September 2004

September 30, 2004

からおけの日

エレファントカシマシは素晴らしすぎる。
『風に吹かれて』
はいいなぁ。ロック色が薄く、初期のエレカシファンには不評(らしい)な時期に作られた曲だけど、美しすぎるメロと情緒溢れる歌詞は何者の追随を許しません。つかこうへいの芝居のラストに使われていて、改めてそう思ったのでした。エレファントカシマシ。何だかんだ中学時代、最も聴いてたアーティストの一人であるし、自分の音楽源体験に数えられるもの。そのせいか、たまに聴くと、信じられないくらいに胸を打つのだなぁ。最近の曲はあまり聴きこんでいないけれど、ニューアルバム買ってみようかと思わせるくらい。ただ、CCCDだったんだな…前作が。
今日は朝早く起床し、ドキュメンタリーの授業をうける。昼休み、午後の授業をうけるか否かを迷っていると…颯爽と知った顔があらわれ、開口一番
「カラオケ行かない?」
平日の昼にカラオケなんて初めてかもしれぬ。呼びかけに応じ、妙なテンションで人を集め、大学近くのカラオケ屋に出発。
何を歌ったっけ…
エレファントカシマシ - 風に吹かれて
ハイロウズ - 不死身のエレキマン
ささきいさお - 銀河鉄道999
くるり - ワンダーフォーゲル
Oasis - Don't Look Back In Anger
歌い手知らず - ああエキセントリック少年ボウイ
を歌ったはず。
最後に歌った『ああエキセントリック少年ボウイ』の歌詞に一同爆笑。
『最近だんだんわかってきた 僕が死んでも誰も泣かない
 いろんなものが見えてきた 見たくはないものばかりだけど』
自分が歌うと説得力が違うのですかね(笑。
お昼にノリでカラオケなんて、大学生らしすぎて涙が出る。全員で2時間歌い、大学に戻る。ここで帰宅するのでなく、再度大学に戻るのが笑える。
続きを読む

m-13_30380 at 19:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 29, 2004

親が来る

来週、母が所用で上京する。
以前一度上京した時は、大学の友人等と会わせたら面白いと思い、数人を集め飯を食った。今回は何をどうしようか。四年生という時分、以前と同じ面子を同じように集めるのは難しいだろう。
ん〜〜〜〜…
自分のブログを読んでる友人諸君、タダ飯を食いたくて、うちの母に会ってみたい人間は連絡せよ(笑)

…なんて


m-13_30380 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 28, 2004

ウイルスとスパイウェアとセックス

まだ幾つか残ってるようだけど、悪質なものは大体削除できた。
ウイルスに犯された瞬間は目の前真っ暗で、学校に居ても憂鬱なままだった。下校してすぐさまウイルス退治再開。PCと向き合うこと2時間。なんとか復興の目処がたつ。良かった良かった。やっと、落ち着いてアレコレできる。

学校と言えば、今日はゼミだった。
先週今週と後期が始まったばかりで、先生、エンジンがかからないらしい。生徒も同様だ。そのせいか、夏にあった出来事を雑談形式で話すのがメインとなった。
今期ゼミは話題がセックスに集中することが多い。何の話をしていても最終的にはセックスに結びつき、性についてのあれこれをゼミ生が話しあう。僕はセックスが好きだ。ヤるのも(そんな経験多いわけじゃないけど)語るのも。しかし、最近のセックス論議には少々食傷気味。なーんでも、セックスに結びつければええんちゃうんか?と思う自分がいて。
セックスは、私的体験に基づく価値観しか見出せないものだ。
モテる、モテない…ヤれる、ヤれない…上手い、下手…
だからこそ、文献やデータ等の学術的価値を無視した裸の意見を聞けて楽しい(裸の意見だからか、セックスの話が面白い人は人間そのものも面白い気がする。今日も面白い人が話すと火が付き、面白くない人が話すと空気が冷えるのを感じた)。
しかしながら、学術的価値の無視が継続されるので「これってただの世間話じゃん?」と思わせる時がある。世間話から得られるものは沢山あり、逆にそういった話から文脈を汲み取れない人間が、ルポ的行為などとれるはずもない。

しかし…だ。

これは、セックスの話ばかりのゼミがイヤというわけでなく、自分にとってセックストークの意義とは何処にある?という自問だ。

セックス話の延長で。
昨日、ウイルスに犯されたパソコンから映像をVHSにダビングする間の心情(ダビング中はパソコンをいじれない為)を
「愛する人が強姦されるのを何も出来ず観ているようだった」
と友人に話すと
「パソコンと愛する人を一緒にするなんて、信じられないーーー!愛する人をパソコンだなんて。かなりビックリした。『強姦』ってコトバを冗談で使うのも信じられない」
と素で引かれた。
『愛する人がパソコンのよう』でなく、自分にとって卒業制作や複数の創作活動の源泉である『パソコン』は『まるで愛する人ぐらい重要』なもの。それのトラブルは気が滅入るという冗談だったのだが…
ユーモアとは難しいものです。
少なくとも人は選ぼう。冗談を慎もうと誓った一日でした。

m-13_30380 at 20:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

伝染るんです

040928-0548.jpgパソコンがウイルスにかかった。トロイというやつか。エロサイトに勝手に接続するプログラムがどんどん増えていく。わけがわからないのも増える。一度減らしたが完全でなかったせいか、また増えた。困った。対処法がわからない。かなりヤバイ。そんな時、友人から悩み相談な電話。三時間程悩みを聞き話す。自分がヒドイ状況なのに、妙に落ち着き相談を聞いているのが不思議。話しながらウイルス駆除を試みるが不可能。絶望。
しかし昨日今日で編集した動画をテープにうつさなければならない。そのため、ウイルスに犯されたパソコンを一時間半放置する悪夢。そーでもしなければ録画は出来ぬ。
録画の間病魔に蝕まれるパソコン。合間に観るビデオ。あたかも眼前で愛する女性が強姦されるが如く。

