教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Kluge Leute koennen sich dumm stellen. Das Gegenteil ist schwieriger. (Kurt Tucholsky)

賢人は愚者のふりができるが、逆は難しい。


なかはしm_nakahashi  at 17:11  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

『存在の呪縛』合評会

 神戸学院大学の松井吉康先生の著書『存在の呪縛』(晃洋書房)の合評会を行ないます。予約など不要ですので、ご関心がある方はお越しください。

 日時:3月8日(金)15:00〜17:00
 場所:電気通信大学東1号館7階会議室(705)
 特定質問者:丸山栄治さん(神戸大学院生)



なかはしm_nakahashi  at 18:33  |  この記事をクリップ! その他  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Man muss zeitlebens so sehen koennen, wie man als Kind die Welt sah. (Henri Matisse)

ひとは、一生のあいだ、子どものときの視線で、世界を見ることができなければならない。


なかはしm_nakahashi  at 14:51  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Du bist nicht fuer das Universum verantwortlich: du bist verantwortlich fuer dich selbst. (Arnold Bennet)

君は宇宙には責任がない。君自身には責任がある。


なかはしm_nakahashi  at 08:34  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

独語ゼミ

 毎週、水曜日16:15から独語ゼミを開いています。対象者は、電気通信大学の新2年生以上の希望者です。希望者は、レポートに追われていないときに来てください。来たときは、話してください。集合場所は、東1号館8階です。

なかはしm_nakahashi  at 07:39  |  この記事をクリップ! その他  

次回(3月9日)の公開講座

 2月9日の公開講座をお休みされたみなさまへ

 次回は、11月17日にお配りしたプリント第8頁の第2段落(第11行目)から始まります。(新年度は第7節から始める予定です。第1回目の4月6日には、第6節までのまとめを行なう予定です。)

 ‘媛髻Σ鮴癲15:30-17:00
  質問その他 17:05-18:00

 教室    A302

 なお、公開講座の受講登録をしていないが、受講しても構わないかとの問い合わせをいただきましたが、希望者は、特に事前に連絡することなく、いつでもいらしてください。教室にはまだ余裕があります。

なかはしm_nakahashi  at 15:06  |  この記事をクリップ! 公開講座  

ハイデガー研究会

 次回のハイデガー研究会は、以下のようになります。ご関心がある方はご連絡ください。

日時:2019年4月14日(日)13時より

場所:神戸学生青年センター 部屋C(公益財団法人 神戸学生青年センター 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 078-851-2760 078-821-5878)

テクスト:“Der Ursprung des Kunstwerkes” (単行本)の48ページの真ん中あたりの段落、”An welchem Leitfaden, wenn nicht an dem des Handwerks, sollen wir dann das Wesen des Schaffens denken?”から。

 ご関心があれば、右のKontaktのリンク先に記されたメイルアドレスからご連絡ください。

なかはしm_nakahashi  at 10:39  |  この記事をクリップ! その他  

『へんな論文』

 サンキュータツオさんという芸人さんの本。「へんな論文」を紹介することで、研究者がいかなる生態を有しているかを紹介している。「へんな論文」の紹介だけあって、面白おかしく書かれているし、今年読んだ本の中で最も面白いが、それほどふざけたものではなく、王道を突き進んだがゆえに「へんな論文」を執筆してしまった研究者たちが紹介されている(と言っていいだろう)。論文は、査読に通すため書くわけでも、頼まれたから書くわけでもなく、気になったことをとことん突き詰めた成果であることを、思い出させてくれる良書です。研究というものに関心がある人々にお勧めします。大学生なら、関心がなくても、お勧めします。



なかはしm_nakahashi  at 22:39  |  この記事をクリップ!   

SZ330

Die Frage ist nicht, was ≫in einer weitergehenden Zeit≪ noch alles geschehen und was fuer ein Auf-sich-Zukommen-lassen ≫aus dieser Zeit≪ begegnen kann, sondern wie das Auf-sich-Zukommen selbst als solches urspruenglich bestimmt ist.
 ここは次のように訳されている(強調はわたしによるもの)。
問は、一体何が「更に進行する時間の内で」なおすべてが起こり得るかとか、〈それ自身を〉自己−へ−将来−せしめることにとって「このような〈すなわち更に進行する〉時間の内から」何が出会われ得るかということではなくして、自己−へ−将来することそれ自身がそういうこととして根源的に如何に規定されているかということである。(創文社)

問題は、「さらに先にすすんでゆく時間のなかで」なおもいったいなにが生起しうるのか、ではない。「このような時間から」じぶんへ到来させることに対して、なにが出会われることができるのか、でもない。問題は、じぶんへ到来させること自身がそのものとして、根源的にどのように規定されているのか、なのである。(新岩波文庫)

