2008年10月10日

キングス・オブ・コンツ

 日曜日は「キングオブコント2008」を観たのだけれど、面白かった。私は最近の若手芸人がネタ番組でよくやるような、登場人物が誘い笑いで笑わすようなコントや、特異なキャラクターの突飛な行動に相方がツッコむだけのようなコントはあまり面白いと思わないのだけれど、決勝までいくようなコンビやトリオは流石に違うね。バッファロー吾郎もバナナマンもロバートも面白かった。こういうコンテストが契機となって、面白コント番組が何本もテレビで観られるような良い時代がまたくれば良いなぁと思ったよ。
 けれども、後日ネットを覗くと、私が巡回するお笑い批評サイトは「キングオブコント」に対する批判ばかり。皆、審査方法に不満があるらしい。うーん。私は、あの審査方法は一理あるなぁ、なんて思っていたのだけどなぁ。

 面倒なので、あの審査方式を考えたのが松本人志だという仮定の下に話を進めよう(実際は松本人志を中心とした作家やプロデューサー集団ということだと想像するのだけれど)。松本人志はさ、もしかすると芸人間の上下関係や仲間意識を超越した良識を若手芸人に期待していたのではなかろうか。

 私がネットを覗いた範囲内で、皆が「キングオブコント2008」に感じた不満や批判をまとめると以下のようになる。

[1] つい先日、もしくは先程まで、同じ枠内で真剣にネタを演じた後に敗者となった芸人が勝者を採点する行為は、敗者となった芸人にとって屈辱的なことではないのか?
[2] 同じ事務所、もしくは同じグループ(「ファミリー」と言い換えても良い)に属する先輩芸人に対して、上下関係からくる見えざる圧力や恣意性といったものを無視した、客観的かつ公正な評価ができるのか?
[3] こと決勝の最終ラウンドに至っても芸人同士が評価しあい、同点だったら両者優勝と、決勝戦では開催側が全く審査に絡まない。これは開催側が全く責任を負わないということだが、そのような大会にこれからのコント界を牽引していくだけの魅力があるのか?

 どれもなるほどと思える批判だ。

 だけれども、ちょっと私が考えてしまうのは、それならいったいどういう審査方法がベストなのか?ということなんだよね。

 たとえば、M-1みたいなにコントで名を成した大御所芸人を沢山呼んで、審査員を務めてもらうのが適当なのだろうか?きっと、それでも審査方法に対するバッシングは当然のように起こるのだろう。
 加えて、コントというのは漫才よりも多様性の高いジャンルだ。漫才ならば、片方がボケで片方がツッコミという「基本形」がある。これを深化させたり、或いは崩したり、というようなバリエーションの展開がある。しかし、コントに「基本形」は無い。キャラクターコントやシチュエーションコントといったような細分化はあるが、その定義は漫才に比べてゆるい。
 ボケとツッコミが漫才の基本形なんて古すぎるし、「基本」を意識して審査するわけではない、という反論もあろう。敢えて漫才とコントの区別をつけるのならば、あくまでも演者自身のキャラでボケたりツッコんだりしているのが漫才で、完全に別のキャラでパフォーマンスが行われているのがコントである、と定義づけられるかもしれない。つまり、コントの方が虚構のレイヤーが一枚上に位置している、とうことだ
 しかし、M-1ならば、「これは漫才の範疇に入っているのか?」というもの言いが審査員からついたりもする(プラン9やテツandトモ等)が、「キングオブコント」の出演者に対してそのようなことを言う輩は(たとえ大御所芸人が審査員を務めたとしても)少ないだろう。それは、漫才に比べてコントの方が、より虚構性が高く、自由度が高く、多様性の高いジャンルであるからだ。
 それは裏を返せば、評価軸がより多く存在するということでもある。つまり、1位を決めることが難しい。演技力の高さ、発想の突飛さ、設定の特異さ、キャラクターの面白さ、笑い所のバランス、評価軸は無数に存在する。どれも「面白さ」の一側面でしかない。そして、どの評価軸を重視するかは、審査員によってまちまちだ。時代や状況によっても変化するだろう。そう、これが「笑いのセンス」というやつの正体なのだ。

