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若手写真家の新納翔氏がtwitterでつぶやいた言葉があまりにも醜く、そして自分の心をささくれ立たせたので、気持ちの整理をかねて思うところをまとめた。

まず、きっかけになったつぶやきはこれ。




写真の楽しさや喜びを表明している写真家は少なくないし、その中には優れた業績を残している写真家もいる。別に新納氏が信じようが信じまいが、写真楽しいですと語る写真家たちは気にしないだろうし、楽しみはそれぞれだから「新納氏に【写真を楽しんでいること】を信じてもらえなくてもかまわない」が、もし「人間性を信じない」という意味が含まれているなら、それはいささか穏やかならざる発言であろう。

たかがtwitterのつぶやきだし、考えすぎかもしれない。しかし、星海社代表取締役副社長COOである太田克史氏が同じくtwitterでつぶやいた、以下の言葉とあわせるなら、それが考えすぎとは言いがたいなにかを秘めているようにも思えてくる…




この言葉そのものについては、あえて感想や意見を持つまいと思っている。ただ、自分は【自己の実体験とは無関係】に、朝まで泣きながら仕事をがんばったことなどこれまで全く無いと「公式に表明」しておく。また、もしも不幸にしてこれからの人生でそのような事態に至ったとしても、それを「外部に表明することは無い」と断言する。なぜなら、作家が作品を生み出す上でいかなる努力を重ねようが、あるいは犠牲を払おうが、作品の評価とは無関係だし、もしも「作家の努力や犠牲によって作品の評価が左右される」のであれば、その評価は【誤っている】からだ。

さて、自分が個人的に醜いと感じたのは、新納氏が写真を楽しんでいること、さらに言うなら写真の楽しみを信用しないことだ。そして、もしも新納氏のつぶやきに「写真楽しいですなんていってる人は【人間として】信じない(カッコ内は筆者の追記)」との意も含まれているのであれば、それはもはや醜さをはるかに超えた痛ましさ、人間性の貧しさを放つといえよう。

しかし、若い写真家がそのように感じ、発言してしまう背景には、作家的写真と言う世界の閉ざされた状況が存在する。

この状況を要領よくまとめたブログエントリ‐ユーレカの日々[19]「デザインはなぜ無報酬とされたのか」‐がある。

ブログから一部引用しよう。

実際、写真がそうだった。その昔、プロが撮った写真は「ピントがあってる」「露出が適正で立体的に見える」から、対価を支払うだけの価値があった。やがてカメラが進化し、ピント、露出はもちろん、逆光や顔を検知して「適正な写真」を撮影し、しかもその場でプレビューできる時代になった。大きな失敗がなければ、失敗をしないプロに頼む理由は無くなる。

そうやってデザインにしろ、イラストにしろ、写真にしろ、「だれにでもできる」ことになってしまい、それに対する対価というものがどんどん低くなってしまった。


〜中略〜

芸術も実はこれと同じだ。すぐれた作品を作る人たちだから、その人に対してお金が支払われる。作品、という物質は、スポーツの試合と同じで、単なるその「証拠」にすぎない。



定義しよう。

芸術もスポーツも、自発的な行為であり、「本来それで対価を得られるものではない」のだ。一部の優れた行為者だけが、その人に対しての対価を世間から得ることができるのだ。


斜体は引用

新納氏は作家的写真、つまり「芸術としての写真」を手がけておられる作家だ。しかし、残念ながら日本においては作家的写真に対する世間一般の関心は低く、作品が【作家的写真世界の外】で目に触れる機会も非常に限られている。そればかりか、多くの人々は「作家的写真の巧拙、良し悪しを判断できない」ため、作家として「自らが優れた行為者であること」を示すとなると、作品だけでは「不十分」と言わざるを得ない現状が存在する。
新納氏のプロフィールには講師や編集者としての肩書き、展示出品や出版に関する情報、そして作家同士のつながりなどが列挙されているが、それは作家自身が自らを権威付けし、同時に作家人脈による「作家自身の権威と作家的能力の保証」を意味している。

そして、作家自身の権威付けと「作家人脈における作家的能力および権威の保証」は、作家として苦労している、つまり「楽をしていない、楽しんでいない」事のアピールによって「より強化される」のだ。

なぜなら…




流石に「成果を出せない」とはあまりにも不穏当だが、しかしながら「成果を判定できる人がいない」という状況においては、やはり「努力という名の犠牲」をアピールするのがもっとも手っ取り早い解決となってしまう…

犠牲をアピールするという「仕組み」がどのような思考過程から成立し、かつ有効性を発揮するのかについては、エントリ末尾のまとめを参照していただければご理解いただけると思う。

さておき、成果ではなく「犠牲」をアピールしなければ理解を得られないとなると、行為、この場合は写真を「楽しんでいる人」を排除する圧力が発生するのは自然なことと言える。作品の優劣が判断できない鑑賞者は、作家の努力、つまり犠牲によって判断する。そして、そうなると作家は内心で写真を楽しんでいたとしても、そのことは公に表明できなくなる。さらに、公に「写真を楽しんでいる」と表明するウカツな作家は、ある種の「裏切り者」として指弾の対象となりえるのだ…

出版社と言う組織の幹部であり、さらに編集長として部下を指揮する立場の人間が「がんばらない(犠牲を払わない)人間は信用しないし軽蔑する」と発言しても、それには自ずと組織の規律維持という意味合いも含まれてくるので、部外の人間にとっては軽々しく論評できない部分も無くはない。しかし、個々に独立した存在であるはずの作家が、制作(この場合は写真)の楽しみを表明することに対して不信の念を表明してしまうことの醜さ、寒々しさは、なかなか言葉にしにくいものすらある。

若い写真家が「写真の楽しみを表明する他者を信用しない、出来ない」という状況は奴隷的と言えるし、またそういう心情を公言するのは「奴隷の鎖自慢」といえないだろうか?

同情を禁じえない…

写真を楽しんでいることをおおらかに、そしてなんのてらいも無く公言できる世の中に、そして写真家が「作品によって評価される」世の中になってほしいと、自分は心から願っている。