問題は、《進行しつづける時間のなかで》これからいったいどういうことが起こり、到来の出迎えにとって《この時間のなかから》どういうことが出現してくるであろうかということではない。おのれへ向来することそのものが、もともと根源的にいかなる性格のものなのか、ということなのである。(ちくま学芸文庫)

問題は、「さらに先へと進んでゆく時間のうちで」なおもいったい何が生起しうるのかとか、また「このような時間のうちから」おのれへと向かって到来させることにとっては何が出会われうるのかということではなく、おのれへと向かって到来すること自身がそのようなものとしてどのように根源的に規定されているのかということなのである。(中公クラシックス)

問題は、この先「時間がさらに進んでいくとその中で」いったい何がなお起こりうるのか、自分のほうへ迫って来させる側から見て「時間の中から」何が立ち現われてくるのか、といったことではなく、この、自分のほうへ迫り来るということそのものがそれ自体として根源的にはどういったことなのか、である。(作品社)
 問題にしたいのは、うえで強調した部分である。うえの訳者たちは、fuerを「〜にとって」などと訳している。これは、begegnen「出会われる」との繋がりを考えてのことであろう。だが、このような意味であるなら、begegnenは3格の名詞を伴わなくてはならない(「(3格)に出会われる」)。それより、ここでは、fuerがwas fuer einのなかで使われていることが気にならなかったのであろうか。
 was fuer einは英語のwhat kind ofに当たる(「どのような種類の」)。ここで問題になっているのは、「どのような種類のAuf-sich-Zukommen-lassenか」ではなく、「das Auf-sich-Zukommen selbst als solches」(「das Auf-sich-Zukommenそれ自身がそのものとして」)であるというのがうえの文で言われていることである。うえの訳者たちは、was fuer einのみならず、直後のイタリックの強調(対比)まで無視している。
 因みに、英訳では、was fuer einはきちんとwhat kind ofと訳されている(ここも強調はわたし)。
The question is not how many things can still occur "in a time that goes on," or about what kind of a "letting-come-toward-oneself" we can encounter "out of this time," but about how the coming-toward-onself itself is to be primordially determined as such. (translated by Joan Stambaugh)

The question is not about everything that still can happen 'in a time that goes on', or about what kind of letting-come-towards-oneself we can encounter 'out of this time', but about how "coming-towards-oneself" is, as such, to be primordially defined. (translated by John Macquarrie & Edward Robinson)
 わたしが参照した翻訳のうち、この点で誤りがないのは、次の二つだけである(とはいえ、ここのallesを「すべて」と訳すとは、後者は「画期的」である)。
問題は、『さらに続行する時間のうち』ではおよそなお何事が生起しうるかとか、『かかる時間のうちから』は「自己へ向って到来させる」どのような事態が出会われうるか、というような事ではなくて、「自己へ向って到来すること」そのことがそれ自体どうして根源的規定であるのか、という事である。(勁草書房)

問題は、いったい「ひき続いて流れる時間のなかで」なおすべてが生じ、したがってどのような〈自分=に=到来=させること〉が、「このような時間」から出会うことができるかでなくて、自分に到来することそれがそれとして根源的に、どのように規定されているか、ということです。(旧岩波文庫)
 なお、ここでは説明しないが、Auf-sich-Zukommen-lassenに含まれるkommenを「来る」と訳すのは、間違いである。kommenは英語のcomeと同様に「来る」に制限されるものではない。ここでは「行く」である。これは、「auf sich zukommen lassen」が通常の用法で「成り行きに任せる」であることとも符合する。
 いまのところ、うえの文は次のように訳しておきたい(強調は原文に即したもの)。
問われているのは、「先へ進んでいく時間のなかで」さらにいったい何が生じうるかではない。いかなる「自己へ向かって近づいて行くことの受けいれ」が「先へ進んでいく時間から」われわれに接してくることができるかでもない。「自己へ向かって近づいて行くということ」それ自身がそのものとして根元規定であるのがなぜかである。


なかはしm_nakahashi  at 09:39  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Das Amt des Dichters ist nicht das Zeigen der Wege, sondern vor allem das Wecken der Sehnsucht. (Hermann Hesse)

詩人の仕事は道を示すことにあるのではない。なによりもまず、憧憬の念を呼びおこすことにあるのだ。


なかはしm_nakahashi  at 17:15  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Wer die Sterne fragt, was er tun soll, ist gewiss nicht klar ueber das, was zu tun ist. (Goethe)

自分は何をすべきかと星に尋ねる者は、間違いなく、何をなすべきかを理解していない。


なかはしm_nakahashi  at 07:08  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Wir arbeiten um der Arbeit willen, weil uns das Talent zum Glueck fehlt. (Friedrich Sieburg)

われわれが働くために働くのは、幸せになるための能力が欠けているためである。


なかはしm_nakahashi  at 20:06  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Es ist so gewiss als wunderbar, dass Wahrheit und Irrtum aus einer Quelle entstehen; deswegen man oft dem Irrtum nicht schaden darf, weil man zugleich der Wahrheit schadet. (Goethe)

