〜19才:九州で育つ。

生まれは、福岡県大牟田市。かの有名な三池炭坑の街。
どうも、ここには半年くらいしかいなかったらしい。
で、すぐに「北九州」は小倉市に転居。

この時期、父は「自衛隊の軍医」をしていた。(本業は精神科、得意科目は外科)

精神科の医者であった父の職業の関係で、19才までに、13回の引っ越しを重ねる。



だって、真性アル中の父は、ことあるゴトに、上司(院長、医局長、事務長など)とぶつかり、「じゃ、辞めます!」と言って、その地を離れるわけです。

毎日が、アル中がアル中を診察する・・・と言う微妙な状況。
 
でも、腕は確かだったらしく、引く手あまた。

で、単身で、次の就職先に行っちゃう!

母に連絡が来るのは、すべて決まったあと・・・と言うのがおきまりのパターン。

と言うことで、鹿児島県以外のすべての県を制覇!

そんな時期、中山が、一番参ったのは、コトバの問題!
引っ越すたびに、その地の方言を覚えようと努力を重ねるも、とっても疲れるため、小学校4年生で自主的に「標準語」に切り替える。
そのせいで、未だ、九州弁、しゃべれず!

中1で、赤痢、中2で日本脳炎、中2の後半では自家中毒を体験。

特に「日本脳炎」は、医者の父の、早期対処により、事なきを得るが、それが無ければ、今頃は・・・・・・言えません。

精神病院や精神科を併設する総合病院は、都市部には創れません。

何故か?と言えば、広大なリハビリ施設が必要な事と、患者さんが脱走する恐れがあるから・・・。

と言うことで、メチャメチャ、田舎ばかりを転々とするハメに。

で、その田舎であるが故に、周囲には「医者」「看護士」「教員」くらいしか、職業がない。

父は開業医ではなかったので、跡を継ぐ必要は別になかったのだが、なんとなく「医者になる・・・」と決めていた。

高校は、叔父が「教授」をやっていた熊本市内の高校に無理矢理入れられる・・・。

そこでは「寮生活」。

一年坊主、4人一部屋の共同生活に、1部屋当たり一名の二年生(監視&いじめ役)がつく。

殴る蹴る!と言った直接暴力こそ無いものの、実質、毎日いじめにあう!

毎日、点呼のあと、部屋の四人で寮の屋上に呼び出され、腕立て200回、腹筋100回・・・などをやらされ、妙に体力が付く!

一年終了と同時に寮を飛び出し、アコガレ続けていた、念願の一人暮らしに突入!
とっても乱れた生活を送る(笑)。

一年の途中で、設立した「フォークロック同行会」の初代部長を務め、文化祭で、ライブコンサートを仕掛ける!

近所の女子校の生徒には、かなりモテた。

この時期、本気で「音楽で生きていく!」と思っていた。

熊本市内のロック喫茶、今で言うと「クラブ」、みたいなところに出演していたのもこの頃。

ある、地元のコンテストで優勝し、密かに「ラジオ番組のパーソナリティ」をやっていたのもこの頃。

高校二年はほぼ、音楽と暮らす。

博多の「呼び屋集団」と知り合い、使いっ走りで、アルバイトをしていたのもこの頃。

博多で行われる「野外ライブ」などの出演交渉を、大阪や、東京のバンドと繰り広げていた。

あの伝説の「中津川フォークジャンボリー」のサブステージに出演したのもこの頃。
因みに、そのサブステージの「メイン」は、あの「ディラン供廚諒々・・・。

で、その数時間後、例の「商業主義に毒されたライブ中止しろ!事件」がおき、会場は大混乱!

第一サブステージで始まった「吉田拓郎と六文銭」による「人間なんて♪♪」に朝までつきあう!(嗚呼、青春♪ですね〜)

で、高校も終わりに近づき、それぞれが進路に悩み始める時期。

当然のごとく、我がバンドにも、秋風は吹き始め、医者の息子(中山以外の3人中2人が医者の息子であった)の2人が「やっぱ俺、医者になるわ・・・」と言うコトバを残し、去っていく事に・・・。

中山も、それじゃ、医者にでもなるか!と言うので、ちょっとだけ真面目に勉強!

