2012年01月15日

ケイオスな魅力

人に運・不運があるのは仕方のないことだ。
それは自身の過去世の所業の結果であり、
いわば自業自得なのだという考え方もある。

それでもひたすら罰を受けるようにして
人は生きられるものではない。
年上の同僚で、とても我慢強く、
怒鳴られても顔色一つ変えず働いていた人がおり、
感心していた矢先に、あっさりと辞めてしまった。
やっぱり厭だったのだ。
耐えられなかったのだ。

現在のこの国のシステムは、
運のいい人間はよりよい人生を送ることができ、
不運な人間はとことん落ちなければならない、
ようにできている。

だから、運のいい時期にはやりたい放題やり、
運が傾いてきたとたん、後ろに手が回ったりする人が
非情に多い。
おそらくこう書くと、誰にでも数人の顔が容易に浮かぶであろう。
しかしそれもまた、ちょっと異常な現象なのである。

不運な人間でもそれなりに楽しく生きられる方法はないのか?

何事も感謝だ?
不運だと思うから不運なのだ?
すべては気の持ちよう次第だ?

まあそういった御意見はごもっともだが、とりあえず置いておく。

ぼくは以前書いた小説中の人物に、
おれは「社会不適合者」だけを集めて会社を作りたい、
というセリフを吐かせた。

「社会不適合者」を「運のない人間、芽の出ない人間」に変えてもいい。
しかし現実にそういった会社を作る人間なんかいない。
なぜか?
明らかに儲からないからである(笑)。

つまり、儲かること、が、現代社会の至上の命題であり、
ゆえに運・不運の格差がすさまじく分かれてしまうのである。

だから……
「おれは不運な人間・芽の出ない人間だけを集めて会社を作りたい」

そして、例えば……
「おれは不運な作家・芽の出ない作家の作品だけを集めて
雑誌を作りたい」

儲けようと思えば、そんなことは不可能である。
ほとんどボランティア行為か、あるいはたちまち赤字となって
火の車と化すであろう。
往々にしてこういうことを考えるのは、これまた不運な人間なのだ。

けれど、何かで読んだが、例えば昔は「ザ・ベストテン」みたいな
巨大視聴率の番組があり、これを見て学校へ行けば、一週間の話題に事欠かなかった。
そういった共有性の高いコンテンツがあり、共通の話題となっていた。
ところが現在は多種多様に分岐してしまい、「ベストテン」的なものがなくなっている。
といった意見であり、たしかにそうだと思う。
けれどこれは逆に言えば、マイノリティーにとっては福音であるとも言える
のではないか。

一人一人が、あるいは少人数のグループが、それぞれ異なる
コンテンツを楽しんでいる。
この現象に柔らかく寄り添う形で、儲け主義に走らず、
成長をみずからセーブしながら、多くのコンテンツが、
それなりに利益を出しつつ、細く長く面白いことをやりながら、
生き残ってゆけないものか。

むろん、そういったコンテンツの長たるものも、やはり、
運がよくなければならない。
それが実現できない自分自身を、ぼくは情けなく思っている。

m-07_26825 at 11:28|PermalinkComments(0)この記事をクリップ!

2012年01月04日

エゴと露出

芸術家とは、精神的露出狂であると、だれかが言っていたような
言ってなかったような。
いずれにせよ、表現活動においては、ぼくを見て、わたしを見て、
という願望が多分に含まれているのは確かだろう。

需要と供給のバランスがとれているのなら、それもよいことだ。
見せたい人がいて、見たい人がいる。

それで何の問題もないはずだが、例えばカラオケで、みんな本当は歌いたくて、
他人の歌声なんか聞きたくもないのに、マイクを持って放さないやつがいて、
みんなうんざりしている。
といった場面においては、明らかにこのバランスが崩れている。
それで最近は、一人カラオケが流行ったりなんかする。

ある程度ナルシストで自己中でなければ、表現者として成り立たないが、
自己主張が勝ちすぎて、見苦しいことになる場面も、多々あるかと思われる。
他人事ではない。自身をかえりみても、明らかにそうだ。

見られたい。知ってもらいたい。そして評価されたい。認められたい。
これらは至極健全な欲求に違いないのだが、なぜかどす黒い副作用をも生む。
結果、ぼくを含めて、多くの表現者の心中には、どす黒い嫉妬が渦を巻く。
なんであいつが見られて、わたしが見られない?
なんであいつが評価されて、わたしが評価されない?
わたしのほうがずっと素晴らしいのに、なぜ? なぜ?
ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう…と。

えらけいこ氏の漫画「あたしんち」に、こんなエピソードがあった。
高校生のみかんは、学校でテディベアの愛好会(?)に入っている。
夏休みが終わって、メンバーの一人が、雑誌のオリジナルベアの賞を
受賞したことを知らされる。
みかんは素直に喜べないどころか、暗澹たる気分になる。
それなりに楽しく作っていた自身のオリジナルベアが、とてもくだらないものに
思えてくる(実際くだらないネタだったらしいが)。

