2004年07月10日

民芸公演「マツモトシスターズ」と神楽坂の父が夢見たブラジル移民

1年間の捕虜生活から帰国した父は、ゲートルに軍靴、戦闘帽に背嚢姿で新宿区早稲田鶴巻町に家の前に立った。わたしは4歳だった。
父がわたしに頬を寄せてきた。じゃりじゃりとした大人の髭の感触が、いまもわたしの右の頬に残っている。
ずいぶんと黒い顔のこどもだな。これがわたしを見た父の第一印象だった。
わたしはミナミという名前に相応しくいまも色黒である。少年時代から名前が風貌にあっていた。
そのとき長身の若い母と気丈な祖母は、父とどんな会話を交わしたのだろうか。
バラックでの一夜は、どんな時間が流れたのだろうか。そこには4年の不在があった。しかも戦争下の別離である。
そのあいだに成長した長男と、不在のあいだに誕生した次男のいる生活。卒業した早稲田大学のまち。これからの人生――。
わたしの生家は、早稲田大学正門通りに面していた。いまは美しい欅並木が中央に鎮座していて、電柱も地下埋設されて、歩道も広く、なかなかの商店街だが、父が見た敗戦直後の通りは、バラックが点在する焼け野原だった。
当時一番大きかった岡崎病院では、病室を引揚者、自宅焼失者にあてていた。
一階には、床屋さんも営業していた。
わたしは、このときの診察室をよく覚えていない。それは、一階のどこかの部屋で開業していたに違いない。
配給のグリンピースのカンズメ、ドラム缶でたてたお風呂、庭でとれた香ばしくてぷっくらとしたトマト、原っぱで遅くまで遊んだランニングシャツに半ズボンの夏の少年たち、引揚者で溢れていた鶴巻小学校の校庭でアメリカの兵隊に頭からかけられた白いDDT、路上に放られた憧れのチュウインガム、美しい夕焼け空と赤とんぼの秋の黄昏、ラジオで聞く落語―――こどもたちの戦後は、そんな身近な思い出からはじまる。
父はやがて早稲田の土地を半分だけ友人のTさんに売って、神楽坂坂下の借地を手に入れた。残りの半分は、上京してきた母の弟のために残していた。
Tさんは、早稲田実業高校のともだちで、身過ぎのためにテント屋をそこではじめた。
父も神楽坂下で、お茶と海苔の販売をはじめた。
まったく経験のない仕事だったが、生きていくためになにかする必要があった。
たまたま父の妹が菊屋橋で問屋をしているOさんに嫁いでいた。その親戚の商売を見よう見まねではじめたのである。
しかしインドネシアに農園を開くといって実母と若妻といたいけなこどもをおいて渡航してしまうような性向のものには、地道な商売は性に合わない。
父は、祖母と母に店を預けて、親戚の問屋で外交の仕事をはじめてしまった。
最低の生計は神楽坂の店舗で成り立つから、父はダンスに興じ、コーラスに明け暮れた。
日本的なことがまったく馴染めない父の趣味であった。アメリカナイズされた時代の流行だったかもしれない。
家に帰ってくると、ご機嫌のいいときの父は、母やこどもにシューベルトの「のばら」やドイツ民謡の「ローレライ」、カンツオーネの「オオソレミヨ」「帰れソレントへ」などを教えたがった。
母は一生懸命に覚えようとした。しかしわたしは、ラジオで流れる「笛吹き童子」の主題歌などに明け暮れていた(続く)。
  

