ちょっと話が逸れてきた感があったので仕切りなおしたいなーと思ったけど、結局前記事の続きからになりそう。
経済を回さないといけないけど、そうすると感染拡大防止が難しいんだけどどうしようっていう議論は的外れではないか?という話をもう少しだけ。
もともと日本社会って、人命と経済という要素を一方を重視するともう一方が維持できなくなる天秤のような関係としたうえで、人命より経済を優先している世界に私には見えるんですよ。
もう少し柔らかい言い方をすると、個人の幸福や快適さvs全体の利益という構図の中で全体の利益を優先する価値観の社会、あるいは何につけても多数派vs少数派という構図の中で多数派を選択する社会。
変化と現状維持ならまず現状維持に傾く保守性もあると思う。
それゆえに、例えば過労・自殺・鬱などを、経済を回す上で一定数出てしまう致し方ない脱落と見なしているフシが人々の意識の根底にあって、この『一定数出てしまう致し方ない脱落』がどのくらいの割合・人数になったら看過できないとなるのか曖昧で、結局自分自身や近しい人がその番になるまでは何人死のうと致し方ない現象だと言い続けてしまう、日本にはそういうユルい地獄みたいなところがあると私は感じています。
で、上に出した経済回しながら感染防止難しい論も、そういう『そもそもその二つの要素は両立できない』という前提から始まっていて、5月の時は人命を優先して失業や倒産などの経済的損失のほうを『一定数出てしまう致し方ない脱落』としてみたけど、脱落するほうの当事者になってしまう危機感を持った人が多くてやばい!ってなって現在は逆を選択している、という風に私には見えるのです。
おそらくこの『そもそもその二つの要素は両立できない』という前提から始まるパラダイムは、戦車のカードそのものであり、つまり日本に限ったものではないし、国家や社会より以前に個人レベルで存在する感覚なのだと思います。
環境保護を訴える運動も今まで何度も起き、今また盛り上がっていますが、地球のために未来のためには不便を許容し我慢をしなければならないっていう前提がずーっと付きまとっているように見えます。
だから反発する人がいなくならないし、我慢って一時的にしかできないものなので、その方法では上手くいかないのです。

でですね、この二元論なこう着状態を解決する策を出すのが8番目のカードになるんですが、今になって興味が出たんですが、マルセイユ版では正義が8・力が11なのに対し、ウェイト版では順番が入れ替わって力が8・正義が11になっているのです。
黄金の夜明け団がどういう意図でそうしたのか私は知らないですが、この変更によりアルカナのストーリーはマルセイユ版とウェイト版とでテーマが異なってくる気がします。
マルセイユ版は力が後に出るということは、戦車の問題を正義では解決できなかったということに、私には思えます。
逆に力の後に出現するウェイト版の正義は、マルセイユ版の正義よりも完成された正義であるという主張を感じます。
私は正義ってよくわからないんですが、タロットカードにおける正義は戦車で争う二頭の馬のどちらかを正しいとするのではなく、両者を比較してより優れた高次元の解答を導き出すことらしいです。
コロナ禍からこっち自粛警察だので正義が暴走している時代みたいに言われているようですが、タロットカードが示す正義は、何かを悪と断定し撲滅しようとするものではないのです。
この定義に従えば、タロット的には今ってむしろ正義なき時代なのではないでしょうか。
最近様々な分野で、もともとある思想対立が激化しているように私は感じています。
まるでめくるたびに戦車のカードが現れるようです。
特にフェミニズムとかポリコレ界隈で論争になる事柄について、賛成なのか反対なのかで人を大雑把にカテゴリ分けしてしまう、あるいは自分の世界観や認識に同意する人を仲間認定し、異なる意見を言う人の肩書きや属性を取り出してクソデカ主語で敵認定する極論が加速しているように私は感じていて、これがいわゆる人々の分断ということなのかと思ったりします。

