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       ★『北前船と尾道湊との絆
(著:樫本慶彦、文芸社、2014)

” 北前船 " 、 " 尾道 " 、 " 湊 " と並べば、ぐぐぐっ~と湧き上がるロマンをもう抑えることはできません。。。


【寝ごと雑談】

①北海と瀬戸内海といったイメージの異なる海の組み合わせ、そして、「港」ではなく「湊」であること。(「港」は船着き場のことで、「湊」は水上にある人やものが集まるところのこと、だそうです。
そして、もっともぐぐっと来たのは、「引き札」の美しさ。
(引き札とは、江戸~大正期に問屋や仲買人などが配布した広告チラシのことで、尾道の商人も全国の北前船湊の船主に送付していたそうです。)
こんな美しいものを、当時の地方の一民間企業が作成していたとは、日本の美的水準の高さを感じてしまいます。

②「北前船」と「尾道」の関係で連想するのが、北島三郎さん。
このブログの「ひろしま歌がたり」でも紹介した、「函館の女」のサブちゃんが歌う「尾道の女」。その何とも言えないミスマッチ感。
もしかすると、そんなズレの感触(地域差)が古からの貿易の成功に結び付いていた、のかも知れませんね。
(ちなみに、この「ひろしま本がたり」で以前紹介した因島(現在の尾道市)出身の人気作家 ”湊かなえ” さんの名前も頭に浮かんできましたが、こちらはそのペンネームの由来を知って微笑んでしまいました…)

③このようにブログを記しながら、広島の街をいろいろと知っていく中で、「尾道」という存在が果たした役割の大きさをどんどん実感していきます。
文中にもあるように、江戸期、北前貿易の一品でもあった尾道の石造物を作る石工など広島城下に集めて「尾道町」としたことや、現広島銀行の成り立ちなどを見ると、特に経済面での影響は相当なものがあり、ある意味今の広島の街の底地を築いてくれたとも言えるかもしれません。
そして、それは「尾道」に限らず、「鞆の浦」や「御手洗」など、汐待・風待の湊での「海運」が結果として担ってきた役割でもあり、「広島は海の街」と述べてきた当ブログ「海編」では、欠けていた視点(今後の「島編」では否応なく触れることになると思っていましたが)だったような気もします。。。