 じゃあ、いったいどのような審査方法が適切なのか?どんなに大御所の芸人や作家を審査員として呼んでも、「笑いのセンス」が大多数の出場者と違うかもしれない。それならば、出場者自身に審査をさせてはどうだろうか?一人一人の「笑いのセンス」は異なるだろうが、全体としてみてみれば、その年々の「キングオブコント」を代表するような有効な審査ができるのではなかろうか?だって審査するのは出場者本人だもの、

……長くなってしまったけれども、「キングオブコント2008」の審査方法はこういう発想に基づいているのだと思う。

 一つ連想したのは、「Science」や「Nature」といった学術雑誌における論文査読制度だ。
それが自然科学でも社会科学でも、研究者にとって論文発表は重要だ。自身の研究を広く世にアピールするという点ばかりでなく、論文の発表歴や数が就職や研究費の取得やポストにそのまま直結する。キャリアに直結しているのだ。
 それならば、自身の研究に関わることについてあることないこと書いて、ガンガン投稿すれば良いではないかと思われる方もいるかもしれないが、そう上手くはいかない。たいていの学術雑誌には査読制度というものがあり、論文投降時にその水準、新規性や進歩性、実験や考察の科学的真っ当さといったものが審査され、一定の水準に達していない論文は書き直しを命じられるか掲載を拒否される。
 では、その査読を誰が担当するのだろうか。全くの素人ではその論文の価値を判断できない。高名な学者であっても、分野や時代が異なれば同様だ。たとえ今年のノーベル物理学賞を受賞した研究者であっても、同年のノーベル化学賞の研究内容を完全に理解することはできないだろうし、100年前にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究者が、今年の同賞の受賞内容を正等に評価することもできないだろう。
 そこで、たいていは分野を同じくする現役の研究者から、複数の査読者が選ばれる。通常、過去に論文を投稿していて、一定の評価を受けている研究者の中からだ。その研究分野が進歩的だったり境界的なものだったりしていて研究者の全体数が少ない場合(一時期のバイオインフォマティクスとか)、論文投稿者とライバル関係にある研究者が選ばれることも珍しいことではない。

 このような査読制度によってもたらされるメリットは数多くある(デメリットも勿論ある)。分野や年代や地域社会がほぼ同一なので、その集団の中ではほぼ誰からも文句の出ない公正な(とその集団内では思える)評価が下せるというのが最大のメリットであろう。同様の評価方法として、陪審員制度やはてなブックマークのuser数が挙げられるかもしれない(どれも順位を決める手法じゃないけれども)。
 だが、ここで強調しておきたいのは、これによって科学(の進歩)は中立性と独立性を保つことができるという点だ。
 例えば、人類の99%を死滅させ、兵器として容易に応用可能な、凶悪なウイルスの単離法を開発したとする。これを論文の形で発表しようと投稿したとする。体裁と必要充分なデータと記述が整っていれば、まず受理されるだろう。これは、自然科学というものが人類を特別視しないという理由以上に、査読制度というものが、テロへの利用とか生物兵器の拡散などといった政治的思惑から完全に独立した行為だからだ(ただし、その後の出版行為は別)。
 社会科学でもそれは同じで、例えば、現政権の政策の矛盾点や失策を豊富なデータで巧みについた論文をその国の学術雑誌に投稿したとする。これを政治的理由で受理しないなどということは、その国が独裁国家でない限りありえない。
 逆にいえば、査読という行為には査読者の学問的良識が問われるということでもある。有形無形で降りかかる政治的圧力を排せるか。世間の無理解に耐えられるか。科学の中立性を保つ為に、査読にはそのような点が重要になってくる。
 勿論、研究者の中にも仲間意識や派閥や上下関係があって、それらが査読に影響する可能性もある。それを防ぐために必ず複数の独立した機関に属する査読者が査読を担当するのだけれど、基本的には研究者同士の仲間意識や上下関係を査読に持ち込まないことを表でも裏でも期待される。
 そこには、査読者に選ばれるというのは、ある意味名誉なことであり、科学の進歩に貢献する行為である、という価値観がある。査読というのは他人の論文を読み込んでアラをチェックするという非常に時間も労力もかかる行為で、おまけに一銭も貰えない完全なるタダ働きなのだが、たいていの研究者は雑誌社から査読を頼まれたら喜んで(いや、「査読頼まれちゃったんだよね〜、ウフフフフフ」くらいの文句はいうかもしれないが)やる。

