11日(金)の東日本大地震。私は午後7時前ぐらいに途中まで同じ方向の同僚と歩き、家路までの3分の2ぐらいを一人で歩くことになった。途中鉄道は不通でも、駅構内を解放してくれていた私鉄駅でトイレを借りたり、コンビニ前のベンチで休みながら歩き続けた。
明治通りを主に歩いたのだが、途中数百軒もの飲食店や外食チェーン店があったが、誰でもが名前を認識しているようなチェーン店は、「地震のため休業します」との貼り紙の店が圧倒的に多かった。
その一方で意外だったのが、インド系料理店の煌々と灯る看板で、通りがかったすべての店が「平常通りに営業中」。そして驚いたのが「ほとんどの店が大混雑」だったことだ。
私も途中で「寄ってみよう」と中をのぞいてみれば、『満席状態』。営業中の店が少ないなかで、大いに貢献してくれていた。私も入ろうか何軒かのぞいてみたが『満席』であきらめ、先を急ぐーの繰り返しだった。
それでもなぜか心強く感じられたのが、「インド系料理店」の心意気を垣間見たからだろうか。「蕎麦屋」「寿司屋」などが閉まっているのに、多くの行き交う方から見ればの「カレー屋」が開いているのはうれしかった。
同じように、店名や独特のカラーリングから「中国系の方の中国料理店」と見受けする店も同じように深夜まで営業している店が多く見られた。都内では今や「インド系料理店」「中国系料理店」は「どこの街、どの駅」でも「探せば(探さなくても)見つかる」ほどの軒数が営業している。
今回のような事態に遭遇しても、「いつものように営業している」その存在感に救われたような(実際救われた方も多いはず)気がした。もはや「なくてはならない存在」なのかもしれない。
今回のような事態に遭遇しても、「いつものように営業している」その存在感に救われたような(実際救われた方も多いはず)気がした。もはや「なくてはならない存在」なのかもしれない。
コメント
コメント一覧 (16)
おっしゃったとおおり、飲食店の明かりは
こういう状況下において、心のオアシスのような存在だと思います。
店の方自身も大変な状況にかかわらず、
(余震の続く中で厨房で火を使うことは
大変なことだと思います)
お客様に温かい食事を提供する努力をされたことに
頭が下がります。
私は、前職で阪神淡路大震災の3日目と1週間後に被災地に入り、この状況下で飲食店は、商店はどうしているのか取材してまわりました。
関西に住み、外食産業のライターである私ができることはと考えた上での行動でした。
あの華やかだった神戸の町がうそのようにモノクロ映画のような風景の中で、屋台の湯気が出ているところだけがカラー映画のように目に映りました。
そこで出会ったいくつかの飲食店の方々、
(遠く名古屋から社長自ら先頭になって来られた企業もありました)。
温かい食事を被災者の方にお出しすることで
元気になっていただきたいという思いで
どうすれば温かい料理を作れるかに腐心して
利益を度外視してがんばっていらした方たち。
そしてその店の前には、温かい湯気の立つ料理を前に笑顔を浮かべていらした被災者の方たち・・・。
そんなことを、昨日のことのように思い出します。
飲食店にできることは、おいしい料理をお出しすることで、お客様もしくは食べていただく方に
(つかのまでも)温かい気持ちになっていただくこと。
そんな飲食店の原点を、今はごく小さな飲食店を営むものとして改めてかみ締めたいと思います。
また、被災された皆様のことを思うと、
胸が張り裂けそうです。
月並みな言葉しかいえない自分がもどかしいのですが、どうぞお気をつけて。
相当なストレスがあるとおもいますが
お体、ご自愛ください。
そして無理なく美味しいブログアップしてくださいね!
街の明かり、テレビで見ていてもほっとします。
災害をテレビで見ていて心をえぐられる中
街の明かりで『あぁ、人が生きているんだ』
って感じる瞬間です。
二次災害、情報の混乱等には気をつけられてください!
