2009年05月

2009年05月25日

埼玉県グリーン・ツーリズム推進協議会第2回総会

表題の総会を5月22日(金)、さいたま市北与野駅近くの埼玉トヨペット本社会議室において開催した。

その後、講演会が行われ、立教大学村上和夫教授より、大変示唆深い内容の講演を聴かせていただいた。

なお、その当日は、齋藤章一会長(まちむら交流機構専務理事)より「会長あいさつ」を受け、こちらも実践的であり、各地を廻っているグリーンツーリズムの現況と課題を聴かせてもらったが、こちらは、この会の通信にも掲載したいと考えているので、後日をお楽しみにしていただきたい。小生は、この会の理事を承っている。

さて、村上さんのお話であるが、失礼のない範囲で記させていただけば、1990年代を前後に、市民の田舎に対する価値判断が逆転した。

それまでは、都会より遅れた田舎、都会に追いつかねばならない田舎、つまり生活も都会に近い田舎をめざしていたが、90年代より変わってきた。

それは、覚えているだろうか、「南仏プロバンスの12ヶ月」という小説が大ヒットしたことを、また、これは日本ではそれほどヒットしなかったが、海外では小説は大ヒットし、映画もヒットした「トスカーナの休日」。

いずれも大都会に疲れた生き様を田舎でいやされるという内容。つまり、90年代より、従来の価値観が変革し、田舎には田舎の良さがあり、人は田舎で住むような余裕がないと生きられないということを、人は理解してきたということです。

というようなことを述べられた。その後の懇親会で、深酒をし、それでなくとも記憶力があいまいとなっているため、年代、本の題名など、かなり間違っていると思うが、要点は、田舎の独自性、先進性を、市民が90年代から、はっきりと認識するようになってきた、という点にある。

田舎、と本気で差別的に使っていたのを記憶している人もいよう。しかし、それが変わった。だから、グリーン・ツーリズムを本格的に推進して欲しいと先生は語る。

また、「となりのトトロ」などにも言及しファンタジーを楽しもうなど、埼玉県の立地を考えた都市近在のグリーンツーリズムのあり方にも、大変参考になる発言もいただいた。

 



2009年05月24日

ドイツの現在、日本の10年後

ドイツが早くからソマリア沖の海賊対策で同国のフリーゲート艦を出動させているとは前に記したと思う。

ソビエトの崩壊で東の脅威がなくなり、同国の軍備の意味が大変化(これはNATO諸国全般に言えるが、特に東側に直接位置していた同国ではその変化の影響は大きかった)し、軍備力(特に陸軍)の減少、予算削減は大きかった。

そこで、大きく軌道修正し、これからは、自国の防衛よりも、自国経済の防衛、国際貢献に大きく軸足をずらした。

初めは1991年の湾岸戦争時における掃海艇の派遣である。この点は日本と似ている。その後、より活発化し、カンボジア、ソマリア(海賊対策ではなく、撤退したあのソマリア戦争の時点のことであろう)、ボスニア、コソボ、アフガン、コンゴ、スーダンに陸軍、時には空軍も参加している。

レバノンとイスラエルとの戦いの後、レバノン政府から国連停戦軍としての参加が要請され、政府は海軍(陸軍ではイスラエルへの配慮も考慮し)をレバノン沖に派遣している。また、先のロシアとグルジアとの争いでは、黒海にアメリカなどとともに、フリゲート艦を派遣し、ロシアから強い抗議がなされている。

アフガニスタンでは、ISAF(アフガニスタン保護部隊)として、同地で銃火を交えていることは周知のとおりである。

現在のドイツ軍はかなり実戦にも参加しているのである。もちろんこれは、国連、NATOの一部としてであり、世界からの要請ということにもなろう。

一方の見方をすれば、アフガニスタンではよりつらい立場の国もあり、ドイツは楽をしていると批判も受けているようである。

国連の平和維持という大義名分はあろうが、戦場は戦場である。ドイツのような立場となったら、その国の国内事情がどうあろうと、つらい立場でその国の若者が多く死んでいるのなら、おまえが最前線にでろよと言いたくなる。