煩悶しているところへ、別のメンバーから電話がかかってくる。
彼女はみかんに、自分の胸の内が今「真っ黒」であることを告げる。
それを聞いてみかんは、とても救われた気分になる。
だが、電話には続きがあって、その子が彼氏から、
人の成功を喜べない心をたしなめられた話を聞かされ、
みかんはさらにオチル、というオチであった。

まあこんなふうにネタとして明るく笑い飛ばせるうちはよいのだが、
表現者どうしの反目やら、「真っ黒」に胸を焦がす嫉妬やら、
ぼく自身も含めて、もうちょっとどうにかならないものかと、考えてしまう。
明らかに無駄なエネルギーであり、大きなエネルギーのロスであって、
それだけでへとへとに疲れてしまうから。
暗澹たる思いから、なかなか抜け出せずに苦しみのたうつから。

新聞広告で他人の小説が大々的に宣伝されているのを見ては、
ちくしょうちくしょう。
大々的に評価されているのを目にして、
ちくしょうちくしょう。
だれかのネット小説が書籍化されたときいては、
ちくしょうちくしょう。

こんな自分がさすがに情けなくなる。
まさに「畜生」とは、こんなぼく自身の姿ではあるまいか。

m-07_26825 at 17:10|PermalinkComments(0)この記事をクリップ!

2012年01月03日

カルミックワールド

たぶん多くの人が、ぼくを優しい人間だと思うだろう。
上辺だけ優しくて、じつは冷たい、ということもない。
こまった人を見かけたら、極力助けようとする人間だし、
人が見ていないところでも、ちょっとゴミをひろったりする。

けれどそれがぼくの本来の性質かというと、
ちょっと違うかもしれない。
本来の自分は、エゴイストで冷たいところが、おおいにある。
では、ぼくを優しい行動に駆り立てる要因は何かというと、
それはぼくの宗教観にある。

ここを読まれる奇特なかたには、今さら言うまでもないが、
ぼくはカルマを恐れるのである。

現在、ぼくの人生は、つらい。
不運だからである。
不運にもいろいろあると思うが、長雨のような不運。
強打は加えられないけれど、じわじわと、生かさぬよう殺さぬよう、
真綿で首を絞めるように、苦しめられる感じ。
そんな状態の中で、何十年か生きてきた。

そんなものは不運とも不幸ともいわぬ。
要するに、おまえの気の持ちようが問題なんだ。
という意見はごもっともだが、もうそのての価値観には疲れてしまって、
反論する気力もない。
人間、どうあがいても、寒いときは寒いし、温かいときは、温かい。
寒ければ厚着をして炬燵に入ればいいじゃないの、
と思われるかもしれないが、例えば現在の仕事は、
寒い中、我慢して立ち尽くしていなければならない仕事である。
つらいめにあうことは、避けられないのだ。

ともあれ、この何十年も続く自身の状態を、ぼくは罰と考えた。
負のカルマが作用して、ぼくはそのツケを払わされているのだ、と。
そうとでも考える以外、何をやってもうまくいかない、
湿った薪に火をつけようとするけれど、いつもしゅんと消えてしまうような、
この状態に説明がつかなかった。

ではその負のカルマとやらは、どこから来るのか。
いつのまにその借金は蓄積されたのか。
最も手っ取り早く安直に答えを出せば、やはり前世ということになろう。
ぼくは前世において、多くの人を傷つけたり悲しませたりした。
そのツケが今にあらわれ、ぎゃふんと言わされているのだ。
結局そう考えるしかないのだった。

こういうことは、もう何度もここに書いている。
何度も書いているとも、何度も書いている。
人呼んで繰り言というのだろうが、たまに言葉にして抽出するほうが、
言葉にしないよりましな気がするから。
もちろん、言葉にしたからといって、不運そのものが抽出され、
運がよくなるわけではないけれど、
精神をいくらかでも安定させるために、またしても繰り言を述べるのである。

こんなふうにカルマを恐れるがゆえに、ぼくはこれ以上の蓄積を恐れる。
今生で行いをよくして、よいカルマをためたところで、その恩恵を受けるのは、
来世となろう。
当然、来世には今生の記憶を失くして生まれてくる。
こんなに泣きそうな思いでためた正のカルマを、愚かにもぱーっと使い果たし、
あまつさえまた借金をこしらえてくるかもしれない。
そんな虚しさはあるけれど、だからといって、今さら悪の限りを尽くす勇気もない。

それはちょうど鞭打たれている人間が、鞭打たれながら、
痛い、痛い、もうしませんから、許してください。と、
泣き叫んでいる姿に似ているかもしれない。
カルマにじわじわと苦しめられながら、いい子になりますから、
人を助けますからと呻いている姿、それが自分自身ではあるまいか。
こんな状態で、さらに負のカルマをためるなんて、とても怖くてできないのだ。

これがぼくの優しさの理由。

m-07_26825 at 11:47|PermalinkComments(0)この記事をクリップ!