〉どこも営業していた
私は入谷の先から、王子あたりまでは「明治通り」、新日本橋から入谷までは「昭和通り」を歩きました。
ともに本来ならば開いているはずの大手チェーン系外食、ファストフードともに午後7〜10時の段階で早々に閉店してしまっている店舗を多く見かけました。
azuki様がどのエリアの「明治通り」を通られたのかはコメントからは読めませんが、「どこも営業していた」ようには私が横を通った限りでは見受けられませんでした。
心温まるコメントありがとうございます。
私も「阪神・淡路」の際には、地震のあった週に神戸出張の予定でした。時間が経過してから出かけましたが、六甲アイランド界隈での液状化現象、うねった道路。今も記憶に残っています。
そして非常事態だからこそ、あの時を乗り越えた経験をいかし、この国難を乗り切る勇気、強い気持ちが不可欠かと思います。
(※こんな時でも歩いている集団に突っ込んでいくくわえたばこの自転車ーみたいな輩もおりました。しかし、大多数は秩序正しく、日本人らしいマナーと節度が保たれており、心強かったです)
http://blog.livedoor.jp/bhattachan/
「タンドールは炭火なので、窯が割れない限り、小麦粉が無くならない限り、温かいナンを焼ける」と思いました。
実際、関西の大地震でもナンを焼いて被災した方たちに喜ばれたインドレストランがあったと記憶しています。
一杯のチャイ、一枚の温かいナンがお出しできる幸せを感じる一日でした。
激励ありがとうございます。
仕事で来月には「福島」「仙台」へとそれぞれ別の日に出かける予定でした。沿岸部に事務所がある得意先も多く、とても心配です。
また、いつものスタンスでブログを更新していくこと。これが私にできることーなのかもしれません。またコメントいただければ幸いです。
もう20年以上前になりますが、
ハワイで津波警報が出た時、
軒並みシャッターがしまったワイキキの町で、
1軒だけ長蛇の列になっている店がありました。
見つけた時に希望の光を見た気がして本当に嬉しかったです。
忘れもしません。バーガーキングは命の恩人です。
今回、安否確認のメールを出した時(12日でしたが)、
あの秋葉原の名店アールティのオーナーからも
元気に営業しているとの返信がありました。
みんな、がんばれ!!
私の場合、夕方の時点で今日は帰れないだろうとたかをくくって、行きつけの店(和食店兼居酒屋)に電話したら、店は開けるとのことだったので、宵のうちはそこで食事をして軽く飲んでました。帰りに、おにぎりを沢山作ってもらって、勤務先に差し入れすることが出来ました。
店長は仕込み中に地震に遭い、一端帰宅して家族の無事を確認してから店に戻ったとか。素直にありがたいと思いました。
夜遅くに地下鉄と私鉄が開通したので私自身は何とか帰宅難民にならずに済みました。
タンドールは炭火。ここがポイントですよね。
火起こしさえ叶えば、大きな味方ですね。
備えあればで、今後は災害時にもそんな備えとともに、被災地でも重宝してもらえるお店もきっと出てきていると思います。
離れている場所で聞く祖国の災害。
サントーシーさんも東池袋にいらしたら、きっと徒歩でのご帰宅だったと思います。バスが動いておりましたが、道路は大渋滞で、都電のみ「みんなの足」として活躍しておりました。
今回の未曽有の国難。時間の経過とともにその惨事のすさまじさが明らかになってきましたが、みんなで乗り切らないと、そして乗り切る気概がこの国にはあると信じております。
都内は外見上は被害が見えにくかったですが、それぞれの家庭内での被害は相当なようで、昨日から家電量販店は壊れた家電を買い求める方々で大混雑だったそうです。遠く離れた地でこの状況。とても恐ろしく感じます。
生憎、先週金曜日は断念して会社に泊まりました。
私の会社界隈では、「雅亭」「サードアイ」などが通常営業をしており、長丁場に備えて夜食を食べに行きました(店の方々は皆「死ぬかと思った〜」とおっしゃっていましたが)。
巷の懸念は地震災害から原発事故に移り変わっていますが、
このようにひたすら仕事を続ける(外国人の)方々がいる一方で、仕事をホッポリ投げてわれ先に帰国してしまう方々が居るのも事実です。会社としては客先への説明も付かず、テンテコ舞いです…
「会社ホテル」で一夜でしたか。
(お疲れ様です)
「サードアイ」も営業しているとは心強いですね。私の知人でも、インド、タイ、台湾の知人が結構日本を離れました。
まあタイの赤シャツ関連でも日本人が殺到して帰国したように理解はできるんですが、気持ちとしてはさびしいですね。みんなで東京を盛り立てていかないと、この街も沈んでしまいます。
地震の当日、都心の事務所での夜明かしを覚悟して曙橋の「シディーク」に行きました。暖かい豆カレーとナンとで元気が出ましたね。徒歩帰宅者も立ち寄っていました。
外国系のお店は普段からその国の仲間たちの寄り合い場所としても機能していて、こういうときにこそ営業を続けたいと思っているようですね。
あの当日のインド系の店は心強かったですね。
春分の日も周りが閉まっていてもいつも通りネパール人オーナーの店は営業中。かつて見たことがなかった混雑ぶりーの店もありました。この時期には貴重ですし、カレー好きにはありがたいです。