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2004年07月08日

民芸公演「マツモトシスターズ」と神楽坂の父が夢見たブラジル移民

父親の新一は、日本軍がオランダ軍を打ち破って占領統治したオランダ植民地のインドネシアに、オランダに変わって君臨した日本の文民として赴任した。いまのイラクでは、日本国の自衛隊がオランダ軍の指揮下にあるのだから、天から眺めている新一にとっては不思議な光景には違いない。
オランダは、海外貿易で豊かな国であった。スペイン、イギリス、フランスなどの西欧諸国とともに全世界に広範囲な植民地を築いていた。
オランダの現地政府の役人は、しゃれた洋館に住み、現地人を召し使いにして、大型のアメリカ車を乗り回していた。この光景は、インドのイギリス人、ベトナムのフランス人などでおなじみの光景である。
そのオランダにかわって、日本人がアメ車と洋館と召し使いにかこまれて生活した。父もオランダ人の使用人を使っていた。
東京では人並み以上に豊かだったとはいえ、昭和10年代の日本と西欧の差である。30代の男盛りの父が、単身赴任のインドネシアで、統治者の片割れとしていったいどんな毎日を送っていたのであろうか。
日本が敗れて、1年間の抑留生活を終えて日本に帰ってきたときも、父は朝夕にはナイフとフォークを駆使して米と味噌汁の食事をとっていた。そしてわたしたちこどもにもそうするように要求した。
南国の竜宮城のような3年間の占領生活は父の人生観を変え、やがてふたたびを将来の夢を南米のブラジルへと移していくのであるが、それはこの敗戦から10年近くたってからのことである。
わたしは父の死後、白人の異母兄弟が出現するのではないかと空想したが、わたしの妄想があながち根拠のないことではないといまでも思うほど、父は白人を憧憬していた。
敗戦後日本国はアメリカの占領下になった。
神楽坂界わいや早稲田にも米兵がジープからチョコレートやチューインガムをまきにきた。
わたしたちはその車を追って「ヘイ!サンキュ!」と卑しく手を出した。
それは、イラクの子供たちがアメリカ兵や自衛隊に群がって、おこぼれに預かろうとする姿と同じであった。
戦争は、成人男子を腑抜けにして、女たちを厚化粧させ、こどもらを卑しくした。これが敗戦国の生きる姿であった。
神楽坂の商店街はいまと違ってみすぼらしいものであった。商店の品揃えは魅力に乏しく、田舎臭かった。
父の店舗は坂下の繁華な場所にあったが、それでも人通りは余りなく、ほかのまちから神楽坂にやってくるのは花柳界目当ての人々だけであった。
わたしたち少年でさえ中学の上級にもなるころに、神楽坂という出身地名が恥ずかしく、銀座や新宿に出かけて遊んだものであった。
「きょうはザギンそれともジュク?」なんていって粋がったりもした。
父が経営する神楽坂の店は日本茶と海苔を商っていた。いまも社名として残っている「東京園」が店名だった。
しかしこの一店舗では一家が支えられず、父は店を祖母と母に任せると、親戚のお茶問屋の営業職に従事した。
祖母は若いころから独身を通した。その理由はこんなことだった。
祖母の連れ合い、つまり私の祖父は栃木県出身だが、その地方ではじめて東京帝国大学に進学したとして地元では有名なひとだった。なにせ明治30年代の帝国大学である。卒業時には理学博士であった。そして東京帝大を卒業すると同時に三井物産に入った。
戦前のサラリーマンはいまの勤め人とちがい、きわめて希少価値があった。しかも三井、三菱の社員はそれだけで世間では特別扱いされた。
しかし新婚時代の優雅な生活は祖父の病気で一変する。
ロンドン転勤の直前、医学の発達が遅れていた日本では不治の病として忌み嫌われていた結核に侵されて、祖父は三井物産の退社を余儀なくされてしまう。
食べられる手立てがない祖父は得意の英語を活かして翻訳の仕事で活路を見出そうとしたが、努力も空しく37歳で他界した。そのとき祖母は28歳だった。
祖母は明治の女であった。
建立した祖父の墓石にみずからの戒名を刻んで、再婚を自分の手で禁じてしまった。
こんな女傑だから、人を当てにするということをまったくしなかった。
同情をひこうとする乞食や物乞いにはとくに厳しかった。こどもながらにそのあしらいには抵抗を感じたほどだった。
しかし女実業家として早稲田の正門通りに鉄筋三階建ての、当時としては大きな商店ビルを建て、新聞にも報道された。資生堂の特約店をしていたので、そのころよくしられた夏川静江という有名女優が宣伝のため祖母の店を訪問したりもした。祖母は小さい私によくその写真を示したものであった。
父は、その祖母の早稲田の店を手伝いながら、早稲田実業高校から夜間の早稲田大学法学部に進んだ。
母は、茨城県の岩井町で味噌醤油の醸造元の長女である。家は豊かな地方の素封家であった。
そして東邦薬科大学で薬剤師の資格をとっていた。
田舎娘にいては開明的な女性で、長身で美しかった。
背の低い父は母に一目惚れをして、プロポーズした。
母は、さらに学ぶため、当時早稲田に近かったいまの法政大で勉強させてもらうことを条件にした。
こうして結婚した二人だが、父はやがて南国に夢羽ばたかせ、家庭をないがしろにした。
インドネシアに出かけた父の不在な女所帯は、店も焼かれ、家作も失って、宝石や貴金属はことごとく供出し、わずかな自宅が残っただけだった(続く)。
  
