2008年04月

2008年04月24日

明後日、埼玉県河川環境団体連絡会立ち上げへ

来たる4月27日(日)、埼玉会館において、標題の会を立ち上げる。

この会の目的は、県内において市民参加の川づくりを推進していくことである。

実際には、県民も行政もそのような手法に熟知していないので、難しい。しかし、行政は、2〜3年でその場を離れる(異動)が、住民にとってその川との付き合いはほぼ一生である。毎日散歩する川であり、子どもと遊んだり、農業者にとっては田んぼの水であり、時には洪水におびやかされたりする川である。

その川は自然に近ければ近いほど良い。現在、国では多自然川づくりを勧めているが、現場でその工法を知っていないために、現状では多自然とはほど遠いとは、小生ではなく、河川担当者の国土交通省河川局の見解である。

この会は県の全域的会となる。全域の常設的会の設立は初めてである。小生は荒川流域ネットワーク時代に、2001年度の事業計画にうたったことがあるが、結局ここまで、7年かかったことになる。

結局、7年待ったのだから、あせらず、じっくりと取り組んでいければと思っている。

続いて、比企地方の自然体験ツーリングの協議会(仮称)を立ち上げねばならない。いまだカネにならない仕事を続けざるを得ない日々である。

そうそう、この河川の会の中に、多自然川づくり研究会(仮称)を立ち上げ、その講習会を開催しようと思っている。その節はまたお知らせいたします。

 



2008年04月16日

橋本文三の西郷隆盛、島尾氏との対談より

橋川文三先生と島尾敏雄氏との対談などからなる「西郷隆盛紀行」(朝日新聞選書)は奥付を見ると、先生の死後(1983年死去、1985年5月発行)である。

もっとも対談は、75年3月であり、雑誌「伝統と現代」に掲載されたのは、77年8月であった。先生がパーキンソン氏病にかかられたのは、小生が出版を始めた80年代前後であったから、お元気の頃、島尾氏と会ったと思えるが間違っていたら指摘していただきたい。

さてその対談は西郷の南島体験をどう読み解くか、その後の西郷の行動の中にどう反映しているか、また、この国のあり方を西郷を通して見てみよう、である。

そこで特に主張されているのは、この日本を、九州から関東までの地域、東北、南島の3箇所でみてみよう。そうすれば、九州関東史観でのみ見るより複眼的史観ができるのではないか。その南島の目でみると西郷はどうなのか、で残念ながら対談は終わっているが、さまざまな視点が語られており、読んでいると汲めどもつきない感慨が出てくる。

話は若干変化するが、この中で薩摩藩の動向を見ているが、「薩摩藩の上級武士は、全部関東から来たんです」と島尾氏は語っている。そうなのだ、小社が発行している成迫政則著「武蔵武士・続」で島津氏についていった武蔵武士の動向を調べているが、本田氏(埼玉県深谷市川本本田地区の出身)など彼らが島津家の上級武士群を構成していったのは確かであろう。

さて西郷であるが、薩摩と琉球、そこと幕末の日本、中国、虎視眈々と狙う欧米諸国の動向、そこを南島の視点から維新以降の日本を見る、その西郷をどう論じるか、先生の最後の大きな課題であったが、61歳で亡くなられた。

 

 

 



2008年04月12日

比企地区の青年農業者の集まりに参加して

過日と言っても、昨年の暮れの12月11日(火)のことであるが、埼玉県東松山農林振興センターの里見洋司さんから、出てみませんかとのお誘いがあり、その地方庁舎の大会議室で開催される「平成19年度比企地域青年農業者研究大会」に行ってみた。

会場には若い人が多く、何となく従来の農業のイメージと異なる。実は、いつものとおりなのだが、会合の主旨を忘れており、農業者の集まりは知っていたが、若い人の集まりとはわかっていなかったのである。

若い人が、今田んぼ4ha、麦3haを耕していますとか、オランダ・ドイツでの海外農業研修を報告するとか、極めて新鮮。

聞けば、ウイルという青年農業者グループもあるとか。そうそう、そのグループに小生の親戚の子ども(と言っても30代)も入っているのだそうだ。

当たり前の感想だが、やはり人々の生活(暮らし)の基本は農業である。この農業を若者が少数ではあるが、担おうとしている。現実的には金銭面では苦しいであろう。現に、一度仕事から農業に戻った若者がまた勤めに出ているケースもある。

よほど恵まれない限り、勤めと複業でやらざるを得ない面も現実としてあるのだろう。

でも、若い農業者が多くいる、身近にいるということは、何となく、未来は明るいかも、捨てたものでもないよなと言う気がしてくる。だから、昨年暮れから、4ヶ月経過した今、これを記しているのである。

小生が所属しているNPO法人まちづくり楽会の今年のシンポのテーマは、この青年達や、頑張っている農業者の活躍、言いたいこと(要望)に決めようと、3月頃漠然と思っていたが、ここに来て確信した次第である。

この種の会合、もっと広く開催したいし、多くの人に聞いてもらいたい。何もまちづくり楽会のシンポと言うことではなく。

第一、地元の人が青年農業者グループを知らないし、農業で頑張っている中高年を知らない。

農業者は無口だという、しゃべるのが下手だと言う、ホントかいな、しゃべりなれていないだけだろう、野菜のことをしゃべり始めたら止まらないくせに。本音をしゃべってもらおう。

