あぶく。

....こえを、だそうとしてみた。

思考は幾度も繰り返す

なんとまあ、三ヶ月ぶりとは。

映画記録も書かなければ、と思いつつさぼってますね。
流行りものでは「サマーウォーズ」と「クリスマスキャロル」を見ました。特に後者はクオリティ高かったです。

以下は最近の政情関係など。長文です。
私の文章はいつも明確な答が出せない……。続きを読む

千歳。

連休中の話。
あ、連休中は伊勢と永平寺に行きました。

金沢の和菓子の老舗、森八の代表銘菓の一つ「千歳」は、古くは「千歳鮓(ちとせすし)」と称し、十六世紀当時の兵糧がもとになったものだという。こしあんに米飴をたき込んだ「千歳あん」を求肥で包んだ上から紅白の和三盆が掛けてある。求肥のせいか和三盆のせいか、何処か独特の風味がある。ちなみに一つ160円ほど。
私の現住所は北陸だが、今は北海道に住む母方の祖父母は元は金沢出身で、金沢の店は周囲に多い。きっと懐かしかろうと母が言うので、送ることにした。敬老の日である。店頭でも丁度この菓子を推していて、もしかして母は全て分かった上でやっていたのだろうかと訝ったが、多分それは邪推のし過ぎというものだろう。
ふわりと真ん中の摘み上げられた菓子の形は、富士の山形を模しているのだそうだ。紅白の和三盆、千歳という名称からしてもめでたいときのお菓子という位置付けらしい。兵糧だったものが随分出世したものだと思う。
折しもインターネットでは、此処最近葬儀をいらないという人が増えているというニュースが話題になっている頃だった。
そういえば昔は自然葬に憧れたなあと思いつつ、いざ一人になったら途方に暮れるだろうとも思う。自分は存外弱くて平凡なものだなあと一人暮らしをして思った。誰だって何時かは一人になると思っていたけれど、そんなものは物の数でもなかった。大人になったそれだけで楽になることなんか幾つも無い。きっと最期の瞬間まで。後悔しないよう、淡々と、けれどしたいように日々を過ごしたいと昔から思っているけれど、それは思っていた以上に難しいことだったらしい。他人のことなんかどうでも言いと言えたのは、別の誰かがその部分を担っているから言える話だと気付いてから良くも悪くも臆病になった気がする。かつて大したことないと思い切り捨ていたことは存外重かったり大変だったりするのだと。
後悔しないよう。
そう思いながら、ですます調の敬語になった、祖母の電話に耳を澄ませる。こうして耳を澄ませられる程度には、自分はかつて心配したように冷血でも無い、平凡な感性の持ち主であったらしい、そう思いながら。

見送ること、見送られること。何時か自分も消えていく。
その時周りには誰がいるのだろう、と思う。

そういうことか。

春に見た野田秀樹のパイパーには「ベジタリアンの虐殺」という、馬鹿馬鹿しいがゆえにグロテスクな争いが出てくるのですが、とある文章を読んでいて、それが宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」に題を取っていたのではないか、とふと気付きました。
語り手は菜食主義者たちの集会に参加してきた経験を聞き手に話し出す。菜食主義者のためのはずの大祭には反ビジテリアンの異教徒たちも紛れ込んでおり、ビラや壇上の演説で菜食主義を論難しはじめたのだという。義憤にかられた菜食主義者の語り手は論戦に加わり、反ビジテリアンの博士の主張を、見事論破する。しかし言い負かされた異教徒の博士は、もともと大祭を盛り上げるためアンチ菜食主義を演じていただけで、実は自身もビジテリアンの一員だと明かされる……。
パイパーの「ベジタリアンの虐殺」例えば宗教のような本人たちにとって見れば至って真剣な、しかし外から見ればいっそこっけいにすら見えてしまう「概念」に関する論戦で人が戦い死んで行く、その暗喩として非常に上手い、グロテスクな描写(そもそも食というのが極めて切実だし、争われているのはそれは食べる対象か、食べてはならぬ禁忌のものかというところ)だなと思ったのですが、その背景に、「言い負かされた異教徒の博士は、もともと大祭を盛り上げるためアンチ菜食主義を演じていただけで、実は自身もビジテリアンの一員だった」という設定の物語があるのだとしたらと、そう考えてぞっとしました。これだから野田秀樹の舞台は深いんだ。
(元ネタ集とかあったら是非とも読んでみたいものですが、絶対出ないだろうなあ……)