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2004年07月07日

民芸公演「マツモトシスターズ」と神楽坂の父が夢見たブラジル移民

移民とはなにか。
これは、民衆からすれば江戸時代の逃散(ちょうさん)つまり食べていけないため国をすてることであり、国家の側からすれば棄民つまり食べていけないため民衆を捨てるのである。
いまの若い人人には信じられないことだが、日本には飢えと餓死が長い間存在していた。江戸時代は当たり前であるが、わずか数十年前の戦前でも、天候異変による飢饉があると、東北や北陸のような貧しい地方では、飢えを凌ぐために女こどもの人身売買が横行した。
いま好色な日本人男性のセックス観光の対象になっているフィリピン、タイなどの女性たちがそうであるように、貧しい地方の家族は、身内の子女を都市や外国に売ったのである。
神楽坂を初めとして花柳界や遊郭には、こうした悲しい女たちが身を沈めていた。
かつて貧しかった日本国は、鎖国をといた早い時機から国策として移民を奨励した。
明治の中期には、アメリカ西海岸地方に日本人の集団移民がはじまった。
移民を決意した人々は、日本の生活に見切りをつけ、財産を処分し、親類縁者に別れを告げて、遠い異国への長い船旅に出発していった。
アメリカ移民は、白人が嫌がる重労働すなわち鉄道敷設、森林の伐採、開墾開拓の苛酷な労働に従事した。
今日日本に出稼ぎに来ているアジアや中近東系の外国人と同じ境遇であった。
アメリカ移民の後は、関東軍の差し金で昭和12年に満州国という幻の傀儡国家が誕生すると、満蒙開拓団という仰々しい名前の下に、多くの人々が中国北部へ移住した。人身売買された女たちも、その流れに身を任せていくものもいた。
貧しい者たちだけではなかった。このころは、日本の軍隊の一次的な快進撃と目覚しい戦果に鼓舞されて、海外雄飛という言葉も盛んにいわれだしてきた。
若者は、八紘一宇といういかがわしいスローガンに翻弄されて、南国や満州に夢を馳せた人々も多かった。
わたしの父もそんなひとりだった。そして昭和18年、インドネシアの農園経営を夢に見て、新宿区早稲田の店と母、妻、長男、次男をのこし、軍属としてインドネシア本島のマラン洲に出発した。その次男が私だった。そのとき私はまだ母の胎内にいた。
新宿区内には家作を何軒か持ち、私の祖母と大きな小間物屋も経営していたので、わざわざインドネシアに農場をもとうなどと考えなくても良かったと思うのだが、戦前の大陸雄飛、海外侵攻の異常な雰囲気は、いまのわたしたちには想像もつかない。
戦後は自由主義を標榜し、リベラルであった父も、戦前はムッソリーニをまねて黒シャツを着ていたこともあったという。
ヒトラーや東条英機ではなくムッソリーニだったところがいかにも父親らしいところである。晩年カンツオーネの歌唱に凝ってよく舞台にたったが、その芽生えはこのころからであったようだ(続く)。
  