むー。何たることか。

m-13_30380 at 09:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 27, 2004

石に布団は着せられず

57df4ca6.jpg和光大学演劇研究会新人公演『石に布団は着せられず』を観た。一人の老人の死をめぐってのドタバタ喜劇。
登場人物が十二人と多く、それぞれのキャラクターを万遍なく魅せようとしていた。その為、間延びしたシーンが少々目立ったが、全体的には無難にまとめられた芝居であったように思う。
無難さが曲者だ。どこか小さくまとめた感があり、作品としては長く心には残らない予感がする。そして、役者が遊びすぎている感をうける。自分が観たのは三日間公演のうち、二日目と楽日。自分のような素人でも二回観ると台本の大筋が掴め、ミスやアドリブを見分けれるようになる。今日(楽日)観た公演はアドリブが特に多かった。
今公演のアドリブとは、役者が「面白いことをやってやろう」という野心から起こされたものであろうと予想する(何故ならアドリブが本筋とはかけ離れすぎていたため)。その野心は、役者の『素』であって、演技ではないのだ(だから物語中には有り得ない単語等が出てくる)。役に漬かりきったアドリブでなく、客を楽しませなければいけない(これ自体は悪いものでないけど)という役の外にある『勘違いした責任感』からやられているように感じた。妙な責任感から発せられた演技は、盲目的な観客本位になり、役者自身を見失わせる。公演時間を経るにつれ、己を見失った演技者たちがバランスを失い、後半はぐだぐだになっていた。
それでも役者の素を知る知人友人は反応するだろうが、知らない人間は置いてけぼりを食らう。二日とも客席の一番後ろから観た自分。アドリブが多発した楽日に上演中ケータイを観る(即ち時間を気にする)客が少なく数えても六人は確認出来たことを述べておく。

そして、例によって公演をビデオ記録した自分である。二日の公演のうち、どちらをビデオorDVD化しようかを少し迷った後、出来が悪かった楽日を選んだ。理由は良い意味でも悪い意味でも、芝居の作り手に『現在』を見せてあげることが出来るからだ(オレが見せる必要なんか無いのかもしれないけど)。「君らは現在、こんなにダメなんだよ」と声をかけてあげたい(しかし、こう言うと演出陣がかわいそうなのだ。演出がアドリブを指示するわけないだろうから)。

ただ『現在』は一秒後には『過去』だ。そして、どんな『現在』にも『未来』もあるのだ。ダメな現在(だった映像)を形にするけど、そこからどう進むかはテメェ等次第だというオレなりの愛情とエールを送りたいのだけど・・・

ダメだろう(笑)。
「何でダメだった日をビデオ化すんですか!」と思われるに違いない。まぁ、自分が人様に意見出来るほど立派な人間でもないから仕方ない部分はある。
けれど、己を奮い立たせ、俺を前に歩ませてくれるのは、幾つもの失敗や敗戦。それらは現実に刻み込まれていて、消すことが出来ない。消えることがないから、進み続けているのだ。出来るだけ見えないよーにと(笑)。俺もこーなんだから、お前らも同じだ、ガンバレ、と(笑)。
感動は「他人(世界)と自分はこんなにも『違わない』」とわかることだと最近思う。

「今回の公演は全体的にダメだったけど、オレもダメなんだよ。けど、ダメなオレでも真剣勝負に勝って大きい舞台に進めたら、お前らでも出来るってことだよ」
と言いたいがために、次の試合勝ちたいものです。ダメな俺のままで「お前らも出来る」ってエールかけても、ねぇ?
その為には、数え切れぬ我慢と練習。
とりあえず打ち上げを抜けてくる。あーーーあーーーー呑みたいよーーーー。クソッタレ〜〜〜。馬鹿騒ぎしたいわーーーー。
むーーー。
とりあえず、『石に布団は着せられず』の演出、役者、スタッフの皆様お疲れ様です。ただ今打ち上げの真っ最中でしょうが、お楽しみください(読まれないけど)。胸いっぱいの愛をこめて。

m-13_30380 at 00:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 26, 2004

ネタ

自分を貶め道化であり続けるのは体力を有します。
芸人体質。
そのうち素の自分がどっかいって見つからなくなる…


なんて

m-13_30380 at 10:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 24, 2004

Hard to say I'm sorry

「ありがとう」や「ごめんなさい」ってタイミングを逃すと、言うのが非常に難しいコトバである。事が起こった瞬間に言わないと、ついつい時間の彼方に置き去りにしがちな感情だと思うのだ。
だって、随分前の不祥事を謝って、事を蒸し返したらイヤだと思うのが人間だし、「今更」と思うような出来事を感謝するのも恥ずかしい。しかし、それらを越えて言われることがあったら、安易に言われた「ありがとー」「ごめんなさい」よりも嬉しいものです。
そんなことがあった先日。

m-13_30380 at 13:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 22, 2004

初一本

040921-1740.jpg(多分)初めてプロの選手から一本とった。
感じたのは『仲間』って存在の大きさだ。たまたま自分がスパーしてる時、周りには普段のチームメイトがいっぱい。皆俺のスパーを見ていて、あれこれ指示をくれる。指示は技術的なものというより、メンタル的な「(相手にのまれず)いつもどおりにやれ」といったものが多い。即ちそれは、普段どおりやれば勝負出来るという激励。スパーの最中それを感じ、応えねばという気持ちが膨らんだ。結果一本。
一本とった瞬間、チームメイトは口をそろえて「よし!」と言ってくれた。直接、何をしてくれたわけではないけれど、これ以上の助けはない。練習がおわると先輩が「(一本)とったじゃん」と話し掛けてくれた。たまに技を極めたことよりも、そんな会話を嬉しく思う。つくづく格闘技は一人では出来ないなーと感じたのでした。

m-13_30380 at 17:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

後期開始

学校が始まったけれど、ゼミ以外であまり知った顔に出会わず。
人間関係のやるせなさを知る近頃でしたが、そんな中、ちょっとした希望(のようなもの)を見つけて良い日でした。希望を見つけはしたものの、問題解決には至っていないので、どう消化するべきか己と向き合う次第です。
明日の英語は寝坊してしまいそう…

m-13_30380 at 01:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 21, 2004

コンビニ通いの日々

明日から学校が始まる。
と言っても、ここ数日は何の因果か演劇サークルの手伝いで毎日学校には足を運んでいるのであんまり「始まる感」はない。
そこで多くの人とかかわる。
まー何と言うか、辛さに負けていい加減にしてしまう関係がイヤであります。
何故に真剣に話をしようとしている人を嘲り笑うことが出来るのか。すげぇ、衝撃だったなぁ。
真面目な場で、真摯に話し持ちかけようとしてる相手を爆笑する姿ってのはグロい。

m-13_30380 at 01:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 20, 2004

The Grudge

どうしようもないやるせなさを覚えた一日。
やはり、人間関係を考え直さねばならないと考えた日。

むーーーこんなこと書いてても、読み物として全然面白くない(だからといって面白いモノを書けるわけではないが)。


m-13_30380 at 00:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 19, 2004

ドロ舟

一度乗りかかった舟は、最後まで乗っておきたいものです。たとえ沈むとしても。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり。

m-13_30380 at 01:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 18, 2004

それでも明日はやってくる

今日はボクシング出身の人に、一発良いパンチを当てることが出来た。タックルのフェイントをかけての左ストレート。日々、少しずつ上昇してるのかな。格闘のほうはボチボチだが。