黒い雨

何だかまた間が空いてしまいました……。
ライブドアの仕様が随分変わっていて、ちょっとびっくりです。
読書記録は今読書メーターでも書いているので、何だかごっちゃになってきました。どうしようかなあ。取り敢えず映画はこちらに記録するつもりです。
ついでにデザインも変えてみました。タイトル通りということで。

見た映画:
ラ・ボエーム
エルミタージュ幻想
MILK
THIS IS ENGLAND


以下は昨日(8月6日)のニュースを見て思ったこと等。
諸事情(いわゆるオタク的な(爆))により歴史は色々と勉強しているのですが、つくづく己の無知を痛感します。難しいなあ。続きを読む

君の首を絞める夢を見た

映画:
シェルブールの雨傘(デジタルリマスター版)
PARIS

劇:
蜻蛉峠
ラ・マンチャの男

本:
英国大蔵省から見た日本
その夏の今は・夢の中での日常
欲望という名の電車
1950年のバックトス
戦争の世紀を超えて―その場所で語




近所のミニシアターはフランス映画特集でもしているのか、期せずしてフランス絡みの映画を連続で見ることとなりました。
シェルブールの雨傘はミュージカル映画、という程度の知識で見に行ったので、正直最初ちょっと驚きました。見慣れているブロードウェイ式のミュージカル、では無いのですね。歌の塊を積み上げて物語を構成するそれに対し、全台詞(それこそ郵便屋への挨拶すら)を音に乗せて歌うのはフランス語という言語故に可能なやり方なのか。
ミュージカルなのでいわゆる「説明台詞」ばかりなのですが、にも関わらず長い年月のそれぞれの人物の心情の描かれ方に物凄い説得力があるのは何故なんだろう、と思ったり。側にいない恋人よりも近くにいたお金持ちの男の元へ嫁ぐヒロインと、何も言わず男の側にいるマドレーヌと、どちらに感情移入するかは個々人の性格が出そうな気がします。
それにしてもカトリーヌ・ドヌーブは愛らしい。17歳、というのに当初ちょっと驚きましたが(欧米の人って年上に見えるので。ていうかこれまた某ミュージカル映画の、温室で恋人と白いドレスで踊る少女と同年代なのかと気付いた時はちょっとショックでした)ガレット・デ・ロワの金の紙で出来た王冠を被った、マリアのようだと称された顔は殆ど左右対称でびっくりしました。

蜻蛉峠は念願の劇団新感線の作品。大阪旅行にかこつけて。
のっけからにわとり(というか軍鶏)コントで始まった時には、もしや自分は何か大いなる勘違いをしてるか選択を間違えたのかと思いましたが、休憩が終わって後半に入ってからの怒涛なまでの悲劇の展開はお見事、の一言。後で気付いたのですが脚本がクドカンで、ああだからか、と妙に納得しました。てことはいのうえひでのりだとまたちょっと違うんでしょうか。クドカン作品については「流星の絆」を飛び飛びに見た位しかないのですが、ギャグとシリアスの畳み掛け方は共通するものがある気がしました。
メタ的な視点としては映像や音楽の使い方が派手で格好良いので、演劇に慣れてない人に紹介するには良い劇団だな、という気がします。
記憶を失った男の内側に抱えた虚のようなもの、不毛な争い、誰も彼もが死んでいく世界。……シェイクスピアだなあ。

その夏の今は・夢の中での日常は、旅行で行った奄美絡みで。
特攻隊として出撃を待つという過酷な状態よりも、そうした過酷な状況下で出あった恋人とやがて険悪な状態になり「死の棘」(読んだことないですが)に至るということの方がよほど怖いなと思いました。人間って分からないなあ。
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