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2004年07月06日

民芸公演「マツモトシスターズ」と神楽坂の父が夢見たブラジル移民

茶飲みともだちの講談社のT女史はすらりとした姿かたちのよい女性で、ジーンズやスラックスをはいたことがない。いつもロングスカートで、しぐさも奥床しいので中年の男性社員にはなかなか人気がある。
わたしは講談社時代に市ヶ谷にあった職場で、彼女と組んで一巻本の百科事典を編集出版したことがある。
几帳面できめ細やかな女性だから、わたしのように大雑把な編集者には最高の相方であった。そのうえ学識だけではなく、文学、映画、オペラ、歌舞伎をおよそ無縁な世界はないほど守備範囲がひろいから、ともだちとしては申し分がない。
この辞典局の仕事は、思い出せば出すほど異常なことが連続していて、およそ世間の常識から隔絶していた。辞典をつくるということは、一家周囲を次代まで巻き込んだ諸橋徹次の大漢和辞典の出版過程がものがたるように、とても常人技ではできないのであるが、講談社の辞典局とくに漢和大辞典編纂部は、そうした異常さと次元を異にする破天荒ぶりが際立っていた。しかし、わたしの体験した数々の事実はとても世間に公表できるものではなく、わたしは恩のある講談社のために墓場までもっていく積もりでいる。
その大漢和辞典編纂部のS部長は、わたしがTさんとお茶を飲みにいくのを知って、よくこういったものだ。
「おい!いいなあ。一人占めはないぞ!」
S部長は、雲助を編集者にしたような酒乱の奇人であった。
わたしは、そのTさんと6月末日にひさびさに会い、新宿の紀伊国屋サザンシアターで劇団民芸の「マツモトシスターズ」を鑑賞した。
このところ民芸、こまつ座と連続してみてきたこともあるが、わたしがマツモトシスターズを選んだのは理由があった。
わたしが講談社に入社したころ、週刊女性のデスクを退社してフリーランスのライターをしていたNさんと知り合った。
Nさんは作家志望であったが、文学では食べられないというので、わたしが担当していたムック判の旅雑誌のライターを引き受けてもらった。
ある日Nさんは、すこし酔った身体を大儀そうに動かしながら
「平松さんも書くのが好きでしょう。ある人の作品を児童ものにリライトしませんか」
あるひとは、わたしたちにもよく知られた作家だったが、わたしはその作家が好きではなかった。
「文体は?」
「気にしなくていいんです。ただし期日は1ヵ月」
わたしは旅雑誌の取材で京都に1ヵ月滞在することになっていたが、ホテル滞在の予定だったので、取材が終ったあとにホテルに篭って1日10枚こつこつ書けば、30日で300枚はできるなと、いい加減な計算を酔った頭ではじいていた。
好きでもない作家のゴーストライターを忙しいさなかに引き受けたのは、Nさんの好意に対する返礼の意味が大きかった。
一冊まるまるのゴーストライティングは、だれにでも任せられる仕事ではない。Nさんも版元に責任がある。旅雑誌に書いていた私の取材原稿がNさんの目に止って、私の筆力を信頼してくれたのである。私はこのことがなによりうれしかった。
Nさんのためにがんばってみよう。
わたしはそのときしおらしくそんなことを考えた。
そしてもう一つの理由も大きかった。本のテーマである。
原本は、日系人たちが太平洋戦争下のアメリカで、敵性外国人として次々に荒野の収容所に入れられて迫害されたという事実を追った本だったのである。
戦後、私たちはアメリカを尊敬しながら生きてきた。アメリカの高度な民主主義と自由主義、豊かな物質文明、音楽、映画、小説――どれをとっても憧れを刺激しないものはなかった。
しかし、日本人の移民たちは、こんな虐げられた境遇に置かれていたのか。
日本人の多くは、こんな事実を知らないでいる。
あのアメリカで、自らの崇高な民主主義を放棄するような政治的措置が本当に行われたのか。
私は衝撃をうけ、Fという作家が書いたノンフィクションを少年少女むけのノンフィクションノベルにする仕事に意欲をもやした。
このテーマこそが、私たちが鑑賞しようとしていたマツモトシスターズのテーマでもあった(続く)。
  
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2004年07月03日

江戸時代の神楽河岸を復活させて、船を回遊させようという壮大な「飯田橋神楽坂水辺再生構想」は、いよいよ現実になる?