人間関係。もーちっと真面目にやらないといけないかもですね。

m-13_30380 at 00:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 16, 2004

稽古をみた

040916-1742.jpg早稲田から派生した劇団の稽古を見に行った。大学外の稽古を見るのはこれが初めてで緊張した。
稽古時間は午後6時から9時半まで。割と短い。その分中身が濃いように感じた。一番興味深かったのは演出。
どんなダメ出しでも、『ダメ出しされる役者』というのはある程度技量を有すものだ。あいうえおもわからないような人に国語は教えられない。それを演出はちゃんとわかっていた。技量が充分でない人たちには役を演じるうえでの精神論、方法論を演出以前の問題として、重要に扱っていた。それは時に厳しい口調で飛ばされるもので。わかりやすい言葉でいうと「こんなこともできねーのか!何度言わせんだ!泣くなよ!」といった類のもの。
ビデオを撮る話を持ちかけてくれた大学のOさんは、厳しい口調で指示される方だった(つまり、まだ演出されるに至らず)。
今まで彼女がそこまでボロクソに言われてるとこを見たことがなかったので、軽く衝撃。僅か2〜30分の間で激しく変動する彼女の表情。芝居をしてる最中は、笑顔、すまし顔。演出される時は、笑顔、すまし顔、そしてしかめっ面、沈んだ表情。くにょくにょ変わる表情。顔柔軟かと思うほどに。逆に言えば、それほどまでに演出の指示はスピーディー。
彼女は言う。
「ワタシがこうなってるのは初めてですか?」
まさにその通り。そんな姿に自分を重ね合わせたりして。俺も今、道場ではダメ出しだらけだから。
頑張ってんだなーと思うと、自分も頑張らねばと思いました。道徳の教科書みたいな感想で〆。

m-13_30380 at 23:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 15, 2004

蜜月

蜜月の時とは短いものだ。三日続いた女子からのモーニングコール。四日続かず。今日、僕を起こしたのは悪戯メールでした。天国と地獄は現世ですね。素晴らしき哉、この落差。

それはさておき、今日から試合目指してプロ練復帰。何度も出させていただいてるが、未だに行きの電車では緊張で腹が痛くなる。
プロ練はいつも出ている夜の練習とやること自体はさほど変わらないが、稽古場に流れる空気がまったく違う。格闘技で食ってくなんてよほどのトップ以外めちゃくちゃ大変で、収入も安定しない。弱ければ切り捨てられ、ダメになった選手はポイだ。そんなセカイで生き残ろうと、ギラギラしたスパーリングが所狭しと行なわれている。そのため、技術云々よりも(格闘技に対する)意識について学ばされることが大きい。
自分のようなヘッポコがこういった場所で練習出来るのはホントに幸せなことだ。今や地上波ゴールデンタイム放送されるほどになった(この現象自体はバブルだろうけど)総合格闘技というソフト。そこで活躍するトップ選手と同じ場所で、同じ空気を吸えるのは、将来的に必ず何か役に立つと思う(いや、役に立たせないといけない)。
まーかっこつけたこと言いよるわけですが、とりあえず三時から八時まで練習して疲れる。これが試合までずっと続くと思うと、召使の一人や二人欲しくもなります(そして、一つの試合が終わっても次の試合)。疲れすぎで何もかもがやになる。誰かゴハン作ってください、誰か掃除してください、誰か洗濯してください…というように(ただの怠惰)。天国と地獄は此処に。


m-13_30380 at 21:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 14, 2004

人生21年目にして

毎朝女性からのモーニングコール(もしくはメール)をもらえるほどに成長しました。ガハハ。目覚ましもかけていないのに、フローリングの上でガクガクブルブル音をたてて振動する携帯電話は、健やかな眠りを切り裂くに充分な充分なものだ。おかげで睡眠不足…でなく、昼夜逆転から脱出することが出来ました。日々の惰性の名残で二度寝してしまったのですが、それでも11時に起床。これでまともな生活に戻れます。多分。

m-13_30380 at 18:10|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

September 13, 2004

穴に落ちた

穴に落ちる、という漫画のようなアクシデントで練習前に怪我をした。日常生活に支障はないレベルだが、練習には影響するものだった。
タックルの踏み込みを思い切れない。得意のポーカーフェイスで皆には隠しながら練習を続ける。それは、昨日、自分が未だ上がることが出来ないでいるステージの闘いを観た手前、こんな怪我で足踏みしてらんねーって意地。
打撃を含めた総合のスパーを繰り返すが自分のリズムで組み立てることが出来ない。これは怪我が直接影響したわけではなく、自分が打撃に不慣れなだけである。まるで相手の打撃をもらいにいくようなタイミングでタックルを出す自分。スパーを一つ終える毎に自分がクズに思えてくる。「なんで出来ないんだろう?」己に対する圧倒的な失望。リズムがとれないからダメなタックルになるわけで、それを怪我のせいにしようとする最低の自分(リズムが良ければ怪我しててもある程度形にはなる)もあらわれはじめる。非常によくない兆候だ。格闘技においてすべての原因は自分にしかない。弱いから、ダメだから、負ける。それだけだ。ひどい怪我しても俺より強い人間はゴマンといる。怪我は負けの原因に出来ない。
そんな時、センセに「ゆうは、もう、ちゃんと構えないほうがいいよ」と言われる。
凄い!
どんなセンセでも、普通技術を伝達する場合、正しい形で打ち、蹴り、動くという『型』を教えるものだ。その常識の放棄!「まともにやろうとするべからず」という教えが如何に凄いものか。数学を教わりに来た生徒に「君は国語の方が生きる」と小説を教えるようなものだ。短所を補うより、長所を伸ばしまくりの教育。短所は長所が被い隠せばイイという思想。
そして、センセは他にも色々アドバイスをくれ、最後に「色々試してみることだよ」と言った。むー。こんな有難い言葉があろうか。まだ自分は試せるんだっていう肯定。
そう、結局試すしかないのだ。当たり前のことだけど、当たり前なだけに説得力を持たせるのが難しい。(弱いことで)拗ねそうななった自分に当たり前な言葉を届かせたセンセは凄い。
ただ、あまりのぶっとんだアドバイスに道場は爆笑の渦。「ついに矢野卓巳(まともに構えず奇抜な技しかしない選手)指令が出たよ!」と。確かにヤノタクのようになれ、という先生は普通、本当に、いない。
加えて、先輩は今の自分のダメな点を言葉にして丁寧に教えてくれた。それらが、もーね、嬉しくて。嬉しいから余計ダメな自分が情けなくて。滝のよーな汗にまじり、少量の涙が流れたよーな、流れなかったよーな。