真理と誤りが同一の源泉に発するのは、不思議であるが、確かである。それゆえ、誤りをぞんざいにしてはならぬことが多い。それは同時に真理を傷つけるからである。


なかはしm_nakahashi  at 15:32  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Nicht die Politik verdirbt den Charakter, sondern ein verdorbener Charakter verdirbt die Politik. (Julius Raab)

政治が人格をだめにするのではない。だめな人格が政治をだめにするのである。


なかはしm_nakahashi  at 17:48  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Wir brauchen viele Jahre bis wir verstehen, wie kostbar Augenblicke sein koennen. (Ernst Ferstl)

一瞬一瞬がいかに貴重であるかを理解するのに、われわれは長い年月を必要とする。


なかはしm_nakahashi  at 04:16  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Lesen ist ein blosses Surrogat des eigenen Denkens. (Schopenhauer)

読書は自分で考えることの代わりにしかならない。


なかはしm_nakahashi  at 13:27  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Es ist nie zu spaet, das zu werden, was man haette sein koennen. (George Eliot)

なりえた自分になるのに、遅すぎるということはない。


なかはしm_nakahashi  at 15:26  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書に使えない例文

Drei Dinge passieren einem im Alter: Zuerst schwindet das Gedaechtnis. Die beiden anderen Sachen habe ich vergessen. (Lord Denis Healey)

年をとると3つのことが起こる。まず、記憶がなくなる。あとの2つは忘れた。


なかはしm_nakahashi  at 06:57  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

『存在の呪縛』

 神戸学院大学の松井吉康先生から本をいただきました。ありがとうございます。

 本の帯に「哲学のすべての歴史への挑戦」とあるように、そして、「あとがき」に「私は、哲学のすべての歴史を相手にしようとしている」とあるように、この本は、哲学に関わる者すべてに対する宣戦布告の書となっています。そして、論理でこの本の主張に論駁を加えることは困難なように思われます(すくなくとも、いまのわたしにはできない)。

 ただ、この書に含まれる松井先生の主張は、これまでのところ、次のような状態にあります。
わたしのすべての著作は釣針となった。おそらくわたしは誰にもおとらず釣を心得ているのではなかろうか? 何も釣れなかった、がそれはわたしのせいではない。魚がいなかったのだ。(ニーチェ)
 松井先生の釣針に食いつく、いや、釣針から餌をもぎとる魚はいないのでしょうか。松井先生は、そのような読者を求めています(平易な文体は、哲学研究者以外の読者を拒むものではありません)。



なかはしm_nakahashi  at 18:59  |  この記事をクリップ!   

教科書に使えない例文

Ein Mann, der liebt, vergisst sich selbst. Eine Frau, die liebt, vergisst die andern Frauen. (Daphne du Maurier)

恋する男は自分自身のことを忘れている。恋する女は他の女のことを忘れている。


なかはしm_nakahashi  at 10:35  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Gott sei Dank bin ich Atheist. (Max Boehm)

ああ、よかった。神のおかげか、僕は無神論者なのだ。


なかはしm_nakahashi  at 17:32  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Der Mensch ist weder Engel noch Tier, und das Unglueck will es, dass, wer einen Engel aus ihm machen will, ein Tier aus ihm macht. (Pascal)

人間は天使でも野獣でもない。そして、不幸なことに、人間を天使にしようとする者は、人間を野獣にしてしまうのである。


なかはしm_nakahashi  at 14:35  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Wer das Hohe eines Menschen nicht sehen will, blickt um so schaerfer nach dem, was niedrig und Vordergund an ihm ist --- verraeth sich selbst damit. (Nietzsche)

他人の品位を見ようとしない者は、その分、他人の下品さや、うわべに目を向ける――そうすることで自分自身の正体を暴露してしまうのである。


なかはしm_nakahashi  at 10:57  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

教科書未使用の例文(使用するときは削除します。)

Es gibt mehr Leute, die kapitulieren, als solche, die scheitern. (Henry Ford)

失敗する人よりあきらめる人の方が多い。


なかはしm_nakahashi  at 17:34  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

SZ365

Mit dem faktischen Da-sein ist je im Horizont der Zukunft je ein Seinkoennen entworfen, im Horizont der Gewesenheit das ≫Schon sein≪ erschlossen und im Horizont der Gegenwart Besorgtes entdeckt.
 中公の翻訳。
現にそこに開示されている現事実的な現存在とともに、そのつど到来の地平においては、そのつどなんらかの存在しうることが企投されており、既在性の図式においては、「すでに存在している」が開示されており、現在の地平においては、配慮的に気遣われたものが暴露されている。
 せめて、和文にしたときに、この「そのつど」が気にならなかったのでしょうか。この文の前者のjeは、「Zukunftの地平、Gewesenheitの地平、Gegenwartの地平の『それぞれ』において」を意味し、後者のjeは、「Seinkoennen、Schon sein、Besorgtesの『それぞれ』が」を意味するものでしょう?