願書活動に突き進む・・・。

受験を目前に控えた、ある時期。
熊本の叔父を通じて、とても「不穏」な情報が耳に飛び込んでくる。
その内容は?と言えば、父が、ある大学の医学部に「裏金」を積んだらしい?と言うネタ!

中山、瞬時にしてブチキレ、父に問いただす・・・。

父曰く・・・・・・「落ちると困るだろう?」。
そんな人でした・・・で、医者になる気が一瞬にして消え失せました・・・。

で、目標が、瞬時にして、スッポリ目前から消え失せた中山は、九州の「公立大学」に進む・・・ことになるわけです。
 
 
さて、閑話休題。
 
普段書き慣れない「ぶつ切り文章」を書いてきたので、とても疲れました。
 
 
で、後半は、いつもの「語りかけ調」で行きます。
 
中山マコト、もうじき20才の春のコトです。
 
 
19才、後半〜
 
で、そこで、ある男性と運命の出会いをします。
 
その男性とは、ある「ドキュメンタリー映画」の監督でした。
 
ちょっとお名前は紹介できないんですが、かなり有名な方です。
 
で、どこで出会ったのか?と言うと「博多どんたく」。
 
北九州の大学の友人と2人で「博多どんたく」を見に行った時、突然「汽車」の中で声をかけられたんです。
 
「すみませんが、もしよかったら「どんたく」を案内してくれませんか?」って言う具合に・・・。
 
で、最初は「ちょっと怪しいな?」とも思ったのですが、すぐに名刺を出して、こういうものです・・・と。
 
 
で、自分は「水俣病」をずっと映像で追いかけてるんですが、その中に「九州の風土」についての説明を加えたい!
 
そのためには「博多どんたく」の生の映像が不可欠である・・・と。
 
ま、そんなコトを話してくれた訳です。
 
ホテルの部屋代ももちろん自分が出すから・・・ぜひ!と言うわけですね。
 
 
で、承諾をして、博多に行きました。
 
 
その日、夜はその監督さんの話を、ず〜〜〜〜っと聞いていました。
 
で、中山のココロの中に「映画!映画!映画!」と言うコトバが渦巻きはじめたんですね。
 
 
それから、一週間後、中山はその監督さんに手紙を書きました。
 
「あなたのモトで働きたい!」。
 
 
で、返事が来ました。
 
アシスタントをやるのは構わない!但し、喰わせるコトは無理!
 
本気でやるなら、こちら(京都)の大学に入り直しなさい!
と言うアドヴァイスでした。
 
で、それから4ヶ月・・・。
 
一生懸命勉強して、京都の某大学に合格しました。
 
で、京都でのアシスタント生活がスタートするわけです。
 
 
そして、時は流れ、それから約半年後!
 
ドキュメントではなく、娯楽映画への志向が強くなった中山に対して、彼は言いました。
 
本気でやるなら「東京」に行きなさい!
 