m-13_30380 at 21:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 12, 2004

怒濤の週末

土曜の夜、九月の末に行われる芝居の演出と音響がうちに訪問。何故か挿入曲の選択に協力する。自分はあくまで部外者なので、なるたけ口出ししないように心がける。疲れ気味の演出、音響を和ませ、笑わせることに徹しようとしていた。
しかし、夜がふけていくにつれ段々とテンションがあがる。俗に言うナチュラルハイ。自分の性根の悪さがもっとも出るのがこの時だ。段々と「ああせえ」「こうせえ」と作品に対する意見が増えていく。映画や芝居における音の使い方に敏感なので、思わず口がでてしまうのだ。汚い方言が混じったそれは、アドバイスというより、もはや指示。何様だ。さぞかし演出、音響は難儀したであろう。
視覚と聴覚はえらく密接につながっている感覚だろう。「音で視る」という形容がされるほどに聴覚と視覚が相互に及ぼす影響は大きい。同じ光景でも音の違いで想起されるイメージは180度かわるものだ。それだけに選曲ってのはデリケートにやらねばならない。良い曲が必ずしもシーンにあうわけでないし、その逆も然りだ。より良いサウンドトラックを完成させるためには、時に嫌いな音をも丹念に聴き続けなければならない。作業は夜が明けるまづ続き、寝たのが10時。三時間ほど眠り、お台場に出発。ZSTという格闘技の興行を観るためだ。
チームメイトがが二人、ジェネシスバウト(前座試合)に、先輩が一人本戦に出場する。うちからでる選手は(どこの選手もだろうけど)は日頃、勝利を目指して厳しい練習を課している。その一端を観てる者として、今日の試合は自分のことのように緊張する。自分の試合なら緊張は己を制御することで、(まだ)なんとかなるが、人の試合は最終的にどうあがいても観るしかできない。その分、妙な緊張が。
結果は二人が勝利、一人引き分け。中々良い結果である。特に先輩は長い前座時代を経て、今日が本戦デビュー。苦節という言葉がぴったりの渋い秒殺勝利。決め手はいつも自分が極められている技だ。凄く嬉しいのだけど、どこか変な感じ。競技者としては、いつまでたってもやられてることに喜べねーだろっていう。
いつもやってるという意味で驚いたのは後輩の試合。練習ではまるで出したことのない膝でKO勝利。おそらく本能のおもむくままに蹴ったのだろう。本番に強いタイプだ。勝った本人でも信じられないような結末(勝利そのものでなくKOという決まり手)に、驚いたような嬉しいような…溢れる感情をリング上で表す後輩がおもしろかった(派手にやると後で皆にいじられるので、やや抑え目なあたり最高)。
勝利の瞬間は何事にもかえがたい喜びがある。麻薬みたいなものだ。『あの』喜びは。アマチュアレベルでちんたらぼんたら闘ってる自分でさえそれはわかる。自分の遥か上のステージで味わうそれは如何なるものであろう。
とどのつまり、今はそれを知りたくて練習している。


m-13_30380 at 20:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

流されてゆこう

オーストラリアに短期留学していた友人が日本に帰ってきた。無事に帰ってきて何よりだった。
久々に、電話で聞いた声は相変わらずなんだけど、どこか海外の大胆さというか、大味さ…そんなものを感じさせた。豪快。
ゆっくり話しをしたいけど、中々そうもいかないみたいです。とりあえず友人は長い間風呂に入ってないようなので、風呂に入るそうです。
汚いなぁ…風呂ぐらい入れよ……じゃなくて、風呂って文化はやはり外国にはないのですね。

自分は外国には二度行ったことがある。
一度目はアメリカへ。これは高校時代、レスリングの遠征試合で。二度目はチェコ、オーストリアへ。大学2年の春にヤン・シュヴァンクマイエルのルーツを探る為一人で。海外は良い。シンプルに日本では見ることが出来ない風景を味わうことが出来る。
今行ってみたいのはブラジル。柔術修行とかしてみたい。

今日はノリで変な頼みごとをうけてしまった。本当にノリだ。自分でもわけがわからない。一つだけいえるのはオレは良い奴だ、ということだ。
頼みごとを承諾すると、自然に相手から感謝の言葉がこぼれる。それが恥ずかしいので、オレは頼みごとをうけた時点で、「オレって良い奴だなーーー」「無理難題を聞いてあげるなんて!」などと連呼し、自己陶酔におちいることにしている。そうすれば、相手は「こんな奴に礼は言えねーな」と自然に「ありがとう」を省略してくれる。
謙遜するよりは笑いがとれて良い。

m-13_30380 at 00:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 11, 2004

今日言われたこと

「(打撃を)打ち合おうと思わない方がいい。何かあった時に、ワーッ!って手が出るほうじゃないでしょ?」
相手に殴られた時、無理に殴り返そうとするな、ということを言われた。殴り合いで個性をつぶすより、殴り合いを如何に捌いて得意な寝技に持ち込むかが重要なのだ、と説かれたのだ。
格闘家には2種類ある。殴れる格闘家と殴れない格闘家である。自分はおそらく後者だ。なんとも情けない感じである。
しかし、相手を傷つけずに倒すというのは(殴らないで相手を屈服させる)関節技ならではの美学だ。
「ヒトを殴るのは素人でも出来るが、関節技は格闘家しか出来ない」と言ったのは高瀬大樹(格闘家)だ。自分はこの言葉に大いに同意する。
一月半かけて、その美学を出来る限り高めていこうと思ったのだった。

m-13_30380 at 02:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 10, 2004

インソムニア

寝れない。
おかげで未だ昼の練習に出れないでいる。
せめて、三時ぐらいには寝れる生活に戻したい。
来週までには戻そう。
なんせ、昼には起きる生活に戻さないと、週末の試合、見に行けない。