 ここでやっと「キングオブコント」に話を戻すのだが、芸人同士の審査も同じことだと思うんだよね。つまりは、どんな業界にも派閥や上下関係といったものはあるけれども、勇気を持ってそれを無視することが業界の発展に繋がり、全体の幸福に繋がるのではなかろうか、という考えだ。
 そもそも、もしダウンタウンが若手芸人として今回の「キングオブコント2008」に参加したとしたら、先輩芸人にバイアスのかかった投票をしただろうか?そして、視聴者も、ダウンタウンが同じ事務所の先輩芸人に遠慮して投票していると感じるだろうか?

[1]や[2]に対する私の考えはこのようなものだ。そういうわけで、「キングオブコント2008」の審査方法は、これはこれで良いのではないかと思う。

 敢えて書くのならば、決勝だけでなく、全ての審査を芸人同士の審査で統一すべきだ。まぁ、予選は何時間もかかるらしい(バナナマンがラジオで言っていた)ので、売れっ子芸人がかかりきりになるのは難しいかもしれないけれど、ある程度人数が絞られるであろうニ回戦以降も決勝と同様の審査方法にすべきだ。そうでないと、この審査方式の狙いどころが徹底されない。予選とはいえ作家やプロデューサーだけで審査をしていては(たとえ彼らがコント製作においてブレーン的な役割を果たしているとしても)、現役の同業者が審査を行うという意図が徹底されないだろう。
 また、皆が皆、ダウンタウンの如き才能も強さも持ち合わせているわけではないので、投票は最後まで無記名とするのが適当かもしれない。多分、松本人志は、決勝ラウンドまでいくような芸人ならば記名責任を負って当然と考えているのかもしれないが。

 責任といえば、[3]のような批判は、特に岡田斗司夫が先日のGYAOのひとり夜話で言っていたのが印象的だったのだけれど、「R-1グランプリ」が「M-1」ほど魅力的でない理由とか、「キングオブコント」の主催者側が「M-1」ほど責任を負ってないというのは、確かにその通りだと思うんだよね。

 損することでも、全体の幸福を考えて、敢えて責任を引き受けるというのが「大人」である、とされている。確かにそうだ。でも、責任を負うというのは、ある意味強さを背負うってことでもある。
 それはつまり「大人」の強さだ。
 例えば島田紳助は「M-1グランプリ」という大会を開催することで、若手芸人から真の信頼と尊敬を勝ち得た。紳助が暴力事件を起こしたとき、皆が紳助を擁護したのは、「M-1」を通じての紳助のお笑い界への貢献と無縁ではなかろう。岡田斗司夫だって、オタクのキングとしてメディアに対し振る舞い、発言することで、余計な責任を背負い込みつつもオタク内での発言力を増してきたという実績がある。

 で、松本人志は、若手芸人が「大人」としての責任を背負い込むことで、強くなって欲しいと願ってるんじゃないかと思うんだよな。事務所や仲間内の下らない派閥や馴れ合い意識を脱することで、芸人として一つステップアップできる筈だ、と。いかにも師匠を持たずにビッグになった、NSC一期生らしい考え方ではないか。
 ここで松本人志がとるべき責任は、来年も芸人の芸人による芸人の為のコンテストとしての「キングオブコント」を滞りなく開催するということではなかろうか。勿論、多少のルールや審査方式の変更は行うにしても。

 まぁ、一人の松本信者の意見ってことで。


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