日本と西洋の公共の違い



僕の筋書き通りに美術館の関係者が、
私の書いた文章、
「会田誠の【檄】は何も表現していないし語れていない」、
に反応して頂けたのでコノ筋書きを進めたいと思いますwww

まず会田誠や美術館の関係者、
もっと言うとほとんどの日本人は公共性の意味を履き違えています。

根本的に公共性というものを考えてからモノを言うべきでしょう。
そもそも公共性は西洋の考え方で、
それを日本も取り入れたものです。

基本的に公共性とは多様性を前提に作られた考え方なのです。
「個」の多様性を最大限尊重する為に、
「公共」という場所では共通の認識を持つ、
という事がまず「公共性」の大前提なのです。

つまり、
多様性の力が強い程「公共性」の意味も同時に強くなります。
西洋ではとくにアメリカなどは多種多様な人種、民族、思想など、
また価値観を持った「個」が共存しています。
そこではより「公共性」の意味が重要になります。
そこでは共存する為のルールを絶対的に守らなければなりません。
これは「自由」を奪うモノでも多様性を奪うものでも全く無く、
まさにその逆で「個」の多様性や自由を担保する為の「公共性」なのです。

では日本はどうでしょうか。
日本の公共性はこう言われています、
「個」の続きであり「家」の続きが「日本の公共性」である。
つまり、日本の公共性は画一性の持ち込みなのです。
それは一様の考え方、価値観が存在しているという前提です。

そこで何が言えるのか、
これは日本の美術家はもとより表現者全般に言える事ですが、

公共性を破壊して表現する事が「美」であるという考え方。
これはまさに二世代前くらいの日本美術の「美しさ」だったのかもしれません。

この思想はあくまで画一的な持ち込みを「公共性」としている思考です。

こういった根本的な「公共性」の考え方が多様性を無くす原因なのです。

なぜ、私が会田誠を「井の中の蛙大海を知らず」というのか。
これは近代的な「公共性」の意味を知らないからです、
「公共」で「多様」を求めるのはナンセンスなのです。
「公共」は「多様」を担保してくれる場所であるわけで、
その「公共」を破壊するという事は、
そもそも「多様性」を破壊する事であり、
「表現の自由」を破壊する事と同義なのです。

これからの時代「個」の「表現の自由」が重要になってきます。
それは同時に「多様性の社会」でもあります。

まず「多様性の社会」を考える上で「公共性」はベースです。

今の日本は「公共性」を真逆に考えています。
その勘違いは、見ての通り奥深く根付いているのですね。

美術館という公共施設で働いている方まで、
「公共性」を履き違えているわけでこの問題は非常に根深いです。

具体的に私の記事をシェアして「バカ」と言っていた、
東京都美術館 キュレーター ひらかた まさあき
https://www.facebook.com/masaaki.hirakata

以上の方にそっくりそのままお言葉をお返し致します。

今回皆様の公共性というものの意識に少しでも働きかけできれば幸いです。