早稲田演劇サークルから派生した劇団(?)を撮る撮らないとか言う話があったのだが、今までまるで連絡せず。公演が来月なので、やべーと思って、いい加減コンタクトをとってみたら、来週頭辺りに一度お邪魔することになりそう。緊張する。
向こうさん的には、公演を撮りさえすれば用済みなんだろうけど、野次馬根性旺盛(笑)な僕は練習風景とか、舞台裏を記録で撮ってみたいのだ。ドキュメントというやつです。

先日、釜ヶ崎撮影の際、強く思ったことの一つに、ノンフィクション系表現で良く用いられる『関係性』というものがある。ノンフィクションは関係性が大事。これは真理だと思う。しかし、関係性=親密性ではないことを痛感させられた。
釜の親父達にどんなに歩み寄りを見せても、無理なんだな。親父達を本質的に理解するなんてことは。少なくとも、10日前後では無理だった。
一緒に行った相方は「写真は関係性。仲良くならないと、はいりこめねーし、良い写真が撮れない」と言っていたが、関係性は仲良くなることに限られるものではない。仲が悪い関係性だってあるし、上辺だけの関係性だってある(これなんかうまく映像に収めれたら楽しそうだ(笑))。
『仲良くなった対象を撮る』のが目的なら、相方のコトバは間違いではない。しかし、『自分が捉えた対象の姿(見方)』を綴ろうとするのならば、関係性を必要以上に変えることよりも、今ある関係を見つめ続けることの方が重要だと感じた(そうすりゃ自然と関係性の変異は生まれるのでなかろーか)。
でもシャシンと映像は違うからなぁ。シャシンは仲良くなるのは必要なのかもなぁ…。いや、でも、やっぱ、違うかなぁ。ま、とりあえずいいや。
だから、編集においては『理解できなかった自分』というのを重要な立脚点として作っていこう、と現時点では思っている。
「現時点で理解することは出来なかったが、今後理解することが出来る『余地』は存在していて、その『余地』は即ち、自分が釜ヶ崎の住人になり得る可能性(笑)でもある。」的な。

つまり、ここで「関係性」なんてコトバを持ち出して、何が言いたいかというと、アレです。
今回お邪魔する劇団は、以前大学の演劇サークルの公演記録をした時みたく頻繁に顔は出せないだろうし、同様の親密性を築くことは出来ないと思われます(そりゃ、同様の親密性なんて、人が違うんだからありえない)。
これは、仲良くならないというものではなく(出来れば仲良くしたいものだ)、あまり関われないからこその映像(ないし思索)を最大限、楽しもうということ。そもそも、先の大学の演劇サークルで築けた親密性がどないのもんかってのも怪しいし(笑)。オレの独り善がりだったらどーしよう(笑)?ガハハ。
…そんなネガティブな呟きはさておき。
そんなこんなで、公演まで一ヶ月。尚且つ、始まり(顔あわせ等、初期の稽古)を未見なのですが、自分の中で「やっつけ」にしないように思ってるのだ。この状況だからこそ見えるもの(考えること)をよーく見ておこうと、楽しみなわけです。
撮るという話を持ちかけてくれた娘。昨年『Linkage(リンケージ)』というお芝居の撮影をしてからの知り合った仲です。
そして今回の芝居は『Linkage』で彼女を気に入った人が、出演をオファーしたそうで。きっかけがLink(リンク)を含むタイトルのお芝居。その名の通りで面白いものです。こーいうの、数珠繋ぎって言うんですかね。
ちなみに、この娘、客演(違う団体での公演)を経る度に研がれて行くというか…鋭くなるというか…末恐ろしいというか……変化を速度でもって見せてくれる人。そして何かを目指す際、なりふり構わなさそうな姿勢で突き進む。良くも悪くも青春爆発で、素敵な娘です。
来週稽古に居れば、会うのが2,3ヶ月ぶりになる。どれだけ変わってるんだろーか。あぁ、そんなことより、釜ヶ崎以来ロクに女性に会ってないので、惚れないようにしないと(笑)。…大馬鹿でんな。

現在、四時。相変わらず寝れない。

m-13_30380 at 04:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 09, 2004

asgard

BUMP OF CHICKENの『ユグドラシル』を日に三度は聴いている。朝起きて飯作りながら一度、道場に通う電車の中で一度、寝る前に一度といった具合に。所謂ヘヴィチューンである。
ただ、BUMP OF CHICKEN、自分の中で評価が非常に難しいバンドで。好きな曲は沢山あるんだけど、バンドから感じる生理的な気持ち悪さが、今まで単純に「好き」と言わせないでいた。
気持ち悪さの原因を考えるに、BUMP OF CHICKENというバンドに漂う被害者意識、それと同時に漂う少年性(のようなもの)が自分にあわなかった。悪戯に己を卑下したり(何かポーズに感じてしまうのだ)、自ら「迷子」と唄う語り口、現実離れした童話的な比喩を時々苦手に感じることがあった。それらを力一杯に歌われるので、聴いてる内に息切れしてしまうのだ(なもんで、前作『jupiter』はアルバム通しては殆ど聴いてない)。しつこい、と思ってしまうのね。
しかし『ユグドラシル』、上記に述べたようなBUMP節は随所に見られるが、何故かアルバム通してすんなり聴けてしまうのだ。
まず全体的な印象として、曲調が割りと抑え目(あくまで印象だけど)。これが、以前のBUMPに感じていた『力み』を和らげている。元からしっかりとしたメロディを生むバンドであったので、アコースティックな音が苦にならない。メジャーデビュー2作目にして、こういった力みを抑え、ある種の『達観』を手にするのは並大抵のことではないんじゃないかなぁ(尚且つ、それをヒットさせるということは)。特に今の時代だと。
そして何より、自分にとって大きかったのは、以前の童話的世界観が現実と接点を持ち始めたことだ。『ダンデライオン』や『K』等にみられたぶっとんだ童話的な歌詞は、「良い話だなぁ」と思っても、(自分にとって)現実にフィードさせにくいものだった。独自の世界が築かれていると言えば聞こえはいいが、どこか閉じた印象を同時に与える。現実に近づきだした世界観は、そういった閉塞感が払拭され、聴きやすく感じた。しかし、ロマンチシズム溢れるBUMP節が損なわれていないのが凄い(例えば『ロストマン』、新曲ならば『車輪の唄』のように)。変わる部分は変わり、根っこの部分は変わらないという理想的な成長を果たしているのでしょうか(あぁ、でも、毎度毎度の隠しトラックは自分的には未だ気持ち悪いままであるか。やめればいいのに)。
アルバム収録曲である『スノースマイル』は、シングルとして発売された時は、良い意味でも、悪い意味でもBUMP節が影を潜めた退屈な曲という印象しかなかったが、アルバムの流れの中で聴くとガラリと変化。この曲は成長の過程だったのだなぁ。このバンドが10年続くとどうなるのか気になる次第である。
…と、まぁ、曲毎の細かい分析や、優れた批評は出来ず、曖昧な感想でしかないわけですが(勉強せななぁ…)、ともかく愛聴しているわけです。