日本は、ISAFで参加しようという政治家もいるが、根本から海外派遣問題を検討する時に来ていると思う。



2009年05月22日

今年の出版前半期

今年は昨年の後半からの続きで、毎月1点の出版が続いている。

2月曠野すぐり著「だいだい色の箱」(中央沿線物語)
3月山口正義著「千葉歳胤のことー天文大先生(江戸中期に生きた飯能出身の天文暦学者)」
3月大穂耕一郎著「関東ローカル線旅日記」
5月須藤澄夫著「よこがきよりみち論語103」
5月飯塚勝著「小説集 誓い」

と言った具合である。

現在も、単行本7点ほどが進行中で、その他に報告集や冊子、チラシも受注させていただいている。

一人で編集していた時代で一番多い発行点数は13点ほどであった。

比企丘陵の山の中での編集が夢であるが、いつか実現したい。


2009年05月21日

市民活動第三期

市民活動を長くやってきて、ここ数年、第3期に来たと思っている。

第1期は、ゴルフ場、ダムなどの建設に対し、反対する時期。1990年前後の動きである。

第2期はネットワーク活動、つまりそれぞれの活動では人的、経済的に限界があるため、ネットワーク化することで、その活動の動きをより展開するというもの。そしてそれと併行して、事業的な活動をするグループもできてきた。90年代後半の動きである。関西はこれより早いかも知れない。

第3期はいろいろな動きがあるが、総まとめにすると、行政ができない公共サービスを提供するという動きであろう。ネットワーク化はひとつの大きなステップであったが、その後、それ自体が大きくなるという動きはあまりみられなかった。そして2000年前後に中間支援団体ができ、このネットワーク化の動きを代替していった。

同時に動いていた、事業化の動きは、より事業的になり、社員を雇うようになってきた。そして、行政ができない公共サービスをさまざまな形で行うようになってきた。街おこし、人材発見、救済活動などで。今後は人材競争の時代なので、より優秀な人を雇えるようなNPO活動が出来るかにかかっていると言える。

 



2009年05月16日

島津藩の上級武士は関東武士

薩摩の国に、島津氏が行ったのは鎌倉時代(正確には平安末期)のことであった。

もともとその地は、在地の豪族が支配していたわけであるから、その地を支配するのは、ずいぶんと時間がかかった。まあ一種のといおうか、完璧なといおうか、いわゆる侵略行為である。一説によると、何十年かかかっていると言われている。(詳細は小社刊成迫政則著「武蔵武士 続」参照)

現地舞台の総大将は、畠山と縁の深い本田親恒。文治2年(1186)のことであった。攻めの突破口を確保した島津氏は続いて、建久7年(1196)、本田親恒の子(養子で、畠山重忠の実子)の本田貞親を主将として、多くの武将を従えて京都を出発した。鎌田政佐、酒匂景貞、猿渡実信の諸将、さらに従う武者は、家族の少ない若武者集団であった。これら若武者集団が、その後、どのように島津家の支配体制を築き、陣営を固めて言ったかはまだ勉強不足である。

つまり島津藩の上級武士団は鎌倉武士であり、武蔵武士も多数いたということである。その点は、当時奄美大島に住んでいた作家の島尾敏雄氏も指摘しているところである。(橋川文三著「西郷隆盛紀行」所収の対談より)

何と言っても薩摩藩は長い。1200年から800年間以上の長さである。そんな長い藩は少ない。藩内の権力争いも多々あったことであろう。上記の「武蔵武士続」では本田氏の一部も権力闘争に参加し、敗れたとある。

その地へ住めば、その地の水を飲み、空気を吸い、食糧を食べる。幾ら関東武士出身であっても、故郷は遠いものとなる。薩摩の思考をし、薩摩の言葉を吐く。しかしどこかで関東とつながっているのだと思うと楽しい。