ねこたろぐ

先週の金曜日、教会にミサに行ったら、「ちょっとちょっと…」と呼ばれて香部屋に行くと、とんでもないものを見せられました。
それは、クリスマスに飾る大きなプレゼピオの幼子イエス様…なんと左手人差し指がない!「折れた指はどうしたの?」と聞くと「失くなった…紙粘土かなんかで作ってくっつけてくれない?」
というわけで、翌日の死者の日のミサには車で教会に行き、ちょうど生まれたばかりの赤ちゃんくらいのボリュームのイエス様像を持ち帰りました。
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ね、指がない…

どうやって指を作るかな、と考えながら折れた断面を見ると、そうかダイキャストで出来ているのか、それならプラキャストで作ってつなぐのが良かろうと判断しました。
それでは、と無事な右手の人差し指をシリコンゴムで型取りしました。
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待つこと1時間半。
そして型に流し込むプラキャストを準備して流し込みました。画像1


放置すること一晩。
そして指ができました!
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いよいよ接続です。本体と指の断面を紙やすりでザラザラにしておいて、エポキシ樹脂をつかって角度に気をつけて接続しました。エポキシ樹脂は多めに盛って手と指の角度を調整しました。
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放置すること丸一日。完全に固まって乾かないと仕上げのヤスリがけができないからです。
日にち変わって、接続したところをなだらかにするために、細かい紙ヤスリでスリスリ…そして着彩して出来上がり!
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ああ、良かった! 壊れている物を見るとたちどころに修理したくなるのです…

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NCK信徒養成講座 
第2講話 「祈りの啓示」・・・聖書における祈り・・・④
 中川道博神父(カルメル修道会)

Ⅱ 神を探し求める人間(カトリック教会のカテキズム2566)

⒌ 日常性を離れること(祈り)と創造の完成
 聴く時間を持つ → 人生の完成に向かって(創世記2:1~3)
・「聖別する」:「神のために別にして取っておくこと」
・「七日目の完成」と「七日目の安息」が深く結びついている
・「離れる:シャーバト」と「安息:シャッバート」はヘブライ語において同じ語源
・「休む」とは「仕事を離れ、やめること」⇒神のために時間を別に取っておくこと
・一切の仕事を「やめる」ことと、仕事の完成が結びついている
・のべつ幕無しに働き続けて仕事は真実の完成を迎えるのではなく、仕事(日常性)を離れて、神と共なる視点でそれを概観できる視点を持つことの必要
・聴くことの難しさ:聴き逃してはならない存在の奥底かたの響きを聴くことのできる耳を養う必要
※創造の完成と仕事を離れて安息することは切り離せません。神と共に七日ごとに生活を見直し、神に聴き祈る時間が人間には必要なのです。

⒍ 聴く場所 = それぞれの人が持つ内面の世界の広がり
 「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:5~8)
 国連の瞑想室:《外界の感覚の静寂さと、内面の感覚の平穏さのために捧げられ、そこでは、部屋の戸は思索と無限の国に開かれうる。》(ハマーショルド「道しるべ」より)

【参考資料】
V.E.フランクル著「夜と霧」(みすず書房)
8章「絶望の闘い」より
 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、その生活において何の目標も認めない人は哀れである。彼の存在は彼から消えてしまうのである。そして同時に頑張り通す何らかの意義もなくなってしまうのである。このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼らの典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」
 これに対して人はいかに答えるべきであろうか。
 ここで必要なのは生命(人生)の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何を我々はまだ期待でいるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何を我々から期待しているのかが問題なのである。そのことを我々は学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると言えよう。すなわち我々が人生の意味を問うのではなく、我々自身が問われた者として体験されるのである。人生は我々に毎日毎時と意を提出し、我々はその問いに、詮索や口先だけではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の努めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

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NCK信徒養成講座 
第2講話 「祈りの啓示」・・・聖書における祈り・・・③
 中川道博神父(カルメル修道会)

Ⅱ 神を探し求める人間(カトリック教会のカテキズム2566)

⒋  「イエス」に聴くこと
 「イエス」の名に流れ込む神の人間への関わりの本質

⑴ 神が自らの名を名乗る(c.f.出エジプト記3:4)(カトリック教会のカテキズム2574~2577)