そんなこんなしていたら、次の試合が決まりそうです。多分、10月24日。しかも久々びさびさの打撃アリ。気合入れんといけん。正念場。
あぁぁ、ただ…、結局、誰とも、お酒呑めずに、また禁酒???

m-13_30380 at 01:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 07, 2004

らいおんはーと

うちのセンセ曰く
「格闘技は闘争本能や危機回避能力と言った人間の本来の感覚でやるもの。だからそれを続けてるとより動物的になっていく」
動物的なセンセは夜空を見上げなくても、(何となく)月の満ち欠けがわかったり、気圧の変化を(これまた何となく)感じ取れたりするそうです。
高校時代やブランクをも含めれば、格闘技の初めてかれこれ七年目に突入しようとする僕ですが、今までそういう感覚をまるで持ち合わせていませんでした。しかし「そろそろかな?」と思うような出来事が。
昨晩寝たのが午前六時。にもかかわらず、目覚めたのが朝八時。「ん〜〜〜なんでだ、ぜんぜん寝てねーじゃねえか」と悶えていると地震が。最近よく起こってる東海、近畿地方が震源のアレです。東京の方は被害が出るほど大きくはないけれど、地上五階に位置する僕んちは結構揺れるのですね。女の子なら悲鳴の一つでもあげてくれる位には。
驚くべきは、揺れてる最中に目が覚めたのでなく、揺れだす前に目が覚めたところだ。これって地震予知?
ナマズだ。オレは。
髭をダリみたく伸ばして、更なる地震予知師を目指します。

m-13_30380 at 19:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 06, 2004

一人暮らしの絶望

040821-2225~00.jpg一人暮らしの絶望の一つに『料理の失敗』がある。料理の失敗自体は一人暮らし特有のものではない。むしろ家族で暮らしているほうが、複数の好みがあるので「舌にあわない」というミスがおこりやすい。問題は失敗そのものではないのだ。食す行為にある。
つまり、失敗した料理を一人で食う(もはや片付けるか)時の絶望。それと言ったら並大抵のモノではない。一人暮らしなんてのは基本的に(自分は学生、仕送りという身分だから尚更)貧乏性なわけだ。失敗したメシを捨てるに捨てられず、これも栄養だと無理矢理腹に詰め込む時の空しさといったら、もう、ね。
今日昼に作ったブロッコリーのサラダとマーボー茄子の出来といったら(サラダをどう失敗するんだ?って思われそうですけど)。ついでにご飯の炊き加減も大失敗。料理は難しい。
そんな最悪の食事後練習へ。高い定期を買って(ただ高いぶん色んな場所に行けるからアウトドア派(嘘)の自分には便利)、満員列車に乗って、日常の再開。
クラス(技術講習のようなもの)に出るのは久々。新しく入会してきたと思われる人をチラホラ見る。皆強そうなので、自分はびびりまくり。とりあえず試合を今週末に控えた先輩の調整に付き合う。
この先輩が強いのだ。人は「相性もある」と言うのだが(その要素もあるけど)、相性以上に純粋に『強い』と自分は思う。しかし、その先輩と良い勝負出来る人とは全然やりあえたりする。あまりの三段論法の不用に、
「何で(先輩とやる時だけ)そんなに弱いの?悲しくなってくるよ。腹もたってくるし。○○さんなんか普通に怒ってるよ」なんて言われてしまう始末。けど言われる度に、皆が思ってる以上にあの先輩は強いのだと思ってしまう。
手を合わせたのは久々だったが相変わらず。以前より足が効くようになっていて非常にやり辛かった。自分も上達した部分あるだろうに、切ない。まぁ、この切なさは、ある種の嬉しさも含んでいるものだけど。試合、勝って欲しいものです。

m-13_30380 at 21:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

練習開始

8219eeb2.jpg水道橋の合同練習から練習復帰。
スパーをするのは久々(3週間ぶりくらい?)なのでスタミナ、技術、パワーの低下と、周りの上達っぷりが心配がであった。
しかし意外なもんだ。想像以上に動けた。ただ、さすがにスタミナは戻ってなく、酸欠になりかけたり、めまいがしたりしたけど。酸欠やめまいが襲ってきたとき、よく後悔する。なんでこんなことやってんだって。
練習後、皆から
「動けるじゃん」と言われる。
「無理してたんです」と返す。
これは褒められた後の常套句である。決して否定しないあたり、お調子者な自分。
動けた原因を考えてみる。おそらく気持ちの部分であろう。久々だからこそ集中しなければなるまいと、やけに気合を入れていたことを思い出した。格闘技ってのは、メンタルな要素が大きく左右するものだとは思っていたけど、これほどまでとは。ブランクを凌駕してしまった(なんて)。
試合前なんてのは、毎回の練習にかなりの気合を入れて臨むものだ。だから強くなれる。練習ってのは、とどのつまり自己暗示を繰り返す作業。その自己暗示をかけるための土壌は地味な練習によって養われるもの。暗示しながら練習。練習しながら暗示。何か自分の中でテーマや意識を設けるだけで、だいぶ変わるものです。

m-13_30380 at 13:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 格闘技 

September 05, 2004

そんなこんなで

東京、町田に戻ってきたわけです。
駅に着くなり豪雨に襲われる。とんだ歓迎だ。先の台風16号といい、地球の悲鳴だな。こりゃ。
戻る前は、練習、卒論、家事…恋愛(しつこい)が面倒で億劫でたまらなかったわけですが、いざ自分のアパート(マンション?)の入り口くぐると不思議。えらく落ち着いた。
そんなこんなで、また闘いの日々が始まるわけです。

