2009年06月

2009年06月29日

埼玉県河川環境団体連絡協議会の動き

表題の会合を昨日開催した。同会は、昨年7月に発足したもので、県内の河川団体を横断的に連携したもの。会場は、熊谷市民活動支援センター。参加者は10名。

埼玉県の「河川愛護交流会」を県と協働で開催するほか、12箇所の各県土整備事務所ごとに県と一緒に河川整備について話し合う「河川懇談会(仮称)」を設置していこうというもの。将来的には、県の各環境管理事務所、農林振興センターとも提携していく計画であるが、そこまで手が回せないのが現状。

幸い、上田知事が水辺再生100プランを提唱、実行することになったことは大変な追い風となっており、昨年の26プラン、今年の37プランに始まったことに、そこへいかに河川に詳しい市民団体が入っていくかで健闘している。

その現状をみると、昨年の26プラン中17プランに何らかの形で埼河連の仲間が参加しているのが判明した。

また、今年の37プランでは19プランにかかわっている。まだ、今年の分は少ないが、何と言っても昨年まではなかった組織。結構一年間で役にたつようになってきたと言えるのではないかと結論した。

今後、多自然川づくりの講習会(都市河川における多自然川づくりも)なども開催していく予定である。

さらに、いまだ軸になる人が少ないので、事務局員に多くの人になってもらうべく推薦者を選考した。特に県東県北県南の方々を選んだ。

2009年06月27日

国民のための軍隊、行政でなければ。「はるな」の保存 

海外の軍艦の無料動画「Your tube」を見ていると、国民に本当に船(軍艦)や船員が愛されているなと思う。ドイツの戦後の初めてのDDG「リュチェンス」クラスの一隻は、船の博物館に保存されているが、日本ではそういう話は少しもおきていない。

また古い動画も多く、良く残っているなと思うし、それだけ国民が船を愛しているんだと感じる。ドイツのハンブルグ級の駆逐艦は1964年〜68年に就役し、そのヘッセンという軍艦は1990年頃退役したようであるが、その最後の走りが実に良く記録されているし、見ていて船員魂が伝わってきて、感動ものである。

いや他の軍艦でも70年頃から実に多くの映像が残されており、軍艦が国民のものであるということが良くわかる。


市民活動をしていての実感であるが、行政を見ても、この施策は業界のためなのか、また、本当に国民に眼を向けているのかと思わざるを得ないものがあり、行政マンはどちらの側なのか疑わざるを得ないこともある。

自衛隊の方々と話をしたことがないので、軽率な判断はしたくないが、真に国民に愛される自衛隊になって欲しいと思う。

それにしても戦後の歴史に一線を引いた「はるな」の保存をドイツ並みに望みたいが、それは「保守の一部」の発想だけではあるまい。市民側にもそんな人間がいることを知ってもらい、「保守」側の人が提唱して頂ければと思う。



2009年06月26日

75年、鹿児島湾の護衛艦はるなクラス

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先のブログを書いていたら、当時のネガフィルムが偶然でてきた。先の写真は34年前のプリントアウトした紙焼きであるので、当然、劣化が激しい。

もちろんフィルムもかなり劣化しているが、どちらが劣化しているかと言えば、当然紙焼きしたものであろう。そこで写真屋に行き、焼いてもらったのが、上記の二枚。上のは「はるなクラス」のみを撮った写真である。残念ながら艦番号が見えない。

当時開聞岳が激しく噴煙を上げていたから、映像自体もぼんやりしている。カメラはアサペンの一眼レフである。

紙焼きの劣化状況もわかる。34年は長いと言うことか。

それにしてもはるなクラス、インド洋にも行き、良くがんばったものである。
それを支えた、自衛隊員、造船所の方々の熱い思いに頭が下がる。

昭和50年11月の鹿児島、DDHはるなクラスの写真

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昭和50年(1975)11月5日、鹿児島市の島津記念館(名称不確か)において沖を見ていたら、これまで見たこともない、後ろの半分明らかに発着場と思われるフラットな甲板の艦影の軍艦が左に向かって進んでいる。写真では小さな姿であったが、見た目ではかなりしっかりした姿であった。

それまでの我が国の軍艦(護衛艦)は、それはそれとして美しい姿であるが、欧米に比べ、さほど新しくない装備の、つまり二線級の軍艦であった。眼の前の軍艦は、これはなんだとびっくりし、高校時代にやめた軍艦への関心が戻った瞬間であった。

この昭和50年から、軍艦を雑誌ではみるが、実物はみないという鬱屈した状態は今も続いている。

この鹿児島への旅行は、新婚旅行で、屋久島への途中であった。ヘリコプター3機を持つDDHはるな型は、はるなが73年2月、ひえいが74年11月に就役しており、それぞれできたばかりであった。それも鹿児島湾の鹿児島市沖であるから、まさに僥倖の出会いであった。どうみても鹿児島湾の奥に入っていく船影であるが、どこへ行ったのだろうか。分かる方おられたら教えていただきたい。

前を行く護衛艦は一本煙突のみねぐもクラスで、昭和43年(1968)から45年(1970)3隻が建造された当時の新鋭艦である。このくもクラス、たかつきクラス、はるなクラス、そしてたちかぜクラスと世界の最先端とは言えないが、それでも肩をならべるくらいのレベルに達した時代であった。

このはるなクラスは、昭和54年「世界の艦船」264集特集号「海上自衛隊のすべて」によると、はるな、ひえいとも横須賀所属で、みねぐもクラスは呉所属となっている。多分佐世保からの帰り道で鹿児島へ寄ったのだろうか。

このはるな型(クラス)、はるなは36年の艦齢で今年の3月退役した。新DDHというより軽空母の標記の方が正しい「ひゅうが」へバトンタッチした。

はるなは、どこかで戦後の日本の平和を支えた記念艦として展示されればと祈念しているが、何とかならないものか!!



2009年06月23日

百済と新羅の読み方

高麗(こま)郡が出来たのは、716年(霊亀2)である。高句麗が唐に滅ぼされたのは669年(天智8)であるから、37年後のことである。百済が滅んだのは663年、壬申の乱(672)で日本が東西に別れ、戦争になっているのだから、まさに東アジアは大争乱の世紀であった。

新座(にいくら)郡が設置されたのは758年(天平宝宇2)で、新羅は朝鮮半島を統一したわけであるが、半島の戦乱に際し、多くの新羅人が日本列島に入って来たことは史書に記されている。一時は新羅郡などとも記されたらしいが、にいくら郡となっていった。

高句麗人が入る前に百済人も多く入っている。史書には武蔵に移すともある。その百済人はどこに行ったか分からないが、もしかしたら、東松山市唐子(からこ)などはそうなのかも知れない。万葉集に最新式の船の舵を「から舵」と呼んでいる。からは大陸の最新式という意味もあるからだ。

それはそれとして、朝鮮半島では、高句麗はこうくりであるが、新羅はしんら、百済はひゃくさいである。何で日本では全然違った読みをするのか、日本は国の名前まで勝手に自己流に読んでしまうのかと思っていたが、もしかしたら、やはり当時、しらぎ、くだらと読んでいたのではと思ってきた。

なぜならしらぎはともかく、ひゃくさいという国名は明らかに変である。中国読みの漢字の音をそのまま読むのは立派であるが、ひゃくさいという呼び名はちょっと疑問にせざるを得ない。であるから新羅もしらぎと呼んでいたのかも知れない。

ただし、朝鮮半島では、中国の漢字の読みはそのままで、日本のように、めちゃくちゃ読みはないとされているので、確かではないが。