 
で、再度、受験勉強をはじめるワケです。
 
そして、ある「芸術系」の大学に合格します。
 
そして、その後、その監督さんに紹介してもらった、ある「音響の先生」のもとに弟子入りするコトになります。 
 
大学生でありながら、その音響の先生について「アシスタント」の仕事をやるわけですね。
 
で、映画の仕事がある時は、映画の現場。
 
そうで無いときは、大学生・・・と言う「二重生活」が始まるわけです。
 
 
ところで、そうした「芸術系」の大学と言うのは、プロ志向が強いヤツがゴロゴロいます。
 
アマチュア映像作家として、すでに、結構名前の売れてるヤツ。
 
すでに「プロ」として、仕事をしている「女優」。
 
オリジナル脚本を沢山書いていて、プロの脚本家に師事してるヤツ・・・。
 
そんなのが、周囲にゴロゴロいるわけですね。
 
 
で、どうなるか?って言うと、仲間で「自主映画を撮ろう!」となるわけです。
 
だって、必要なスタッフ、ぜ〜〜〜んぶ、揃ってるわけですから・・・。
 
演出家、脚本家、キャメラマン、録音マン、照明さん、結髪、メイク、スタイリスト、それから「俳優」。
 
もう、ぜ〜〜んぶ、揃ってるわけです。
 
足りないのは「お金」だけ・・・。
 
で、みんなでお金を出し合って、フィルムを買い、機材をレンタルしました。
 
監修は「大学の講師の先生」にお願いしたところ、快く引き受けてくださいました。
 
で、自主映画を撮ったりしました。
 
ある作品が、民放のディレクターの目に留まり、取り上げられたコトもありました。
 
 
で、その頃、中山のココロに芽生えた思い・・・。
 
 
「プ、プロになりたい!早く、仕事にしたい!」。
 
 
 
で、大学を辞めた・・・と言うか、一切出席しなくなりました。
 
師匠の仕事を手伝うのが楽しくて仕方がないわけです。
 
正直、グングンチカラも付き、師匠の名前で仕事もする様になりました。
 
結構、稼いでましたね。
 
 
で、ある時。
 
師匠とぶつかりました。
 
正確なコトは記憶してないのですが、多分、ギャラの件だったと思います。
 
あまりにも、師匠の「搾取」が激しいんで、軽く抗議的なコトを言ったのだと思います。
 
 
で、エライ大喧嘩!になっちゃうわけです。
 
で、「あんたのトコを出る!」と啖呵をを切っちゃうわけです。
 
 
世の中はそんなに甘くないぞ!と怒る師匠!
 
いや、俺ならやれる!と突っ張る中山。
 
 
結局、最後は「殴り合い」でした。
 
 
で、自主的な「破門!」です。
 
 
 
そうして、中山は「無職、フリーター」となるわけです。
 
でも、収入が突然ゼロになったのでは、死んでしまいます。
 
何とかせねば!と考える中山の脳裏に、ある男の顔が浮かびます。
 
 
その人は、あるアマチュア劇団の主宰者で、しかも、自分でも「映画とかテレビの端役」として俳優活動をやっていました。
 
 
映画をやっている時に、ある「つて」で、彼の芝居の「音響」を手伝ったコトがあったんですね。
 
 
でも、その時に「脳裏」に浮かんだのは・・・・彼がある時、ふと語ったコトバ。
 
「普段は、あるマーケティングの会社でバイトしてるんだよ!」。
 
で、その時に貰ってた名刺に速攻で電話しました。
 
「あ、中山です。なんかバイトないですか?」
 
 
「じゃ、来る?」
と言う返事。
 
早速、彼のバイト先に行ってみました。
 
 
そこは、いわゆる「マーケティング・リサーチ」の専門会社でした。
 
業界でも、かなり名前の売れている、中堅規模の会社です。
 
で、その彼は、そこで「アルバイトの管理」をやっていました。
 
で、アルバイトって誰?と言うと、アンケート調査員なわけです。
 
 
当時、その会社は、大学生を沢山使った、大規模なマーケティングリサーチの受託がメインの会社でした。
 
で、彼はこう言いました。
 
「アンケート、やる?」。
 
右も左も分からない中山は「即金」と言う誘惑につられ、即、OKしちゃうわけです。
 
で、一般家庭や、企業を訪問するアンケート調査員生活がスタートするわけです。
 
 
結局、その時の体験が、今の中山の仕事のベースになるのですから、人生何が起こるか本当に、分かりませんね。
 
 
で、結論から言うと、その「アンケートの仕事」、中山にとっては「天職」でした。
 
だって、見ず知らずの人に、突撃でアンケートをお願いしに行くんですが、まず、断られませんでした。
 
と言うコトは、アンケート一つ完了すると、いくら・・・と言う風にギャラがもらえるわけです。
 
当時のギャラが、一件完了するゴトに、約700円くらいだったと思いますが、それを10件くらいは簡単に出来ちゃうわけです。
 
ですから、今の貨幣価値で言うと、1万5千円くらいの感じかな?
 