m-13_30380 at 11:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 04, 2004

東京

・やっとこさ、東京に戻るわけです。
今回の帰郷、大阪遠征含めると約二週間にも及ぶ長期滞在になりました。こんなに長く居たのは初めてのような気がする。帰るとやらなければいけないことが沢山あって、目眩がします。
卒業制作、練習、家事、恋愛(笑)…
特に重要なのは練習(卒業制作と言え)。一ヶ月まるまる空けてしまったので、取り残されている感マンマン。この夏、新しく入ってきた人も多いらしく、屁たれファイターを自称する自分にとって苦しい日々が予想されます。今の道場に入って10月で三年目。そろそろ次のステージに上がらないといけないと思う。そのために足りないのは圧倒的な練習量。
・岡山では色々家族と話した。最も印象に残ってるのが、妹がガラスの破片で足を切った時の一コマ。
妹「うわー、すげぇ血じゃあ」
俺「それくらいにゃー、唾つけときゃー治るわ(ホント、大した傷じゃない)」
妹「うわー、ぼっけえ出とる」
俺「足は、心臓の下にあるんじゃけー、よおけえ血ぃたまって出やすいんじゃ。騒ぐな」
妹「うわー、血ぃ見ると恐ろしゅうなるわぁ」
俺「あほんだら!血ぐれー毎月見よるじゃろーが!」
妹「あれはまた違うんじゃ」
…我ながらデリカシーの欠片もない言葉。母はとなりで苦笑い。思わず自分で「すっごいな。俺」と呟いてしまいました(自画自賛。いや、ちがうか)。
・弟は浪人のくせに、危機感がまるでなかったので、怒鳴った(こう書くと口うるさい兄貴だなぁ)。ただ、持ち前の運動神経は相変わらずで、恒例の取っ組み合いをしたら、やはり強かった。気持ちをしっかり持ててれば良い格闘家(に限らずアスリート)に育つと思うのだが(逆に言えばそれを持つのが難しいのだ)。
・ミスチルの桜井が新ユニットを組むらしい(遅い)。ファーストアルバムはカバー集のようで、その中には自らの曲『HERO』や『優しい歌』も含まれるそうだ。僕はこの『HERO』って曲が大好きで。近年J-popの中では五本の指に入る名曲だと思っている。
ヒーロー(英雄)なんてマクロな概念を振りかざし、『例えば誰か一人の命と引き換えに 世界を救えるとして〜』と、世界の救済を詠わんとする壮大な出だしで始まるこの曲。しかし、サビでは『ずっとヒーローでありたい ただ一人 君にとっての』と、えらくミクロな愛に収集してゆくさまが、逆に、どんな世界平和を歌うよりもスケールでかく感じて。例えるなら、世界の中心で愛を叫ばなくても、ホテルの片隅で抱きたいと言えばええじゃねーかって潔さ。
・そうだ。毎度のことだが吉備団子をもって帰ろう。家来になってくれる人おるだろーか。

m-13_30380 at 14:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日記 

September 03, 2004

息子のまなざし

これはカメラを撮る意義やカメラが存在する意味について考察しなければ撮れない劇映画だ。
特徴的なカメラ移動。劇映画というよりはドキュメンタリー的な動きをするカメラは、それの存在を強く観客に意識させる。
ドキュメンタリーの場合、対象との距離関係を見せる意味でも、カメラは意識されて然るべきだ。どこにカメラを構えるかで取材体制が見える(ローポジションからの撮影が主だとするならば、被写体に隠れて撮らざるおえない関係性が浮き彫りにされるように、被写体と取材者がどのような関係性を築いていったのかを観ることができる)。
しかし劇映画の場合、過剰にカメラが主張することはドラマの妨げとなって、好まれることではない。カメラは劇中『居ない』とされる存在だからだ。それが浮き彫りになると、劇の世界観は破綻してしまう。(故黒澤明監督は「登場人物が動かない以上、カメラも動かすな」と言った)
確かにカメラの移動によって生み出される映像の快楽は多々存在する(カメラがまったく動かなくても、スチル写真を羅列で見せられるようでつまらないものだ)。しかし、それに溺れて物語が疎かになるというのは良くある話だ(実験映像的になってしまうというか)。
ならば劇映画においてカメラ移動を上手く取り入れるにはどうすればよいだろうか。おそらく、カメラの動きに映像的な快楽以上の意味を持たせること。それは登場人物の心の流れをカメラの動きが代弁したり、追記したりすることを意味する。時にカメラに感情を持たせて、動かしたりもする。
『息子のまなざし』ではそれらに感動。
原題は『Le Fils』。息子の意。邦題に『まなざし』と加えたのが良かったかどうかはともかく、カメラという或る視線が、映画において重要な働きをしたのは確かだ。
まぁ、単純に慈悲深い物語や、主役のおっさんの演技が好みだったというのもあるのですが。特に主役のおっさんは映画開始20分は、「うなじのどアップだらけで気持ちわりい」と思ったものですが、ラスト頃には、矛盾する感情を内在させる「これぞ人間」っていう心理状態を圧倒的に演じ、尊敬しまくり。
DVDの特典の予告映像を観て、予告(あらすじ)を知らずに映画を観たことは幸運だったと感じた。余計な説明を聞いたら感動が半減していただろう。
BGMは一切使わず、俗っぽい演出(説明)を可能な限り排除した作品なので、色々知ってしまってから観てもなぁ、と。まるで説明しようとしない物語は、半ば推理モノみたいな緊張感があって楽しめました。
ダルデンヌ兄弟の作品を観るのは『ロゼッタ』以来、2回目。思えば『ロゼッタ』も地味ぃーで、骨太な作品で、印象に残っていた。好みの監督なのかも、しれない。