 日本語としては、次のように、jeを訳出しない方がよいのではないでしょうか。
現実に「この場」に存在するに伴い、将来の地平のうちでは、存在できるありようの一つが思い描かれ、かねてより存在するありさまの地平のうちでは、「すでに存在している」ということが閉ざされざるものとされ、現在の地平のうちでは、気にされるものが見つけだされている。


なかはしm_nakahashi  at 20:41  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ267

Mit dem Ausdruck ≫Selbst≪ antworteten wir auf die Frage nach dem Wer des Daseins. Die Selbstheit des Daseins wurde formal bestimmt als eine Weise zu existieren, das heisst nicht als ein vorhandenes Seiendes. Das Wer des Daseins bin zumeist nicht ich selbst, sondern das Man-selbst.
 すでに書いたと思っていたが、見あたらないので――繰りかえしになっているかもしれないものの――記しておきたい。気になるのはSelbstの訳である。
自己」と云ふ表現を以て吾々は〔以前に〕生存の誰の問題に答へた。生存の自己性は形式的には覚存してゐる一様式であると規定せられた、即ち眼の前にある存在者としてゞはなかつたのである。生存の誰は多くの場合自己そのものでなくて、『ひと−自己』〔ひとそのもの〕である。(三笠)

自己Selbst』という語をもってわれわれは、現存在とは〔「何かWas」ではなく〕「誰かWer」という問いに答えておいた。現存在の自己性は、前在的一存在者〔何か〕としてではなく、実存すべきひとつの仕方として形式的に規定されたいた。現存在は「誰か」といえば、たいていは、私自身ではなくて「ひと−自己」である。(勁草)

自己」という表現をもってわたしたちは、現存在のだれかへの問いに答えました(第三十五節、一一四頁〔訳書上巻二一九頁〕以下参照)。現存在の自己性は形式的に、実存しているひとつの仕方として規定されたのであって、すなわち目のまえの存在するものとしてでは、なかったのです。現存在のだれかは、たいていわたし自身ではなくて、〈ひと=自己〉なのです。(岩波(旧)

自己」という表現で、われわれは、現存在の「誰れか」の問いに答えたのであった。現存在の自己性は、形式的には実存するありさま(eine Weise zu existieren)として規定された。すなわち、それはなんらか客体的に存在するものではないのである。現存在の「誰れか」は、たいていは私自身ではなく、世間的=自己である。(ちくま)

自己」という表現によってわれわれは、現存在の誰かに対する問いに答えておいた。現存在の自己性は、形式的には、一つの実在する仕方として規定されたのであり、すなわち、事物的に存在する存在者として規定されたのではなかった。現存在は誰であるかといえば、たいていは私自身ではなく、世人自己なのである。(中公)

自己」という表現を以って、吾々は、現有の誰への問〈すなわち、一体何者が現有として実存するのか、という問〉に答えた。現有の自己性は、形式的には、実存することの或る仕方として、規定された、すなわち、或る直前的に有るものとしてではない。現有の誰は、大抵は私自身がそれで有るのではなくして、ひと〈という有り方で〉の−自己である。(創文)

現存在とは「誰か」という問いに私たちは、「自己」という表現で答えた。現存在の自己性とは、形式的にはひとつの実存する仕方として、すなわち、手近に在るものではない在り方として規定された。現存在が「誰か」と言えば、それはたいていのところ私自身ではなく、「ひと」自身という自己である。(作品)

自己」という表現によって私たちは、現存在の〈だれ〉に対する問いに答えておいた。現存在が自己であることは、形式的には一箇の実存する様式として規定されたのであり、つまりは一箇の目のまえにある存在者として規定されたのではない。私自身が、たいていは現存在の〈だれ〉であるのではなく、〈ひとである自己〉こそがそれである。(岩波(新))
 上の引用の強調部分は、原文ではすべて、Selbstである。訳者たちはSelbstで考えられている内容を理解しているのだろうか。Selbstは、上にあるように、eine Weise zu existierenである。これも上にあるように、ein vorhandenes Seiendesではない。表現上、ある程度は仕方のないところもあるが、ein vorhandenes Seiendesであるかのような訳語は避けられるべきである。また、訳語は統一されるべきであろう。

 次くらいでどうでしょう。
自身」という表現を用いて、われわれは、この場に存在するのは誰かという問いに答えていた。この場でいかに存在するかが自身であるありさまは、形式として捉えられ、規定された。それは、実存形態の一つであり、目前に存在しているものではない。この場に存在するのは誰か。それは大抵はわたし自身ではなく、《ひと》自身なのである。


なかはしm_nakahashi  at 15:01  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ188