警視庁機動隊は、第一から第九まであった。
濃紺の制服に長いジュラルミンの楯、杖のような警棒、ヘルメット。
1960年代の安保闘争から街頭で目立ちはじめ、大学闘争のときはほとんど連日の出勤で、警視庁は増員をはかったが追いつかなかった。隊員はへとへとに疲弊していた。
機動隊員が収容されている装甲車のなかには、こうべをうなだれて目をつぶって疲労の極にある体をいたわっている若い機動隊員をみかけたし、隊長の掛け声でやっとよたよたと隊列を整える隊員たちの姿もあった。
神楽坂の反対側にある富士見町の警察病院には、街頭で怪我をした機動隊員がしょっちゅう担ぎ込まれていた。日大闘争では、屋上から投石された不運の機動隊員が殉職した。
だから学生を攻め立てるときには機動隊員は憎悪を剥き出しにして挑みかかった。
東大の安田講堂の攻防では、ガス銃の水平撃ちといって、催涙弾をとばす短銃の銃口を直接学生の顔にめがけて発射し、ガス弾の直撃をうけた学生の顔面がふっとんだ。それは内戦の様相だった。
第四機動隊が特に荒っぽく狂暴で、学生間では「鬼の四機」と怖れられていた。
飯田濠は市ヶ谷の機動隊駐屯地が近かった。
強制代執行が決まった夜は双方ともさぞ昂ぶったろう。
ただ学生運動は連合赤軍事件以来急速に下火になり、大学も街頭も静かになりはじめていたし、飯田濠埋め立て反対のような市民運動には、機動隊も荒っぽいことはしまいと楽観する人たちも多かった。
そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
藤原さんにきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。
「ところで、ソウルでは、都市河川、水辺復活が進み、高速道路を撤廃して石の橋を保存したりしているね」
ソウル市長自ら率先して先頭に立っているという。
「こんど見学にいこうとおもっているんだ」
韓国が日本を抜いて、水辺先進国になりつつある。
「わたしもいってみようかな」
「それなら情報をながそうか」
こんな会話のあと、Oさんと話した神楽河岸の復元のはなしを切り出してみた。
「都市再生がいい方向に進んで水辺が復活すれば、ヒートアイランド現象も、局地豪雨のような最近の難題も解決するかもしれないね」
藤原さんはこういって忙しそうに電話をきった。
飯田濠で、機動隊と市民が衝突して血が流されなくて本当によかった。
飯田濠の汚れた水が鮮血でさらに染まったら、こんな会話は不可能であったに違いない。
対立ばかりでは進まない。
対立を乗り越えるための理解と知恵と理念と誠実さが求められている(完)。
  
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2004年07月02日

江戸時代の神楽河岸を復活させて、船を回遊させようという壮大な「飯田橋神楽坂水辺再生構想」は、いよいよ現実になる?

わたしのそのころの現住所は市川であった。
市川の真間川という9キロ弱の小河川では、400本ものソメイヨシノの桜並木が一挙にすべて伐採されてしまい、そのあとの復元計画は皆無という、いまでは考えらてない無謀な河川改修計画が、建設省都市河川局、千葉県葛南土木事務所、、市川市都市排水課によって進められようとしているころだった。
わずか26年前、水辺空間、河川環境、生態系にたいする河川管理者の認識は、こんな程度であった。
桜並木と土と緑の土手が気に入って川沿いに住んでいたわたしは、妻に手伝ってもらいながらこの計画にひとりで反対を掲げた。
その呼びかけに賛同して集まった仲間のなかに、地元の名門高校市川学園の生物の教諭がいた。石井信義さんである。石井さんは残念なことに昨年鬼籍に入られてしまった。
石井さんは実に深い学識があり、生態系や社会構造にも卓越した見解を持っていた。
わたしは、知らず知らずのうちに石井さんに感化されていった。
単なるまちづくりではなく、生態系保全や水循環などの自然の仕組みを知るに及んで、わたしは「日本自然保護連合」という大きな全国組織に参加した。
この団体は、自然破壊が進む各地の市民運動を支えていた。
ある年、九州の志布志湾で全国大会がひらかれた。
わたしはカンパをつのって20代の若い会員を2名現地におくり、わたしたちの運動にたいする支援を要請した。
大会ではいくつかの大会決議とともに「真間川の桜並木保全と治水計画の両立を」というスローガンも採択された。
その成果を携えて帰京した会員から受け取った資料を読んでいたわたしの目は、一瞬ぺージの上にとまった。
なんとわたしの出身であるあの神楽河岸の保存が、真間川といっしょに採択されていた。
大会の会場で全国の自然保護活動家に涙声で訴えていたのは、神楽河岸で店を開いている大郷材木店の奥さんだった。
わたしが、ヒルに血を吸われたなつかしい飯田濠の岸にある材木店であった。
おもわず少年時代の濠の姿が甦ってきた。
「水鳥が舞う都心の貴重な水辺の飯田濠をのこそう!」
こんな趣旨のスローガンだった。
わたしはさっそく神楽坂の父を訪ねてこのはなしをし、現況を聞き出そうと努めた。
「わたしはねえ、あの汚い飯田濠より、きれいな高層ビルが立った方がいいと思っているんだよ」
近代主義者で西欧崇拝者だった父は、アジアと日本の伝統文化が嫌いであった。特に演歌と日本映画が駄目で、反対にオペラ、カンツオーネ、洋画が大好きだった。またまったくの都会人で、自然には無知であった。
ガイジン好きの父が営む神楽坂の店の2階には、日ごろから、アメリカ、西欧、北欧、東欧、カナダ、オーストラリアなどの欧米人がごろごろとたむろしていた。
飯田濠については、わたしは父とは真っ向から対立した。神楽坂商店会の親子の間では、わたしの親子のような対立が少なからずあったようだ。
わたしが結成した市川の住民運動の頭脳には、前出した石井さん以外にもうひとり、東京都環境保全局勤務の異色の地方公務員藤原寿和さんがいた。
藤原さんはわたしといっしょに市川市民連合を結成したひとであった。
早稲田大学理工学部時代から公害問題に関わり、各地の闘争の支援に寝袋持参ではしりまわった末の東京都への就職だった。随分迷ったと聞いている。
だから役人なのに、東京都の公害問題では常に住民の立場に立ち、東京都知事を告訴したりもした。
社長を訴える平社員なんて民間会社ではまずいない。藤原さんは、平職員に落とし込めらていても、まだ首がつながっているから、自治労という公務員の組合はそれだけ強固なのである。
この藤原さんが、飯田濠埋め立て問題では加藤登紀子を呼び、テントで徹夜していた。
わたしは、こうした動きを藤原さんから聞いていたが、地元の運動や仕事が忙しく、直接関わることはなかった。
こうして、いよいよ機動隊による強制代執行が始まろうとしていた(続く)。
  
