体のパフォーマンスは非常に低いものであるが、ある芸術としてのパラメーターは非常に完成度の高いものであった。ただ、花火大会と呼べるようなものではない。打ちあがる花火は、日本で500円程度で買えるものだとすぐにわかる。しかし、一発数十万の花火を打ち上げなくても、人を魅了することができる。そう、これが芸術ではないかと。

ファッションにしても、芸術にしても、トータルコストという唯一の制約条件の中で、自己を表現し、人を魅了する。ただそれだけであったはずではなかったのか。

Posted by lupin_lupin_iii at 17:22│Comments(0)TrackBack(0)

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