2007年01月26日

悪意

勉強会と称してやってくるもと同僚らとか、
値段を執拗に値切るお客とか、
しつこく埒の明かないことを聞いてくるお客、
TELでキリなくなんでも聞いてくる知り合い、
ネズミコウ的な物品を進める人とか、
宗教の勧誘とか、
時間を束縛される家事の源である家族とか、
この人は、わたしに何をもとめているのか、
何が目的でわたしに近づいてくるのか、と
しばしば思い巡らせは、ありもしない「敵像」をまざまざと思い浮かべ
心を敵意にまみれさせている。

意外に人は何も考えてはいない。
ただ本能で、ケチケチし、自分を大切にし、
その自分の行為が、相手をどのようなの気持ちにさせるのかに
思いが及ばないだけなのだ。
嫌な思いをさせられたり、好ましくないことを要求されたら、
言葉というものがあるので、断ればよい。
そうすれば、気づき、それ以上に求めることは無い。
世の人の目的はその程度のこと。
わたしがすぐに想像してしまうような悪意などは毛頭ない。
他人の気持ちに、気づかないだけなのだ。
NOが言えないような育ち方をしてしまった人間が
被害妄想になる原因とストーリーが見えた気がする。

嫌と感じることは、躊躇わずに断る。
そこに立派な理由なんかいらない。
それくらいのことで、世界から見捨てられることは無い。
人は、最低限、自分を守る本能的な感性を与えられている。
それをもとに他とはコミュニケーションでもって、
それぞれの自分を守りたい気持ちとの調整をするのだから。

心の平安を保つために、憎悪やら憤りやらを持ちたくない。
けど、積極的に他の人を愛することができるためには
自分を大切に感じ、守りたい自我も、まずは当然のものとして
抵抗無く受け入れることも必要なのかも。
その上で、できれば自分、自分、自分と凝り固まらず
宇宙の中の一瞬を請け負っている物質体である自覚のもとに
美しく生きられたらいい。

他の人の醜さを嫌わないように。
自分の醜さも排除しようとしないように。
静かに本当のところを見据え見極めるように。


m-33_86721 at 09:53│Comments(0)TrackBack(0)徒然 

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