2004年07月01日

江戸時代の神楽河岸を復活させて、船を回遊させようという壮大な「飯田橋神楽坂水辺再生構想」は、いよいよ現実になる?

神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。
わたしたち悪童連にはそんな汚濁した濠でさえ貴重な遊び場で、当時濠に接していた牛込警察署のわきの細道を降りて、釣り餌になるゴカイをそこでさがしたりしたが、夢中で探しているうち突然ふくらはぎやすねやうでに微かな痛みがはしった。
びっくりして痛みの部位をみてみると、わたしの血をすってまるまると太った小型のヒルが体のそこかしこに食らいついている。
わ!っと叫んでパン!とはたいて落したが、食いつかれた跡が腕や足にくっきり残って、わずかに血もにじんでいた。
半世紀たったいまではヒルさえも貴重な生態系で、大人になったわたしは図鑑を携えて千葉の田んぼまで見にいったことがあったが、そのころは神楽坂の外掘にも生息していて、悪童連の行動を妨害していたのであった。
またこの濠には汚わい船やゴミ船の係留されていて、船上生活者がいた。
少年をふくむ家族連れもみたことがあった。
Z旗よろしく洗濯物がたなびき、船室と甲板を人が行き来しているのがよく見えた。
地上生活者の子供たちにはとても珍しい光景だったので、わたしは岸辺からしばらくその様子に見入っていたものだった。
岸辺には、牛込警察署、大卿材木店、東京都水道局などがあったが、神楽坂の商店街にくらべると、この一角は錆びれた感じがして、とくに夜は暗くて、こどもには近寄りがたかった。
外濠の水は神田川に流れていき、隅田川から東京湾にいっているのは、あのころもいまもおなじであったが、そのながれに逆らって、汚わい船やゴミ船が神楽河岸に上がってきていたのだ。
何日くらい停泊したのかは定かではなかったが、船によっては日帰りではなかったように記憶している。
飯田濠は、現在ラムラという駅ビルが建っている。
その前庭が外堀通りに面していて、池があり、木の橋がかかり、植栽があり、とても気持ちが落ち着く空間になっている。
しかし20年前、この飯田濠が埋め立てられて再開発が進もうとしたときに、強烈な反対運動が起こり、大郷材木店がその拠点になり、あわや機動隊が突入というところまでいっていた。
テントが張られ、歌手加藤登紀子が反対運動の応援にかけつけて、飯田濠保存の最後の瞬間はとても緊迫して流血を予想した人もいた。
こんな光景が、この神楽河岸をめぐってはあったが、いまラムラの飲食街を利用するビジネスマンやオフィスの女性たちは、そんな身近な歴史も知らないだろう。
池の片隅に錆びた看板がたっているのでわずかに往時を偲ぶことができるが、わたしはそのころ、テントに座り込みをした身近な友人がいたので、記憶を手繰ってその一端を披瀝したいと思う(続く)。


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