 
それを稼ぎつづけるわけです。
 
 
で、その会社でも、中山が評判になるわけです。
 
そしてある日。
 
その会社の社員から声がかかりました。
 
 
「内勤やらない?」。
 
 
で、内勤になりました。
 
アンケートをやる立場から、アンケート調査員を管理する立場に変わったわけです。
 
で、その仕事を数ヶ月・・。
 
企画や営業の社員と接する機会も圧倒的に増えました。
 
一緒に、お酒を飲んだり、食事をする機会も圧倒的に増えました。
 
 
そして、数ヶ月。
 
正社員になれ!と言われました。
 
 
はじめて、スーツを買いました。
 
ネクタイも買いました。
 
 
配属先は、社長の秘書。
 
秘書と言っても、実際には「企画のアシスタント」です。
 
で、この場合の「企画」と言うのは、アンケート企画の立案と、アンケートの質問の設計です。
 
 
で、ここでも、何故か、とても評判がいいわけです。
 
 
で、半年ほどで、ある「広告代理店」をメインのクライアントとする「企画・営業部門」に配置転換されました。
 
そこでは、毎日が企画でした。
 
報告書づくりの仕事も毎日押し寄せてきます。
 
結構、寝ないで仕事してましたね。
 
 
で、独り立ちをして、その「代理店」の発注者である「マーケティング部門」のスタッフの方や、販促部門のスタッフの方に、とても可愛がられるようになって行くわけです。
 
 
で、中山の場合、市場調査の報告会で色々としゃべるわけですが、結構勝手なコトを言うわけです。
 
 
どう「勝手か?」と言うと、あんまり「統計数値」にこだわらない。
 
 
数字は数字として、尊重するにはするんですが、それよりも「思いつきのアイディア」をしゃべるコトが多いわけです。
 
 
例えば・・・
 
 
「こんな感じのキャンペーンをやったらどう?」
 
とか・・・
 
「こんなネーミングはどうでしょう?」
 
みたいな・・・。
 
 
で、それが大受けするわけです。
 
 
そして、ある日、その広告代理店から「ネーミング」と「コピーライティング」の仕事が来ちゃったわけです。
 
 
実は、この日の出来事が、その後の中山の人生に「圧倒的」な影響を与えます。
 
 
で、ハナシを戻すと・・・。
 
 
その「ネーミング」と「コピーライト」の仕事が、メチャメチャ評判よかったんですね。
 
 
そして、その後も、その評判を聞いて、同様の仕事をバンバン頼まれるようになって行きます。
 
 
で、ある日・・・。
 
「社長」から呼び出しを受けます。
 
当時、中山は、稼ぎに稼いでいましたので、「臨時ボーナスでもくれるんかいな?」くらいの気持ちで、社長室に向かいました。
 
 
で、部屋に入るやいなや、怒鳴りつけられるわけです。
 
 
「勝手なコトをするな!調査会社の社員が、数字を無視した仕事をしてどうなる!即刻、断れ!」
 
とこういうわけです・・・。
 
 
3秒ほど意味を考えました。
 
そして、言いました。
 
 
「辞めさせていただきます!」。
 
 
すぐに「本屋」に行って、辞表の書き方を調べました。
 
その日のうちに「辞表」を出しました。
 
 
もちろん、止めてくれる人も沢山いましたが、聞く耳持ちませんでしたね・・・。
 
で、先輩達が独立して創っていた会社に入るわけです。
 
 
その会社は、7年で解体しました。
 
で、その会社の「マーケティング」をやっていたメンバーと新しい会社を設立しました。
 
その会社は、とても順調でした。
 
でも、少しずつ、考え方にずれが生じて来たんですね。
 
 
そして、8年間、一緒にやってきたメンバーと別れて、独立をしました。
 
 
それが4年前のコト。
 
この会社を辞める辺りのおはなしは、それだけで「大河ドラマ」が書けそうなくらい、凄まじいです。
 
 
また、いずれかの機会に・・・。