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2004年07月01日

江戸時代の神楽河岸を復活させて、船を回遊させようという壮大な「飯田橋神楽坂水辺再生構想」は、いよいよ現実になる?

神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。
わたしたち悪童連にはそんな汚濁した濠でさえ貴重な遊び場で、当時濠に接していた牛込警察署のわきの細道を降りて、釣り餌になるゴカイをそこでさがしたりしたが、夢中で探しているうち突然ふくらはぎやすねやうでに微かな痛みがはしった。
びっくりして痛みの部位をみてみると、わたしの血をすってまるまると太った小型のヒルが体のそこかしこに食らいついている。
わ!っと叫んでパン!とはたいて落したが、食いつかれた跡が腕や足にくっきり残って、わずかに血もにじんでいた。
半世紀たったいまではヒルさえも貴重な生態系で、大人になったわたしは図鑑を携えて千葉の田んぼまで見にいったことがあったが、そのころは神楽坂の外掘にも生息していて、悪童連の行動を妨害していたのであった。
またこの濠には汚わい船やゴミ船の係留されていて、船上生活者がいた。
少年をふくむ家族連れもみたことがあった。
Z旗よろしく洗濯物がたなびき、船室と甲板を人が行き来しているのがよく見えた。
地上生活者の子供たちにはとても珍しい光景だったので、わたしは岸辺からしばらくその様子に見入っていたものだった。
岸辺には、牛込警察署、大卿材木店、東京都水道局などがあったが、神楽坂の商店街にくらべると、この一角は錆びれた感じがして、とくに夜は暗くて、こどもには近寄りがたかった。
外濠の水は神田川に流れていき、隅田川から東京湾にいっているのは、あのころもいまもおなじであったが、そのながれに逆らって、汚わい船やゴミ船が神楽河岸に上がってきていたのだ。
何日くらい停泊したのかは定かではなかったが、船によっては日帰りではなかったように記憶している。
飯田濠は、現在ラムラという駅ビルが建っている。
その前庭が外堀通りに面していて、池があり、木の橋がかかり、植栽があり、とても気持ちが落ち着く空間になっている。
しかし20年前、この飯田濠が埋め立てられて再開発が進もうとしたときに、強烈な反対運動が起こり、大郷材木店がその拠点になり、あわや機動隊が突入というところまでいっていた。
テントが張られ、歌手加藤登紀子が反対運動の応援にかけつけて、飯田濠保存の最後の瞬間はとても緊迫して流血を予想した人もいた。
こんな光景が、この神楽河岸をめぐってはあったが、いまラムラの飲食街を利用するビジネスマンやオフィスの女性たちは、そんな身近な歴史も知らないだろう。
池の片隅に錆びた看板がたっているのでわずかに往時を偲ぶことができるが、わたしはそのころ、テントに座り込みをした身近な友人がいたので、記憶を手繰ってその一端を披瀝したいと思う(続く)。
  
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