この世は人間にとって、非常に便利で都合良く、そして生きている人間の為に沢山の儀式?がある。
儀式というと、ちょっと言葉が違うような気もするが、最近文章を書いていないので言葉足らずではあるのでニュアンスとして読んだ方は受け取って欲しい。

人間世界は沢山の国や文化があるが、私は日本人なので、日本目線の文化での事で・・・
もうすぐ、盆である。
ところにより7月だったり、8月だったりではあるが、やることは多少様々なれど、故人を偲ぶという意味では同じである。
私個人も去年、その儀式の中でも初盆というものを経験済みである。

普段は殆どの人があのようにどっぷりと仏事に浸ってはいないし、神社仏閣も好きな人は好きだが、大抵の人は大みそかに参拝したり、苦しい時の神頼みをするのが常ではないだろうか?
私の住む地域では、オショロ様、ナスときゅうりを牛と馬に見立てて、何とも愛嬌のある動物がお盆に登場する。
そしてこの地域では、ナスを二つ、牛二頭で、ご先祖様方の送迎をするという・・・・沢山の荷物を持って行き来するからだそうだが!
あの世の世界を行き来するのに、帰りに手土産を沢山持たせて帰ってもらうという・・・これらの儀式は生きている人に、あたかも故人はあの世で楽しく暮らしているんだよ~会えないけれど、どこかでちゃんと暮らしてるんだよ~という希望や夢のようなものを与えている。
普段は神社仏閣をスルーして神がかり的な事を信じていないような人々でも、これらの儀式だけは別なのか、迎え火、送り火が後少しの期間で巷を賑やかす。
そして滅多に集まらない身内が集まり、歓談と共に故人を偲ぶ。
何とも素敵な光景だな~とその時、私は思った。
人は普段はあの世的な事は全く考えもせず、目の前の事のみでアクセクと毎日を機械的に過ごしている。
だからこそ、こうした風習、儀式というものは、たとえ僅かな期間の事でも、心の奥深くどこかに根付いて、普段は忘れていてもあの世との繋がりが保たれるように思える。

しかし、ここからがちょっとげんなりするような話なので注意。

冒頭でも伝えたが、この世は人の都合の良いようにできている。
それは人の心が現実を直視できず、どこかに拠り所とした希望や夢がないと寂しさや苦しさが募るからでもある。
だからこそ、仏壇や墓が故人の代わりになっている。
あれらは、故人の為ではなく、残された人のためである。

では故人はどこに行ったのか?

その昔、千の風になってという歌が一世風靡したが、この歌の中には、この世の理を示す歌詞がつづられている。
作者不明だというが、これを作った人はきっと彼岸に達した人なのだろうと思う。
彼岸という言葉が出たが、これは実に曖昧で判りにくいから、端的にあの世での成仏だと言っているが、ここでちょっと彩色してみる。

この世はエネルギーの川のようなもので取り巻かれている。
レインボーのまるで綿あめ製造機の中にあるように、キラキラと繊細なエネルギーの糸があちらこちらを光の粒子と共に流れ、あちこちで螺旋が天地を行きかい、渦巻いている。
それらは誰の目の前にも太陽の光同様、そこにある。
手を伸ばすように心で魂で、それらに自分のエネルギーを延ばすと、それらに普通に繋がることができる。
それらはこの世の理でもあり、そこに少しでも繋がれば、自然の流れの中に正しき理の中に繋がることができるので、自分の意思も運命も現在未来も、少しずつその流れに沿ったものになることができる。
人間は我というものが強い存在なので、なかなかその理に全面的に触れる事が出来ないが、それでも少しでも触れる事ができれば、そこに閃きという形で運が開けていく。
思い立ったら吉日ということわざがあるが、まさしくそうである。
その思い立つ閃きと共に即行動する事が、すなわち、その理に触れているという事に繋がる。
けれど、人は何かと迷いがちで、そこに多くのノイズも発生して誘惑もあるので、正しい選択がなかなか自分ではできない。
閃きもまた、自らを律していないと、それが本当に正しい閃きがどうか?とも言える。
この話は長いので、端的に言うと、彼岸に達したものというのは、この大いなる理の川に同一化した存在の事を言う。
そうした存在は、この世の理を更に強固にしながら、この地球の周りをエネルギーの風として取り巻き、渦巻いている。
小さな動物、鳥、魚、虫たちは、それらをよく熟知していて、その集合意識の川に自らを投じて、仲間と共に同じ行動が取れるようになっている。
空を飛ぶ多くの小鳥たちがそれぞれぶつからずに飛べるのはそのせいである。

そして、人間も、勿論普通にその理の川触れる事は可能なのだ。
人間がそれに触れるとアカシックレコードに触れると言う人も中にはいるが、多分、同一のものであると思う。
多くの智慧がどこからともなく湧き起こり、自分が知らないような事を知ってしまう事が誰しもにもあると思う。