Die Angst offenbart im Dasein das Sein zum eigensten Seinkoennen, das heisst das Freisein fuer die Freiheit des Sich-selbst-waehlens und -ergreifens. Die Angst bringt das Dasein vor sein Freisein fuer ... (propensio in...) die Eigentlichkeit seines Seins als Moeglichkeit, die es immer schon ist.
 中公の翻訳。
不安は、最も固有な存在しうることへとかかわる存在を、言いかえれば、おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であることを、現存在においてあらわにする。不安は、現存在が何かに 向かって自由であること(何カヘノ傾キ)に、つまり、現存在がつねにすでにそれである可能性としての現存在の存在の本来性に、現存在を当面させる。
 この翻訳では、第2文で、sein Freiseinもdie Eigentlichkeitも共にvorの目的語であると解されている。そうであるためには、せめて、die Eigentlichkeitの前にコンマが必要であろうに。文法から「自由」な翻訳である。第1文で、「おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であること」と述べられ、それを受けて「現存在がつねにすでにそれである可能性としての現存在の存在の本来性」「に向かって自由であること(何カヘノ傾キ)」と述べられている、すなわち、「おのれ自身を選択し把捉する自由」=「本来性」と述べられているのだから、die Eigentlichkeitが、まえに「...」をもとうとも、fuerの目的語であることがわかるであろうに。意味からも「自由」な翻訳である。

 次くらいでどうでしょう。
不安は、この場でいかに存在するかのうちに、存在できるという他ならぬ自分のありように関わって存在するありようがあることを露わにする。すなわち、自由に存在し、自己それ自身の選択・把握という自由へ向かうことができるというありようを露わにするのである。不安は、この場でいかに存在するかを、自由に存在し、何ものかへ向かうことができるありよう(何ものかへの傾向)に直面させる。何へ向かうことができるのか。それは、この場でいかに存在するかが存在するありようが自分のものとされたありさまという、この場でいかに存在するかにいつでもすでに可能となっているありさまへである。


追記:作品、ちくまは正しく翻訳している。創文、岩波、勁草は中公と同じである。

なかはしm_nakahashi  at 05:12  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ146

Der Entwurf betrifft immer die volle Erschlossenheit des In-der-Welt-seins; das Verstehen hat als Seinkoennen selbst Moeglichkeiten, die durch den Umkreis des in ihm wesenhaft Erschliessbaren vorgezeichnet sind.
 いま手許にある翻訳のすべてにおいて、ihmはVerstehenをうけている。しかし、それでは、2つの文がセミコロンで結合されている理由が説明できない。ihmはEntwurfをうけているのではないか。

 述べたい内容を踏まえて訳すなら、次のようになるのではないか。
思い描くという働きは、つねに、世界内存在の閉ざされざるありさまの総体に関わっている。つまり、理解するとは、存在できるということであり、それ自身、各種のありさまが可能であるが、これらのありさまといえば、何が、思い描くという働きのなかで閉ざされざるものとされうるという本質をもつかを通じて前もって定められてしまっているのである。


なかはしm_nakahashi  at 16:58  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ328

Dagegen fehlt eine solche Anzeige fuer das dritte konstitutive Moment der Sorge: das verfallende Sein-bei... Das soll nicht bedeuten, das Verfallen gruende nicht auch in der Zeitlichkeit, sondern andeuten, dass das Gegenwaertigen, in dem das Verfallen an das besorgte Zuhandene und Vorhandene primaer gruendet, im Modus der urspruenglichen Zeitlichkeit eingeschlossen bleibt in Zukunft und Gewesenheit.
 中公の翻訳。
これに反して、気遣いの第三の構成契機である何かのもとでの頽落しつつある存在に対しては、そのような暗示が欠けている。このことは、頽落の根拠が時間性のうちにもないということを意味するわけではなく、配慮的に気遣われた道具的存在者や事物的存在者への頽落を第一次的に根拠づけている現成化することは、根源的な時間性の様態においては、到来と既在性とのなかに閉じ込められたままであるということを、暗示しようとしている。
 ここで問題にしたいのは、「頽落の根拠が時間性のうちにない」(das Verfallen gruende nicht auch in der Zeitlichkeit)である。なるほど、文脈を無視してよいなら、こう訳してもよいであろう。だが、上の文章に先だって述べられているのは、「vorもschonもZeitlichkeitに根拠を持つ」ということである。上の文は、これをうけて、「Verfallenが同様にZeitlichkeitに根拠を持つ」ものの、そのようなAnzeigeが欠けているために、「『Verfallenが同様にZeitlichkeitに根拠を持つ』わけではない」と考えられてしまうかもしれないが(接続法)、そのようなことを意味しているわけではないと述べているのである。そもそも、「頽落の根拠が時間性のうちにない」なら――これが打ち消されているとはいえ――頽落の根拠はどこにならあるのか。この訳者は、文脈を無視しているし、この文になぜ接続法が使われているかを理解してもいない。それとも、接続法を理解していないために、文脈を無視することになってしまったのであろうか。

 二重否定もあって分かりにくいので、次くらいでどうでしょう。
それに対して、何ものかに囚われ、そこに落ちこんでしまい、その許で存在するという、気にかけるということを構成する第三の契機に対しては、そのような指標が欠けている。これは、落ちこんでしまうということが、他と異なり、時間形態に根拠を持たないということを指し示そうとするものではない。向きあって現に関わる働きが、手許のものや目前のものを気にして、そこに落ちこんでしまうということの第一の根拠をなすが、この働きが、根源の時間形態の様態においては、近づいて行くところである将来とかねてより存在するありさまのうちに押さえ込まれているということを示そうとするものである。


なかはしm_nakahashi  at 11:47  |  この記事をクリップ! 

