日本人プロレスラー第1号といわれるソラキチ・マツダ。

彼がアメリカでプロレスデビューしたのは1884年(明治17年)のことですから、もう126年も大昔のことになります。

 彼の名前はプロレス史をかじった方なら誰でも知っている事実ですが、私が子供のころに読んだ『プロレス入門』とか『プロレス百科』の類には、必ずといっていいソラキチの名が出てきたものでした。

ところが、よくよく調べてみると意外にも彼の名前が広く知られるようになったのは、昭和40年(1965年)頃からのようなのです。つまり力道山時代は無名の存在だったようなのです。

 明治時代、国内ではソラキチの活躍ぶりについては、すでに多くの新聞報道がなされていました。しかし、ソラキチの活躍にも関わらず、その後、日本にプロレス(当時は西洋相撲と呼ばれた)というジャンルが定着することはなかったため、彼の名前はいつしかごく一部の相撲史研究家たちが知るのみの状態となってしまいました。

昭和29年に力道山が日本で本格的なプロレス興行を始めて、日本では爆発的なプロレス・ブームが起きました。これ以降、日本のプロレス文化が連綿といままで続いてきているわけですが、ソラキチについてこれまで調べてみると、力道山在世の時代、彼の名をほとんどみつけることができません。

相撲ライターでプロレス史研究家でも知られる小島貞二氏が昭和32年に『日本プロレス風雲録』と言う本を著しましたが、この中で、戦前、海外で活躍した日本人レスラーについてもかなり触れていますが、小島氏は日本人最初のレスラーとして1887年(明治20年)に日本で初めてのプロレス興行を行った浜田庄吉の名をあげており、小島氏もこの時点でソラキチの存在を知らなかったようなのです。

 かろうじて『月刊プロレス&ボクシング』の昭和335月号にトルコ人レスラー・ユーソフ・イスマイロを紹介する記事の中に“日本人レスラーの草分けである松田空吉”という文章がみられますが、私の知る限り力道山在世中、唯一のソラキチに関する文章ではないかと思います。

 この記事を書いたのは山田慶二という人物ですが、その素性はよくわかりません。おそらく海外の文献資料に記載されていたソラキチの名前をそのまま漢字にあてはめたのでしょう。

 ソラキチの存在を間違いなく早くから知っていた人物は、プロレスライターとしても活躍していた田鶴浜弘氏です。戦前のアメリカのプロレス文献を所持しており、ソラキチの名前についても当然知っていました。しかし、力道山が自分よりも前に活躍していた日本人レスラーの存在が大きく取り上げられることを極力嫌っていたために、田鶴浜氏は力道山に配慮してこの事実を公表しなかったようなのです。

 これと同様のことは小島貞二氏や沖識名らも語っており、ソラキチに限らず戦前の日本人レスラーの存在が力道山時代に記事として取り上げられることは極力抑えられたという事情がありました。

  
 昭和
3812月、力道山が死亡するとこの制約も解けることになります。

『プロレス&ボクシング』昭和401月号増刊(写真)に力道山以前に活躍した日本人レスラーの大特集が組まれました。

 記事を執筆したのは小島貞二氏。ここでソラキチ・マツダが大々的に日本人レスラー第1号としてはじめて紹介されます。その後、昭和43年の田鶴浜弘氏の『プロレス風雲録』や昭和44年の子ども向けの秋田書店刊行の『プロレス百科』などにもソラキチの名が登場するようになり、この辺りで日本人プロレスラー第1号としてソラキチ・マツダの名が定着することになったといえるでしょう。

さて、田鶴浜氏の名著『プロレスニッポン世界をゆく』(1971年 恒文社)という本の中で氏はソラキチの存在を早くから知っていたことを明かしており、その素性がわからなかったために相撲史に詳しい小島貞二氏に調査を依頼したことを明かしています。

小島氏は相撲史資料をひも解いてソラキチの正体を、元伊勢ヶ浜部屋の序二段力士の荒竹幸次郎こと松田幸次郎であることを突き止めたのです。

 こうして力道山の死、そして田鶴浜氏と小島氏のふたりの連係によって、ソラキチ・マツダの名が日本のプロレス史において初めて陽の目をみることになったというのがソラキチ伝説の始まりであったといえるでしょう。

 今は亡き二氏の業績に改めて敬意を表したいと思います。


(『プロレス&ボクシング』昭和401月号増刊)
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