 



2008年04月09日

打木村治文学その2

さてその2である。村治と若い女性との同棲に関し記そうと思い、それに関し、詳細に描いている子息、城太郎氏の著作を見ようとしたらない。

これは微妙な話なので、次の機会に廻せと言うことだと思い、前述の「景色でおなかのくちくなる子に育てます」の件に関し、述べてみたい。

打木村治は、昭和58年(1983)11月23日、東松山市民の会主催で「天の園と私」と題し、長時間の講演を行っており、小生の同級生、稲原都三男がそれを的確にまとめ、後、平成11年に「著者、ふるさと唐子を語る」と題し(小社が制作)、出版。さらに、アニメ「雲の学校」上映に向けて、再版している。

その本の副題は、程良い貧乏、美しい自然、おふくろの愛情とし、それが幼児期の最大の大切なものとしている。

打木村治の戦後の作品を見ると、「天の園」で評価を得るまでの作品数は、正直少ないの一言であろう。これでどうして食べていけたのだろうと思う。誰もがそう思うに違いない。

四歳の時の父の死、その後の姉2人、保、母の4人家族の生活、大蔵省勤めで何とかなると思ったら、小説家を目指し、また決まったカネがない生活に、そこそこ売れて来たら、転向し、これは国策ではあるが続いて敗戦、転向作家には見向きもされない時代となってしまった。打木村治の戦後の小説が少ないのは、この転向作家への冷遇が大きな要素であった。

このようやく世に注目されそうになってきたら、大きな時代の流れに巻き込まれてしまい国策文学(いわゆる開拓文学)作家には何とも不運であり、他の作家みたいにある程度評価された後、転向していれば良かったのにと思うのだが。

この「ふるさと唐子を語る」では、「唐子は景色がきれいだ(中略)程良い貧乏が必要なのだ、と年と共に感じたわけですね」と語っている。

まさに貧乏に悟りを得ているとしか、語りようがない。

敗戦から昭和34年「16才」日活映画化、さらに47年「天の園」6部作の刊行となり、48年に芸術選奨文部大臣賞受賞となる。敗戦からの十年間がまさに生活苦、模索の時代であったと言える。昭和20年代は著者、41歳から51歳の年である。そして45歳の時に25歳の女性と同棲することになる。第2回以上

なお、著者の父の死は、前回3歳と記しましたが、4歳でした。訂正してお詫び致します。

3歳の時、父が病気で、唐子に引っ越して来たのでした。

 

 

 

 

 

 



2008年04月07日

打木村治と保少年の生き方(1)

打木村治の代表作「天の園」全6巻に関して、その内容は他に任せるとして、よく知っているということで、この文章を展開していきたい。ちなみに保少年とは、その作品の主人公である。

さて、三歳の時に父に死なれた保少年は、母、姉2人とともに、唐子村(現・東松山市唐子地区)の豊かな自然の中で育っていく。

この作品と、打木村治の生き方の中で、小生はかねてから3つの疑問というか、不思議さを感じていた。一つは小説家を目指して、大蔵官僚を辞任したこと、二つ目は戦後、妻と長男を捨て、若い女性との同棲を始めたこと、三つ目はこれは「天の園」の文中であるが、「保少年の母、かつらが、このきれいな景色の中でおなかのくちくなる子に育てます」と記していることである。

三つ目から考えていきたい。父の顔、声を覚えていない年頃で死なれた少年が、いくら母が大地主の娘であろうとも、何故再婚をしなかったかは、いつか疑問に思うであろう。母はおんな盛りの頃に亭主を失っているのである。これからの子どもの将来、自らの生活などなど考えれば再婚は不思議ではないし当然であるが、しかしこれは一人の女性の生き方である。いくら小説とはいえ、それ以上を考えてもきりがない。

しかし、早く片親を失うということは、子どもにとって心に大きく空白を生み出す。青春期を経て大人になっていくとき、父の失敗、生き方、大人としての父のありよう、それは克服すべき対象かも知れないが、保少年には、その克服対象が存在しないのである。失敗対象だろうが尊敬対象であろうが、保=大人になった打木村治は、大人の男性のモデルケースがいないのである。

実際の打木村治は、早稲田大学を卒業し、先に述べたように大蔵官僚となる。大学時代から、妻を持ち、長男城太郎さんに恵まれる。だから当時9割以上の人が小学校6年を経て実家の手伝いをしたり、働いていたりしていたのであるから、それに比べれば、貧乏の程度が想像つくが、それでもかすかすに生きていたのは、「天の園」につながる川越中学校時代を描いた「大地の園」でかなり詳しく記されている。

しかし、この大蔵官僚を辞めるのは、まだ理解できる。自己の才能、力、まだこれからの人生である打木村治がエリートコースを捨て、ものになるかならないか分からない小説家を目指す。貧乏になるかも知れないが何とかなるさ、の勢いであろう。

彼がいかに妻、城太郎さんを愛していたかは、小説「春の門」全編に描かれている。息子の名前も「城太郎」である。息子が中学生になるにあたり、いろいろ苦労し、夫婦で息子を溺愛している姿だらけの小説である。昭和17年初版。8000部刷り。そんな子煩悩の村治が戦後変化していく。第一話終わり