ハイデガー研究会のお知らせ

 今日は、ハイデガー研究会についてお知らせします。ハイデガー研究会には幾つかありますが、わたしが参加しているものは1980年代から続くもの、毎回、原文の1文1文について音読・訳読・解釈を行うという読書会スタイルをとるものです。1文1文をじっくり解釈するというスタイルなので1回の分量はそれほどではありませんが――いかに解釈するかでもめたときには、3時間で2頁ほどしか進まないこともあります――学識ゆたかな先生方による議論を通じて解釈が固まっていく場に参加すること、先生方の思索がどのようにして一定の形をとっていくか、その現場に立ちあうことは、非常に得がたい経験ですし、わたし自身、この場でこそ、自分の解釈が1番鍛えられています。

 ――以上のように書けば、おわかりのことと思いますが、いま会についてお知らせしているのは、ご関心があればいらっしゃいませんかとお誘いするためです。先生方を今の会のメンバーだけで独占――というわけでもないのですが――しているのが、もったいなく思われるので。研究会はおよそ2ヶ月に1度行われますが、次回は以下のようになります。

日時:2018年10月14日(日)13時より

場所:神戸学生青年センター(公益財団法人 神戸学生青年センター 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 078-851-2760 078-821-5878)

テクスト:“Der Ursprung des Kunstwerkes” (単行本Holzwege)の41ページ最終行の”Das Seiende kann als Seiendes nur sein, wenn es in das Gelichtete dieser Lichtung herein- und hinaussteht.”から。(全集第5巻40頁第2段落)――訳読はわたしが担当します。

 ご関心があれば、右のKontaktのリンク先に記されたメイルアドレスからご連絡ください。


 また、上とは別のお誘いも記しておきます。複数人でじっくり時間をかけてテキストを解釈するというのは読解能力を向上させるのに非常に有効であるとわたしには思われます。上の研究会は近畿で行なわれるものですが、どなたか、ご関心があれば、東京でも同様のことを行いませんか。


なかはしm_nakahashi  at 11:21  |  この記事をクリップ! その他  

SZ324

Das Entwerfen erschliesst Moeglichkeiten, das heisst solches, das ermoeglicht.
 翻訳。
企投のはたらきが、諸可能性を、言いかえれば、可能化するゆえんのものを開示するのである。(中公クラシック)

企投は諸々の可能性を、すなわち可能にするものを、開示する。(創文社)

投射の働きによってさまざまな可能性、つまり可能にしているものが開示されるのである。(作品社)
 単複の違いや、「可能性=可能にするもの」という(M氏のいう)「革命的な」解釈は気にならなかったのであろうか。

 すでに松尾訳には次のように記されているのである。
投案作用が、すなわち可能化をはたらく作用が、諸可能性〔可能なる諸事態〕を開示するものなのである。
 わたしなら次のように訳したい。
思い描くという働きが、各種の可能なありさまを閉ざされざるものとする。思い描くとは、すなわち、可能にするということなのである。


なかはしm_nakahashi  at 13:55  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ317

Offenbar nur so, dass es dieses Sein in seinen wesenhaften Moeglichkeiten selbst ist, dass je ich dieses Seiende bin.
 この文に対して、ある翻訳は次のような訳文と註釈を与えている。
明らかに、現存在は自己みずからおのれの本質上の諸可能性においてこの存在であるというふうにしか、つまり、そのつどがこの存在者であるというふうにしか、実存することができない。

著者の自家用本の欄外注記によれば、「そのつどがこの存在者である」という本文箇所の「そのつど」に対して、後年のハイデガーは、「現存在自身がこの存在者である」と言い換えている。
 なるほど、上のjeの箇所には、das Dasein selbst dieses Seiende ist.という註がつけられている。しかし、これはjeという単語の「言い換え」ではなく、je ich dieses Seiende binという文の「言い換え」である。定動詞後置されているのも、je以下の副文の「言い換え」だからである。それゆえ、本文で強調されているselbst istと、註で強調されているselbstとistとは――二つのdass文の言いかえを考えても(念のために書いておくが、上の「言い換え」とは別の言いかえである)――対応関係にある。selbstを一方では名詞に結びつけ、一方では動詞に結びつけるのでは、この対応関係を無視することになる。この翻訳の註釈は、文法にも文脈にも囚われないものだが、そもそも、「現存在自身がこの存在者である」を「そのつど」の「言い換え」と解することができたのはなぜか。

 註につけられたdas Dasein selbst dieses Seiende ist.を、jeではなく、je ich dieses Seiende bin.の「言い換え」と解するなら、上の文は次のように表現される。
Offenbar nur so, dass es dieses Sein in seinen wesenhaften Moeglichkeiten selbst ist, dass das Dasein selbst dieses Seiende ist.