ちなみに私はこのタロット的正義からリベラルという言葉を連想するんですが、どうも世間ではリベラルというと単なる左派を指すのか、マイノリティーの不遇を声高に叫ぶことで保守派と対立ばかりしている印象があって、私はリベラルってそういうのじゃなくね?って思うんですけど・・・
自由を獲得するために戦っているから自由主義者だと言われれば、なるほど?とも思えなくもないですが、私がイメージするリベラルな人とは、あらゆる対立構造のどちら側にも参加せず、『自由な』立場で行動する人です。
自由って孤独なので、同思想で群れたりつるんだりしながら対立思想と花いちもんめをしているのはリベラルではないと私は思います。
私は私、あなたはあなたでいいじゃな~いと言えることが自由です。

え~話があちこちに飛んでしまうけど、つまり今必要なのは、AなのかAじゃないのかという二元論的思考からの脱出だと思う、という話ですよ。
感染拡大防止のために自粛するのかvs不況対策のために経済回すのかという対決から脱出しなければ、日本は人命と経済の両方を消耗し続けるのではないでしょうか?という結論になります(やっと繋がった。

個人的な意見としては、仕事とか商売なんて社会の需要や環境の変化で簡単に滅びたり生まれたりしちゃうんだから、コロナ実装で成り立たなくなってしまったビジネスを存続させたいなら、無理やり需要を喚起したり仕事を与えるのではなくて文字通り保護してあげる(税金でもクラウドファンディングでもカネをつぎ込む)か、さっさとコロナ禍を終息させてあげるしかないでしょって思います。
終息させる方法はワクチン開発が一番手っ取り早いんでしょうけど、いつできるかわからないのでそれまで何度でも波が来るでしょうし、そもそも変異したら効かなくなるかもしれないし抗体離脱が早くて話にならんっつう説もあるし、だから結局全員が感染症対策に則った生活をするのが最善の方法ではないですかね。
それをWithコロナって呼んでいるんじゃないの?
感染症対策の基本は『持ち込まない・持ち出さない』です。
自粛やロックダウンは、運び屋である人間の移動そのものを強制的に制限することでウィルスの移動を制限する安易な方法なんだけど、人間には知恵があるのだから、できる限りウィルスだけを持ち込まない・持ち出さないように個々人が気をつけたらよいのです。
そうすりゃ人間の移動を制限する必要はなくなるので、経済活動も止まらなくてすみます。
ところが現実は、頭ごなしに命令するか同調圧力に頼るしかなく、それでもなお不適切な行動をする人が現れてしまうことは、数々の現象と数字が証明してしまいました。
原理をわかっていない人・ウィルスに関する基礎知識ない人多すぎなのでは?と最初は考えていたんですが、たぶんこれはそういう話だけではなく、他人のために自分の行動を考えたり変えたりしたくない人が多いということかもしれないです。
自分が感染するのは嫌だという感覚で気をつけている人は多いと思います。
しかし『持ち込まない・持ち出さない』は、自分がすでに感染者である前提で意識しないと徹底できません。
家族や友人など、大切な人に感染させたくない気持ちを持ち合わせている人も多いとは思います。
しかし私たちは、特に都会に住む人は、会ったこともない人の作った商品を使い、名前も知らない人に仕事を提供し、様々な場所でその場限りの偶然の接触を持ちながら暮らしていて、そういう相手にウィルスを渡さないことが感染拡大防止には重要なのです。
まあ難しいでしょうね・・・
実際にはこれは、例えば同居する家族への家庭内感染を防ごうとするよりもはるかに簡単な配慮で済むのですが、見ず知らずの他人に対して私たちは、自分が相手に危害を与えないか気をつけるよりも、相手から危害を加えられないかのほうを恐れてしまうものです。
他者との対立や分断が激しくなりやすい今は尚更でしょう。
見知らぬ誰かを思いやる生き方が自分を救うみたいな、古今東西ずっと唱えられている話でしかないんですけど、ずっと言われているということは、それだけ人々がそれを実践できていないからでもあるわけです。
タロットカードも異質な他者を愛する方法を示している気がします。
具体的なことは私にはまだわかりませんが、次回の記事でとりあえず最後までを考えてみます。