Mein Memoire und Anschlagbrett

中橋誠のブログ――備忘録と掲示板。

Vor welche Probleme stellt die Frage nach der Weltlichkeit der Welt?
 中公クラシックスの翻訳。
いかなる問題に世界の世界性への問いは当面しているのか。
 この翻訳では、「問い」が「問題」に「当面している」と訳されている。「当面している」は自動詞である。だが、stellenは、ごく僅かな用法を除いて他動詞として用いられる。そして、ここでも他動詞として用いられていることはvorと一緒に使われている点に示されている。辞書には次のようにある。
jn. vor ein Problem stellen 〜に問題を突きつける
 つまり、ここでは、jn.が省略された用法に過ぎない。

 次のように訳される。
世界に認められる世界性格はいかなるものかという問いは、われわれにいかなる問題を突きつけているのか。

Aber schon bei der ersten Kennzeichnung der Aufgaben einer vorbereitenden Fundamentalanalyse des Daseins wurde eine Orientierung ueber das In-Sein als solches vorausgeschickt und an dem konkreten Modus des Welterkennens demonstriert.
 中公クラシックスの翻訳。
しかしすでに、現存在の予備的な基礎的分析の諸課題が最初に特色づけられたさいに、 内存在そのものに関する一つの方向づけがあらかじめ論定されていたし、しかもその方向づけは世界認識という具体的な様態に即して証拠立てられていた。
 Orientierungはここで「方向づけ」と翻訳されている。だが、ueberと一緒に使われたOrientierungは「知識」の意味である。
 というわけで、次くらいでどうでしょう。
だが、この場をいかにあるかの基礎分析は幾つもの課題を持つが、それらの特徴が僅かばかり示されただけですでに、なかであるということそのものについての知識が与えられ、それが、世界認識の明確な様態に即して示されたのであった。

 次回のハイデガー研究会は、以下のようになります(Zoom)。ご関心がある方はご連絡ください。

日時:2020年月9月20日(日)14時より

テクスト:単行本『Holzwege』の中の『Der Ursprung des Kunstwerkes』。57頁の第三段落(Fuer die Bestimmung der Dingheit des Dings ...)から。

 ご関心があれば、右のKontaktのリンク先に記されたメイルアドレスからご連絡ください。

Wenn das Mitdasein fuer das In-der-Welt-sein existenzial konstitutiv bleibt, dann muss es ebenso wie der umsichtige Umgang mit dem innerweltlich Zuhandenen, das wir vorgreifend als Besorgen kennzeichneten, aus dem Phaenomen der Sorge interpretiert werden, als welche das Sein des Daseins ueberhaupt bestimmt wird (vgl. Kap. 6 dieses Abschn.).
 中公クラシックスの翻訳は、Zuhandenenの後のdasに次のような註をつけている。
第一版、第七版、および第十一版すべてにおける das wir vorgreifend... の das を、den と訂正。全集版および単行新版(第十四─十七版)でも未訂正のままである。
 この註をつけて、原文を勝手に変更した訳者は、原文の筆者よりも独語がおできのようである。dasをdenと「訂正」すれば、der umsichtige Umgangを「先まわりして、Besorgenと呼んでいた」と解されることになる。
 だが、もちろん、このdasは後のdas Phaenomen der Sorgeを先どりしたものである。だから、Sorgeの現象を「先まわりして、Besorgenと呼んでいた」と記されているのである。そうでなければ、文法も文脈も無視することになってしまう。

Es gibt nur einen Weg zum Glueck und der bedeutet, aufzuhoeren mit der Sorge um Dinge, die jenseits der Grenzen unseres Einflussvermoegens liegen. (Epiktet)

幸せへの道は一筋しかない。それは、つまり、自分ではどうしようもないもののことを心配するのをやめることである。

 e-Inkを用いたモニターがほしかった。目の疲労を軽減するためである。数日前にようやく商品として販売されていることに気づいた。実に素晴らしい。まだ、改善の余地はあるが、わたしのようにほぼ一太郎しか使用しない人間には、実にありがたい。金額を見てためらったが、健康のためなので仕方ない。日本のメーカーも作ってくれるとうれしいのだが。

Und wenn das Dasein sich zumeist aus der Verlorenheit in das Besorgen der ≫Welt≪ auslegt, ist dann nicht die im Gegenzug dazu gewonnene Bestimmung der ontisch-existenziellen Moeglichkeiten und die darauf gegruendete existenziale Analyse die solchem Seienden angemessene Weise seiner Erschliesung?
 中公クラシックスの翻訳。
しかも現存在が、たいていは、「世界」を配慮的に気遣うことのうちへの喪失にもとづいておのれを解釈しているかぎり、このことに逆らって獲得された存在的・実存的な諸可能性の規定と、そのうえに根拠づけられた実存論的分析とは、そのような存在者を開示するときの、その存在者に適切な仕方ではなかろうか。
 この翻訳では、「……規定と……分析とは……適切な仕方」となってしまう。nichtが訳されていない。これは、うっかりミスかもしれないが、文脈の無理解によるものであろう。
 次くらいで。
そして、この場をいかにあるかが自己を解釈しているのが、大抵の場合、「世界」を気にかけて手配するということと一体となって自己を喪失しているなかでのことであるなら、これに抗して、存在様態・実存様態として可能な各種のすがたの規定を獲得し、これに基づいて実存論分析を行なっても、それは、このようにあるものを打ち開く手法としては、このようにあるものに適切なものではないのではないか。


Man kann lieben, ohne gluecklich zu sein, und man kann gluecklich sein, ohne zu lieben. Aber lieben und dabei gluecklich sein, das waere ein Wunder. (Honore de Balzac)

幸せでなくとも恋はできるし、恋をせずとも幸せでありうる。だが、恋をして、そのうえ幸せなら、それは奇跡というものである。

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