それは、明らかに、この場でどう存在するかが、その本質にありうる各種のありさまにおいて、自己の存在を自身で存在することによってである。すなわち、この場でどう存在するかが、自身でこの存在しているものを存在することによってのみである。


なかはしm_nakahashi  at 11:40  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ336

Urspruenglich existenzial gefasst, besagt Verstehen: entwerfend-sein zu einem Seinkoennen, worumwillen je das Dasein existiert.
 ある翻訳。
根源的に実存論的に解するなら、了解とは、 現存在がそれを目的としてそのつど実存している存在しうることへかかわる企投しつつある存在のこのことなのである。
 いつものことで申し訳ないが、このような和文を理解できるのはどのような人々なのであろうか。これを理解できる人々は逆に――訳語の違いなどから――次のような訳文は理解できないと述べるのであろうか。
実存論において根源から把握したとき、理解するということが意味しているのは、どのように存在できるかを思い描き、それに関わって存在するということである。その時その時においてこの場でどう存在するかが実存するのは、どのように存在できるかを気づかってのことなのである。


なかはしm_nakahashi  at 07:18  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ303

Damit geht eine Fixierung der moeglichen ontologischen Fragen zusammen, die ueberhaupt an das ≫Selbst≪ zu richten sind, wenn anders es weder Substanz noch Subjekt ist.
 この翻訳は次のようなものである。
これを相たずさえて行われることは、自己なるものがはたして実体でも主観でもないとすれば、いよいよもって『自己』なるものに向けられねばならないところの、可能なる存在論的な問いを確定することである。

このこととあい伴って、いやしくも自己は実体でも主観でもないとすれば、総じてそのような「自己」に向けられるべき可能的な存在論的な問いはどのようなものであるのかも、確定されることになるのである。

そのことと提携して、自己が実体でもなければ主観でもないとすれば、総じて「自己」へ向けられるべき諸々の可能なオントローギッシュな問の確定がなされるのである。

このこととともに、総じてそのような「自己」へと向けられるべき可能な存在論的な問いが劃定される。およそ自己が実体ではなく主体でもないとすれば、その件が必要なのである。

「自己」というのがおよそ実体でも主体でもないというなら、それにはそもそもどのような存在論的な問いを向けることができるのかも、この自己の定義をもっておのずと確定されるのである。
 Selbstを「自己」と表現すると、ハイデガーがSelbstを用語として採用した理由が分からなくなると思うのだが、いまはそれには触れない。ここではSelbstが強調されていることを問題としたい。上の翻訳では、一様に、括弧をつけるだけで済ませているし、翻訳としてはそうあるべきかもしれないが、このハイデガーの遊び心(?)が気にならないのであろうか。ここは、das Selbst selbstとでも表現したかったが、das ≫Selbst≪に止めたものであるように思われるのだが、どうだろう。これを訳に反映させるとしたら、次のようになる(遊びすぎ?)。
これに伴って、どのような存在論の問いが可能であるかが確定される。存在論の問いの各種は、自身が実体でも主観でもない以上、そもそも「自身」それ自身に向けられるしかないのである。




なかはしm_nakahashi  at 11:22  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

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Das Reisen fuehrt uns zu uns zurueck. (Albert Camus)

旅に出れば、われわれは自分自身に連れもどされる。


なかはしm_nakahashi  at 16:11  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

GA5,39

Und dennoch: ueber das Seiende hinaus, aber nicht von ihm weg, sondern vor ihm her, geschieht noch ein Anderes.
 翻訳書の記述。
しかしそれにもかかわらず。有るものを超え出て、しかし有るものから離れずに、有るものの方から、さらに或る別のものが生起する。
 vor ihm herが「有るものの方から」と訳されているが、独和大辞典には次のような説明が見いだされる。
【(vorは)herとともに用いられて、一定の距離を保った先行を表す】
Er geht vor mir her. 彼は私の先に立って進む。
Er trug die Fahne vor ihnen her. 彼は彼らの先頭に旗をささげて進んだ。
 これに従うなら、「有るものの方から」は「有るものの前方で」とならなければならない。そして、文法云々以前に、「或る別のもの」にはEreignisという註がつけられているのである。

なかはしm_nakahashi  at 18:48  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ324