m-13_30380 at 16:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画 

September 02, 2004

直島訪問記

瀬戸内に浮かぶ島々の一つに『直島』がある。東西2キロ、南北5キロ、周囲16キロという決して大きくはない島だが、特徴があって、瀬戸内海有数の観光名所として有名である。
特徴とは、ベネッセが展開するアート活動の一環で、島全体が現代芸術の展示場のようになっていることだ。「瀬戸の風景の中に、時間をかけてアートを作り上げていく」というように、一般の民家に混じって安藤忠雄の建築物が建てられていたり、海水浴場のそばに草間彌生のオブジェが配置されていたりする。それら日常とアートが独特の調和を果たして共存する島。岡山からは宇野港経由でフェリーが出ていてアクセスも非常に便利なので、帰省の際には良く訪れる。今日は今年7月に開館した地中美術館をのぞくため、久々に出向くことにした。
12時のフェリーに乗って、直島に向かう。フェリーの客層は爺ちゃん婆ちゃんだらけ。それもそうだ。平日で、尚且つ新学期も始まっている時分である。こういう時、大学生の休みは便利である。世間様が労働、勉学に励まなければならない時期に余暇をもてあますことが出来る。若干の負い目を感じながら、潮風に吹かれこと数分。直島に着く。
故障した自販機、休業中の定食屋、復旧活動に勤しむ人々…台風16号の痕跡が目に入ってくる。自分たちが出来ることは何もないと開き直るわけじゃあないが、眺めていたってどうしようもないので地中美術館を目指す。
地中美術館は、直島を『現代アートの島』として訪れる人たちにとって『売り』なスポットである。その割、あまり道先案内が出ておらず、結構迷う(案内は出ているが、分かれ道等、肝心な場所でぬけている気がした)。迷った時間はさほどではないけれど、迷った道が、ほぼペーパードライバーである自分には困難極まる場所であった。連れと「あっちだ」「こっちだ」言いながら、やっとこさ地中美術館に辿り着く。
受付。チケットを買うと、諸注意を受ける。
「1000年後まで残すべく、当館は作られております。(中略)作品に手を触れないで下さい。また、お荷物などはこちらの袋に入れて持ち運びください…」1000年後まで残すべく徹底した管理っぷり。作品に手を触れないのは当然として、貴重品はすべて美術館所蔵の白い袋に入れさせられ、大きな荷物はロッカーに預けることは義務付けられる。入館時には「規約に同意するか否か」というサインまで強制される。わざわざサインまでせんでもえーがな……何となくいらついた僕は、これ以上ないチャラ字でサインしてやる。嫌な男である。まぁそれはさておき、きっちりかっちりした管理体制。姿勢としては正しいと思う。アーティストが魂削って作り上げた作品群は守られて然るべき。
そんなこんなで入館。
入館して最初に感じたのは、余白が悠々ともうけられていたこと。作品と作品の感覚がえらく長く、「もっと作品置きゃーええがな」と思ったこと多数。しかし、その余白が地中美術館の個性(イロとでも言うのでしょうか)を醸し出していたことも事実。作品を作品として独立させるよりも「景色の中に作り上げていく」という直島全土で流れるテーゼを汲んだ美術館としてあるのかもしれない。
クロード・モネの絵画が置かれた部屋でそれは顕著だった。絵画が「絵単体を魅せるため」に配置されるのでなく、空間表現の一つとして置かれていた。極論、「モネの絵じゃなくてもいーじゃん」と感じてしまうような空間。事実、モネの絵目当てに来館する一部の人は、モネの絵が軽んじられている!と怒ることもあるそうだ。空間そのものは入った瞬間思わず「ハッ」と息をのんでしまうような雰囲気。モネの絵画以外、何かが飾られているわけじゃないが、自然光に照らされた純白の部屋は、まるで映画のセットのよう。
ちなみに、モネの部屋では前述した「当館は1000年後も残しておく美術館を目指している〜」云々の文句の後、土足厳禁ということでスリッパに履き替えさせられる。隅から隅まで徹底している。あまりの徹底っぷりに各箇所を淡々と案内するナビゲーター(?)のねーちゃん達も心なしか機械的な冷たい娘に見えてくる。
そんなはずはないだろう。女は女だ。俺のギャグで笑わせれないはずがない。鉄面皮な彼女達を意地でも笑わせてやろうと必要以上に絡んでみる(我ながらオヤジっぽい…)。しかし、彼女達は表情をまるで変えず淡々と説明するのみ。一人微笑んだ娘がいたけれど、あまりタイプでない。残念であった。

自分は大してユーモアに富んでもいないのに、人を笑わせないと気がすまない人だ。手段は問わないので、バカにされていてもよい。「笑わせてもいいが、笑われるな」とはよく言ったものだ。残念ながら僕は「笑わすことは出来ないが、笑われている」というやつだ。だから手段を問わない(問えない)。
…自分で書いててむなしくなってきた。話を戻す。

ナビゲーターまで徹底される地中美術館。ここまで徹底していると『管理体制』という一つの作品である…なんて嘯きながら小一時間で美術館を後にする。一度観て損は無い。
その後、何度か鑑賞したことがある作品群を一通り車で廻りながらチンタラ過ごす。島を一回りしても時間にして15,6分。観光地というものの、車は少なく伸び伸びと運転できる。自分のようなヘッポコドライバーに最適の地である。何時間か島に居ると、一度会った人に何度もすれ違う。島の心地よい『狭さ』を実感できる瞬間だ。たまに会釈をしたり、(今回はなかったが)時に会話をしたり。広い地では味わえない妙味である。そんな数年ぶりのドライブを楽しむ(しかも、隣は女性ですよ)。
最後に浜辺置かれた草間彌生のオブジェを観て帰ろうと思ったら、 「アレッ?」 作品がなかった。
なんということか。何時も変わらぬ風に展示されていた巨大なカボチャが(カボチャのオブジェなのです)…!予想されるは台風。恐るべしは大自然。

m-13_30380 at 22:19|PermalinkComments(0)TrackBack(1) 日記 

September 01, 2004

映画鑑賞の日

予定していた用事が消えたので、近所のツタヤでビデオを借りてきた。
借りたのは
『モンティ・パイソン』『ドッグ・ヴィル』『ドッグ・ヴィルの告白』『デッドコースター』『息子のまなざし』である。
今日観たのは
『ドッグ・ヴィル』と『デッドコースター』。
まず、『ドッグ・ヴィル』。久々にキたなぁ。ブリュノ・デュモン監督の『ユマニテ』を観た時に似ている(ユマニテとは人間性の意)。人の儚さというか、愚かさというか、どーしようもなさを痛烈に描いた作品(こんな簡単に言い表していいのかわからないが)。
この作品が特殊なのはセット。黒い舞台に白い線が引かれただけなのだ。一見、戸惑いを覚えてしまうような映像だが、凄く効果的に使われていて、心震わされた。見えるはずのもの(壁や扉)が見えない。それは同時に、見えないはずのもの(心や感情)を観客に見せる働きをなす。あれこれ語りたいが、言葉がついてこない。ともかく、凄かった。
『デッドコースター』は、殺人描写が格好いいと聞いて観た。確かに人の死に方を凄く工夫していたが、それがスタイリッシュすぎたなぁ。あんまり嫌悪感がない。やっぱ死に様はネチネチいや〜に描かないと(見せ場なら余計に)。予告で殆ど見せ場流してたっていう典型的な今時の映画。でも、マクドナルドをほおばりながら90分飽きずに観れました。

m-13_30380 at 03:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 映画