 ①問題性の中の人間に身をかがめる神
 ・人間の苦しみに共感する神 ⇔ 降りて来て人々を抱きかかえ解放へと導き上る神(出3:7~10)
 出エジプトに記された、エジプトにおけるヘブライ人男児の殺害は、当時の傷ついた社会を物語っています。現代の日本社会も同じように傷ついています。日本では戦後 7300万人の子どもが中絶され、生まれることを拒否されています。
 ・殺人、逃亡、民族から離れて生きたモーセに語りかける神(主3:12)「わたしは必ずあなたとともにいる」。モーセにイスラエルの民をエジプトから導き出しなさいと神は言われましたが、モーセはとても自分にできる事ではないと言いました。誰も自分の言うことなど信じないし、民を先導する話術も力もないと本心を言うと、神は「必ずわたしが助ける」と力づけます。神は人を使命に遣わす時、その使命を果たすために神ご自身が共に行ってくださいます。

 ②自らの名前を名乗る(自らの関わりの本質を現す)神:「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3:14)
 ここは、旧約聖書中、神が自らの名を名乗る唯一の箇所です。モーセが民にあなたの名前を尋ねられたら何と言いましょうか、と尋ねると神は「『わたしはある。わたしはあるという者だ』と答えなさい。」と教えられました。
a) 聖書の中の“名前”=「その人格への窓口」としての意味を持つ⇔その“存在の本質”を現す。
b) 英語翻訳 "I am who I am" 「わたしはある」=be動詞1人称単数
c) ヘブライ語のbe動詞は「存在する」と同時に使役動詞として「存在させる」の意味を持つ。
e) 現代語訳の潮流:「わたしはあなたの人生に実在する者だ」/「わたしはいるのだ。確かにいるのだ」
f) 12節「私は必ずあなたとともにいる」⇒この言葉が持つ体験的意味を探す
 以上のことから、神の名は「わたしはある。わたしはあるという者だ」「わたしはあなたに存在を与えて一緒にいる者だ」ということが分かります。

⑵ 「私は間ならずあなたとともにいる」という受容をとおして、「孤立という恐れ」という問題性に関わる神

 ①旧約聖書における神の名YHWH = (he is) 彼はいる(「わたしはある」の3人称形)
 旧約聖書には6800回以上の頻度で「YHWH」神の名が使われています。このことから、旧約聖書は「神の名の啓示の書」であることが分かります。また、「わたしはあなたとともにいる」という表現は100回以上出てきますが、そのほとんどは歴史書に出てきます。
e.g.イザヤ43:1~5 歴史体験としての「あなたとともにいる」神なのです。

 ②「イエス」=「YHWHは救う」という意味(カトリック教会のカテキズム2665~2669)
 ルカ1:31 「その子を『イエス』と名付けなさい。」「神は救う」という名を持っていることは、「自らの関わりの本質を表す」神の意志をも表しています。YHWH <彼は在る>は救う(神は救う)という名である「イエス」が私たちの間に人として住まわれ、人々を罪から解放し救う「あがないの業」を行ってくださいました。 

⑶ 問題性から脱出の象徴としての「過越祭」(出エジプト記12:1~28)⇒感謝の祭儀
 過越祭で屠られ食べられる「小羊」は、神の人間への同伴の象徴です。禍の究極としての「死」を免れるために、小羊の血を鴨居と二本の柱に塗ります。そのしるしのある家には禍が過ぎ越すという約束を神が結んでくださったのです。イスラエルの民は、困難な問題性からの脱出を「小羊」に伴われて、小羊の肉を食べその力に支えられて果たしていきます。死が(イスラエルの民の上を)過ぎ越していった出来事の記念は、問題性からの脱出の記念です。小羊の血のおかげで、イスラエルの民はエジプト全土のすべての初子を打った死を免れ、小羊の肉を食べさせていただいて、その力に支えられて脱出の道を歩むです。

⑷ 現代の過越祭:食べられるものとなった方イエスを受け入れる
 「わたしは必ずあなたとともにいる」と言われる方が「食べ物」そのものになってくださいます。聖体の秘儀の中から見えてくるイエスの関わりの本質は、自らを引き裂き食べる者に自らのいのちを与え続ける十字架の神秘です。イエスの体を裂き、十字架を眺めるたびに、私たちは「神を死に追いやり、愛を生きることのできない私たちの罪の現実」と、「自らを死に追いやる者のために、自らのいのちを注ぎ続けるイエスの私たちへの関わり」を見ます。そこには、罪の真只中にあってさえも私たちを孤独の中に放置背ぅ、「わたしは必ずあなたとともにいる」と関わるお方の、命がけの決意と関わりがあるのです。
 2000年の歴史の中で、私たちにミサを通して自らを与え、食べさせ、出会おうとするのが「神の小羊」イエス・キリストです。

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