Diese Entwuerfe aber bergen in sich ein Woraufhin, aus dem sich gleichsam das Verstehen von Sein naehrt.
 ある翻訳。
ところがこれらの諸企投は、存在の了解がいわばそれによって養われているなんらかの基盤を、それ自身のうちに蔵しているのである。
 翻訳として間違っているとまでは言わないが(いや、Woraufhinはおかしいか)、Entwurfが珍しく複数形で表現されていること、Woraufhinが珍しく不定冠詞とともに用いられていることが気にならなかったのだろうか。

 この文が述べているのは、次のようなことでしょう?
だが、これらの描きだすという働きには各種あるが、それらが密かに目ざすところは一つであり、存在の理解は、いわば、そこから糧を得ているのである。


なかはしm_nakahashi  at 03:36  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

SZ324

Danach ist Sinn das, worin sich die Verstehbarkeit von etwas haelt, ohne dass es selbst ausdruecklich und thematisch in den Blick kommt.
 ある翻訳。
それにしたがえば意味は、或るものの了解可能性がそのうちで保持されている当のものであるのだが、この或るもの自身は表立って主題的には眼差しのうちへ入りこんでくることがない。
 この翻訳で、esはetwasをうけている。人称代名詞と不定代名詞との違いは無視してよいらしい。だが、その前に、そもそも、この和文でどのような内容を理解しているのであろうか。

 次くらいでどうでしょう。
それよると、意味とは、それ自身が明確に主題として見てとられることのないものの、何ものかが理解されうるところである。


なかはしm_nakahashi  at 11:24  |  この記事をクリップ! ドイツ語  

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Alles ist vorueber --- sagt mancher --- aber er hat dabei nicht an die Dummheit gedacht. (S. Lowitz)

すべては過ぎ去ると述べる者は多い。しかし、そのさい彼らは愚かさについては考えていなかったのだ。


なかはしm_nakahashi  at 15:21  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Je mehr Geist man hat, desto mehr Originalmenschen findet man. Der grosse Haufen findet keinen Unterschied unter den Menschen. (Pascal)

精神が豊かになればなるほど、個性的な人間が多くいることに気がつく。普通の人は、人々のあいだに違いのあることに気づかない。


なかはしm_nakahashi  at 18:16  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Ich habe geweint, weil ich keine Schuhe hatte, bis ich einen traf, der keine Fuesse hatte. (Giacomo Graf Leopardi)

靴がないためにわたしは泣いた。だが、それは、足のない人に会うまでだ。



なかはしm_nakahashi  at 09:40  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Das Geschenk der Liebe kann man nicht geben. Es wartet darauf, angenommen zu werden. (Rabindranath)

愛情というプレゼントは与えることができない。このプレゼントは受けいれられるのを待つだけである。


なかはしm_nakahashi  at 11:34  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Ignorieren ist noch keine Toleranz. (Theodor Fontane)

干渉しないだけでは、いまだ寛容とは言えない。


なかはしm_nakahashi  at 00:30  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Wer uns am strengsten kritisiert? Ein Dilettant, der sich resigniert. (Goethe)

われわれを最も手厳しく批評するのは誰か。自分に見切りをつけたアマチュアである。


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Auf seine eigene Art zu denken ist nicht selbstsuechtig. Wer nicht auf seine eigene Art denkt, denkt ueberhaupt nicht. (Oscar Wilde)

自分自身の頭で考えるということは利己主義ではない。自分自身の頭で考えない者は、そもそも、考えていない。


なかはしm_nakahashi  at 03:09  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり  

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Lasst euch nicht vom Glanz blenden. Hat jemals eine Perle eine Muschel hervorgebracht? (Werner Mitsch)

輝きに目をくらまされるようなことがあってはならない。これまで真珠が貝殻を生みだしたことなどあったであろうか。


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Die Dummheit ist rund. Niemand weiss, wo sie anfaengt und wo sie aufhoert. (Ernst Ferstl)

愚鈍は丸い。どこで始まり、どこで終わるかは、誰にも分からない。


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Das Weib sieht tief, der Mann sieht weit. Dem Manne ist die Welt das Herz, dem Weib ist das Herz die Welt. (Christian Dietrich Grabbe)

女性の見る目は深く、男性の見る目は広い。男性にとっては世界が心であり、女性にとっては心が世界である。


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Eins hat der liebe Gott nicht gut gemacht. Allen Dingen hat er Grenzen gesetzt --- nur nicht der Dummheit. (Konrad Adenauer)

神様は一つの失敗をなされた。万物に限界を設けたのだ。愚かさを除いて。


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Zwei Dinge sind unendlich, das Universum und die menschliche Dummheit, aber bei dem Universum bin ich mir noch nicht ganz sicher. (Albert Einstein)

決して尽きぬものは2つある。宇宙と人の愚かさだ。だが、宇宙に関しては、わたしはまだ確信が持てない。


なかはしm_nakahashi  at 15:16  |  この記事をクリップ! 削除の可能性あり